実りの秋の越後路新潟で新潟会員との熱い交流ふたたび[Ⅰ] 9月30日-10月2日 初日09月30日編 光の饗宴/ジェームス・タレル「光の館」

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Viva la 活版 Let’s 豪農の館

【 イベント名 】  Viva la 活版 Let’s 豪農の館
【 展示 期間 】  2015年10月10日[土]-12日[月・祝]
【 会       場 】  「北方文化博物館 豪農の館」 内 「吉ヶ平古民家」
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あついこころの交流があった<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>からほぼ一年。
2016年9月30日[金]-10月2日[日]にかけ、実りの秋をむかえた越後路で、ふたたびあわただしく旅をした。今回もまたサラマ・プレス倶楽部 新潟会員の多大なご支援をいただいた。

今回の旅は途中合流・途中帰京などがあってあわただしかった。
秋の越後路をめぐる旅の初日は、十日町市にある「光の館/ジェームス・タレル設計」を訪問し、そこで合宿予定。
以下三点の写真と解説は「光の館 http://hikarinoyakata.com/」公式サイトから拝借した。

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光の館 House of Ligh    James Turrell

「光の館 - House of Light」は、光のアーティスト、ジェームズ ・ タレルの作品として
第一回「大地の芸術祭  越後妻有 アート トリエンナーレ」(2000年)で生まれたものです。
この実験的な作品は、彼の作品世界を滞在生活の中で体験いただける
 世界にも例を見ないものであり、瞑想のためのゲストハウスとして構想されました。

タレルはこの構想を谷崎潤一郎の『陰翳礼讃   いんえい-らいさん』の中から見出しました。
伝統的な日本家屋における親密な光に、自らが制作してきた光の作品を融合させることを着想したのです。
越後妻有の豊かな自然の中、様々な光と向き合う時間を過ごして頂きたいと思います。

光 の 館
〒948-0122  新潟県十日町市上野甲2891  TEL/FAX  025-761-1090
E-mail : hikari01@hikarinoyakata.com
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実りの秋の越後路新潟で新潟会員との熱い交流ふたたび[Ⅱ] 9月30日-10月2日 中日10月01日編 長岡市栃尾地区「紙漉 サトウ工房」

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Viva la 活版 Let’s 豪農の館

【 イベント名 】  Viva la 活版 Let’s 豪農の館
【 展示 期間 】  2015年10月10日[土]-12日[月・祝]
【 会       場 】  「北方文化博物館 豪農の館」 内 「吉ヶ平古民家」
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あついこころの交流があった<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>からほぼ一年。
2016年9月30日[金]-10月2日[日]にかけ、実りの秋をむかえた越後路で、ふたたびあわただしく旅をした。今回もまたサラマ・プレス倶楽部 新潟会員の多大なご支援をいただいた。

今回の新潟旅行は三日間とはいえ、会員の皆さんは多忙な秋の日日とあって、中途帰京・中途参加と、在京会員九名の出入りがはげしく、二日目の10月01日[土]長岡市(旧栃尾市)軽井沢の「紙漉 サトウ工房」でのワークショップが、新潟会員四名も加わって最大人数の参加であった。

したがって整理の都合上、旅行行程からいうと逆順、つまり二泊三日の旅のうち、最終日の10月02日[日]から紹介したい。
それでも三回連載の本項の紹介は、ブログロールでは降順にアップされるので、のちからみれば行程順になる・・・・・・といいわけをばしておこう。

◎ 10月01日[土]-新潟滞在ふつか目 初日の宿、ジェームス・タレル【光の館】で「日の出プログラム・朝風呂」

新潟旅行、旅の初日の前夜は、新潟県十日町市上野甲2891、ジェームス・タレルの設計による【光の館】に合宿した。
初日に東京から車を運転して新潟入りした石田さんは、【光の館】に一泊宿泊しただけで、疲れもみせず、翌早朝、群馬県沼田市でのイベント参加のためにひとりで車で出発。
六名の会員は、「光の館」での日の出プログラムを楽しみ、ライティングが効果的な、おおきな浴槽で、おもいおもいに朝風呂としゃれ込んだ。

タクシー二台に分乗して十日町駅前に移動。そこから至近の「越後妻有交流館/キナーレ」内のレストランで朝食をとる。
館内に「温泉 明石の湯」があり、入湯したかたもいたようである。

◎ 十日町駅から「私鉄 ほくほく線」、六日町経由「JR 上越線」で長岡駅へ移動。長岡にて松尾愛子さん・イラストレーター「しおた まこ」さん合流DSCN7986 DSCN7988 DSCN7992 DSCN799311:11 十日町駅から「私鉄 ほくほく線」で六日町まで15分、そこから「JR 上越線」に乗り換えて12:36長岡駅に到着。都合1時間25分のローカル線でのゆっくりした旅となった。
つり革のところどころハート型をしていた。理由は知らないが若いカップルならよろこびそう。
長岡駅前で松尾愛子さんと合流して、東口の「庄屋」で昼食。ここは喫煙可でホッとする。

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<紙漉 サトウ工房>
DSCN801613:30 長岡駅東口に「紙漉 サトウ工房」の技芸士:佐藤徹哉さん、イラストレーター「しおた まこ」さんにそれぞれ車で出迎えていただいた。
長岡駅前からさっそく「紙漉 サトウ工房」に向けて出発。

かつては急峻な峠越えの道だったというが、いまは二車線のゆったりした道が開通しており、山越えにはトンネルを掘削してあった。
「あっという間に着きますよ。もとは家も工房も栃尾市でしたが、平成の大合併でいまは長岡市です。長岡駅からでも距離は近いんです」
と佐藤徹哉さんは笑う。
長岡駅前から二台の車に分乗して25分ほど、目的地の「紙漉 サトウ工房」に到着。現地には新潟市から参加された sketch & note|松尾和夏 さんが笑顔で待機されていた。

紙漉技芸士 : 佐藤徹哉さんとは、昨年の<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>で、松尾和夏さんの紹介ではじめてお会いした。以来、サラマ・プレス倶楽部の皆さんとはすっかり親しくされている。
ところが「紙漉 サトウ工房」を自営されている佐藤徹哉さんは、やつがれと同様にアナログ系古典派の人種に属されており、パソコンはつかわれているが、携帯電話やカーナビのたぐいは苦手とされる。

「紙漉 サトウ工房」 佐藤徹哉 連絡先
940-0243  新潟県長岡市軽井沢1192
電話 : 0258-51-5134  メール : tty@nct9.ne.jp

DSCN7996 DSCN8009 DSCN8000 DSCN8001 DSCN8006しばらく越後平野に悠然と流れる「信濃川 ―― 信州では千曲川と呼ぶ」にそった田園がつづく。その穀倉地帯からトンネルをぬけると、にわかに山並みがせまってきた。
田圃の稲は、あらかた刈り取られていたが、「しおた まこ」さんのご配慮で、景色の良いところで一旦停車して、ちょっとした休憩。刈り取られたばかりの稲わらのにおいがいっぱい。

