【字学 活字と機械論攷シリーズⅠ】 <旧 外浦町ホカウラマチ由来>碑をめぐって-{活版さるく補遺}

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 旧 外浦町由来 [ほかうらまち 振り仮名が彫られている]

この地はもと外浦町と呼ばれた
元亀二年(一五七一年)大村純忠の町割りに
より開かれた長崎最古の町である。
爾来糸割符会所、長崎奉行所等が
置かれ長崎で最も枢要の地として栄
えた。また幕末には海軍伝習所や医
学伝習所が設けられわが国文明開化
胎動の地ともなった。
昭和三十八年(一九六三年)町制変更によ
り万才町(現在地)、江戸町となり四百
年に及ぶその歴史を閉じた。

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[古谷昌二]
この碑文は、万才町の一画に設置されていた石碑の表面に刻まれた碑文を、朗文堂写真から判読したものである。
昭和三八年五月に町界町名変更があったが、それ以前にも、旧島原町が万才町に、町名の無かった出島が出島町になり、明治以前の古地図とは若干の相違が見られる。

この写真が撮影された2010年のころ、「旧 外浦町由来」碑は、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の玄関脇に設置されていたという。
しかし平成25(2013)年5月7日に「農林中央金庫長崎支店」は長崎市出島町1-20に移転しており、現在この写真のビルは取り壊されて工事中(2016年6月30日閲覧)となっている。
したがってこの碑の所在はいまのところ不明である。

{新宿餘談}
この「旧 外浦町由来」碑の写真は2010年晩夏に撮影したものである。
同行したのは故 阿津坂 實 翁、元長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏、それに大石とやつがれだった。

2-1-49043 RIMG0084 RIMG0083阿津坂翁の「活版さるく」は、いつも出島にある長崎県印刷会館からはじまり、「唐通詞会所跡」碑、「活版伝習所跡」碑(元興善小学校・新興善小学校。現 長崎市立図書館 脇 長崎市興善町1-1)から「活版さるく」をはじめるのを常とした。

ついで「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前に設置されていたが、のちに同ホテル内ロビーの一隅に移設された。現在はマンション工事中のため碑文の所在は不明)をまわるのが定番のコースだった。
DSC01028 DSC01024 2016年06月{崎陽探訪 活版さるく}では、「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前)も訪問した。ホテルは取り壊され、マンションの工事中であり、碑文は見あたらなかった。

そこから大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷)を案内されるのを常とされていた。
これらの碑の建立に際しては、阿津坂翁が多大な尽力をなしていたことは紹介した。

「新町活版所」に関しては諸文献でも触れているので、ここでは「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」に関して『平野富二伝』(古谷昌二)から紹介しよう。

小倉藩蔵屋敷は明治維新後に小倉藩が退去し、その屋敷の一部を買収して本木昌造の経営する「新塾活版製造所」が設けられた。平野富二は後にこの活版製造所の経営を任せられることになる。
なお、活版所と活版製造所は明治28年(1895)9月に解散するまで存続した。
この場所は現在では興善町5番の区画に相当し、丸善ハイネスコーポと食糧庁長崎事務所が建てられている。
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脚が弱られた阿津坂翁のために、このときの移動はもっぱらタクシーだった。
1997年に閉鎖された「新興善小学校」は、2008年にあらたに開設された「長崎市立図書館」にすっかり変わっていた。当然ふたつの碑文の位置もいくぶんかわっていた。

どこのまちでもありがちなことではあるが、本木昌造宅が外浦町5のあたりにあったことが確実視され、また生家の矢次家をでて独立し、別家平野家をたてたころの平野富二郎(平野富二)も居住していた「外浦町」のよみは、旧来「ほかうらまち」とされてきた。

この[明治4年・1871の暮れから戸籍届出の翌年2月までのあいだ]年、平野富次郎の身辺に大きな異動があった。年が明けて間もなく、長崎在住の安田こまと結婚し、それまで兄矢次重平の厄介として居住していた引地町ヒキジマチ50番地の生家を出て、外浦町ホカウラマチ94番地に家を求めて転居した。
た、この年はわが国で最初の戸籍編成の年に当り、その人別調べに幼名の富次郎を富二に改名して平野富二として届け出た。
『平野富二伝』(古谷昌二)

ところが近年、一部の長崎関連文書のなかで「外浦町 そとうらちょう」とする向きがみられたので、故阿津坂 實(1915-2015 行年99)氏にそのことを質したことがあった。
「本木昌造先生の旧宅と、平野富二さんの旧宅があった「ほかうらまち」が「そとうらちょう」になってしまったいるわけかな。それは困ったな…… 。
それなら県庁前に『旧 外浦町由来』の碑があるからそこに戻ってみよう。たしか『ほかうらまち』の振り仮名があったはずだ」

というわけで、急遽タクシーはUターンして、「旧 外浦町由来」碑をみるべく、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の前に戻った。
「旧 外浦町由来」碑はつよい赤味を帯びた自然石に陰刻され、この建物の玄関脇に設置されていた。

大通りに停車していたタクシーを待たせないように慌てていたことにくわえ、この碑文の重要性を当時はさほど重視していなかったので、石碑背面の写真を撮影することを忘れていた。したがってこのビルが取り壊されている現在、「旧 外浦町由来」碑の建造者・建造年月日などの資料が背面にある可能性をのこすことになってしまった。

それでもこの「旧 外浦町由来」碑には、主題語「旧 外浦町由来」に振り仮名が刻されていたことによって、「ほかうらまち」のよみが確定した。また四百年の歴史を有した「外浦町 ほかうらまち」は、1963年(昭和38)の町制変更によって万才町マンザイマチ、江戸町エドマチとに分割されて、その歴史を閉じたことがわかった。
ただしまことに残念ながら、この「旧 外浦町由来」碑の所在はいまのところ判明しない。
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DSC03627RIMG0069 RIMG0071そこからふたたびいつものように、大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷 長崎市興善町5)をたずねた。
「新町活版所跡碑」は改修され、向かって左側に活字を模したモニュメントが設けられていたが、それまで並立していた「詩儒 吉村迂齋遺跡」碑はすこし移動して、ビル正面側に設けられていた。

このあたりで阿津坂翁に疲労がみられたので、長崎駅前大黒町の自宅兼店舗「飛龍園」に車をまわした。
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《長崎市の地名 ウィキペディア》
◎ 江戸町(えどまち)
1963(昭和38)年、江戸町、玉江町3丁目、外浦町の南半、築町の一部より発足。10街区。長崎県庁があり、町の半分近くを県庁が占める。
その他、東部に江戸町商店街があるなど、商店が多い。中央橋バス停・交差点があり、交通の要所である。

◎ 万才町(まんざいまち)
1963(昭和38)年、平戸町、大村町、万才町、本博多町、外浦町の北半より発足。8街区。
国道34号が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎地方裁判所、長崎地方検察庁、長崎家庭裁判所、長崎県警察本部などの官公庁もある。

[付 記]  『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)
現在の町名である万才(まんざい)町は、明治5年(1872)に明治天皇が長崎を行幸した折の萬歳(万歳)に由来しており、西道仙がその改名を提案したとされている。

当時、萬歳は呉音の「マンザイ」や漢音の「バンセイ」などと発声されていた。
「バンザイ」と発音されるようになったのは大日本帝国憲法発布の日の明治22年(1889)で、「マ」では腹に力が入らないという理由から、漢音と呉音の混用を厭わず「バンザイ」となったとされる。

◎ 興善町(こうぜんまち)
1963(昭和38)年、本興善町、新町、興善町の南半、豊後町の西半、引地町の西半、堀町の南半より発足。6街区。国道34号線が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎市消防局、長崎市立図書館もある。
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活版印刷礼讃<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、{崎陽長崎探訪・活版さるく}として、長崎を訪問した全国各地からの参加者、地元勢あわせて60名余でこれらの地を訪問した。
たくさんの新発見があったが、同時に、阿津坂 實翁は卒し、2010年の資料とくらべても、おおくの施設や碑文が移転していることがわかる。
創立10周年企画として<Viva la 活版 ばってん 長崎>に特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんとともに、さらなる資料整理が進行しているいまである。
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【図書紹介】 ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―(増永 驍著 長崎文献社 2008年3月13日)

20160517175007358_0001 20160517175154723_0001《崎陽長崎俚諺 さんか と ふうけもん》
長崎では、しばしば自虐的にこのまちを「さんか」のまちとする。
「さんか」とは、急峻な山容がそのまま海に没するこの長崎を特徴づけるもので、
一  坂   「さか」
二  墓   「はか」
三 馬鹿   「ばか」
の三つのことばの語尾が共通して「か」であることから「さんか」とするものである。

DSC00668 DSC00749 DSC00732 DSC00760たしかに長崎はほんのわずかな沖積地をのぞいて、急峻な「坂」のまちであるし、そこに這いあがるようにひろがる「墓」のまちでもある。
それでもさすがに「馬鹿」と口にするのをはばかって〝ふうけ〟とするふうがいまもある。「ふうけたことをいう……」は、「馬鹿なこと、ふざけたことをいう」といったかんじである。
したがって〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿ものを意味するが、おなじ馬鹿でも、侮蔑のニュアンスはすくなく、もうすこし愛嬌のある馬鹿もののことである。

長崎新聞社の記者をつとめ、のちに長崎県庁に転じた増永 驍は、明治初頭長崎の「稀少人種」の〝ふうけもん ≒ 馬鹿もの〟として、本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・池原香穉・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)らを配し、同名の小説『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)をのこした。

本木昌造02 平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち_トリミング松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』増永 驍によって〝ふうけもん〟とされたおとこたち
本木昌造 : 長崎諏訪神社蔵  平野富二 : 平野ホール蔵 松田源五郎 : 松尾 巌蔵

『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(増永 驍著)は、明治長崎の40年をかたるとき、おもしろい視座を提供する図書ではあるが、いつものように【良書紹介】としなかったのは、それなりの理由はある。本書をおよみいただきやつがれの意をお汲みいただけたら幸いである。
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『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(増永 驍著 長崎文献社 2008年3月13日 第三章 長崎ぶらり p.258 より)
一  一番さん
長崎に「さんか」という俗語がある。
さんかとは、単語の語尾が「か」で終わる長崎の特徴をあらわす言葉、さん(三種)の「か」
というほどの意味である。
天領[江戸幕府直轄の領地]として海外交易で栄えた長崎の港は、外海からの波浪を鎮めるように、三方を小高い山並みに囲まれ平地は極めて少ない。
このため丘や山を削って港の一部を埋め立てて、市街地を造成し、削り取った跡地には山頂をめざして住宅が連なっている。
その街中を貫く生活道路のはとんどぱ坂道と石段である。

まず、さか(坂)が「さんか」の、かのひとつ目である。
信心深い住民ぱ、西方浄土を臨む安息の土地を求め、宅地の上の山際を造成して墓地とした。
町並みを取り囲むように墓地がある。二つ目は、はか(墓)である。
江戸時代、海外交易の一部が住民に還元されるなど、およそ全国でも例を見ない安穏な暮らしを続けた長崎の民は、その気質もまた異なるものがある。

良く言えば、他の土地からの旅人にもあふれるはどの親切心にあふれ、また、変化は好まず日々の安穏を願うお人好しである。
先祖代々、はぐくんできた気質は成熟している。
他人に先駆けて栄達しようなどとの心構えは、数百年をかけてオランダ船と唐人船に積み込んで海の彼方に捨てている。
苦労知らずの世間知らず、空想にふけり、ぼーっとして人生を過ごす者がいる。
したがって、三つ目は、ばか(馬鹿)である。
現実離れして何かのことに夢中になり、巷の者の常識に外れた者を長崎では「ふうけもん」と言う。近い言葉でいうなら馬鹿である。
ただし、ふうけもんにも幾つかの種類がいる。
現実を理解できる能力を有しないものが多数なら、理想と空想を混在し、さらには現実と虚構を混在し、むやみやたらに積極的となり実現不可能な騒ぎを起こす者も存在する。
希少人種の「ふうけもん」が中島川の右岸の土手を軽やかに走っている。
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{著者紹介}
増永  驍 ますなが-たかし
1945年うまれ。日本大学法学部卒。同大学法学専攻科修了。
長崎新聞記者を経て長崎県庁に勤務。総務部消防防災課長、佐世保高等技術専門校長をへて退職。2004年から総務省所管の公益法人の長崎県支部長。
主要既刊書
『ながさき幕末ものがたり 大浦お慶』(1991年 長崎文献社)、『現川伝説』(1994年 長崎文献社)、『鯨神 深澤義太夫異聞』(1997年 長崎文献社)、『友好の奇跡 兪雲登回想録』(2006年 長崎新聞社)

北方謙三<大水滸伝>全51巻完結! 伝説も去りて、残るは物語のみ。君に語れ、漢オトコらの物語。

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20160607224214284_00012016年05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついに北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結した。 十余年におよぶながいつき合いだった。 『 水滸伝 』(全19巻)、『 楊令伝 』(全15巻)、『 岳飛伝 』(全17巻)である。
集英社の特設WebSite <大水滸伝> などは、この終巻をもって、嬉しいのか、哀しいのか、さびしいのか知らないが、阿鼻叫喚、まるでお祭り騒ぎである。

北方謙三の < 大水滸伝 > は、まず『小説すばる』に連載され、連載中に並行して四六判書籍が発行され、書籍刊行終了後に文庫版が順次発売されていた。
したがって北方謙三は版ちがいのたびに文章に手をいれており、将来全集でも刊行されるなら、文庫版に記載されたものを定稿としてほしいとしばしばつづっている。

やつがれはといえば、ゴチャゴチャとした雑炊のような文芸雑誌は苦手なので、『 小説すばる 』 はときおり立ち読みし、四六判書籍、文庫版ともに刊行直後に購入してきた。愛読書ではあるが愛書家ではないので、あちらの本棚、こちらの片隅と、未整理なまま山積みになっている。
この作家は、冗長と過剰をきらうので、四六判書籍のときすこしテンポが遅いな、とおもわれた箇所などが、文庫版となるとバッサリ切りすてられていることに驚いたこともあった。

司馬遼太郎(1923-96)が卒したころ、北方謙三は 『 楊家将 』 の連載中だったとおもう。
ほんとうに偶然だった。 所在のないままなんとなく書棚から、ハードボイルド作家だとおもっていたこのひとの作品 『 楊家将 』 を取りだしたのがはじまりだった。ともかくダイナミックな中國歴史演義であり、登場人物のあしらいが鮮明で、読みやすかった。
のちに 『 楊家将 』 は吉川英治賞を受賞しているが、まさかそれから10年余におよぶ 『 水滸伝 』 『 楊令伝 』 『 岳飛伝 』 の <大水滸伝> シリーズにつらなり、ずっと付きあうことになるとはおもってもいなかった。

歴史を作るのは英雄だけじゃない。
歴史に名を残した武人から、人知れず消えていった民草まで。
ここにあるのは「人間」の物語だ。
駈けよ。──── 夢追いし者、永久に。
生きる。──── 去りし者のぶんまで。  [集英社WebSiteより]

ともあれ、これから 『 岳飛伝 』 文庫版の刊行がはじまるとおもうが、やつがれとほぼ同世代の北方謙三は <大水滸伝> 51巻を完結した。 この間やつがれはなにをなし得たかというと忸怩たるものがある。
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そこで、『 岳飛伝 』 の主要な舞台のひとつ、岳飛の墓所がある杭州 (Hangzhou) を紹介しよう [撮影 : 2011年09月]。
岳飛は北宋を滅亡させた女真族金国(満州族王朝 前金)に抵抗して軍閥をなし、「 盡(尽)忠報国 」 の四文字を背に刻んで 「 抗金 」 をさけんでいたとされる。
その墓は杭州西湖のほとり、岳飛廟に息子の岳雲の墳丘とならんである。夜になると岳飛廟のすぐ近くの湖畔で 「 水上ショー 」 が開催され、内外の観光客であふれる。

この街ではかつて、あまたの南宋刊本が刊行され、小説とはことなるが岳飛が刑死した。
やがて南宋も金国もたおれたのち、元(蒙古族王朝 1271ー1368)の時代にやってきたマルコ ・ ポーロが、「 世界でもっとも美しいまち 」 と評した西湖のほとりに、南宋の宮殿跡も、「岳飛廟」もある。

“ Hangzhou, The mosut beatiful and splendid city in the world. ”    Marco polo

その西湖には、白楽天の築造とされる 「 白堤 」 があり、わずかな期間の中華民国時代、そのなかの小丘で、丁 補之・丁 善之兄弟によって、近代宋朝体活字(中国では倣宋体とする)が誕生したことは意外に知られていない。

それを追ってやつがれがはじめて杭州の地をおとづれたのは、もうかれこれ35年余も前のことになる。
その紹介の役割は、できたら辞退したいところであるが、たれも名乗りをあげないまま20余年が経過した。
それよりなにより、これからたれの小説を読めばいいのかというのが喫緊の課題である。

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{Viva la 活版 ばってん 長崎} 14 活版印刷作品展示紹介

長崎タイトル

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◎ 田中智子(はな工房)
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【作品名】 『栞』
【作者名】 田中智子(はな工房)
【版式・技法】 箔押
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【作品名】 『MY TYPE』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷) 図版:凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 『風景』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字・他:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『かごっまことば』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字・他:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『風のうた』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷) 図版:凸版(ゴム版印刷)

◎ 加久本真美
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【作品名】 『活字見本帳』
【作者名】 加久本真美(東洋美術学校 タイポグラフィ・サークル QP 卒業生)
【版式・技法】 凸版(活字版印刷)
一昨年から学校に残る金属活字の整理を開始し、見本帳を制作。
掃除 → 分類(書体・活字サイズ別)→ 印刷の手順で、活字の状態と種類を調査している。

◎ 日吉洋人
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【作品名】 THIS IS A PRINTING OFFICE
【作者名】 言葉:Beatrice Warde   組版・印刷:日吉洋人
【版式・技法】 凸版(活字版印刷)

◎栃木香織(文香―Fumikou―)
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【作品名】 『photo book』
【作者名】 印刷・製本:栃木香織(文香―Fumikou―)  写真:上野隆文(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)  図版:凸版(樹脂凸版)  写真:インクジェット印刷
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【作品名】 『モンヨウ誕生記念』
【作者名】 印刷・製本:栃木香織(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)  図版:凸版(樹脂凸版、ゴム版画)

宗則和子(botaniko press)
宗則和子(botaniko press)さんの出品は、展示とあわせ受付でも展示して販売されました。
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【作品名】  スズラン 二種類/ワスレナグサ 三種類/スノードロップ 二種類/アンティーク押し花 スミレ 二種類/アンティーク押し花 スミレ/アンティーク押し花 アネモネ 二種類/タマゴタケ・ベニテングタケ
/アマタケ・イッポンシメジ/タマゴタケ/ベニテングタケ/ イッポンシメジ
【作者名】 宗則和子(botaniko press)
【版式・技法】 凸版(樹脂凸版) 

◎ 日本大学藝術学部 美術学科 版画研究室

DSCN7484【作品名】 『SORA 2012』
【作者名】 版画 : 日本大学藝術学部 美術学科 版画研究室
装丁:西尾 彩
【版式・技法】 凸版、平版(リトグラフ)
「キのスプーンのあじがするキセツに」 SAKAI MINORI 酒井みのり
「そらが さびしくないように」 AOYAMA YUKIE 青山由貴枝
「ソラノオト」 SAKAI MINORI 酒井みのり
「いつも見あげております」 ISHIAI HIROKO 石合広子
「ソラ タカク」 YUKO SASAI 笹井祐子
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DSCN7480【作品名】 『THE LOVE OF BOOKS ― Old English Song
【作者名】 版画:日本大学藝術学部 美術学科
高浜利也、菊池史子、笹井祐子、宮澤真徳、山﨑香菜、大槻孝之、
日比野絵美、宮澤英理子
活字組版 : 大石 薫(アダナ・プレス倶楽部)
製 本 : 栃木香織(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 版画 : 凸版(リノカット、木版)、凹版(銅板)、平版(リトグラフ)、モノタイプ(モノプリント)など    文字 : 凸版(活字版印刷)

