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タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』

長音符「ー」は、「引」の旁ツクリからつくられた
『太陽窮理了解説』和解草稿2冊
『日本の近代活字』――「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」の補遺として

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』
(発行:近代印刷活字文化保存会、 2003年11月7日)

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(発行:近代印刷活字文化保存会、発売:朗文堂 2003年11月7日 版元在庫品切れ)がある。この書物は「本木昌造・活字復元プロジェクト」の一環として編纂された。

「本木昌造・活字復元プロジェクト」――肩書きはいずれも当時のもの
主 唱:本木昌造顕彰会(会長・内田信康)/株式会社モリサワ(会長・森澤嘉昭)/印刷博物館/全日本印刷工業組合連合会(会長・中村守利)
編纂委員会:委員長・樺山紘一(国立西洋美術館長)
委員:板倉雅宣(印刷文化研究家)、片塩二朗(タイポグラファ)、小塚昌彦(タイプデザインディレクター)、小宮山博史(佐藤タイポグラフィ研究所代表)、鈴木広光(奈良女子大学助教授)、府川充男(築地電子活版代表)、高橋律男(株式会社アルシーヴ社)

編著者:『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』編纂委員会
発 行:NPO法人 近代印刷活字文化保存会
発 売:株式会社 朗 文 堂
発売日:2003年11月7日

稿者(片塩二朗)はその編纂委員会のメンバーであり、「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」(p286-331)の章を執筆した。
いいわけめいて恐縮だが、この書物のツメの段階にあたって、筆者は病を得て病床にあった。元を正せば永年の不摂生がたたったのだろうが、2002年9月、残暑がとりわけ厳しい年だった。
このとき長崎の小さなビジネス・ホテルに滞在して、長崎県立図書館、長崎市立図書館、長崎市立博物館、長崎印刷工業組合、飽アクの浦近辺の立神ドッグほかの跡地、通称寺町通り近辺の「本木家の菩提寺:大光寺」、「西 道仙 ニシ-ドウセン の菩提寺:大音寺」、「矢次家 ヤツグ-ケ(平野富二の生家)の菩提寺:禅林寺」などを駈けまわっていた。

長崎の市街地は、海岸に沿ったほんのわずかな地域をのぞくと、平坦地はほとんど無い。市街地をちょっとでもはずれると、まるですり鉢からせりあがるように、凧合戦で知られる風頭山 カザ-ガシラ-ヤマ をはじめ、稲佐山 イナ-サ-ヤマ、星取山 ホシ-トリ-ヤマ などの急峻な山脈がいきなり迫る。それらの山山を総称して後山 ウシロ-ヤマ と呼ぶこともある。
寺町はそんな長崎の風頭山の山裾を巡って点在する。しかも、大音寺や禅林寺など、ほとんどの寺院の墓地は、山裾から頂上部にかけて這いあがるようにして存在する。したがってこれらの寺では、日頃から運動不足のわが身にとっては、墓参や調査というより、むしろ登山・登頂といったほうが似つかわしい難行になる。それを連日の残暑のなかで、登ったり降ったりを繰りかえしていた。

ともかく残暑の厳しい9月初旬であった。そんな「登山」を終えて、汗みずくになってホテルにもどり、シャワーも浴びず、エアコン冷房を最強にして、バタン・キュー状態でうたた寝をした。ところがビジネス・ホテルのちいさな部屋でエアコンは効きすぎた。おかげで一発で風邪をひき、それでもこりずにかけずり回っていたら、ひどい肺炎になって、帰京を長崎の医師に命じられた。それで緊急入院してから、院内感染を含むさまざまな病にとりつかれた。

これ以上、いいわけや「病気自慢」をしてもつまらない。病は2009年に手術を経て完治した(とおもっている)。ともかく振り返れば、不覚なことに、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』刊行の折、多くの関係者に多大な迷惑をかけながら、筆者は駒沢にある国立東京療養センター呼吸器科病棟に入院していた。
したがって「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」の章は、スタッフがパソコンからデータを取り出して、編集を担ったアルシーヴ社にファイルを渡して進行した。校正紙は病床に届いたが、意識が混濁していてほとんど校正もできない状況にあった。当然この章だけがレイアウトも若干まとまりのないものとなったが、収集した資料は、できるだけほかの執筆者に利用していただくこととした。

ところで『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』のうち、拙著「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」p321に、「まどい星の翻訳と音引きの制定者・本木良永」の節がある。この紹介がまことに中途半端な紹介となって、刊行後に読者から何度かお問い合わせをいただいた。それがいつも気になっていた。

2010年7月、ようやく復調して、ぜひとも「近代活字版印刷術発祥の地・長崎」を訪問したいとする「活版カレッジ」の皆さんの、頼りはないがガイド役として、懐かしい長崎を訪れた。筆者にとっては、かねがね気になっていた「まどい星の翻訳と、音引きの制定者・本木良永」の再調査がかくれた目的でもあった。

長崎の本木昌造顕彰会の皆さんをはじめ、長崎史談会の皆さんも、8年余の空白をわすれさせる歓迎をしていただいて嬉しかった。ほんとうの同学・同好の士との邂逅とは心温まるものであった。また同書に「長崎と阿蘭陀通詞本木家 ─── 本木昌造のルーツ」の章(p240-269)を執筆された、元・長崎市立博物館館長/原田博二氏には、「長崎歴史文化博物館」に移行した資料「本木家文書」の閲覧許可の取得にたいへんご尽力いただいた。

ちなみに、グーグル検索エンジン(2011年3月9日調査)によると、「本木昌造 ── 82,400件」、「本木良永 ── 270,000件」となる。
2019年03月12日にも再調査を試みた。「本木昌造──21,000件、本木良永──20,800,000件」であった。本木昌造のヒット件数が大きく減少しているがその理由は判明しない。
タイポグラファのあいだでは、長崎のオランダ通詞として本木昌造がよくしられるが、じつはその曾祖父にあたる、本木良永が3倍強の数値でヒットすることにおどろく。本木良永は天文学関係者のあいだでは極めてよく知られた人物だったのである。しかもその本木良永が訳語を制定した「惑星 ── 訳出時にはマドヒホシとふり仮名がある」にいたっては、7,760,000件(2019年03月12日 37,600,000件)と、とてつもなく膨大な数にのぼる。

すなわち、タイポグラフィあのねのね*005は、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」p321、「まどい星の翻訳と音引きの制定者・本木良永」の節の、補遺[もらし落とした事柄を、拾い補うこと。また、その補ったもの ── 広辞苑]である。

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『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記述

アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
カタ仮名の濁音を、〃のように、母字に2点を加えることと制定した。
カタ仮名の半濁音を、° のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
カタ仮名の促音を角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
長音符号(音引き)を、引の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借り(当て字)併記して表記した。

『太陽究理了解説 和解草稿』 凡例に相当するページ
(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

『太陽究理了解説 和解草稿』 本文ページの一例。惑星が紹介されている。
(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

本木昌造の曾祖父にあたる本木良永 ヨシナガ/リョウエイ がしるした『太陽窮理了解説』和解 ワゲ 草稿上下2冊(翻訳の下書き書)がある。天文学の分野では「惑星 モドヒホシ/ワクセイ」をはじめて紹介した書物としてしばしば取り上げられる書物である。
かつては長崎市立博物館が所蔵していたが、現在は長崎歴史文化博物館の所蔵となっている。200年以上前の、1792年(寛政4)にしるされた手稿であるが、そこには実子の本木昌左衛門によるヒレ紙(附箋)がある。本体ともども虫食いが激しいが、大意次のようにある。
「お役所に差しあげ置き品は、外にこれあり候とも、父御自筆なれば、大切に直し囲い置いた」

この翻訳はオランダ甲必丹 カピタン、すなわち阿蘭陀商館長が、天球儀と地球儀を長崎奉行に呈上したために、その用法を長崎奉行が本木良永に命じて記述させたものとされる。本草稿は太陽系に関する諸説の変遷を述べ、コペルニクスの地動説をもって終わっている〔原田博二〕。
また長崎学の古賀十二郎は、この原著を『Treatise on the Construction and Use of Globes』(George Adams 1766)に擬し、本木良永は同書のオランダ語版『通俗基礎太陽系天文学』(オランダ語の書名は不詳)から和訳したとする。

本木良永はこの翻訳にあたって、天文学の訳語とその記述法に困惑して、さまざまな工夫を凝らした。その結果が『太陽窮理了解説』和解草稿下巻の冒頭にみる「凡例風」の記録としてのこったわけである。本木良永は困難を乗りこえて翻訳を終え、1792年(寛政4)に『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』として、老中松平定信に献上したとされているが、本書はその草稿にあたる。

なお幕府献上本『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』は、当時の幕府の施設「天文方」に託され、現在は国立天文台が所蔵すると一部で記録されている。そこで、今回国立天文台を訪れてマイクロ・フィッシュを取得したが、国立天文台所蔵資料は『太陽窮理了解説』和解草稿、すなわち現在の長崎歴史博物館所蔵資料からの大正期の写本であって、正本ではないことが判明した。また同天文台の所蔵書は下巻を欠いていた。
ただし『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』に関して、グーグル検索エンジンではフランス語と中国語? の2件の文献にヒットするので、どこかに正本が存在する可能性は否定できない。

『太陽窮理了解説』和解草稿の山下満津丈による写本(国立天文台蔵)

『太陽窮理了解説』の正本『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』は、幕府天文方に献上されたものであるから、その機構の一部を継承した国立天文台(東京都三鷹市大沢2-21-1)に存在すると一部の記録にみる。そのために同所の所蔵書も調査してみたが、同所蔵書の巻末に「大正3年10月、長崎公園内長崎市役所仮庁舎ニテ 山下満津丈 識 シルス」とあり、その跋 バツ/アトガキ によると、国立天文台所蔵書は「正本」ではなく、長崎の『太陽窮理了解説』和解草稿(現長崎歴史q博物館蔵)の写本であるとしていた。
また同一ページ最終部に「東京天文台暦研究課」による小さな書き込みがあって、「昭和36年1月11日、東京本郷◯◯古書店より購入」とあり、ここで取りあげる「凡例」を含んだ、肝心の下巻は残念ながら発見できなかった。

◎『太陽窮理了解説』和解草稿にみる興味ぶかい記述

『太陽窮理了解説』和解草稿の原文はカタ仮名混じりであるが、若干意訳して紹介する。
ちなみに本木良永は西家から本木家に養子にはいった。曾孫にあたる本木昌造も、やはり他家(馬田家から・北島家からとする両説がある)から本木家に養子にはいったという、似た経歴がある。また本木良永は本木昌造に先立つこと89年前に誕生したが、文章は近代的で、曾孫・本木昌造よりはよほど平易である。ただ、図版で紹介したように、同書は虫食いがきわめてひどく、一部は判読によった。

プラネーテンということばはラテンの天文学用語なり。この語はオランダ語ドワールステルと通ず。ここに惑星 マドヒホシ と訳す。いまここにあるかと見れば、あそこにありて、天文学者が測量をなすに迷い惑へるによる。

また下巻の冒頭、「凡例風」の文中にこんな驚くこともしるしている。なお「算数文字別形」として例示された算用数字/アラビア数字は、金属活字をもちいており、印刷方式ではなく金属活字をもちいて捺印方式によってしるしたものとおもわれる。

算数文字別形
1 一  2 二  3 三  4 四  5 五  6 六  7 七  8 八  9 九  0 十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。かつカタ仮名の□以下数文字判読不能□新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字をあわせてしるすなり。

としている。すなわちカタ仮名に濁音記号と半濁音記号を設け、カタ仮名に促音を設け、カタ仮名の音引き・長音符としての記号「ー」をつくったのは、1793年ころ、長崎の本木仁太夫良永であったのである。また算用数字を明瞭な形象、おそらく印章と同様に捺印方式によったとみられるが、金属活字の影印をもちいて、1-0までを紹介している。

東京天文台蔵の写本で、山下満津丈はその跋バツ/アトガキに「此の書中のアルファベットは皆木版を用ゆ」と紹介しているが、現・長崎歴史文化博物館蔵書を都合4度実見した稿者は、算用数字を含むアルファベットのほとんどは、水性の墨のはじき具合、その影印からいって、木版(木活字)によるものではなく、金属活字による捺印であるとみなしたい。
また虫食いがひどい部分で判読は困難だが、「新字を為し」の部分からは、いわゆる「カタ仮名合字」も本木良永が制定した可能性も否定はできない。さらに「促呼する音声」とされた部分には、正確にいうなら、促音・拗音・撥音もみられるが、ここでは音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。

◎ 本木良永とは、どんな人物だったのか?