<紙漉 サトウ工房 と 佐藤徹哉さん>

DSCN8032 DSCN8029 DSCN8031 DSCN8030アトリエ拝見、紙漉き研修の前に、まず屋敷畑といった近さの「楮 こうぞ」と、「トロロアオイ」の畑を拝見。
身長より高く成長した「楮」はまだまだ元気だった。
意外だったのは佐藤さんが育てている「トロロアオイ」。茎がとても短くて、30センチぐらいで花をつけ、いまは種子のときだったこと。
すこし吾が空中花壇のものとは品種がことなるようだった。さっそくお願いして、この茎が短く、根が太くなるという「トロロアオイ」の種子を晩秋にわけていただくことにした。
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<吾が空中花壇のトロロアオイの由来と、過去の手漉き紙研修旅行の記録>

DSCN7556いまでこそ「空中花壇の女王」となったトロロアオイであるが、そのはじめはかなりふるい。
2010年05月に、秋川渓谷めぐりでたまたま訪問した「あきる野ふるさと工房 軍道紙の家 グンドウガミ 」で黒ポットで数株の苗をわけていただいたことにはじまった。
【 サラマ・プレス倶楽部ニュース : [会員の皆さまへ] トロロアオイを育ててみませんか? 2010年06月08日
トトトアオイ 黒ポット人物入[1] トトトアオイ 密集-225x300[1] トロロアオイ 単体[1]この偶然の訪問とトロロアオイが縁となって、秋に<研修旅行 紙漉きツアー>を企画した。
あきる野市は東京都内で、交通も便利なので、このときは17名の参加だった。
重複するが、記録と記憶整理のためにも、その折りのデーターを下記にアップした。
【 朗文堂ニュース : [研修旅行]東京都あきるの市五日市町の秋川渓谷にある「ふるさと工房」で{紙漉きツアー} 好評裡に終了! 2010年10月05日 】

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【研修旅行】東京都あきるの市五日市町の秋川渓谷
「ふるさと工房」で{紙漉きツアー} 好評裡に終了!
自分で漉いた本物の手漉き紙と、美味しい空気がお土産でした!

2010年10月02日、好天に恵まれ、東京都あきるの市五日市町の秋川渓谷にある「ふるさと工房」で《手漉き紙ツアー》が開催されました。
主催は朗文堂サラマ・プレス倶楽部「活版カレッジ」でしたから、皆さんは本物のタイポグラファであり、ほとんどが活版印刷実践者の皆さん17名+1 (やつがれ)でした。

会員の皆さんに研修旅行をご案内したときは、東京都内で本当に手漉き紙の抄造が体験できるのかと半信半疑のかたもいらっしゃいました。
それでも五日市町の軍道紙 グンドウガミ の伝統を継承する「ふるさと工房」に集合したときは、あたりの緑豊かな景観と、清らかな秋川の渓流と渓谷美にううっとりとした表情でした。

総勢17名+1 の紙漉き風景は壮観でした

まず「ふるさと工房」の学芸員によって、手漉き紙の主原料となる楮(こうぞ)と、ネリにつかわれるトロロアオイの根の説明があって、さっそく紙漉き作業を開始。
今回は舟(材料槽)三つを借り切っての本格抄造とあって、ほとんど全員が初体験とは思えない鮮やかな手つきで抄造に励みます。
サイズはA3サイズ、ハガキサイズ、名刺サイズとさまざまでしたが、みんな目的意識をもってそれぞれのサイズを選択しての抄造でした。

楮の植栽の前で学芸員から説明を受ける

ところで堂主やつがれ!
実はオヤジの生家が信州信濃の千曲川にそった雪国の貧しい農家で、農閑期となる冬場は丈余どころか三メートルほどの雪に埋もれ、冬期間の内職として紙漉きが盛んであった関係で、しもやけとあかぎれの手で紙漉き作業を手伝わされた苦い思い出があった。

そこで途中は中抜けして秋川渓谷をお散歩。そして「喫茶むべ」の絶品の珈琲を愉しんでおりました。皆さんは熱中していましたから気づかれなかったはず。
そしてやおら最終局面に再登場して、なにくわぬ顔で抄造作業開始。ハガキサイズ二面付け枠を用いての堂々の勇姿ですが、あとで写真をみると、メンバーの心配そうな視線を浴びての抄造ではありました。

皆さんは笑いを堪えているのか、はたまた心配しているのか?

しつこいようですがトロロアオイ。ふるさと工房の前には大型フラワー・ポットに植えられたトロロアオイがもう種子をたくさん付けており、花は下掲写真の一輪だけでした。
ふるさと工房から再度この種をわけていただきましたので、来年はたくさんの苗をおわけできそうです。五月初旬に種まき、六月定植、九月末開花のスケジュールです。

ところで……、ウチのトロロアオイはまだ花をつけません。毎朝の水遣りのあと、「ロダンの椅子」に腰を下ろしてジーッと見ているのですが。
もしかすると……、此奴は花をつけてしまったら、根っこごと抜かれるのをいやがっているのかな? と。

ふるさと工房、トロロアオイの花と種子

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おもわぬながい寄り道をした。閑話休題。
じつはやつがれ、初日の探訪地 兼 合宿所「光の館」で、ぬるいお湯にはいって長湯をしたせいか風邪気味であった。また吹きわたる爽やかな風がなんとも心地よく、なんと紙漉き作業の開始を前に、ここでウトウトとうたた寝をしてしまったのである。
DSCN8106 リッキーと遊ぶ片塩さんしかもである、前述した五日市の「ふるさと工房」でも中途脱出して、オーナーと懇意にしていた「喫茶むべ」の珈琲をたのしんでいたが、なんら証拠がのこっていなかったから、再登場して素知らぬふりで手漉き紙作業に取り組めた。

ところが最近のように、デジカメやスマホで気軽に撮影できるようになると、かかるけしからん行為は即刻証拠写真を撮影され、言い逃れができなくなってしまう。実に困った時代になったものだ。
したがって、ここちよい昼寝から目覚めても、いまさら作業の仲間に入りづらく、佐藤夫人の愛犬「リッキー」をリシツキーと呼んで、小一時間もじゃれあっていたのである。
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< sketch & note|絵と版画 松尾和夏さんのURL紹介 >
そこでお詫びに<紙漉サトウ工房の手漉き和紙について>の特設コーナーを設けられている松尾和夏さんのURLを紹介して、そこから「紙漉サトウ工房の手漉き和紙について」を知っていただきたい。
下掲のアトリエ写真も松尾和夏さんによるが、松尾さんはふるくからのサラマ・プレス倶楽部の会員ですし、< Adana-21J >のユーザーでもある。ともかく松尾和夏さんの WebSite の画像とコンテンツは豊富で、丁寧に造りこまれている。

< atelier
活版印刷とシルクスクリーン印刷
手刷りの印刷機をつかったオーダーメイドや印刷体験
sketch & note のアトリエは、新潟市街地に近い場所にあり、新潟駅から徒歩20分程度です。アトリエは自宅の離れに設計し、2016年4月に完成しました。

アトリエには、活版印刷機とシルクスクリーン、謄写版などの印刷機があり、手刷りによる印刷を行っています。アトリエにて印刷の体験や、オーダーメイドのご相談を承ります。