本書は、第35回全国大学版画展(主催:大学版画学会/町田版画美術館)において、日本大学藝術学部 美術学科 笹井祐子准教授(当時)と、大学版画学会所属のアダナ・プレス倶楽部 大石薫による公開セミナー「版画と活字」のための参考展示作品として制作されたものである。
活字版印刷を導入した授業展開の一例として、同じ詩をテーマに、各々でイメージをふくらませながら、それぞれのイメージに合った技法で版画を制作し、一冊の折本のかたちにまとめた試みである。手製本はアダナ・プレス倶楽部会員 栃木香織の協力による。

◎ Bonami
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【作品名】 かみきりサックル
【作者名】 絵・文 : 三木葉苗
               装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)   絵 : 凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 さくらとカトリ
【作者名】 絵・文 : 三木葉苗
               装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)  絵 : 凸版(樹脂凸版)
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【作品名】日々への手紙
【作者名】作者:三木葉苗
装丁・印刷・手製本:Bonami
【版式・技法】凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 dear my sister
【作者名】 絵 : 三木咲良 文 : 三木葉苗
装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 凸版(活字版印刷、樹脂凸版)   平版(オフセット平版印刷)

関 宙明 ユニバーサル・レタープレス
DSCN7507【作品名】 『わが友ユダ』
【作者名】 詩 : 新井延男      版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
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【作品名】 『草地の時間』
【作者名】 詩 : 村野美優      版元:港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
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【作品名】 『鈴を産むひばり』
【作者名】 歌 : 光森裕樹       版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
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【作品名】 『夜の甘み』
【作者名】 詩 : 伊藤啓子       版元 : 港の人
本文活字組版・印刷:内外文字印刷
表紙箔押し:真美堂手塚箔押所
デザイン:関 宙明
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【作品名】 『詩への途中で』
【作者名】 詩・エッセイ : 高橋 馨        版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
―――
これら一連の書籍のアートディレクション・デザインを担当した関 宙明氏は、Adana-21J をもちいた活版印刷部門ユニバーサル・レタープレスでのみずからの活版印刷実践を、本職であるグラフィック・デザインにも活かし、活版印刷所とのコラボレーションによる書籍づくりを展開しています。

杉本昭生 ぢゃむ
DSCN7485

【作品名】 活版小本
印刷・製本 : すぎもとあきお(ぢゃむ)
【版式・技法】 文字 : 凸版(樹脂凸版)

『芥川龍之介の遺書』芥川龍之介/『マーク・トウェインの箴言集』マーク・トウェイン/『菊池寛』菊池寛/『實語敎』/『盈満の咎』/『黒猫・餅饅頭』薄田泣菫/『漢詩抄』/『子規随筆』正岡子規/『死生に関するいくつかの断想』ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)/『狂訳 小倉百人一首』/『盈満の咎 弐』/『獨樂吟』橘曙覧/『Greise  老人』リルケ・森鴎外訳/『冬日の窓』永井荷風/『老嬢物語』ギ・ド・モーパッサン/『舞鶴心中の事実』高浜虚子/『我が子の死』西田幾多郎/『電車の窓』森鴎外/『尾生の信』芥川龍之介/『夢十夜より  ─第三夜─』夏目漱石/『てがみ・二十一のことば』チェーホフ/『蜜柑』芥川龍之介/『老人の死』シャルル・ルイ・フィリップ/『ごぜくどき地震の身の上』/『道理の前で』 フランツ・カフカ/『変な音』 夏目漱石/『名家遺詠集』/『挽歌詩三種』 陶淵明

◎ タイポグラフィ学会創立10周年 特別参加
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32-1-49545-2 DSCN7458 DSCN7436 31-4-50052 DSCN7451 10-6-49164

【作品名】 タイポグラフィ学会創立10周年 特別展示
【作者名】 タイポグラフィ学会 有志
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【作品名】 タイポグラフィ学会「本木昌造賞表彰状」
【作者名】 紙面設計 : タイポグラフィ学会
活字組版・印刷 : 大石 薫(タイポグラフィ学会会員)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)
オーナメント、プリンターズ・マーク : 凸版(銅凸版)
オーナメントは『BOOK OF SPECIMENS』活版製造所
平野富二(明治10年)より採録

◎ Lingua Florens(桐島カヲル)

DSCN7495【作品名】 断片小説
【作者名】 Lingua Florens(桐島カヲル)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)      図版 : 孔版(シルクスクリーン)

【北京空港のサインからⅢ】 巨大競技場施設のゲート表示からはずされている、いくつかのローマ大文字の例をみる

トラヤヌス帝

トラヤ02 トラヤ049784947613592 『トラヤヌス帝の碑文がかたる』(木村雅彦 ヴィネット01号 朗文堂)
DSCN7985《 持つべきものは良き友人か 》
これまで「A-L」まである北京空港のチェックインカウンターに、なぜか「G 列」と「I 列」が無いことを紹介してきた。
その理由を考察する前に、このことを報告がてら、サインデザインや空間デザインを多く手がけている「GKデザイングループ」の木村雅彦さんに、ほかにもサインデザイン製作の現場でこのような事例が報告されていないのかを問い合わせてみた。
こののち、木村雅彦さんは台湾行政府からの招聘で現在は台湾出張中であるが、まず、ここにGKデザイングループからの報告をご紹介したい。
あわせて本項をご覧になった読者からの情報提供もお待ちしたい。
──────────
[GKグラフィックス 木村雅彦さんのコメント]
こんにちは。漢字だけ、それも横組みベタ組みを多く見かける中國での字間のコントロールと、北京空港でのサイン表記の記事を興味ぶかく拝見しました。
お問い合わせのあった、大型施設でのサインのキャラクター選択の事例に関し、GK設計でサイン企画を担当している鎌田博美(もとチームの同僚)からのコメントをご紹介します。
──────────
[GK設計 鎌田博美さんのコメント]
今までの業務の中で、スタジアムの仕事の時に同じような状況に遭遇しました。

このときは、ゲート番号をアルファベットで表記し、座席番号をアラビア数字で表記する場合、ローマ大文字の「I」は、アラビア数字「1」との誤読を避けるため、「I」はゲートサインからは抜いた提案としました。
(この時のゲート番号には A-M までのアルファベットをもちいましたが、この中で「I」を使用しませんでした)。
海外のスタジアムでも同じような傾向がみられます。その一部をご紹介します。

[海外のスタジアム事例 Ⅰ]
 ◎ ドイツのサッカースタジアム  「アリアンツ・アレーナ Allianz-arena」
ゲートサインに「 I,  O,  Q 」 を使用していない。
アリアンツ・アレーナ」は、ドイツのミュンヘンにあるサッカー専用のスタジアム。「アリアンツ」とはドイツ最大の保険メーカーの名前。

AllAr_Lagepläne_E2_1500x1200_EN AllAr_Lagepläne_E6_1500x1200_EN

●Allianz-arenaの公式HPのSite-and Seatmapsのページ
Stadium Plansより
Level 2 のpdf.
Level 6 のpdf.


[海外のスタジアム事例 Ⅱ]

 ◎ イギリスのフットボールスタジアム 「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」
ゲートサインに「 I,  O 」 を使用していない。
サッカーなどのフットボール専用のスタジアムですが、イングランドを発祥とするサッカーとラグビーの2つのフットボールのうち、「トゥイッケナム・スタジアム Twickenham Stadium」が「ラグビーの聖地」と称されるのに対して、「サッカーの聖地」と称されるのがこの「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」。
!cid_E71331EF-B231-4B08-9ABE-B086A21F2B79

●Wembley Stadium
公式HPのStadium guideページ
 
1Fフロアガイド(Level 1)
5Fフロアガイト(Level 5)


DSCN8507 DSCN8504北京空港のゲートサインに使用されなかった「G,  I 」とは、ゲート数も違いますので若干ことなりますが、これら三つの大型施設に「共通して I 」がもちいられていないことと、わたしたちが担当したプロジェクトでも、共通してローマ大文字の「I」の使用をさけたことは興味のあるところです。
以上、簡略ながら少しでもご参考になればと思います。[GK設計 鎌田博美]
──────────
「GKデザイングループ」からの報告と、やつがれの発見をまとめてみよう。
◎ GK設計が手がけたスタジアムのサイン設計にあたり、A-M までのゲートサインのうち、「I」を使用していない。
その理由は、アラビア数字の「1」と、ローマ大文字の「I
」との「誤読を避けるため」であったとされている。
◎ ドイツのサッカースタジアム  「アリアンツ・アレーナ Allianz-arena」は、A-R までのゲートサインのうち、「 I,  O,  Q 」 を使用していない。

◎ イギリスのフットボールスタジアム 「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」は、A-P までのゲートサインのうち、「 I,  O 」 を使用していない。
◎ 北京空港のチェックインカウンターは、A-L までのゲートサインのうち、「 G,  I 」を使用していない。

DSCN7985《 結論をもとめる前に、サイン用にもちいられることの多い、ローマ大文字の歴史をみる 》
先に羽田空港にある「 BULGARI  ブルガリ ROMA 」の広告を紹介した。
北京清華大学での講義への旅立ちを前にして、この広告には関連したテーマがギッシリとつまっていた。
まず、フォロ・ロマーノにある「トラヤヌス帝の碑文」の伝統を継承した、ローマ大文字の揺らぎのない字画形象、風通しの良いおおらかな字間設定、「U,  V」の古典的なつかいかたが目につく。

そして彫られた文字に特徴的にあらわれる、控えめなセリフ、なかんずく、最終文字に登場する「I」の上下にみられる控えめなセリフと、最終部の「R I」にみられるような大胆かつ見事なまでの字間調整である。

ところで、高齢化して視力の衰えた友人が「C,  G」をあやまって判断することがあると述べたことは既述したが、
「浮世ばなれしたかれなら、イタリアのファッションブランドのブルガリを知らないだろうし、まず BVL で発音にこまって、さらに GARI を CARI とやりかねんな……」 とも考えた。
──────────
上掲書『トラヤヌス帝の碑文はかたる』のなかで、木村雅彦氏は以下のようにしるしている。

「トラヤヌス帝の碑文」に刻まれた六行の文字のおおきさは、一見上部の行が大きくて、下の行になるほど徐徐に小さくなっているように見えます。
またこれまでの定説では、ひとが下から見上げたときに、文字の大きさが同じように見えるように、視覚的な遠近法による調整がほどこされているとされてきました。
しかしながら、碑文を採取して実測してみると、二行目がもっとも大きくて、一行目と三行目に対して104%であることがわかりました。この二行目の中央部には「神なるミルウァの息子」という文があって、DIVI つまり「神なる」という意味の単語にみるふたつの「I」には、「アイ・ロンガ」と呼ばれる、神に関することばを強調するための長い「I」がつかわれています。

KIMURA02ジョバンニ・フランチェスコ・クレッシのローマ大文字(1570年)上掲書p.35

ローマ大文字「Q」は英語アルファベット17番目の文字であるが、実際に単語を形成するのは「Quack, Quake . . . . Quote 」まで、「Q」からはじまるほとんどすべての語の次に「u」がくるため、昔から「Q」の尾部(Tail)を長く描き、そこに「u」を乗せて「合字」としたものも多かった。

それにたいして現代の活字書体、なかんずくサンセリフの「Q」の尾部は、ちいさくて貧相で、「O」との判別性 Legibility に劣るものがおおく見かけられる。
DSCN5421 DSCN5437 DSCN5427 DSCN54402014年09月 チェコ、プラハの街角の教会にみた「アイ・ロンガ」の例。建造年などは不詳
[ 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

logo朗文堂ではこのようなおおらかなローマ大文字の彫刻風の力感をもとめて、ながらくホームページ「ROBUNDO」のタイトル書体としてもちいている。
おりしもヘルマン・ツァップが逝去して一年が経過したが、ここにみる「ROBUNDO」の大文字だけの活字書体は、ヘルマン・ツァップによって設計された、碑文系書体「ミケランジェロ・タイトリング Michelangelo Titling」(D. Stempel AG /フランクフルト 1950年)である。
朗文堂ホームページのメインタイトルは、1999年以来碑文系由来の「ミケランジェロ・タイトリング」がもちいられてきている。
ツァップ夫妻左) Gudrun Zapf von Hesse グドゥルン・ツァップ・フォン・ヘッセ
1918年01月02日 ドイツ、メクレンブルクうまれ
右) Hermann Zapf ヘルマン・ツァップ
        1918年11月08日-2015年06月04日 ドイツ、ニュルンベルクうまれ

1950年の秋、わたしたちは活字書体のインスピレーションをもとめてイタリアへでかけました。この旅ではもっぱらスケッチブックとカメラを手に、フィレンツェ、ピサ、ローマをおとづれて、ふるいローマ時代の碑文を探しました。
 
ここでの数数の碑文との出会いと、フィレンツェとバチカンの図書館で見たすばらしい書物が、その後のわたしたちの活字設計におおきな影響をあたえました。とりわけ刺激がおおきかったのはトラヤヌス帝の碑文との出会いでした。
文字の美しさを理解するひとならだれでも、西暦114年にローマのフォロ・ロマーノ地区に建造されたトラヤヌス帝の大円柱にしるされた碑文をみて、わたしがいかに有頂天になったかを理解していただけるでしょう。
 
ところが残念なことに、この碑文の位置がたかすぎて、歪みのない、まともな写真を撮ることができませんでした。それでも諦めきれずに奮闘するうちに、どうやらわたしはだれの眼にも明らかなほど夢中になっていたようです。
たまたまそばを通りかかった警備員は、メジャーをもって大円柱に詰め寄るわたしを見て、碑文をはぎ取って地面に引きずりおろそうとしているとおもったのでしょうか、あわてて制止されたことが懐かしくおもいだされます。

Zapf_80-1プリント《 そもそもサイン Sign とはなにか。なぜ標識・記号・看板ではいけないのか 》
sign は、名詞では意味をもったしるし、動詞では意味をもったしるしをしるす。
要約すると、あらわれ、形跡、身ぶり、標識、記号となり、それらの情報を記載した「看板」のことである。
看板なら比較的最近まで、町角のおちこちに「看板屋」の看板をかかげた自営業者が見られたが、近年はサインデザインという名称で、平面設計の分野のひとつになり、町角から店舗は消えた。
さらに環境・景観デザインなどということばもうまれてきた。すなわち比較的あたらしい造形のジャンルであり、発展途上にある職種でもある。

そもそも和製英語としての「サイン」は混乱の極致にある。
作家や著名人などにもとめる「サイン」は、Sign ではなく autograph である。
「Can I have your autograph ?」 であり、「サインをください Can I have your sign ?」は誤まりであることは何度かしるしてきた。
野球などでの監督やバッテリー間の「サイン」は Signal 。サイン入りボールは an autographed ball 。図書の「サイン会」は an autograph session である。便利な用具であり、ことばの「サインペン」は完璧な和製語であり、ふつうは「フェルト・ペン」としたい。

「看板屋」さんの時代は、個性とおもむきのある手書き文字がつかわれてきたが、看板がサインボードと名称が変わったころから、分業化と工業化がみられ、さまざまな機器、現代ならコンピューターを駆使して製作されている。
さらに工業化がすすみ、工業製品のひとつとなってからは、技芸家が文字部をしるすことが急激に減少し、かつての手書き文字にかわって写植活字やパソコン電子活字がもっぱらもちいられている。

そこではローマ大文字の出自、標識や記号の時代はわすれられ、ほとんどが肉厚で、キャラクターの特徴点でもあった、セリフを失った「仏:サン・セリフ、英:セリフレス・ローマン、独:グロテスクとも」の使用がもっぱらである。

この報告はⅢをもって終わる予定でいたが、近年のわが国の欧文電子活字情報には、あまりに正確な情報が乏しく、製品・商品名をもちいた企業宣伝というより、あまりに大量な、掲示板用語でいう「ステマ Stealth marketing」情報が多すぎることに気づいた。
そこで結論を急ぐことなく、読者と共に『欧文書体百花事典』「SANS SERIF  誘目性から出発し、可読性をめざして――サン・セリフ体の潮流」(組版工学研究会編、杉下城司担当 p.441-446 朗文堂)をじっくり読み込んでから、このローマ大文字をもちいたサインシステムの考察をふかめたい。
[この項つづく]

【北京空港のサインからⅡ】 字間調整と、漢字・ローマ大文字の判別性 Legibility, 誘目性 Inducibility をかんがえる

DSCN8507 DSCN8504
《北京 清華大学 視覚伝達系でのスペーシングのコントロールのエクササイズ》

五月下旬、清華大学美術学院 視覚伝達系の原 博助教授、趙 健主任教授の招聘で、北京行きとなった
これまでの経験で、矩形の漢字(字、国字)、それもほとんど横組みでの表記をもちいている現代中國では、グラフィックデザイナー(平面設計士)でも字間(字と字の間隔)にたいする認識に乏しいとおもっていた。
もちろんこの字間のスペーシング認識は、日常のビジネス文書やテキスト組版におよぶものではない。

今回の訪中は視覚伝達(グラフィックデザイン)教育、それも中國有数の高度なデザイン教育の現場であるからもとめられると考えた。
この「字間のコントロール」の教育は、わが新宿私塾でも基礎をなす重要な講座と位置づけられている。
東京・北京事前に用意したのは「北京 BEIJING」、「東京 TOKYO」。おおきなサイズ 84pt. のタイムズ・ローマン体で、これをバラバラ(モノスペース)で紙に出力したものを用意した。
上掲図のうち、上部だけを課題資料としてわたし、下部のノーマルスペースにある程度スペース調整を加えたものはのちほど参考資料として提示した。

この課題用紙をもとに、単語としての「BEIJING」、「TOKYO」を組み並べる課題である。
「BEIJING」にはステム(Stem  印刷用語:幹縦線・活字書体のふとい縦線)がならび、「TOKYO」には見出し語などでは処理をせまられるカウンター(Counter 印刷用語:谷[void]、活字面の凹所)「TO,  YO」があって、その調整にまま苦慮するものである。
換言すると通常のパソコン処理でこの見出し語をそのまま(おおきなサイズ)で組むと、「BEIJIN」は詰まりすぎ、「TOKYO」はパラパラと間が抜けた状態となる。

事前に「均等なスペース」と、「均等にみえるスペース」との相違を説き、その調節の簡略なエクササイズを試みておいた。それからこの課題を提供した。
さすがに北京清華大学の学生諸君は優秀で、課題の意味と意図を即座にくみとり、パソコンをはなれ、ほとんど全員がはじめての経験となる、三角定規にかえての金属スケール、カッター、カッターマット、スプレー糊などの「道具」をもちいて、このエクササイズに取り組みはじめた。
DSC04091 DSC04102 DSC04092 DSC04103DSCN8221予想どおりというか、「BEIJIN」のうち、ステムが連続する中央部の「IJI」の処理に苦心しているようだった。
途中うしろの席の男子学生がスマホを片手におおきな声をだした。通訳を担っていただいた同大陶芸系:劉教授(東京藝術大学博士課程修了)によると、
「あの学生はですね、スマホの画面でちいさくしてみたら、字間が詰まりすぎで、ベッタベタだ~! って叫んでいますよ」
と笑われた。やつがれは「そんな テ もあったのか」と逆に感心した。

この評価にあたっては「J」のキャラクターの誕生は意外にあたらしく、それまでは子音と母音の両方をあらわしていた「I」から、16世紀ころに独立したものが「J」であることを説明した。
また「U」はもっとやっかいで、元来「U」は「V」の草書系のキャラクターであり、「U」が母音をあらわすようになる中世後期までは、「V」が母音と子音の双方をかねていた歴史もあった。
したがって欧米からの手紙などで、「U, V」をフリーハンドで書かれると、その判別に苦労することもある。
「U, V」は長年(いまなお)交換可能なキャラクターとして存在したが、1800年のイギリスの辞書ではじめて分離したかたちで表記されたものである(『トラヤヌス帝の碑文がかたる』木村雅彦、2008年11月28日 朗文堂 p.22)。

ともあれ、全角ベタ組み、矩形の漢字(字・国字)の国に、字と字のあいだのスペーシングへの配慮という、ひと粒の種子だけは置いてきた。
DSCN8089DSCN7985 2016年05月29日 北京への旅立ちを前に「BVLGARI」の広告の前で 於:羽田空港

