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タイポグラフィあのねのね*004 アンチモンの原料鉱石、輝安鉱

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱 キ-アン-コウ

き-あん-こう【輝安鉱】――広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで……》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の有力社員であるが、ご本人のご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 p106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いそうである。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足――蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査もなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからのご指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

  • 〔福地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891 p6)
  • 〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933 p61-2)
  • 〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934 p21-22)
  • 〔島屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p102-6、p175)

〔福地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。(中略)従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844―1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844―1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋〕
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。(中略)

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。(後略)

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられる。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70―80%、錫1―10%、アンチモン12―20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されている。

タイポグラフィあのねのね*003|東京築地活版製造所|『活字と機械』大正三年版「年賀状用活字」

(^O^)  いささか時季はずれの企画ですが  (^O^)
年賀用活字とその名称

『活字と機械』
(株式会社東京築地活版製造所 編集兼発行人・野村宗十郎 大正3年6月)

小冊子『活字と機械』はこれまであまり紹介されなかった資料である。同書はタイポグラフィを、本来の「情報伝達術のための総合システム」としてとらえ、その活字と機械の両側面から、大正初期(大正3年、1914)におけるタイポグラフィを立体的に紹介したものである。
造本データは以下のとおりである。

装  本  大和綴じを模した、いわゆる和装本仕立て
表  紙  濃茶の厚手紙 金色インキ、銀色インキほか特色使用。
      シーリング・ワックスを模した登録商標「丸もにH」
寸  法  天地226 × 左右154mm
本  文  頁  ペラ丁合 67丁134頁(裏白ページ多し)
      活字版印刷、写真網目凸版印刷、石版印刷、木口木版印刷などを併用。

『活字と機械』の魅力は様々にあり、多方面からの研究に資すところがあるが、ここでは2丁4頁にわたって紹介された「年賀用活字」を紹介しよう。外周部にはいかにも大正初期らしく、アール・ヌーヴォー調の装飾枠が本書図版ページに共通してもちいられている、この装飾枠は石版印刷(とみられる)特色によって印刷されている。

現在でもその傾きがみられるが、端物印刷業者にとって「年賀用印刷」は、歳末最大の「稼ぎどころ」であった。町角には《年賀状印刷賜ります》のノボリがはためき、歳末風景を華やかにいろどったものである。
そのため活字鋳造所はデザインに意を凝らし、さまざまな、おおきなサイズの「年賀用活字」を製造・発売して、その需要に応えた。もちろん「年賀用活字」は、活字鋳造所にとっても重要な歳末商品であった。

⁂年賀用壹號活字⁂

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形(シャデッド色版)

ゴチックシャデッド形
壹號楷書
フワンテール形
ビジヨー形
三分二フワンテール形
●左頁下段右より左へ順に
貳號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形
参號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形

●見開頁右、上段右より左へ順に
フワンテール形
ゴチックシャデッド形
ゴチック形(シャデッド色版)
蔓形
●見開頁右、下段右より左へ順に
矢ノ根形
ゴチツク霞形
唐草形
鶴形
●見開頁左、上段右より左へ順に
松葉形
笹の葉形
梅が枝形
龜形
●見開頁左、下段右より左へ順に
篆書形
やまと形
初號楷書
若葉形

⁂年賀用三十六ポイント活字⁂

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形
フワンテール形
矢の根形
梅が枝形

松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形などと、和のふんいきをつたえたい ── むきへの開発も目立つ。またいかにも大正期らしく、ハイカラな名称とエスプリの効いた形象もみられる。
「フアンテール形」は「FANTAIL  キンギョなどの扇型の尾、孔雀鳩」としてよいとみなす。「ビジヨー形」は「BIJOU  宝石:装飾物」であろうか。
これらは名称からして、洋のふんいきをつたえたい ── むきなども開発されている。

また、「年賀用活字」は書体デザイナーの技倆の見せどころでもあったので、時代の風潮や、歴史的視点から材をとったとみられる活字が多いのも特徴である。

ことしもたくさん年賀状をいただいた。ありがたいことだが、いまだに整理がつかず、年賀状に添えられた「移転通知」「電子アドレス」情報変更を転記できないままにいる。
そんないま、大正初期、号数制からポイント制への転換と、機械製造をより幅広く展開しようとしていた東京築地活版製造所の記録をみている。稿者はそろそろわが国のタイポグラフィ研究も、活字唯美論中心主義から脱却する時期かともおもっているが、「松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形」などの活字をみて、ニヤリとするのもわるくは無いようだ。

タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

【角 字 かく-じ】

10×10の格子-グリッドで構成された工芸の文字

「 伊呂波寄名頭字儘 ―― 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし 」
[ 釈読 : この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし ]
いわゆる文様帳 『伊呂波引定紋大全』 ( 盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地] 明治30年頃  雅春文庫蔵)