紙漉サトウ工房の手漉き和紙について >
紙漉サトウ工房は、新潟県長岡市の山間にある紙漉の工房です。

栃尾とよばれるこの地域は、新潟県内でも雪の多い地域で、冬は建物の一階部分はすべて雪に埋もれてしまう程です。
かつて新潟では、自分の畑で育てた楮を使い、雪に閉ざされた季節に紙を漉く紙屋さんがたくさんありました。
いま現在、そういった昔ながらの材料と製法で、和紙を作り続ける紙屋さんはすごく少なくなっていますが、紙漉サトウ工房では、自家栽培の楮と、周辺地域で採れる材料だけをつかった、昔ながらの和紙作りを続けています。

紙漉 サトウ工房  佐藤徹哉
1967年 新潟県長岡市生まれ。
1999年-2010年 越後門出和紙に勤務。
2013年 長岡市軽井沢にて「紙漉 サトウ工房」を開業。
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以下、東京から押しかけた<サラマ・プレス倶楽部>会員による写真画像を、順不同、しかも中途爆睡の身なれば説明も無しでご紹介する。

DSCN8019 DSCN8020 DSCN8021 DSCN8035 DSCN8039 DSCN8041 佐藤徹哉さんによる「手漉き紙」の工程に関する短いレクチャーがあって、さっそく作業に取りかかる会員の皆さん。
DSCN8042 DSCN8052 DSCN8054 DSCN8058 DSCN8096 DSCN8065 DSCN8066 DSCN8085 DSCN8062 DSCN8107 DSCN8092 DSCN8091 DSCN8090 DSCN8087R0056857teiやっぱりやつがれ、カバンを抱えこんで爆睡している。けしからん証拠写真がのこされた。
この翌日にいった<三条鍛冶道場>でも実はかなり中抜けして、裏庭の「四つ葉のクローバー」などをみていた。
ときおり進行状況を「観察」していたが、加久本君の背後霊のように、サボっているやつがれが写真に写り込んでいたとは、迂闊なことに読者の指摘を受けるまで知らなかった。

DSCN8106DSCN8213下掲正面中央が「紙漉き サトウ工房」アトリエ。その10メートルほど奥に佐藤夫妻の自宅がある。豪雪地帯でなるこのあたりでは、しんしんと降りつもる新雪の翌朝など、このわずか10メートルがとてつもない距離感になることもある。

楮畑のわきの台地は「栃尾市立一之貝小学校 軽井沢分校」の跡地。
明治7年(1874)の開校で平成13年(2001)の閉校というから、創立はきわめてふるく、125年余の歴史を刻んで閉鎖された。
旧栃尾市の一之貝地区と軽井沢は、さほどの距離ではないが、なにぶんこのあたりは豪雪地帯。やつがれの郷里 : 信州飯山でも「冬期分校」はいくつもあった。紀念碑には晩秋の夕べ陽ざしのぬくもりをもとめて、トンボが羽をやすめていた。

アトリエのかたわらに、艸にうももれるようにして味わいのある歌碑がのこされていた。

ふるさとの 陽のやわらかき 蓬つむ  一子

「蓬」はよもぎと詠む。春の野面の情景をうたったものか。
佐藤さんも、この歌碑のゆえんをご存知ないとされた。
秋のゆうぐれははやかった。こののち長岡にもどって、駅前の「たこの壺」で10名での懇親会にのぞんだ。 DSCN8076 DSCN8074 DSCN8072 DSCN8013 DSCN8014

【活版カレッジ】 10月27日アッパークラス定例会 新潟旅行参加者も断念されたかたも大集合 

活版カレッジ DSCN8313 DSCN83122016年9月30日[金]-10月2日[日]にかけ、実りの秋をむかえた越後路で、ふたたびみたび、あわただしい旅をした。 そのレポートは順次本コーナーにもアップされるが、今回も新潟サラマ・プレス倶楽部、「しお たまこ」さん、「sketch & note|絵と版画 松尾和夏」さん、のご協力をいただいた。

旅のふつかめは、<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>で大活躍された「「紙漉 サトウ工房」の佐藤徹哉さんのアトリエ訪問、紙漉き研修を実施。
<活版カレッジ>アッパークラス10月定例会は、10月01日に漉いた手漉き紙が到着しており、その受け取りも兼ねての集まりだったので、通年テーマの「歌留多製作」とあわせ、当然話題は新潟旅行に集中。 DSCN8016 DSCN8032 DSCN8039ところが「紙漉 サトウ工房」を自営されている佐藤徹哉さんは、やつがれと同様にアナログ系古典派の人種に属されており、パソコンはつかわれているが、携帯電話やカーナビのたぐいは苦手とされる。
ご本人からの了承をいただいたので、佐藤さんご夫妻からのお便りをご紹介する。

「紙漉 サトウ工房」 佐藤徹哉 連絡先
940-0243  新潟県長岡市軽井沢1192
電話 : 0258-51-5134  メール : tty@nct9.ne.jp 20161107160803_00001 20161107160803_0000220161107160803_00003

実りの秋の越後路新潟で新潟会員との熱い交流ふたたび[Ⅲ] 9月30日-10月2日 最終日10月02日編「三条鍛冶道場」ほか

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Viva la 活版 Let’s 豪農の館
【 イベント名 】  Viva la 活版 Let’s 豪農の館
【 展示 期間 】  2015年10月10日[土]-12日[月・祝]
【 会       場 】  「北方文化博物館 豪農の館」 内 「吉ヶ平古民家」
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あついこころの交流があった<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>からほぼ一年。
2016年9月30日[金]-10月2日[日]にかけ、実りの秋をむかえた越後路で、ふたたびあわただしく旅をした。今回もまたサラマ・プレス倶楽部 新潟会員の多大なご支援をいただいた。

会員の皆さんは多忙な秋の日日とあって、今回の新潟旅行は三日間とはいえ、中途帰京・中途参加と、在京会員九名の出入りがはげしく、二日目の10月01日[土]長岡市(旧栃尾市)軽井沢の「紙漉 サトウ工房」でのワークショップが、新潟会員四名も加わって最大人数の参加であった。

したがって整理の都合上、旅行行程からいうと逆順、つまり二泊三日の旅のうち、最終日の10月02日[日]から紹介したい。
それでも三回連載の本項の紹介は、ブログロールでは降順にアップされるので、のちからみれば行程順になる・・・・・・といいわけをばしておこう。

◎ 10月02日[日]-最終日午前中 長岡周辺 博物館めぐり
「馬高縄文館 (愛称:火焔土器ミュージアム)」、「新潟県立歴史博物館」


前夜は長岡駅周辺のホテルに宿泊していた数名の参加者が、早朝08:30長岡駅前に集合。
「紙漉 サトウ工房」佐藤徹哉氏の車などに同乗して、「火焔土器」の発見で知られる「馬高・三十稲場遺跡」の隣接地に、火焔土器をテーマとした日本で唯一の博物館として設立された「馬高縄文館(愛称:火焔土器ミュージアム)」と、「新潟県立歴史博物館」の参観に出発。
top_mainfigA[1]馬高縄文館(愛称:火焔土器ミュージアム)」にはやつがれもおおいに関心があったが、なにぶん早起きが苦手なことと、初日「光の館」の大風呂で長湯をしすぎて風邪気味だったのでスルーした。