DSCN8507北京空港のビルは、鳥瞰図としてみるとおおきなジェット機が翼をひろげたようなかたちをなしている。先の【 北京空港のサインからⅠ 】で、この空港のチェックインカウンターに「G」と「I」のカウンターが無いことを指摘した。

ここで「I」のカウンターが無いことの発見がおくれたのは、実はこの「吸烟区」のかたわらにある、巨大なサインボードの基調色が暗灰色であり、そこに重要な情報が存在することがわからなかったのが気になっていたのである。
まして、そこに白抜きで表示された、このボードの主題語ともいえる「辦理乗机手続区域指示図 Check-in Area Diagram」(漢字は簡体字)が、判別性 Legibility と、誘目性 Inducibility に乏しいことが気になっていた。
──────────
【 参考 : 朗文堂 タイポグラフィ 実践用語集 カ 行 活字書体の判断における三原則 より 】

活字書体の判断における三原則
レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ:
legibility, readability and inducibility


これらのタイポグラフィ専門用語の外来語は耳慣れないことばかもしれません。本来は活字版印刷の業界用語でしたから、一部の英和辞典や和英辞典には掲載されていないものもありますし、紹介があっても混乱しがちです。
したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極致にあります。
その結果わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばも混乱しがちです。
しかし活字書体の評価や判断にあたってはたいせつなことばです。タイポグラファなら、ぜひとも記憶していただきたいたいせつなことばです。

◎ 判別性   Legibility    レジビリティ
   活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

◎ 可読性   Readability   リーダビリティ
   文章として組まれたときの語や、文章としての活字書体の読みやすさの程度。

◎ 誘目性   Inducibility   インデューシビリティ
   視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度。

《誘目性 Inducibility 》  判別性 Legibility と 可読性 Readability はリンク先で。

英語の形容詞 Inducible =誘致[誘引]できる;誘導できる ; 帰納できるの名詞形で、名詞形の Inducibility としての初出は 1643 年のことである。
すなわち「視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度」をあらわす活字版印刷の業界用語として登場したので、和英辞書などには未紹介のものが多い。

誘目性が重視されるのは、サインボードや広告の世界が多い。空港や駅頭で、的確な情報を提供し、そこに視線を誘導することは文字設計の重要な役割である。
またポスターやカタログなどの商業広告においても、旺盛な産業資本の要請にこたえて、誘目性を重視した活字書体や印刷物が製作されてきた。

産業革命以後、この誘目性が活字書体設計でも「ディスプレー書体」などとして強く意識されるようになり、黒々とした、大きなサイズの活字が誘目性に優れているという誤解も生じた。
しかしながら、もともと「 Display 」は動物の生得的な行動のひとつで、威嚇や求愛などのために、自分を大きく見せたり、目立たせる動作や姿勢のことで、誇示・誇示行動をあらわす。

もちろん、現代では表示・展示・陳列などの意でも用いられるし、コンピュータの出力として、図形・文字などを画面に一時的に表示する装置にも用いられるが、原義とは怖ろしいもので、ディスプレー書体の多くは、誘目性を過剰に意識するあまり、あまりに太かったり、奇妙なデザインに走って、一過性の流行の中に消滅してしまったものも少なくない。
活字の世界で求められるのはいつも判別性と可読性であり、誘目性はむしろ押さえ気味にしたほうが無難なようである。すなわち、芭蕉翁にまなんで「不易流行」ということか。
──────────
ダークグレーに白抜き文字のメーンタイトルの表示の是非はともかく、せっかく字画の整理が進んで、判別性 Legibility が向上した字(漢字・国字)による「辦理乗机手続区域指示図」(表記は簡体字)にたいして、下部の「Check-in Area Diagram」がふとく見え、しかも字間がタイトなので、ひとつの土塊のかたまりのように凝固していることが気になって仕方なかった。DSCN8507表示がデバイス任せになっているWebSiteでかたっても成果はとぼしいが、「Check-in」の箇所にみられる短いダーシュ、ハイフン?の、「k-i」のスペース、なかんずく k のうしろのアキと -i のアキが不揃いで、しかも -i の息苦しいスペースが気になって煙草どころでは無くなってしまうのである。
せめて -i のあいだにシンスペース(Thin space  薄いが原義。わずかなスペース)を置いてくれたら、このビルに一歩でも脚を踏みこんだが最後、長時間にわたる羽田空港までの禁煙地獄に陥るこの際、しみじみとおいしく煙草を味わえそうなのだ。
[この項つづく]

【北京空港のサインからⅠ】 チェックインカウンター表示 A,B,C,D,E,F,H,J,K,L あれっ! G, I はどこに ?

DSCN8499 DSCN85055月29日-6月3日にかけて北京清華大学美術学院の招聘にこたえてでかけた。
ことしから中國も喫煙にきびしくなって、吸烟区(喫煙所)以外、「屋根のある建物の下では喫煙禁止」となっている。
当然レストランやカフェも禁煙で、さらにいくぶん寛容な「分煙制 喫煙席」などは皆無なので愛煙者にはつらい。それでも街角のゴミ箱の上に灰皿があるので、途中退席・外出して一服となる。

写真は北京空港での「最後の一服」。フランス、ベルギーでのテロ事件以降、北京空港の保安チェックは厳格をきわめ、混雑のせいもあって、チェックイン、パスポートチェック、保安検査と、搭乗手続きに二時間では到底足りないほどのきびしさとなっている。
したがってここでの喫煙は暫時の妄想にふける貴重ないっときである。機内持ち込みは軽便ラーター、燐寸のたぐいはまったく禁止・厳禁であるから、「吸烟区」の付近には軽便ライターが大量に放置されている。

一服の途中で背後のカウンター案内の掲示板を見るともなくみていた。三月の下旬にもおなじ中華航空で訪中していたので、北京空港のチェックインカンターに「G」が無いことは知っていた。このことを帰国後に知人とはなしたことがあった。
「歳をとったのと、若干糖尿のケがあるので視力がおちたのか、駅や空港の案内板(サイン)で、 G と C を間違えたことがある。とくにゴシック(サンセリフ)だとわかりにくい」
別の友人はこうかたった。

「遠くからだと、大文字の B と、アラビア数字の 8 の見分けがつかないときがある。O と Q もよく間違える」

そんなことを想起しながら掲示板を A から順番に ボ~とみていたら、
「あれっ! H のあとの I アイ も無いぞ !! 」
たしかに巨大な北京空港のチェックインカウンターには、「G 列」も「I 列」もなかった。
DSCN8507 DSCN8505【 参考 : 朗文堂 タイポグラフィ 実践用語集 カ 行 活字書体の判断における三原則 より 】

活字書体の判断における三原則
レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ:
legibility, readability and inducibility


これらのタイポグラフィ専門用語の外来語は耳慣れないことばかもしれません。本来は活字版印刷の業界用語でしたから、一部の英和辞典や和英辞典には掲載されていないものもありますし、紹介があっても混乱しがちです。
したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極致にあります。
その結果わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばも混乱しがちです。
しかし活字書体の評価や判断にあたってはたいせつなことばです。タイポグラファなら、ぜひとも記憶していただきたいたいせつなことばです。

◎ 判別性   Legibility    レジビリティ
   活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

◎ 可読性   Readability   リーダビリティ
   文章として組まれたときの語や、文章としての活字書体の読みやすさの程度。

◎ 誘目性   Inducibility   インデューシビリティ
   視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度。

《 判別性 Legibility 》    可読性 Readability と 誘目性 Inducibility はリンク先で

判別性は、大文字の B 8 に見えたりするときや、大文字の I アイ、小文字の l エル、アラビア数字の 1 が混同したり、ローマ大文字 O オーとアラビア数字の 0 ゼロ が明確に判別できないときにもちいられます。
わが国では、漢字の網と綱の差異判別や、カタ仮名のロと漢字の口が混同しないように製作したり、議論するときにもちいます。
Legibility の和訳語はなかなか定着せず、従来は可視性・視認性・識別性などともされてきました。

Legibility は形容詞 legible から派生した名詞で、文字が読みやすいこと、読みやすさ、判別や識別の程度、判別性・識別性などをあらわします。活字版印刷術が創始されてから、すなわち 1679 年にその初出がみられます。
形容詞の legible は筆跡や印刷された文字が看取される、識別可能なという意味です。そのほかにも、容易に読める、読みやすいという意味で、後者の比較語(confer)としては readable があげられます。

[この項つづく]

北京清華大学美術学院からの招聘で昨週いっぱい特別講義。無事に帰国いたしました

DSCN8230DSCN8234DSCN8173ここしばらく中國(中国)とのやりとりや往復がふえている。
2016年三月下旬に 方正字庫 (FOUNDER 方正 北京大学全額出資のIT企業)と、中國美術大学の最高峰のひとつとされる 中央美術学院 の招聘で一週間の北京滞在となった。
前半の3日間は、北京大学キャンパス内、方正字庫の主催で<字体大赛 ≒ 書体大会>の国際審査員としての参加。

後半の1日は、天安門の間近にある巨大な 中國國家大劇院 に会場を移し、前日までの<字体大赛の審査結果>が、信じがたいほどのはやさながら、発表され、展示され、受賞者の表彰式があり、審査員講演がなされと、なんともあわただしく、おおがかりなイベントが続いた。
講演の一番手はやつがれ。いい訳はしたくないが諸諸あって講演は失敗だったとおもう。

最終日は大石が担当。中央美術学院の大ホールで<小型活版印刷機による印刷演習>。
ここでも 字体大赛 の審査員四名の講演もあったが、最終講演となった大石担当分は、おおきな会場に、あまりにちんまりとした小型活版印刷機での講演とエクササイズであった。
この日の大石は五時間余におよぶ講演会の最終担当とあって、企業人はさすがに退席が目立ったが、学生諸君は、もっともわかりやすく、関心があったようで過熱気味であった。

なにしろ中國は国家体勢がいくぶん異なるので、北京大学(北大と略称)、中央美術学院、方正字庫との関連性や、書体コンクールの意味性が判然としなかった。
もちろん会場の知人にこの関連性を質問したが、「これが中國です」とかわされてしまった。
また一週間というもの、連日連夜の懇親会(大宴会)がつづき、下戸のやつがれにはかなりこたえた。
この三月下旬の喧噪にみちた訪中報告は、気持ちと情報の整理がつかないまま、いまなお実現していない。
──────────
五月上旬は<Viva la 活版 ばってん 長崎>で長崎に全力投球であった。
そして五月下旬、清華大学美術学院の招聘で、また北京行きとなった。
もともと、この
の招聘は本コーナーでもお馴染みの、清華大学美術学院視覚伝達系の原 博(Yuan Bo)助教授のお招きで、昨年の暮れにはスケジュールが決定していた。
したがって北京大学系のイベントへの突然の招聘は、多分に清華大学行きを聞きつけての決定ともおもわれた。

ともあれ北京大学系のときは、連日連夜の宴会でとても疲労した。
ところが清華大学は原博先生はもちろん、主任教授の趙 健教授とも親しかったので、意志の疎通はスムーズで、夜は到着初日の歓迎会以外はほおっておいてくれるので助かった。

月・火・水と講義がつづいた。どこで聞きつけるのか知らないが、学内正規授業に位置づけられているのに、清華大学の学生だけでなく、中央美術学院、印刷大学ほかの大学の教授、学生、IT 系企業人も講義に参加していた。
三日間とも受講者は50-60名。集合写真を呼びかけ 「日本の WebSite にアップしますよ~」 といったら、女子学生を中心にキャッキャと逃げていった。いずこもおなじ学生諸君であった。 DSCN8089ホテルは同大内・指定の「甲所」。ここは広大なキャンパスの中央部に位置し、おもに招聘教師たちが宿泊する森の中の簡素なホテル。
留学生など短期滞在の学生は真向かいにある「丙所」を利用するようだが、カフェ兼レストランは教師陣と学生との共有で「甲所」にあるので、活気と国際色に満ちており、また中國の大学では卒業式を間近にひかえており、にぎやかだった。

わたしたちももっぱらこの「甲所餐庁 甲所レストラン」で朝食をとり、お茶・食事・懇談などをかわした。つまりキャンパスからほとんど出なかったが、ともかく無事終了でひと安心。 DSCN8137 DSCN8118 DSCN8152 DSCN8165 DSCN8056上掲写真の白い彫刻は原 博(Yuan Bo)先生のご主人にして、同校教授の陳 輝(Chen Hui)先生の作品。その後方に美術学院棟が四棟ならんでいる。キャンパス案内では、指定ホテル「甲所」からはここまで徒歩25分だが、やつがれには無限に遠い場所だった。

講義には方正字庫のスタッフも3名ほど参加していた。かれらは朗文堂のWebSiteをみているようで、なぜ報告記事が掲載されないのかとただされた。つまりすごいことだと報告しろと迫られた。ところがやつがれは実感無し。方正字庫のときも、清華大学のときも、いつもと、つまり新宿私塾と同じですから。 DSC04193しばらくしたら、原博先生から当日の写真データーを受領・紹介しますが、それまでのあいだ、下掲の記事は、前回も、今回も、連日参加されていた、中央美術学院の刘 釗(Liu Zhao 上掲写真右端)教授のブログサイトをご紹介。
刘女史は大石の講座を間近にみるのははじめてとあって、活版エクササイズには夢中でとり組まれていたので、その紹介は遅れ気味らしい。
刘女史のおはなしでは、このサイトには一日5,000件以上のヒットがあるそうです。
よろしければご笑覧を。結構笑えますよ。中国までいって恥をかくなよ ト。
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◯05月29日[日] 羽田発、北京入り。
◯05月30日[月] 北京清華大学美術学院 第一講座
学科長:趙 健先生挨拶、片塩講義大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi4u.html
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6f.html
◯05月31日[火] 北京清華大学美術学院 第二講座
原 博(Yuan Bo)先生挨拶 終日大石担当日 活版演習
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6m.html
◯06月01日[水] 北京清華大学美術学院 第三講座
原 博(Gen Bo)先生挨拶、 片塩講義、大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wil7.htm

長崎報告とあわせ、北京報告もお楽しみに。   朗文堂  片塩二朗  大石 薫

【展覧会】 創流90周年記念 草月いけばな展 <造形る!変化る!>

http://www.sogetsu.or.jp/event/2016shinjuku.jpg20160525170129538_0002
草月いけばな展 「造形イケる!変化イケる!」

創流90周年皮切りの本部主催展となる本展では、約300名の作家達が集い、創流の精神のもと植物に想いを解き放ちます。
会場は個人エリアと、合作エリアの2部で構成されます。
合作エリアは、「いけばな展の概念にとらわれない」をコンセプトに、通常の展覧会に見られるような花席を設定せずに、個々の発想を重視しています。
大きさも形も違うこれら全ての作品を、家元が受け止めて、作品が互いに共鳴しあうひとつの空間へ導いています。
新たな試み、挑戦ともいえる本展を皆様に是非ご覧頂きたく、ご来場を心よりお待ち申し上げます。
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◯ 会  場  新宿髙島屋 11階催会場
◯ 会  期  2016年6月2日[木]― 7日[火] 午前10時→午後8時
前期:6月2日(木)→4日(土) 後期:6月5日(日)→7日(火)
※前後期で作品が入れ替わります。詳細参照。
◯ 監  修    勅使河原 茜(草月流家元)
◯ 入場料    前売券¥700(税込) 当日券¥800(税込) ※15歳以下の方は無料

 【詳細 草月ニュース

【良書紹介】 渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か十八銀行:松田源五郎

 

20160520212058459_0001渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営
著者名 |水尾順一  田中宏司  蟻生俊夫 編著
判  型    | 四六判   頁数 260ページ
定   価   | 1,944円(本体1,800円+税)
ISBN 9784496051975          第1刷 2016年05月01日

「論語と算盤」にはその理念が次のように述べられている。 「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」 この理念のもと、ともすれば失われてしまいがちな企業の社会的責任について、現在の経営を根本から見直す。
【 詳細 同友館 OnLine
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{ 新宿餘談 } 長崎タイトル長崎では印刷界でも機械製造界でも、同市出身の平野富二が語られることはほとんどなく、活版印刷なら本木昌造が、機器製造なら岩崎弥太郎だけだと周囲にお伝えしてきた。
今回<Viva la 活版 ばってん 長崎>に各地から訪崎された皆さんは、その実態を眼前にして、やはり驚かれたようであった。

その逆に、三菱重工業長崎造船所(ながせん)の関係者で、懇親会に参加されたかたは、 「今回のみなさんは、平野富二さんに詳しくて、お好きですね~」 といささか呆れていた。

『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』 第11章 「算盤勘定だけでない企業経営/IHI」 の執筆者は、IHI 執行役員の水本伸子氏により、渋沢栄一が手がけた多くの事業の一環として IHI の事績を14ページにわたって、とてもわかりやすく、簡潔にまとめている。 とりわけ注目されたのは、
3. 渋沢栄一の貢献  (2) 最初の株主  であった。 

「有限責任石川島造船所」設立の1889(明治22)年、資本総額は17万5000円(1株100円)株主数は17人で計1750株だった。会社創立時の株主名簿は現存していないが、3年目の株主とその持ち株数が第3次営業報告に載っている(図表11-1)。渋沢、平野、梅浦、西園寺の4名は設立時委員を務めた。

図表11-1 最初の株主と持ち株数 (第3次営業報告書[明治25年]記載)
渋沢  栄一  400株
平野  富二  389株
松田源五郎  270株
田仲  永昌  250株
西園寺公成  150株
梅浦  精一  130株

渋沢栄一はともかく、またのちに同社社長となった梅浦精一のことは若干の知識があったが、ここに第三位の株主として、長崎十八銀行第二代頭取にして「長崎の渋沢といわれた人物」が登場することに興味をひかれた。 松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影たまたま小社に松田源五郎の外戚で、玄孫にあたられるかた(松尾 巌氏)が来社され、明治10年の松田源五郎の肖像写真(撮影:上野彦馬)を提供していただいた。
解像度は低いが一般公開はこれがはじめてとなるようである。

上野彦馬の台紙にみる「明治10年内国勧業博覧会」、このとき松田源五郎36-7歳。
この博覧会は、前年に新設された十八銀行支配人(のち第二代頭取・衆議院議員)松田源五郎が企画したもので、西南戦争の大混乱のさなかに、長崎諏訪公園のいわゆる丸馬場を会場として開催されたものである。

平野富二の創建による「石川島(平野)造船所」が、規模の拡大とともに資金需要がまし、渋沢栄一の助言と支援を得て「有限責任石川島造船所」(現 IHI )となった。
その筆頭株主は第一銀行頭取・渋沢栄一であり、第三位の株主として長崎の十八銀行頭取・松田源五郎が記録に登場するのは、この写真から15年ほどのちのことになる。 松田源五郎立像 戦前 長崎商工会議所 14-4-49353この諏訪公園丸馬場に、戦前は巨大な松田源五郎の立像があった。
この像はならびたっていた「本木昌造座像」とともに戦時供出されたために、いまはいくぶん小ぶりの胸像が設置されている。

この松田源五郎を〝ふうけもん〟と評した人物、長崎新聞に長く勤務した増永 驍がいた。
〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿を意味する。いずれ詳細を紹介するが、おなじ馬鹿でも、もうすこし愛嬌のある馬鹿のことである。

増永は〝ふうけもん〟の本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)を配し、同名の小説『ふうけもん』をのこした。
たしかに紹介した写真をみても、冷徹な銀行人というより、長崎人に多い面長で、瞳は好奇心にあふれ、わんぱく坊主がそのまま成長したような風貌にもみえる。

また十八銀行は松田源五郎のころから平野富二の活字版製造(東京築地活版製造所)を終始支援し、同社の取締役にも就任している。
のちにも松田精一(十八銀行第五代頭取、衆議院議員)は、東京築地活版製造所の第五代社長も兼任していたほどの密接な関係にあった。

そのためもあり、すこし松田源五郎と十八銀行にこだわってみたいとおもっていた。そこで昨週末本書を読了した。
読者諸賢に、もっともソロバン勘定の苦手なやつがれが、『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』をお勧めするゆえんである。