おもえば本木家歴代において、もっとも傑出した人物は本木仁太夫良永(モトギ-ジンダユウ-リョウエイ、ヨシナガトモ 1735-94 享保20-寛政7)かもしれない。本木系譜所引本木家系図には「本木仁太夫良永、永之進、幼名茂三郎、字士清、号 蘭皐ランコウ」[『日本の近代活字』では蘭皐-ランサイとルビをふったが、お詫びして訂正したい]とある。

西家の出で、西松仙の三男。14歳にして本木仁太夫良固の女婿となり、稽古通詞からはじめで大通詞になった。阿蘭陀通詞本木家のひとではあったが、このひとは通詞の実務家というよりは、学者であり研究者であった。
おもな訳書に『平天儀用法』1774年、『天地二球用法』1774年、『渾天地球総説』1781年、『阿蘭陀全世界地図書訳』1790年、『太陽窮理了解説』1792年などがある。大光寺の本木家墓地で、もっとも立派な墓標は、中央を占める本木仁太夫良永蘭皐のものである。その墓誌には次のようにある。

寛延元年君年一四、充訳員、転副訳末席、天明七年累進為副訳、八年擢家訳、茲歳、蘭入貢永続暦、官命訳之、寛政元年、頁万国地図書、又命訳之、作解書二冊献之、三年、見異船於豊前藍島、君寵命抵彼地竣事而還、同年、訳和蘭天地二球及用法之書、作太陽窮理了解説献之、訳前書全部献之、此際賞賜数次、声誉亦大顕六年秋病辞職、君在職四十七年、以享保二十年乙卯六月十一日生、寛政六年甲寅七月十七日病卒、享年六十、葬于大光寺焉

『太陽究理了解説 和解草稿』 本文ページの一例。『日本の近代活字』p254に紹介。(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

このひとはたしかに偉大な業績をのこしたが、曾孫・本木昌造と同様に牢獄にもはいった。この時代、長崎阿蘭陀通詞が刑を得て入牢するのはとりたてて特殊なことではなかったのである。
1790年11月『犯科張』(長崎県立図書館旧蔵)によると、大通詞本木良永、大通詞楢林重兵衛のふたりは30日の押込(入牢)、通詞目付吉雄幸作は30日の戸締(蟄居)を命じられた。その罪状はたかだかとしたものである。句点のみ加えで原文のまま紹介する。

右之者共先輩仕癖之事与者申なから、御改正被仰出候上者心付候儀は追々ニも可申出処、無其儀年来樟脳銀銭之儀ニ付、不束之取計候段不埒之至ニ付、厳科可申付処、令宥免、幸作儀は戸〆、重兵衛、仁太夫は押込申付候

これらの3名は、オランダに売り渡す樟脳や銀銭などの書類に、ふつつかな和解 ワゲ、ホンヤク をして幕府に損害を与えたとして罰を与えられたのである。こうした処罰は長崎奉行所が下したが、ふつうはしかるべき肝いりからの嘆願書が出され、押込は蟄居に、戸締は謹慎に減刑されるものであった。この3名も結局そうなった。

ちなみに長崎の医師の家系であった西家と、阿蘭陀通詞・本木家とのあいだでは、しばしば婚姻・養子縁組がなされている。『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p128)から、「本木家関係系図」をふたつ紹介するので参考にしてほしい。

上図 : 『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』
(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p128)から、
本木昌造関連家系図(旧長崎県立図書館の資料から補整、1992年)

下図 : 『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』
(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p129)から、島屋政一資料「本木家関係系図」

◎ データ公開が待たれる『太陽窮理了解説』和解草稿

『太陽窮理了解説』上下二冊の木製ケース
(長崎歴史博物館蔵、2010年7月、原純子氏撮影)

『太陽窮理了解説』上巻の本文ページ
(長崎歴史文化博物館蔵、2010年7月、原純子氏撮影)

『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊を、8年ぶりに長崎歴史文化博物館において閲覧することができた。しかしながら、先の調査時における長崎市立博物館とは異なり、同書は基本的には閲覧不可書目になっており、方々に手を尽くしての閲覧であった。したがって同館の担当者が立ち会い、紹介した見開きページだけを開いて撮影することができた。肝心の下巻はより損傷が激しくて、開くことは許可にならなかった。

国立天文台の資料が、一部の伝承とは異なって、長崎資料の大正期における写本であることは紹介した。したがって天文学関係者の皆さんはもちろん、タイポグラファも『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開を待つことになる。
先の調査では挿入図版が手書きではなく、銅版印刷である可能性を発見していたが、今回の短い調査時間ではその追跡もままならなかった。しかしながら、長崎歴史文化博物館では、ともかく幕末期の長崎の資料は膨大であり、いまのところは各施設から継承したこれらの資料の整理に追われており、いつデジタル・データーとして公開できるかは不明だとの説明をうけた。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回できるだけ図版紹介をともなって紹介したような、おどろくべき事実が記されている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性は否定できない。だからこそ、『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

タイポグラフィあのねのね*004 アンチモンの原料鉱石、輝安鉱

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱 キ-アン-コウ

き-あん-こう【輝安鉱】――広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで……》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の有力社員であるが、ご本人のご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 p106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いそうである。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足――蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査もなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからのご指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

  • 〔福地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891 p6)
  • 〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933 p61-2)
  • 〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934 p21-22)
  • 〔島屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p102-6、p175)

〔福地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。(中略)従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844―1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844―1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋〕
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。(中略)

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。(後略)

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられる。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70―80%、錫1―10%、アンチモン12―20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されている。

花こよみ 008

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

春 暁

春眠シュンミン 暁アカツキを 覚えず

処処ショショ 啼鳥テイチョウを 聞く

夜来ヤライ 風雨の 声

花 落オつること 知る 多少

孟 浩 然(モウ-コウネン 667-740 中国唐代の詩人)

朗文堂-好日録008 正月に咲くノゲシの花

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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元旦の早朝に、はつ花をつけたノゲシ。1月6日既報写真。

空中庭園で次次に花をつける現状のノゲシ

◎吾輩、風邪をこじらせて肺炎になりかかった。ヤレヤレの毎日。
風邪が治りきらない。なんとなくポワ~ンとしている。思考にどうにもまとまりがない。新春早早なさけないことはなはだしい。ヒロオカ奴で血液検査をしたら、白血球の値が異常で、軽度の肺炎と診断された。通院で点滴を受けたり、抗生物質を投与されて、どうやら回復基調になった。ところで、本日は新宿西口、東京イタ~イ病院での3ヶ月毎の定期検診にでかけた。心臓エコーの検査にはまったく問題がないとの報告を受けて安堵したが、「血液検査では白血球の値がすこし高い。どこかに炎症があるはずだ」とのウッシッ師の見立て。風邪をひいてかかりつけ医に通院したことをはなすと、風邪薬、施薬5日分の処方箋がでた。吾輩の主治医ウッシッ師はどうやら名医らしい。ギョロメで、ときおりつまらん洒落 オヤジ-ギャグ をとばすが、いいひとだ。とりあえずは任せるしかないしな。

◎「花こよみ007」での報告は《ノゲシ》というらしい。
正月の朝まだきに初花をつけた艸があった。それを2001年1月6日、本ブログロールに「花こよみ007」として紹介した。「はつ春に 咲くやこの花 名をしらず――よみし ひとを しらず」。新春第1弾のアップとあって、なんにんかのかたから情報をいただいた。この花は「ノゲシ 野芥子、もしくは ハルノゲシ」という野草、ひとによっては雑草であることを知った。ノゲシはなかなか人気があって ウキペディア にも紹介されていた。

(^o^) 吾輩と似たようなブログを書いているひとがいた!

\(◎o◎)/! ノゲシは食べられるらしい!

>^_^< 亀はノゲシが大好物らしい!

∈^0^∋ うさぎやワンコもノゲシが好きらしい!

>^_^< カピバラもノゲシが好きらしい!

ネット・サーフは不得手だが、紹介されたページはみんなのぞいてみた。ペット好きのひとが増えたことはしっていたが、世事に疎い吾輩は、ペット好きとは愛猫家と愛犬家ぐらいしか考えていなかった。ところがじつにさまざまなペットが飼育されていることに驚いた。そしてみなさんがペットにほんとうにやさしい視線をむけており、しかもWebsiteでの写真紹介が巧い。画像は鮮明だし、生き生きと情景をきりとって紹介している。さすがにこれだけは動物園の画像であったが、カピバラ紹介などは、ユーチューブの動画つきで、おおきな鼠というか兎というか、ビーバーにも似た愛らしい小動物として人気のカピバラが、ノゲシにむしゃぶりつく様をみた。こんなWebsiteをつくってみたいが、デジタル弱者のヤツガレでは当分不可能だ。なにせ写真は極めつきにヘタだしね。

空中ではプロペラのような綿毛が、地面ではジャッキのようになる?