あとで加久本くん、大石に、
「馬高縄文館、火焔土器ミュージアムはどんな感じだった」
と感想を聞いたところ、
R0056770tei「こんな凄い迫力の縄文土器がいっぱい」
として、とったポーズが上掲写真(春田さん写真)。わが国縄文時代の火焔型土器とは斯様な姿であったらしい。
いずれにせよ、質問相手を間違えた。このふたりが一緒になるとろくなことは無い。

朗文堂サラマ・プレス倶楽部には、「おかわかめ倶楽部」、「掃苔会」などのいくつかの分科会がある。そのひとつ、<本邦ラーメン文化研究会 会員:真田幸文堂 ・ 横島大地>はいくら会員募集をしても「肥満のもと」としてたれも新加入しないようだ。
そのふたりぼっちの会員の横島大地さんは、ここで仕事のため、泣く泣く新幹線で帰京した。それでもやはり横島さんに聞くべきだった。

東京国立博物館蔵 ウィキペディアより火焔型土器参考図版 ウィキペディアより
「伝馬高出土」として東京国立博物館に所蔵されている火焔型土器(列品番号J -39036)

◎ 10月02日[日]-最終日午後 燕市/三条市へ移動
「燕市産業史料館」、「三条鍛冶道場」、「燕三条地場産業振興センター」、「ととや(魚屋)」

午後13:00 ふたたび長岡駅前に集合。午後からはイラストレーターにして、パワフルな造形者「しおた まこ」さんが乗用車に乗ってわざわざ新潟からの参加。
しおたさんのご自身の紹介によれば、以下のようなかたである。
「プロフィール : 新潟在住のユルいイラストレーター。三人の男の子に君臨するアマゾネスの母。そして自称キュートでセクシーな妻」。
たまたま「しおた まこ」さんの個展<ひとり文化祭>が東京・青山で予定されている。皆さんの参観をお勧めする次第である。
しおたまこ個展 しおたまこ02午後からは佐藤さんと、「しおた まこ」さんの二台の車に分乗して、長岡から燕市・三条市方面をめざして北上した。

上越新幹線の「燕三条駅」は燕市と三条市の市境に設置されている。この両市は隣接しているが、もともと旧選挙区の地割りでは、燕市は新潟一区、三条市は故田中角栄が地盤としていた新潟三区であったため、なにかとライバル心が強かったという。
そのため新幹線の駅舎の位置や駅の名称で紛糾し、議論の末に、駅名を燕を先にした「燕三条駅」とし、駅長室を三条市側に配置して、駅の所在地を「三条市」とすることで最終的に合意したという。

燕市は新潟県の中央部に位置し、ゆたかな田園がひろがってものなりがゆたかである。
また洋食器の生産では世界的なシェアを誇る工業都市でもある。
三条市もまた穀倉地帯でありながら、金属加工を中心に栄えたこともあって、この両市はふるくから競合しながらも相互補完の関係が深く、燕は「職人の町」、三条は「商人の町」とも称されている。

<燕市産業史料館>
燕市産業史料館 野鍛冶・和釘 DSCN8117 DSCN8146燕市産業史料館をたずねるのは、田中さんら古参会員にとっては二回目。むしろ地元の「紙漉 サトウ工房」さん、「しお たまこ」さんが熱心に参観。
野鍛冶の現場再現、木製の大型ふいご(鞴)の展示が改善されていた。また「和釘」の見本がたくさん陳列されていた。

東京築地活版製造所出身の最後の活字父型彫刻士とされた安藤末松は、こうした砂鉄からつくられた良質の和釘が活字原字の彫刻刀に最適だとして、ふるい土蔵の取り壊しなどがあると、しばしば出かけて貰いうけて彫刻刀に研磨していたとされる(参考 : 『活字に憑かれた男たち』片塩二朗 朗文堂)。
この「燕市産業史料館」の参観をおえて、車で10分ほど、「三条鍛冶道場」で参加者は和釘ならぬ市販の五寸釘と格闘してペーパーナイフをつくることになる。

<三条鍛冶道場>
DSCN8230 DSCN8234DSCN8177 DSCN8181三条鍛冶道場」で 鍛冶の世界を体験
鍛冶の世界は、叩く(鍛造)の技術だけでなく、砂鉄と炭から鉄と鋼を生み出す独特の製鉄方法や、熱処理(焼き入れ・焼きなまし)、削る(研削)、磨く(研磨)、刃付けなど、多様な範囲にわたっている。

三条鍛冶道場」のワークショップ、「五寸釘からペーパーナイフ作る」では、いまやさすがに炭火や木製ふいご(鞴)にかえて、コークス炉、電気送風ファンをもちいるが、伝統鍛冶独特の、叩く、ねじる、削る、磨くの工程を体験し、より広い鍛冶の世界を味わうことができた。
DSCN8168この市販の五寸釘(意外におおきい)が、みごとに「ペーパーナイフ」に変貌する。
古来鍛冶士や鋳物士は、紅蓮の火焔を怖れ、敬い、火焔から製造され再生する金属機器や鋳物に執着する特殊技能者であった。

かれらの心性は、火をあがめ、おそれてきたので、すっかり近代化した工場のここ「三条鍛冶道場」にもひっそりと火伏せの祭神が祀られていた。
[参考:花筏 平野富二と活字*02 東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗
DSCN8172 DSCN8227 DSCN8177 DSCN8179 DSCN8181 DSCN8187 DSCN8191 DSCN8193 DSCN8196 DSCN8197 DSCN8205 DSCN8206 DSCN8213 DSCN8208 DSCN8214 DSCN8225DSCN8229作業中は火の粉が飛び散るので、眼球保護のためゴーグルをつけ、ともかく火傷防止。
できあがった「自作ペーパーナイフ」を手に、満足げな会員の皆さん。しばしスマホ写真の撮り合いと、うれしそうな自撮りがつづいた。
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このあと、しおたさんお勧めの「燕三条地場産センター物産館」にたちよる。今回の旅では唯一のお買い物タイムとなった。
足指の爪が曲爪で悩みがつづいていたやつがれは、ここでチョイと高かったが爪切りを購入。これは絶品、やつがれもお勧めしたい。長年の悩みが解消される切れ味だった。

旅の最後の〆は「和旬喰燗 魚家 TOTO-YA」。18:00予約済み。ここもしおたさんお勧めの店。
ともかくいうことなし。旨かったし、安かった。これで上戸ならばここに越後の銘酒がくわわり、さらに印象はふかくなるのだろうが・・・・・・。いずれにせよいうことなし、お勧めの店である。

収穫の多い旅だった。佐藤さん、しおたさん、松尾さんといった新潟会員にすっかりお世話になった。また新生児を抱えているため顔は見れなかったが山下情報もずいぶん助かった。
そんなおもいでを胸に燕三条駅20:31「Max とき348号」東京行きで帰京した。

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【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 19】 長崎の〝ふううけもん〟安中半三郎『辞世の句』