「かくじのわり」 ── おもに染色士がもちいた工芸の文字として、角字の割り出し技法のほか、各種の 「地紋 モヨウ 割り」 として、萬字繋  マンジツナギ、毘沙門 ビシャモン 地紋、亀甲 キッコウ 地紋などが、その製作技法とともに簡潔に紹介されている。
いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)

ブログ版朗文堂ニュース、2010年10 月05日号に、《 紙漉ツアー好評裡に終了しました 》  と題する報告記事がある。
その最後の部分で、五日市にある 「黒茶屋」 の暖簾を紹介した。 ここに改めて該当部分を紹介する。hakomoji1-300x193

サービスカットはランチョン会場 「黒茶屋」 の暖簾です。 レタリング関係の書物ではこうした文字を 「籠字」 としたものもありますが、チト疑問。   「籠字」 は双鉤字であり、籠写しにした文字です。  関心のあるかたは 『広辞苑』 でご確認ください。
それではこうした文字はなんというのか、「箱字?」……。  かつてはイナセな職人のハッピや、祭りの印し袢纏などでよくみた形象です。  この字の由来についてご存知のかたはご教授ください。


黒茶屋と書いてありました。
*        *        *

しばらくして、《紙漉ツアー》 にも同行された、友人の春田さんから、写真画像が添付された以下のような @メールをいただいた。

昨夜、御社ブログの 「黒茶屋の暖簾」 の項を拝見いたしました。
先日はうかつにも、わたしはこの文字を 「箱文字」と呼んでいましたが、その後、手元にあった明治30年代発行の『伊呂波引定紋大全』 という、いわゆる文様帳(呉服の文様を確認するために使用していたものらしい)を調べてみました。 そこには 「かくじ」(目次には角字)という言葉が用いられていました。「かくじのわり」 とされた文字作成用のマス目も送信致します。

この 『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』 のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。

ところが現代では『伊呂波引定紋大全』 のような実用書が刊行されることがすくなく、むしろ「芸術書」 や 「作品集」 が氾濫しているために、いつのまにか、こうした工芸 ・ 技芸の文字があったことが忘れられている。
ときおり筆者は 「 現代の文字と活字の風景はさびしいものがある 」 としるすのには、こうした背景もある。
──────────
春田さんのご指摘のとおり、「黒茶屋」の暖簾にしるされていた文字は、レタリング書の解説などにみる「籠字・駕籠字」ではなく、あきらかに「角字 かくじ」であった。
おそらく「黒茶屋」の暖簾は、現代のレタリングデザイナーや、タイプ・デザイナーなどと称するひとの手によるものではないだろう。
なぜなら、こうした人たちは「角字」 を知らないから書けないのである。 それだけのことである。

ただし、プロであるから、その構成と技法を知れば、書けるようになることはもちろんである。 しかしながら、悲しいことに、ほかの多くの技芸家と同様に、わが国の「デザイン」とされる分野は、長い欧化思想崇拝の歴史をもち、「技芸家」にかえて「芸術家・美術家」であろうとした。そして、いまだにその埒外にたつことができないでいる。

もちろんかつての染色士たちも、「角字」を「紋帖」などの資料が無くてはこうした文字を書くことはできなかったはずである。  ただ、かつての染め物士は 「角字」の存在を知っていたし、簡略な実用書をもっていた。  したがって目的と用途にあわせて、自在に文字や文様を書き分けることができた。

「かくじのわり」 の写真をみると、この実用書に紹介された 「伊呂波寄名頭字儘」 は、10 × 10のグリッド ( 格子 ) によって分割され、構成された文字であることがわかる。 つまり書芸の文字ではなく、工芸の文字である。
換言すると、現代のデジタル ・ タイプの業界用語では、「ビット・マップ」 が10 × 10 の100 の格子によって構成された文字である。 したがって、ドット・フォントやビットマップ・フォントと「基本理念」においてはなんら異なるところがない。
これだけをみても、明治までの町の無名な技芸家たちは、現代のレタラーやタイプデザイナーに負けない、あるいは凌駕するだけの、豊富な知識教養と、すぐれた技倆をゆうしていたことがわかる。

與談ながら…… 、若くて意欲的なデザイナーが、しばしば 『グリッド・システムズ』を教えて欲しいと、勢い込んでやってくることがある。
以前はその原本と関連図書を紹介し、拙訳のコピーを渡したりもしていた。  ところが説明すればするほど、かれらは次第にガッカリした表情になり、拙訳を渡すと明らかに期待はずれといった表情にかわり、ついには当初の勢いはどこに消えたのか、肩を丸めてお帰りになることが多かった。

どうやらこうした人たちは、『グリッド・システムズ』が、欧州の一部の地域における、神話に満ちた秘伝か、なにやら玄妙な秘術であるかのような幻想をいだいてやってくるらしい。  もちろん一部ではそのように紹介する指導者も存在するのだろう。  どうやらそれに応えてあげなかったのがお気に召さなかったらしい。