空庭園のノゲシは、いまだに黄色の花を次次につけている。そしてときおり、綿毛につつまれた種子を空中に放つ。「ロダンの椅子」で所在なく文庫本を読んでいたところ、誌面にノゲシの種子がポトリと落下 モトイ 落花した。なにせポワ~ンとしているから、種子に視線を移動してじっとみつめる。そのうちに種子は風に吹かれてどこかに飛んでいった。文庫本の上はお気にめさなかったらしい。

ところが「鼠のひたい」の地面に着地したノゲシの種子は、ここの地面の湿度や匂いが気にめしたのか、すぐに綿毛を足のようにして踏んばって、もう少少の風では飛ぶことがない。ポワ~ンとしながらそれをじっとみている。吾ながら寒風の吹きつのる朝っぱらから、そんな情景に見入っているとは実に暇な奴だとおもう。でもノゲシの綿毛は、気に入った地面に着地すると、すぐさまボルト&ナットのように、あるいは強力磁石のように、地面に、接着、吸着、着地することに気づいた。肺炎気味の風邪っぴきだというのに、それを飽きもせで1時間ほどじっとみていた。まるで阿呆だな。

ノー学部がまた妙なものを持ちこんだ。今回は鹿児島の土筆 ツクシ だそうである。ひょろっとした根っこを空中庭園に植えろという。土筆はスギナの子だから、狭い庭がスギナだらけになると抵抗したら、土筆とスギナは違うと反論された。とりあえず相手はノー学部出身、一応はそっちが専門だから黙っていたが、土筆はスギナの子ではないのかなぁ。信じられん。そこで作業拒否にでたら、自分でごそごそとコンビニ袋からいろいろ出して、鹿児島の土ごと小鉢に植えた。鹿児島の土壌は白砂 シラス 台地とされ、火山灰のなごりか白っぽい色をしている。桜島火山灰と富士山火山灰の違いかな。まぁ謂っても詮無いことだと放っていたら、土筆がいつのまにか芽をだしている。土筆は本当にスギナの子ではないのかもう少ししたらわかる。それまでは小さな植木鉢の中だ。

★山崎パン

ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願つき ¥100

ともかく買い物が苦手である。だから買い物といってもコンビニぐらいしかいかない。ときおり100円ショップにも立ち寄る。たいていは意味のない、使い道のないものを買って帰る。昨年の「活版凸凹フェスタ」で、写真製版会社・真映社さんが「春の版ハンまつり」と銘打って展示してウケていた。ところで先般、吾輩、100円ショップで異な物を発見。「ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願」である。吾輩は意外にこういう埒ラチもないものが好きである。

そこで新発見! ヤマザキ版ハン 、モトイ 山崎パンのダルマをよくみると、向かって右側の眼(つまり左目)から墨をいれて願をかけるらしい。そんなことは吾輩は知らんかった。だから既報の高崎ダルマも、川越ダルマも、向かって左(つまり右目)から墨入れをしておった。信心不足だからこうなったのか、はたまた世故にうといのか、いずれかだ。こうなるから縁起物は苦手だ。ところでまだ受験戦争は終わっていない。就職活動シュウカツも一種の試験だ。「フレ~、フレ~、受験生」である。えっ? パンの味? 100円にふさわしい味でしたよ。

本日2月23日[先負センプ]、曇天で寒い日であった。

タイポグラフィあのねのね*003|東京築地活版製造所|『活字と機械』大正三年版「年賀状用活字」

(^O^)  いささか時季はずれの企画ですが  (^O^)
年賀用活字とその名称

『活字と機械』
(株式会社東京築地活版製造所 編集兼発行人・野村宗十郎 大正3年6月)

小冊子『活字と機械』はこれまであまり紹介されなかった資料である。同書はタイポグラフィを、本来の「情報伝達術のための総合システム」としてとらえ、その活字と機械の両側面から、大正初期(大正3年、1914)におけるタイポグラフィを立体的に紹介したものである。
造本データは以下のとおりである。

装  本  大和綴じを模した、いわゆる和装本仕立て
表  紙  濃茶の厚手紙 金色インキ、銀色インキほか特色使用。
      シーリング・ワックスを模した登録商標「丸もにH」
寸  法  天地226 × 左右154mm
本  文  頁  ペラ丁合 67丁134頁(裏白ページ多し)
      活字版印刷、写真網目凸版印刷、石版印刷、木口木版印刷などを併用。

『活字と機械』の魅力は様々にあり、多方面からの研究に資すところがあるが、ここでは2丁4頁にわたって紹介された「年賀用活字」を紹介しよう。外周部にはいかにも大正初期らしく、アール・ヌーヴォー調の装飾枠が本書図版ページに共通してもちいられている、この装飾枠は石版印刷(とみられる)特色によって印刷されている。

現在でもその傾きがみられるが、端物印刷業者にとって「年賀用印刷」は、歳末最大の「稼ぎどころ」であった。町角には《年賀状印刷賜ります》のノボリがはためき、歳末風景を華やかにいろどったものである。
そのため活字鋳造所はデザインに意を凝らし、さまざまな、おおきなサイズの「年賀用活字」を製造・発売して、その需要に応えた。もちろん「年賀用活字」は、活字鋳造所にとっても重要な歳末商品であった。

⁂年賀用壹號活字⁂

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形(シャデッド色版)

ゴチックシャデッド形
壹號楷書
フワンテール形
ビジヨー形
三分二フワンテール形
●左頁下段右より左へ順に
貳號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形
参號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形

●見開頁右、上段右より左へ順に
フワンテール形
ゴチックシャデッド形
ゴチック形(シャデッド色版)
蔓形
●見開頁右、下段右より左へ順に
矢ノ根形
ゴチツク霞形
唐草形
鶴形
●見開頁左、上段右より左へ順に
松葉形
笹の葉形
梅が枝形
龜形
●見開頁左、下段右より左へ順に
篆書形
やまと形
初號楷書
若葉形

⁂年賀用三十六ポイント活字⁂

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形
フワンテール形
矢の根形
梅が枝形

松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形などと、和のふんいきをつたえたい ── むきへの開発も目立つ。またいかにも大正期らしく、ハイカラな名称とエスプリの効いた形象もみられる。
「フアンテール形」は「FANTAIL  キンギョなどの扇型の尾、孔雀鳩」としてよいとみなす。「ビジヨー形」は「BIJOU  宝石:装飾物」であろうか。
これらは名称からして、洋のふんいきをつたえたい ── むきなども開発されている。

また、「年賀用活字」は書体デザイナーの技倆の見せどころでもあったので、時代の風潮や、歴史的視点から材をとったとみられる活字が多いのも特徴である。

ことしもたくさん年賀状をいただいた。ありがたいことだが、いまだに整理がつかず、年賀状に添えられた「移転通知」「電子アドレス」情報変更を転記できないままにいる。
そんないま、大正初期、号数制からポイント制への転換と、機械製造をより幅広く展開しようとしていた東京築地活版製造所の記録をみている。稿者はそろそろわが国のタイポグラフィ研究も、活字唯美論中心主義から脱却する時期かともおもっているが、「松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形」などの活字をみて、ニヤリとするのもわるくは無いようだ。

A Kaleidoscope Report 006 『印刷製本機械百年史』活字鋳造機の歴史

活字鋳造機の歴史

『印刷製本機械百年史』
(印刷製本機械百年史実行委員会 全日本印刷製本機械工業会 昭和50年3月31日)


グラフィックデザイン全般の不振をささやかれるなかで、どういうわけか、最近タイポグラフィに関心を寄せる若者が増えてきた。まことにうれしいことである。
タイポグラフィ560年余の歴史は、金属活字のなかで誕生し、その揺籃期 ヨウランキ-ユリカゴノ-ジダイ を金属活字のなかですごしてきた。すなわちタイポグラフィとは「工芸 Handiwork」であり、タイポグラファとは「技芸者」であった。

ところが、わが国の近代タイポグラフィは、欧州諸国が産業革命を達成したのちに、近代化を象徴する「産業・工業 Industry」として海外から導入され、それまでの木版刊本技芸者を駆逐して、急速に発展を遂げたことにおおきな特徴がある。
わが国の木版刊本製作術は、おもに板目木版をもちいた版画式の複製術で、その歴史といい、技術水準といい、端倪タンゲイすべからざる勢いがあった。
それでも明治初期に招来された「金属活字を主要な印刷版とする凸版印刷術」が、ひろく、「活版印刷、カッパン」と呼ばれて隆盛をみたあとは、従来技術の木版刊本製作術は急墜した。それにかわって近代日本の複製術の中核の役割は「活版字版印刷術、活版印刷、カッパン」が担ってきた。

本論では詳しく触れないが、木版刊本から活字版印刷へのあまりに急激な変化の背景には「活字」の存在があった。江戸期木版刊本の多くが、徳川幕府制定書体の「御家流字様」と、その亜流――連綿をともなった、やや判別性に劣る字様(木版上の書体)――によって刻字されていたことが、「楷書活字」「清朝活字」「明朝体」に代表される、個々のキャラクターが、個別な、近代活字に圧倒された側面を軽視できない。
ここではその「個々のキャラクター ≒ わが国の近代活字」を「どのように」製造してきたのか、すなわち、活字製造のための機器「活字鋳造器、活字鋳造機」と、その簡単な機能を紹介したい。
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活字は鋳物であった。鉛を主体とし、スズ、アンチモンの三合金による鋳造物、すなわち重量も質量もある物質として確固として存在した。そして衰退を続けているとはいえ、いまだに活字鋳造がなされ、活字を主要な印刷版とする凸版印刷術、タイポグラフィは厳然として存在している。

もっとも素朴な活字鋳造器、活字ハンド・モールド(復元版・伊藤伸一蔵)

1590年(天正8)イエズス会士ヴァリニャーノが、わが国にはじめて西洋式活字版印刷機をもたらした。ヴァリニャーノはわが国に活字版印刷のインフラが未整備なことを知り、のちにその「技術者」を同伴して再来日したとされる。
そして1591年からのおよそ20年の間に、島原・天草・長崎などで「活字版印刷」を実施した。俗称キリシタン版の誕生である。
キリシタン版には、宗教書のほかに、『伊曾保 イソホ 物語』『日葡 ニッポ 辞書』など30種ほどが現存している。そのなかには日本語を組版するための活字、あるいは日本国内で活字原図製作・活字母型製造・活字鋳造を実施したとみられる活字を使用した書物もある。

したがってヴァリニャーノが伴ってきた「技術者」とは、「印刷術」だけでなく、活字父型製造(パンチ)、活字母型製造(マトリクス)・活字鋳造(タイプ・キャスティング)の技術にも長けていたとみることができる。
キリシタン版に関する文献は少なくないが、
「どんな手段で原寸の活字原図を製作し、どんな手段で活字父型・母型を製造し、どんな活字鋳造機器をもちい、どのように和文活字をつくったのか」
こうした角度からの研究はまだ未着手な部分が多い。

16世紀世紀末に伝来したキリシタン版は、1612年幕府直轄領におけるキリスト信教禁止令、1614年高山右近・内藤如安らのキリシタンを国外追放、1630年キリスト教関係の書物の輸入禁止など、一連の徳川幕府によるキリスト教禁止令によって、江戸初期に廃絶された。
すなわち17世紀前半において、イエズス会士ヴァリニャーノらがもたらした、西洋式活字版印刷機と活字製造機器は、半世紀の歴史を刻むことなく失われた。
このヴァリニャーノらがもたらした活字と印刷機による「印刷された書物 ≒ キリシタン版」はわずかに現存するが、その印刷機はもちろん、活字一本でも発見されたという報告は管見に入らない。したがってそうとう徹底した処分がなされたものと想像される。

しかし、幕末から明治初期、わが国近代タイポグラフィの黎明期に導入された「活字鋳造機器」は、16世紀世紀末のキリシタン版の時代と大差がない、きわめて素朴な活字鋳造器としての「ハンド・モールド」であったとみてよいであろう。
しかしキリシタン版と同様に、その伝来の正確な時代、ルートは判明しない。

わが国ではかつて「ハンド・モールド」を、中央からふたつに割って、そこから活字を取り出す形態から「割り型、割り鋳型、手鋳込み器」などと称した。そして「ハンド・モールド」からできた活字を、その地金の注入法からとって「流し込み活字」と呼んだ。