長崎バーナー

櫻馬場盲聾学校校舎 年代不明 宮川資料 DSC_2488[1]上) 櫻馬場「私立長崎盲聾学校」校舎落成記念 明治41年(1908)[読者のご教授による]
下) 『史跡 盲唖學校跡』 碑-この碑が設置されたのは、それほど昔ではないと思います。高さは1メートルにも満たない大きさで、桜馬場町の住宅街の片隅にひっそりと立っています。 宮田和夫氏提供

長崎県立盲学校」、「長崎県立ろう学校」は、安中半三郎を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立された。同年9月12日開院。
その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として授業を開始した(以後この日が開校記念日)。

九州初の盲聾教育機関であったため、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続け、そのため校舎が手狭になり二度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くことになった。

校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしてきた。
大正08(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設された。

現在この両校は、大村湾に面した「長崎県立盲学校」(長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873)と、長崎空港からちかい「長崎県立ろう学校」(長崎県大村市植松3-160-2 長崎新幹線の駅舎設置のため同市内に移転予定)のふたつの県立学校となっている。

安中半三郎resized安中 半三郎 (あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

DSCN6175-627x470[1]長崎市本蓮寺脇にある神式の特設墓地「安中家と安中半三郎の墓碑」。
安中半三郎は大正10年(1921)69歳をもって卒した。墓碑は本蓮寺脇の特設墓地にあるが、葬儀は神式として執りおこなわれた。フェンスで囲まれふつうは立ち入りができない。

<安中半三郎 辞世の句>
     酒飲めば 浮世をよそに 捨て小船
     ただようてこそ たのしかりけり

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 18】 『東来和歌之碑』 全文釈読紹介 長崎諏訪公園噴水広場 

長崎バーナー

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安中半三郎  ◎ 長崎公園噴水広場(上西山町1-1他) 『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)

長崎公園は、明治6年の太政官布告により制定された長崎で最も古い公園である。
秋には「長崎くんち」で著名な諏訪神社と合わせ、「諏訪の杜」として、中心市街地でありながら、樟を中心とした常緑照葉樹の巨木がしげり、自然に囲まれた閑静な雰囲気のある憩いの場として市民に親しまれている。
その一画に日本最古といわれる装飾噴水があり、石灯籠とならんで、いくつかの碑が建立されている。

噴水広場の中心をしめるのは、『池原翁元日櫻長歌幷短歌碑』(大正3年7月建立)である。
この碑に関しては春田ゆかり氏が「書と活字のはざまにいた池原香穉」『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代活字文化保存会編 2003年9月30日)をあらわし詳述している。

噴水のかたわら、山際にふたつの碑が寄りそうように建立されている。
ひとつは『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)で、ほとんどの資料には「長崎文庫や盲唖学校の創始者である、安中東来(半三郎)の和歌35句が刻まれている 」程度の解説をみる。
ひとつは『月の句碑』(長崎俳画協会 昭和63年10月16日建碑)で、「俳人向井去来と山本健吉を讃える碑」とされている。

安中半三郎(あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい  1853年12月29日[嘉永6年11月29日]-1921年(大正10)4月19日 享年69)は、たしかに長崎文庫の創立により、現長崎県立図書館の創立者のひとりとされる。
また安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」が創立され、それは現在の長崎県立盲学校、長崎県立ろう学校につらなっている。
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このように事業家・慈善家・篤志家といった一面のほかに、安中半三郎は
明治期長崎がうんだ稀代の奇妙人・酔狂人であり〝ふうけもん〟ともされた。
とりわけ「安中書店・虎與號 トラヨゴウ 」での出版活動、大阪に谷口黙示らが下阪し、平野富二らが東京に上京したのちの長崎活版製造所において、西道仙・松田源五郎らと編集・刊行にあたった第一次『長崎新聞』など、出版・印刷人としての側面も順次紹介したい。

今回は「長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN」から、まず、「故本木昌造翁の功績を追懐して贈位報告祭に活句をよみて奉る 長崎素平連」。筆蹟 テ は安中半三郎のものかどうか判明しない。

活字版 櫻木よりも 世に薫り   東  来
統合安中半三郎狂歌◎ 長崎公園噴水広場(上西山町1-1) 『東来和歌之碑』(建碑者・建碑年不詳)
!cid_6AC995D2-53A7-4D09-A25B-A6F4E50A4BEF !cid_EC83C279-446A-47AC-BA75-5D024AF4F963 !cid_1140D8C2-683C-4C9D-9A63-BA89FF00FE4D歌碑『東来和歌碑』は、碑面の損傷がおおく、またいわゆるお家流風の流麗な筆致で書されているため、これまで35句におよぶ碑文の紹介がなされることがすくなかった。
歌の製作者としては、末尾にわずかに安中半三郎の号「東来」があるが、碑文の建立者、年度などはみられない。
これは安中半三郎独特のテレもあったろうし、『類代 酔狂句集 初編』(編輯兼出版人:安中半三郎 長崎市酒屋町四十四番戸住居 明治17年4月出版)をあらわし、事業家・篤志家としても著名だった半三郎にとっては、明治中期-大正初期にかけては、「東来」の号だけで長崎市民には十分だったのかもしれない。

さいわい、資料:『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)に長崎の金石文の多くを活字文章におきかえた記録がのこっていた。また本稿には春田ゆかり氏のご協力もいただいた。
この釈読はおもに同書によったが、もとよりこの分野は専門ではない。誤謬にはご叱正をたまわれば幸甚である。

【 関連 : 花筏 【字学】 『安中翁紀念碑』より 明治長崎がうんだ出版人・印刷人・慈善家・篤志家にして〝ふうけもん〟安中半三郎  】
【 関連 : 文字壹凜 「長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN「故本木昌造翁の功績を追懐して贈位報告祭に活句をよみて奉る」

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 17】アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働に成功。愈〻研究に着手した同二号機

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長崎県印刷工業組合所蔵アルビオン型手引き印刷機一号機には、やつがれは2002年以来修復再稼働を提案し続けてきた。それが十余をへた2016年09月02日、同組合・板倉雅宣氏・山田善之氏らの協力で復旧され稼動をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30―40年ころの製造とみられ百年余も以前の活版印刷機。

いっぽう東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が鋳込まれた二号機は、アカンサス紋様が施され、また各所に金泥塗装が施されていた痕跡がのこる、きわめて資料性のたかい印刷機である。
製造担当は、東京築地活版製造所か、大阪活版製造所かは明確ではないが、両社の登録商標の制定年代から、一号機よりもより古い、明治20-30年代の製造と推測されている。

ところがこの二号機は、中央駆動部以外に欠損部品が多く、研究の手がほとんど及んでいない。そこでタイポグラフィ学会会員:日吉洋人氏が、将来の部品補充と再稼働をめざし、銘板部を切りぬき写真で公開した。
遠くない将来、一号機につづき、長崎県印刷工業組合所蔵のこのアルビオン型手引き印刷機二号機も必ずや再稼働をみることができるものと確信している。

手引き印刷機のチンパン 板倉雅宣『手引き印刷機』より 20160914163731_00001 切りぬき02 切りぬき01

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 16】 長崎のアルビオン型手引き印刷機が復旧 長崎活版さるく 思案橋横丁ぢどりや三昧

