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【朗文堂―好日録】011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ|’11年10月4日花筏掲載 / ‘26年9月補整

朗文堂-好日録 011

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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吃 驚 仰 天 !  中 国 西 游 記

《吾輩、13回目の中国行き。されどこれまでの経験則はまったく役立たず》
2011年9月の中旬、ひさしぶりの中国旅行に出かけた。
やつかれが最初に中国に行ったのは1975年(昭和50)年のこと。まだ毛沢東は健在だったし、日本はまだ貧しく、中国もまたひどく貧しかった。

そして最後の訪中は、イーストの丸山雄三(ステルス性胃ガンで急逝・故人)社長をはじめとする、コンピュータ・ソフトウェア製造企業の社長連に誘われ、ゾロゾロと6人の団体で、中国東北部(旧満州)ハルビンの黒竜江大学との産学共同による合弁会社「黒竜江イースト」にいった。

いかに社会体制がことなるとはいえ、なぜ国立大学のキャンパスの中に、営利目的の日本のコンピュータ・ソフトウェア製造企業イーストとの合弁会社ができるのか、また黒竜江大学の副学長が合弁会社の副社長でもあるのかわからないまま、デジタル・タイプの製作指導と講演にあたった。社会主義国の産学共同とはいえ、このあたりの事情はいまもってよくわからない。
このハルビンにいったのが2000年(平成12)だった。その後やつか
れがしばらく体調を崩したためもあって、10年ぶり、ひさしぶりの中国であった。

当時の中国には、独国ベルリンの東西を隔てる「ベルリンの壁」になぞらえ、「竹のカーテン」なることばがあった。つまり中国の為政者がみせたくないものは、外国人にはみせないということ。
したがって、外国人が所持する通貨はクシャクシャの人民元ではなく、嫌も応もなく「兌換券・兌換元-だかんけん・だかんげん」という名の外国人専用の通貨をもたされ、それが通用する場所以外での行動が規制された。

また監視役 ? を兼ねた、ガイドの同行がつねにもとめられた。それも旅の最初から最後まで同行する「スルー・ガイド」と、それぞれの現地でつく「現地ガイド」「車輌とドライバー」を引きつれての〈お大名旅行〉であった。旅行者にとってはなにをするにも不自由があり、まして研究という名に値する行為には困難があった時代のことである。

急に中国行きを決めたのは複数の機関から招かれたのがきっかけ。そこで、どうせ久しぶりに中国にいくなら、おもいきった研究・取材旅行を兼行しようと決めた。ノー学部に主要な取材対象とその所在地だけを伝えて、スケジュール立案を任せた。

かつての〈監視役兼ガイド付きのお大名旅行〉とはことなり、ノー学部は勝手に、中国のホテルや、友人・知人、個人ガイドに@メールを送りつけ、やつかれが不安になるほどの安いホテルを@メールで予約していた。

ところで、ノー学部は中国はまったく初体験。そこで先輩風を吹かせて、
「しっかりガイドブックを見ていかないと、歴史のある中国のことは、なにも理解できないからな……」
といっておいた。
すると、どこにしまい込んでいたのか、ノー学部。やおら20年ほど前の、高校時代の教科書『詳説 世界史』(山川出版 1989)を引っぱり出して一心に読んでいた。海外旅行にいくのに、やたらにググったり、高校時代の世界史の教科書を読みだすことには呆れるしかなかった。
「外国の歴史の概略をつかむのには、この教科書が一番。専門事項は、帰国後に専門書でじっくりと読む」
そうである。なんでもいい、旅ではホテルは安心・安全なところにしてもらい、あとは好きにしてくれの気分。

ところで、やつかれが盆暮れの休暇を利用したりして、しばしば中国にいったのは15年ほど前までのこと。いまだ改革・解放が進展しない時代のことであった。もちろんその後の中国が「北京オリンピック」「上海万博」などのおおきなイベントをなしとげ、各地に新幹線網 ── 大事故のあとだったが、西安―洛陽、洛陽―鄭州テイシュウ, Zheng Zhouへと2度中国版新幹線に乗車した。

日本と異なり、元来広軌鉄道だった中国では、車輌こそ外国から導入した技術による「新幹線」だが、在来線軌道の一部を利用して「新幹線」とし、200―300キロで突っ走る。それなりにスリルのあるものだった ── が張りめぐらされるほどの急速な変化を遂げつつあるという情報はもっていた。
改めて驚いたが、いまや中国の大都市の周辺は、ドイツの「アウト・バーン」なみの、片側4車線の高速道路があった。かつてくわえ煙草で、イライラと警笛を鳴らし続けていたドライバーは、シート・ベルトを着装して、交通法規を遵守し!  ゆったりと走っていた。もちろん車内は禁煙強制が多い。

また都市には地下鉄がとおって、路上を埋めつくしていた自転車とモーター・バイクの洪水は消えていた。あたりかまわず痰をペェッ、鼻水をチ~ンとやる風習も無くなり、男性も洗髪後にリンスを使っているのか、ボサボサ頭は消えていた。
〈いったい、どうしちゃんたんだ……、中国!〉

こうして、短いあいだに7城市(都市)、14県を駈けまわったが、ついに最後までやつかれ、浦島太郎が中国に流れついたような気分は消えず、
〈あの、ふるき良き中国は、どこにいってしまったのだ!〉
という、とまどいと、こんなはずじゃなかった……と、おもいまどうばかりの毎日であった。
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中国では、かつてやつがれの教え子だった、劉さん、孫さんが、それぞれ修士号、博士号を取得して帰国し、社会的リーダーになっていた。かれらをはじめ、各城市で、倪ゲイさん、王ワンさん、姜キョウさんらの多大な協力をいただいた。
また北京では「移住直後の金田さん」のサポートをいただき、城西地区のとびきりおいしい餃子館 ── 主餐が数種の餃子だが、それまでの10皿ほどの北京料理ですっかり満腹 ── での晩餐にまでご招待いただいた。ただただ謝謝!である。

そもそもやつがれ、中国とその民艸がすきである。富貴なるもの、傲れるもの、困窮にあえぐもの、飢えに苦しむものも、ひとしく、たくましく生きるのが、昔も今もかわらぬ中国の民艸である。
ひろい大地を悠然と闊歩し、隙あらば足をすくわんとするぬけめないひとと、底抜けにあかるく、こころやさしいひとが混在する、あやかしの国、ふしぎの国 ── 中国。

この国にはかつて、いくつもの民族とその姓氏による王朝(姓氏革命)が樹立され、黄色い皇帝の御旗が都城に翩翻ヘンポンとひるがえった。そしていま、五族協和〈漢族、満洲族、蒙古族、ウイグル族、チベット族〉をあらわす、いつつの星が描かれた紅クレナイの旗「五星紅旗」が北京にひるがえる国、中国。

《なつめ 棗 と トゲ 棘 との奇妙な相関関係》
ひとの墳墓によじ登ったのだから、バチがあたったのかもしれない……。
隋王朝(581-619)最末期、中央政府高官の墳墓を、陝西省西安郊外・皇甫川 コウホ-セン に訪ねた。この日は孫さんは大学出講日。
きょうは旅行会社の社長・倪ゲイさんが、みずからハンドルを握るそうである。最初の打ち合わせでは、いかにも中国の大人タイジンらしく「隣の町ですから……」という調子でも、いざ出発時間を決める段になると「片道200キロほどありますから、日帰りだと朝6時出発」ということになる。
きょうも朝食は軽くして、遠出であっても倪さんのすすめるおいしい地元料理を昼食にする。

墳墓のある村の名前「皇甫川 コウホ-セン」だけはわかっていたが、なにせ1500年ほど前のひと、随王朝の高級官僚「皇甫 誕」の墓である。あらかじめ調査を依頼していた倪ゲイさんは自信ありげだったが、やつかれ、本当にそのひとの墳墓が「地上に」「実存している」のか半信半疑で、車中のひととなった。

倪さんはその皇甫川コウホ-センの村に入ってから、何度も村人に墳墓のありかを尋ねていた。もちろんまだグーグルマップはもとより、案内板などはまったく無い。
村人の指さす方向にしたがって、車はどんどん辺鄙な農村に入っていった。もはや人家も少なくなり、ただただとてつもなく広大な畠がひろがる。ようやく到達した目的の墳墓は、収穫を終えた広大なトウモロコシ畠のなかにポツンとあった。

なにせ随朝政府の高官とはいえ、1500年ほど前のひとの墳墓である。わが国なら推古天皇の治世下(593―628)で、聖徳太子が摂政にあたったとされる ── 現代では聖徳太子の存在そのものが歴史学者から疑問視されている ── ほとんど伝説の時代であり、地中に埋もれて「古墳」と表記されるようなシロモノである。

ところが「字」の国・中国にあっては、この皇甫誕と唐王朝で活躍した子息・無逸のこと【中国版bai-do】が、国家の正史『唐書』に記載されているため、こうして墳墓を訪ねることも可能である。
畠のなかの小丘/伝皇甫誕墳墓を見てやつかれ、どうやら興奮のきわみに到達したらしい。それからの数十分ほどのことはよく覚えていない。
やおらふらふらと、雨上がりでぬかるんだ畠に踏みこみ、墳墓に登ろうとした。倪ゲイさんは「危ない、危ない」と叫んでいたらしいが、それもよく覚えていない。
墳丘と、その頭頂部に立つやつがれの大きさを比較して、この墳丘(円墳)のおおきさを想像してほしい。遠目にはちいさくみえたが、この墳墓はとてもおおきかった。
中国でのこの種の構築物は、古来「版築法 ハンチクーホウ」という築造法によってつくられている。すなわち、板で枠をつくり、その中に土を盛り、一層ずつ杵キネでかたくつきかためるものである。
したがって下部の5メートルほどは垂直に切り立った、煉瓦のようにかためられた土で、その上に円墳がのっている。

そこで土盛りの崩れたところからよじ登りはじめたが、遠目にはただの灌木にみえたものが、一面の棗ナツメ(ノー学部によると、高木となるのが棗。ここのはイバラないしはサネブトナツメで灌木をなす)の木であり、それがまたナント、棘トゲだらけのブッシュであった。

ところで……、《棗》の字をよくみると、《朿 字音 シ 意読 とげ》が、ご大層なことに、二段重ねになって「トゲ・トゲ」をあらわしている。すなわち盗掘防止のためもあるのだろうか、一面トゲだらけの灌木に墳丘は蔽われていた。
「字」の国・中国は、斯様にして無知蒙昧なやつかれらを「字」で虐めるからイヤになる。

傾斜は写真でみるよりよほどきつく、足が滑るたびにおもわず 棗 ≒ 棘 = トゲトゲ をつかんでしまう。「いてて、イテテ」と、もはや半泣きでよじ登る。
ようやく(もはや意地だったが)写真にみるように頭頂部に登りついたとき、ズボンの裾はあわれなまでにズタズタになり、上着のあちこちがほつれ、手も脚も、そしてどうやら滑ったときに顔(目じりのあたりで、すこしでもずれていたら眼球が危なかった)までが棗のトゲで傷だらけで、おまけにあちこちに 棗 の鋭利なトゲが突き刺さっていた。

この墳墓の主の子息・皇甫 無逸 コウホ-ムイツは、のちに唐王朝の貴官・御史大夫(ギョシ-タイフ 副首相格、御史台の長官)となった。そこで亡父・皇甫 誕の顕彰のための墳墓を構築し、唐王朝の初期、もっとも著名な書芸家 ── 欧陽 詢 オウヨウ-ジュンという ── に墓碑の揮毫を依頼した。
おそらく唐王朝時代には、この墳丘の前には、その巨大な墓碑『皇甫 誕碑』がそびえたっていただけでなく、ひとびろとした稜邑がもうけられ、その一隅には坊楼がそびえたち、堂宇も建ち、香華が絶えなかったものとおもわれた。

しかしながら、ときが移り、四季をかさね、王朝とみやこももなんども変遷するうちに、いつしかこの墳墓は顧みられなくなったようである。なにしろ1500年からのときがここで経過したのである。
そして墳墓は畠のなかに孤立し、その墓標は墳墓と切りはなされて、西安碑林のもっとも枢要な収蔵物『皇甫 誕碑』として、世上からたかい評価を集めている。
【詳細画像:中国版図集

西安碑林をはじめ、各地の碑林・碑坊に立ちならぶ著名な碑には、こうした秘められたものがたりが多い。その墳墓を訪ねた記録のひとつを紹介した。
この間ノー学部はのんきにそこらの野面を散策し、ちいさな石ころをふたつ拾っていた。それだけがこの墳墓にいった記念の品になった。

《西安碑林と採拓のいま》
ところで、その西安碑林である。碑林とか碑坊とよばれる施設はあちこちに存在するが、そもそもこの西安の施設はかつて陝西省博物院といった。やつがれ今回が3-4回目の訪問になる ── というより、以前は西安(もと長安)まで出かけても、兵馬俑・秦始皇帝陵・華清池・慈恩寺大雁塔などの著名な観光地と、ここ西安碑林、お土産物屋さんぐらいしか案内されなかった。

その西安碑林の中核の収蔵物が、晩唐の開成2年(827)、長安の最高学府たる国子監に設けられた官吏登用試験「科挙の教科書」ともいうべき「開成石経 カイセイーセッケイ」で、『石の書物――開成石経』(グループ昴、朗文堂、2003)に紹介した。この開成石経はいまなお碑林の入口、第一室をド~ンと占めている。

西安碑林の第2室―第4室を占める著名な石碑は、おおむね拓本がとられており、それが拓本や影印複写による書籍の形で販売もされている。今回は銘碑とされる碑が立ちならぶ第1室から第3室までは撮影だけに集中し、世上の評価はないものの、おもに書から活字への転換点となった無名の碑を第4室-第5室で探した。
これらの無名の碑は、研究熱心な書芸家でも見落としていることが多いことに気づいていた。やつか
れの眼をとらえたのは金国の石経(セッケイ・石の書物)であった。

黄河流域・開封カイホウ, Kaifeng にあった宋国(北宋 960-1126)は、1126年ツングース系の民族、女真族完顔ワンヤン部の首長・阿骨打アグダが樹立した金Jin国によって滅びた。一部の現代中国人は、開封にみやこした金を前金、北京にみやこした清を後金とする。すなわち前金も後金も満洲族による征服王朝だったとみなしている。
1126年「靖康セイコウの難」とよばれる混乱のうちに、帝独自の書風による痩金体『趙佶千字文 チョウキツ-センジモン』をのこした徽宗キソウ上皇と、その実子・欽宗 キンソウ 帝は捕らえられ、漠北の地に連行されてそこで没した。

宋国の一部は臨安(杭州)に逃れて、南宋(1127ー1279)を樹立した。南宋では出版事業が盛んで、刊本字様・活字書体としての「宋朝体」をのこしたことはひろく知られている。その間、はたして金国では「女真文字」の製作以外にはみるべきものがなかったのか?

金国と南宋は大散関から淮河ワイ-ガ, Huai Heを境界として、南北に並立して南宋(南朝)・金Jin国(北朝)を名乗った。しかしながら、南宋を逐って征服王朝・金国を開封(1153年燕京・現北京に遷都)に樹立したとはいえ、女真族はあくまでも少数民族であり、当然金国の民は漢民族が中心の国家であった。そのため金国にあっての文化も、1176年に中国伝統の官学「府學・女真學」がおかれ、女真族の文化の振興もはかったが、それでも漢民族の伝統が途絶えることはなかった。

たとえば書芸家の趙孟頫(チョウーモウフ 宋の王族のひとり。あざな・趙 子昂チョウ-スゴウ 1254ー1322)は、その『六体千字文』をはじめ、漢民族伝統書法の継承者として評価がたかい。これから金国時代の石の書物・石経セッケイを研究し、その評価を定めたいが、下掲の写真の採拓風景とは異なり、石経はともかく文字がちいさく、彫りが浅いので、当初はいかに名人とされる採拓士でも、とても採拓は無理だとされていた。

しかしやつかれらの熱意に押され、また採拓士としての王さんの職人魂が燃えあがって、
「ぜひ、この石経の採拓に挑戦したい」
とするようになった。つまりいままでの手探りとはちがって、これからは西安でも、孫さんはもとより、倪ゲイさんと王ワンさんの心強い支援が期待できるようになった。乞う!ご期待の次第である。

《文 ≒ 紋様学、字 ≒ 文字学、あわせて 文字 の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり商(殷)・周時代の銅器などに、金文とともにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などと同様に、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。


まして中国では甲骨文 ── くどいようだが甲骨文字ではない ── を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な青銅器を製造し、錆びに弱い銅器が3000年余も腐食しないほどの高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)ももっていた。
また甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

 殳 ── シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形である。「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。
殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

こうしてやつがれ、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。
河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」では、前期商(殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれこの鄭州城市は2度目だが、ともかくこの街はわかりにくいとしかいえない。それにここでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされる。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の土塁がみえるが、それは全体の高さの1/3-1/4ほどでしかなく、峨峨たる巨大な城壁のほとんどは地中に埋もれている。
そしてこの街のあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からはほとんど発見されない。

河南省北部の安陽 Anyangは、前述の鄭州から近く、その北西郊外に紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文 ≒ 紋学、字 ≒ 字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。

《取材はいちおう完了した。あとはどうまとめるか!》
かつての新中国では「四旧追放」として、ふるき良きものをふり返らない風があった。そのために初等教育から筆をもつ書芸の授業が消え、墨や硯の製造業者が存亡の危機におちいった時期もあった。

余裕ができたのだろうか……。いまの中国は、国をあげて「民族の伝統、ふるき良きもの」を見なおしていた。したがって全土からバスを連ねてやってくる団体客によって、名所・旧跡・観光地・博物館などには人が溢れかえっていた。
まして王羲之の書で知られる浙江省紹興の「蘭亭」などは、大型バスで中国か土からやってくる観光客でまったく人の切れ間が無く、撮影に苦慮するほどの混雑ぶりだった。

著名な『蘭亭の序碑』の前では、どこかの田舎から出てきたとおもえた団体バスのオッチャンやオバチャンが、子供ともども一斉に声を張りあげて、朗朗と『蘭亭の序』を朗読する姿には感動した。そして、それを即座に読みくだせないやつがれは「かなわないなぁ……」とおもわせられることたびたびであった。

さらに、ノー学部のスケジュールには、なにかと病み上がりを自称するやつかれへの配慮などは皆無で、まったく余裕がなく、過酷なものだった(怒)。ともかくやつかれ、視覚的衝撃(ビジュアル・ショック)の連続と、足腰の痛みで、心身ともにヘトヘトになった。

とりわけ陝西省・河南省などの内陸部は、まだ開発が遅れ気味で、旅行者には必ずしも楽な旅とはいえず、北京にでてホッとひと息ついた。そこで真っ先に駈け込んだのがマックとケンタッキーだったのが悲しかったが……。

しかしそこでも報告の少ない印刷大学、印刷博物館を訪問し、改装なった紫禁城(故宮博物院)武英殿も、来訪4度目にいたってようやく取材することができた。また非公開だった紫禁城北宮が「珍宝館」として公開され、秦代石鼓の主要なコレクションや、未紹介のタイポグラフィ資料を多数発見できた。
これから何カ所かの追加取材もありそうだが、なんとか中国文字の旅をまとめたいとおもうこのごろである。

【朗文堂-好日録】016 吃驚仰天 中国西游記Ⅱ|宋版図書 復活・再生の地 杭州・紹興|’12年8月1日花筏 / ‘26年9月補整

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《 海の日の休日を利用して、ふたたび 杭州・紹興への旅 》
フトおもいたって、昨年9月に訪れた杭州(Hangzhou)と、紹興(Shaoxing)にいきたくなった。
このまちは宋版図書の主要な製造地であり、その「復活・再生」のまちで、わが国で「
宋朝体」、中国では時代逆転だとして批判もあるが「仿宋体・倣宋体-ほうそうたい 宋に倣った字様」と呼ばれる字様・活字書体を産んだまちのひとつでもある。

便利な時代になった。 杭州と紹興の中間地点の空港まで ANA の直行便がフライトしている。同行者はノー学部。 ノー学部は、なにやら中国史研究に遠大な構想(夢想?)をいだいているらしい……。 そのせいか最近は、書芸と中国史の学習にことのほか熱心にとり組んでいるのだ。

どうやらノー学部の研究テーマの主要項目には「美食」があるらしい。 旨いレストラン(中国のばあい、ほとんどすべてが「中国料理店」だが、都市ごとに味わいがことなり、どれもがおいしい) や、スィーツ専門店を探すのに夢中になったりする。 また旅のスケジュールを、ともかく、めいっぱい、隙間無くうめる癖がある。これは勘弁だ。

やつかれは、そのまち、その場の空気を吸っているだけでいいという、呑気な性癖である。したがってノー学部による分秒刻みのスケジュールに、真底辟易し、あえぎながら坂道をのぼり、歩き、走りまわることになる。これだけは本当に勘弁してほしい(怒)。
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上掲の野外彫刻写真は、2009年秋に再開発がなった「南宋御街 ギョガイ」でたまたまみかけたもの。 しかしこの彫刻は、書芸と詩作と「美食」にある程度造詣がないと、ほとんど意味をなさない。
やつかれは「美食」にはまったく関心が無いが、この前夜、前掲「書芸・詩作・ 美食」 三単位初級編を、ホテルのすぐ近くの大衆レストラン(もちろん中国料理店)で学習した(つまり食した)ばかりだったので、おもわず笑い転げてしまった。

東坡肉の実際。同行ふたりの食したのはもっと庶民的かつ素朴なもの。
杭州では、ひと皿10元 ≒ 125円。 新宿の杭州料理店では 1,200 円だった。
例によって撮影失敗につき、 中国版Websiteより紹介。

このあたりは王城域とされ、杭州が南宋のみやこ・臨安とよばれていたころは、王宮の内宮をでると「大廟 ダイビョウ」があった。これに隣接して「察院前巷  サツインゼンコウ」とされる、おおきな宮殿と広場があった。
「大廟」 では、元旦 ・ 白馬 アオウマ ・ 踏歌 トウカ ・ 端午 ・ 相撲 スマイ ・ 重陽 チョウヨウ ・ 豊明 ホウメイ などの祝祭をおこなう「節日 セチニチ」に、皇帝が文武の百官をここの宮殿と、大広場で謁見した。
「大廟」の左右には 丞相府(ジョウショウフ 首相官邸に相当)があり、ここから鼓楼へかけて、幅がひろくて真っ直ぐな道が「王宮中央通り」
とされ、左右の家並みは「御街  ギョガイ」 と呼ばれていた。すなわち皇居前広場と、東京駅までの直線道路とでもいえそうだ。