「ハンド・モールド」はきわめて簡便な「道具」であったので、「機械」とはされず、ふつう「器」の字があてられるのが特徴である。その「ハンド・モールド」は、キリシタン版の時代を別としても、江戸時代の後期には、すでに、江戸、長崎、鹿児島などに伝来していたとみられ、一部は、東京/国立博物館、長崎/諏訪の杜文学館(移動して長崎歴史博物館に収蔵)、鹿児島/尚古集成館などにその断片が存在している。

文書記録にはこのように紹介されている。
「嘉永4-5年[1851-2]の頃、即ち本木昌造モトギ-ショウゾウ先生の28-9歳の時、俗に所謂イワユル流し込みの活字を鋳成したのである」(『開拓者の苦心 本邦 活版』三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日、以下〔三谷〕)。
三谷幸吉が紹介したこの記録には、昭和10年代から多くの異論があった。すなわちこの「流し込み活字」でつくったとされる『蘭和通辯 ランワ-ツウベン』なる書物が現存しないためであり、また幕府の施設であった「蕃書調所 バンショ-シラベショ」などの諸機関が、地方官である本木昌造らより先行して活字を鋳造したとする、おもに川田久長らが唱えた説との対立であった。

しかしながら、筆者は本木昌造とそのグループが、嘉永年間、すなわち19世紀の中葉に、「割り鋳型をもちいて流し込み活字」をつくったとする説にさほど違和感を覚えない。もちろん稚拙な、「活字ごっこ」にちかいものであり、当然『蘭和通辯』なる書物をつくることもできないほどの、児戯に満ちたものであったとみるべきであるという前提においてである。


明治の開国ののち、長崎の本木昌造とそのグループ、そしてその後継者の平野富二/平野活版所と、工部省勧工寮のふたつのグループの活字鋳造は、「ポンプ式ハンド・モールド」を上海から輸入して鋳造したとする記録を散見する。たとえば三谷幸吉はこのように紹介している。
「蜷川氏は平野富二氏と知己の間柄であったが、活字の製法は工部省で習得した。さて工部省の製造法は手鋳込みポンプ式であった」〔三谷、p108、p133〕。

筆者も平野活版所(のちの東京築地活版製造所)と、工部省勧工寮(現在の国立印刷局)は、その活字の製造量と、両社の価格設定からみると、ハンド・モールドで活字鋳造したとするのには無理があり、おそらく簡便な改造機、「ポンプ式ハンド・モールド」をもちいたものとみる。
ところが、この「ポンプ式ハンド・モールド」の実態がまったくわからないのが実情である。わが国での名称も、記録には「手鋳込みポンプ式、手鋳込み活字鋳造機」とさまざまにしるされている。

おそらく明治最初期に導入された「道具ではない、活字鋳造用の機械」とは、「ポンプ式ハンド・モールド」であったとしてよいとみなすが、これは外国文献でも、管窺に入るかぎり、『Practical Typecasting』(Rehac Theo, Oak Knoll books, 1993)にわずかに写真紹介されているだけである。しかもレハックは、
「この簡便な活字鋳造機は、実機は現在米国に存在しないし、写真もスミソニアン博物館蔵のこの写真一葉だけである」
とする。わが国には実機はもとより、写真も存在しない。

以上を踏まえて、「活字鋳造機の歴史」『印刷製本機械百年史』(印刷製本機械百年史実行委員会 全日本印刷製本機械工業会 昭和50年3月31日 p92-97)を紹介したい。本書は印刷・活字業界の歴史版総合カタログといった趣の書物であり、本文のページ数より、巻末に各社の会社紹介を兼ねた広告ページが多数紹介されている。

『印刷製本機械百年史』の執筆者と、同書に掲載されている主要文献は以下の通りである。
◎執筆者/沢田巳之助(印刷図書館)、本間一郎(元印刷情報社)、山本隆太郎(日本印刷学会)
◎主要文献/PRINTING PRESS(James Moran)、石川県印刷史、活版印刷史(川田久長)、写真製版工業史、大蔵省印刷局史、大蔵省印刷局百年史、印刷術発達史(矢野道也)、佐久間貞一小伝、藍・紺・緑、開拓者の苦心(三谷幸吉)、印刷インキ工業史、印刷機械(中村信夫)、印刷文明史(島屋政一)、明治大正日本印刷技術史(郡山幸夫・馬渡力)、中西虎之助伝

『印刷製本機械百年史』p93

『印刷製本機械百年史』p94

『印刷製本機械百年史』p95

『印刷製本機械百年史』p96

『印刷製本機械百年史』p97

《活字鋳造機》
記録によると、明治4年[1871]工部省勧工寮で手鋳込活字鋳造機[ポンプ式活字ハンド・モールドとみられる]1台を設備したという。また明治5年[1872]平野富二が長崎から上京し、神田佐久間町に、後の東京築地活版製造所を開業したとき、母型、鋳型各1組と、手鋳込鋳造機[ポンプ式活字ハンド・モールドとみられる]3台を持参したという記録がある。さらに明治6年[1873]5月13日発行の『東京日日新聞』に、
  今般私店に於いて泰西より活字鋳造の具、
  並に摺立機械等悉く取寄せたり、
  而して彼の各国の如く製を為す。云々。
  活字鋳造摺立所 蛎殻町3丁目 耕文書院
という広告が載っている。

世界で最初に実用された活字鋳造機は、ダビッド・ブルース(2代)が1838年最初に特許をとり、1843年に完成したものであるから、上記の鋳造機も、恐らくそれであろう。
[ブルース活字鋳造機は明治9年《1876》春、弘道軒・神崎正誼がわが国にはじめて導入した。平野活版所がブルース活字鋳造機を導入したのは、弘道軒に遅れること5年、明治14年《1881》春であり、この紹介には疑問がある(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌』片塩二朗
タイポグラフィ学会2011]。
わが国では一般にカスチング、あるいはなまってカッチングと呼んでいた。

これをはじめて国産化したのは大川光次である。大川は代々伊井家に仕えた鉄砲鍛冶の家に生まれた。明治5年[1872]頃から、赤坂田町で流し込み活字の製造や、活字鋳型の製造販売を業としていたが、明治12年[1879]印刷局に入り、鋳造部長となった。弟の紀尾蔵もともに印刷局に勤めていた。

明治16年[1883]大川兄弟は[印刷局を]退職し、再び[赤坂]田町で鋳型製造を始めたが、同時に鋳造機の製作も開始した[大川公次・紀尾蔵の兄弟が弘道軒のブルース活字鋳造機をモデルとしてブルース型活字鋳造機の製造販売を開始(『秀英舎沿革史』秀英舎 明治40年3月20日)。わが国ではこれを、カスチング、キャスチング、手廻し活字鋳造機などと呼んだ。東京築地活版製造所、秀英舎などがただちにこれを導入した]。
これが日本における活字鋳造機製作の最初である。大川は後に芝の愛宕町に移り、明治45年[1912]60才で死去したが、その門下から国友、須藤、大岩などという人が出て、いずれもキャスチングを製作するようになった[大川光次の門からは大岩製作所がでた。この大岩製作所からは小池製作所がでて、2009年8月31日まで存在した]。

自動鋳造機がわが国に始めて入ったのは明治42年[1909]である。この年、三井物産がトムソン自動鋳造機を輸入、東京築地活版製造所に納入した。次で44年[明治44年、1911]には国立印刷局にも設備された。トムソン鋳造機はシカゴのThompson Type Machine Co.が製作したもので、1909年特許になっている。しかし、これはそのままでは和文活字には不適当だったので、築地活版では大正7年[1918]これを改造して、和文活字を鋳造した。

大正4年[1915]、杉本京大が邦文タイプライターを発明し、日本タイプライター会社(桜井兵五郎)が創立された。これに使用する硬質活字を鋳造するため、特別な鋳造機が作られた。それは大正6年[1917]ごろであるが、この鋳造機が後に国産の独特な活字鋳造機を生む基となったといえる。

日本タイプライターの元取締役だった林栄三が印刷用としての硬質活字を研究、大正13年[1924]林研究所を創立し、この硬質活字を「万年活字」と名付けて時事新報社に納入した。彼はこの硬質活字を鋳造するために、技師長・物部延太郎の協力を得て自動活字鋳造機を設計し、「万年活字鋳造機」と命名した。

大正15年[1926]、林研究所は[林栄三の名前から]林栄社と改称した。万年活字は結局いろいろな欠点があることがわかって、使われなくなったが、翌年万年鋳造機各6台が大阪毎日新聞と共同印刷に納入され、普通の活字の鋳造に使われて好成績を収めた。機械の価格は1台2,500円であった。当時トムソン鋳造機は1万2,000円であったのである。

『印刷製本機械百年史』掲載の林栄社

これとほとんど時を同じくして、日本タイプライター会社でも、一般活字用の自動鋳造機を完成、万能鋳造機と名付けて発売した。これは普通の単母型の他、トムソン鋳造機用の平母型や同社で製作する集合母型を使用できるのが特徴であった。

これも同じころ、須藤製造所から須藤式自動鋳造機が発売された。これは鋳造速度の早いことを特徴としており、毎分5号活字で100本、6号なら120本鋳造できた。

この他に池貝鉄工所が昭和2年[1927]トムソン型の鋳造機を作ったが、永続しなかった。また東京機械製作所でも作ったというが、その年代は明らかでない。これは鋳込まれた活字が他の機械と逆に右側に出るのが特徴だった。

昭和6年[1931]ごろ、林栄社社長・林栄三が、活字1回限り使用、すなわち、返字の作業を廃止し、活字はすべて新鋳のものを用いて組版した方が鮮明な印刷が得られ、採算上も有利であるという説を発表した。
[この時代まで、活字は繰り返し、反復して使用されていた。印刷を終えた活字版は、解版されて、活字と込め物などに分類され、活字はもとの活字ケースに戻して(返し・返字)再使用されていた。林栄社の提案を受けて、中規模程度の活版印刷所でも、おおくは本文活字の活字母型を購入し、活字鋳造機を導入して自社内で活字鋳造を実施する企業が増大した。そのため活字鋳造所は本文用サイズ以外の活字や特殊活字の販売が中心となった]。
これが普及するに伴って、活版印刷業界に自家鋳造が盛んになり、鋳造機の需要も増えたので、昭和10年[1935]前後から、鋳造機のメーカーが著しく増加し、大岩式、谷口式、干代田式などの各種の自動鋳造機が市場に出た。

大岩式は大岩鉄工所社長、大岩久吉がトムソン鋳造機を範とし、和文活字に適するよう改造して、昭和8年[1933]発売したものである。大岩の死後、製作権はダイヤモンド機械製作所に移り、現在では小池製作所(小池林平社長)によって継承されている。

『印刷製本機械百年史』巻末に掲載された小池製作所

谷口式は谷口鉄工所の製作で、印刷所における自家鋳造に便利なようにできるだけ機構を簡素化し、価格を低廉にしたのが特徴だった。千代田式は千代田印刷機製造株式会社(古賀和佐雄社長)が昭和11年[1936]ごろ発売した自動鋳造機である。

この他に国友兄弟鉄工所が動力掛けのキャスチングを発売した。当時のキャスチングは鋳型の冷却装置がなく、鋳造中時々ぬれ雑布で[鋳型を]冷さなければならなかったが、この機械では鋳型に水を通して冷却するようなっていた。