長崎バーナー

1030963 1030946 10309502-1-49043[1]{Viva la 活版 ばってん 長崎}は、近代機械産業発祥の地、それも140年余の歴史を刻んだ活版印刷にはじまる印刷産業の中核地・長崎県印刷会館を主会場として開催された。
そのため、地元長崎の印刷人だけでなく、ひろく全国から長崎に結集した活版印刷実践者・研究者とのよき交流の場となった。
ばってん長崎_表 プリント全国各地から長崎を訪問されたかたは50余名。それに地元長崎の印刷人と、テレビや新聞報道によって長崎県印刷会館に来場された一般のお客さまはおおきをかぞえた。
このイベントに際し、会場設営・会期三日間・会場撤収と、十数名のアダナ・プレス倶楽部会員と、新宿私塾修了生の皆さんにご協力いただいた。
また創立十周年を期して特別参加された「タイポグラフィ学会」の皆さんにも全面的なご協力をいただいた。

あれから四ヶ月あまりの時間が経過したが、訪崎された皆さんは、長崎で収集したあまりに膨大な資料や写真の整理が追いつかないとされるかたもおられ、いまだにうれしい悲鳴も聞こえるいまである。
それは主催者 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部もまったく同様で、あまりにも多くの知見と資料にかこまれ、またあらたに誕生した長崎の活版印刷術を守もろうとされるおおきな人の輪、皆さんとの交換に追われる日々をすごしている。
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《 Viva la 活版 ばってん 長崎 主会場 : 出島町 と 宿泊所 : 新地周辺 》
主会場は長崎市出島町の「長崎県印刷工業組合 長崎県印刷会館」であったので、県外から参加されたみなさんは、そこから徒歩でもせいぜい5-6分、会場至近の「新地地区」のホテル五ヵ所にそれぞれ滞在されていた。
この出島と新地は、現在では埋め立てがすすんで境界が明確ではないが、下掲図でみると、右側の扇形の築島が「出島」であり、左方の矩形の築島が「新地」であった。
4-1-49076 長崎諸役所絵図8 上図) 江戸時代に描かれた長崎港出島周辺の絵図。半円形の樹木が茂った場所は、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)。
その前に半円状にひろがる民家は、出島御用をつとめた町人らが居住した江戸町。幕末の「海軍伝習所」は長崎奉行所西役所に置かれた施設であった。

長崎県印刷工業組合・印刷会館は、出島左先端部に設けられた「牛小屋・豚小屋」の位置と、「新地」の中間部のあたりにあたる。いまはすっかり埋め立てられているが、市電は印刷会館の直前を出島海側跡(出島通り)に添うように、湾曲しながら走行している。
長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側中図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「出嶋 総坪数三千九百六十九坪」。
出島右先端部は「通詞部屋  七間五間」である。出島内の建物は多くが二階建てであったが、オランダ通詞の詰め所であった「通詞部屋」も二階建てであった可能性がたかい。
そのほかにも町役人 乙名 オトナ 詰め所が二箇所あり、また番人・料理人や身のまわりの世話をする日本人が出島の内部にも相当数、日中のみ滞在し、一部は居住もしていた。
料理人のなかには退役ののち、長崎町内で「南蛮料理」をひろめたものもいたとされる(長崎史談会顧問:宮川雅一氏談)。

長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側長崎諸役所絵図9上図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「新地荷蔵 幷 御米蔵 総坪数三千八百六十坪」。出島左方海中の矩形の敷地。
中国からの船舶(唐船)が入港すると、小型舟艇で海岸の倉庫に積荷を搬入していたが、元禄11年(1698)の大火で焼失した。
そのため「俵物」などの貿易用荷物の搬入と運び出しの便を図り、荷物を火災や盗難から守り、また密貿易を防ぐために、元禄15年(1702)に海岸を埋め立てて築島をつくり、そこにたくさんの蔵所(倉庫)を建て、「新地荷蔵」と称した。

幕末から明治初期になると唐人屋敷(最盛時九千三百六十三坪)が廃止されたので、唐人屋敷に在住していた中国人の一部がこの新地に移り住み、今では中国料理店や中国産の土産物店が軒を並べ、長崎独特の中国人街を形成している。

《 5月5日[木]設営日 数名が前夜最終便で長崎入り。早朝から展示設営開始 》
イベント前日、「先乗り班」として長崎新地地区のホテルに分宿していた会員数名が、続続と長崎県印刷工業組合・印刷会館の三階主会場に集結した。
ほとんどのかたはサラマ・プレス倶楽部・活版カレッジ修了生であったが、創立10周年で特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんの姿も多かった。また心づよい援軍として長崎県印刷工業組合の会員も参加されていた。

<Viva la 活版 ばってん 長崎>で使用した小型活版印刷機は、もっぱら整備と注油・清拭をかねて、長崎県印刷工業組合所蔵の機械をもちいた。
その設置、試運転、展示物の配置などは、三階:横島さん・石田さん・小酒井さん・古谷さん・平野さん・真田さん・須田さん・加久本さんらのベテラン会員の手で順調に展開された。

1-7-50052-06.jpg一階特設会場には、タイポグラフィ学会の展示と、懇話室 兼 休憩室がもうけられ、その設営は春田さん・小酒井さんを中心に、福岡から駆けつけられた大庭さんと、三階の展示設営が目処がついたかたから順次応援にまわっていた。

通常のサラマ・プレス倶楽部の活版礼讃イベント<Viva la 活版  シリーズ>では、いつも予算過少のせいもあって、懸垂幕などの「大型告知」は経験不足であった。ところが長崎ではおもいきって大型懸垂幕に挑戦した。
製作・設置担当はタイポグラフィ学会会員・活版カレッジ修了:日吉洋人さん。

初出・明治24年『印刷雑誌』掲載「東京築地活版製造所広告」、また大冊の活字見本帳『活版見本』(東京築地活版製造所 明治36年)に「電気版見本」として収録され、サラマ・プレス倶楽部のアイキャッチ、アイドルおじさんとして創部以来もちられてきた「活版おじさん」を主要モチーフに、防水対策も完ぺきに施されたおおきな懸垂幕が、展示会場に工場直送で既に到着していた。

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《 設営に難航した懸垂幕、実稼動に失敗したアルビオン型手引き印刷機 》
さて、会場設営もほぼ目処がついたころ、いよいよ懸垂幕の設置にとりかかった。
担当者は長崎ははじめてだったが、完ぺきな設置予定図まで準備していた、
ところが、長崎県印刷工業組合・印刷会館ではこれまでこうした懸垂幕を設置したことがないそうで、当然吊り下げ装置や金具が無い!
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あれこれ工夫し、また急遽スマホで吊り下げ方法を検索したところ、
「懸垂幕で検索すると、前半は製作業者の広告がつづき、後半は体験者のブログで、『甘く見るな! 懸垂幕の吊り下げ法』がどっさりです」
との報告でびっくり仰天。
ちょうど小雨も降ってきたし、ひと晩ゆっくり考えれば何とかなるさ・・・・・・(やつがれ)、というなんとも無責任な発言で、懸垂幕設置作業は翌朝に持ちこしとあいなった。