 

インキローラー鋳型とその鋳込み法-欧文印刷の権威:小宮山清さんからお便りがありました

長崎タイトルDSC03576 DSC03579 DSC03586小宮山清氏。昭和6年2月26日うまれ。[1]インキローラー鋳型とその鋳込み法-Ink roller mould & ink roller casting

活版 à la carte : 2016年05月19日}に欧文印刷の大ベテラン:小宮山印刷工業の小宮山清さんからお便りを頂戴した。
小宮山さんは{Viva la 活版 ばってん 長崎}にご夫妻で参加され、{崎陽長崎・活版さるく}には最長老のおひとりだったが、終始若者にまじって、きつい坂道もものともせず行動をともにされていた。

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。会長だの顧問といった肩書きに類するものはまったくない。
ところが小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  8?歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関して、わが国有数の知識と経験を有されている。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね*020
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[小宮山 清]
今回の長崎では貴重な物、珍しいところ、存分満喫させて頂きました。

会期終了の次の日に「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)」の記念館に寄ってきました。宮田和夫様に長時間ご案内していただき申し訳なかったです。 特に上智大学(イエスズ会)のことで共通の話題などがありました。  

帰りがけに記念館のショップで、雑誌「楽」を買ってきました。 本木昌造、平野富二、二十六聖人のことが書かれてまして。今回の旅行のためのようでしたが、宮田さんがこれを執筆されたのは2012年の発行なのでびっくりしました。
戦前派には欠かせない「原爆資料館」にも行ってきました。本当に楽しい旅行でした。 有難うございました。

ローラー鋳型の写真   20160523222018610_0001 20160523222018610_0002 20160523222018610_0003 20160523222018610_0004『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』 (活版製造所 平野富二 伝明治10年版 平野ホール蔵) p.102 右肩にインキローラー鋳型が MOULD とされている図版記録をみる

最近の朗文堂のブログで見たのですが、インキをつけるローラーの鋳型のことです。
これはとても貴重な写真です。
わたしの手もとには見当たらないので、
よろしかったら、この写真のデーターを送って頂きたいのですが。  

これはわが家にもありましたが、戦前にテキンを購入すると附属品としてついてくるものでした。戦前のインキローラーは、ゴムではなく「にかわ」でした。夏になると印刷中にとけてしまってとても大変でした。
戦前でも勿論ローラー屋さんがあって「たき替え」をしてもらいました。 古いローラーをもう一度「煮なおし」て、各印刷屋に届ける商売です、ローラー屋さんの工場の中は湯気でもうもうでした。

戦後の復興にあたり、わが家でも昭和22年にまたテキンを設備しましたが、ローラー屋さんがまだ再開していなかったので、「にかわ」を買ってきて、テキンと一緒についてきたローラー鋳型でローラーを作って印刷したりしました。  

私事ですが、山の会の友人で印刷用ローラーを作っている知人に、昔は「にかわ」を使って印刷のロールを作っていた事を話した事があります。 この写真を見たとき、これは、どうしてもその知人(『ゴム工業便覧』1,300ページの図書の著者)に、この写真を見せなければと思い、このメールを書いた次第です。

{Viva la 活版 ばってん 長崎}13 新町活版所・境賢治と 貴重資料 インキローラー鋳型 Ink roller mould

長崎タイトル

2-1-49043 32-1-49545-2<Viva la 活版 ばってん 長崎>主会場となった長崎県印刷会館に、長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が明治期に使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が所蔵されている。
きわめて貴重なものではあるが、平素は収蔵庫のなかにしまわれている。今回のイベントに際し、これも貴重品の同館所蔵の「アルビオン型手引き印刷機」二台とあわせ、主会場中央に展示した。

設営日に一時間ほどをかけて清拭し、機械油で注油もして、脇には日吉洋人氏製作のB4判の解説パネルもおいて展示したが、なにぶん今回はコンテンツが多すぎて、この一見地味な機具はあまり注目はされなかったようである。
なにより会場写真として「インキローラー鋳型 Ink roller mould」をアップして撮影した資料はまだ手もとには到着していないのが現状である。したがって「インキローラー鋳型 Ink roller mould」の写真紹介は、前日に収蔵庫にあったときのものを紹介する。
総鉄製で重量は20キログラムほど、重厚感と迫力のあるものである。
DSC03576 DSC03579 DSC03586  インキローラー鋳型1030949

インキローラー鋳型とその鋳込み法
Ink roller mould & ink roller casting

【 roller casting 】  Walzenguss
膠ローラーの鋳込み。インキローラー鋳型(mould)は、円筒状もしくは半円筒状のものを合わせて円筒にしたもので、この筒孔の中心に鉄心棒(roller stock)をたてて、液状のローラー材料(roller composition)の融解せるものを流しこんだり、圧搾空気で注入してインキローラーを製作する。いずれの方法によるも、表面に気泡の生ぜざるように注意するを要す。
『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)

このように、翻訳書としてインキローラー鋳型とその鋳込み法(Ink roller mould & ink roller casting)を解説した『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)は、現在はいわゆる『印刷辞典』の第一版とみなされている。

ところが、第二版以降は、この項目は省略されて第五版にいたっている。
すなわち明治の末ころになるとインキローラー専門の工場が誕生し、一般にはこの機器の解説が不用となったためのようである。
機器や技術の変転がはげしかった「印刷」をつづった『印刷辞典』には、版を重ねるごとに、このようにふるい機器や技術の記載は、仕方がないとはいえもれている事例が多い。

インキローラー(ink roller)は、印刷インキを練ったり、印刷版面にインキをつけたりするための丸棒である。活字版印刷では、ふるくは皮革製のインキボール(タンポとも)をもちい、近年ではニカワ製のインキローラーが多くもちいられてきた。印刷の品質に関わる重要な機材のひとつである。

67現在では一定の耐久性のあるゴム製ローラー、合成樹脂製ローラーが多く使われている。明治中期ころのニカワローラーは7-10日ぐらいで摩耗・劣化がみられ、職人がみずから「巻きなおし(たき替え・煮なおし)」作業にあたっていたとされる。
日日の清拭作業、使用状況と保存状況によるが、いまでも、ときおりは鉄心棒(ローラー軸)と両端のコロを添えてローラー専門工場に依頼し、「巻きなおし」作業が必要になる。
この作業は「養生」を含めて相当の日数を要するため、本格印刷工場ではインキローラーをはじめから交換用予備を含めて複数セットを設備することが多い。

現在ではインキローラー専門の製造・巻きなおし工場も充実している。そこでは耐久性にすぐれたゴムローラーの製造がほとんどで、まれに簡便な樹脂ローラーをみるが、かつては臭気がつよい天然ニカワ(膠)をもちいて、作業者自身が煩瑣な「インキローラー(境賢治は肉棒としるしている)巻きなおし」を頻繁に実施していた。

境 賢治長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が長崎県印刷工業組合に所蔵されている。 またその鋳込み法(ink roller casting)に関する記録が『本邦活版開拓者の苦心』にみられるので紹介する。

我が国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所
境 賢治氏 ── 煮方の秘奥を公開す ──

膠ローラーに就いては、今日尚、研究している人が多いくらいであるから、明治初期の関係者が如何に多くの苦心をこれに費やしたかは恐らく想像外であろう。本木[昌造]先生の創設された新町活版所に在って霊腕ママを振るっていた境賢治氏は、明治十年頃から、膠に色々の物を混合して、ローラーの耐久力に関する研究をしていたものである。

明治二十三年になって、其当時としては稍稍理想的なるものを発見することが出来たと云うから、研究にだけ(でも)十何年かを要したことになる。
然るにこの尊い経験を惜しげもなく一般に公開したのであるから、昔のひとは流石に寛容で恬淡で何となく大きいところがあったように思う。
[境賢治]氏の経歴其の他に就いては、調査未了なまま惜しくも省略して、此処には単に氏が公開した肉棒煮方秘訣の一文を記載することにした。

拝啓 ローラーの煮き方に就いては、貴所も随分御苦心致し居られ候も、今回当所にては、肉棒を練るに塩を少々宛入れて練り、殆ど一ヶ年間試験を致し見候処、暑寒により塩を増減し、冬分は膠八斤一釜に塩十六匁を加えて煮き、夏は塩四匁、此割合を用いれば肉棒堅くなること普通法より長く日数を保つのみならず、煮直しをなす時にも早く砕くるに付、其利益莫大なり、最も之は昨春以来当所に於て試験の成績に有之候故宜敷御心懸御実験可然と奉存候。其煮直しにも是迄十日間保つものは十五日間位は必ず差支無之候間兎も角御実験可然と奉存候。
二白 砂糖蜜又は蜂蜜は是迄の如く膠に加え候上に塩を加う事に御座候。
明治二十四年五月
長崎新町活版所  境    賢  治
「わが国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所 境 賢治氏-煮方の秘奥を公開す-」 『本邦活版開拓者の苦心』 (伝三谷幸吉執筆、津田伊三郎編、津田三省堂、昭和9年11月25日、p.171-172)

このように境賢治の記録を『本邦活版開拓者の苦心』(昭和9年)にのこした三谷幸吉は、境賢治とは面識がなかったとみられ、半世紀余も以前の、たれに向けたのか判然としない境賢治の書簡を紹介するのにとどまっている。
長崎の新町活版所は、おおくの逸材が大阪・横浜・東京へとあいついで去り、新街私塾(新町私塾)関係者としてはひとり境賢治が孤塁をまもっていた。
ちなみに文末の「二白」は追伸と同義である。

 この新町活版所の孤塁を守りつづけたとされる境賢治に関する記録はすくない。
このすくない記録を整理すると、境賢治は1844年(弘化元)にうまれ、明治帝の最末期に贈位にもれたひとを詮議した1911年(明治44)には67-68歳で健在であったようである。
またこの世代の長崎印刷人の多くは新町私塾の終了生であったが、境賢治は塾生としての記録は見ない人物である。

わずかに『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 朗文堂 p.353)に肖像写真と以下のような記録をみる。
境 賢治20160519202753637_0001

 

 

 

 

 


本木昌造御贈位の詮議があった明治四四年(1911)のころには、長崎在住のおおかたの本木昌造の友人や子弟は物故していたが、高見松太郎(新町私塾出身 貿易商)、岡本市蔵(新町私塾出身、同塾会計掛をつとめた。長寿をたもち反物商)、立花照夫(新町私塾出身、長崎諏訪神社宮司)の三氏が健在で、ほかにはわずかに長崎新町活版所の境賢治(1844-?)が長命をたもっていた。したがって本木昌造の事績調査は主としてこの四名がその任をつとめたのである。

《活字組版術に長けたひと 長崎新町活版所/境賢治による『聖教歴史指南 完』》
本木昌造一門のうち活版印刷術の技術者の多くは、紙幣寮(印刷局)、大阪活版製造所、東京築地活版製造所などに旅立ったが、長崎に残留したのが境賢治であった。

境賢治がのこした印刷物は『長崎新聞』(初代)、『西海新聞』などの新聞印刷のほかにも数点しられるが、『長崎古今学芸書画博覧』(西道仙 海人艸舎蔵版 明治13年 新町活版製造所)、『書画雑記』(筆記幷出版人・西省吾 肥前長崎区酒屋町51番戸 西道仙か?)など大判の枚葉印刷物も多い。すなわち明治12年頃の新町活版所には、手引き印刷機ではなく、相当大型の円圧シリンダー型の印刷機があったと想像されるのである。

 ここに紹介したのは冊子本で『聖教歴史指南 完』(米国聖教書類会社蔵版 明治17年5月)である。「聖教」はキリスト教の意であり、また聖書をも意味した。
最終ページには、振り仮名(ルビ)以外にはあまり使用例をみない「七号明朝活字」字間二分アキで、
「 印 行 長 崎 新 町 活 版 所 」
とちいさくしるしている。
聖教歴史指南 表紙 聖教歴史指南扉 (この項つづく)

{Viva la 活版 ばってん 長崎}12 ことしは平野富二生誕170周年、タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。
平野富二
<平野富二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町司(町使)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。
16歳長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。
1872年(明治05)婚姻とともに引地町をでて外浦町に平野家を再興。平野富二と改名届出。同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)など、在京わずか20年でわが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用して、活字品質と鋳造速度の向上をはかり、東京進出直後から、在京活字鋳造業者を圧倒した。
federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]三階主会場には平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出されていた。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、福地櫻痴筆とされる)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391また平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋さんで、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。今回は家祖の出身地長崎にきて、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。
1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize下掲写真は平野富二生誕地、長崎町司「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)である。
{5月7日 崎陽長崎・活版さるく}参加者のみなさんとの記念写真となった。
今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、{活版さるく}で皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
上写真/懇親会会場入口にて 右) 山本太郎さん 左) 日吉洋人さん  横島大地さん撮影
下写真/受付業務担当日の横島大地さん、松尾愛子さん  ほか日吉洋人さん提供写真
横島撮
DSCN7306
DSCN74231030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会

年越しの古株からトロロアオイの花が咲きました

この種子のもとは2009年05月に、都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいた数株の苗にはじまった。
トロロアオイの花。2013.10その年の暮れからアダナプレス倶楽部の会員の皆さんに種子を配布してきたが、何人ものかたが単年に終わらせず、もう3回も同じ茎からトロロアオイの開花をみているそうである。

昨年早春、ビルの保守工事で、煉瓦をつんでつくった手づくりの「空中花壇」が、お気に入りの「ロダンの椅子」ともどもそっくり破壊されてしまった。

ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな

正岡子規(俳人・歌人 1867-1902)「小園の記」より

「空中庭園」には、子規庵の庭園さながら、雑多の艸艸がそだっており、煉瓦の裏側には野バトの巣もあった。工事がおわったあと、寒寒としたベランダになったままきょうにいたる。
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例年3月下旬に黒ポットにトロロアオイの種を播き、その2-3本を定植して花を楽しんできた。昨春は黒ポットも無くなっていたので、卵のパックに播種をしたが発芽段間で失敗したので、晩春に植木鉢に種子を直まきして成長をみまもった。
とろろあおい播種 DSCN7232密植しすぎて育ちはわるかった。しかも開花期に国外にでかけていて、報告の機会を失した。
ろくに肥料もやらず、鉢をそのままにしておいたら、04月下旬に花をつけた。例年に比ぶべくもない小ぶりな花だったがうれしかった。ほかにも花芽をつけていたので、あわてて液肥を購入してつぎの開花をまっている。
どうじに種子がたくさん残っているので、もう一鉢にトロロアオイを播いた。どんな花をつけてくれるかたのしみにしている。

【 関連情報 : 花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち 2013年10月09日

 

新書体『元朝体 志安』発売/欣喜堂:今田欣一製作、白井敬尚形成事務所:パッケージ平面設計、朗文堂:発売 電子活字シリーズの記録

この<花筏>の図版はスライドショーでもご覧いただけます。

金属活字が、写植活字時代をへて、いつのまにか電子活字(デジタルタイプ、フォント)となってひさしい。電子活字時代になってからもフォーマットの変化はつづいた。ビットマップ、トゥルータイプ、オープンタイプと変化のあゆみはとどまることをしらない。

そしてこれもまたいつのまにか、活字は Type としての物体性を失い、デジタルデータの一種となって、定まったカタチ Type がないまま、流通し、販売され、デジタル機器などによってもちいられる時代となった。ひとはこれを「フォントのダウンロード方式」などと呼ぶ。
和字Revision9

欣喜堂 : 今田欣一製作、白井敬尚形成事務所 : パッケージデザイン、朗文堂 : 発売による電子活字シリーズの最初は、2002年08月発売開始の<和字 Revision 9>であった。
「和字」とはひら仮名とカタ仮名の集合であり、「漢字」の対語である。これは今田氏の提唱による呼称で、これらの記録は『挑戦的和字の復刻』(Vignette 05、今田欣一、2002年7月23日)に詳細にのこされている。
銘石B

いっぽう漢字・和字・欧字を含んだ書体を「総合書体」と呼んでいる。
総合書体<HUMAN Sans Serif  銘石 B>は<和字 Revision 9>の発売から10年余ののち、2012年03月の発売であった。
この間、当初のトゥルータイプからオープンタイプにフォーマット変更があり、ユーザーにむけて「パッケージを提示していただければ新フォーマット版に無償交換」という、大胆な試みができたのも、実体のあるパッケージの存在がおおきかった。

総合書体<HUMAN Sans Serif  銘石 B>の発売から四年余ののち、すなわち2016年05月末、いつものスタッフで、次の書体、「元朝体 志安」が完成し、本格発売がまもなくはじまろうとしている。
そんな「元朝体 志安」のプロジェクトに集中しているいま、あらためて考えると15年ほどの期間、この三者協力態勢がつづいてきたことに驚かされる。その記録の意を含め、ここに<朗文堂・欣喜堂シリーズ>を、順不同ながら、総合書体、和字書体の全15パッケージの紹介をしたい。
また朗文堂では、簡略ながらプリントメディアで『robundo type cosumique』、『robundo book cosmique』を製作している。ご請求いただけたら幸甚である。

《 総合書体 》
元朝体パッケ表1 元朝体ロゴ

銘石B 龍爪パッケ 正調明朝体 正調明朝体B 清朝官刻体

《 和字書体 》
基本 CMYK 和字たおやめ7 和字ますらお9 和字おゝことのは9 和字おゝくれたけ9 和字Tradition9 和字Succession9 和字Ambition9 和字Revision9

【会員情報】 仙台の只野俊裕さん、「本作り相談所 蕃山房」を開設して活躍中

20160411130310293_0001 20160411130310293_0002ふるい友人の只野俊裕さんから、著作{「ゼッケル文庫」に見る16世紀の金属活字版印刷術の様相-装飾大文字の変遷と進化-}『東北大学附属図書館調査年報 第3号』(東北大学附属図書館、平成28年3月30日)をご恵送いただいた。

只野さんは、仙台の 笹木出版印刷株式会社 に長年勤務され、取締役営業部部長をもって停年退職された。同社はタイポグラフィに積極的な企業で、欧文活字字道鋳植機(いわゆるモノタイプ)のわが国初導入企業とされ、また「陶活字」を追試・試作して、社内に「笹っぱ活字館」をもうけるなどしていた。
同社創立90年に際し、<花筏 タイポグラフィあのねのね*20 2012年05月19日>に関連記事があるのでご覧いただきたい。

勤務時代はタイポグラフィ学会にも所属され、しばしば上京されていたのでお会いする機会も多かった。最近はお会いする機会が減ったが、なにぶん図書づくりが大好きな只野さんゆえ、退職後も「本作り相談所 蕃山房」を開設して活躍しているようである。
ご本人から消息をうかがったので紹介したい。
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私は2011年(東日本大震災の年)9月に笹氣出版印刷を退社しました。
現在は週に三日だけ相談役として顔を出しています。
主には「本づくり相談所 蕃山房」と号して、震災復興に関する出版や
書籍の制作に携わる事業を行っています。
そしてもう一つが東北大学附属図書館協力研究員としての活動です。
東北大学附属図書館のゼッケル文庫は宝の山です。
このことはまたお話しする機会があるかもしれません。

退職後はのんびりとやって行こうと思っていましたが、
東日本大震災(地震被害、津波被害、原発被害)の現場に生きている身としては、
そうは参りませんでした。
突き動かされるように、印刷の力による震災復興に微力を尽くしたいと願って
活動しています。

詳細は蕃山房ホームページ http://banzanbou.com/ をご覧ください。
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蕃  山  房  只野俊裕
本づくり相談所(企画・編集・制作・出版)
〒989-3126  仙台市青葉区落合一丁目4-8

電話 兼 FAX : 022-778-8679
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【講演会】 会員:真田幸治さんが泉鏡花記念会で「雪岱文字―春陽堂版『鏡花全集』を中心に」講演の報告

08学会誌_平

20160411130506209_0002 20160411130506209_0003489[1]タイポグラフィ学会、アダナ・プレス倶楽部会員(B級グルメ担当とも)、真田幸文堂・真田幸治さんが、論文「雪岱文字の誕生 ―― 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ」『タイポグラフィ学会誌』(2015年09月30日)を発表され、それを契機として金沢市「泉鏡花記念館」で関連講座が開催されました。その報告をご紹介いたします。