ところが南宋末期、衛宗 祥興元年(1279)、臨安は蒙古族 元軍の襲来をうけて、王宮はもちろん、大廟や丞相府や察院前巷も焼け落ちて、ながらく地下に埋もれていた。ようやく近年発掘調査がおこなわれ、また再開発されてその一部が公開されるようになった。

いまこの周辺は観光地として拓けつつあるが、たれもがガイド・ブックに紹介された、杭州にはたくさんある「名所・旧蹟 」 をみるのにせいいっぱいで、ガイド・ブックに掲載が無く、ガイドも案内しない、大廟の皇帝出御の大彫刻や、こうした「現代彫刻」には、たれも足をとめない。

やつがれはこのあたりを、ほぼ2日間うろついていた。 人通りはそれなりに多いとおもっていたが、あらためて写真をみると閑散としたものでおどろいた。 そのためもあるのか、わが国にたくさんあるブログ版「中国旅行記」のたぐいの写真でも紹介されたことはないようである。
やつかれ、しばらく彫刻に足をとめ、涼風をもとめて石のベンチに腰をおろしていた。 そこに地元の家族連れがとおりかかり、ひとりの少女がここで立ち止まって、小首をかしげたりしながら熱心に彫刻をみていた。

ふつう女性がこうして腰に手をやってこちらを見据えると、危険信号である。
やつがれのとぼしい経験では、次のフェーズは  当然のように、怒りにまかせて手近の皿やコップがとんでくるものだ。
ところが少女は興味深そうに彫刻をみ、そして先にあるいていった家族のあとをいっさんに追っていった。 皿もコップも飛んでこなかった。 この敏捷で利発そうな少女は、将来、詩人か造形家か、はたまた政治家か料理人にでもなるのだろう。

彫刻左のおおきな像は、蘇  軾 ソ-ショク( 号 ・ 東坡居士、唐宋八家のひとり。 蘇東坡 ソ-トウバ としても知られる。 官僚・詩人・文章家・書芸家  1037-1101 ) である。
下にあげた『食猪肉』の詩は蘇軾のもの。 ここでの猪は豚のことである。
すなわちこのまちの名物食品、豚の煮物「東坡肉 トン-ボー-ロウ」の考案者・蘇軾を、諧謔精神たっぷりに、おおきな彫刻をもって伝えたものである。

東坡肉 : 中国版画像 】
もしこの杭州のまちにいかれたら、ぜひとも 「 東坡肉  トン-ボー-ロウ 」 を食されることをお勧めしたい。
長崎卓袱 シッポク 料理の一部や、鹿児島の郷土料理に、豚肉と大根を煮込んだ類似のものがあるが、蘇東坡考案の杭州「東坡肉」 は、豚の脂がくどくなくて、美味である!  ノー学部など、画像のような「東坡肉」の大皿を、ふつかの杭州滞在中に間になんと 3 皿も食していたほどのものである。

   黄州好猪肉
     價賤等糞土
     富者不肯喫
     貧者不解煮
     慢著火少著水
     火候足時他自美
     毎日起来打一碗
     飽得自家君莫管
        ──  蘇  軾 『 食  猪  肉 』 

いずれにしても、近代造形と、歴史的言語性を考えさせられる「現代彫刻」ではあった。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも書物(図書)の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周など、現在の開封 ( カイホウ、 Kaifeng ) にみやこをおいた王朝を中心に技術が温存・継承され、10世紀・北宋 ( 趙氏、9代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典図書としておおきく開花した。
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北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある開封(カイホウ、 Kaifeng)であった。いまもなお開封は大半は埋没・崩壊しているとはいえ、雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏 ( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。 前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して「大梁 タイリョウ」と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代・後梁のみやこ「 東都 となり、つづいて後晋・後漢・後周もここにみやこをおいて「東京」と称した。
すなわち「分裂時代」とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた「後唐  923-936」 以外の四国は、開封(東都 ・ 東京 ・ 汴 ) をみやことしたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国(現在の四川省)に建朝された「後蜀  934-965」では、965年ころには、あきらかに、
「蜀地の文化の新展開と、経書の印刷がおこなわれていた」(『 標準世界史年表』亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日)のである。
「木版印刷の創始は宋代」 からという説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は「蜀大字本」とされて評価がきわめてたかかった。 そのひとつ『周礼 シュライ』がわが国の 静嘉堂文庫(東京都世田ヶ谷区)に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル・タイプが「四川宋朝体  龍爪」( 製作・欣喜堂、販売・朗文堂 )である。これがして、やつかれが北宋・南宋の両方の宋王朝と、宋朝体に膠泥するゆえんのひとつでもある。

《重文軽武 ≒ 文官優位の漢族王朝:趙 匡胤が開封に宋を建朝
       北宋疆域图(玖巧仔  ウィキペディア 宋

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝・宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤(チョウ-キョウイン、太祖、在位 960-976) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を「 汴 ベン、東京開封府 トウケイ-カイホウフ」とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武(文官優位の治世、シビリア ン・コントロール)につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹 キッタン 族の遼、チベット系タングート族の 西夏 セイカ の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金(女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打 アグダの建てた国) が、会寧府(吉林省阿城県)、燕京(エンケイ、北京) を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて「 汴 ベン、東京開封府」を占拠して、宋(北宋) を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては「靖康 セイコウ の変」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。
上から、「 穠芳詩巻 」 「 牡丹詩帖 」 「 楷書千字文 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を 「 痩金体 」 と名づけた。

趙佶は初唐の書家・薛曜( セツ-ヨウ  生没年不詳)から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが、資料が少なく つまびらかにしない。
「楷書千字文」 はいまは上海博物館の所蔵で、ここで真筆をみて、CDR版を含む、できのよい複製版を購入することができる。『 宗徽宗書法全集 』( 王平川、北京 ・ 朝華出版社、2002年1月)

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこの「 汴 ・ 東京開封府」を陥れた。これが「靖康の変」とされる事件である。 ここに宋(北宋) は 9 代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝の上皇・徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 )、皇帝・欽宗 ( 趙 桓、在位 1125-27 ) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城 (現黒竜江省) に幽閉した。

風流皇帝ともされ、芸術に惑溺した徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓(欽宗)に帝位を譲って上皇となったが、「 靖康の変 」 に際しては上皇 ・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓「永祐陵」は、旧南宋領内のみやこ・臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《版木-印刷原版-ともども消滅した北宋刊本》
[本項は『 大観  宋版図書特展 』 台北・故宮博物院、2007年12月を主要資料とした]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業(出版)であるが、この時代( 10-12世紀 ) の木版刊本の書物「北宋刊本・北宋図書」は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様(木版刊本のうえにあらわれた字の形姿)や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物「インキュナブラ」 の稀覯性などはとても比較の対象とならないほど重くみられている。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝・太宗( 太祖・趙 匡胤チョウ-キョウインの弟:趙 光義 太宗が太祖の跡を襲って太宗となり中国の統一を果たした 976-997 ) が、淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書 カンリン-ジショ であった王著(オウチョ   ?―990) に命じて、編輯、摹勒( モロク  摸倣によって木石に彫刻)させ、拓本とした集法帖10巻がある。名づけて『淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ』である。『淳化閣帖』は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』 とも称した。

同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻・原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の「夾雪本」(東京・書道博物館)と、「最善本」(上海・上海博物館)がわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】
* お断り:無為庵乃書窓主宰者は2015年頃から消息が絶えています。乞う情報提供。

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇・徽宗帝、皇帝 ・欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵「内府」や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国はのちに女真文字( 満洲文字)をつくるが、そのための文化基盤も欲しかったのであろうか。

つまり金軍は、『淳化閣帖』などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石・版木のほとんどすべて、そしてその工匠の一部までも、根こそぎ、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる『淳化閣帖』の複製原版が、石刻だったのか、梓 アズサ や 棗 ナツメ材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明しない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋(北宋)の版本のほとんどは「 汴、東京開封府 」から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で覆刻ーかぶせ彫り-術のために費消され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における文字獄によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に「北宋刊本」がのこったのである。

すなわち、わが国では「文字獄」はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
「文字獄」 に 花筏 新・文字百景*003  へのリンクを貼ったが、あまりに長文のなかで触れたことなので、以下に該当部を引用提示した。
また「 文字獄 」が中国歴代王朝、なかんずく
清王朝初期の皇帝によって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。 

東漢のひと許慎著 『 説文解字 』 は西暦100年ころの完成とみられるが、中国「字学界」ではいまだに評価がたかく、必須の字学資料とされ、さまざまな編輯がこらされて、各社から刊行されている。
上写真)  『説文解字』(清代の木版刊本からオフセット平版印刷、古装本仕上げ、4巻、合肥市 ・ 黄山書社、2010年8月)。
下写真)  右下 『黄侃手批説文解字』 (木版印刷物に批評をしるし、それを版下としてオフセット平版印刷、北京・中華書局出版、2006年5月)
左下        『文白対照  説文解字』 (部首別画引きが可能、北京 ・ 九州出版社)

【参考資料:新・文字百景*001 爿ショウ と 片ヘン,かた  その《字》の形成過程をみる】

撮影のために、手もとの『 康煕字典 』をだしておどろいたが、写真のほかに、台北・商務印書館版、台北・大同書院版の 『 康煕字典 』 もあり、やつかれが 『 康煕字典 』 にこだわっていただけかともおもわされた。
右   『 康煕字典 』 (明治初期 ?  日本での木版印刷、19巻、版元名・
刊記無し )}
左   『 康煕字典 』 ( 上海古籍出版社、1996年1月第1版、2011年1月第1版14次印刷 )

 《わが国にファンの多い『康煕字典』をみる》
どういうわけか、わが国においては「漢字字書」として『康煕字典』(清朝康熙55、1716)の「ファン」があまりにも多い。たしかに『康熙字典』は比較的近世の、木版印刷による刊本であり、その字様は楷書の工芸字様ともいうべき明朝体(中国では宋体)である。

明朝体は中国・台湾では、職業人は「宋体」とするが、ふつうの生活人は「印刷体」とすることが多い。すなわちわが国の「明朝体の風景」とは異なり、あまり重くみているわけではなく、生活人は、
「そこに、印刷のために、あたりまえに存在している、実用の字」
「道具・機械をもちいて書かれたため、書の魂が抜けた宋体字ー膚郭宋体」
とすることが多い。
また『康煕字典』は音韻配列ではなく、部種別画数順配列であることも、「文と字 ≒ 漢字」への親近性においておとるわが国(そして北京に征服王朝を樹立した満州族の関係者にも)好都合な「字書」だったかもしれない。

しかしながら『康煕字典』の、肝心の帝の名前である「こうき」が、表紙・扉ページなど、いわゆる装幀とされる部分だけでも、「康熙・康煕・康熈」など、三例の使用例があって、「字書」としてはまことに頼りない。
そのためにわが国の文字コードでは、ほとんどこの用例のために、「康熙 シフトJIS EAA4」「康煕 シフトJIS E086」「康熈 シフトJIS E087」の、みっつものキャラクターを用意しているほどである。
これをもってしても、いまだにわが国の一部で「康煕字典体」などと崇め奉っているむきがあるのはいかがであろう。

また中国では古来、字に関して記述した書物は「字書」であり、「字典」というおもい名称をあたえたことはなかった。「典」は「典型」に通じ、書物としては、儒教・道教・仏教などの経典などの書物にはもちいられてきたが、ともかくおもい字義、字の意味をもった「字」が「典」であった。
したがって清王朝第四代皇帝・康煕帝が、勅命によって、「字書」にかえて「字典」としたことに、ときの中国の知識層は震撼し、「文字の獄・文字獄」の発動も重なって、ある意味では支配民族の増長、ないしは知識・教養不足のなせることとしてとらえた。

またその治世が62年とながかった清朝4代康煕帝(玄燁  1654-1722,在位1661-1722)は、紫金城内武英殿を摺印場(印刷所)としてー紫禁城図書館館長:翁 連渓氏は宮殿内での職人集団の立入や作業はあり得ないとして一笑に付す-、いわゆる武英殿版ブエイデン-バン、ないしは殿版デンパンとされる、多くの書物をのこした。
そのかたわら、すでに3代成祖・順治帝(福臨 1643-61)からはじまっていた「文字獄」をしばしば発令して書物の弾圧に乗り出していた。「文字獄」では、すこしでも漢民族の優位を説いたり、夷族(非漢民族)をそしった書物は、徹底的に没収・焼却し、その著者と刊行者はもとより、縁族までも重罪とした。

この清王朝前・中期にしばしば発令された「文字獄 モジゴク」は、巷間しばしばかたられる 秦の始皇帝による「焚書坑儒」(前213)より、その規模と頻度といい、全土におよぶ徹底ぶりといい、到底比較にならないほど激甚をきわめたものであった。
そこにはまた「文と字」を産み育ててきたという自負心を内蔵している漢民族と、ときの支配民族としての満州族(女真族)との、微妙な民族感情の軋轢がみられたことを知らねばならない。

《 北宋刊本を「覆刻」という技法で復活させた、南宋臨安の刊刻事業 》
みやこ東京開封府をおわれた宋の残存勢力は、徽宗帝の第 9 子とされる皇族のひとり、趙 構 ( のちの南宋の高宗、在位1127-62 ) を擁して江南をさすらい、ようやく要害の地・臨安(現 杭州)にみやこをさだめた。

杭州( Hangzhou ) は、ふるくは銭塘・臨安などと呼ばれたこともあったが、いまは中国浙江省の省都で、人口670万余のおおきなまちである。
杭州湾および銭塘江セントウコウを控え、まちの中央西部の「西湖」にのぞむ景勝地としても、ふるくから栄えたまちである。

わが国では「コウシュウ」 あるいは広東省の副省級市の「広州」 との混同をさけ、湯桶 ユトウ読みで 「くいしゅう」 ともされるが「ハンゾウ」と呼んだほうがなにかと都合が良い。
またふるくからの印刷術発祥地のひとつ「浙江刊本」の製造地にかぞえられ、北宋時代の大著『資治通鑑  シジツガン』は、汴( 東京開封府 )ではなく、このまちで刊行 ( 刻刊 ) されたものとされる。

河水(黄河)ぞいの東京開封府が陥ちたあと、南宋のみやこは長江(揚子江)の南、江南の臨安となった。開封をおとした金と南宋の国境線は、屈辱的な交渉をへて、淮河 ワイガによって南北にわかたれた。
それでもあたらしいみやこ、臨安における出版事業の「復活」は、浙江地方という、ふるくから文物がゆたかで、文化度もたかく、製紙や刊刻事業の基盤があったこの地方には好適な産業であった。

臨安や紹興では、多くの工匠が、北宋時代9代のあいだに刊行された書物を収集し、それをばらして原本としてあたらしい版木にはり、それを版下として上から「覆刻 ≒ かぶせぼり」にするという技術をもちいて刊刻事業を再開した。
このおもには覆刻による刊刻は製造効率がよく、編輯・校閲の手間なども大幅に軽減されたため、初代高宗、2代孝宗(趙 伯琮ハクソウ、1162-89)のわずか2代のあいだに、科挙の教科書、参考書などにもちいる主要な書物の刊行をほぼおえている。

この異常ともいえるほどはやかった「覆刻 ≒ かぶせぼり」方式による「官刊本」の復活・再生の刊刻事業がほぼおわると、民間の出版社ともいえる書房が次次と臨安城市に登場して、彫刻工、摺印工、製本工を中心に、すぐれた技芸者の奪いあいがはじまり、技術が一段と向上していった。
こうした民間出版社のほかに、国子監のちかくにあった仏教寺院・道教寺院などでも、失われた経典の刊行が盛んになった。

やつかれは、こうしたほとんどが失われた書物ではあるが、それをつくった書房や寺院の旧在地を調べたい、そしてできれば北宋・南宋時代の刊本を入手したいというのが長年の夢であった。
それでもかつての中国では、外国人が自由に動きまわることができなかったし、昨年は南宋時代の臨安の詳細図が入手できずに成果をみなかった。

今回ようやく現地の友人の協力をえて、杭州図書館で地図資料を入手して、南宋時代の王城域、城門、書房(民間出版社)、寺院などの旧在地を、古地図と照合しながらほぼ確定することができた。
ただし、いわゆる「宋版図書」を入手することは、まずもって刊本そのものがほとんど存在し無いという現状であり、いち個人のちからではとうてい不可能だということを改めて確認させられた旅ともなった。
その報告は、すこし整理の時間をいただきたい。

さりながら、こうした杭州での刊刻事業の動向は、意外に敏速にわが国へも伝わっていたとみられた。当時は公式・非公式を問わずに日宋間での貿易がさかんで、輸入品の主要項目に図書もあげられているほどのものであった。
また、臨済宗・栄西禅師や、曹洞宗・道元禅師ら、平安時代末期から鎌倉時代にわが国に禅宗をもたらした高僧も、この浙江地方の寧波ニンボ、ねいは・紹興・臨安などの各城市に修行にでかけていた時代であった。
したがって、しばらくのちの、わが国の京都五山版、鎌倉五山版など、わが国の刊本事業への影響もあったかもしれないとおもうとたのしいのだ。

杭州観光というと、これまでは風光明媚な西湖を中心とした観光と、文人・詩人の旧蹟をたずねるのが中心であったが、いずれ古都・臨安、杭州の本当の魅力は、おおきく南宋王朝文化の探求へとかたむく様相がみられる。写真は西湖白堤に咲く蓮の花。

白堤は中唐時代に杭州刺史(州の司政官)として赴任した白居易(官僚、詩人 772-846 )が築堤したとされる。
そのたもとには、イタリア、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロ(1254-1324)の銅製の立像がある。マルコ・ポーロが臨安(杭州)を訪れたのは元軍による破壊と修復のあとであったが、帰国後に『東方見聞録』を口述して、このまちの美しさを絶賛して、欧州人の東洋感におおきな影響をあたえた。
また蘇軾(蘇東坡)が西湖の浚渫をおこない、その土砂をもって築造したとされる、白堤よりよほど大規模な「蘇堤」もあり、休日などは人混みで歩くのも困難なほどの多くの観光客を集めている。

東京開封府を追われて、江南の要害地として臨安をみやこに選んだ南宋は、1127年高宗・趙 構にはじまり、孝宗・光宗・寧宗・理宗・度宗・恭宗・端宗とつづいた。
9代目皇帝は1278-79年に在位した衛宗であるが、1279年、これも北漠の地からおこった蒙古族の元(世祖、フビライ、1279-94)によって臨安は襲撃された。元軍の猛攻によって臨安城市は徹底的に破壊された。

騎馬民族の元軍は、満州族の金軍よりよほど破壊力がつよく、金と南宋のあいだの暗黙の国境線ともいえた淮河ワイガを一気にこえ、さらに長江(揚子江)をこえて臨安に襲いかかった。そして城内のすべての宮殿を焼き、多くの民衆をもまきぞえにして殺戮のかぎりを尽くしたとされる。
蒙古族元軍の猛攻により、衛宗はその生没年も確実には歴史にのこらないまま、1279年9代で南宋王朝は崩壊をみた。
その戦禍のなかに、せっかく覆刻・新刻した南宋刊本と、その版木は、またまたほとんどが失われたのである。

元はその後、このまちの修復につとめ、城壁などは南宋時代よりも頑健なものとした。つづく明王朝も、杭州の運河や町並みの整備に努力した。
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南宋のみやこ・臨安の王城域は、長らく発掘と再開発事業が進行していたが、杭州・中山路、南宋御街の再開発が2009年9月30日に完成して一般公開された。
前述のように「御街ギョガイ」とは、かつては皇帝専用の道で、800数十年以前の、南宋のみやこを東西につらぬく主軸のうえに御街は復活をみた。
もともとの御街は、地下10メートルほどのところに埋もれているが、近年発掘されて「南宋遺址陳列館」でその遺構の一部をみることができる。

  
左)杭州ではいちばんの古書店と友人に紹介された「杭州沈記古旧書店」沈店主と。
  北宋・南宋時代の刊本は、複製版でも扱ったことはないと筆談したが、やつがれは
店内で一冊
南宋刊本複製版を発見した。あまりに粘ったので沈店主には嫌われたが。
右)臨時ドライバーの王さんと喫煙のひととき。会話はすべて筆談だが、ふしぎに意思
  疎通にはこまらない。杭州でも喫煙者にはなにかときびしいゾ。

《紹興 ── 古代王朝 夏カのまち、そして王羲之と魯迅のこと》

 「紹興酒ショウコウ-シュ」のことを、このまち紹興では「黄酒オウ-シュ」という。
そもそも「杭州空港」とはいうが、ほぼ杭州と紹興のまちの中間点にある。いまの紹興は人口550万ほどの大都市である。
今回の3泊4日のみじかい旅も、紹興からはじまった。
【昨年秋の旅行記:朗文堂-好日録 011 吃驚仰天 中国西遊游記Ⅰ】

ノー学部が昨秋にはじめて中国を訪れ、まち歩きをはじめたのも紹興で、空港からいきなり紹興の城市(まち)にはいり、五代十国のひとつ・越の宮殿跡(越王台)ちかくの、ちさな民家の立ちならぶ細い路地に降り立った。そこでタクシーを降り、はじめて「ニーハオ・トイレ」も経験した。
そのせいか、なにかと紹興が気がかりのようで、ここにいたく
こだわる。

中国三皇五帝の神話時代につづき、先史時代に、ここ紹興の会稽山カイケイザンあたりに、禹王ウオウが夏カ王朝を建て、夏は17代(禹―启―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―扃―廑―孔甲―皋―発―癸―桀)430年にわたってつづいたとされる。
そのために初期有史時代(すなわち 文 と 字 が誕生していて、
記録がある)の、夏・商(殷)・周とをあわせて三代とも呼ぶ。

「字 ≒ 文字」がなかったために、記録はすくない夏王朝であるが、現代中国の歴史学者は、三皇五帝の神話時代のあつかいとはことなり、さまざまな「文 ≒≒ 紋、一定の社会集団が共有した意味性をもった記号。徴号トモ」の存在をみとめ、その解読にあたり、またさまざまな発掘の成果により、夏王朝の存在をほぼ史実としてみとめているようである。

《東晋のひと王羲之と、その従兄弟王興之の墓誌》
ここではなしがすこしずれるが、この江南の地から誕生した書風「碑石体」に触れたい。
どうやら現代の文字組版に関わるかたのうち、想像以上に多くの皆さんが、力感のある、やさしい、ヒューマン・サンセリフの登場をお待ちになっていたようである。

これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ――すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとの要望が寄せられていた。
確かにわが国のサンセリフ ≒ ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえている。

2012年4月、欣喜堂と朗文堂が提案したデジタル・タイプ『ヒューマン・サンセリフ  銘石B』の原姿は、ふるく、中国・東晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしている。

魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀や、巨費を要する石碑の建立が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていた。

そのために、この紹興のまちに会稽内史として赴任し、楷書・草書において古今に冠絶した書聖とされる王羲之(右軍太守  307?-365?)の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡であり、また真筆は伝承されていない。
現在の王羲之の書とは、さまざまな方法で複製したもの、なかんずくそれを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、木石に刻み、これを木石摺り・拓本にした折り本)にしたものが伝承されるだけである。


王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人で、従兄弟イトコの王興之も、こんな風貌だったのであろうか。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之(オウ-コウシ 309-40)は、王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたる人物である。

この時代にあっては、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれた。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつである。『王興之墓誌』の裏面には、のちに埋葬された妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されている(中国・南京博物館蔵)。

この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていた。そのために風化や損傷がほとんどなく、全文を読みとることができるほど保存状態が良好である。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれている。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「銘石B Combination 3」として、2012年4月、わが国に力強くよみがえった。


《王羲之の伝承墓のこと》
王羲之の従兄弟、王興之の墓から出土した『王興之墓誌』を紹介した。
ならば一族のひとであり、2歳ほど年長の王羲之の墓、および墓誌を紹介しないと片手落ちになる。

王羲之は4世紀の時代をいきたひとである。わが国でいえば古墳時代であり、まだひとびとは「字」をもたなかった時代のことである。
王羲之の墳墓の地と伝承される場所は紹興(会稽)周辺に4ヶ所ほどあるが、そのうちもっとも著名な浙江省嵊州ジョウシュウ市金庭鎭キンテイチン瀑布山バクフザンをたずねた。嵊州市は紹興から高速道路で2時間ほど、その嵊州市からさらに山間の道を東へ20キロほどいった山中にあった。

山を背に、爽やかな風が吹きぬける、立派な堂宇を連ねた道教の寺院であった。
墓地は山裾の高台にあったが、明代に「重修」したと墓碑の背後にしるされていた。墓地本体は「磚セン」を高くつみあげ、その上に夏の艸艸が密生した円墳がのっていた。

魏晋南北朝にあっては「薄葬」が奨励されたために、おおきな墳墓や石碑はほとんど見られないが、いささか立派すぎる墳丘であった。また墳丘を修理した際にも、この時代の墓地にほとんどみられるような「墓碑銘」出土の報告はない。この王羲之の墳墓とされる墓からは従兄弟や親族の墓地のような「墓碑銘」は出土しなかったのであろうか。
また中国の古代遺跡によくみられる大樹の「古柏」は、伝・蒼頡ソウケツ墓の寺院前の見事な「古柏」はもとより、北京郊外・明の十三陵の「古柏」より、よほど若若しい木だった。

墓地伝承地の周囲には、書芸家が寄進した書碑がたくさんみられたが、そのほとんどは、昭和期日本の書芸家の寄進によるもので、チョイともの哀しいものがあった。
ただ齢ヨワイをかさねた王羲之が、終ツイの栖家としたなら、この嵊州市郊外の山中の空間は、それにふさわしいものとおもえる場所ではあった。すなわち4世紀のひとの墳墓を、21世紀に、異国のひとがフラリとたずねたとしたら、この程度の収穫で我慢をすべきであろうとおもえる場所であった。

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ふたたび紹興で……。
紹興からは、近代になると魯迅(ロジン 1881-1936)がでて、日本に留学し、『阿Q正伝』『狂人日記』などをあらわし、またあまり知られていないが、装幀家としても活躍した。

写真は晩年の魯迅がかよったとされる「咸亨 カンキョウ 酒店」で。
ここでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には「黄酒」の甕がならぶ。地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
魯迅はたそがれどきになるとここにあらわれて、料理写真右端のナントカ豆をつまみながら、黄酒をチビチビやっていたらしい。

いまの「咸亨カンキョウ酒店」は店舗が拡張され、入口で飲み物とプリペイド・カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。精算は店外のカウンターでする。
真ん中は鶏の唐揚げ風? 最奥はその名もビックリ「臭豆腐」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり「臭豆腐」と書かれると、食欲も失せて敬遠していた。

いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた── というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら「臭豆腐」をどんどん運んできた。臭いを気にせず、美味しいから食べろと勧められた。
「臭豆腐」はききしにまさるすさまじい臭いで辟易するが、食すと好ハオ! ほぼやつがれひとりで食べてしまった。写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を「コーラ」と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「アナタガタ ココハ 紹興ヨ! 黄酒ヲ ノマナイデ ドウスル」
というような具合だったようであるが、やつがれはすでに店内にあって「臭豆腐」に挑戦中で、よくはしらない。
ともかく紹興のまちとひとは、しばらくノー学部に任せておこう。

【朗文堂-好日録 005】ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 PRG のこと|’10年12月21日 / ‘26年8月補整

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日のよしなしごとを綴りたてまつらん
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本稿の修訂記事が NOTES ON TYPOGRAPHY にあります。双方とものこしておきます。
古記録発掘【花筏 朗文堂-好日録005】ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 PRG のこと|’10年12月21日|少少補整 ‘26.8.21

★ 忙中に閑あり 美術館巡りのこと───
ひとなみに年末バタバタ騒ぎの渦中にある。そんなことを綴っても面白くない。だから忙中に閑ありて、美術館のこと。

このごろはなかな良い美術館があちこちにできた。東京の美術館はチマチマ、コセコセ、混雑しているので、いささか敬遠気味。でかいビルのこちらのワン・フロアが美術館です、といわれても味気ない。

だから最近はチト遠出をして(新宿から電車一本、バス一回)、宇都宮美術館がお気に入り。関東平野、ここにつきたか ─── といった小高い丘のうえにある。ともかく緑ゆたかな景観がよい。天井がたかくてゆったりした建物もいい。それが宇都宮美術館である。
ここは展示スペースが広く、作品が接近してたがいに視覚に干渉することがない。また、ここのカフェのランチは、地元の食材を使って新鮮で旨い。そして帰りがけに、駅前でのんびりと、名物のでっかい餃子をたらふく楽しむ。

★ 横須賀美術館にて《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》を展観する
2010年12月18日[土]、勇気をふるって横須賀にでかけた。横須賀には30年ほど前に一度いった。やたらと制服のヘイタイさんがおおくて辟易した。それ以来である。

もともと「制服」が苦手である。制服・制帽の着用を義務づけられた高校入学式の前夜、ひたすら制帽の芯(ただのボール紙だった)を全部ぬいて、禅宗坊主のズダ袋のようにした。
なにぶん高校は、鈍くさい、田舎の元旧制中学だったから、一応(甘かったけど)制服・制帽の着用が義務づけられていた。まして、お粗末なことに、「風紀委員」などという、時代錯誤、勘違いの輩ヤカラがいて、入学式の翌朝、新入生指導と称して、肛門 モトイ 校門の前で服装チェックをしていた。トンチンカンを相手にするのは面倒だから、鞄から苦心の「ズダ袋」を取り出して、頭にひっかぶって、
「おはようございま~す。ご苦労さまで~す」
と通り抜けた。それでもけしからん一年生だと、すぐさま風紀委員からの呼び出し。(軟弱で硬直した風紀委員なぞは衆を頼むから)大勢に取り囲まれたが、
「わが校の校則に、質実剛健 シツジツゴウケン、和衷協同 ワチュウキョウドウ、至誠一貫 シセイイッカンとありました。質実剛健を体現するべく斯様 カヨウにいたしました。ナニカ?」
といって退かなかった。

これですっかりトンチンカンから目をつけられたが、ひとつきもたつと、たれもとがめなくなった。べつに制帽などという暑苦しいものをかぶる必要はないだろう。できるだけ自由人でありたいし、等身大でスッと立っていたいものだ。ところで風紀紊乱 ビンラン なることばもあったな。忘れていた。
しかし、暑くも寒くもない4月、それも若いうちから帽子などをかぶっていると、将来の毛髪の消長に甚大な影響があろうというものだ。そんなものなのだ、風紀なぞとは、所詮。

いまだにこの制服嫌いは徹底している。バスやタクシーの運転者の制服くらいなら反応しないが、ホテルの黒服などには過敏に反応する。客にはくそ丁寧をよそおいつつ、実は慇懃かつ無礼きわまるからである。こんなのに限って、同僚のベルボーイやウェイターには居丈高であったりする。
ときとして、トンチンカンにとっての制服とは、なにか、おのれはたれかより偉いト、愚かにも勘違いさせたりする。これが階級章をつけた制服の警察官や自衛官であると、もうそれだけでやつかれのアレルギーは危険水域にはいる。それが元となって、ずいぶん埒 ラチ もない、語るに落ちる、つまらない経験をした。それでもこのアレルギーだけは現在進行形、症状はますます重篤なのだ。

ところで横須賀。横須賀美術館《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》展覧である。
本展の図録デザインを新宿私塾修了生Hさんが担当。ご案内もいただいたので気になっていた。しかし横須賀は制服アレルギーの発作がこわかったので逡巡していた。それでも会期終了が近づいたし、雲一点もなき快晴だし、行くか ! 
てっきり東京駅から古ぼけた横須賀線に乗って、チンタラ横須賀までいくものだとおもっていた。ところがノー学部が Website で調べた、分刻みの路線案内にしたがって、地下鉄でいく。どこかでそのまま京浜急行に乗り込んだようだが、ともかく新宿から地下鉄に乗って、乗り換え1回で京急馬堀駅に降り立つ。道中居眠りしていたせいもあって浦島太郎よろしくよくわからない。

ナント! 目が覚め、降り立った地下鉄 モトイ 京浜急行の馬堀海岸駅の眼前には、眩いまでの海が広がっていた。やつかれのふるさと信州信濃には海が無い。だから吾輩を含む信州人にとって、海は永遠の神秘(であるはず)。まして地下鉄に乗って居眠りを続けてきたから、地底から救出された銅鉱山の鉱夫のように、この衝撃はまぶしく大きい。

バスでチョイ、横須賀美術館に着く。景観に感激。海を借景にしたというとなにか変だが、海と山にはさまれた素晴らしい眺望だった。設計は山本理顕氏(山本理顕設計工場)で、海岸に位置する美術館として、塩害を防ぎつつ外光を取り入れるため、鉄の内壁をガラスの外壁で包み込む特徴的な二重のスキン構造を採用しているという。瀬戸内海などに点在する、いくらか意識過剰とおもえる類似施設にいくと、潮風が心地よいとはいえ気になるのが作品への塩害対策ではある。
まずは海を堪能しながら、ギャラリー・カフェでランチをとる。プチ贅沢をゆるす。写真はまた失敗したので、同館パンフレットのものを紹介。‘10年12月18日[土]は一点の雲もない、あっぱれ日本晴れだったのだが。
これでデジタルカメラの操作マニュアルなどという、技術屋の記述による、無味乾燥、これがわが国語かという、妙な文章にあふれた七面倒なものをみないで、撮影技術が伴えば鬼に金棒だ!

ここのところ、ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900 イギリスの芸術批評家・社会思想家)と、ラファエル前派との関連を折りに触れて調べていた。例のアーツ・クラフツ運動の理論的指導者として、この人物の存在が無視できなかった。それにしては翻訳書からの理解は歯がゆいものがあった。
だから横須賀美術館で、愛読書の『建築の七灯』『この後の者にも』の原著(ガラスケースに入っていたけど)を見たり、ラスキンの自筆のスケッチを見られたのには興奮した。
[この大聖堂のスケッチは、批評家というより、もはや素描家だな。ラスキンめ、なかなか巧いじゃないか]トおもう。

ただし、エリート画家(無謀で反抗的だったけど)が結集した、ロイヤル・アカデミー(王立美術学校)出身の、「ラファエル前派兄弟団  P R B」という若い画家集団の絵画(とりわけ第一世代、20代の作品)は、どこか意識過剰で、生硬で、消化不良をおこしているようで、少々辛かった。
また主題を構成する部分より、周辺細部の草花やら道具やらの、なにやら一見暗示的(神秘的?)な仕掛けばかりが目について、主題が散漫になっていた。
[ラスキンの奴メ、若けぇ画学生どもを、うまく煽ったな]── トおもった。

★ラファエル前派兄弟団 P R G
いまから160年ほど前のことである。1848年09月、ロンドンの片隅に6人の画家と1人の作家が集まった。年齢は18歳から20歳、意欲と能力はあったが、まだまだ未熟、発展途上の造形者であった。中心メンバーは、ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-96)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827-96)、ダンテ・ガブリエル・ロセッテイ(1828-82)らであった。

かれらは当時のイギリス画壇の潮流を、大胆不敵、一刀両断のもとに斬り捨てて、「ラファエル前派兄弟団 P R B-Pre-Raphaelite Brotherhood の頭文字」と名乗った。その構成員はしばらくは内密にされ、作品にはただ「P R B」とだけしるされた。
[このあたり、悪戯半分で、中世アルチザンの秘密結社を真似たのかな?]
トすこしばかりおもう。

さらに大胆にも「ラファエル前派兄弟団」は、イタリア・ルネサンス期の巨匠、ラファエル(Raffaello Santi  1483-1520 ヴァチカン宮殿の壁画、サン-ピエトロ大聖堂の建築監督、ラファエロとも)をもっとも唾棄すべき存在とした。かれらはラファエルに代表される、ルネサンスよりも前の時代、すなわちそれまで暗黒の時代とされていた「中世」を賞揚すべき存在とした。
これはまた同時に、イタリア・ルネサンスを否定して、中世復古、ゴシック・リバイバルを意味することにつながった。乱暴に解釈すれば、秘技・秘術・錬金術バンザイでもあった。

そんなかれらが作品を発表すると、当然世上は辛辣な批判にあふれ、無理解のおおきな壁に突き当たった。もちろん異端は異端であるだけでは注目されない。「ラファエル前派兄弟団」にはそれだけの(批判をあびるほどの)理論構築と技倆がともなっていたということだ。
そのとき批評家ラスキンは、むしろ積極的に、この造形界の暴走族にも似た、無謀な若者のグループを支持したが、さすがにその「ラファエル前派兄弟団」の名前を「いささか滑稽な」と評した。
しかしながら19世紀の中葉、停滞した英国ヴィクトリア王朝美術の復興は、無謀で大胆な、美術学校の学生運動ともいえる、若者たちの破壊的な挑戦からはじまったことだけは特記されてよい。
─── それにしても現代の若者は「よゐこ(ぶった)」が多いとおもう。若者は生意気で、挑戦的であって良いのだ。そして老人はやかましくて、口うるさくて良いのだ。─── 話柄がそれた。戻りたい。

★ ラファエル前派第二世代/ジョーンズとモリスの登場とラスキンの支援継続
「ラファエル前派第二世代」とされるのが、画家のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-96)、ウィリアム・モリス(1834-96)である。このふたりはロイヤル・アカデミー(王立美術学校)の学生が中心だった第一世代とは異なり、オックスフォードのエクセター・カレッジに入学し、神学を学んだ。ふたりを結びつけたのは中世文化への傾倒だったが、その後急速にキリスト教社会主義と、ラスキンの社会思想の影響を受けるにいたった。

ジョーンズとモリスにいたって、あまりに教条主義的だった「ラファエル前派兄弟団」の写実性は、穏当なアルチザン(技芸者)とアーチスト(工芸者)のものへと変容を遂げた。かれらはまた書物と活字にも目を向けた。ここからはすでに語り尽くされ、わが国では「◯リス神話」まであるので割愛。

吾輩、すっかり若者の熱気にあおられ、久しぶりに血が熱くなった。展観を終えて、外に出ると、はや日はどっぷり暮れて満天の星。汽笛がボーッと鳴る。ほぼ桃源郷に遊ぶこころもち。
お腹がすいたので、走水神社前の和食店 ── というよりふるぼけた食堂に飛び込む。これがまた !! いいんですねぇ! ことばを失うほどのうまさ。そして安いときているから、いうことなし。

老店主は漁士で、息子夫婦が地魚の食堂を経営しているようだ。ピチピチのアジの刺身、サザエ、地タコ、ナマコを食す。いうことなし。もはや美術と美食で満腹であるぞ。そういえば「美食同源」だったな、イヤ「画文同源、画文一致、そうか医食同源」だったかな? もはやなんでも良いぞ。旨かったから。

おお、忘れるところだった。
同館所蔵品特集《藤田 修 ── 深遠なるモノローグ》が常設展示場の一室で開催されていた。ここではじめて藤田修なる版画の異才を知った。とりわけフォトポリマー・グラヴェール技法と、レタープレス(活版)による「生まれるのに時があり」の作品に凍りつく。
「版画よ、額縁から脱出せよ!」「活版印刷よ、額縁にとりこまれるな!」── と念じているやつかれにとって、まさに欣快、ポンと膝を叩いて、やったな! の作品であった。
「やっぱりいたか。こんな造形者が、わが国にもな~」
のおもい。図録を 2 冊買って帰りの電車でみていたら、ナント! こちらの図録のデザインは、これまた新宿私塾修了生Mクンだった。みんなあちこちで活躍しているなぁ。トいたく感激。

《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》は‘10年12月26日まで。23日(天皇誕生日)と、この週末の休みもある。その気になれば新宿から1時間半。荒らされるからあまり教えたくないが、美術館から徒歩 5 分、走水神社バス停前(行けばすぐわかるはず)には、新鮮・旨い・安い(店主夫妻は無愛想だし、チトきたないけどネ)、地魚食堂つきの旅である。図録は二点ともとてもすばらしかった。できたらこの週末、再度いきたいものである。

2010年12月18日[土]、一点の雲無き快晴。21日[火]重い雲がのしかかる。曇天なり。日日之好日

【朗文堂好日録】弥生三月春をまつ ── 再録/わっせクン、才助とかわす朝の挨拶+早春賦

花筏-京都・哲学の道1【 花筏 : タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏での花筏 2013年12月28日 】

もともと <花 筏> には、日日のよしなしごとを、気軽にしるしてきた。なかんずく、「 朗文堂好日録 」 には、もろもろのことどもを、おもいつくままにしるしてきた。
それが良かったのか 悪かったのかしらないが、おもいのほか(横暴かつわがままきわまる)固定読者がいて、すこしでもアップロード(掲載)をおこたると、「躰の具合でもわるいのか」 と心配(のフリ)をしてお便りを頂戴したり、ときには「サボるな!」 とメールで叱責されたりする。
──────────

あちこちにしるしてきたが、ノー学部がベランダいっぱいに煉瓦を積みあげ(それ以降は放置)、さまざまな艸艸を植え、たいせつにしてきた(やつがれ)「 空中花壇 」を、マンションの補修工事のために、ロダンの椅子(100円ショップで購入のバケツを裏返したものダケド)もろとも完全に撤去されてしまった。

万事にしまりが無く、だらしないやつがれではあるが、唯一自慢できるのは、こよなく喫煙を愛するがゆえに、布団にはいっての 「 寝たばこ 」 はしないことである。
この誇るべき、うるわしき習慣は、まだ田舎の中学生のみぎり、布団をひっかぶって 「 かくれたばこ 」を吸っているうち、つい心地よくなってうたた寝をして布団を焦がしてしまい、火傷を負ったあげく、オヤジに張りとばされたことによる。
したがってそれ以来、寝室というより自宅内では喫煙はしないし、もちろん灰皿もおいていない。 ただし日中はきりなく喫煙するので、最近は威勢の良い嫌煙家の諸君・諸嬢からはきらわれる(虐められる)ことはなはだしい昨今の窮状である。DSCN7958DSCN7987DSCN7990DSCN7989DSCN7994DSCN7977というわけで、寝起きのたばこは、寒かろうが、暑かろうが、ベランダで吸う。
これがまた、ことのほか旨いのである。 思索に耽る ?!  ための 「 ロダンの椅子 」は、植木鉢を裏返したものに読了した週刊誌などを積んで復元させたが、それでも「空中庭園」はさびしかった。ようやく今春から球根が芽ばえ、花卉の花蕾もふくらみかけている昨今である。
ところで、ながらくベランダの手すりの一画を占拠している異物が<わっせクン>である。<わっせクン> はバレンタイン モトイ ハロウィンのとき、ノ ー学部がなにかのついでに100円ショップで買ってきた。

価格は安いが、ソーラーパワー(太陽電池)がどこかに内蔵されているらしく、陽射しがつよい日には「わっせ、わっせ」 と左右に躰をはげしく振動させてもう三年ほどになる。ただそれだけのものだが、目覚めの一服のさなかは、たったひとりの朋輩であり、見飽きることがない。 だからベランダにでると、まず、勝手に名づけた <わっせクン> と挨拶、顔合わせをつづけている。DSCN8651DSCN8664DSCN7994< 才助 > は、鹿児島市長田町の「五代友厚生誕地」をたずねたとき、石垣の割れ目にチンマリと張りついていたちいさな野艸を、三株、たばこの空き箱にいれて持ち帰ったものである。
かにかくに、五代友厚(1836-85 幼名:徳助、通称:才助) は、近年NHKの朝ドラに登場してだいぶ知られる存在になってきた【ウィキペディア: 五代友厚 】。鹿児島の<才助>は 、石垣の割れ目ではいかんせん気の毒な感じがしたのでわずかばかりをもちかえった。この艸に、油かすの肥料をたっぷりあたえて鉢植えにした。

残念なことに移植の直後、一株はカラスにもちさられたが、冬だというのにみるみる成長した。この艸の名前はわからなかった。 名前がないのもなにかと不便だから<才助> と名づけて成長をみまもっていたが、どうもたんなるデージーのような気がしないでもなかった。
それならそれでも良い。 やつがれ、五代才助こと、五代友厚の 稚気にみちた才覚が好きであるから……。
のちに花をつけてからわかったことである。恥ずかしながら …… 、<才助>はハルジオンとかヒメジオンとよばれるきわめて繁殖力のつよい植物で、どこの空き地にも自生している艸で、世間では雑草とよぶものであった。