戦争中は活字鋳造機も他の印刷製本機械と同様、製造を制限されていたが、終戦と同時に新しいメーカーが続出した。

まず池貝鉄工所がトムソン型を作ったが、昭和30年[1935]以降は生産を中止した。昭和22-23年頃三鷹にあった太陽機械製作所から太陽鋳造機というのが売出され、4-5年つづいた。また同じころ小石川の岩橋機械から岩橋式鋳造機が売出されたが長く続かなかった。
田辺製作所からも簡易鋳造機という名で構造を簡単にし、価格を下げた製品が出た。これは自家鋳造用として相当歓迎され、後にいずみ製作所が製作するようになり、昭和36年[1961]同社が社長の死去により閉鎖されるまで継続した。

昭和20年[1945]9月、大岩鉄工所の出身である小池林平は小池鋳造機製作所(現在の株式会社小池製作所)を創立、大岩式を基とした自動鋳造機の製造を始めた[2008年8月31日破産、のちに特許と従業員のおおくは三菱重工業が吸収した]。昭和21年[1946]には児玉機械製作所が設立され、やはり大岩式鋳造機を製造したが、これは33年[昭和33年、1958]に廃業した。

京都の島津製作所も、アクメという商品名で活字鋳造機を発売した。これは戦前の東京機械のものと同様、活字が右側へ出るのが特徴で、22-23年頃から30年頃[1947-1955]までの間相当台数が市場に出た。その他にも小さいメーカーが、2-3社あったようだが、明らかでない。

昭和21年[1946]12月、長野県埴科ハニシナ郡戸倉トグラ町の坂井修一は、林栄杜の元工場長で、当時長野県に疎開し八光ハッコウ電機製作所の工場長をしていた津田藤吉と相談して、八光活字鋳造機製作所を創立した。
最初のうちは被災鋳造機の修理及び鋳型の製作が仕事であったが、昭和23年[1948]3月、1本仕上げ装置を完成、標準型八光鋳造機の量産を開始した。従来の鋳造機では鋳込んだ活字の上下にカンナをかけて鋳張りを除き、次にこれを90度回転して左右を仕上げる方式であったが、この1本仕上げと呼ばれるのは、まず1本ずつ左右にカンナをかけ、ついで上下を仕上げる方式である。
次で、25年[1950]新聞社の要望に応え、単能高速度鋳造機を発表した。これは従来の標準8ポイントで毎分120本という鋳造速度を50%アップしたものである。

『印刷製本機械百年史』掲載の八光活字鋳造機製作所

[昭和]30年代に入ると、数多かった鋳造機メーカーも次第に減り、林栄社、八光、小池の3社となったが、それと同時にこの3社の激しい技術開発競争により、多くの改良が加えられ、活字鋳造機は面目を一新するに至った。すなわち、函収装置、温度自動調節装置、母型自動交換装置、地金供給装置、ぜい片回収装置などが次々と開発され、文字通り世界に類のない全自動鋳造機が生まれたのである。

一般活字以外の特殊な鋳造機としては、昭和24年[1949]頃、小池製作所でインテル及び罫の連続鋳造機を発表した。それまでわが国では罫、インテルは1本ずつ手鋳込みだったのである。これと同じような機械は他社でも作られたが、小池式の方が能率が上ったので間もなく中止され、小池のストリップ・キャスターだけとなった。小池製作所ではそれにつづいて、見出し鋳造機および花罫鋳造機を製作した。

ブルース型活字鋳造機とトムソン型活字鋳造機の国産化とその資料
Catalogue of Printing Machine』(Morikawa Ryobundo, Osaka, 1935 

花こよみ 008

花こよみ 008

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 雪の降る日に 柊 ヒイラギの

あかい木 コ の実が たべたさに

柊 ヒイラギの葉で はじかれて

ひょんな顔する 冬の鳥

泣くに泣かれず、笑うにも

ええなんとしょう、冬の鳥

                        薄田泣菫(ススキダ-キュウキン 1877-1947)

朗文堂-好日録007 景況と女性の眉、活字書体の選択

朗文堂-好日録 007

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◎ヤツガレ、風邪の治りかけでポワ~んとしておる。
新春早早なさけない。昨週末から、咳はでるは、鼻水はたれるはで、まことにもって無残であった。かかりつけ医のヒロオカ奴に駆け込んで、いつもの風邪薬4日分。土曜・日曜とどこにも出かけずグダグダしておった。本を読もうにも薬のせいかトロトロしてくるので、ただ毛布をひっかぶって、ゴホゴホ、ズルズル、チ~ンとやっていた。なさけないことはなはだしかった。24日[月]、なんとか出勤。それでもなんとなく、いまだにポワ~ンとしている。

¶ ところでかかりつけ医のヒロオカ奴、ひとの顔をみるたびに「もうタバコはやめましたか?」と薄ら笑いを浮かべながら、嫌みたっぷりいう。当世、たれも好きこのんでタバコを吸っているわけがない。単に年期のはいった、あはれなニコチン中毒重症患者なだけだ。だからむしろ同情してほしいのだが、どうもこのごろは社会的に、このあはれな症状を呈する患者にやさしくない。ましてをや、国家までが、卑劣千万、やらずぶったくり、ひとの中毒症状につけこんで、高額な税金まで巻き上げるおそろしい時代だ。ヤツガレほぼ一年ぶりの風邪っぴきだったが、ヒロオカ奴、今回は別のテできた。「タバコがやめられる内服薬がある、社会保険が使える云々……。風邪がなおったら来るように」ト偉そうにのたまう。「当院での治療実績は禁煙成功率80%だ!」ト鼻をピクピクうごめかせる。

¶ ウ~ン、これは蠱惑的かつ誘惑的ではないか。何度も禁煙に失敗し、ましてや風邪で咳がでているのに、タバコを吸っている莫迦にも甘い響きであるな。「禁煙成功率80%!」か。しかしである、あらかじめ20%は失敗する(逃げ道がある)ことになっておるではないか。もし、もしもであるが、吾輩がそっちのグループに入ったら、ヒロオカ奴、喜色満面、それを医学界論文に発表するに違いない。これまでもヒロオカ奴は、吾輩をネタに何本か医学論文を書いたにちがいないと睨んでいる。こんども「65歳・男性・喫煙歴56年・極めて悪質也――薬剤積極投与するも、長年の喫煙の悪癖を脱せず――」かな。ヒロオカ論文調ではな。

◎女性の眉と活字書体の、えもいわれぬ相関関係とは――
ところで諸君、女性の眉と、書体選択が、おもわぬ相関関係にあることをご存知かな。どうせ風邪でポヨ~ンとしているのだから、たまにはこんな話題も如何かな。女性とは、本能のどこか、どうやら触覚が世界規模において優れているようだ。景気とは、所詮 気 のものである。良くも悪くもなったりする。『広辞苑』においても、【景気】 ①様子。けはい。ありさま。景況――である。つまり女性とは世のなかの、気配、ありさま、そして景気波動までをを触覚中心の本能のどこぞで捉え、それをファッションに取りこむ才に優れているらしい。それがさざなみのごとくに波及すると流行となり、ついには景況をも左右するから怖ろしい。吾輩のように、衣食住には関心がないと本気でほざき、十年一日のごとくのドブ鼠ファッションとはえらい違いだ。つまり巷間よくいわれるのが「景気が悪化すると、スカート丈が短くなる」だ。かの英国のツィッギーが典型か。大阪万博のころとおもって欲しい。ミニ・スカートが流行った時代とは、世界規模の不況であった。これはファッション業界では半ば定説となっているそうだ。

¶ ここで女性の眉である。ふるく中国乱世の時代、ひとりの女官が眉を細くして、蛾 ガの触覚のような三日月型の眉を描いたところ、それが食うや食わずの乱世の女性の心を捉え、「蛾眉 ガビ」として、あのひろい中国全土に拡がって、われもわれもと眉を細くしたという。古来、女性とは、なにはともかれ、美しくありといという「美的欲求」にはひどく敏感なのだ。「景気が悪化するとスカートが短くなる」とはファッション界の俚諺リゲンだが、化粧品業界の俚諺リゲンでは「景気が好転すると、女性の眉は太くなる」とされる。おもいおこしてほしい。バブルの1980年代を、美しく、たくましくも駆け抜けていった女性たちは、みな太い眉をしておった。石田ひかりや石原真理子 モトイ 真理恵の眉は驚くほど太かった。W浅野とされた、浅野ゆう子、浅野温子だって、黒々とした眉をしておった。そして景気にかげりが生じた安室奈美恵チャン以降、わが国の女性の眉は細くなったとヤツガレ感じているが如何かな。

¶ ファッションや美容には蘊蓄をのたもう評論家も、自称批評家もいるが、社会の片隅に蟠踞バンキョする「書体印象派」の一部は、女性の眉と活字書体と景気波動の相関性などにはまったく関心をしめさないようだ。しかしヤツガレ、この20年ほど続く世界不況に際しても、書体の流行だけは適切に捉えておった。ただ株式投資は(元手がないから)やらないし、占い師のごとき評論家でもないので、それを己の企業運営――つまり儲けに反映できないのが腹立たしいが。ともあれ、明治の開闢 カイビャク からの活字意匠の変化を追ってくると、演繹法でも帰納法でもなんでもこいだが、ともかくおのずと導きだされる簡単な結論がある。

¶ つまり、「経済不況下においては、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」――である。どうやら世界景気も落ちるところまで落ち、あとは上昇軌道を期待できるところまできたようだ。いまは、夜明け前のもっともくらいときにあるとみている。これからは、「経済好況下においては、活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる―片塩式書体法則2」――がみられるはずだ。活字書体も社会の風潮を背景にしており、決して無縁ではないのである。わかりにくければ、女性の眉とスカート丈に注意することだ。この片塩式書体法則1・2は、おもに、あるいは先行して、商業印刷に反映されるが、ながい尺度でみると、雑誌・新聞などの近接メディアを通じて、図書の印刷用活字書体にも影響をあたえるのだ、友よ! いまはただ女性の眉毛のふとさに注目しよう

昭和初期、長い不況下にあったわが国の書籍印刷用書体――明朝体は、きわめて細くなっていた。
康文社印刷所社主、吉原良三(1896-不詳)は、印刷同業組合の理事として、「変体活字廃棄運動」にも深く関わった人物であるが、同時に「新刻」と称して「細形明朝」の販売に積極的であった。
(『日本印刷大観』昭和13年、差し込み広告)


本文用明朝体は明治末期をピークとして、複製の連鎖のためもあって、昭和前期にはすっかりやせ細っていた。昭和初期の大不況期には、それを逆手にとって「細形明朝」として発売する業者も登場した。図版は細形活字を積極的に製造・販売した康文社印刷所の書体見本。上/新刻九ポイント細形明朝体、下右/新刻五号細形明朝体、下左/新刻六ポイント細形明朝体