【『タイポグラフィ学会誌08号』論文】
論文 : 真田幸治「「雪岱セッタイ文字」の誕生 ── 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ」
論文の概要
装幀家、挿絵画家などとして再評価著しい小村雪岱であるが、その評価は主に泉鏡花の著書の意匠によるものだ。

しかしながら「雪岱文字」が大きな役割を担っていたという事実は知られていない。
それは資生堂のロゴにおいても大きく寄与している。そして春陽堂版『鏡花全集』の装幀において「雪岱文字」はひとつの完成を見る。
本論では「雪岱文字」が、どのように誕生し展開されていったのかを考察する。

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泉鏡花記念館 企画展「鏡花本 装幀の美―清方・英朋・雪岱」関連講座
雪岱文字 ― 春陽堂版『鏡花全集』を中心に
◯ 講 師  真田幸治(装幀家・タイポグラフィ学会会員)
◯ 日 時  平成28年4月16日(土) 13:30-15:00
◯ 会 場  泉鏡花記念館 講座室
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image1 image2 image3{真田幸文堂 真田幸治さんのコメント}
金沢・泉鏡花記念会での講演「雪岱文字 ― 春陽堂版『鏡花全集』を中心に」、無事に終了しました! 手応えもあったと思います! そして、いまは帰京の車中です。
食の方はとても美味でした。とくに本日の寿司がまた当たり! とてもとても美味しかったです。
添付の画像は新聞記事のコピーと、寿司屋のネタです(万寿貝とノドグロ)。

【一周忌にあたり再掲載】 タイポグラファ群像 008* いちずに本木昌造顕彰にはげんだひと 阿津坂 實

本稿初出は2015年09月28日であったが、一周忌にあたり再掲載した。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_03近代活版印刷術発祥地のひとつ、長崎にうまれた阿津坂 實(あつさか みのる)氏は、徴兵検査にさいし胸部疾患が疑われて軍隊への召集を免れた。その後は療養につとめ、また地元の印刷企業に勤務していた。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)08月09日、長崎へ原子爆弾が投下され、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち、およそ7万4千人が死没、建物はおよそ36%が全焼または全半壊した。

原爆は長崎市浦上地区の中央で爆発してこの地区を壊滅させた。しかしながら浦上地区は、長崎市の中心部からは 3 kmほど離れていたことと、平坦地の広島市の場合と異なり、金比羅山など多くの山や丘による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて、市域中央部での被害は比較的軽微であった。
また県や市の行政機能も全滅を免れていた。
それでも長年にわたり、原爆による後遺症は長崎市民におもくのしかかっていた。
阿津坂氏は原爆被害に関して論及することは少なかったが、被爆者手帳の所持者であり、戦争を憎み、平和を希求することに篤かった。

戦後の復興が急がれた長崎県であったが、県都長崎市の原爆被害もあって復興は難航した。そのなかで阿津坂實氏は1947年(昭和22)08月、長崎県印刷工業協同組合に入組し、1956年(昭和31)併設された長崎県印刷工業組合と双方の、事務局員、事務長、専務理事などを歴任し、1988年(昭和65)依願退職するまでの40数年余にわたってその任にあった。
その後も両組合の相談役として、長崎県と長崎市の印刷業界におおきな影響をのこし、2013三年(平成25)にすべての役職から退任した。
2015.9.19学会レクチャー_ページ_08 2015.9.19学会レクチャー_ページ_06阿津坂實氏が、印刷業の祖、郷土の偉人として本木昌造をつよく意識したのは、長崎県印刷工業協同組合に入組してからまもなくのことである。
まず戦争末期に金属供出令で失われていた本木昌造の銅像(座像)を再建するために、1953年(昭和28)本木昌造銅像再建運動を事務方として開始し、はやくも翌年に、ところもおなじ諏訪公園に本木昌造銅像(立像)が再建された。
1968年(昭和43)長崎県印刷工業協同組合、長崎県印刷工業組合の双方の事務長に就任し、1972年(昭和47)専務理事に就任した阿津坂氏は、長崎県中小企業団体中央協議会、長崎県商工会議所などからさまざまな事業の委嘱をうけての活動も目立っていた。
また中小企業庁長官賞、長崎県知事表彰などの賞歴をかさねたのもこの時期である。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_04 2015.9.19学会レクチャー_ページ_05 2015.9.19学会レクチャー_ページ_09タイポグラフィ研究と印刷史研究は、首都東京では、三谷幸吉、川田久長、牧治三郎らによって、戦前から一定の規模ですすんでいたが、長崎では長崎学・郷土史家の、古賀十二郎、渡辺庫輔、田栗奎作らが、幕末から明治初期の長崎の状況の一環として、わずかに触れる程度にとどまり、印刷と活字関連、機械製造の資料の発掘は滞りがちであった。
阿津坂氏は長崎の各地に収蔵されていたこれらのタイポグラフィ関連資料を再発掘し、目録を製作するとともに、それを広く公開して、『長崎印刷組合史』、『長崎印刷百年史』の編纂をはじめ、『東京の印刷百年史』、『大阪印刷百年史』、『多摩の印刷史』など、各地の印刷組合や印刷企業の年史編纂のために、活字版印刷揺籃の地・長崎の資料を提供し、また後続の研究者にも積極的な情報提供と支援をつづけた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_02あわせて長崎各所にあった、活字版印刷の揺籃期の事業と施設を再検証し、「本木昌造生家跡碑」、「活版伝習所跡碑」、「新町私塾跡碑」、「福地櫻痴生誕地碑」などの建立をめざしての活躍も目立った。
また、本木昌造旧宅が取りこわされることになったとき、大学の建築学部に依頼して、詳細な実測図を論文としてのこすことにも協力をおしまたかったし、桜井孝三氏とともに、八丈島に現地調査にでかけ、本木昌造/平野富二らの漂着地が、それまで通説となっていた「相川浦」ではなく、「藍ヶ江」であることを発表した。

「本木昌造没後百年供養」を契機として、1975年(昭和50)長崎に戦前からあった「本木昌造頌徳会」を改組改称して「本木昌造顕彰会」を創設することにも尽力した。
この「本木昌造顕彰会」と株式会社モリサワが母体となって「本木昌造活字復元プロジェクト」が開始された。 このプロジェクトは長期間におよび、当時の長崎県印刷工業組合理事長/内田信康氏、後進の長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏らとともに、阿津坂實氏も「NPO法人 近代印刷活字文化保存会」にあって陰助をかさね、
その成果は『日本の近代活字-本木昌造とその周辺』、『活字文明開化-本木昌造が築いた近代』の、あたらしい視座にもとづいた二冊の図書に結実した。

阿津坂實氏は長崎県印刷工業協同組合での勤務のかたわら、多趣味のひととしても知られ、自慢の調理の腕をいかして、長崎駅前に「中華料理店・飛龍園」を一家で営むいっぽう、生花の師範としてもおおくの子弟の育成にあたった。
家庭には長男・貴和、田中家に嫁した長女・三重 ミツエ、次女・邦子の一男二女をなし、長女の没後にはふたりの孫娘(田中裕子・田中恵子)も手もとに引き取って養育にあたった。
晩年はさすがに車椅子に頼ることがふえたが、家庭と店頭にはみずから活けた生花を欠かさず、デイケア・サービスではカラオケに興じた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_102007年(平成19)<活版ルネサンス>を標榜して「朗文堂アダナ・プレス倶楽部」が始動し、翌年五月に<活版凸凹フェスタ2008>を初開催した際には、長崎から東京・四谷の会場に駆けつけられ、このようにかたられた。
「本木昌造先生は嘉永年間のはじめのころから活字版印刷の事業に着手していた。活字版印刷は一度すっかり衰退したが、この一六〇年ぶりの再挑戦でぜひとも復興させて欲しい。活字版印刷は文化の根底をなすものですから、これを絶滅させたらいけません」

2013年(平成24) 初秋、東京で働くようになったふたりの孫娘の支援をえて阿津坂氏が上京され、東京白銀台の八芳園 にみずから席をもうけられ、全日本印刷工業組合連合会専務理事:武石三平氏、『多摩の印刷史』編著者・東信堂印刷所代表:桜井孝三氏夫妻、片塩二朗、大石 薫をまねかれた。
「ワタシ は若いころに本木昌造先生の銅像の再建をお手伝いした。それからは菩提寺の大光寺の本木家墓前に供花するとともに、諏訪公園の本木昌造先生のお姿をいつも拝見してきた。

それなのに東京ではどうなっているのだろう。 東京では平野富二さんの初進出の場所の特定もできていないし、東京築地活版製造所の跡には簡単な碑文があるだけです。
平野さんに関していえば、まずはその初進出の場所を正確に特定すること。ワタシ は若いころからそうした努力をした。
それと、やはりそのお姿が眼前にあってこそ、開拓者の苦心が偲べるという面はおおきいとおもう。長崎と大阪には本木昌造先生の立派な銅像が建立されている。そこで東京には、文明開化をもたらした活字版印刷の創始者として、平野富二さんの銅像、できれば本木先生と平野さんが並び立つ銅像をつくって欲しい。これが阿津坂の遺言だとおもって聴いてほしい」

2014年(平成26)09月、長崎の阿津坂家では、阿津坂實氏の99歳をむかえた「白寿の祝い」が開催された。
タイポグラフィ学会には「本木昌造賞」の受賞対象者として阿津坂實氏とする推薦状が提出された。
そのためタイポグラフィ学会では顕彰委員会が招集されて審議がなされた。 顕彰委員会では若干の議論があったと仄聞する。それは「本木昌造賞」は優れたタイポグラフィ論文の執筆者に授与されるものであり、阿津坂氏の功績は、タイポグラフィに優れた業績・顕著な功績をのこしたものに授与される「平野富二賞」がふさわしいのではないかとするものであった。

阿津坂氏の主著とされるものは「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ-本木昌造」『本木昌造先生略伝』(長崎県印刷工業組合創立四十周年記念/本木昌造先生歿後百二十周年記念、長崎県印刷工業組合、平成七年九月)を見る程度であることはたしかである。
しかしながら『長崎印刷百年史』(長崎印刷百年史刊行編纂委員会/主著者:田栗奎作、長崎県印刷工業組合、昭和45年11月)、『長崎印刷組合史-百年史の追補とその後の三〇年』(長崎県印刷工業組合/長崎県印刷工業協同組合/主著者:種吉義人、長崎県印刷工業組合、平成10年10月)の両書は、組合事業関連の部分の執筆、主著者への資料提供の多くは阿津坂氏によることが両書にもしるされている。
こうした功績と、ひとえに本木昌造の遺業をかたりつぐことに尽力された阿津坂氏の業績を勘案して「本木昌造賞」の授与が内定し、ご本人、ならびにご家族にも通知された。

タイポグラフィ学会では顕彰委員会と理事会の承認を経て、例年07-09月に東京で開催されている定例総会を、2015年は長崎で開催し、その際に阿津坂實氏への「本木昌造賞授与式」を併催する計画が進行していた。
まさにその計画の進行中、2015年(平成27)05月07日、阿津坂實氏は逝去された。
そのためご家族とも協議して、「本木昌造賞授与式」は東京での定期総会と併催して、お孫さん(田中裕子・田中恵子)おふたりに列席していただくことになった。

 【阿津坂 實氏の活動紹介 PDF  2015.9.19 atusaka 2.31MB 】

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【タイポグラフィ学会】
『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露および
第3回本木昌造賞授賞式を開催

2015.9.19学会レクチャー_ページ_01

タイポグラフィ学会は、秋晴れの抜けるような晴天のもと、2015年9月19日[土]、定例年次総会につづき、一般公開で、『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露会および、第3回本木昌造賞授賞式をとりおこないました。
<第3回本木昌造賞授賞式>は、山本太郎会長の挨拶につづき、プレゼンターに平野富二玄孫:平野正一会員があたり、阿津坂 實氏の孫娘、田中裕子・田中恵子両氏に賞状ならびに記念品が授与されました。

<第3回本木昌造賞授賞式>には、タイポグラフィ学会会員のほか、多数の皆さまのご来場をいただきました。ご参加ありがとうございました。詳細報告はタイポグラフィ学会のWebSiteで近日中にいたします。
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<Viva la 活版 ばってん 長崎>02-五月GW開催/長崎県波佐見町と佐賀県有田町 ふたつの陶器まつり開催との会期

16toukimatsuriばってん長崎_表《多彩なイベントが開催されるGW ふたつの陶器まつりと Viva la 活版 ばってん 長崎》
昨年の暮れに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部恒例の「Viva la 活版-活版印刷礼讃イベント」の会場候補地「長崎県印刷会館 長崎市出島町10-13」を訪問して、印刷工業組合執行部、事務局のみなさんと<Viva la 活版 ばってん 長崎>開催に向けての打ち合わせをした。

会期の設定として五月の連休、05月01-05日あたりを提案したところ、
「それはまずい。連休前半はハサミ町と有田の陶器まつりがあって、道路が大混雑するから」
とされて、連休後半の05月06-08日とする会期が決定した。
陶磁器の有田焼は著名で、ずいぶん前に有田の窯元数ヶ所を訪問したことはあった。ところが、恥ずかしいことに茶碗やお皿などのテーブルウェアの 1/4 -1/3 の市場占拠率をもつという「ハサミ焼」のことは知らなかった。

ただし、「波佐見焼」の文字列をみたとき、ハテ、どこかで見たぞ、となった。
意外や意外、このWebSiteの管理人で、本欄でも昨年12月07日に紹介した千星健夫さん <【会員情報】 造形者・千星健夫 NECKTIE design office による TEA BAG HOLDER SHIROKUMA>は、この波佐見の陶磁器工場で「SHIROKUMA」を委託製造されている。

千星さんは長崎市から70キロほど、長崎県の市町村で唯一海に面していない町、佐賀県との県境にある陶磁器の町「長崎県東彼杵郡波佐見町」まで何度もかよって、ネクタイ・デザインオフィス企画開発商品「SHIROKUMA   しろくま」をネットショップを中心に販売し、国内外でヒットさせている。

> 「しろくま」の製造は波佐見町でしたよね?
千星健夫:そうです、ここです。この波佐見町の工房で委託製造し、つり下げ金具の部分はネクタイ・デザインオフィスで仕上げ、破損防止のパッケージに入れて販売しています。
こんな@メールのやりとりがあった。
以下ネクタイ・デザインオフィス/千星健夫さんからの応援を得て「ふたつの陶器まつり」をしるす。
NECKTIE design office Shirokuma 】

《長崎県波佐見町、佐賀県有田町。県境を挟んで隣接するふたつの町の陶器まつり》
◎ 波佐見陶器まつり      04月29日-05月05日
長崎県東彼杵郡ヒガシソノギグン波佐見町   窯元・商事会社・販売会社など150店余が出展
30万人余の来客を予定  駐車場3,000台分を用意
hasami_02[1]◎ 有田陶器市          04月29日-05月05日
佐賀県西松浦郡有田町    知名度抜群で、著名な工匠を輩出した
400年の窯業の歴史、第113回の歴史を誇る  100万人余の来客を予定
──────────
{千星健夫} 長崎県波佐見町の「波佐見陶器まつり」と、佐賀県有田町の「有田陶器市」は、まったく同じタイミングで実施されています。
このふたつの会場は、九州高速自動車道で、まったくおなじ「波佐見・有田インター」から会場に行くひとが大半です。 高速のインターを降りて、右に行くと波佐見、 左に行くと有田といった具合なので、とても混み合うようです。

それぞれの窯元・工房・メーカーが離れていることもあって、 車でなければちょっと会場を周りにくい状況なので、 すべての道路が混雑するようです。
波佐見と有田の陶器市と<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会期がぶつからなくてよかったですね。

なにしろ波佐見の「波佐見陶器まつり」だけでも 30万人、有田町の「有田陶器市」には100万人もの人出が予想され、あらゆる道が大渋滞になるので、 現地の人からするとあまりおすすめはできないということですが、 わけあり価格で販売されていたりするので人気が集中するようです。

また波佐見町に行くとなれば、隣の  嬉野温泉(佐賀県) がおすすめです。 美肌の湯として全国的に有名で、化粧水に浸かっているようなとろとろのお湯なので、女性には特におすすめです。でもやはり連休中はどうですか、すこし心配です。  千星健夫 shirokuma01 shirokuma03 hasami_14 hasami_37 hasami_16[1] hasami_39[1]

【展覧会】 恩地孝四郎展/東京国立近代美術館 会期末迫る & 恩地家三代公式記録 multirhythm WebSite紹介

国立近美恩地孝四郎展日本における抽象美術の父にして木版画近代化の立役者、そして時代に先駆けたマルチクリエイター恩地孝四郎、過去最大規模の回顧展。
日本で最初の抽象表現《抒情『あかるい時』》はもちろん、海外美術館所蔵の重要作62点を含む約400点を一挙公開します。
──────────
日本における抽象美術の先駆者であり木版画近代化の立役者でもある恩地孝四郎の、20年ぶり3回目、当館では実に40年ぶりとなる回顧展です。

恩地は抽象美術がまだその名を持たなかった頃、心の内側を表現することに生涯をかけた人物です。
彼の創作領域は一般に良く知られ評価の高い木版画のみならず、油彩、水彩・素描、写真、ブックデザイン、果ては詩作に及ぶ広大なもので、まるで現代のマルチクリエイターのような活躍がうかがえます。
本展では恩地の領域横断的な活動を、版画250点を中心に過去最大規模の出品点数約400点でご紹介いたします。

また見逃せないのは、里帰り展示される62点。戦後、特に外国人からの評価が高かった恩地の作品は、その多くが海を渡っていきました。
本展では海外所蔵館(大英博物館・シカゴ美術館・ボストン美術館・ホノルル美術館)の多大な協力のもと、現存作が一点しか確認されていない作品や摺りが最良の作品など恩地の重要作をご覧いただきます。
【 詳細 : 東京国立近代美術館
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この 【展覧会】 恩地孝四郎展 ―― 形はひびき、色はうたう 東京国立近代美術館 に関する情報は、東京国立近代美術館からの情報をもとに、本コーナーには02月08日に紹介した。
その際別途に、恩地孝四郎嫡孫・恩地元子様からも封書で、長文の文書と招待券を頂戴していた。
忙しさに取り紛れて文書をじっくり拝読していなかったことが悔やまれるが、とても貴重な資料をご提供いただいていたことを改めて確認したのでここに皆さまにご紹介したい。

恩地家三代――恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)は、いずれも東京藝術大学にまなび、才能と個性と造形力がゆたかなかたばかりであるが、やつがれは荻窪の恩地邸にしばしば押しかけ、恩地邦郎氏とそのご夫人展子様にたいへんお世話になった。

恩地孝四郎は1935年(昭和09)04月創刊の『書窓』(アオイ書房、志茂太郎)の第一号から1944年06月、志茂太郎が官製の国民運動「変体活字廃棄運動」に抵抗したため、強制疎開によって郷里の岡山に帰郷したための終刊号、『書窓』(第17巻第05号、通巻103号 日本愛書会書窓発行所)まで、一貫して編輯・執筆・造形・装本にあたっていた。
つまりやつがれは、わが国における近代版画家、抽象絵画の祖としての恩地孝四郎ではなく、印刷・出版人としての恩地孝四郎像を追っていた。

アオイ書房/志茂太郎と、『花あしび』(堀辰雄、2000年10月06日、朗文堂)の刊行を企画していたころ、堀辰雄関係の知人の紹介を得て、荻窪の恩地邸(遠藤 新 アラタ 設計)をはじめて訪問したのは、恩地邦郎氏が長年にわたった明星学園での教職をはなれた直後のことであり、おそらく1990年ころであったとおもう。
恩地邦郎氏ご夫妻はこころのあたたかなかたで、いつも居間でくつろぎ、展子夫人のピアノ演奏もたのしませていただいた。
やがて当時の「金曜かい」の若手の諸君(いまは50代初頭の中年になっているが)も恩地邸に押しかけるようになり、お庭のアカンサスを愛で、孝四郎氏と邦郎氏の二代にわたるアトリエを拝見させていただいた。