それにこりず、ことしもまたノー学部はやらかしているようで、鉢植えの櫻から、冬のあいだに芽吹いた艸を「野アザミ」の一種だとおもったらしい。ここのところの陽気で芽株がふくれあがってきたが、数年前に失敗したノゲシ、それもおそらく凶悪なオニノゲシのようでもある。
いつかオニノゲシのすさまじさを紹介するときがあるかもしれない …… 。
──────────2013年清明節に咲いた菜の花。DSCN9993上掲02点の写真は、上が菜の花、下が野沢菜である。

菜の花はかつて「空中庭園」での栽培で、年末にサラマ・プレス倶楽部の忘年会に供した。「野沢菜」は、ベランダでの鉢植えで育てた。
やつがれのふるさと、信州最北部では、菜の花よりも野沢菜の開花をたのしむふうがあった。ことしは菜の花のふりをした野沢菜の開花をみるために、正月元旦に(ひまだったから)鉢いっぱいにレンゲ草とまぜまぜにして播種した。 いまはようやくフタバをつけたところである。やつがれ、雪国うまれではあるが、関東平野の乾燥した寒さをおおいに苦手とする。
春をまつこころ、切なるものがあるこのごろである。

春を待つこころ ー 早春賦の碑

早春賦20141125122934304_0002唱歌『早春賦』(そうしゅんふ)は、1913年(大正02年)に発表されたもので、吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌。
この時代の唱歌によくみられるように、モーツァルト作曲の歌曲『春への憧れ』K.596 との曲想の類似性が指摘されている。この歌碑は、春の訪れがおそい、長野県安曇野市穂高の穂高川の岸辺に建っている。
その脇には、北アルプスの湧水をもちいた「わさび田」がひろがっている。
弥生三月中旬、このあたりはまだ残雪にうもれているはずである。 春をまつこころ、せつなるものがある。
[ 2014年11月23日 撮影 ]

この季節はまた「三寒四温」ともいう。ようやく春めいてきたとおもうと、また寒気がぶり返したりする。3月21日[火]は春分の日であるが、天気予報では関東地方は雨で、ところにより雪まじりとなるらしい。やれやれのきょうである。
DSCN9371DSCN9376DSCN9360DSCN9379DSCN9365DSCN9367【 YouTube : 早春賦   由紀さおり & 安田祥子 】
【 関連情報 : 早春賦の碑  ほかのブログに移動します 】〔初出:2015年02月04日〕

【図書紹介】 北方謙三<大水滸伝>全51巻完結! 伝説も去りて、残るは物語のみ。君に語れ、漢オトコらの物語。『岳飛伝』17巻文庫版刊行開始 ― ケンゾーの小説は脳にも躰にもわるいとおもう

main05[1] main06[1] 《活字・図書離れが語られ、取次・書店の不振もあらばこそ――怒濤の勢いの北方謙三》
テレビ・新聞・図書出版・雑誌・印刷・製本など、ほとんどのメディア産業が総崩れとされ、青息吐息、気息奄奄、意気消沈のさなか、ひとり<集英社 北方謙三大水滸伝コーナー>が気を吐いている。
ここには先の<Club 楊令伝>のときと同様に<Club 岳飛伝>が結成され、逐次刊行される文庫版の発売日直前に、北方謙三名義で集英社から下掲のようなメールが配信される。

登録、ありがとう。これから、月に一回ずつメッセージを送る。
『岳飛伝』の本筋には関係ないが、知っているとにやっと笑ってしまうような、そんなことが伝えられればいい、と思っているよ。
じゃ、今度の発売日に。 北方謙三
     集英社文庫 『岳飛伝』読破応援企画 ・ Club 岳飛伝

つまりやつがれ、北方謙三(以下ケンゾー)の読者(けしてファンではない⁉)として、<Club 楊令伝>のときと同様、<Club 岳飛伝>にも参加している。
20161124215858_00001
北方謙三『岳飛伝 第一巻 三霊の章』 四六判図書

したがって、『大水滸伝』全51巻のうち、『水滸伝』全19巻の四六判図書と文庫版、『楊令伝』全15巻の四六判図書と文庫版をすでに所有し読破ている。もちろん『岳飛伝』全17巻の四六判図書は購入済みである。
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{新宿餘談}

ケンゾーの粗放で語彙のすくない(失礼。豪放にして簡潔な)文章を読むと、なまの立木に一刀彫りで刻んだ円空仏をみたような妙な衝撃がのこる。
つまりことしの05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついにというか、ようやく、北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結して安堵した。

たまたま家人が書棚をすこし整理してくれた。それを好機としてケンゾー離れを意図して、ほかの作家の図書にとり組んだがどうもうまくいかない。
とりわけ併読していた宮城谷昌光や、葉室 麟、浅田次郎はかえって抵抗感があった。
そこでふるい蔵書の三島由紀夫や川端康成など、語彙を駆使し、情感たっぷり、丁寧に書きこまれた図書に触手をのばしたものの、リズム感に欠け、情景描写が多すぎたりして鼻についた。

つまりケンゾーは憑くのである。憑いたが最後はなれないから、躰にも脳の発達にも悪影響があるような気がする。
とどのつまり、ミシマもカワバタも中途で挫折して、結局はケンゾーの『史記』と『三国志』をもう一度読みなおしている惨状下にある。

ケンゾー『史記』は全七巻、ケンゾー『三国志』は全14巻である。
もともと吉川英治の『三国志』で長編小説のおもしろさを知り、司馬遷の『史記』に読みふけったやつがれであるからして、ケンゾー作品は原典無視もいいところである。したがって地下にある原作者にして厳格をもってなる史官の司馬遷は、ケンゾーの『史記』の存在を知ったら、悲嘆にくれるに違いないとおもえる。

ところがケンゾーはそんなことは一切頓着せずに、速く駈ける軍馬のこと、馬の乳から醸った酒はまずいが米の酒はうまいだの、射殺した鹿の骨つきのナマ肉に、手づかみで喰らいつくだの、死の床で家族に手を握られながら迎える漢オトコの死など、恥辱以外のなにものでもないなどととわめきちらし、戦場に疾駆し、全身に矢をあびてなお倒れず、絶命するのが真の漢の死だと断定するのである。こんなケンゾーにはただただ呆れるしかなかった。
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集英社からケンゾー名義の@メールがきた。
集英社文庫『岳飛伝』全17巻が11月18日[金]から発売されるとあった。
その日は帰宅をはやめ、近くの書店でケンゾーの集英社文庫『岳飛伝 第一巻 三霊の章』を買った。
うれしくもあり、どこかなさけなくもあった。
繰りかえすが ケンゾーは憑くのである。憑いたが最後はなれないから、躰にも脳の発達(衰退の促進)にも悪影響がある気がするのである。
これがして、ひそかに読者諸賢におすすめするゆえんである。
岳飛伝

【朗文堂好日録】 水も土も凍りはじめる立冬というのに、空中花壇の園芸家はいまだ多忙なり

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《 畏友 杉本昭生[活版小本]によれば 11月07日 水がはじめて凍るとき――立冬とする 》

活版小本そもそもブログや SNS で犬や猫をテーマにするのは禁じ手ではなかろうか。
犬も猫もあまりに、そして無条件にかわいいし、さまざまな愛らしいポーズもとってくれる。
京都吉田山に居住する杉本昭生さんは、季節のうつろいをブログ上にえがきだしてみごとである。今回は画像の一部を拝借した。ここには当然犬猫のたぐいは登場しない。

やつがれは犬も猫もだいすきである。以前は同時に犬も猫も飼っていたが、喘息によくないからと医者に飼育をストップさせられた。その恨みと焼きもちの気分もすくなからずある。
そこでいつもの「空中花壇」の話題に転じよう。

DSCN8651 DSCN8664DSCN7994吾が 「 空中花壇 」 の造園家は迂闊で、しばしば播種のときをはずすし、季節はずれの艸花をムキになって育てたりしている。
また、世間では「雑草」の代表のように唾棄する野草を、わざわざ 鹿児島の五代才助(友厚)生誕地から採取 して 「 才助 」 と名づけて育ててきた。


そもそもやつがれ、「 雑草 」 という名の艸はないと心底おもっているから、懸命に育てていた。やがて 「 才助 」 は野菊に似たちいさな花をつけた。 それはわざわざ鹿児島から持ちかえるまでもなく、東京でもどこの空き地にでも繁茂している、まぎれもない「 雑草 」 だったが、名を調べないまま枯れるまで見まもっていた。

【 花筏 : 朗文堂好日録039-春を待つ日日。わっせクン、才助とかわす朝の挨拶 2015年02月04日

《 そもそも、ハロウィン ・ グッズを花壇に持ちこむ不逞のやからがいるからして…… 》
10月31日は 「 ハロウィン 」 である。
昨今のハロウィン祭りは、アメリカ経由のカラ騒ぎの面がみられるが、本来のハロウィンは、紀元前1000年ころに中央ヨーロッパを席巻した 古代ケルト人 が起源の祭とされ、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事である。
ケルトの「 文  ≒ 紋学 」 [ウィキペディア画像集]は、「 字学 」 と同様に興味がつきないが、現代の視点からみると、多くの古代文化の造形と同様に、面妖で怪奇な面もなくはない。

吾が「 空中花壇 」 に、ちいさなカボチャを頭にして、三年ほどまえから鎮座ましましているのが 「 わっせ君 」。 これはバレンタイン モトイ ハロウィンのときに ノ ー学部がなにかのついでに100円ショップで買ってきた。
価格は安いが、ソーラーパワー ( 太陽電池 ) がどこかに内蔵されているらしく、いまでも陽射しがつよい日には 「 わっせ、わっせ 」 と左右に躰をはげしく振動させている。
ただそれだけのものだが、目覚めの一服のさなかは、たったひとりの朋輩であり、見飽きることがない。 だからベランダにでると、まず、勝手に名づけた 「 わっせクン 」 と挨拶、顔合わせをつづけている。

[ノー学部] わたしのガラ携動画で撮ったので画質が悪いのですが、片塩さんのベランダ喫煙の友「わっせ君」の動く様子です。一年365日、ベランダで頑張っている健気なやつです。

ことしはやつがれが丹精している赤と紫のペチュニアふた株の植木鉢に、失敬千万、けしからんことに、いつの間にかコウモリがついた風車のようなハロウィン・グッズが居座っている。これもノー学部の仕業に違いない。
このペチュニアは過酷な夏、それもエアコンの室外機が吐きだす熱風にまけず、花をつけ続けた愛着のある艸花であるのに。

ところで、長岡栃尾の 「 紙漉 サトウ工房 」 でも味わいのある草木染めをみた。とても味わいがあってよかったが、やつがれはだいぶ前から、いつか草木染めに挑戦しようという意図があって、密かにこの花柄を摘んで空き瓶に貯めている。
DSCN8422このごろすこし赤花のパペチュアが元気がないなとおもったら、なんと、
せまい植木鉢から  「 才助 」 がニョキニョキと芽ばえていた。考えてみたらこの植木鉢はかつて 「 才助 」 を育てた鉢だった。
もちろん移植に際して土替えはしたが、なにしろ悪名とどろく 「 雑草 」 のことゆえ、どこかに種子をのこしていたらしい。
それでも隣のピンクのベゴニアの花は、なんとなく草木染めには適さないとおもっていたし、ペチュニアの赤い花も、紫の花にくらべると
すこし力感に欠けると……。だからいまは、おそらく 「 才助 」であろうが 、ニョキニョキと伸びるがままにしている。
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すこしうれしいのは、ちいさな苗で買った香草がげんきなこと。「ホットリップス」、「レモン・マリーゴールド」、「セージー」などが次〻に花をつけている。原産地はメキシコ高地の植物だというからこのまま冬を越しそうな勢い。

《 畏友 : 杉本昭生「活版小本」によれば11月12日からは立冬 次候 : 地始凍とするが 》
553[1]11月も半ばとなった。古来の暦法、二十四節季、七十二侯によれば、すでに立冬で、水も土も凍りはじめるときらしい。
ところが「空中花壇」の園芸家は、摘芯のときをわすれ、背丈だけやたらに伸びて、颱風のおり、支柱のさきから半分枝折れしてしまったミニトマトをいまだに育てている。
ミニトマトとしては、夜などは摂氏10度を下まわる寒さのなかで結実するのは、さぞかしたいへんなこととおもわぬでもない。
DSCN8415反対側の壁面には、熱帯植物 : 雲南百薬 {おかわかめ} と、謎の巨大植物 {メキシカーナ} がげんきである。
既報のとおり、最近 {おかわかめ倶楽部} という奇妙な会が誕生し、あちこちの黒ポットにムカゴや挿し芽の{おかわかめ}が寒風に震えながらも育っている。
念のためにしるすが、{おかわかめ}はあくまで熱帯地方の草花である。かような立冬のさなかに増植すべきものではないはずだとおもう。
DSCN8411 DSCN8400 DSCN8397──────────
11月12日[土]、寒い朝だったが陽光がベランダに射していた。
そんな朝、「立冬 地始めて凍る」と京都の畏友が予告しているにもかかわらず、早朝からたたき起こされた。
「たいへん、たいへん、またトロロアオイが咲いてるよ」
冗談ではない。やつがれ今日か明日かと待ち望んでいた、ひこばえから健気に結花しようとしているトロロアオイのことなど十分に知っていた。
せっかくの休日だったが、ともかくこの花の開花時間はみじかい。そこで眠気まなこをこすりながら、間違いなくことし最後であろう「トロロアオイ」の花を観賞した。

嗚呼無情、こののちわずか、朝食の木綿豆腐の上に、長寿の薬草{おかわかめ}と、{トロロアオイ}の花が一輪、ちいさく刻まれて載り、いつの間に採取したのか、赤くなったミニトマトが数個、トーストの脇に転がっていた。
そのとき、椋鳥かなにか、つがいの渡り鳥が{メキシカーナ}にやってきて、ギャーと啼いた。 

【花筏】 きょうは中秋の名月 されど 迫りくる颱風が心配 トロロアオイが大輪の花をたくさんつけました 月餅と最中がおいしい季節

DSCN7554DSCN7557DSCN7558DSCN7564停滞する秋雨前線、連続して襲来する颱風。どこか妙な昨今の天候。
だからすっかり中秋をわすれていた。それをグーグルに教えられるとはなさけない次第。
吾が空中花壇は、陽ざしが傾くとともに秋桜(コスモス)が咲き、秋の気配が濃くなった。
「トロロアオイ」は、二年年越しの株と、ことし五月初旬に播種した二鉢ともに、あわい黄色の大輪の花をつけはじめた。

ノー学部は昨今はミニトマトをはじめ、実のなる艸木からの収穫が減り、ほとんど「空中庭園」を荒らしまわることが無いが、たまになにかゴソゴソやっていて、早くも「かぼちゃ祭り ハロウィン」の気分らしい。
やつがれは衣食住にほとんど容喙することはないが、南瓜(カボチャ Pumpkin)、甘藷(薩摩芋)、煮た栗だけは苦手とする。だから阿呆な「かぼちゃ祭り」はやめてもらいたいのだが。

目下の関東の空模様では、昨夜も今夜も名月は望むべくもないが、せめて今夜は「月餅」か「最中 もなか」でも愉しみたい気分。

《 菓子の 月餅と 最中モナカ の季節感とは 》
わが国の暦コヨミから季節感が乏しくなって久しいものがある。
そもそもほとんどのひとが、祝日(特に国でさだめた、いわいの日)と、祭日(皇室の祭典をおこなう日。神道シントウで死者の霊をまつる日)の違いがわからなくなっている。ましてかつて存在した「旗日」などということばは、ほぼ死語となっている。
また、暦ならぬカレンダーのおおくは、日曜と祝日が平日とは色違いで表示されるくらいで、その日がいったいなんの祝いの日で、どうして休日になっているのかわからないままのことが多い。

DSCN7232[1] DSCN7282[1] DSCN7264[1]ところで「月餅」と「最中」である。
わが国ではいまや、ほぼ四季を問わずみかけるお菓子であるが、中国の習慣では月餅も最中モナカも、もともとは秋の、それも秋のさなか、仲秋(中国では中秋)のお菓子である。

気候の苛烈な中国にあっては、餡アンを主体として水分の多いこれらのお菓子は、夏ならすぐに腐敗するし、冬ならまもなく凍結してしまう。
これがおだやかな気候のわが国にもたらされ、さまざまに工夫され、また保冷 ・ 保温設備(かてて加えて防腐剤)の普及などもあって、四季を問わずに食せる、わが国にすっかり同化したお菓子となった。

「最中」とはおもしろいことばである。
すなわち漢の字の最中は、「最中 さなか ・ さいちゅう ・ もなか」とさまざまによまれる(和訓)。
お菓子の「最中モナカ」は、餅米の粉を蒸し、それをうすくのばして、餡をつつみこんで、月餅と同様に、陰暦の初秋、仲秋、晩秋の 「秋の最中サナカ、仲秋 ・ 中秋」 につくられ、食されていたものである。

この最中の由来には若干異論もあろうが、本来は望月 ≒ 満月を模して丸い形をしていた。それがいまや各地の名産品となって、形もさまざまに変化し、パンダ最中、くまモン最中までが登場するようになって、日持ちのよい、わが国のお菓子となった。
したがっていまや、秋よりは食感がおとるものの、真夏や真冬に「月餅 ・ 最中」を食そうと、それはそれで良いのではないかとおもっている。

《 中国の中秋節は09月中・下旬に設定され、三連休となって秋の行楽のときとなる 》
古来の暦法にならい、中国では翌年の祝日を、12月中旬になってから法定祝日として政府が発表するそうである。これではカレンダー製作業者などはおおごとかとおもえるが、
「秦の始皇帝のころから、暦はそうなっています」
と、平然としているのが中国人の奇妙さでもある。したがって09月中旬の現在、来2017年の法定祝日はまだ発表されず、あくまで予想である。
【 リンク : 中国の祝日 2016年カレンダー/2017年 予想

いまの中国の法定の祝日には、元旦 ・ 春節 ・ 清明節 ・ 労働節 ・ 端午節 ・ 中秋節 ・ 国慶節などがあり、元旦(新暦の正月)は01日、春節(旧暦の正月)と、国慶節(1949年中華人民共和国建国記念日。10月01日)は07日、それ以外の祝日は03連休となる。
ちなみにことしの中国の中秋節は09月15日で、休日は15日[木]-17日[土]の三連休、実際には日曜日を加えて四連休となっている。

ノー学部がはじめて中国を訪れた2011年は、たまたまこの「中秋節」の休日にぶつかって、各地で観光バスでやってくる観光客の大混雑に巻きこまれておおいに閉口した。
中国南宋のみやこ、杭州(臨安)を訪れた日がまさにその中秋節で、日中は残暑と人混みですっかり疲労した。

 
夕暮れの西湖1 西湖の中秋の月【 参照 : 十五夜のお月さま―― 月に叢雲ムラクモ、花に風といいますね。月餅と最中

【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

プラハ[1]

5317183b8e979c2d28ba03fb44bf5b30[1] Kafkasd2[1] DSCN0428 DSCN0430 DSCN0436 DSCN0439チェコの首都プラハは「モザイクのまち」「文明の十字路」「塔と黄金と革命の都市」「建築様式の宝庫」とも評される。わが国の京都と姉妹都市でもあり、まちの規模や歴史の重厚な蓄積には共通点が多い。
このプラハに2014年09月、2016年08月と二度にわたる旅行をこころみた。いずれもモスクワ経由で三泊五日のあわただしい弾丸旅行であった。

《 プラハ城場内 : 黄金の小径 22番 フランツ・カフカ作品執筆地のひとつ 》
やつがれは、いなかの高校生のころ、ユダヤ系プラハのひと、フランツ・カフカの作品にはまったことがある。当時はまさかその生家をたずね、その執筆場所のひとつを訪問し、墓参ができるなどとは考えたこともなかった。

《 アールヌーヴォーの旗手の変貌 Alphonse Mucha アルフォンス・ムハ or ムシャ 》
旅の同行者 : 大石は、いなかの高校生のころにアルフォンス・ムハの絵画に衝撃をうけたという。1989年(平成元)北海道立近代美術館を中心に「没後50年 アール・ヌーヴォーの華 アルフォンス・ムシャ展」が開催され、髙島屋を中心に全国巡回展が催された。福岡の美術館でも開催され、その四半世紀余も前の展覧会図録はいまだに本人の宝物らしい。

20160830172215_00001 20160830172215_00002「Alphonse Mucha」はチェコでうまれ、パリでデビューし、米国で美術教育にたずさわった人物である。わが国ではフランス音で「ミュシャ」とされることが多いが、明2017年に『スラヴ叙事詩』を中心として東京でおおきな展覧会が予定されている。

『スラヴ叙事詩』は、人気画家、アール・ヌーヴォーの旗手として官能的な女性を描いていたムハを想像するとおどろくことになる。この大作はちいさなものでも4メートル四方、おおきなものでは8×6メートルもある巨大な作品である。
パリとアメリカを往復して活躍していたムハが、1908年(明治41)ボストン交響楽団によるスメタナの『わが祖国』をきいてひどく感動し、余生を祖国チェコ国民とプラハ市に捧げるべく無償で描いた20枚の連作である。
ムシャ大作製作中 DSCN0262 DSCN0100 DSCN0101《 兄・造形家:ヨゼフ・チャペック Josef Čapek 弟・作家:カレル・チャペックKarel Čapek 》
さきごろ報告したが、かねて『園芸家12カ月』(カレル・チャペック 小松太郎訳 中公文庫)を読んでいた。
2014年晩夏、三泊五日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。
そのとき、画家にして装本家:兄 ヨゼフ・チャペック と、作家・戯曲家:弟 カレル・チャペック の墓をチェコプラハの民族墓地にたずねた。
カレルの墓標は、まさに現代の多段式ロケットの形態そのものであり、ヨゼフの墓はその背後にひっそりと佇んでいた。
891ebad257c3d67fdff8b3805a300815[1]仔細に読むとわかるが、この日本語訳の『園芸家12カ月』の表紙の写真はカレルが本書を執筆した場所とはことなり、結婚して晩年に居住していた場所である。
ヨゼフとカレルの兄弟が居住していた住居は、それぞれ門を構えたおおきな二世帯住宅で、プラハ10区に現存している。
DSCN0027 DSCN0005 DSCN0017 DSCN0018 DSCN0025 上掲写真の向かって右側が弟・カレルの住居、養蜂箱がおかれている左側の玄関が兄・ヨゼフの住居であった。
ふたりはこの建物にともに住んでいた。そしてカレルは結婚後に郊外に住居を求めて移転し、兄・ヨゼフはゲシュタポにとらわれ収容所で歿したが、子孫が現在もここに居住しており、プラハ市10区は、とりあえずカレルの住居跡を購入・管理しているが、まだ一般公開はされていない。