この懸垂幕と、後述する「チンパン Tympan」の張り替えは、ともに日吉さんの担当。バスターミナル・ホテルに宿泊していた日吉さんは、この夜は悶々として一睡もできなかったようである。
翌朝は会館(定時:09-17時)に無理をお願いして、早朝八時から作業にとりかかり、来場者をお迎えした定刻十時には、何ごともなかったように?! 設営が完了していた。
1030963
松尾愛撮01 resizeまた<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機二台を収蔵庫から取りだし、そのうち部品欠損の少ない「仮称 一号機」の麻布製の「チンパン Tympan」だけを張り替えて実稼動させる予定であった。
この仮称一号機は、大阪・片田鉄工所、明治30―40年ころの製造とみられ、百年余も以前の印刷機であったが、収蔵庫から引き出して注油・清拭してから点検したところ、上部のカムに破損があり、応急修理では稼動しないことが判明した。

《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造の墓参・法要」で復元修復報告 》
その後訪崎され、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられたタイポグラフィ学会会員:板倉雅宣氏が詳細に点検され、やはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、復元稼動を支援することになった。

ここで長崎県印刷工業組合もついにアルビオン型手引き印刷機(一号機)の本格修復を決断されて、福岡市の(有)文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

アルビオン型手引き印刷機の構造アルビオン・プレスの構造 挿入図
『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 2011年09月15日 朗文堂 p.73)
20160914163336_00002 20160914163336_00001福岡で活版印刷業を営まれている有限会社文林堂/山田善之氏ご夫妻
『かたりべ文庫 職人の手仕事 Vol.17 〈活版印刷〉』
(ゼネラルアサヒかたりべ文庫 2015年4月1日)

手引き印刷機のチンパン「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。「チンパン Tympan」は会期前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。
(有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」

20160914163731_00001ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を片塩が解説にあたった。
{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露}

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《 『崎陽長崎 活版さるく』 と 印刷会館閉館五時以降 連夜の さるく と 根拠地 ぢどりや 》
15-4-49694 12-1-49586矢次家旧在地 半田カメラ
会期の中日、2016年05月07日[土]には、参加者40名ほどでマイクロバス二台をチャーターしての「崎陽長崎 活版さるく」が実施された。
その夜参加者は疲れもみせずに、長崎県印刷工業組合のお手をわずらわせた、これも新地角の中国料理の老舗「京華園大ホール」での懇親会に臨まれた。
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その報告は本欄でも、<長崎行き、参加されたかたも、断念されたかたも大集合 Viva la 活版 ばってん 長崎 スライド報告会>でも報告したが、主会場の長崎県印刷工業組合会館は、定時が午前九時から午後五時であった。

ところで、多くの若い造形者の皆さんは、朝に弱く夜にはめっぽうつよい。そのため開場は十時としたが、閉館は印刷会館の規定で夕刻五時厳守となった。

それでなくても西端のまち長崎の日没はおそい。当然会場を五時に出てもホテルにすぐ引きあげるわけはない。ましてサラマ・プレス倶楽部には真田幸文堂と横島大地さんという、グルメ情報ならなんでも任せておけというふたりがいる。
出島町印刷会館から徒歩10分ほどで、繁華街思案橋がある。橋といっても高知の「はりまや橋」と、長崎の「思案橋」は、いまではこれが橋かというほどあっけないものではある。

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長崎ことば「さるく」とは、もともと「うろつきまわる」の意であるとされる。
ところが2006年開催「長崎さるく博‘06」で、主催者の「長崎さるく博‘06推進委員会事務局」が間違えて説明したために、「『さるく』とは『ぶらぶら歩く』という意味である」と説明するメディアが後を絶たない――ウィキペディア とされている。

ここからは格別の説明を加えず、長崎を堪能し「さるく――うろつきまわった」参加者の皆さんをご紹介したい。ただしイベント本番の{崎陽長崎 活版さるく}とはちがい、「さるく」の本拠地となったのは主会場ちかくの思案橋横丁で、(B級)グルメ : 真田幸文堂、横島大地のコンビが、
「ひとの良さそうなお母さんがひとりでやっている店です。ここは良さそうです」
と初日の夜に推薦した、
思案橋横丁「ぢどりの三昧」であった。

10人も入ればいっぱいのこの店に、連日、それもイベント中日には25名ほどで押しかけ、客席はもとより調理場まで占拠し、ついには店外での立ち飲みまではじまる騒ぎとなった。
また最終日には引退しているご主人とともに、お母さんが<Viva la 活版 ばってん 長崎>に参加され、しまいにはサラマ・プレス倶楽部から同店に「感謝状」まで贈呈することになった。
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4-32-49136 DSCN7268 4-36-49146 4-37-49147DSCN7574

 《 長崎 さるく の 記録 》
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【 Season’s Greetings 】 晩夏にふさわしい歌 長崎:黄檗宗興福寺の斎藤茂吉歌碑から紹介

DSCN7460斎藤茂吉(1882-1953)は長崎医学専門学校教授として長崎に在住。
歌集『つゆじも』をのこし長崎の短歌会におおきな足跡を残した。

長崎寺町興福寺境内 斉藤茂吉歌碑

長崎の
昼しつかなる
唐寺や
思ひいつれは
白き
さるすべりのはな   茂吉

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【新資料紹介】 {Viva la 活版 ばってん 長崎}Report 14  ことしは平野富二生誕170周年、タイポグラフィ学会創立10周年 平野富二(矢次富次郎)生家旧在地が判明

長崎タイトル 平野富二初号
ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。

ここに、新紹介資料にもとづき、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと {崎陽探訪 活版さるく} で訪問した、平野富二(矢次 ヤツグ 富次郎)生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介したい。

Print長崎諸役所絵図0-2 長崎諸役所絵図8 肥州長崎図6国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)、『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>では5月7日{崎陽長崎 活版さるく}を開催したが、それに際し平野富二の生家の所在地がピンポイントで確認できたというおおきな成果があった。
これには 日本二十六聖人記念館 :宮田和夫氏と 長崎県印刷工業組合 からのおおきな協力があり、また東京でも「平野富二の会」を中心に、国立公文書館の原資料をもとに、詰めの研究が進行中である。

下掲写真に、新紹介資料にもとづき、 {崎陽探訪 活版さるく} で、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと訪問した、平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介した。
平野富二<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

流し込み活字とされた「活字ハンドモールド」と、最先端鋳造器「ポンプ式ハンドモールド」
そして工部省の命により長崎製鉄所付属活版伝習所の在庫活字と設備のすべてが
東京への移設を命じられた

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の、加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用した。
これは活字鋳造における「道具から器械の使用への変化」ともいえるできごとで、長崎製鉄所で機械学の基礎をまなんだ平野富二ならではのことであった。
印刷局活版事業の系譜上掲図) 国立印刷局の公開パンフレットを一部補整して紹介した。
【 参考 : 朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