閑話休題   角字は工芸者が伝えてきた文字であるから、『書道基本用語詞典』(春名好重ほか、中教出版、平成03年10月01日) には紹介されていない。
国語辞典としての 『 広辞苑 』 には ── かく-じ 【 角字 】 ③  模様 ・ 紋所などに用いる四角な字体。──  として紹介されている。

タイポグラフィ あのねのね 001 *淳化閣帖

じゅん-か-かく-じょう 【 淳 化 閣 帖 】

『淳化閣帖』 諸家古法帖巻五 中書令褚遂良書
(宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

『淳化閣帖』 款記 (宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

じゅん-か-かく-じょう 【 淳化閣帖 】
中国宋王朝第2代皇帝 ・ 太宗(976-997)が淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の、歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書であった王著(オウチョ ?―990)に命じて、編輯、摹勒(モロク 摸倣によって木石に彫刻)させた拓本による集法帖。10巻。

内容は、拓本集のような趣だが、全10巻中、3巻が王羲之 オウギシ、2巻が王献之 オウケンシで、二王父子が別格の扱いになっている。その題を紹介する。

法帖第一  歴代帝王
法帖第二  歴代名臣
法帖第三  歴代名臣
法帖第四  歴代名臣
法帖第五  諸家古法帖
法帖第六  王羲之書一
法帖第七  王羲之書二
法帖第八  王羲之書三
法帖第九  王献之書一
法帖第十  王献之書二

法帖 ホウジョウ とは、先人の筆跡を紙に写し、石に刻み、これを石摺り拓本にした折り本のこと。 ここから派生した製本業界用語が 【法帖仕立て】 である。 法帖としては、この宋の『淳化閣帖』、明の『停斎館帖』、清の『余清斎帖』などが著名である。

『淳化閣帖』の用紙は 澄心堂紙 ヨウシンドウシ、墨は李廷珪墨 リテイケイボク をもちいて拓本とし、左近衛府、右近衛府の二府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」である。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられない。 わずかに東京台東区立書道博物館に、虫食いの跡が特徴的な2冊の原拓本『夾雪本 キョウセツボン』がのこされているのにすぎない。

同館所蔵書はきわめて貴重なもので、王羲之の書を収録した第七、第八の2冊である。これは完成直後の初版本(原拓本)とされている。命名の由来は、虫食いの跡が白紙の裏打ちによって、あたかも雪を夾んだようにみえることから「夾雪本」の名がうまれた。所蔵印から、顧従義、呉栄光、李鴻章(1823-1901) らの手をへて、1930年代に初代館長・中村不折の手にわたった。

『淳化閣帖』 法帖第七 王羲之書二 夾雪本 (台東区立書道博物館蔵)

『淳化閣帖』法帖第八 王羲之書三 夾雪本(台東区立書道博物館蔵)

「勅賜の賜本」 としての『淳化閣帖』は数量がきわめてすくなく、すでに宋代において、原刻本からふたたび石に刻して帖がつくられた。そのままの形で刻したものを翻刻本 ホンコクボン といい、その内容や順序に編輯を加えたものを類刻本という。

宋代の翻刻本では賈似道(カジドウ 1213-75) による『賈刻本 カコクボン』、寥瑩中 リョウエイチュウ による『世綵堂本 セサイドウボン』が著名である。
重刻本としては『大観帖 タイカンジョウ』、『汝帖 ジョジョウ』、『絳帖 コウジョウ』、『鼎帖 テイジョウ』(書道博物館蔵)などがあるが、これらはいわゆるかぶせ彫りの「覆刻本」がおおく、真の姿を伝えているとはいいがたい。

明代になっても多くの翻刻本『淳化閣帖』がつくられた。顧従義 (コジュウギ 1523-88)による『顧氏本、玉泓館本 ギョクオウカンボン』、潘雲龍 ハンウンリュウ による『潘氏本、五石山房本 ゴセキサンボウボン』 などが著名である。

清代における翻刻本に『西安本』がある。これは現在陝西省西安の碑林博物館に展示されている。 重刻本としては清朝第6代皇帝 ・ 乾隆帝(在位1735-95)の勅命による『欽定重刻淳化閣帖』 があるが、これはあらたな編輯をくわえてつくられた、重刻による法帖である。

一般に『淳化閣帖』 と称されるが、これは最後の款記に「淳化三年壬辰歳十一月六日奉旨摹勒上石」 とあることによる。 また完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。

編輯摹勒したのが王著であるとされるのも確証はない。 王著は淳化元年 (990) に歿している。 むしろ王著が中心となって編輯し、その没後に完成したものとみられている。

参考資料 / 『宋拓淳化閣帖 』  影印本 中国書店 1988年3月
         『書道基本用語詞典』 春名好重 中教書店 平成3年10月1日
           『台東区立書道博物館図録』 書道博物館編 台東区芸術文化財団 平成12年4月1日