ヨゼフとカレルの共作ともいうべき『山椒魚戦争』がのこされた。同書はどんな名訳を得てもその魅力の半分も伝わらないおもしろい書物である。
今回のプラハ行きは、たまたま国費留学でプラハのカレル大学に留学されていたサラマ・プレス倶楽部会員:博士山崎氏と、プラハ在住10年余という友人:平松さんの支援をいただくことができた。事前のメールの交換で『山椒魚戦争』のチェコ語版のいくつかを購入できた。
近近撮影データとともにご紹介したい。
DSCN9934(25%縮小) DSCN0702(25%縮小) DSCN6316(25%縮小) DSCN6327(25%縮小) DSCN6331『プラハ迷宮の散歩道 ―― 百塔の都をさまよう愉しみ』(沖島博美 ダイヤモンド社)の冒頭ではプラハの魅力をこのようにしるしている。

プラハは奇跡だ、と人は言う。
何百年もの間に多くの戦争が起こった
それでも町は破壊されなかった
中世の町並みがそのまま残った

神聖ローマ帝国の偉大な皇帝カール四世は
プラハが最大の帝都になることをめざした
14世紀、プラハは神聖ローマ帝国一の大都市となった
その栄華がこんにちのプラハの基礎になっている

重厚なゴシック建築の間に輝くアール・ヌーヴォーの館
時代を超えて美しく調和する様ざまな建築様式
この美しい町は奇跡ではない
プラハ市民が命をかけて守ってきたものなのだ

以下はやつがれの備忘録であり、ご紹介予定の項目である。
◎ ムハ関連:ムハ美術館、ホテルパリ、プラハ市民会館、民族墓地、スラヴ叙事詩
◎ チェコの魅力:キュービズム建築、石畳、市電、技術博物館、アドルフ・ロース、ビールと煙草

【朗文堂好日録】 梅雨があけた。夏が来る ー ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな : 正岡子規+ボヘミアン チャペック兄弟のことども

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DSCN9636 DSCN9632昨年の早春、ビルの保守工事で、ベランダに煉瓦をつんでつくった、手づくりの「空中花壇」が、お気に入りの「ロダンの椅子」ともどもそっくり破壊・撤去されてしまった。

ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな

― この小園は余が大地にして 草花は余が唯一の詩料となりぬ   子規庵 ―
正岡子規(俳人・歌人 1867-1902) 「小園の記」より

わがベランダにあった「空中花壇」には、「根岸 子規庵」の庭園には比べるべくもないが、それでも雑多の艸〻がそだっており、煉瓦の裏側には野バトの巣もあった。
工事がおわったあと、寒〻としたベランダになったままきょうにいたる。
5ac10d6d67e779732659874f8ba65ff4[1] DSCN7232[1]いまベランダ庭園で妍をきそっているのは、トロロアオイとハイビスカスである。どちらも大輪の花をつぎつぎと開花させ、楽しませてくれる。

ようやくちいさな鉢植えの艸花とはいえ、ベランダ庭園がよみがえりつつあるのは、トロロアオイが衰弱し、わくら葉のまま、なんとかちいさな花をつけたことによる。

トロロアオイの花にはちょっとしたおもいいれがある。
昭和10年代、中野の早稲田通りにあった、アオイ書房社主にして、伊勢辰酒店主人だった志茂太郎に関することどもである。

活字狂を自認していた志茂太郎は、中國での泥沼の戦争から太平洋戦争にむかう時局下に展開された「変体活字廃棄運動 当時の表記:變軆活字廢棄運動」に義憤を感じ、それをみずからの愛書誌『書窓』に発表した。
そのため特別高等警察(特高)によって戦争末期の1945年(昭和20)に強制疎開を命じられ、郷里岡山への帰郷を命じられた。
いまは故郷「山の城」の宏大な志茂家塋域にねむるひととなった。

このことはあらかた『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗 朗文堂)にしるしたが、志茂家塋域をたずねたとき、なかば自生化したトロロアオイがたくさん初夏の風にゆれていた。
晩夏になると淡紅色の大輪の花をつけるのだとうかがった。

このトロロアオイの種子のもとは、2009年05月に都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいた数株の苗にはじまった。

◯ 活版 à la carte 年越しの古株からトロロアオイの花が咲きました 2016年5月1日
◯ 活版 à la carte 一週間の中国出張。すっかりよみがえったトロロアオイが大輪の花をつけて迎えてくれた 2016年6月7日

チャペック01さきごろ『園芸家12カ月』(カレル・チャペック 小松太郎訳 中公文庫)を読んでいた。
2013年晩夏、三泊四日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいったことがある。
そのとき、画家にして装本家:兄 ヨゼフ・チャペック と、作家・戯曲家:弟 カレル・チャペック の墓をチェコプラハの市民墓地にたずねた。
カレルの墓標は、まさに現代の多段式ロケットの形態そのものであり、ヨゼフの墓はその背後にひっそりと佇んでいた。

チャペック02弟:カレル・チャペックは、第一次・第二次大戦間のチェコスロバキア(ボヘミア)でもっとも人気のあった国民的作家である。
戯曲『ロボット (R.U.R.)』において、「労働」を意味するチェコ語:robota(もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)から ロボット ということばを兄と共同でつくった。また趣味をこえた愛園家を自負し『園芸家12カ月』をのこした。

カレル・チャペックは『ロボット』につづき、ロボットを火の精霊サラマンダー(山椒魚)にたとえ、より擬人化した長編小説『山椒魚物語』をのこしたが、そのなかでヒットラーとナチを諧謔をこめて痛烈に批判したため、ゲシュタポは1939年3月15日プラハを占領した際、いちはやくチャペックを逮捕するためにチャペック邸に乗り込んできた。

ところが、その前年12月25日、クリスマスの日にカレル・チャペックは死亡していた。
その死因は真冬の豪雨のなか、愛しぬいた庭園の手入れにあたり、それがもとで肺炎になったためとされている。その後におこったボヘミヤの不幸をおもうとき、『園芸家12カ月』の作者としては、ある意味本懐だったかも知れない。
それを知らず踏みこんで来たゲシュタポに、オルガは夫カレルはすでに四ヶ月前に歿したことを冷たく告げたという。、
そして造形家の兄:ヨゼフ・チャペックはゲシュタポに逮捕され、収容所に歿した。

装本家であり、造形家のヨゼフ・チャペックを中心としたおおきな展覧会がわが国でも開催されたことがある。
◯ 『チャペック兄弟とチェコ・アヴァンギャルド』(神奈川県立美術館 2002年)
◯ 『ブックデザインの源流を探して チェコにみる装丁デザイン』(印刷博物館 2003年)

作家であり弟のカレル・チャペックにとって(わが国では)不幸だったのは、「SF作家」と分類されたことだったかもしれない。
サイエンス・フィクション(英語:Science Fiction、略語:SF、Sci-fi、エスエフ)は、わが国では科学小説、空想科学小説とも訳され、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称であるが、メディアによってはSF小説、SF漫画、SF映画、SFアニメなどとも分類されている。
そのため20世紀前半、おなじプラハ出身の フランツ・カフカ(1883-1924) の幽玄的な作品は、実存主義的見地から高い評価があるのに比べると、いくぶん軽んじられるふうがあるのは残念である。
ロボットが空想科学ではなく、いまや現実となってさまざまな分野で活躍している現在、カレル・チャペックはもっと評価されても良いのではないかとおもう。

2013年晩夏のプラハ行きはあまりにも予習不足だったし、ひさしぶりの欧州旅行への不安もあった。したがって前回のプラハ行きに物足りないところがあって、ことしのお盆の休暇に、またまた疲れにいくようなものだが、三泊四日の弾丸旅行でプラハ再訪をねらっている。
DSCN5878 DSCN6107 DSCN6105チェコプラハへの直行便はないので、ロシアのアエロ・フロートでモスクワにいき、そこでプラハ行きにトランジットした。プラハの旧市街は石畳、それもちいさな石をモザイク状に並べたものが多い。パリやウィーン経由でやってくるハイヒールの女性旅行者は、プラハではまずスニーカーの購入が必須となる。

◯ 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ
◯ 花筏 朗文堂好日録046 - 喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-02 プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

そんなこともあって、また『園芸家12カ月』をのこしたカレル・チャペックに触発されるところがあって、園芸とはいえないが、わが「空中花壇」にもすこしこころ配りをくわえている。気配りといっても水遣りを丹念にやり、10日に一度液肥をあたえるくらいのことである。
DSCN9642 DSCN9637「空中花壇」には名は忘れたが香草もいくつか植えられている。花は可憐でよい。
近所の花屋で160円で購入したミニトマトの苗も、ことしは順調に生長し、実をつけた。
ここで困るのがノー学部。気まぐれで花壇にやってきて、ハイビスカスはこの花壇にふさわしくないと文句をいう、(やつがれも内心では失敗とおもうが)抗弁する。
「そんなことはない。花が咲けばスミレでもタンポポでもオレは好きだ」
ノー学部はそれにかまわず、唯一の農具:小型のハサミで香草をチョキチョキやる。ミニトマトもしっかり収穫してしまう。
昨夜、投票終了直後、八時の時報とともに結果が判明した都知事選の開票速報を、幾分しらけた気分でみながらそれを食した。
ミニトマトはとびっきり旨かった。

【東京国立博物館】 特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」

20160719211830_00001 20160719211830_00002東京国立博物館 特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」
平成館 特別展示室   2016年6月21日[火] - 2016年9月19日[月]

ギリシャの彫刻、フレスコ画、金属製品などを展示します。新石器時代からヘレニズム時代までの各時代、キュクラデス諸島、クレタ島ほかエーゲ海の島々や、ア テネ、スパルタ、マケドニアなど、ギリシャ各地に花開いた美術を訪ねる旅に出発しましょう。
ギリシャ本国の作品のみによるものとしては、かつてない大規模なギリシャ美術展です。

【 詳細 : 東京国立博物館 特別展
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{ 新 宿 餘 談 }
DSCN9524 DSCN9546 DSCN9537もう蟬がないていた。 むしあつい夏の日の午後だった。
「エジプト展」とならんで、「ギリシャ展」はいつも混雑がひどい。7月17日[日]もそうだった。
人にアタル(人混み中毒症)のやつがれ、予習をだいぶしてきたので、平成館のせっかくのひろい展示場を、くねくねと細い通路でしきった、冷房の効きののわるい展示会場をかけ足でみてあるいた。
なにしろ本展は九割以上が日本初公開で、全325点の展示がなされている。やつがれの画像許容量をはるかに超える作品群だった。

人混みを避けて前庭に出る。ことしの東京は水飢饉が心配されるほど雨がすくなかったが、国立博物館(トーハク)の樹木と艸花は庭士がかわったのかとおもわせるほど元気だった。芝生では雀がむれていたし、蟻もさかんに活躍していた。
正面プラザからはいって、正面の「本館 日本ギャラリー」の前のユリノキ( 百合の木、学名 :  Liriodendron tulipifera は、袢纏にも似た葉をいっぱいにつけて元気だった。

ユリノキ 北アメリカ中部原産  
日本へは明治時代初期に渡来した。東京国立博物館本館前庭の巨木に添えられた銘板に、次のように記されている。
明治8、9年頃渡来した30粒の種から育った一本の苗木から、明治14年に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。
そのため東京国立博物館は「ユリノキの博物館」「ユリノキの館」などといわれる。

DSCN9536 DSCN9546 DSCN9548 DSCN9552 DSCN9559平成館の前庭には「芙蓉」らしき艸が、深紅の大輪の花をつけていた。
アレレッとおどろいた。いままで見逃していたのかも知れないが、庭のそこ此処に「龍爪槐 リュウソウ-エンジュ しだれえんじゅ」(画像集)がこんもりと繁っていた。

この低灌木は、冬になって剪定されると形相をかえて、鋭い龍の爪のように変貌する。このことは、<花筏 聚珍倣宋版と倣宋体-04 宋朝体活字の源流:四川宋朝体龍爪 と 龍爪槐をめぐって>で紹介した。
龍爪パッケまたことしの五月末にでかけた北京清華大学の指定ホテル「甲所」の前にも、生け垣のようにして龍爪槐がたくさんあった。

DSCN7899DSCN8137陽ざしはつよかったが、こうして平成館の前庭をぐるぐるまわり、喫煙所で一服をかさねた。
一時間余ののち、鑑賞をつづけていたつれあいが図録を重そうにかかえてはしりでてきた。
どういうわけか、「エジプト展」とならんで「ギリシャ展」はいつも混雑がひどい。
家に帰って図録鑑賞をゆっくり楽しもうとこころにきめた。

【朗報】 4月22日[金]-5月24日[火] 東京都立美術館に40万の観覧者をあつめた『若冲 Jakuchu 展』図録が特別追加販売

20160424142155830_0005resize
伊藤若冲(1716-1800)は、18世紀の京都で活躍したことで知られる画家です。
繊細な描写技法によって動植物を美しく鮮やかに描く一方、即興的な筆遣いとユーモラスな表現による水墨画を数多く手掛けるなど、85歳で没するまで精力的に制作を続けました。

本展では、若冲の生誕300年を記念して初期から晩年までの代表作89点を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」3幅と、「動植綵絵」30幅が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
──────────.
『生誕300年記念 若冲展』日本経済新聞社 展覧会図録(代引き発送)
◎ 展覧会会期 : 東京都美術館 2016年4月22日(金)-5月24日(火)
◎ 図録仕様 : サイズ  A4 判変形、(約)縦29.7×横22.5×厚さ2.3cm、 327頁
◎ 価   格 : 3,900円(消費税 8%込)
【 詳細 : 日経アート社

★        ★        ★        ★

{新宿餘談}
この『若冲展』のことは、本欄でも二度にわたって紹介した。
会期二日目にいったが、すでに相当の混雑で、図録を購入するのにも長蛇の列だった。
本項末尾には<見逃すなかれ 若冲展>と強調しておいた。

20160424142155830_000420160424142155830_0005生誕三百年記念 若冲 じゃくちゅう 展
04月22日― 05月24日
──────────
伊藤若冲(1716―1800)の生誕三百年を記念して、初期から晩年までの代表作を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三〇幅(宮内庁三の丸尚蔵館)が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人々に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
東京都美術館展覧会
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{新宿餘談}
若冲が気になって、「若冲展」二日目、23日[土]に東美(東京都美術館)にでかけた。
できたらとなりの国博(東京国立博物館)の「黒田清輝展」もいっしょに見ようと、はやめに上野公園に向かった。
曇天だった。国博の入場口は閑散としていた。言問通りでタクシーを捨てた。
東美の裏側から回りこんでいったら、入場券売り場から長蛇の列だった。会場内はギッシリ満員。ひとにアタル(中毒)やつがれ、入場前からすでに疲労困憊。

若冲の絵画には息をのんだ。すごかった。
したがって画像記憶許容量をたちまちこえて、脚がなんどもすくんだ。
気がついたら階上のレストランにいて、デザートに旨いティラミスを摂っていた。国博行きはこの瞬間にあきらめた。
見のがす無かれ、若冲展。

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「長崎松の森なる千秋亭にて いと厳粛に …… 」と綴った〝ふうけもん〟福地櫻痴。大石は長崎のパワースポットと評す

「長崎松ノ森ナル千秋亭ニテ」(千秋亭は1889・明治22年、総理大臣伊藤博文の命名により富貴楼と改名)ときいて、ハッと反応するような奇妙人を、長崎では〝ふうけもん〟という。
松の森には放し飼いの「若冲 じゃくちゅう」 が数羽いた。おおむねひとになついていたが、一羽挑みかかる鶏がいた。その不届きもんの鶏を「若冲一」と名づけ、以下五羽の鶏と、モソモソとあるく烏骨鶏ウコッケイとしばし戯れた。

東京都美術館の若冲展 は好評だったがきょう(05月24日)で終わり。
会期二日目(4月23日)に参観して息を呑んだやつがれ、「見逃す無かれ 若冲展」として本コーナーでも紹介した。会期後半の週末などは入場に五時間待ちという混雑だったときいた。巡回展が期待されるところである。
そして「長崎松の森なる千秋亭」への再訪の機会をうかがうやつがれがここにいる。
長崎タイトルresize20160424142155830_0005DSCN7620 DSCN7623 DSCN7738 DSCN7728

北方謙三<大水滸伝>全51巻完結! 伝説も去りて、残るは物語のみ。君に語れ、漢オトコらの物語。

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20160607224214284_00012016年05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついに北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結した。 十余年におよぶながいつき合いだった。 『 水滸伝 』(全19巻)、『 楊令伝 』(全15巻)、『 岳飛伝 』(全17巻)である。
集英社の特設WebSite <大水滸伝> などは、この終巻をもって、嬉しいのか、哀しいのか、さびしいのか知らないが、阿鼻叫喚、まるでお祭り騒ぎである。

北方謙三の < 大水滸伝 > は、まず『小説すばる』に連載され、連載中に並行して四六判書籍が発行され、書籍刊行終了後に文庫版が順次発売されていた。
したがって北方謙三は版ちがいのたびに文章に手をいれており、将来全集でも刊行されるなら、文庫版に記載されたものを定稿としてほしいとしばしばつづっている。

やつがれはといえば、ゴチャゴチャとした雑炊のような文芸雑誌は苦手なので、『 小説すばる 』 はときおり立ち読みし、四六判書籍、文庫版ともに刊行直後に購入してきた。愛読書ではあるが愛書家ではないので、あちらの本棚、こちらの片隅と、未整理なまま山積みになっている。
この作家は、冗長と過剰をきらうので、四六判書籍のときすこしテンポが遅いな、とおもわれた箇所などが、文庫版となるとバッサリ切りすてられていることに驚いたこともあった。

司馬遼太郎(1923-96)が卒したころ、北方謙三は 『 楊家将 』 の連載中だったとおもう。
ほんとうに偶然だった。 所在のないままなんとなく書棚から、ハードボイルド作家だとおもっていたこのひとの作品 『 楊家将 』 を取りだしたのがはじまりだった。ともかくダイナミックな中國歴史演義であり、登場人物のあしらいが鮮明で、読みやすかった。
のちに 『 楊家将 』 は吉川英治賞を受賞しているが、まさかそれから10年余におよぶ 『 水滸伝 』 『 楊令伝 』 『 岳飛伝 』 の <大水滸伝> シリーズにつらなり、ずっと付きあうことになるとはおもってもいなかった。

歴史を作るのは英雄だけじゃない。
歴史に名を残した武人から、人知れず消えていった民草まで。
ここにあるのは「人間」の物語だ。
駈けよ。──── 夢追いし者、永久に。
生きる。──── 去りし者のぶんまで。  [集英社WebSiteより]

ともあれ、これから 『 岳飛伝 』 文庫版の刊行がはじまるとおもうが、やつがれとほぼ同世代の北方謙三は <大水滸伝> 51巻を完結した。 この間やつがれはなにをなし得たかというと忸怩たるものがある。
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そこで、『 岳飛伝 』 の主要な舞台のひとつ、岳飛の墓所がある杭州 (Hangzhou) を紹介しよう [撮影 : 2011年09月]。
岳飛は北宋を滅亡させた女真族金国(満州族王朝 前金)に抵抗して軍閥をなし、「 盡(尽)忠報国 」 の四文字を背に刻んで 「 抗金 」 をさけんでいたとされる。
その墓は杭州西湖のほとり、岳飛廟に息子の岳雲の墳丘とならんである。夜になると岳飛廟のすぐ近くの湖畔で 「 水上ショー 」 が開催され、内外の観光客であふれる。

この街ではかつて、あまたの南宋刊本が刊行され、小説とはことなるが岳飛が刑死した。
やがて南宋も金国もたおれたのち、元(蒙古族王朝 1271ー1368)の時代にやってきたマルコ ・ ポーロが、「 世界でもっとも美しいまち 」 と評した西湖のほとりに、南宋の宮殿跡も、「岳飛廟」もある。

“ Hangzhou, The mosut beatiful and splendid city in the world. ”    Marco polo

その西湖には、白楽天の築造とされる 「 白堤 」 があり、わずかな期間の中華民国時代、そのなかの小丘で、丁 補之・丁 善之兄弟によって、近代宋朝体活字(中国では倣宋体とする)が誕生したことは意外に知られていない。

それを追ってやつがれがはじめて杭州の地をおとづれたのは、もうかれこれ35年余も前のことになる。
その紹介の役割は、できたら辞退したいところであるが、たれも名乗りをあげないまま20余年が経過した。
それよりなにより、これからたれの小説を読めばいいのかというのが喫緊の課題である。

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北京清華大学美術学院からの招聘で昨週いっぱい特別講義。無事に帰国いたしました

DSCN8230DSCN8234DSCN8173ここしばらく中國(中国)とのやりとりや往復がふえている。
2016年三月下旬に 方正字庫 (FOUNDER 方正 北京大学全額出資のIT企業)と、中國美術大学の最高峰のひとつとされる 中央美術学院 の招聘で一週間の北京滞在となった。
前半の3日間は、北京大学キャンパス内、方正字庫の主催で<字体大赛 ≒ 書体大会>の国際審査員としての参加。

後半の1日は、天安門の間近にある巨大な 中國國家大劇院 に会場を移し、前日までの<字体大赛の審査結果>が、信じがたいほどのはやさながら、発表され、展示され、受賞者の表彰式があり、審査員講演がなされと、なんともあわただしく、おおがかりなイベントが続いた。
講演の一番手はやつがれ。いい訳はしたくないが諸諸あって講演は失敗だったとおもう。

最終日は大石が担当。中央美術学院の大ホールで<小型活版印刷機による印刷演習>。
ここでも 字体大赛 の審査員四名の講演もあったが、最終講演となった大石担当分は、おおきな会場に、あまりにちんまりとした小型活版印刷機での講演とエクササイズであった。
この日の大石は五時間余におよぶ講演会の最終担当とあって、企業人はさすがに退席が目立ったが、学生諸君は、もっともわかりやすく、関心があったようで過熱気味であった。