¶ バブルとは「それいけ、ドンドン」の時代でもあった。「でっかいことは、いいことだ」と指揮棒をふるったチョコレート会社もあった。重厚長大の、もはや古き良き時代となってしまったが……。活字は写植活字の全盛時代。つぐつぎと新書体が発表されていた時代でもあった。このバブルの直前、株式会社写研から発売された「ナール」は、ウエイトが細く、フトコロを大きくとった、新鮮な丸ゴシック体であった。しかし発表・発売直後に、第1次石油ショックがおそった。この急激な経済環境変化は、のちのバブルの崩壊のように緩慢に作用したのではなく、激震のようにわが国を揺さぶった。もちろん大不況に陥ったが、それでも「ナール」は好感をもって迎えられ、爆発的なヒット書体となった。つまり「ナール」は、製作者の意図とは別に、「不況になると、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」に完璧に合致していたのである。爆発的ヒットはなにも偶然ではないのだ。このころの女性の眉は幾分細かったことはもちろんである。「ナール」はもっとも細いウエイトから出発し、順次ウエイトを太めながらシリーズを形成していった。それでもデミ・ボールド・ウエイトの「ナールD」から以降は、さしたる成績を収めなかった。景気は好況期に入りつつあったのである。

¶ つまり「ナール」シリーズの拡張期の時代は、もはやバブル前期に突入していたのである。「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」の時代である。写研は丸ゴシック系の「ナール」シリーズに代えて、字面が大きく、フトコロのひろい、新ゴシック体「ゴナ」シリーズに注力し、これまたきわめて大きな成果を収めた。しかも「ゴナ」シリーズは「ナール」シリーズとは逆に、最初に極太、ウルトラ・ボールド「ゴナU」が発売され、もっとも好まれたのだ。それがバブル期の書体法則「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」である。それ以後のさざ波のような景気の浮揚期には、写研「スーボ」、「新聞特太ゴシック体 YSEG」、モリサワ「MB-101」などという、極太の書体が、入れ替わり立ち替わりして浮沈していった。2011年のいま、こうしたバブル期に盛大に使用された書体の使用例を見かけることはまずないといって過言ではあるまい。活字書体の選択も、社会風潮や景気の動向を鋭敏に反映しているのである。*書体名は各社の登録商標である。*

¶ 今朝の電車の中吊り広告で、薬品メーカーとアルコール飲料メーカーの広告が並んで掲示されていた。見出し書体は両社とも同じ書体で、丸くて細くてナヨットしたデジタル書体だった。サイズも位置もほぼ同じでおもわず苦笑した。風邪には新ビールが効くのかな? いずれ「片塩式書体法則3」もこのブログロール「花筏」に発表しよう。まぁ、風邪の抜けきれないいまだから、この辺にしようかな。
本日1月25日[火]、晴天なるも寒風つのる。ここにて擱筆。

A Kaleidoscope Report 005 『東京築地活版製造所紀要』紹介

A Kaleidoscope Report 005


資料/『東京築地活版製造所紀要』紹介

ふしぎな資料がある。題して『株式會社東京築地活版製造所紀要』である。
題名が平板だし、パラッとみたときは単なる企業紹介誌かとおもって精読はしなかった。しかも流通部数がよほど少なかったのか、ほとんどの論者がとりあげることがなかった資料である。
だから、この小冊子が、いつ、どこからきて、なぜ稿者の手許にあるのかもわからない。
つまり装本だけはやけに丁寧だが、薄っぺらな小冊子である。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所 昭和4年10月)

本文ページ/四号明朝体  26字詰め  12行  字間五号八分  行間五号全角アキ

冊子の装本仕様は以下のようになっている。

天地184ミリ × 左右127ミリ
大和綴じを模した和装仕上げ
表  紙  皺シボのある薄茶厚手紙、活字版墨1色片面刷り
口  絵  部  5葉
     (裏白片面印刷。塗工紙に石版印刷とみたいが、オフセット平版印刷の可能性あり)
本   文  10ページ(非塗工紙に活字版墨1色両面印刷/活字原版刷りとみたい)
本文組版  四号明朝体 26字詰め 12行 字間五号八分 行間五号全角アキ
刊  記  無し(本文最終行に 昭和四年十月とある)

『株式會社東京築地活版製造所紀要』と題されたこの冊子は、刊記こそないものの、収録内容と活字書風からみて、昭和4年10月に、東京築地活版製造所によって、編輯・組版・印刷されたとみることができる。しかし「紀要」とは、「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」とされる。
もちろん「ことば」は時代のなかで変化するが、本冊子を「紀要」として公刊した意図がみえにくい内容である。つまりこの冊子は、現在ならさしずめ「企業紹介略史」ともいえる内容である。

本ブログロールには、この全文を現代文として釈読し、若干の句読点を付した「釈読版」と、原本のままを紹介した「原文版」を掲載した。
時間が許せば読者にはこの両方をお読みいただきたいが、「釈読版」の一部には、筆者が私見を述べた項目をこれから随時挿入する予定である。したがって本稿を閲覧される読者は、面倒でも「更新アイコン」をクリックしていただきたい。筆者の挿入部分は黒く表示し、釈読部と他文献からの引用部分は青く表示してある。

当時の専務取締役社長は、第六代松田精一(- 調査中)であった。このひとは、東京築地活版製造所の社長であるとともに、長崎の十八銀行頭取でもあったことは本ブログロールでも既述した。
ここでは
まず、『株式會社東京築地活版製造所紀要』が刊行された昭和4年10月前後において、東京築地活版製造所がどのような状況にあったのかを調べたい。つまり同社がなぜ、『株式會社東京築地活版製造所紀要』なる小冊子を、相当の経費をかけてまで製作する必要があったのか、そしてこの冊子が、なぜほとんど一般には流布することなく終わったのか、本冊子製作の真の目的を探るためである。

「東京築地活版製造所の歩み」

(『活字発祥の碑』所収 牧 治三郎 編輯・発行 同碑建設委員会 昭和46年6月29日)

・大正12年(1923年) 3月
東京築地活版製造所本社工場、新社屋完成。地下1階地上4階竣成。

・大正12年(1923年) 9月
関東大震災により築地本社及び月島工場の全設備が羅災。

・大正14年(1925年) 4月
野村宗十郎社長病歿、享年69才、正七位叙賜。

・大正14年(1925年) 5月
常務取締役に松田精一社長就任 [長崎十八銀行頭取を兼任] 。

・大正14年(1925年)11月
『改刻明朝五号漢字』 総数9,570字の見本帳発行。

・大正15年(1926年) 2月
『欧文及び罫輪郭花形見本帳』 を発行(74頁)。

・大正15年(1926年)10月
『新年用活字及び電気銅版見本帳』 を発行。

・昭和 3年(1928年)
大礼記念 国産振興東京博覧会 国産優良時事賞。 大礼記念京都大博覧会、国産優良名誉大賞牌。 御大典奉祝名古屋博覧会、名誉賞牌。 東北産業博覧会、名誉賞牌各受賞。

・昭和 4年(1929年) 9月
『欧文見本帳』 を発行 (68頁)。

・昭和 5年(1930年) 1月
時代に即応し、創業以来の社則を解いて 印刷局へ官報用 活字母型を納品。

・昭和 5年(1930年) 6月
五代目社長 野村宗十郎の胸像を、目黒不動滝泉寺境内に建立。

・昭和 6年(1931年)12月
業務縮小のため 小倉市大阪町九州出張所を閉鎖。

・昭和 7年(1932年) 5月
メートル制活字及び 『号数略式見本帳』 を発行。

・昭和 8年(1933年) 5月
『新細型9ポイント明朝体』 8,500字完成発売。

・昭和 9年(1934年) 5月
業祖 本木昌造の銅像が 長崎諏訪公園内に建立。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。

・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。

・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。

・昭和11年(1936年) 7月
『新刻改正五号明朝体』 (五号格)字母完成活字発売。

・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。

・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において 会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。

これは「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』のパンフレットに、牧治三郎がのこした記録である。年度順に簡潔に述べてあるが、もうひとつ当時の活字鋳造所、東京築地活版製造所の状況や苦境がわかりにくいかもしれない。
つまりこの『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、すでに同社が主力銀行/第一銀行、十八銀行の資力だけでは到底支えきれない窮状にあり、別途に主力銀行を選定し、その支援をもとめるために製作されたものだとみられるからである。

東京築地活版製造所は創立者・平野富二の時代から、渋澤榮一との縁から第一銀行、そして松田源五郎との縁から長崎の十八銀行とは密接な関係にあったが、それでもなお資金不足に陥ったということであろう。
『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、東京築地活版製造所の創立から、昭和4年(1929)までの「企業正史」を目論んだとはいえ、創立当時の内容は、ほとんど第1次『印刷雑誌』(明治24年・1891)「本木昌造君ノ肖像并行状」、「平野富二君ノ履歴」を一歩もでることがない資料である。

金融関係の資料であるから、明瞭な公開資料は乏しいが、東京築地活版製造所が解散・閉鎖された際の主力銀行は★日本勧業銀行と、第一銀行であったとする資料がのこされている。
また株式会社★第一銀行は、かつて存在した日本の都市銀行である。統一金融機関コードは0001、前身の第一国立銀行は国立銀行条例による国立銀行(民間経営)、いわゆるナンバー銀行の第一号、渋澤榮一が第一代頭取で、明治6年(1873)年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である。1971年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となる。現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行である。

ここで渋澤榮一(1840-1931)に若干触れたい。
渋澤は東京築地活版製造所創立者の平野富二とは昵懇であり、これもやはり平野富二の創立にかかる株式会社 I H I の主要取引銀行であり、主要株主としてみずほ銀行グループがいまも存在するからである。
渋澤は天保11年(1840)武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。はじめ幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営した。また王子製紙の創立者でもある。ほかにも紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業の設立に関与し、財界の大御所として活躍した。
渋澤は長寿をたもち、引退後は社会事業、教育に尽力した。昭和6年(1931)に歿した。すなわち東京築地活版製造所が本当に苦境にあったとき、すでに最大の支援者・渋澤榮一は卒していたのである。

いずれにしても、東京築地活版製造所は『株式會社東京築地活版製造所紀要』発行後まもなくから、主要取引銀行に、第一銀行・十八銀行にかわって、日本勧業銀行が徐々にその中枢を占めるにいたった。
もしかすると、東京築地活版製造所第五代社長であり、中興のひとともされる野村宗十郎の積極作戦が、過剰設備投資となり、同社の経営を圧迫したのかもしれない。
また新築の本社工場ビルが移転作業の当日に関東大地震に見舞われるという、大きな被害を回復できないままに終わったのかもしれない。

長崎のナンバー銀行/十八銀行頭取を兼任していた東京築地活版製造所第六代社長:松田精一が昭和10年(1935)6月に辞任後は、同社における伝統ともいえた根強い長崎系の人脈・血脈が細ったとみることが可能かもしれない。
すなわち牧治三郎の記述によると、「もと東京市電気局長」大道良太専務取締役(詳細不詳)が第七代社長として就任した。しかしながら、同年同月には大道に代えて吉雄永寿(詳細不詳ながら長崎人とみられる)を専務取締役・第八代代表に選任している。

当然ながらこの唐突な人事の裏には相当の争い ── 日本勧業銀行系と、第一銀行、十八銀行による主導権の争奪があったとみることが可能である。もともと吉雄姓は長崎には多く、新街私塾塾生名簿にも登場する姓であるが、新街私塾塾生名簿は幼名でしるされているため、まだその人物を特定できない。しかしながら、この唐突な吉雄永寿の専務取締役社長就任は、長崎人脈への経営権の奪還とみなせるので、この時点ではまだ日本興業銀行は主導権を全面的には奪取していなかったとみたい。