「ポンプ式活字ハンドモールド」は、長崎製鉄所付属活版伝習所に上海経由でもたらされたが、1871年(明治4)1月9日、工部省権大丞 : 山尾庸三の指示によって、在庫の活字は大学南校(東京大学の前身)を経て、大学東校(幕末の医学所が1869年[明治02]大学東校と改称。東京大学医学部の前身)へ移転された。

医学所と大学東校は秋葉原駅至近、千代田区神田和泉町におかれた。長崎からの活字在庫とわずかな印刷設備を入手した大学南校・大学東校は、たまたま上京していた本木昌造に命じて「活版御用掛」(明治4年6月15日)としたが、本木昌造はすでに大阪に派遣していた社員:小幡正蔵を東京に招いた程度で、どれほど活動したかは定かでない。
大学東校内「文部省編集寮活版部」は翌明治05年「太政官正院印書局」に再度移転し、結局紙幣寮活版局に吸収された。

ほとんどの活字鋳造設備と活版印刷関連の器械と、伝習生の一部(職員)は工部省製作寮活字局に移動し、その後太政官正院印書局をへて、紙幣寮活版局(現国立印刷局)につたえられた。
これらの設備のなかには「ポンプ式活字ハンドモールド」はもとより、もしかすると「手回し活字鋳造機=ブルース型手回し式活字鋳造機」もあったとみられる。また活字母型のほとんども移動したとみられ、紙幣寮活版局(現国立印刷局)の活字書体と活字品質はきわめて高品質であったことは意外と知られていない。

しかも当時の紙幣寮活版局は民間にも活字を販売していたので、平野活版製造所(東京築地活版製造所)はいっときは閉鎖を考えるまでに追いこまれた。そのため東京築地活版製造所は上海からあらたに種字をもとめ、良工を招いてその活字書風を向上させたのは明治中期になってからのことである(『ヴィネット04 活字をつくる』片塩二朗、河野三男)。
20160907161252_00001 20160907161252_00002 20160907161252_00003右ページ) 大蔵省紙幣局活版部 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版見本』明治10年04月 印刷図書館蔵)
左ページ) 平野活版所 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版様式』明治09年 現印刷図書館蔵)

BmotoInk3[1] BmotoInk1[1]したがって1871年(明治4)1月、新政府の命によって長崎製鉄所付属活版伝習所の活字、器械、職員が東京に移転した以後、長崎の本木昌造のもとに、どれだけの活版印刷器械設備と活字鋳造設備があり、技術者がいたのか、きわめて心もとないものがある。
財政状態も窮地にあった本木昌造は、急速に活版製造事業継続への意欲に欠けるようになった。

おなじ年の7月、たまたま長崎製鉄所をはなれていた平野(矢次富次郎)に本木昌造は懇請して、新塾活版所、長崎活版製造所、すなわち活字製造、活字組版、活版印刷、印刷関連機器製造にわたるすべての事業を、巨額の借財とともに(押しつけるように)委譲したのである。
このとき平野富二(まだ矢次富次郎と名乗っていた)、かぞえて26歳の若さであった。
それ以後の本木昌造は、長崎活版製造所より、貧窮にあえぐ子弟の教育のための施設「新町私塾 新街私塾」に注力し、多くの人材を育成した。そして平野富二の活版製造事業に容喙することはなかった。

平野富次郎は7月に新塾活版所に入社からまもなく、9月某日、東京・大阪方面に旅立った。それは市況調査が主目的であり、また携行したわずかな活字を販売すること、アンチモンを帰途に大阪で調達するなどの資材調達のためとされている。

その折り、帰崎の前に、東京で撮影したとみられる写真が平野ホールに現存している。
平野富二の生家:矢次家は、長崎奉行所の現地雇用の町使(町司、現代の警察官にちかい)であり、身分は町人ながら名字帯刀が許されていた。
写真では、まだ髷を結い、大小の両刀を帯びた、冬の旅装束で撮影されている。
平野富二武士装束ついで翌1872年(明治5)、矢次富次郎は長崎丸山町、安田家の長女:古まと結婚、引地町の生家を出て、外浦町に家を購入して移転、平野富二と改名して戸籍届けをなしている。
さらにあわただしいことに、事業継承から一年後の7月11日、東京に活版製造出張所を開設すべく、新妻古まと社員8名を連れて長崎を出立した。
平野富二、まだ春秋にとむ27歳のときのことであった。

この東京進出に際し、平野富二は、六海商社あるいは長崎銅座の旦那衆、五代友厚とも平野家で伝承される(富二嫡孫 : 平野義太郎の記録 ) が、いわゆる「平野富二首証文」を提出した。その内容とは、
「この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる」
ことを誓約して資金を得たことになる。そしてこの資金をもとに、独自に上海経由で「ポンプ式ハンドモールド」を購入した。まさに身命を賭した、不退転の覚悟での東京進出であった。

この新式活字鋳造機の威力は相当なもので、活字品質と鋳造速度が飛躍的に向上し、東京進出直後から、在京の活字鋳造業者を圧倒した。
【 参考 : 花筏 平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」


この「ハンドモールド」と「ポンプ式ハンドモールド」は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場で、一部は実演し、さらに双方の器械とその稼動の実際を、1920年に製作された動画をもって紹介した。

federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]
長崎製鉄所における先輩の本木昌造と、師弟を任じていた平野富二

<Viva la 活版 ばってん 長崎>の三階主会場には、平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな平野富二肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出された。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、連載一回目に製紙分社による執筆としるされたが、二回目にそれを訂正し取り消している。現在では福地櫻痴筆としてほぼあらそいが無い)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版 短冊現物未詳)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。
20160523222018610_000120160523222018610_0004最古級の冊子型活字見本帳『 BOOK OF SPECIMENS 』 (活版所 平野富二 推定明治10年 平野ホール蔵)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>を期に、長崎でも平野富二研究が大幅に進捗した

ともすると、長崎にうまれ、長崎に歿した本木昌造への賛仰の熱意とくらべると、おなじ長崎がうんだ平野富二は27歳にして東京に本拠をうつしたためか、長崎の印刷・活字業界ではその関心は低かった。
ところが近年、重機械製造、造船、運輸、鉄道敷設などの研究をつうじて、明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の再評価が多方面からなされている。
それを如実に具現化したのが、今回の<Viva la 活版 ばってん 長崎>であった。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋で、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。
今回は家祖の出身地長崎にきて、また家祖が製造に携わったともおもえる「アルビオン型手引き印刷機」の移動に、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。

1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize長崎諸役所絵図0-2長崎諸役所絵図0国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
国立公文書館蔵『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

上掲図版は『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184:0288)から。
同書は経本折り(じゃばら折り)の手書き資料(写本)だが、その「引地町町使屋敷 総坪数 七百三十五坪」を紹介した。矢次家は長崎奉行所引地町町使屋敷、右から二番目に旧在した。敷地は間口が三間、奥行きが五間のひろさと表記されている。

下掲写真は平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)の現在の状況である。
長崎県勤労福祉会館正面、「貸し会議室」の看板がある場所が、『長崎諸役所絵図』、『肥州長崎図』と現在の地図と照合すると、まさしく矢次富次郎、のちの平野富二の生家であった。

今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
 <Viva la 活版 ばってん 長崎> 会場点描1030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会  花筏