なにしろ中國は国家体勢がいくぶん異なるので、北京大学(北大と略称)、中央美術学院、方正字庫との関連性や、書体コンクールの意味性が判然としなかった。
もちろん会場の知人にこの関連性を質問したが、「これが中國です」とかわされてしまった。
また一週間というもの、連日連夜の懇親会(大宴会)がつづき、下戸のやつがれにはかなりこたえた。
この三月下旬の喧噪にみちた訪中報告は、気持ちと情報の整理がつかないまま、いまなお実現していない。
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五月上旬は<Viva la 活版 ばってん 長崎>で長崎に全力投球であった。
そして五月下旬、清華大学美術学院の招聘で、また北京行きとなった。
もともと、この
の招聘は本コーナーでもお馴染みの、清華大学美術学院視覚伝達系の原 博(Yuan Bo)助教授のお招きで、昨年の暮れにはスケジュールが決定していた。
したがって北京大学系のイベントへの突然の招聘は、多分に清華大学行きを聞きつけての決定ともおもわれた。

ともあれ北京大学系のときは、連日連夜の宴会でとても疲労した。
ところが清華大学は原博先生はもちろん、主任教授の趙 健教授とも親しかったので、意志の疎通はスムーズで、夜は到着初日の歓迎会以外はほおっておいてくれるので助かった。

月・火・水と講義がつづいた。どこで聞きつけるのか知らないが、学内正規授業に位置づけられているのに、清華大学の学生だけでなく、中央美術学院、印刷大学ほかの大学の教授、学生、IT 系企業人も講義に参加していた。
三日間とも受講者は50-60名。集合写真を呼びかけ 「日本の WebSite にアップしますよ~」 といったら、女子学生を中心にキャッキャと逃げていった。いずこもおなじ学生諸君であった。 DSCN8089ホテルは同大内・指定の「甲所」。ここは広大なキャンパスの中央部に位置し、おもに招聘教師たちが宿泊する森の中の簡素なホテル。
留学生など短期滞在の学生は真向かいにある「丙所」を利用するようだが、カフェ兼レストランは教師陣と学生との共有で「甲所」にあるので、活気と国際色に満ちており、また中國の大学では卒業式を間近にひかえており、にぎやかだった。

わたしたちももっぱらこの「甲所餐庁 甲所レストラン」で朝食をとり、お茶・食事・懇談などをかわした。つまりキャンパスからほとんど出なかったが、ともかく無事終了でひと安心。 DSCN8137 DSCN8118 DSCN8152 DSCN8165 DSCN8056上掲写真の白い彫刻は原 博(Yuan Bo)先生のご主人にして、同校教授の陳 輝(Chen Hui)先生の作品。その後方に美術学院棟が四棟ならんでいる。キャンパス案内では、指定ホテル「甲所」からはここまで徒歩25分だが、やつがれには無限に遠い場所だった。

講義には方正字庫のスタッフも3名ほど参加していた。かれらは朗文堂のWebSiteをみているようで、なぜ報告記事が掲載されないのかとただされた。つまりすごいことだと報告しろと迫られた。ところがやつがれは実感無し。方正字庫のときも、清華大学のときも、いつもと、つまり新宿私塾と同じですから。 DSC04193しばらくしたら、原博先生から当日の写真データーを受領・紹介しますが、それまでのあいだ、下掲の記事は、前回も、今回も、連日参加されていた、中央美術学院の刘 釗(Liu Zhao 上掲写真右端)教授のブログサイトをご紹介。
刘女史は大石の講座を間近にみるのははじめてとあって、活版エクササイズには夢中でとり組まれていたので、その紹介は遅れ気味らしい。
刘女史のおはなしでは、このサイトには一日5,000件以上のヒットがあるそうです。
よろしければご笑覧を。結構笑えますよ。中国までいって恥をかくなよ ト。
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◯05月29日[日] 羽田発、北京入り。
◯05月30日[月] 北京清華大学美術学院 第一講座
学科長:趙 健先生挨拶、片塩講義大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi4u.html
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6f.html
◯05月31日[火] 北京清華大学美術学院 第二講座
原 博(Yuan Bo)先生挨拶 終日大石担当日 活版演習
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6m.html
◯06月01日[水] 北京清華大学美術学院 第三講座
原 博(Gen Bo)先生挨拶、 片塩講義、大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wil7.htm

長崎報告とあわせ、北京報告もお楽しみに。   朗文堂  片塩二朗  大石 薫

【会員情報】 仙台の只野俊裕さん、「本作り相談所 蕃山房」を開設して活躍中

20160411130310293_0001 20160411130310293_0002ふるい友人の只野俊裕さんから、著作{「ゼッケル文庫」に見る16世紀の金属活字版印刷術の様相-装飾大文字の変遷と進化-}『東北大学附属図書館調査年報 第3号』(東北大学附属図書館、平成28年3月30日)をご恵送いただいた。

只野さんは、仙台の 笹木出版印刷株式会社 に長年勤務され、取締役営業部部長をもって停年退職された。同社はタイポグラフィに積極的な企業で、欧文活字字道鋳植機(いわゆるモノタイプ)のわが国初導入企業とされ、また「陶活字」を追試・試作して、社内に「笹っぱ活字館」をもうけるなどしていた。
同社創立90年に際し、<花筏 タイポグラフィあのねのね*20 2012年05月19日>に関連記事があるのでご覧いただきたい。

勤務時代はタイポグラフィ学会にも所属され、しばしば上京されていたのでお会いする機会も多かった。最近はお会いする機会が減ったが、なにぶん図書づくりが大好きな只野さんゆえ、退職後も「本作り相談所 蕃山房」を開設して活躍しているようである。
ご本人から消息をうかがったので紹介したい。
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私は2011年(東日本大震災の年)9月に笹氣出版印刷を退社しました。
現在は週に三日だけ相談役として顔を出しています。
主には「本づくり相談所 蕃山房」と号して、震災復興に関する出版や
書籍の制作に携わる事業を行っています。
そしてもう一つが東北大学附属図書館協力研究員としての活動です。
東北大学附属図書館のゼッケル文庫は宝の山です。
このことはまたお話しする機会があるかもしれません。

退職後はのんびりとやって行こうと思っていましたが、
東日本大震災(地震被害、津波被害、原発被害)の現場に生きている身としては、
そうは参りませんでした。
突き動かされるように、印刷の力による震災復興に微力を尽くしたいと願って
活動しています。

詳細は蕃山房ホームページ http://banzanbou.com/ をご覧ください。
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蕃  山  房  只野俊裕
本づくり相談所(企画・編集・制作・出版)
〒989-3126  仙台市青葉区落合一丁目4-8

電話 兼 FAX : 022-778-8679
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【講演会】 会員:真田幸治さんが泉鏡花記念会で「雪岱文字―春陽堂版『鏡花全集』を中心に」講演の報告

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20160411130506209_0002 20160411130506209_0003489[1]タイポグラフィ学会、アダナ・プレス倶楽部会員(B級グルメ担当とも)、真田幸文堂・真田幸治さんが、論文「雪岱文字の誕生 ―― 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ」『タイポグラフィ学会誌』(2015年09月30日)を発表され、それを契機として金沢市「泉鏡花記念館」で関連講座が開催されました。その報告をご紹介いたします。

【『タイポグラフィ学会誌08号』論文】
論文 : 真田幸治「「雪岱セッタイ文字」の誕生 ── 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ」
論文の概要
装幀家、挿絵画家などとして再評価著しい小村雪岱であるが、その評価は主に泉鏡花の著書の意匠によるものだ。

しかしながら「雪岱文字」が大きな役割を担っていたという事実は知られていない。
それは資生堂のロゴにおいても大きく寄与している。そして春陽堂版『鏡花全集』の装幀において「雪岱文字」はひとつの完成を見る。
本論では「雪岱文字」が、どのように誕生し展開されていったのかを考察する。

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泉鏡花記念館 企画展「鏡花本 装幀の美―清方・英朋・雪岱」関連講座
雪岱文字 ― 春陽堂版『鏡花全集』を中心に
◯ 講 師  真田幸治(装幀家・タイポグラフィ学会会員)
◯ 日 時  平成28年4月16日(土) 13:30-15:00
◯ 会 場  泉鏡花記念館 講座室
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image1 image2 image3{真田幸文堂 真田幸治さんのコメント}
金沢・泉鏡花記念会での講演「雪岱文字 ― 春陽堂版『鏡花全集』を中心に」、無事に終了しました! 手応えもあったと思います! そして、いまは帰京の車中です。
食の方はとても美味でした。とくに本日の寿司がまた当たり! とてもとても美味しかったです。
添付の画像は新聞記事のコピーと、寿司屋のネタです(万寿貝とノドグロ)。

【展覧会】 恩地孝四郎展/東京国立近代美術館 会期末迫る & 恩地家三代公式記録 multirhythm WebSite紹介

国立近美恩地孝四郎展日本における抽象美術の父にして木版画近代化の立役者、そして時代に先駆けたマルチクリエイター恩地孝四郎、過去最大規模の回顧展。
日本で最初の抽象表現《抒情『あかるい時』》はもちろん、海外美術館所蔵の重要作62点を含む約400点を一挙公開します。
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日本における抽象美術の先駆者であり木版画近代化の立役者でもある恩地孝四郎の、20年ぶり3回目、当館では実に40年ぶりとなる回顧展です。

恩地は抽象美術がまだその名を持たなかった頃、心の内側を表現することに生涯をかけた人物です。
彼の創作領域は一般に良く知られ評価の高い木版画のみならず、油彩、水彩・素描、写真、ブックデザイン、果ては詩作に及ぶ広大なもので、まるで現代のマルチクリエイターのような活躍がうかがえます。
本展では恩地の領域横断的な活動を、版画250点を中心に過去最大規模の出品点数約400点でご紹介いたします。

また見逃せないのは、里帰り展示される62点。戦後、特に外国人からの評価が高かった恩地の作品は、その多くが海を渡っていきました。
本展では海外所蔵館(大英博物館・シカゴ美術館・ボストン美術館・ホノルル美術館)の多大な協力のもと、現存作が一点しか確認されていない作品や摺りが最良の作品など恩地の重要作をご覧いただきます。
【 詳細 : 東京国立近代美術館
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この 【展覧会】 恩地孝四郎展 ―― 形はひびき、色はうたう 東京国立近代美術館 に関する情報は、東京国立近代美術館からの情報をもとに、本コーナーには02月08日に紹介した。
その際別途に、恩地孝四郎嫡孫・恩地元子様からも封書で、長文の文書と招待券を頂戴していた。
忙しさに取り紛れて文書をじっくり拝読していなかったことが悔やまれるが、とても貴重な資料をご提供いただいていたことを改めて確認したのでここに皆さまにご紹介したい。

恩地家三代――恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)は、いずれも東京藝術大学にまなび、才能と個性と造形力がゆたかなかたばかりであるが、やつがれは荻窪の恩地邸にしばしば押しかけ、恩地邦郎氏とそのご夫人展子様にたいへんお世話になった。

恩地孝四郎は1935年(昭和09)04月創刊の『書窓』(アオイ書房、志茂太郎)の第一号から1944年06月、志茂太郎が官製の国民運動「変体活字廃棄運動」に抵抗したため、強制疎開によって郷里の岡山に帰郷したための終刊号、『書窓』(第17巻第05号、通巻103号 日本愛書会書窓発行所)まで、一貫して編輯・執筆・造形・装本にあたっていた。
つまりやつがれは、わが国における近代版画家、抽象絵画の祖としての恩地孝四郎ではなく、印刷・出版人としての恩地孝四郎像を追っていた。

アオイ書房/志茂太郎と、『花あしび』(堀辰雄、2000年10月06日、朗文堂)の刊行を企画していたころ、堀辰雄関係の知人の紹介を得て、荻窪の恩地邸(遠藤 新 アラタ 設計)をはじめて訪問したのは、恩地邦郎氏が長年にわたった明星学園での教職をはなれた直後のことであり、おそらく1990年ころであったとおもう。
恩地邦郎氏ご夫妻はこころのあたたかなかたで、いつも居間でくつろぎ、展子夫人のピアノ演奏もたのしませていただいた。
やがて当時の「金曜かい」の若手の諸君(いまは50代初頭の中年になっているが)も恩地邸に押しかけるようになり、お庭のアカンサスを愛で、孝四郎氏と邦郎氏の二代にわたるアトリエを拝見させていただいた。

それからは、毎年のように銀座の画廊で個展を開催されたので、そこでお会いしたりしていたが、ご著作『随想 春の雪』(恩地邦郎、1997、ぶんしん出版)を頂戴した。それからまもなく2001年に行年81をもって恩地邦郎氏は逝去された。
近年になり、宇都宮美術館の企画で<恩地孝四郎邸見学会>があり、そのグループの一員として、やつがれと大石とで懐かしい荻窪の恩地邸をおとづれた。
およそ15年ぶりほどの訪問であったが、恩地家第三代・恩地元子様が、故邦郎・展子ご夫妻とほとんど変わらぬ笑顔で恩地邸をご案内されていた。
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前置きがながくなった。恩地家三代 ―― 恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)の三人の活動について、お知らせ、報告するWebSiteが開設されている。

URL :  multirhythm

管理・運営は恩地元子氏によるもので、いわば恩地家公式WebSiteといえるものであるが、とても丁寧なつくりこみがなされており、情報も正確でゆたかである。
初代・恩地孝四郎の歿後60年余、二代・恩地邦郎の歿後15年余のときが経過した。ともすると記憶はしだいに鮮明さをうしない、精度を欠くようになる。
このWebSiteの誕生を欣快とし、皆さまにご紹介するゆえんである。

朗文堂好日録046 - 喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-02 プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

プラハ

02    プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

新コーナー{文字壹凜}にかまけて、<花筏>の更新が遅滞していた。
昨週週末(01月15-16日)長崎に出張した。土曜日は長崎の若手学芸員の皆さんとおあいした。想像以上に<花筏>をよくご覧いただいていた。うれしかった。
{文字壹凜}は縦書き式短文ブログであるが、一応目標としていた100投稿をこえて、まもなく120投稿に達することができた。スタート直後からデバイスの異同による「バケ」に悩まされているが、読者のご寛容に救われている。これもまた楽しい試練ではある。

<花筏>に管理者:千星健夫氏が手を入れてくれて、ここでも<活版 à la carte>と同様に画像をスライドショウで楽しんでいただくことができるようになった。 再開第一弾を【朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ 】の続編とした。ほぼ一年ぶりのこととなる。ご愛読を乞い願う次第である。

☆       ☆       ☆

京都在住、ぢやむ杉本昭生氏の活版小本の新作フランツ・カフカ『道理の前で』を紹介した。
杉本氏はいつも活版小本を送付される際に「一筆箋」のような文章を添付されているが、今回はめずらしくこぼしが多かった。
たしかに「活版小本」の杉本昭生氏がマッチ箱サイズをねらっても、あまり収穫がないような気はした。 この 「テ」 は読書家の杉本氏には似合わなかった。ほかの豆本製作者に任せてもよいかもしれないとおもえた。

ところで、やつがれ フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。 したがって「活版小本 カフカ『道理の前で』」 4 ページ 一丁、15丁60 ページかがり綴じ、前後見返しつき、前扉別紙差し込みからなるマッチ箱サイズの上製本をうれしく拝読させていただいた。
そこでフトおもいだしたのは、この作品はチェコ プラハの「黄金の小径」で執筆されたのではないかというおぼろな記憶だった。

2013年晩夏、三泊四日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。 その報告は「花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ」にあるが、ここには序章があるだけでその後の記述はない。
すなわちやつがれが情報過多に陥り、ひとさまにプラハの紹介をすることができなかったというのが苦しいいいわけになる。

2013年のプラハ行きはロシアの航空会社「アエロフロート航空」で、モスクワ経由でいった。
このときの収穫はおおきなものがあったが、ともかく魅力がありすぎて、未整理なままやつがれの脳裡の片隅にある。 2014年に再挑戦をこころみたが、円安のためもあって旅費が高騰していた。

プラハにはいま、アダナ・プレス倶楽部会員・博士山崎が研究のため長期滞在中である。 ノー学部と博士山崎は情報交換が盛んのようである。したがってどうやらもう一度プラハにいく機会がありそうな昨今である。

プラハの一隅にはカフカの生家があり、そこはいまちいさな博物館となって公開されているという。 そしてカフカの墓は、その近くの「ユダヤ人墓地」にあるという。 前回はユダヤ街にいく時間がなかった。再訪を得たらぜひともたずねたいとおもう。
すなわち、畏友杉本昭生が製作し、失敗作と自嘲した一冊の活版小本、フランツ・カフカ『道理の前で』が契機となって、プラハ再訪を決断することになったということである。 プラハ絵はがき01 プラハ絵はがき02 プラハ絵はがき03 プラハ絵はがき04プラハ市販の長尺絵はがきより。下から二段目、プラハ城脇、かつて錬金術士が居住したことから「黄金の小径」と呼ばれる長屋街。いまはみやげ店がならぶ人気の観光スポット。左手の青い22番の建物は、カフカがここで『城』などの作品を執筆していたとされる家。

Kafkasd2ところでやつがれ、ふるくから フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。
民族と言語がもざいくのようにあやなす欧州、とりわけ中欧のカフカのような人物の経歴をあらわすのは困難だが、カフカは当時のボヘミヤ地方、正確にはオーストリア=ハンガリー帝国領のプラハで、高級小間物商をいとなむユダヤ人の両親のもとでうまれた。
その母語となるとさらに複雑で、父親のヘルマン・カフカ(1852-1931)はチェコ語を母語としたが、母親のユーリエ(1856年-1934)は当時の支配階級にならい、ドイツ風の慣習に馴染んでドイツ語をはなす、ほとんどドイツに同化していたユダヤ人であった。

父ヘルマンは息子を学校にいかせるにあたり、プラハにおいて多数の話者を持つチェコ語の学校ではなく、支配者階級のことばであるドイツ語の学校を選んだ。 しかしカフカはチェコ語やフランス語の本を多く読み、プラハ大学で哲学や法律をまなんでいた。
そのみじかい人生の晩年、カフカは結核に罹患したためもあって休暇がふえ、また民族意識に目覚め、ヘブライ語やラテン語の学習にもはげんだ。 しかしその著作や、のこされた書簡のほとんどは、ドイツ語でしるされている。

フランツ・カフカは1924年(大正13)6月3日、宿痾の結核でオーストリアのキールリングで歿した。満40歳であった。
遺骸は故郷プラハに移送されて、この街のユダヤ人墓地にねむる。
──────────
フランツ・カフカの作品は、長編小説『審判』、『城』、『失踪者』のほかに、多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、その少なからぬ点数が未完であることで知られている。
これらの「遺稿」が刊行をみたのは、プラハ大学での一級下級生であったマックス・ブロートの力に負うところがおおきい。

その作風は、孤独感と不安が横溢しながらも、それを巧妙にユーモアでおおい、夢の世界を想起させるような独特の小説作品をのこした。
作品の評価が歿後にはじまったことと、幻想的で浮遊するような軽妙さの二点において、10年ほどのちのことになるが、わが国の 宮澤賢治 (1896-1933)と似たところがみられる。
宮澤賢治の著作で生前に刊行されたのは『春と修羅』(詩集)と、『注文の多い料理店』(童話集)だけであり、ほとんど無名に近い状態であったが、歿後に草野心平らの尽力によっておおくの作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となった。

《2014年09月 アフター・バカンスでプラハの観光地は賑わっていた》
プラハ観光の最大の中心地「プラハ城」には、ゴシック、ロマネスク、ルネサンス、アールヌーヴォなどの様様な様式の建築物があるが、なんといっても、天を突く尖塔がシンボルのゴシック様式による 「 聖ヴィート大聖堂 」 が観光客をあつめていた。

DSCN5492 DSCN549509月なかば、この晩夏の時期は、欧州では 「 アフター ・ バカンス 」 とされる。 バカンスの期間は混雑を避けて旅行を控えていた高齢者と、バカンス期間にアルバイトをしてふところがあたたかくなった若者が、オフシーズンで安くなったチケット利用しての旅行者が多くみられた。
この建物は F ・ キセラの設計によるもので、内側からみると、画家/アルフォンス ・ ムハ ( わが国では ムシャ ) らによるステンドグラスが美しい ( らしい。 やつがれ、混雑につかれて内部には入らなかったゆえに失敗した )。
DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 「 聖ヴィート大聖堂 」 のファサード上部に、いわゆるブラックレターの掲示板があった。 この系統の書体は、活字界では 「 テクストゥール 」 とよばれる。 ゴシック様式の尖塔によく似た、鋭角的で、ゴツゴツとした突起の目立つ形象の活字書体である。 プラハ絵はがき03その後黄金の小径へ。色とりどりのちいさな家が立ち並ぶ通りで、いまはみやげもの屋となっているが、もともとは城に仕える召使たちが住んでいて、いっとき錬金術士がおおく居住していたために「黄金の小径」と呼ばれる人気スポットとなっている。

ここの22番と表記された青い建物が、いっときカフカが仕事場としていた家とされる。 せまい建物におおきなリックサックを背負った若者がたくさんつめかけていて、なかなか中にはいれなかった。
そこで錬金術士の工房(なかなか怪しくてよかった)や、椅子のあるみやげもの屋に逃げたことを後悔しているが、なんとか写真だけは押さえてあった。

{ 新宿餘談 }
友人にドイツの印刷系の大学院を修了した人物 IS 氏がいる。博士論文のテーマに 「グーテンベルクは錬金術士だった」 をテーマにして研究をすすめていたところ、指導教授に 「これを発表したら、君もわたしもこの世界から抹殺される」 と説得されてほかのテーマにしたという。

このはなしは故ヘルマン・ツァップが笑いながらおしえてくれた。そして日本に戻っていたIS 氏を
「ユニークな発想のおもしろいひとですよ……、ぜひお会いになってください」
として
紹介された。
IS 氏は晩年のツァップにインターネット環境の設置をすすめ、その設定にもあたっていたことがあった。
いまは毎週一回はメールを送付されるIS 氏であるが、ちょっと人間関係が複雑なわが国の環境になじめないでいる。ときおり来社されて
「グーテンベルクは錬金術士だった、そう思いますよね」
とかたられる。やつがれは苦笑するしかないが、内心は首肯している面もある。
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以下「黄金の小径」を紹介するが、格別の説明はしない。むしろスライドショウでお楽しみいただけたら幸いである。
じつはやつがれ、このプラハ城と「黄金の小径」で人混みにもまれ、すっかり疲労困憊。

ゲートをでるとルネサンス様式の建物があり、そこでの「夕べのコンサート」をノー学部が予約していた。 ベドルジハ・スメタナの『わが祖国』(チェコ語: Má Vlast )が演奏された。
このスメタナの代表作は毎年おこなわれる「プラハの春音楽祭」のオープニング曲として演奏されるそうである。