昭和12年(1937)11月、吉雄永寿(詳細不詳)専務取締役・第八代社長が辞任した。この後任には、
「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の ── 牧治三郎」阪東長康専務取締役第九代社長が就任した。そして宮内省関係者であって、国家権力構造と密接な関係があったとみられる阪東長康が、どこかから ── 稿者は日本興業銀行とみなす以外にはないとおもうが ──「派遣」され、その指揮下、就任からわずかに5ヶ月後、昭和13年(1938)3月、東京築地活版製造所は社員の嘆願も空しく、日本商工倶楽部での臨時株主総会において会社解散を決議した。
「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の ── 牧治三郎」東京築地活版製造所専務取締役・第九代社長阪東長康は栄光の歴史を誇った東京築地活版製造所を売却する使命をおびて「派遣」されたとしかみることができない人事とみるのは酷であろうか。
いずれにせよ、ついに東京築地活版製造所はここに明治5年(1872)以来の栄光の社歴を閉じることになった。

ここで奇妙な事実がある。業界トップの企業であり、有力な広告主でもあった東京築地活版製造所の動向は、当時の印刷業界紙誌は細大漏らさず記録していた。ところが昭和10年ころから、同社の動向は業界紙誌にほとんど登場することがなくなった。
そして、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部での臨時株主総会において一挙に会社清算解散を決議。従業員150余人の歎願も空しく、一挙に解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧業銀行から現在の懇話会館に売却され、 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。── この間の詳細は記録されないままに終わった。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』は同社の解散に先立つこと9年5ヶ月前の記録である。そして解散決議後、同社の土地・建物は、債権者の日本勧業銀行から現在の懇話会館にまことにすみやかに売却された。
それに際して、当時はたくさんあった印刷・活字業界関連紙誌は、東京築地活版製造所の業績や消長を丹念に細大漏らさず紹介していたのに、なぜか「東京築地活版製造所解散」の事実を、わずか数行にわたって報道しただけで、一切の媒体が奇妙な沈黙を守っている。
どこからか、おおきな圧力があったとしかおもえないし、稿者がもっともふしぎにおもうのはこの事実である。

牧治三郎は、この『活字発祥の碑』パンフレットのほかに、『活字界』にも当時の東京築地活版製造所のなまなましい記録をのこしているので、再度紹介しよう。

*     *     *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』(編輯・発行 全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 〔大阪活版製造所社長を兼任〕、 曲田 成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [平野]造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25―6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。
社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治27―8年戦役 〔日清戦争〕の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の〔活字〕 鋳造機は、手廻機 〔手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機〕 120台、米国製トムソン自動〔活字〕 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 〔活字〕鋳造機〔詳細不明。 調査中〕1台で、フユーサー機は日本〔製の活字〕母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 〔した。その〕後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀〔勧業銀行〕から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 〔 い〕にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
〔はなしが〕前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で〔はあるが〕、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易〔学〕でいう鬼門〔裏鬼門にあたるの〕だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版〔東京築地活版製造所〕の重役で、〔印刷機器輸入代理店〕西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

※ 東京築地活版製造所の正門が「写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易〔学〕でいう鬼門〔裏鬼門にあたるの〕だそうである」とした牧治三郎の記述には『活字界』が発行された昭和45年当時の活字業界人を震撼させた。
牧治三郎は東京築地活版製造所の新ビルの正門を「南西の角、すなわち裏鬼門」と記述し、稿者にも語っていたが、近年の資料発掘によって、正門は万年橋方向ではなく、祝橋方向に向いており、むしろ北西の方向にあたることが判明した。なんらかの事実誤認があったとみられるにいたっている。

次の〔東京築地活版製造所第六代社長〕松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、たれが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 〔で〕 の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 〔に〕解散廃業を決議して、土地建物は債権者の勧銀〔勧業銀行〕から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

受賞経歴

東京築地活版製造所の象徴的存在・本木昌造

第1代代表/平野富二 第2代社長心得/本木小太郎(写真には掲載されていない) 第3代代表/曲田 茂 第4代代表/名村泰蔵 第5代代表/野村宗十郎

小図:明治7年の同社 大図:明治37年の同社

小図:第5代代表/松田精一 大図:昭和4年ころの同社

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株式会社東京築地活版製造所紀要
[釈 読 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

◎  活版製造の元祖 ◎

本邦における活字製造の元祖は東京築地活版製造所であるとあえて申しあげさしていただきます。社は明治六年〔一八七三〕七月、営業所を東京京橋区築地二丁目に設け、爾来 ジライ 一意改善に向かって進み、ここに五〇有余年〔1873-1929年、およそ56年〕、経営の堅実、基礎の強固となったことは、つとに世人セジン〔世のなかのひと〕より認められている所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造 モトギ-ショウゾウ 翁であります。まずその事績からお話しいたします。

氏は文政七年〔一八二四〕六月九日、肥前ヒゼン〔旧国名、一部はいまの佐賀県、一部はいまの長崎県〕長崎に生まれました。本木家は徳川幕府に仕えて、阿蘭陀通詞 オランダ-ツウジの職を執っていましたが、弱冠にして父の職を継ぎました。時あたかも外国船の来航ようやく頻繁となり、鎖港あるいは攘夷など、世論は紛々たるの時にありました。翁は静かに泰西 タイセイ〔西洋〕諸国の文物の交流の状態を探り、遂に活字製造のことに着眼しました。勤務の余暇にはいつも泰西の印刷術を見て、その印刷の精巧なることに感嘆して、わが国をして文化の域に至らしめるためには、このように鮮明な活字を製造して、知識の普及を計らなければならないと決意しました。

それ以来これを洋書の中に探ったり、あるいは来航した外国人に質問したりして、常にあらざる苦心をした結果、数年で少々その技術を会得し、嘉永四年〔一八五一〕ころに至って、はじめて「流し込み活字」〔流し込み活字は後出するが、どちらもハンド・モールドとされる素朴な活字鋳造器を用いた活字とみられる〕ができあがりましたので、その活字によって『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』と題する一書を印行して、これを蘭国 オランダ に贈りましたところ、おおいに蘭人の賞賛を博しました。これが本邦における活字鋳造の嚆矢 コウシ、ハジマリ であります。
〔このパラグラフの既述には、ながらく議論があった。すなわち嘉永4年・1851年という年代が早すぎるという説。数年前まで「流し込み活字」の実態が不明だったこと。『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』なる書物が現存せず、この既述の真偽を含めて議論が盛んだったが、いまだ定説をみるにいたらない〕

しかし翁は、流し込み活字による活字製作の業をもって足りるとせず、益々意を活字鋳造のことに傾けて、文字を桜やツゲの板目に彫ったり、あるいは水牛の角などに彫って、これを鉛に打ちこみ、あるいは鋼鉄に文字を刻して、銅に打ちこんだりと、様々に試みましたが、原料・印刷機械・インキなどのすべてが不完全なために、満足のいく結果をみるにはいたりませんでした。

たまたま明治年間〔1868年1月25日より明治元年〕にいたって、米国宣教師姜氏〔後出するウィリアム・ガンブルの中国での表記は姜別利 ガンブル である。すなわち、米国宣教師姜氏と、上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏とは同一人物とみなされる。ながらくこの事実が明らかにならず、混乱を招いた〕が上海にあって美華書館 ビ-カ-ショ-カン なるものを運営しており、そこでは「ガラハ電気」で字型〔活字母型〕をつくり、自在に活字鋳造をしていることを聞き及び、昇天の喜びをもって門人を上海に派遣して研究させようと思いましたが、姜氏らはこれを深く秘して示さなかったので、何回人を派遣しても、むなしく帰国するばかりでした。

しかしながら、事業に熱心なる本木氏は、いささかも屈する所無く、なおも研究を重ね、創造をはやく完成しようと計画していた折り、薩摩藩士・重野厚之丞シゲノ-アツノジョウ氏〔維新後政府の修史事業にあたる。文学博士・東京大学教授/重野安繹シゲノ-ヤスツグ 1827-1910〕が薩摩藩のために上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)、及びワシントン・プレスという、鉄製の手引き印刷機が用を成さずに、空しく倉庫にあることを聞き、早速それらの機器の譲渡を受けて様々に工夫をこらしました。

それでもまだ十分なる功績を挙げることができずにいましたが、当時上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏が、任期が満ちて帰国することの幸いを得て、これを招聘 ショウヘイ して長崎製鉄所の付属施設として、「活版伝習所」を興善寺町の元唐通事会所跡〔現在の長崎市立図書館〕に設けて、活版鋳造および電気版の製造をはじめました。このようにして活字製造の事業はいささかの進歩をみるにいたりました。

◎ 東京築地活版製造所 ◎

長崎製鉄所の付属施設であった「活版伝習所」にあった者が、のちに二つに分れて、ひとつは長崎新町活版所となって、その後、東京築地活版製造所、および、大阪活版製造所を創始しました。またもうひとつは、長崎製鉄所と共に工部省に属し、明治五年〔1872〕東京に移って勧工寮活版部となり、のちに左院活版課と合して太政官印刷局となり、さらに大藏省紙幣寮と合して印刷局〔現、独立行政法人・国立印刷局〕となったのであります。

明治四年〔1871〕夏、本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月、活字の販路を東京に開かんと思いまして、若干の活字を携えて上京しました。当時東京にも同業者はありましたが、何れも「流し込み」と称する〔素朴な活字鋳造器、ハンド・モールドによった。いっっぽう平野富二らは、これを改良したポンプ式ハンド・モールドと従来型のハンドモールを併用したとされる〕不完全な方法でできたものであって、しかもその価格は、五号活字一個につき約四銭であったのを、氏はわずかかに一銭宛で売りさばきましたので、需要者は何れもその廉価であって、また製造の精巧なることに驚嘆しました。
同年文部省の命を受け、活版印刷所を神田佐久間町の旧藤堂邸内(現・千代田区和泉町一)〔神田佐久間町は現存する。秋葉原駅前から数分、現和泉小学校、和泉公園の前、旧藤堂藩上屋敷に隣接した町人地であった。現在の神田佐久間町は商住地である〕に設けました。

翌明治六年〔1873〕に至り、いささか販路も拓け、工場の狹隘を感じましたので、七月京橋築地二丁目へ金参千円を費やして仮工場を設けました。同七年〔1874〕には本建築をなして、これを震災前 〔関東大震災 大正12年9月1日、1923〕迄事務室として使用していました。
同八年〔1875〕九月、本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。

明治九年〔1876〕には更に莫大なる費用を投じて、煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年〔1879〕)活字改良及その他工業視察のために、社員曲田 成 マガタ-シゲリ を上海に、本木翁の一子、本木小太郎氏を米国および英国に派遣しました。

明治十五年〔1882〕に至り、政論各地に勃興して、いたるところで新聞・雑誌の発刊を競うようになって、活字および印刷機械の用途はすこぶる活況を呈すようになりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので、同十六年冬に石版[印刷]部を設置し、翌十七年、さらに〔活字版〕印刷部を設けて、石版・活版の〔平版印刷と凸版印刷の〕両方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れるようになりました。