それからは、毎年のように銀座の画廊で個展を開催されたので、そこでお会いしたりしていたが、ご著作『随想 春の雪』(恩地邦郎、1997、ぶんしん出版)を頂戴した。それからまもなく2001年に行年81をもって恩地邦郎氏は逝去された。
近年になり、宇都宮美術館の企画で<恩地孝四郎邸見学会>があり、そのグループの一員として、やつがれと大石とで懐かしい荻窪の恩地邸をおとづれた。
およそ15年ぶりほどの訪問であったが、恩地家第三代・恩地元子様が、故邦郎・展子ご夫妻とほとんど変わらぬ笑顔で恩地邸をご案内されていた。
──────────
前置きがながくなった。恩地家三代 ―― 恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)の三人の活動について、お知らせ、報告するWebSiteが開設されている。

URL :  multirhythm

管理・運営は恩地元子氏によるもので、いわば恩地家公式WebSiteといえるものであるが、とても丁寧なつくりこみがなされており、情報も正確でゆたかである。
初代・恩地孝四郎の歿後60年余、二代・恩地邦郎の歿後15年余のときが経過した。ともすると記憶はしだいに鮮明さをうしない、精度を欠くようになる。
このWebSiteの誕生を欣快とし、皆さまにご紹介するゆえんである。

ときのたつのははやいもの。久しぶりに薩摩隼人・薩摩おごじょの皆さんと熱い交流

adana トップページつい最近のこととおもっていたのに、もうあれから一年半ほどのときがたちました。
3日間5,000人ほどのお客さまを迎えた活版礼讃イベント<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>開催の地、櫻島を至近にあおぐ鹿児島「尚古集成館・仙巌園」に2月13日[土]-14日[日]の週末に、商用もあって一泊二日の日程でいってきました。

【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 15  いまも続く薩摩隼人, 薩摩おごじょとの協働作業 DSCN6311 DSCN6293 DSCN6311 DSCN6293 DSCN6291 DSCN6318 DSCN6320 DSCN6325 DSCN6328 DSCN6329DSCN6333仙巌園の菜の花2014年11月開催の<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>以後、おおきな変化は2015年(平成27)7月5日に、尚古集成館(旧集成館・旧集成館機械工場を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録)が世界遺産に登録されたことでしょうか。

そのために「尚古集成館」「仙巌園」ともどもサインや施設の一部に変更がみられました。
また二月の初旬に数十年ぶりにみた降雪のため、「尚古集成館」も特別休館を余儀なくされ、植栽にも被害があったそうですが、二月中旬のこのとき、館内庭園には避寒櫻が花をつけ、名をしらぬ大きな鳥が憩っていました。

<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>で併催された、尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による特別講演会 < 尚古集成館所蔵/重要文化財 『 木村嘉平活字 』 と 薩摩藩集成事業について >で薩摩藩(鹿児島)の、そして長崎の活版印刷事業の嚆矢となった俗称『薩摩辞書』と五代友厚に関しては、NHK 連続ドラマ『朝がきた』が話題となったことで、すっかり著名な存在となっていて、田村館長ともどもすこし笑いました。
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 11  講演会 : 田村省三館長、 展示紹介 : 加久本真美さん、渡辺 絵弥子さん
DSCN7916 DSCN7912 DSCN7914 DSCN7918 DSCN7926DSCN7927《鹿児島の夜はいつものところで、いつものメンバーとご一緒しました》
鹿児島にはアダナ・プレス倶楽部の会員がたくさんいらっしゃいます。
今回も六花窯:横山博さんの肝煎りで、鹿児島市役所ちかくの「いつものところ-店主のご意向で店名はご容赦を」で、松山先生、前田さんご夫妻、早川さん、稲留さん、橋口さんらの様様な造形者の皆さんとの熱い交流。

お料理いっぱい、薩摩焼酎どっさりのせまい会場では、地元の皆さんでも数年ぶりという再会があったり、前田夫人の詩吟もとびだして、鹿児島の夜はしんしんと更けていきました。
いずれにしても、各所で活版印刷が始動しています。
鹿児島にも一粒の種子がちいさな芽をだしました。こんどまた鹿児島を訪問するのはそう遠くはないようです。 DSCN6286 DSCN6277 DSCN6276

【会員投稿】 掃苔会新会員/時盛 淳さん、平野家塋域 単独代参参上の記録

DSC_1010東京谷中霊園中央園路に面して建立されているおおきな石碑が、平野富二の十三回忌に際して、株式会社東京築地活版製造所有志、株式会社東京石川島造船所有志の拠金による「平野富二君之碑」(甲01号01側)である。
篆額の揮毫は榎本武揚、碑文の撰幷書は福地源一郎(福地櫻痴)による。
この項の詳細は古谷昌二『平野富二伝』(p.810 – 18)を参照願いたい。

DSC_1012 DSC_1013 DSC_1014平野家塋域は東京都谷中霊園の東北部、乙11号14側にある。
中央の平野富二の墓石の表面には、吉田晩稼の筆になる「平野富二之墓」が陰刻され、向かって右側面には、法名の「修善院廣徳雪江居士」が刻まれている。
吉田晩稼(1830-1907)は長崎興善町うまれ。陸軍・海軍に奉職したのち辞して書芸をもっぱらとした。大楷書を得意とし、筆力雄勁にして並ぶものなしと評された。また本木昌造とは歌友であり、東京九段の靖国神社の標柱、大阪四天王寺の本木昌造像の台座の書も晩稼による。
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{新塾餘談}
「平野富二墓」は太平洋戦争の際、上野駅周辺に無数に投下された焼夷弾をあびており、焼損が見られるのは残念である。平野家一門には再建の議論もあったが、この墓石は本来浅草雷門再建のために切りだされた房州の小松石をもちいた由緒あるものであり、また吉田晩稼の書の典型例としてやつがれは再建には反対してきた。
それでも近年碑面にも剥落がみられるようになり危惧をいだいている。なにかよい保存法があればご提案いただけたら幸甚である。
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DSC_1036 DSC_1024 DSC_1025平野家塋域はいってすぐ左脇に法名「妙清古登童尼」と陰刻されたちいさな墓標がある。
裏面には「平野富二長女 古登子 享年三歳 明治八年七月七日歿 大正二年三月再建」とある。
明治05-08年という、もっとも平野富二が多忙をきわめた時期にうまれ、そして夭逝した「長女 古登子 琴 コト」の墓である。戸籍が未整備な時代だったため、明治五年の何月のうまれかは記録にない。

塋域右奥には「平野鶴類墓」がある。のちに平野家を継承した平野津類は長女古登の逝去から三ヶ月後の1875年(明治08)09月30日に誕生した。明治12年ころに編成された京橋区戸籍記録には長女:古登の記録はなく、二女津類が「長女」として記録されている。
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平野津類は青森県出身の勇造(旧姓境、のち離別)と結婚して、嫡孫:平野義太郎が1897年(明治30)03月05日に誕生して、平野家第三代を継承した。
平野義太郎は高名な法学者であったが、その妻:嘉智子とともに、塋域右奥にねむる。

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【 参考資料 : 花筏  平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連 】

朗文堂好日録046 - 喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-02 プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

プラハ

02    プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

新コーナー{文字壹凜}にかまけて、<花筏>の更新が遅滞していた。
昨週週末(01月15-16日)長崎に出張した。土曜日は長崎の若手学芸員の皆さんとおあいした。想像以上に<花筏>をよくご覧いただいていた。うれしかった。
{文字壹凜}は縦書き式短文ブログであるが、一応目標としていた100投稿をこえて、まもなく120投稿に達することができた。スタート直後からデバイスの異同による「バケ」に悩まされているが、読者のご寛容に救われている。これもまた楽しい試練ではある。

<花筏>に管理者:千星健夫氏が手を入れてくれて、ここでも<活版 à la carte>と同様に画像をスライドショウで楽しんでいただくことができるようになった。 再開第一弾を【朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ 】の続編とした。ほぼ一年ぶりのこととなる。ご愛読を乞い願う次第である。

☆       ☆       ☆

京都在住、ぢやむ杉本昭生氏の活版小本の新作フランツ・カフカ『道理の前で』を紹介した。
杉本氏はいつも活版小本を送付される際に「一筆箋」のような文章を添付されているが、今回はめずらしくこぼしが多かった。
たしかに「活版小本」の杉本昭生氏がマッチ箱サイズをねらっても、あまり収穫がないような気はした。 この 「テ」 は読書家の杉本氏には似合わなかった。ほかの豆本製作者に任せてもよいかもしれないとおもえた。

ところで、やつがれ フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。 したがって「活版小本 カフカ『道理の前で』」 4 ページ 一丁、15丁60 ページかがり綴じ、前後見返しつき、前扉別紙差し込みからなるマッチ箱サイズの上製本をうれしく拝読させていただいた。
そこでフトおもいだしたのは、この作品はチェコ プラハの「黄金の小径」で執筆されたのではないかというおぼろな記憶だった。

2013年晩夏、三泊四日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。 その報告は「花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ」にあるが、ここには序章があるだけでその後の記述はない。
すなわちやつがれが情報過多に陥り、ひとさまにプラハの紹介をすることができなかったというのが苦しいいいわけになる。

2013年のプラハ行きはロシアの航空会社「アエロフロート航空」で、モスクワ経由でいった。
このときの収穫はおおきなものがあったが、ともかく魅力がありすぎて、未整理なままやつがれの脳裡の片隅にある。 2014年に再挑戦をこころみたが、円安のためもあって旅費が高騰していた。

プラハにはいま、アダナ・プレス倶楽部会員・博士山崎が研究のため長期滞在中である。 ノー学部と博士山崎は情報交換が盛んのようである。したがってどうやらもう一度プラハにいく機会がありそうな昨今である。

プラハの一隅にはカフカの生家があり、そこはいまちいさな博物館となって公開されているという。 そしてカフカの墓は、その近くの「ユダヤ人墓地」にあるという。 前回はユダヤ街にいく時間がなかった。再訪を得たらぜひともたずねたいとおもう。
すなわち、畏友杉本昭生が製作し、失敗作と自嘲した一冊の活版小本、フランツ・カフカ『道理の前で』が契機となって、プラハ再訪を決断することになったということである。 プラハ絵はがき01 プラハ絵はがき02 プラハ絵はがき03 プラハ絵はがき04プラハ市販の長尺絵はがきより。下から二段目、プラハ城脇、かつて錬金術士が居住したことから「黄金の小径」と呼ばれる長屋街。いまはみやげ店がならぶ人気の観光スポット。左手の青い22番の建物は、カフカがここで『城』などの作品を執筆していたとされる家。

Kafkasd2ところでやつがれ、ふるくから フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。
民族と言語がもざいくのようにあやなす欧州、とりわけ中欧のカフカのような人物の経歴をあらわすのは困難だが、カフカは当時のボヘミヤ地方、正確にはオーストリア=ハンガリー帝国領のプラハで、高級小間物商をいとなむユダヤ人の両親のもとでうまれた。
その母語となるとさらに複雑で、父親のヘルマン・カフカ(1852-1931)はチェコ語を母語としたが、母親のユーリエ(1856年-1934)は当時の支配階級にならい、ドイツ風の慣習に馴染んでドイツ語をはなす、ほとんどドイツに同化していたユダヤ人であった。

父ヘルマンは息子を学校にいかせるにあたり、プラハにおいて多数の話者を持つチェコ語の学校ではなく、支配者階級のことばであるドイツ語の学校を選んだ。 しかしカフカはチェコ語やフランス語の本を多く読み、プラハ大学で哲学や法律をまなんでいた。
そのみじかい人生の晩年、カフカは結核に罹患したためもあって休暇がふえ、また民族意識に目覚め、ヘブライ語やラテン語の学習にもはげんだ。 しかしその著作や、のこされた書簡のほとんどは、ドイツ語でしるされている。

フランツ・カフカは1924年(大正13)6月3日、宿痾の結核でオーストリアのキールリングで歿した。満40歳であった。
遺骸は故郷プラハに移送されて、この街のユダヤ人墓地にねむる。
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フランツ・カフカの作品は、長編小説『審判』、『城』、『失踪者』のほかに、多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、その少なからぬ点数が未完であることで知られている。
これらの「遺稿」が刊行をみたのは、プラハ大学での一級下級生であったマックス・ブロートの力に負うところがおおきい。

その作風は、孤独感と不安が横溢しながらも、それを巧妙にユーモアでおおい、夢の世界を想起させるような独特の小説作品をのこした。
作品の評価が歿後にはじまったことと、幻想的で浮遊するような軽妙さの二点において、10年ほどのちのことになるが、わが国の 宮澤賢治 (1896-1933)と似たところがみられる。
宮澤賢治の著作で生前に刊行されたのは『春と修羅』(詩集)と、『注文の多い料理店』(童話集)だけであり、ほとんど無名に近い状態であったが、歿後に草野心平らの尽力によっておおくの作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となった。

《2014年09月 アフター・バカンスでプラハの観光地は賑わっていた》
プラハ観光の最大の中心地「プラハ城」には、ゴシック、ロマネスク、ルネサンス、アールヌーヴォなどの様様な様式の建築物があるが、なんといっても、天を突く尖塔がシンボルのゴシック様式による 「 聖ヴィート大聖堂 」 が観光客をあつめていた。

DSCN5492 DSCN549509月なかば、この晩夏の時期は、欧州では 「 アフター ・ バカンス 」 とされる。 バカンスの期間は混雑を避けて旅行を控えていた高齢者と、バカンス期間にアルバイトをしてふところがあたたかくなった若者が、オフシーズンで安くなったチケット利用しての旅行者が多くみられた。
この建物は F ・ キセラの設計によるもので、内側からみると、画家/アルフォンス ・ ムハ ( わが国では ムシャ ) らによるステンドグラスが美しい ( らしい。 やつがれ、混雑につかれて内部には入らなかったゆえに失敗した )。
DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 「 聖ヴィート大聖堂 」 のファサード上部に、いわゆるブラックレターの掲示板があった。 この系統の書体は、活字界では 「 テクストゥール 」 とよばれる。 ゴシック様式の尖塔によく似た、鋭角的で、ゴツゴツとした突起の目立つ形象の活字書体である。 プラハ絵はがき03その後黄金の小径へ。色とりどりのちいさな家が立ち並ぶ通りで、いまはみやげもの屋となっているが、もともとは城に仕える召使たちが住んでいて、いっとき錬金術士がおおく居住していたために「黄金の小径」と呼ばれる人気スポットとなっている。

ここの22番と表記された青い建物が、いっときカフカが仕事場としていた家とされる。 せまい建物におおきなリックサックを背負った若者がたくさんつめかけていて、なかなか中にはいれなかった。
そこで錬金術士の工房(なかなか怪しくてよかった)や、椅子のあるみやげもの屋に逃げたことを後悔しているが、なんとか写真だけは押さえてあった。

{ 新宿餘談 }
友人にドイツの印刷系の大学院を修了した人物 IS 氏がいる。博士論文のテーマに 「グーテンベルクは錬金術士だった」 をテーマにして研究をすすめていたところ、指導教授に 「これを発表したら、君もわたしもこの世界から抹殺される」 と説得されてほかのテーマにしたという。

このはなしは故ヘルマン・ツァップが笑いながらおしえてくれた。そして日本に戻っていたIS 氏を
「ユニークな発想のおもしろいひとですよ……、ぜひお会いになってください」
として
紹介された。
IS 氏は晩年のツァップにインターネット環境の設置をすすめ、その設定にもあたっていたことがあった。
いまは毎週一回はメールを送付されるIS 氏であるが、ちょっと人間関係が複雑なわが国の環境になじめないでいる。ときおり来社されて
「グーテンベルクは錬金術士だった、そう思いますよね」
とかたられる。やつがれは苦笑するしかないが、内心は首肯している面もある。
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以下「黄金の小径」を紹介するが、格別の説明はしない。むしろスライドショウでお楽しみいただけたら幸いである。
じつはやつがれ、このプラハ城と「黄金の小径」で人混みにもまれ、すっかり疲労困憊。

ゲートをでるとルネサンス様式の建物があり、そこでの「夕べのコンサート」をノー学部が予約していた。 ベドルジハ・スメタナの『わが祖国』(チェコ語: Má Vlast )が演奏された。
このスメタナの代表作は毎年おこなわれる「プラハの春音楽祭」のオープニング曲として演奏されるそうである。

『わが祖国』とうたいあげなければならなかったボヘミアのひと、ボヘミアンのスメタナをおもい、「祖国とは、母語とはなんだろう」とおもわずにはいられなかったであろう、ボヘミアンのフランツ・カフカをおもい、妙に鼻の奥がムズムズしたが、なんとか耐えることができた。 DSCN5558 DSCN5559 DSCN5561 DSCN5562 DSCN5565 DSCN5566 DSCN5567 DSCN5568 DSCN5569DSCN5573 DSCN5574 DSCN5575 DSCN5576 DSCN5577 DSCN5580 DSCN5580 DSCN5583 DSCN5585 DSCN5586 DSCN5587 DSCN5588 DSCN5589 DSCN5591 DSCN5592 DSCN5596 DSCN5726

【会員情報】 Bonami の三人が「湯河原・真鶴アート散歩」の一環として<dear my sister>の展示会開催

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Bonami のホームページに「dear my sister」の特設ページがアップされています。
http://atelierbonami.com/?p=2777
閲覧をお勧めいたします。

Bonami

< ボナミ について >
杉山聡 三木葉苗 三木咲良さん のトリオ。
神奈川県の小さな港町、真鶴のアトリエで
手製本、活版印刷などを用いた本や紙のものを制作しています。
Bon ami ( ボナミ ) はフランス語で 「 なかよし ・ 良き友だち 」 の意味。
私たち 3 人は、はじめて出会ったその瞬間から仲良しになりました。
そのことが、私たちの人生でいちばんの彩りです。
浮き沈む日々も、ただ、こう言います。 「 私たちは Bonami ( なかよし ) です。」
──────────
いつも、どこか、なにか、いい感じの Bonami  のトリオです。
活版礼讃イベント<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>での出品作品は、多くのかたが手にされ、おおきな感動を呼んでいました。
そんな Bonami のお三方が、2015年11月「湯河原・真鶴アート散歩」の一環として<dear my sister>と題した「活版印刷と手製本で綴るオリジナル絵本 四作目」の展示会を開催されます。
開廊日に注意してのご参観をお勧めいたします。

【展覧会】 良寛と有願の傑作選-良寛の里美術館 秋の特別展

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良寛の里美術館 秋の特別展

良寛と有願の傑作選

◯ 期        間 : 2015年09月09日[水]-11月03日[火]
◯ 会        場 : 良寛の里美術館 (道の駅 良寛の里 わしま内)
◯ 開館時間 : 午前09時-午後05時
◯ 入 館  料 : 大人500円(高校生以上)/小人300円(小・中学生)
◯ 主       催 : 良寛の里美術館
          949-4525 長岡市島崎3938番地  道の駅 良寛の里 わしま内
          TEL . 0258-74-3700

【 詳細情報 : 良寛の里美術館 長岡市  良寛の里 わしま

【展覧会】 豪農伊藤家コレクション-北方文化博物館 中国 韓国の陶磁展

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-豪農伊藤家コレクション- 北方文化博物館
中国 韓国の陶芸展

◯ 日        時 : 2015年10月18日[日]-12月20日[日]
◯ 会        場 : 北方文化博物館 集古館
◯ 入  館  料 : 大人800円
◯ 開館時間 : 午前9時-午後5時(集古館のみ午後4時30分)
◯ 休  館  日 : 会期中無休
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<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>ともなった北方文化博物館は、越後随一の豪農であった伊藤家歴代、とりわけ第七代伊藤文吉(世襲名)が、明治15年から八年余の歳月をかけて建造した邸宅と、その庭園を保存・公開しています。
<中国 韓国の陶芸展>では、伊藤家コレクションのなかから、およそ30点を展示いたします。
伊藤家の暮らしの記憶が息づく館において、コレクション作品のあらたな魅力を発信します。
会場の「集古館」は、博物館の西北にある、白壁と瓦の土蔵造りの建物で、昔は飯米蔵としてもちいられ、多いときで2,000俵の米俵が積まれていたといわれています。
現在は、歴代の当主達が収集した書・画・古美術品などが展示されており、伊藤家の優雅な暮らしぶりを知ることができます。