『わが祖国』とうたいあげなければならなかったボヘミアのひと、ボヘミアンのスメタナをおもい、「祖国とは、母語とはなんだろう」とおもわずにはいられなかったであろう、ボヘミアンのフランツ・カフカをおもい、妙に鼻の奥がムズムズしたが、なんとか耐えることができた。 DSCN5558 DSCN5559 DSCN5561 DSCN5562 DSCN5565 DSCN5566 DSCN5567 DSCN5568 DSCN5569DSCN5573 DSCN5574 DSCN5575 DSCN5576 DSCN5577 DSCN5580 DSCN5580 DSCN5583 DSCN5585 DSCN5586 DSCN5587 DSCN5588 DSCN5589 DSCN5591 DSCN5592 DSCN5596 DSCN5726

朗文堂好日録-045 卯月 四月がおわり、新緑と薫風の 皐月 五月のはじまり。

《 卯月 四月のスタートは04月07日、新宿私塾から 》

私塾26期スタート

新宿私塾第26期入塾

新宿私塾鈴木1504uu

《 新宿私塾第26期、櫻花爛漫の春、意欲満満でスタートしました 》
隣接する新宿御苑の、櫻、ミモザ、山吹などがあでやかに花をつけた04月07日、新宿私塾 第26期が開塾いたしました。

これから半年間、ほぼ夏休みもなく新宿私塾は開講され、爽秋の09月15日に終了します。
講師、塾生の先輩ともども、全力であたらしいタイポグラフィの前衛を育成するために努力しますし、25回の講座は、いずれも内容の濃いものとなっています。
半年後、自信にあふれた塾生の皆さんの、お顔と、お姿を、再度紹介できたら幸せです。

DSCN8614DSCN8609DSCN8619新宿私塾では、タイポグラフィにおける 「 知 ・ 技 ・ 美 」 のみっつの領域で、バランスのよい学習をモットーとしています。 それはまた 「 知に溺れず、技を傲らず、美に耽らず 」 という、つよい自戒をともないます。
この半年のあいだ、塾生の皆さんがおおきな収穫が得られるように、講師陣はもとより、200名を優にをこえた 「新宿私塾修了生」 の皆さんも、精一杯の努力と応援をいたします。

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《お客さまご訪問 中華書局:李 晨光氏、商務印書館(香港):毛 永波氏 》

DSCN8622《 2015年04月03日〔金〕、おふたりの中国の印刷 ・ 出版人がご来社に 》
朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部のホームページをプリントされ、それを提示されながらの、ほとんどノーアポでのご訪問でした。
日本で<活版ルネサンス>の動向が顕著なことと、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部のうわさわ聞きつけてのご訪問でした。
◎ 写真左) 李 晨光 さん ( 中華書局  デジタル出版センター主任 )
◎ 写真右) 毛 永波 さん ( 商務印書館〔香港〕有限公司 取締役 ・ 副編集長 )
おふたりは <第18回 東アジア出版人会議 > のパネラーとして来日され、その寸暇をぬすんでのご訪問でした。


《 デジタルプリントの話題はほどほどに、中華書局 : 聚珍倣宋版、商務印書館 : 倣宋体活字で話題がおおいに盛りあがる 》
中華書局には 「 聚珍倣宋版 」 があり、商務印書局には 「 倣宋体活字 」 という、すぐれた本文用活字書体がある。
このふたつの活字書体はわが国にも昭和前期にもたらされ、中華書局系は名古屋 ・ 津田三省堂らによって 「 宋朝体 」 の商品名で発売された。 商務印書館系は大阪 ・ 森川龍文堂によってもたらされ、「 龍宋 」 の商品名で発売されていた。

この宋王朝刊本字様に淵源を発する活字書体を、故 ・ 毛沢東首席が好んだ ことは紹介した。 また現代中国では、宋体 ( わが国の明朝体 ) にかえて、倣宋体 ( わが国のいわゆる宋朝体 ) が再評価されている。 たまたま小社でも 「 宋朝体研究 」 が進行中で、その資料をみたおふたりとも、おおいに驚き、喜んでいただいた。
どうやら職掌上デジタルメディアにたずさわっていても、やはり印刷 ・ 出版人の < 活字好き > は日中ともに変わらないようであった。

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《[活版カレッジ] 2015年 春期昼間部講座 04月08日開講 》 

活版カレッジ<活版カレッジ 2015年春期講座>が04月08日[木]から開講しました。
今回は女性が三名、男性が一名での開講となりました。これから三ヶ月にわたり、集中して活版印刷の集中講座が続きます。
<活版カレッジ>は、科学と、学術的根拠にもとづいた実技と実践を基盤とし、小型活版印刷機 Adana-21J ,  Salama-21A によるケーススタディ ・ メソッドをふんだんに駆使し、あたらしい時代の活版印刷の現場での、現実的な課題の解決方法を学ぶことを目的とします。

<活版カレッジ>は、基本的に春夏秋冬と年に四回開催されますが、ここ数回にわたって事前のご予約者が多く、ほとんど一般公募ができない状態がつづいています。 すでに夏期講座、秋期講座にも相当数のご予約をいただいております。 ともかく受講のご意思のあるかたは、まずご一報をいただくことをお願いいたします。

DSCN8633uu3640uu< 活版カレッジ 2015年春期講座 >
01月01日播種した<野沢菜>が開塾を待ちかねたように、花をつけての祝福でした。

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《 四月◯日、◯日、◯◯日、◯◯日 Salama-21A 操作指導教室 が盛んに開催されています 》

Salama-21A 操作指導教室<Salama-21A 操作指導教室> は、Salama-21A を購入予定のお客様のための操作指導教室です。
ご購入いただいた( ご購入予定の ) Salama-21A を、お客様ご自身で快適にご使用していただくために必要な操作方法の基礎を、短時間で集中的に習得していただくことを目的としています。そのため、各回最大 4 名様に限定、完全予約制の教室です。

アダナ・プレス倶楽部では、活版印刷機器のご購入の前に十分おはなしをさせていただき、またできるだけお客さまのご都合にスケジュールをあわせての受講をおすすめしております。 もちろん受講に際して印刷機などの購入は義務づけられていません。
詳細は <アダナ ・ プレス倶楽部 教室のご案内 Salama-21A 操作指導教室 >をご覧ください。

新年度というせいもあったのでしょうか、弥生四月は  <活版カレッジ> と <Salama-21A 操作指導教室>  が週三回を上まわるペースで開催されていました。
アダナ ・ プレス倶楽部では遠近を問わず、これから活版印刷をはじめられる皆さまに、できるだけ <Salama-21A 操作指導教室> の受講をおすすめしています。
…… としるしましたが、皐月五月連休があけの週は、すでに月-金にわたって <Salama-21A 操作指導教室> のスケジュールがいっぱいにはいってうれしい悲鳴です。
上掲の写真は長野県からご参加されたお客さまです。
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《 04月14日[水] ちいさな勉強会-第二回開催 》
かつて朗文堂には<ちいさな勉強会>があり、そこから誕生した図書や研究がたくさんあった。  今回誕生した<ちいさな勉強会>も以前と同様に、規模の大小や、動員人数の多寡を問わずに、自然に、自発的に発生した勉強会である。 詳細報告はいずれ。

活版歳時記 ────
三椏 ミツマタ の花  四月初旬   撮影者 : 古谷昌二さんのコメント

三椏の撮影地は、秦野からバスで大山山麓の蓑毛に行き、そこからヤビツ峠に通じる山道の途中に群生していました。 富士山の写真は、ヤビツ峠から少し登った岳ノ台 ( 標高およそ900 m ) からのズームアップしたものです。 いずれも秦野市に属している地区です

三椏や  やまさと ふかく  かをりける

― よみし ひとを しらず ―

234uu 235uu 233uu 246uuみつまた ( 三椏 ・ 三叉 ) は中国原産のジンチョウゲ科の落葉低木で、わが国でも暖地に栽培されています。 その枝がかならず三つにわかれることからその名がうまれました。 樹皮の靱皮をとって手漉き紙の材料とします。
櫻にさきだって、黄色の筒型小花をつけ、つよいかおりを発するので 「 結香 ムスビキ」 の和名もあります。 中国ではその色合いとかおりをめでて 「 黄瑞香 」 とされます。
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《 きょう、五月三日はさつき晴れ。 皐月が紅白の花をいっぱいにつけて春本番を祝うとき 》
五月は 「 皐月 」 とされ、さつき、つづじが百花繚乱の花をつけるときである。
五月はまた、新緑の季節とも、薫風のときともされる。 なかでもからりと晴れた日を 「 さつき晴れ 」 と呼んで、すがすがしく、ここちよい日本の春の日日がつづく。

なでしこ01 なでしこ02空中庭園 ( ベランダ鉢植え ) なでしこの寄せ植え。  昨年の晩秋に近くの花屋で160円で購入。 黒ポットに入れたままにしていたが、花の少ない冬のあいだもつぎつぎと花をつけてたのしませてくれた。
櫻が散ったころにはさすがに花も枝もかれていたが、すべてをチョキチョキと散切り頭にして化成肥料をあたえたら、また新芽がでて花をたくさんつけた。  ノー学部はなでしこは好みではないようで、ほとんど面倒をみなかったが、さすがにその生命力にはおどろいたようだ。

とろろあおい播種 トロロアオイの花。四月下旬、とろろあおいの種を播く。 容器はとりあえず卵のパックトレイにした。 まだ双葉だが、五月下旬におおきめの鉢に定植すれば、晩夏に薄黄色の大輪の花をたくさんつけるはずだ。 花は2013年10月のもの。

五月二日[ 土 ] は <八十八夜> であった。  この日は立春 ( 二十四節気のひとつ。 太陽の黄経が 315 度のとき。 ことしは02月04日12時58分 ) から八十八日にあたる。
平均気温がたかめの昨今ではあまり実感がないが、古来 「 八十八夜の別れ霜 」 とされ、この日からのちは、霜害の心配がなくなり、「 茶摘みどき 」 とされている。 

<八十八夜>のころの新芽を摘んだお茶は 「 新茶 」 とされて珍重される。 商店街の茶店の店頭には、緑色の地に白抜きされた 「 新茶 」 の のぼり が薫風にゆれるときとなる。
四季の変化にめぐまれたわが国の、まさに春たけなわのときである。

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《 きょう、五月三日はさつき晴れ。 憲法記念日でもあるが 》

検索大手の某社は、このところさまざまな記念日に、特別製のデザインをこらしたタイトルをトップページにおき、それを祝ってきた。
ところで黄金週間 ( 和製語  Golden week ) とされるいま、昨日の <八十八夜> にも格別の設定はみられなかったし、本日五月三日の<憲法記念日>にも、また、きょうとあすには九州で<博多どんたく>が開催されているが、それでもトップページには通常のカログラムが措かれるだけだった。

あす五月四日は <みどりの日>( 1989年 平成元年に制定された。 自然に親しみ、その恩恵に感謝し、ゆたかなこころをはぐくむ日とされる ) であり、あさって五月五日は鯉のぼりが躍る端午の節句 <こどもの日> である。
すなわちこれから三日間にわたって、日本国民の祝日がつづくわけであるが、はてさて、検索大手の某社はどうするのであろう。 ちょっと楽しみではある。
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五月六日[ 水 ・ 憲法記念日の振り替え休日] 追 記 =========
黄金週間 ( 和製語  Golden week ) もきょうで終わる。
長期休暇のすくないわが国ゆえ、できたら昨秋にいって収穫の多かった、チェコのプラハにいきたかった。 ところが円安がすすんで、昨年とおなじコースでも十数万円余計にかかることがわかって断念した。

【 リンク : 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

プラハ

01 02 03 04プラハで市販の 長尺観光絵はがき より
DSCN5855 DSCN5851rotunda_01rotunda_02ロトンダ系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)
DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 liturgisch_02テクストゥール系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

自国の通貨の価値をさげる、ないしはさがる ( 円安 ) とはそういいうことである。 ほんの一部の輸出指向型の企業が利潤をあげたとしても、ひろく国民の意欲は沈滞したままである。
その分海外居住のながい友人たちが、ドルやユーロをふところに、ひさしぶりに帰国してたずねてきたりしていた。 パリに居住してもう35年ほどにもなろうかという友人は、
「 久しぶりに紀伊国屋に寄ったけど、日本の図書はみんなえらく安っぽくなっているなぁ 」
と、なかばあきれたようにかたっていた。 悔しくもあり、なさけなくもあった。
また、町にはさまざまな国の観光客があふれている。 それだけでなく、一部の外国人の <爆買い> なども話題になる昨今である。
なにか複雑なおもいがしないでもない。

ところで先日しるした某検索大手のタイトルであるが、04月29日[水 ・ 昭和の日] からはじまった黄金週間 ( 和製語  Golden week ) に際して、なかなか含蓄のある対応をしていた。
  ◯ 04月29日[ 水 ・ 日本の祝日/昭和の日 ]    通常カログラム
  ◯ 05月03日[ 日 ・  日本の祝日/憲法記念日]    通常カログラム
  ◯ 05月04日[ 月 ・  日本の祝日/みどりの日 ]    バルトロメオ ・ クリストフォリ生誕360周年 特製カログラム
  ◯ 05月05日[ 火 ・  日本の祝日/こどもの日 ]     こどもの日 特製カログラム
◯ 05月06日[ 水 ・ 振替休日]                                通常カログラム

この間、某検索会社のトップページのカログラムをあらためてよくみたら、「 g 」 のディセンダーの右横に、ちいさく  日本  とあった。
いかに地球がちいさくなり、
国際化時代といえども、前述の円安問題とあわせて、考えさせられるできごとではあった。
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【友人 森郁男氏紹介】『瞽女 キクイとハル』(川野楠己著、鉱脈社刊) にあたっての礼状 》
長年の友人 : 森郁男さんは、詩人にして造形家であり、とてもこころのやさしいかたです。
このたび毎年恒例の、薩摩琵琶、正派 正紘会の『 琵琶演奏大会 』 のご案内とともに、
『 瞽女 キクイとハル 』 ( 川野楠己、鉱脈社 ) のご案内をいただきました。

ちなみに<瞽女 ごぜ>とは、「 盲御前 ( めくらごぜん )」 という敬称に由来する 女性の盲人芸能者のことです。( ウィキペディア : 瞽  女
近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に、北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人でした。

瞽女 キクイとハル

川 野  楠 己 著
四六判 並製 325ページ 定価 : 2,000円+税

<発行元 ・ 問い合わせ>
鉱  脈  社
880-8551  宮崎市田代町263番地
TEL. 0985-25-1758  FAX. 0985-25-7286
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こんな簡単な紹介を<朗文堂ニュース 4月28日>に掲載した。 すぐに森郁男氏からの達筆の礼状がはがきで届いた。 ここに紹介することには若干のためらいもあったが、はがきでもあるので紹介したい。
森郁男氏はがきこの紹介にあたって、当然たくさんの情報があるとおもって <詩人 ・ 造形家 森 郁男> でネット検索してみたが、やつがれのスキルでは情報に到達できなかった。  森さんはやつがれとはほぼ同世代だが、このような達筆なかたでもあり、また筆まめなかたでもあった。
お便りはいつも封書かはがきでいただき、@メールはなかったようにおもう。 おそらく森さんはデジタルメディアはあまり利用されず、それだけに検索などでは情報に到達しにくいのかもしれないとおもわれた。

やつがれは極めつきの悪筆で、その劣等感から、打圧式の英文タイプライター、打圧式和文タイプライターをはやくからもちいていた。 また専用ワープロが登場するとすぐに飛びついた。 したがって専用ワープロでは、「富士通 オアシス」、「シャープ 書院」、「NEC  文豪」などに次次とのりかえてきた。

その分パーソナル ・ コンピューターへの切り替えがおくれ、その後遺症 ( 俗称 IT 弱者 ) は無視できない状況にある。  つまりパソコンをもちいても、ほとんどが専用ワープロ時代のソフトウェアと大差の無いものをもちいている。
それよりなにより、最後の専用ワープロ ( 初期のものよりずいぶん小型になったとはいえ、その名もすごい ) 「 NEC 文豪 」 と、3.5 in ,  5 in ,  8 in などのフロッピーディスクが、机の引き出しを占拠したままである。
スタッフにはだいぶ以前に、もうディスク ・ ドライバーが無くなりましたから……、と宣告されているのだが、フロッピーディスクには貴重なテキストが保存されているわけだし、いまなおグズグズと廃棄に踏みきれずにいる。

それにしても、森郁男さんのことをどこかで皆さんにご紹介したいものである。

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《 04月06日 情報誌 MORGEN が 鈴木 篤著 『わたくしは日本国憲法です。』 書評を掲載 》
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株式会社遊行社 モルゲン編集部発行の <MORGAN  2015年04月06日号> ( 毎月一回発行。 「 モルゲン 」 はドイツ語で 〔 明日 〕 の意。 全国の中学校 ・ 高等学校の 「 朝の読書 」 実施校を中心に、全国中学校 ・ 高等学校などの教育施設に配布 ) において、明治学院学院長 木暮修也先生の筆によって、<あなた方の武器を失ってはいけない> と題して、鈴木 篤著 『わたくしは日本国憲法です。』 の書評を掲載していただいた。 木暮修也先生ならびに遊行社の皆さまに深甚なる感謝を申しあげたい。

皆さまのご支援をたまわり、『 わたくしは日本国憲法です。』 は順調な出荷がつづいている。 しかしながらわが国の憲法の周辺に暗雲が垂れこめているのもまた、昨今の憂うべき状況である。
ここに <殺さないで! 生かそう日本国憲法 『 わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい> の記録の一部を再掲載するとともに、同会の掉尾をかざって、声高らかに朗読された<日本国憲法 前文>を紹介したい。

◎ 主   催 : 殺さないで!生かそう 日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念のつどい 事務局
◎ 日   時 : 2014年09月06日[土] 午後01時-03時
◎ 場   所 : グリーンパレス 5 階 孔雀の間
〒132-0031  東京都江戸川区松島1丁目38-1
【 関連情報 : 『 わたくしは日本国憲法です。』  出版記念の集い 終了のご報告

9784947613905顔写真鈴木篤氏01 04

日 本 国 憲 法

施行、 昭和二二年五月三日

日 本 国 憲 法
前 文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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《 薩摩の国 鹿児島名物 かからん団子でごあんど! 》

< 花筏  朗文堂好日録-043 ふたつの桜餅 2015年03月23日 > で、ふつう 「 桜餅 」 と呼ばれている和菓子には、「 長命寺桜餅 」、「 道明寺桜餅 」 とされる二種類あり、その分布が東西に別れたりすることはなく、アメーバー状に双方の 「 桜餅 」 がひろがっていることを報告した。 これが意外に好評だったので( つい調子にのって )、今回も餅菓子を紹介したい。
桜餅

例年五月の初旬、端午の節句に際して、鹿児島の知人から送っていただくのが 「 かからん団子 」 である。 形状は 「 かしわ餅 」 と似ているが、ヨモギなどが刻みこまれており、甘さはほんのりとしたもので、むしろ風味と香りがたのしめて、「 かしわ餅 」 にまさる気がしている。
甘党のやつがれはこれが大好物で、一度に10個は食したいところだが、いつもノー学部にとりあげられ、わずかに三個ほどをちびちびと食す。 葉は食すにはチトかたい。

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かからん団子

若葉が芽ばえる皐月五月にあって、関東の 「 かしわ餅 」 と同様に、「 かからん団子 」 も、五月五日、端午の節句を中心に食される和菓子である。
カシワの葉は、新芽が育つまでふるい葉 ( 枯れ葉 ) が落ちず、新芽が成長して枯れ葉をふりおとすことから、「 子孫繁栄-家系が途切れない 」 という縁起をかついだものとされる。

端午の節句そのものは中国から渡来した風習であるが、中国ではその日にあたって 「 粽 ちまき 」 を食すことが多い。 したがって端午の節句に際して 「 かしわ餅 」 を食べるという風習は、18世紀ころの江戸で育まれたものとされている。 それが参勤交代で全国につたわり、地域ごとにすこしずつ変化して発展したものらしい。

そもそも樹木としての 「 かしわ」 は、中部地方以西にはあまり自生しないそうである。 したがって近畿圏以西ではもっぱらサルトリイバラの葉を代用して作られるようになったとされる。
薩摩の国、鹿児島の 「 かからん団子 」 も同様で、サルトリイバラもしくは同属のサツマ サンキライの葉をもちいている。

「 かからん団子 」 は、ヨモギなどを練りこんだ餅を、黒餡などで包んだもので、「 かしわ餅 」 というより、むしろ草餅にちかく、戦前の鹿児島の農村部では 「 ふっきぃい餅 」 と共に一部で手作りされていたという。
つまり鹿児島では 「 かから ( ん ) 」と呼ぶ葉 ( サルトリイバラもしくは同属のサツマ サンキライ。 かしわの葉ではない ) で草餅を包んだものである。 以前は庶民の菓子で、地元の和菓子店が地元客向けに作るケースが大半であったが、こんにちでは 「 かからん団子本舗 」 などが誕生して、薩摩土産としても販売展開しているという。
【 ウィキペディア : かからん団子  柏 餅  端 午

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《皐月五月で春本番。ベランダの艸花に蝶や蜂がやってくる朝が続く 》

< サイスケ > は、鹿児島市長田町の五代友厚生誕地をたずねたとき、石垣の割れ目にチンマリと張りついていた、まるで地苔類かとおもわれるほどのちいさな野艸を、三株、たばこの空き箱にいれて持ち帰ったものである。
かにかくに、五代友厚 ( 1836-85  幼名 : 徳助、通称 : 才助 ) は、そのうちに各方面であらたな震撼をあたえるとおもわれるが、いまのところはまだ静かにしておこう。
【 ウィキペディア : 五代友厚

サイスケの写真は、上から二葉が採種現場(2014年11月上旬)。
以下ベランダの鉢植えで、2015年03月末、04月末である。
冬を越した直後はデージーかとおもったが、どうやら世間一般では雑草の代表のように、忌み嫌われている、名を知らぬ野草のようである。 やつがれは雑草という名の艸はないと常常いっている。 むしろいかにも五代友厚の旧家に育つ艸らしくて面白いとおもう。 どんな花が咲くのか、しっかり見まもりたい。

DSCN8651 DSCN8664DSCN8561DSCN8652オレンジ ・ フユシラズ  ツルコザクラ
ツルコザクラは一年草のようで、春先には勢いをうしなっているが、オレンジ ・ フユシラズはツルコザクラを押しのけ、文字通り冬知らずで咲きつづけ、花柄つみを丹念にていたので、いまもって次次と花をつけている。 いつまで咲きつづけるかみていたい。冬知らずだけではないようだ。
   DSCN8558オレンジ・フユシラズ鹿児島うまれのいちご ( 品種忘却 )。鹿児島市内の種苗店で気まぐれに購入した。
寒風に耐えて冬を越したが、最近は植木鉢から大脱走をこころみていて困惑している。

DSCN8563DSCN8650 DSCN8644ムルチコーレ
DSCN8572本場由来の野沢菜-2015年01月01日播種。 花咲くはずが葉が茂るばかり…… 。 かく嘆いたのは弥生三月の終わりであった。
卯月四月の終わりには、これでは菜の花も顔色なかろうというまでのみごとな花を連日つけている。 小型のアゲハチョウと蜂がもっともお気に入りなのが、この野沢菜の花である。

蝶や蜂といっしょに花を楽しんだあと、種子を採種してご希望のかたにおわけするつもりである。 
DSCN8568DSCN8648野沢菜の花と種子──────────
《 五月五日、こどもの日。  おもいたって足利学校にいったはずが…… 》
ことしの五月の連休は、かくのごとく、どこに行くのではなく、なんとなく出社していた。
おもいたって、栃木県足利市のふるい教育施設<足利学校>にでかけた。 かつて足利のちかく、小山市に商用でしばしば出かけることがあり、その帰途に<足利学校>に寄ったが、なにかの都合で閉鎖されていた。
20150506173357288_0002 20150506173357288_0001 足利学校のちかくで DSCN8752浅草から東武線の特急でさほどの時間ではなく東武足利市駅につく。<足利学校>は徒歩圏内にあった。
旅の同行者、ノー学部の挙動が不審だった。 車中一枚のフライヤーをとりだし、せっかくだから、しかも近いから、<あしかがフラワーパーク>にいきたいという。
大混雑だった。ひとに中毒するやつがれ、疲労困憊。 されどおもしろくはあった。
報告はいずれまた …… 。
20150506173746921_0001あしかがフラワーパーク 栃木県足利市の大藤 夜八時春のおぼろ月が。足利市駅。

朗文堂好日録-044 わかれの弥生三月、であいの卯月四月。花花が満開です。

《 年度末、弥生三月も終わります。 それでもベランダのいきものたちは元気です 》

オレンジ ・ フユシラズ  ツルコザクラ
DSCN8558 
鹿児島うまれのいちご ( 品種忘却 )
DSCN8563
五代友厚 ( 幼名 : 才助 ) 生誕の地から採集した サイスケ
DSCN8561ムルチコーレ
DSCN8572野沢菜-2015年01月01日播種。 花咲くはずが葉が茂るばかり。
DSCN8568ウーパールーパー四世。名づけてウパシロウ。
DSCN8581 DSCN8578

《 三月三日は桃の節句、ひな祭 》
桃ならぬ、梅たよりが、南国九州から届いたのがちょうどこのころであった。

東風コチ吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

この歌を詠んだのは菅原 道眞(すがわら の みちざね  845〔承和12〕-903〔延喜12〕)である。
道真は平安時代の貴族であり、右大臣にまで列せられたが、宇田上皇と醍醐天皇との争いにまきこまれて誣告され、大宰権帥 ゴン ノ ソツ に左遷された。
その道真が京のみやこをさる時に詠んだのが<東風 コチ 吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ>である。

菅原道真は大宰府へ左遷され、この地で没した。
その死後に天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、その鎮魂のために天満天神として祀られ、信仰の対象となり、現在は学問の神として親しまれている。
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《 【朗文堂ブックコスミイク】 『わたくしは日本国憲法です。』 を <朝日新聞>東京版 ・ 山梨版が連続紹介 》
弥生三月は、いわゆる年度末でもあった。 ひとつの区切り目としてなにかとあわただしくなるときでもある。
2015年03月03日、『 朝日新聞 』 朝刊 第29面(東京)に 『 わたくしは日本国憲法です。』 が紹介された。 引きつづき、
2015年03月11日、『 朝日新聞 』 朝刊 第29面(山梨)に 『 わたくしは日本国憲法です。』 が紹介された。
< 憲法 > の周辺に暗雲がみられるこの頃である。 ご愛読をお待ちしたい。
【 関連URL : 『 朝日新聞 』 朝刊 第29面(東京)

顔写真鈴木篤氏 小

プリント わたくしは日本国憲法です。

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著   者 : 鈴 木  篤  すずき あつし
発   行 : 2014年07月26日 
定   価 : 本体 1,200 円+税(四六判 ソフトカバー 190 ページ)
      ISBN978-4-947613-90-5 C0036
おちかくの有力書店、オンライン ・ ブックショップでお求めください。
直送は送料別途請求にてたまわります。
朗文堂 営業部 : 160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9
            Telephone 03-3352-5070
             Facsimile   03-3352-5160
                              http: //www.ops.dti.ne.jp/~robundo
             E-mail :  robundo@ops.dti.ne.jp

【 新刊案内 : ブックコスミイク 私は日本国憲法です。
【 関連情報 : ブログロール 弁護士 鈴木 篤 のつれづれ語り

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《 03月14日[土] 【朗文堂ブックコスミイク】   出版記念講演会 髙野 彰 『洋書の話』を語る を開催 》

講演会web

【 出版記念講演会 】
髙 野 彰 『 洋書の話 』 を語る
◯ 日   時  :  2015年03月14日[土] 14:00 - 16:00
◯ 会   場  :  東洋美術学校 D 棟 学生ホール
◯ 主   催  : 朗 文 堂
◯ 後   援  : 学校法人 専門学校 東洋美術学校 産学連携事務局
P1160931P1160924P1160929[ 会場写真提供 : 中村将大さん ]

カバー表1

洋 書 の 話

◯ 著  者 : 髙  野   彰
◯ 発行日 : 2014年11月13日(初刷り)
◯ 発  行 : 朗  文  堂
◯ 定   価 : 本体3,700円+税

2015年02月12日より 第二刷り発行
A5判 並製本 ジャケット付 263 ページ
ISBN978-4-947613-91-2

【 リンク : [朗文堂ブックコスミイク 新刊紹介] 洋 書 の 話  髙 野 彰 著

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《03月17日[火] 新宿私塾第25期修了》

私塾25期修了

2014年09月30日[火]  新宿私塾入塾式の記録 新宿私塾第25期終了2015年03月17日[火] 新宿私塾修了式の記録

新宿私塾では、タイポグラフィにおける 「 知 ・ 技 ・ 美 」 のみっつの領域で、バランスのよい学習をモットーとしている。 それはまた 「 知に溺れず、技を傲らず、美に耽らず 」 という、つよい自戒をともなうこととなる。
新宿私塾第25期は、爽秋の2014年09月30日にスタートし、ほぼ正月休みもなく開講され、早春の2015年03月17日に修了した。

開塾から半年後、修了式当日の、自信にあふれた塾生の皆さんの、お顔と、お姿を紹介した。
出会いはうれしく、別れはさびしいものである。 それでも皆さんは多くの収穫をもって新宿私塾を修了され、造形界の前衛としておおきく羽ばたき、旅だっていった。
新宿私塾は、タイポグラフィの前衛としての連帯感をもって、修了生の皆さんをいつでもあたたかく迎え、活躍のようすを見守り続けている。

DSCN8566額 田 王  ぬかたのおおきみ
冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし 鳥も來鳴きぬ 咲かざりし . . . . . .

私塾26期募集終了今回は一般公募は実施いたしません。 ご了承ください。

【 リンク : [新宿私塾] 新宿私塾第25期 全課程を修了いたしました

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《 03月18日[水] ちいさな勉強会-再発足 》

かつて朗文堂には<ちいさな勉強会>があり、そこから誕生した図書や研究がたくさんあった。  今回誕生した<ちいさな勉強会>も以前と同様に、規模の大小や、動員人数の多寡を問わずに、自然に、自発的に発生した勉強会である。 詳細報告はいずれ。 

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《 03月19日[木] [活版カレッジ] 冬期昼間部講座 全課程を修了 》

活版カレッジ < 活版カレッジ 冬期講座 > は、2015年01月08日から開始され、03ヶ月間、全09回の講座がつづき、03月19日に修了した。
ここのところ、< 新宿私塾 > の修了生が < 活版カレッジ > へ、その逆に、< 活版カレッジ > の修了生が < 新宿私塾 > へと、両講座の交流もめだってきている。
DSCN7934DSCN7516 <活版カレッジ>は、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の直接指導により、本格的な活字版印刷術の知 ・ 技 ・ 美 の 三領域を バランス良く学ぶ場である。
今回の 「 2015年冬期講座受講者 」 の皆さんは、お若いかたばかり、男性女性各二名、愛知県からご参加の受講生もいた。 三月間とはいえ少人数かつ濃密な内容なので、最終日の03月19日は、さすがに皆さん別れがたいおもいがあって、ちいさな懇親会 兼 お別れ会を開催されていた。

DSCN8566額 田 王    ぬかたのおおきみ 
あかねさす  紫野行き  標野行き  野守はみずや  君が袖振る

それでも 《 活版カレッジ 》 修了生は、ほぼ毎月 < 活版カレッジ アッパークラス > が開催されているし、さまざまなイベントでの再会や、もはや伝説と化しつつある < お餅と餃子の忘年会 > はますます盛況である。これからも、しばしばお会いできることになる。
<活版カレッジ>春期夜間講座は一般公募を経ずに、事前予約者をもって、まもなく、2015年04月09日[木]から開始される。

【 リンク: [活版カレッジ] 冬期昼間部講座 全課程を修了しました

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《 03月21日[土] MATSYA GINZA  ターシャ ・ テューダー展、新宿中村屋 中村屋サロン美術館 》

< ターシャ ・ テューダー展 > の図録を製作された レッツ ・ ラーン ・ スタジオ/出原 速夫さんのご紹介で、銀座松屋にでかけた。  会場は女性客でぎっしり満員の大混雑。
人混みの苦手なやつがれ、参観はほどほどに、エレベータホール前に避難して、同行したノー学部の参観終了を待つ。 ほかにもご同類とおもえるオヤジが数人いた。  たまたま視線が合って、お互い苦笑い。

銀座は苦手なので、地下鉄で新宿に移動。 新宿中村屋のサロン美術館を訪問。 ちいさいながらも充実した作品で堪能した。 報告が遅れている<碌山美術館>ともども近日中に紹介したい。
ひさしぶりの充電の一日ではあったが、どうやらこのとき風邪をひいたようで、いまもって鼻がグズグズしているし、ときおり喘息の発作にみまわれ、結構ひどいことになっている。 それでもタバコをやめないので、たれにも同情してもらえない。 まぁそれでもいいけどネ。

20150312144204579_0002ガーデニング ・ 絵本 ・ ドールハウス  愛する暮らし
生誕100年 

ターシャ・テューダー展

◯ 会  場 : 松屋ギンザ 8 階イベントスクエア
◯ 日  時 : 2015年3月18日[水]-2015年4月6日[月]
<最終日は17:00閉場 ※入場は閉場の30分前まで>
◯ 入場料 : 一般 1,000円
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アメリカ ・ バーモント州の山奥で、ガーデニングを楽しみ、92歳で亡くなるまで創作活動を続けた 絵本作家 ターシャ ・ テューダー ( 1915年-2008年 )。
子育てを終えたターシャは、大好きだったコーギ犬やペットのチャボと共に、鶏や山羊を飼い、毎日の生活のほとんどを手作りするライフスタイルを続けました。 その合間に絵を描き続け、70年間に発表した絵本は約100点にのぼります。
 [ 会員の レッツ ・ ラーン ・ スタジオ/出原 速夫さんからのご紹介です ]

【 リンク : [会員からの情報] ターシャ ・ テューダー展 MATSUYA GINZA 】

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《 03月23日 タイポグラフィブルグロール花筏、活版 à la carte に ふたつの桜餅を紹介 》

この記事は愛読者に楽しんでいただけたようである。 閲覧カウンターが伸びている。
桜餅にこんなふたつの分布があったことには、やつがれもおどろいた。 2つの櫻餅〈 花の春を待つこころ ―― 梅だより、櫻前線 〉

ことしの冬はことのほか寒かった。 また、おおきな事件や暗い話題も多く、世相はおもくよどみ、みんながコートの襟を立て、背中をまるめて黙黙とあるいていた。
だからこそ、太宰府からつたえられる梅だよりにこころをなぐさめられ、いまは櫻前線の北上を待ち望んでいる。

こんなときのお茶うけにぴったりなのが < 桜餅 > である。
ところがこの < 桜餅 > はチト厄介な呼称であることに気づかされた。 つまり 地方 ・ 地域 ・ 出身地によって < 桜餅 > の素材と形態と呼び名までがおおきく異なるのである。
みそ ・ 醤油をふくめ、食品全般にわたって地域性がある。 それらはおおむね、関東風 ・ 関西風などに大別できるが、< 桜餅 > のばあいは、まだらというか、アメーバー状にふたつの < 桜餅 > が分布しているのが特徴である。

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 【 正岡子規 】  花の香を  若葉にこめて  かぐはしき  桜の餅 モチヒ  家づとにせよ

【 リンク : よき日がいつも-日日之好日*04 ふたつの桜餅

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《 03月27-28日 [アダナ ・ プレス倶楽部]  第18回 活版ルネサンスフェアを開催  》
好天にめぐまれ、多くの来場者をお迎えした。活版ルネサンスの確かな手応えを感得した二日間でもあった。
活版印刷実践者は堅実に増加をつづけている。 したがって活版印刷関連の機材や資材を切れ目無く供給できるように、今後とも努力をつづけてまいりたい。

活版ルネサンスWeb

*   *   *
と き * 2015年03月27日[金]  28日[土] 13 : 30 ― 19 : 00
ところ * 朗 文 堂 4F-B
160-0022  新宿区新宿2-4-9  中江ビル 4 F
Telephone  : 03-3352-5070
[ 来場ご案内マップ ]
*   *   *
 春うらら、梅たよりもチラホラきかれる良い時候になりました。
いよいよ創作の春がはじまりました。 皆さまお元気にてご活躍のことと存じます。
《 活版ルネサンスフェア 》 は、通常 春と秋の 2 回にわたって開催され
アダナ ・ プレス倶楽部会員、活版造形者、活版ファンの皆さまを対象に
活版印刷関連の新製機器と、資材、そして一部は中古品の
活版関連機材 ・ 資材の 展示即売会 です。
手狭な会場ながら、 貴重アイテム、 マニアックな商品が溢れています!
春の創作シーズンに、このチャンスをぜひともお役立てください。
DSCN8591DSCN8593DSCN8584DSCN8601DSCN8602【リンク:第18回 活版ルネサンスフェア開催! 終了しました

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《 03月31日[火]、2015年度、平成26年度
の終了。みそか。あすからは卯月四月がはじまる 》
今週だけは < 新宿私塾 > < 活版カレッジ > も開講されない、しずかな週である。
さようなら、またお会いしましょう……、を繰りかえした三月でもあった。 集うては散じ、別れがあっても、また出会うことで活力が生じる。 そんな三月の日日であった。
DSCN8617 DSCN8614 DSCN8609 DSCN8608 DSCN8618 DSCN8619 DSCN8621きょうで弥生三月は終わる。 あすからは卯月四月である。
新宿御苑が櫻の名所になって人混みがひどい。 櫻はあわただしく咲き、ひと雨で散り敷く。だから はかなさ の象徴でもある。
入苑券売り場が長蛇の列をなしているので、脇の遊歩道で花の散策をしてきた。 写真は、櫻、ミモザ、山吹、三椏ミツマタである。
卯月四月、春のいぶきに背をおされ、あたらしい道を歩みだすときでもある。

朗文堂好日録-043 ふたつの桜餅 ── 花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 モチヒ 家づとにせよ 子規

2つの櫻餅
《 花の春を待つこころ ―― 梅だより、櫻前線 》
ことしの冬はことのほか寒かった。 また、おおきな事件や暗い話題も多く、世相はおもくよどみ、みんながコートの襟を立て、背中をまるめて黙黙とあるいていた。
だからこそ、太宰府からつたえられる梅だよりにこころをなぐさめられ、いまは櫻前線の北上を待ち望んでいる。

こんなときのお茶うけにぴったりなのが < 桜餅 > である。
ところがこの < 桜餅 > はチト厄介な呼称であることに気づかされた。 つまり 地方 ・ 地域 ・ 出身地によって < 桜餅 > の素材と形態と呼び名までがおおきく異なるのである。
みそ ・ 醤油をふくめ、食品全般にわたって地域性がある。 それらはおおむね、関東風 ・ 関西風などに大別できるが、< 桜餅 > のばあいは、まだらというか、アメーバー状にふたつの < 桜餅 > が分布しているのが特徴である。

A型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅

DSCN8353江戸風桜餅、関東風桜餅ともする。 1691年 ( 元禄04 ) 江戸向島の長命寺の門番であった山本新六が、隅田川の土手の櫻の葉を塩漬けにして、餅に巻いたのがはじまりとされる。
塩漬けにしておいた櫻の葉を塩抜きし、小麦粉 ・ 白玉粉などを丸く薄くのばして熱し、さらし餡にまく。

分布/関東甲信地方、東北地方( 福島県  ・ 岩手県 ・ 青森県旧南部藩地域 ・ 秋田県 )、 宮城県 ( AB 混在地 )、静岡県 ・ 長野県 ( A 外縁部、B も混在 )、石川県金沢市 ( 局所伝授型 ・ 出雲松江藩主/松平治郷 不昧 1751-1818 が A を持ちこんだとされる )

B型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型

道明寺01上方風桜餅、関西風桜餅ともする。  A 長命寺桜餅がもととされる。 糯米モチゴメをもちい、それを石臼などで挽いてくだく 「 道明寺粉 」 をもちいる。
大阪府藤井寺市に、材料の道明寺粉の由来になったとされる 「 道明寺 」 がある。 餅には弾力と粘りがあり、食感はかわる。

塩漬けにしておいた櫻の葉を塩抜きし、道明寺粉を蒸して餅をつくり、これに餡をつめて櫻の葉につつんだ構成となる。 ちょうどおはぎにおける餡と餅が内外に逆転した形態となる。
 
分布/近畿地方、北陸地方、四国地方、九州地方、東北地方日本海側 ( 山形県庄内地方、青森県津軽地方 )、北海道 ( 北前船で伝えられた )、関東甲信地方  ( AB 共存型、この地域では A 長命寺を 「 桜餅 」 と呼び、B 道明寺は 「 道明寺 」 と呼ぶ )、秋田県 ・ 石川県金沢市 ( この地方は A 長命寺がつたわったところ )。

もちろんこうした伝統型の和菓子にあっては、菓子匠が独自の工夫をこらすし、さまざまなバリアントも誕生しているが、おおざっぱにいって、上掲のように、まだら状に、ほぼ日本全土で製造 ・ 販売されているようである。
【 参考資料 : ウィキペディア 桜餅
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《 三時のおやつに 桜餅 を食うそうとしたところ …… 》
三寒四温、寒暖あやなすころではあるが、うららかな陽光にめぐまれた日などの 「 おさんじ 」 には桜餅がちょうどよい。
朗文堂からほどちかくに新宿追分があり、そこの老舗 <追分だんご本舗 > では名物の追分団子のほかに、四季折折の和菓子を販売している。
ついでながら、<ラッタラァ~ 〽 三時のおやつは 文明堂~ ラッタラァ~ ラッタラァ~ ♫ > の CM を流していたカステラの文明堂東京本店が、かつてはおなじ町内にあり、しばしば文明堂宛の郵便物が朗文堂に誤配されていた。

< 追分だんご本舗 > の桜餅は、A型 長命寺桜餅-クレープ平型桜餅である。
ついでに観察してきたが、新宿駅前の老舗 < 新宿中村屋 > も、A型 長命寺桜餅-クレープ平型桜餅であった。

店内をみるかぎり、両店ともに B型 は影も形もなかった。
DSCN8353 追分だんご02 追分だんご01ところが、B 型 道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型の強固な地盤である、九州福岡出身の大石には、このA型 長命寺桜餅-クレープ平型桜餅では物足りないものがあったようである。
そのため、わざわざ足をのばして、伊勢丹の地下食品売り場にある < 叶 匠壽庵 >( カノウ ショウジュアン  滋賀県大津市が本拠 )で、B型 道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型も買ってきた。

大石にとっては、これが<桜餅>であり、その余のものは桜餅ではないらしい。
< 叶 匠壽庵 > のカタログをみるかぎり、同店では A 型 長命寺桜餅-クレープ平型桜餅は製造していないようであった。
道明寺01 叶01 叶02 叶03こうして小社に二種類の桜餅が揃った。 ほとんどの女性は、この二種類の桜餅の存在を知悉しているようだったが、男性、それも地方出身者となるとまるではなしはちがってくる。
たまたま数人があつまったとき、このふたつの桜餅が話題になった。
A 型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅
B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型

◎ 山本さん 50代前半。 京都出身、在京30年ほど。
B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型が桜餅。  A はなに? 見たことないな。
◎ 渡辺さん 40代後半。福岡出身、在京25年ほど。
B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型が桜餅。  B は柏餅、あれっ違うかな。
◎ 日吉さん 30代前半。 静岡県出身。
A 型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅が桜餅ですね。 B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型は <道明寺> です。
◎ 鈴木さん 50代後半。 東京出身。
A 型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅がもともとの桜餅。 最近はスーパーなどでは A B を一緒にパックして < 桜餅 > として売っている。 でも B は道明寺と呼んでいた。
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そしてやつがれ。静岡県出身の日吉さんと同様に、桜餅分布図では A B 混在地とされる、信州信濃、長野県の出身である。
オヤジはともかく甘いものに目がなかったので、「 おさんじ 」 にはお菓子がつきものだった。
かすかな記憶では、「 大島屋 」 の桜餅は、A 型  長命寺桜餅-クレープ平型桜餅であり、「 㐂樂堂 」 の桜餅は、B 型  道明寺桜餅-おはぎ内外逆転型だったと記憶している。

かにかくに、やつがれ、糖尿病予備軍宣告をうけている身であるというのに、A B ふたつの桜餅をおいしくいただくことになった。 いやしくも双方ともに優劣つけがたくおいしかった。
櫻咲く、本格的な春のあしおとがきこえるような今日この頃ではある。

DSCN8369

 【 正岡子規 】  花の香を  若葉にこめて  かぐはしき  桜の餅 モチヒ  家づとにせよ