【 詳細情報 : 北方文化博物館 集古館

タイポグラファ群像*009 アドリアン・フルティガー - 子午線から宇宙へ、鮮烈な活字の記憶

追    悼
20世紀の壮大な Univers 宇宙をキャンバスとし
鮮烈な Meridien 子午線に軌跡をのこしたひと。
Univers,  Meridien,  OCR – B などの不朽の活字設計をなし
オルリィ空港、シャルル・ド・ゴール空港、パリ地下鉄道の
サインシステムと制定書体を製作し
旧約聖書にもとづいた記号学の進展にもおおきく貢献したひと。
2015年9月10日  スイス・ベルンにて逝去
Adrian Frutiger   1928-2015

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Brief History  -  Adrian Frutiger

◯ 1928年5月24日  スイス・インターラーケンにて生れる。
のちオットー・シェフリー印刷所にて活字植字工となる

◯ 1949-50年 チユーリッヒ工芸専門学校にて力リグラフィを学ぶ
◯ 1951年  同校卒業制作の小冊子『Schrift, Ecriture, Lettering 』が縁で、シャルル・ペイニョ率いるパリのドベルニ & ペイニョ 活字鋳造所に勤務
◯ フランスのドベルニ & ペイニョ 活字鋳造所、ドイツのシュテンペル活字鋳造所ほかから、以下の主要活字書体を発表した

Phoebus (1953),  Ondine (1954),   President (1954), Meridien (1957),  Univers (1956 – 1957), Opera (1959 – 60),  Egyptienne (1960),  Apllo (1964),  Serifa (1967),  OCR-B(1968),  lridium (1975),  Frutiger (1976),   Breughel (1982),  lcon (1982), Versailles  (1982), Centennial (1986)
◯ 1952-60年 パリの美術工芸学校「エコール・エティエンヌ」にて記号学とタイポグラフィ教育に従事
◯ 1954-68年 フランス国立高等美術工芸学校にてタイポグラフィ教育に従事
◯ 1959年  パリ・オルリィ空港のサインシステムと制定書体の製作
◯ 1962年  パリにアトリエを開設(スタッフ:アンドレ・ギュルトレール、ブルーノ・ブフェリ)
◯ 1070年  新設されたシャルル・ド・ゴール空港のサインシステムと制定書体を製作
◯ 1973年  パリの地下鉄道のサインシステムおよび制定書体を製作
◯ 1976年  シャルル・ド・ゴール空港の制定書体を写植活字用に改刻し「フルティガー」シリーズを製作
◯ エール・フランス社のシンボルマークを製作
◯ SNCF(フランス国有鉄道)ロワシィ駅に長さ250mのコンクリート・レリーフを製作(建築:ポール・アンドルー)
◯ 1980年代 この時代には、メリディエン、ユニヴァースなどの主要な書体を、手組活字から、活字自動鋳植機、写植活字、電子活字などのメディア変遷のために、既成活字書体のユニットの再設定や、リデザインに追われた。
◯ 1986年  グーテンベルク賞受賞

◯ 1996年  心臓疾患を患い、その克服後にスイスに住居を移し、ベルン郊外にて製作を継続
◯ 1999年  ドイツ・ライノタイプライブラリー社のために、ユニヴァース・ファミリーの全面改刻を実施。21のファミリーを59へと大幅に拡張した(ディレクター:オットマー・フォーファ)
◯ 2001年  邦訳書『活字の宇宙』(朗文堂)刊行
◯ 2015年9月10日  スイス・ベルンにて逝去。行年87

20151004215520954_0002世界中でひろく使われている本文用活字をかさねてみると、
ある基本的なパターンがもとめられます。
ギャラモンのようにふるい活字では a の下部のカウンターは小ぶりですし
 e の横棒はたかい位置にあります。
しかし、いろいろな活字をかさね合わせるという方法によってみえてくることは、
 a の下部のカウンターが次第におおきくなり、e の横棒が中央に下がってきていることです。
それは文字としての美しさと、文字の判別性 Legibility とのせめぎあいの結果であり
もっとも読みやすいという、文字の
基本的な目的に合致するのです。
                    Adrian Frutiger  [アドリアン・フルティガー]
20151004203352856_0002
左) ヘルマン・ツァップ      1918年-2015年 享年96
右) アドリアン・フルティガー 1928年-2015年 享年87

1998年07月、フルティガーの70歳の祝いと、改刻版ユニヴァースの完成を祝って、ハイデルベルクの古城で開催された祝賀パーティ。会場に駆けつけた、最大のライバルでありよき友人の、ヘルマン・ツァップ氏とかたい握手をかわすふたり。
(ハイデルベルク社主催。写真提供:オットマー・フォーファ。参考:『文字百景62号』)

2015年06月04日、ヘルマン・ツァップ氏が逝去 され、いまだにその気持ちと記録の整理ができかねているところに、2015年09月10日、アドリアン・フルティガー氏の逝去 をご報告するはこびとなりました。
20世紀後半、世界のタイポグラフィを主導されたおふたりは、それぞれ、朗文堂に『ヘルマン・ツァップのデザイン哲学』(ヘルマン・ツァップ著、1995年04月11日、朗文堂)、『活字の宇宙』(アドリアン・フルティガー著、2001年04月11日)の重い存在の著作をのこされました。

ヘルマン・ツァップ氏とは、次著『仮称:活字と夢と』を刊行すべく、双方ともに努力のさなかの逝去でしたから、私家版をふくむほとんどの著作を保存しております。なかんづく2003年に、
「造形者としての、わたしのすべてをまとめてみた …… 」 とされたDVD資料をいただき、ときおり読者の皆さまに公開しております。

アドリアン・フルティガー氏とは、『活字の宇宙』(アドリアン・フルティガー著、2001年04月11日)刊行取り組みでのおつき合いだけでなく、甥のChristoph Frutiger氏の製作による DVD Video<Adrian Frutiger The Man of Black and White>(発行者:Christoph Frutiger)を紹介しただき、四回にわたって朗文堂 タイプコスミイクから販売してまいりました。
後半の二回は、朗文堂/新宿私塾第5期修了生のペートラ・シッファート Prtra Schiffarth さん、河野三男さん、木村雅彦さんのご協力をいただき、翻訳テキストをMACデータで添附しての販売でした。

『普及版 欧文書体百花事典』(組版工学研究会編、朗文堂)には、<Sans Serif 誘目性からから出発し、可読性をめざして-サン・セリフ体の潮流>、<Univers 宇宙に子午線をみたひと-アドリアン・フルティガー>などの項目があり、またアドリアン・フルティガーに関して随所で触れられておりますので、ぜひともご覧いただきたいと存じます。

残念ですが、図書『活字の宇宙』(アドリアン・フルティガー著、2001年04月11日)、DVD Video<Adrian Frutiger The Man of Black and White>ともに、現在は品切れ、販売中止となっています。

《アドリアン・フルティガーとユニヴァースを取りあげつづけた『文字百景』》

DSCN8204『文字百景』全100冊合本。 題字:美登英利、組版フォーマット設計:白井敬尚

『文字百景』は、B6判、中綴じの軽便な冊子で、書物と活字の周辺を風景としてとらえてみよう…… 、そんな企画から1995年06月にスタートし、それから四年半ほどのちの1999年12月、文字どおり100冊の小冊子の刊行・販売をおえて終了したものです。

アドリアン・フルティガーの活字製作者としてのデビューははやく、パリのドベルニ & ペイニョ活字鋳造所から発表された著名な活字書体は、ほとんどが20-30代前半の製作です。
すなわち、まず25歳のとき、デビュー作としてPhoebus (1953)を製作し、 つづいて「水の精」を意味する Ondine (1954),   President (1954) とつづき、Universは、56 年の製作発表、57 年の発売です。
同年に「子午線」の意から名づけられたセリフ書体 Meridien (1957) が発売されたのは、フルティガーはまだ29歳の若さでした。

わが国では、どういうわけかほぼ同時期に製作されたサンセリフ書体の Univers (1956 – 1957) ばかりが喧伝されてきましたが、セリフ書体の Meridien はシャルル・ペイニョ社長のお気に入りの活字書体で、完成直後からドベルニ & ペイニョ活字鋳造所のレター・ヘッドや広報物の中心書体でした。

この『文字百景』が連続刊行されていた20世紀最後の数年、アドリアン・フルティガーはすでに70歳ちかい高齢であり、ひとつのまとめとして、あまりにも拡散し、多様化してしまった<ユニヴァース>の改刻作業にあたっていた時期とかさなります。
そのせいでしょうか、『文字百景』には<フルティガーとユニヴァース>に関する記述が四本みられます。

◯ 『文字百景23  新ユニバースのテンヤワンヤ』(飯山元二 1996年03月)
◯ 『文字百景30  ユニヴァースの誕生秘話・そして再生へ アドリアン・フルティガーに会いました』(坪山一三 1996年12月)
◯ 『文字百景38  パリのタイポグラフィ行脚』(酒井哲郎 1997年03月)
◯ 『文字百景62  電子活字の開拓者 オットマー・フォーファ』(飯山元二 1998年09月)

さいわいなことに、『文字百景30  ユニヴァースの誕生秘話・そして再生へ アドリアン・フルティガーに会いました』(坪山一三 1996年12月)の資料が保存されていましたので、ここにご紹介いたします。
写真は当時の簡便なコンパクトカメラで撮影し、紙焼きプリントでのこされていたものですので、いくぶん不鮮明な点はご容赦ください。

◆    ◆    ◆

ユニヴァース誕生秘話・そして再生へ
アドリアン・フルティガーに会いました
組版工学研究会・坪山一三

初出 : 文字百景 030   朗文堂 December 1996(一部に補整)

このひと、アドリアン・フルティガーに会うのは三度目です。
はじめは、モリサワの書体コンテストの審査員として来日された折、無理をお願いして、ある団体の主催で、講演をしていただきました。そのときは、わたしは裏方で、講演をゆっくり聞くいとまもありませんでした。
結局この団体では、報告書も講演録もまとまらず、記憶の底に沈澱してしまいました。1987 年6 月28 日のことです。
その後、1990 年にパリのフルティガ一氏のアトリエを大勢のタイポグラファといっしょにたずねました。人数が多すぎてアトリエに入りきれないほどで、あまり印象に残りませんでした。
──────────

パリを朝06 時40 分、始発のTGV (新幹線)にのって、スイスのベルンをめざしています。
きょう( 1996年9 月10 日)の午後三時に、フルティガ一氏の自宅をたずねる予定です。

フランスの首都:パリから、スイスの首都:ベルンへの移動です。いかに始発の電車に乗車したとはいえ、当日の午後に異国の首都での面会予定とは、いかにもヨーロッパだなぁとおもいます。

発車してしばらくすると、あわただしかったパリでの三日間のことがおもいだされます。予定ではパリのアトリエを訪れてフルティガーと会う予定で、友人のエルンスト・アパリッチョにパリでのスケジュールの組み立てを依頼していました。
ところが、病を得たフルティガーは、スイスに移転していることをパリでの滞在中にエルンストに告げられ、急遽日程を大幅に組みかえてベルンへ向かっての電車にのっています。

車窓からは早秋の野面に、ぶどう摘みの農夫が働いているのがみえます。途中リヨン駅に停車。ここはふるい印刷・出版の町で、「Museum of Printing and Banking」 のあるところです。
(今回も、ここには結局寄れなかったなァ。またいつかチャンスがあるかな) 。
同行は、河野三男さん、白井敬尚さんです。
河野さんは英会話は練達ですが、これまでの経験で、フルティガー氏が英語での会話はつらそうでしたので、パリ(現在はパリの真南へ550km、カオールという街の近くの小さな村)在住の悪友・酒井哲郎に、フランス語での通訳を依頼しました。持つべきものは悪友で、酒井哲郎は面白半分、ベルンまで同行してくれました。

なにはともあれ、ベルンに着いて、ホテルにチェック・インです。急にベルン入りを決めたので、首都とはいえさほどおおきなまちではないベルンでは、見本市の開催とかさなってホテルがいっぱいで、贅沢なことに最高級の五ッ星、駅の真前の「シュワイツァホフ」となりました。ドーンと石造りの格調ある建物です。ちょっと分不相応でなホテルです。

20151004203352856_0005 20151004203352856_0015 20151004203352856_0017ベルンはふかく青い空が、ぬけるように高く晴れわたっていました。まさに爽秋のもっとのよい気候でした。軽く昼食を摂って、ともかくフルティガー邸に急ぎました。フルティガー宅のある Bremga 地区は、タクシーでホテルからきっちり15 分。およそ16 キロの道のりです。

スイス一国の首都とはいえ、ベルンの町はちいさく、もうすっかり郊外にでて、ゆるやかな丘陵がひろがっていました。赤いスレート瓦の建物がならぶ郊外新興住宅地といったおもむきの場所で、タクシー・ドライバーが番地をさがしはじめました。すると白髪の老人が途にでていて、
「オ~イ、ここですよ~」
なんと、にこやかな笑顔の、フルティガ一氏がわざわざ道角にたって迎えてくれたのです。

午後のひざしが、やさしくさしこむスタジオに案内していただきました。庭には黄色と紫の花がおおく、ブルーペリーが実をたくさんつけ、コスモスと藤パカマが、こい紫の花をいっぱいつけていました。建物は木造で、一部二階建の連棟式になっていました。
不朽の名作活字、メリディエン、ユニヴァースをつくり、世界に名をとどろかせたフルティガ一ほどのひとですから、もっと大邸宅とおもっていた ―― と河野さんはいいます。予想に反し、意外につましい家であり、パリ時代のアトリエと同様に北向きの簡素なアトリエでした。

20151004203352856_0010 20151004203352856_0011 20151004203352856_0016それでも周りは草花にあふれ、木のぬくもりのある、やさしい空間でした。壁をびっしりと埋める試作の文字たち。色鉛筆で描かれたパウル・クレーもどきのちいさな素描画も眼をひきます。書棚の図書の一冊一冊、あるいはドベルニ & ペイニョ活字鋳造所時代のパンチ父型(デモンストレーション用)や、メタルタイプも眼を奪います。
しばらく、みんな茫然自失、まったくことばもないという状態でした。気をとりなおして …… 、勇気をふるって持参したお土産を披露します。わたしたちのお土産ですから、それは図書であったり、さまざまな印刷物ですが。

20151004203352856_0005 20151004203352856_0008 20151004203352856_0009 20151004203352856_0013まず、白井さんの研究作品の『 Transitional & modern roman 』と題されたカレンダーです。テクストは日本語なのですが、そこはプロ同士、ふしぎに意志は通います。それをフルティガ一は隅隅まで丁寧にみて、
「とても誠実で、美しいカレンダーです。活字研究のツボを心得た作品だとおもいます。感心しました」
と、にこやかに語る。白井さんはもう耳まで赫くなって、緊張しきっています。
続いて白井さんの
ユニヴァースのレタースペーシングに関する実験作品について、コメン卜をもとめました。その解答は詩のようでもあり、哲学者のつぶやきのように、重みのあることばでした。

「わたしはタイプデザイナーです。つまり瓦づくりの職人で、建築家ではありません。白井さんは建
築家であり、デザイナーであり、このようにすばらしい能力にあふれた、ユニヴァースの組み手です。だからあなたはこれからも自信をもってユニヴァースを組んでください。瓦職人は黙って見守るのです」
おそらく、白井さんのデザイン人生にとって、この瞬間は、もっとも光輝ある瞬間であり、これからもなんらかの迷いに捉われたときに、脳裡をよぎる激励であったとおもいます。

フルティガ一は数年前に心臓を患い、パリのスタジオを閉鎖したということです。現在はベルンの自邸で、アシスタン卜もなしでタイプデザインを続けています。しかし69 歳をむかえ、疲れることもあるのでしょう …… 、スタジオの隅には簡易ベットが置かれ、いつでも横になれるようになっているのも印象的でした。
しかし眸のよさと、勘のするどさ、記憶の確かさはさすがで、わたしたちが用意していた質問にいつも先廻りをしてきます。そのうちに、ゆっくりと、驚愕するようなことを語りだしました。
つまりユニヴァース
の誕生秘話であり、その再生にいたる物語りです。

ユニヴァースの誕生、そして再生へ

わたしがチューリッヒの美術学校の学生のころ、卒業制作のテーマとして、ルネサンスの時代に、ローマの大文字が、どのようにして小文字と併用されて発達したのかを、『Schrift, Ecriture, Lettering 』という名前のジャパラ折りの小冊子に、木版に彫ってまとめたことがありました。
それに注目されたのが、パリのドベルニ & ペイニョ活字鋳造所( DP 社)の、シャルル・ペイニョ社長でした。このひとは眸のすばらしくいいひとでしたね。それが縁で、わたしはパリの14 区のフェリス通りのDP 社に住みこみで働くことになったのです。
20151004203352856_0004そうそう、あなたがたは、きのうまでパリのDP 社の跡をたどっていたんでしたね。あそこにはもうなにも残っていなかったでしょう。あの損保会社のル・マン社が入っているビルの一室で、わたしは寝とまりしていたんですよ。
毎日、毎日、暗室の中で、コンパスや定規を使って、活字母型機械彫刻機(わが国ではベントン彫刻機と俗称する)用のパータン原図をおこすことが、わたしの仕事でした。ボド二、ギャラモン、ディドなどの名作活字をリ・デザインしましたね。とても勉強になりました。

そのころD P 社はルミタイプという、写植機メーカに関係していました。初期のガラス円盤形の電算写植機の会社でしたが、そのルミタイプのヒゴノさんとマ口ーさんが、ドイツやスイスで、サンセリフが流行っているので、ウチもぜひ、ということで、シャルルさんに開発を申しこんだんですね。

そもそもシャルルさんは、まったくサンセリフの活字は好きではなかったですから、マァ、若手のわ
たしに、
「フーツラをもとにして、そんなようなサンセリフ活字を大至急つくれ」
こんな調子で、大雑把なものでした。
おかげで自由にやれたのは、ありがたかったですね。

当然フーツラを分析・検討はしました。しかしあの活字は、あまりに幾何学的で、構成的で、魅力にとぼしくみえました。

ところでわたしは1954 年に「プレジデント」という、大文字だけの活字をつくっています。そして
メリディエン、ユニヴァースとみていくと、おわかりいただけるとおもうのですが…… 、わたしの活字の骨格はひとつだけです。
ヘルマン・ツアップ氏は、力リグラフィのひとです。ですから、ツアップ氏は活字の流れを重視します。そして手の動きはひとつですが、骨格はさまざまです。
わたしは、もともとグレーパー( 彫刻土・Graver )ですし、活字の骨格はひとつだけです。

メリディエンは金属活字のために作った書体ですが …… 、長い文章、読書用にはセリフのある、メリディエンがいいとおもうのですが ――つ まり、読書するひとは、森のなかを散歩するように、あるいは通りぬけるように活字と接します。したがって活字をつくる、書体を制作するということは、たんなる技術ではなく、もっとおおきく、人生そのものなのです。

わたしの人生にとって重要なのは、ローマン体です。ルネサンスのヒューマ二ストの考えは、わたしの考えです。とりわけニコラ・ジェンソンは、わたしの師匠です。
ジェンソンの精神は、わたしの精神
です。
ジェンソンのスピリッ卜は、わたしのスピリッ卜なのです。

東洋のひとであるあなたがたは、よくおわかりでしょうが、物事には陰と陽があります。印刷された黒い部分よりも、残された白い部分が重要です。文字の形象そのものよりも、文字のカウンターや、レタースペースのほうが重要なのです。読書には、白のハーモニーこそ重要だと、すでに15世紀に、ニコラ・ジェンソンは気づいていたのです。

ユニヴァースに関しておはなしすると、もとの形、骨格は55 番で、それはひとつのみです。
それは18 ユニット
でつくりました。
さらにそれをプロジェクターで写して、ファミリーを構築しました。いままでわたしは、
およそ4,500 字ほどのユニヴァースを描いたことになります。
ユニヴァースはもともと写植活字として設計しましたので、金属活字のように、ポイント・サイズごとにパターンを描きわける、つまりサイズごとに視覚調整した(オプテイカル・スケーリング)原字の制作は不要でしたので、ウェイトや文字幅への展開、つまり、あのユニヴァースのファミリー展開は写植活字だから可能だったのです。
金属活字では、口ーマン、イタリック、スモール・キャピタル、数字や約物を描き、そのポイン卜ごとのシリーズを描きわけることで、せいいっぱいですから…… 。
写植の登場のおかげで、ユニヴァースは、 6 種類のウェイトと、 4 種類の字幅( Widths )をもった、 21 書体からなるファミリーの展開ができたのです。
20151006191541466_0001
そうして写植活字で成功したので、イギリスのモノタイプ社が、自動活字鋳植機用の金属活字に展開したのですが、こうした例は1950 年代では、はじめてかもしれませんね。D P社が手組用の金属活字にしたのは、さらにそのあとのことです。
ユニヴァースは、56 年の製作発表、57 年の発売ですので、今年でちょうど40 年になります…… 。
DP 社は1972 年に閉鎖されましたので、ユニヴァースの販売権は、その後、スイスのハース社に、そしてドイツのステンペル社、ライノタイプ・へル社に移っていきました。

現在世界中で、およそ100 社ほどが、さまざまなフォーマットでユニヴァースを販売しています。それはそれで嬉しいのですが、問題がなくはありません。
たとえばユニヴァース85 番は、ドイツ連邦銀行のハウス・スタイルとしてユニヴァースが採用されたため、太いウェイトを ―― ということで、要求があったのですが、至急に欲しいということで、ベルトルド社のギュンター・ランゲ氏が製作したもので、わたしが描いたのではありません。
40 年もたてば、なんでもいろいろな問題が発生するということでしょうか。

同じころに誕生したへルペチカは、いまやカジュアルで、ブルー・ジーンズのように、だれもが使えるものになりました。そこでわたしは40 年ぶりに、ユニバースを手元にもどして、改刻を加えながら、25 番台のUltra light 、35 番台のThin 、85 番台もあたらしくわたしが描いて、Heavy 、95 番台のBlack 、105 番台のExtra Black のファミリーに拡張しようとしています。これで都合59 の新ユニヴァース・ファミリーが誕生することになります。
Jenson Romanの成立 55 Jenson Romanの成立 56
(1472年 ヴェネツィア ニコラ・ジェンソン 図版資料提供:木村雅彦氏

わたしはそれまで、ニコラ・ジエンソン(1420-80 )と、その活字にあまり注目したことがありませんでした 。そこでこのたびのフルティガ一氏の指摘を得て、約30 年後のアルダス・マヌティウスの印刷所の活字と並べて比較してみました。
アルダスは明快で均整がとれて、エックス・ハイトが高めに設計されているのにたいして、ジェンソンは、力リグラフィ的で、どこか不統一で、バランスを失してみえますし、なにより土くさく、泥くさくみえてきます。

さらにアルダスは、ギャラモンやベンボの誕生に、おおきな影響を与えていますが、ジェンソンは、ようやく420年ほどのちに、ウィリアム・モリスによって、ゴールデン・タイプ(1890 )に、エメリ・ウォカーとコブデン・サンダーソンによって、ダブスプレス・ローマン(1899 )に、ブルース・口ジャースによってモンテ一二ュ(1902 )、セントール(1914 )と復刻を得たり、影響を与えたのみで、その系譜は途切れたものと考えていました。

もしかすると、ウィリアム・モリスのゴールデン・タイプの図像ばかりをみせられて、その過剰な中世趣味に醇易して、ニコラ・ジェンソンにおおきな誤解をもっていたのではないかと反省させられました。
しかし、フルティガーの製作による、プレジデント、メリディエンを、ジェンソンを通してみてみると、その影響のおおきさは明瞭になってきます。さらに、うがちすぎかもしれませんが、ユニヴァースにおける素材感や、土くささのようなものも、そこに透けてみえてくるようにおもえてきます。
15世紀インキュナブラのひと、ニコラ・ジェンソンの精神とその造形は、まぎれもなく、20世紀スイスのひと、アドリアン・フルティガーによって継承されていました。

このユニヴァースの改刻の作業は、40 年ぶりに子供が家に帰ってきたようなものですから、それはそれは楽しい作業ですね。ライノタイプ・へル社がパック・アップしてくれています。
同社ではコンビュータのインターポーレーション技術も使って
いますが、わたしは40 年前とまったくおなじ、手の作業で仕事をしています。
わたしたち老夫婦にとって、すでに貯えは十分にありますので不安はありません。ですから、このプロジェクトの報酬は、きわめてわずかなものです。わたしの願いは、よい活字が、ながく存続していくことにあるのです。

以上がフルティガ一氏の語った、ユニヴァースに関するあらましです。あまり著作の中で語られていない事柄も多く、そのひとこと、ひとことが、肺腑をえぐるような重みで迫るものがありました。とりわけニコラ・ジェンソンが、フルティガ一氏のこころの師であると述べたときなど、全身に鳥肌がサァッーと立つような緊張感と、迫力がありました。
もちろん、フルティガ一氏は、フランス語で話された訳であり、酒井
哲郎氏の的確な通訳を得て記録されたものです。このひと、わたしの悪友ですが、まことに名通訳でした。正式に頼むと相当に高いギャラ( らしい)を要求されます。
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宙を翔ぶような、雲のなかをただようような、快い興奮と、感激のときは終わりました。おたが い別れがたいおもいはありました。
最後におもいがけず、フルティガ一氏が、ホテルまで送っていくといいだし
ました。
「ホテルはどちらですか」
即座にわたしたちは、三人で声をそろえて、胸をはって、
「シュワイツァホフです」
今回の旅のなかで、唯一自慢できるホテルなのですから ――。
明日も早起きして、酒井氏はパリに戻り、わたしたちはアルプスを越えて、イタリアへの電車の旅がまっています。

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*05 アメリカン・ポイントシステムの規準

《 金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムと、コンピュータ上の DTP ポイントシステムの相違 》
タイポグラフィにおける現今の話題は、コンピューター一色であり、おおかたは、そこにおける DTP ソフトウェアなどへの対応と、デジタル書籍への対処が中心のようである。

デジタル書籍への対処はひとまず措いて、金属活字組版が写真植字法をへて、コンピューター上のデジタルタイプになって、なにが変わったのかをみると、相変わらずヤード・ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と パイカ ( Pica ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) を基本としており、大きくは金属活字時代のアメリカン・ポイントシステムとはなにも基本的には変わっていないことがわかる。

20150424155225361_0001すなわち DTPポイント とは、金属活字時代の基本尺度の 1 pt ≒  1/72 in ( 0.3514 mm ) から、 およそ( ≒ )が、正確な( = ) になっており、あいまいさが回避された功績はおおきいが、金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムの概念を DTP システムも継承し、組版寸法と計測単位だけをみると、相変わらずインチ、パイカ、ポイントとしており、大差のないものとなっている。

◯ アメリカン ・ ポイントシステム    1 pt  ≒   1/72 in  ( 0.3514 mm )

◯ DTP ポイントシステム            1 pt  =   1/72 in  ( 0.352777……. mm ) 

20150828173130703_0001
大正13年版 『活字と器械』 口絵 (東京築地活版製造所)

──────────
つまり、欧文組版でも、和文組版でも、アメリカン・ポイントシステムを規準としたばあいには、

72 points = 1 inch

であり、以下の公式だけを丸暗記しておけばよいことになる。
こだわりのあるかたで、簡便ながら正確な透明スケールをご希望のかたは、ご来社いただければ頒価500円[税込]で進呈したい。

pika

 

タイポグラファ群像 008* いちずに本木昌造顕彰にはげんだひと 阿津坂 實

2015.9.19学会レクチャー_ページ_03近代活版印刷術発祥地のひとつ、長崎にうまれた阿津坂 實(あつさか みのる)氏は、徴兵検査にさいし胸部疾患が疑われて軍隊への召集を免れた。その後は療養につとめ、また地元の印刷企業に勤務していた。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)08月09日、長崎へ原子爆弾が投下され、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち、およそ7万4千人が死没、建物はおよそ36%が全焼または全半壊した。

原爆は長崎市浦上地区の中央で爆発してこの地区を壊滅させた。しかしながら浦上地区は、長崎市の中心部からは 3 kmほど離れていたことと、平坦地の広島市の場合と異なり、金比羅山など多くの山や丘による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて、市域中央部での被害は比較的軽微であった。
また県や市の行政機能も全滅を免れていた。
それでも長年にわたり、原爆による後遺症は長崎市民におもくのしかかっていた。
阿津坂氏は原爆被害に関して論及することは少なかったが、被爆者手帳の所持者であり、戦争を憎み、平和を希求することに篤かった。

戦後の復興が急がれた長崎県であったが、県都長崎市の原爆被害もあって復興は難航した。そのなかで阿津坂實氏は1947年(昭和22)08月、長崎県印刷工業協同組合に入組し、1956年(昭和31)併設された長崎県印刷工業組合と双方の、事務局員、事務長、専務理事などを歴任し、1988年(昭和65)依願退職するまでの40数年余にわたってその任にあった。
その後も両組合の相談役として、長崎県と長崎市の印刷業界におおきな影響をのこし、2013三年(平成25)にすべての役職から退任した。
2015.9.19学会レクチャー_ページ_08 2015.9.19学会レクチャー_ページ_06阿津坂實氏が、印刷業の祖、郷土の偉人として本木昌造をつよく意識したのは、長崎県印刷工業協同組合に入組してからまもなくのことである。
まず戦争末期に金属供出令で失われていた本木昌造の銅像(座像)を再建するために、1953年(昭和28)本木昌造銅像再建運動を事務方として開始し、はやくも翌年に、ところもおなじ諏訪公園に本木昌造銅像(立像)が再建された。
1968年(昭和43)長崎県印刷工業協同組合、長崎県印刷工業組合の双方の事務長に就任し、1972年(昭和47)専務理事に就任した阿津坂氏は、長崎県中小企業団体中央協議会、長崎県商工会議所などからさまざまな事業の委嘱をうけての活動も目立っていた。
また中小企業庁長官賞、長崎県知事表彰などの賞歴をかさねたのもこの時期である。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_04 2015.9.19学会レクチャー_ページ_05 2015.9.19学会レクチャー_ページ_09タイポグラフィ研究と印刷史研究は、首都東京では、三谷幸吉、川田久長、牧治三郎らによって、戦前から一定の規模ですすんでいたが、長崎では長崎学・郷土史家の、古賀十二郎、渡辺庫輔、田栗奎作らが、幕末から明治初期の長崎の状況の一環として、わずかに触れる程度にとどまり、資料の発掘も滞りがちであった。
阿津坂氏は長崎の各地に収蔵されていたこれらのタイポグラフィ関連資料を再発掘し、目録を製作するとともに、それを広く公開して、『長崎印刷組合史』、『長崎印刷百年史』の編纂をはじめ、『東京の印刷百年史』、『大阪印刷百年史』、『多摩の印刷史』など、各地の印刷組合や印刷企業の年史編纂のために、活字版印刷揺籃の地・長崎の資料を提供し、また後続の研究者にも積極的な情報提供と支援をつづけた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_02あわせて長崎各所にあった、活字版印刷の揺籃期の事業と施設を再検証し、「本木昌造生家跡碑」、「活版伝習所跡碑」、「新町私塾跡碑」、「福地櫻痴生誕地碑」などの建立をめざしての活躍も目立った。
また、本木昌造旧宅が取りこわされることになったとき、大学の建築学部に依頼して、詳細な実測図を論文としてのこすことにも協力をおしまたかったし、桜井孝三氏とともに、八丈島に現地調査にでかけ、本木昌造/平野富二らの漂着地が、それまで通説となっていた「相川浦」ではなく、「藍ヶ江」であることを発表した。

「本木昌造没後百年供養」を契機として、1975年(昭和50)長崎に戦前からあった「本木昌造頌徳会」を改組改称して「本木昌造顕彰会」を創設することにも尽力した。
この「本木昌造顕彰会」と株式会社モリサワが母体となって「本木昌造活字復元プロジェクト」が開始された。 このプロジェクトは長期間におよび、当時の長崎県印刷工業組合理事長/内田信康氏、後進の長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏らとともに、阿津坂實氏も「NPO法人 近代印刷活字文化保存会」にあって陰助をかさね、
その成果は『日本の近代活字-本木昌造とその周辺』、『活字文明開化-本木昌造が築いた近代』の、あたらしい視座にもとづいた二冊の図書に結実した。

阿津坂實氏は長崎県印刷工業協同組合での勤務のかたわら、多趣味のひととしても知られ、自慢の調理の腕をいかして、長崎駅前に「中華料理店・飛龍園」を一家で営むいっぽう、生花の師範としてもおおくの子弟の育成にあたった。
家庭には長男・貴和、田中家に嫁した長女・三重 ミツエ、次女・邦子の一男二女をなし、長女の没後にはふたりの孫娘(田中裕子・田中恵子)も手もとに引き取って養育にあたった。
晩年はさすがに車椅子に頼ることがふえたが、家庭と店頭にはみずから活けた生花を欠かさず、デイケア・サービスではカラオケに興じた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_102007年(平成19)<活版ルネサンス>を標榜して「朗文堂アダナ・プレス倶楽部」が始動し、翌年五月に<活版凸凹フェスタ2008>を初開催した際には、長崎から東京・四谷の会場に駆けつけられ、このようにかたられた。
「本木昌造先生は嘉永年間のはじめのころから活字版印刷の事業に着手していた。活字版印刷は一度すっかり衰退したが、この一六〇年ぶりの再挑戦でぜひとも復興させて欲しい。活字版印刷は文化の根底をなすものですから、これを絶滅させたらいけません」

2013年(平成24) 初秋、東京で働くようになったふたりの孫娘の支援をえて阿津坂氏が上京され、東京白銀台の八芳園 にみずから席をもうけられ、全日本印刷工業組合連合会専務理事:武石三平氏、『多摩の印刷史』編著者・東信堂印刷所代表:桜井孝三氏夫妻、片塩二朗、大石 薫をまねかれた。
「ワタシ は若いころに本木昌造先生の銅像の再建をお手伝いした。それからは菩提寺の大光寺の本木家墓前に供花するとともに、諏訪公園の本木昌造先生のお姿をいつも拝見してきた。

それなのに東京ではどうなっているのだろう。 東京では平野富二さんの初進出の場所の特定もできていないし、東京築地活版製造所の跡には簡単な碑文があるだけです。
平野さんに関していえば、まずはその初進出の場所を正確に特定すること。ワタシ は若いころからそうした努力をした。
それと、やはりそのお姿が眼前にあってこそ、開拓者の苦心が偲べるという面はおおきいとおもう。長崎と大阪には本木昌造先生の立派な銅像が建立されている。そこで東京には、文明開化をもたらした活字版印刷の創始者として、平野富二さんの銅像、できれば本木先生と平野さんが並び立つ銅像をつくって欲しい。これが阿津坂の遺言だとおもって聴いてほしい」

2014年(平成26)09月、長崎の阿津坂家では、阿津坂實氏の99歳をむかえた「白寿の祝い」が開催された。
タイポグラフィ学会には「本木昌造賞」の受賞対象者として阿津坂實氏とする推薦状が提出された。
そのためタイポグラフィ学会では顕彰委員会が招集されて審議がなされた。 顕彰委員会では若干の議論があったと仄聞する。それは「本木昌造賞」は優れたタイポグラフィ論文の執筆者に授与されるものであり、阿津坂氏の功績は、タイポグラフィに優れた業績・顕著な功績をのこしたものに授与される「平野富二賞」がふさわしいのではないかとするものであった。

阿津坂氏の主著とされるものは「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ-本木昌造」『本木昌造先生略伝』(長崎県印刷工業組合創立四十周年記念/本木昌造先生歿後百二十周年記念、長崎県印刷工業組合、平成七年九月)を見る程度であることはたしかである。
しかしながら『長崎印刷百年史』(長崎印刷百年史刊行編纂委員会/主著者:田栗奎作、長崎県印刷工業組合、昭和45年11月)、『長崎印刷組合史-百年史の追補とその後の三〇年』(長崎県印刷工業組合/長崎県印刷工業協同組合/主著者:種吉義人、長崎県印刷工業組合、平成10年10月)の両書は、組合事業関連の部分の執筆、主著者への資料提供の多くは阿津坂氏によることが両書にもしるされている。
こうした功績と、ひとえに本木昌造の遺業をかたりつぐことに尽力された阿津坂氏の業績を勘案して「本木昌造賞」の授与が内定し、ご本人、ならびにご家族にも通知された。

タイポグラフィ学会では顕彰委員会と理事会の承認を経て、例年07-09月に東京で開催されている定例総会を、2015年は長崎で開催し、その際に阿津坂實氏への「本木昌造賞授与式」を併催する計画が進行していた。
まさにその計画の進行中、2015年(平成27)05月07日、阿津坂實氏は逝去された。
そのためご家族とも協議して、「本木昌造賞授与式」は東京での定期総会と併催して、お孫さん(田中裕子・田中恵子)おふたりに列席していただくことになった。

 【阿津坂 實氏の活動紹介 PDF  2015.9.19 atusaka 2.31MB 】

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【タイポグラフィ学会】
『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露および
第3回本木昌造賞授賞式を開催

2015.9.19学会レクチャー_ページ_01

タイポグラフィ学会は、秋晴れの抜けるような晴天のもと、2015年9月19日[土]、定例年次総会につづき、一般公開で、『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露会および、第3回本木昌造賞授賞式をとりおこないました。
<第3回本木昌造賞授賞式>は、山本太郎会長の挨拶につづき、プレゼンターに平野富二玄孫:平野正一会員があたり、阿津坂 實氏の孫娘、田中裕子・田中恵子両氏に賞状ならびに記念品が授与されました。

<第3回本木昌造賞授賞式>には、タイポグラフィ学会会員のほか、多数の皆さまのご来場をいただきました。ご参加ありがとうございました。詳細報告はタイポグラフィ学会のWebSiteで近日中にいたします。
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【アダナ・プレス倶楽部 会員情報】 アルドの遺伝子-東京製本倶楽部

 

アルドの遺伝子_01 アルドの遺伝子_02アルドの遺伝子

学術出版の祖アルド・マヌーツィオ500年忌
15世紀の書物から現代ルリユールまで

◯ 日 時 : 2015年10月5日[月]-2015年11月19日[木]
10:00-18:00  日曜日および11月6日[金]閉室
ただし、10月18日[日]は開室(10:00-17:00)
◯ 
会 場 : 早稲田大学総合学術情報センター 2階展示室
◯ 
主 催 : 早稲田大学図書館 ・ 東京製本倶楽部
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今年2015年は、ルネサンス時代にヴェネツィアで活躍した、印刷出版業者アルド・マヌーツィオが亡くなってちょうど500年になります。
「ルネサンス」とは古代ギリシア・ローマの文芸の復興・再生です。アルド・マヌーツィオはまさにそれを印刷術の面から成し遂げた一人に数えられます。
また、書物に様々な工夫を施して書物を中世から近代の姿に改良した人物として知られています。
本展覧会は、アルド・マヌーツィオを彼とその後継者たちの仕事と、彼の遺伝子を受け継いで出版された様々な資料によって振り返り、アルドの500年忌を記念するものです

展覧会は大きく4 つの部分から構成されています。
第1 部は、活版印刷術の誕生からアルド・マヌーツィオ以前のヴェネツィアの印刷物です。
第2 部は、アルド・マヌーツィオとその後継者およびその影響で刊行された資料です。
第3部は、アルド・マヌーツィオに関するわが国初の単行書『アルド・マヌーツィオとルネサンス文芸復興』(東京製本倶楽部、2014年)を、日本を代表する24名の装丁家が独自のデザインと技術によって制作したルリユール作品です。
第4部は、アルドの遺伝子を受け継いだ英国の出版社の作品と、今日までに刊行された主なアルド書誌と、1994年と2015年に欧米で開催された展覧会カタログからなります。

アルド・マヌーツィオの500年忌に、ルネサンス時代から現代にまで連綿と引き継がれているアルドの遺伝子をごゆっくりとお楽しみください。
【 詳細情報 : 東京製本倶楽部