明治十八年[1885]四月、合本会社(株式会社)組織に改組することに決して、平野富二氏を挙げて社長に、谷口默次氏〔大阪活版製造所社長を兼任〕を副社長に、松田源五郎〔長崎・十八銀行頭取〕、品川東十郎〔本木家後見人格〕の二氏が取締役として選任せられました。〔ここに挙げられた人物は、すべて長崎出身者である。すなわち東京築地活版製造所はきわめて長崎色のつよい企業であった〕

明治二十二年〔1889〕六月、平野氏社長の任を辞しましたので、新帰朝者・本木小太郎氏がかわって社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏が〔お目付役兼任として〕取締役として選ばれました。
同二十三年一月、本木〔小太郎〕氏辞任によって、支配人曲田成氏がかわってその社長の任に就きました。〔本木小太郎の社長心得期間は半年間。結局小太郎は社長には就任せず、その後は旧新街私塾系の人物のもとを放浪し、その最後は、谷口黙次の次男で、三間家に入り、東京三間ミツマ印刷社長となった三間隆次の家で逝去した。三間家は現・銀座松屋のあたりとみられている〕

明治二十六年〔1893〕十二月、我国の商法の実施に依りまして、社名を株式会社東京築地活版製造所と改めました。翌二十七年十月曲田社長病歿し、そのために名村泰藏 ナムラ-タイゾウ 氏が専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業を督励した結果、事業は発展し、明治三十九年六月、資本金を二十萬円としまして、日露戦役〔明治37-38 1904-05〕後の事業発展の経営に資する所といたしました。四十年九月名村社長病に殪 タオ れました。よって取締役野村宗十郎氏が選ばれて専務取締役社長となったのであります。

〔野村宗十郎〕氏は当社中古の一大異彩でありまして、明治二十三年〔1890〕入社以來献身的な精神をもって事に臨み、剛毅果断ゴウキ-カダン、しかも用意周到で、自ら進んで克くその範を社員に垂れました。社務の余暇にも常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず、遂に我邦最初のポイントシステムを創定して、活版界に一大美搖をあたえたのであります。そのために官は授くるに藍綬褒賞を以てして、これが功績を表彰せられたのであります。

そのほかにも印刷機械の製作ならびに改良の目的をもって、明治四一年〔1908〕三月、東京市京橋区月島西仲通に機械製作工場を設けたり[月島分工場のこと。実際は名村泰蔵が十年がかりで建造にあたった。大正十二年九月一日、関東大震災で焼失〕、活字販路拡張のために、明治四十年一月大阪市西区土佐堀通り二丁目に大阪出張所を、さらに大正十年〔1921〕十一月三日、小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、その事蹟は枚擧に遑 イトマ ないほどでありました。

かくして〔野村宗十郎〕氏の努力は、日に月に報じられてきた時恰 トキ-アタカモ、大正十二年九月一日、千古比類のない大震災に遭いまして当社の設備はことごとく烏有 ウユウ に帰してしまったのであります。〔この日、東京築地活版製造所は新社屋が落成し、まさに移転作業の最中に罹災した。幸い新築の新社屋は軽微な被害であったが、月島の機械工場は全面罹災し、活字鋳造機、活字母型、その他印刷機もほとんどが焼失した。また焼失を免れ、改造をほどこされた新社屋も、その正面入口が鬼門だとのうわさが絶えず、後継の歴代社長はそのうわさに脅かされることになった〕

剛毅に富んだ〔野村宗十郎〕社長は、毫ゴウも屈せず益益鋭意社業を督して日夜これが復興に盡瘁ジンスイせられた結果、着々曙光を認め大正十三年〔1924〕七月十九日、鉄筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣なお灰燼の裡ウチに、屋上高く社旗を翩翻ヘンポンとさせるにいたりました。その業漸く成らんとするに際し、大正十四〔1925〕年四月二十三日、享年六十九才をもって逝去されました。

大正十四年〔1925〕六月、取締役松田精一〔長崎・十八銀行頭取を兼任〕氏、選ばれて社長に就任せられ、同年九月資本金を倍加して金六拾萬円とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

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株式会社東京築地活版製造所紀要
[原 文 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

株式会社東京築地活版製造所紀要
活版製造の元祖

本邦に於ける活字製造の元祖は東京築地活版製造所であると敢て申上げさして頂きます。社は明治六年七月榮業所を東京京橋區築地二丁目に設け爾來一意改善に向つて進み、茲に五十有餘年、經榮の堅實、基礎の鞏固となつた事は夙に世人より認めらるる所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造翁であります。先づ其事蹟から御話致します。

氏は文政七年六月九日肥前長崎に生まれました。本木家は世々幕府に仕えて和蘭陀通詞の職を執つて居ましたが弱冠にして父の職を繼ぎました。時恰も外船の來航漸く繁く鎖港或は攘夷等と世論紛々たるの時に當りまして、靜かに泰西諸文物隆興の狀態を探り遂に活字製造の事に着眼しました。勤務の餘暇常に泰西の印刷術を見て其の印刷の精巧なるに感歎し、我國をして文化の域に至らしめるには此の如く鮮明な活字を造つて智識の普及を圖らなければならないと決意して、以來之を洋書中に探つたり、或は來航外人に質問したりして非常の苦心をした結果數年で稍々會得し、嘉永四年の頃に至つて始めて流込活字が出來上りましたので「和蘭陀通辯書」と題する一書を印行して之を蘭國に送りました所、大いに蘭人の賞賛を博しました。之れ本邦に於ける活字鑄造の嚆矢であります。然て活字製作の業之を以て足れりとせず氏は益々意を鑄造の事に傾けて、或は文字を櫻、黃楊の板目、又は水牛角等に彫つて之を鉛に打込み、或は鋼鐵に刻して銅に打込んで種々試みましたが原料、印刷機械、インキ等總べて不完全な爲めに満足な結果を得るに至りませんでした。

偶々明治年間に至つて米國宣教師、姜氏が上海に在つて美華書院なるものを設立して[ガラハ(電氣)]で字型を造り自在に鑄造をすると聞いて昇天の喜びを以て人を上海に派して研究させ様と思いました所が、彼れは深く秘して示さぬので幾囘行つても失敗して空しく歸國するばかりでした。

然し事業に熱心なる本木氏は聊かも屈する所なく尚も研究を重ね創造を早からしめ樣と計畫の折柄、重野厚之亟(文學博士重野安繹氏)が薩藩の爲め上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)及印刷機械(ワシントン・プレス)が用をなさぬと云つて空あしく庫中に藏してあると聞き、早速之を譲受け種々工夫をこらしましたが未だ充分なる功績を上げ得ぬので、當時上海の美華書院活版技師ガンブル氏の滿期歸国を幸い之を傭聘し長崎製鐵所附属として活版傳習所を興善寺町元唐通事會所跡に設けて活版鑄造及電氣版の製造を始めました。かくて活字製造の業稍々進歩を見るに至りました。

東京築地活版製造所
活版伝習所に在った者が後に二つに分れて、一は長崎新町活版所となって其の後、東京築地活版製造所及大阪活版製造所を創始しました。一は製鐵所と共に工部省に属し明治五年東京に移って勧工寮活版部となり後ち左院活版課と合して太政官印刷局となり更に大藏省紙幣寮と合して印刷局となったのであります。

明治四年夏本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月活字の販路を東京に開かんと思いまして若干の活字を携えて上京しました。當時東京にも同業者はありましたが何れも流込と称する不完全な方法で出来たものであって然も其値も五號活字一箇に付約四錢であったのを氏は僅かに壹錢宛で賣捌きましたので需要者は何れも其廉価であって又製造の精巧なるのに驚嘆しました。同年文部省の命を受け活版印刷所を神田佐久間町舊藤堂内(現今和泉町)に設けました。

翌六年に至り稍々販路も拓けまして工場の狹隘を感じましたので七月京橋築地二丁目へ金参阡餘圓を費して假工場を設けました。同七年には本建築をなして之を震災前迄事務室として使用して居ました。同八年九月本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。明治九年には更に莫大なる費用を投じて煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。

社は率先して(明治十二年)活字改良及其他工業視察の爲め社員曲田成を上海に、本木翁の一子小太郎氏を米國及英國に派遣しました。明治十五年に至り政論各地に勃興して到る處新聞雑誌の発刊を競う様になって活字及印刷機械の用途は頗る活況を呈す様になりました。
同時に印刷の需用も盛んになりましたので同十六年冬に石版部を設置し、翌十七年更に印刷部を設けて石版活版の兩方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れる様になりました。
明治十八年四月合本會社(株式會社)組織の事に決して平野富二氏を擧げて社長に、谷口默次氏を副社長に、松田源五郎、品川東十郎の二氏が取締役として選任せられました。

明治二十二年六月平野氏社長の任を辭しましたので新歸朝者本木小太郎氏代て社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏取締役として選ばれました。同廿三年一月本木氏辭任に依り支配人曲田成氏代て其任に就きました。

明治廿六年十二月我國商法の實施に依りまして社名を株式會社東京築地活版製造所と改めました。翌廿七年十月曲田社長病歿し爲めに名村泰藏氏専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業督勵の結果事業發展し、明治三十九年六月資本金を弐拾萬圓としまして日露戦役後の事業發展の經營に資する所と致しました。

四十年九月名村社長病に殪れました、依て取締役野村宗十郎氏選ばれて専務取締役社長となったのであります。氏は當社中古の一大異彩でありまして、明治廿三年入社以來獻身的精神を以て事に臨み、剛毅果断、而かも用意周到で自ら進んで克く其範を社員に垂れました。
社務の餘暇常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず遂に我邦最初のポイントシステムを創定して活版界に一大美搖を興えたのであります。爲めに官は授くるに藍綬褒賞を以てし之れが功績を表彰せられたのであります。
其他印刷機械の製作並に改良の目的を以て明治四一年三月東京市京橋區月島西仲通に機械製作工場を設けたり、活字販路擴張の爲め、明治四十年一月大阪市西區土佐堀通り二丁目に大阪出張所を更に大正十年十一月三日小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、其事蹟枚擧に遑ない程でありました。

斯くして氏の努力日に月に報じられて來た時、恰も大正十二年九月一日千古比類のない大震災に遭いまして當社に富んだ社長は毫も屈せず益々鋭意社業を督して日夜之れが復興に盡瘁せられた結果着々曙光を認め大正十三年七月十九日鐵筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣尚ほ灰燼の裡に屋上高く社旗を翻するに至りました。其の業漸く成らんとするに際し大正十四年四月二十三日享年六十九才を以て逝去されました。

大正十四年六月取締役松田精一氏選ばれて社長に就任せられ同年九月資本金を倍加して金六拾萬圓とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

朗文堂 ― 好日録006 達磨輪廻転生の世界へ 月映 藤森静雄をみる

朗文堂-好日録 006

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《 いただいたダルマで 輪廻転生リンネ-テンショウ の世界に突入か 》
¶ カレンダーがあたらしいものにかわった。西暦2011年、平成の御代も数えて23年になった、ト、ここで年号をなんとか確実に覚えようとしている。
ことしは大正元年から数えて100年、もし昭和の御代が続いていれば昭和86年となる。よくわからないが、まことにめでたいことである。

2009年11月  宇都宮駅で無償配布されていたダルマ

¶ だが、もともと冠婚葬祭はできるだけご容赦を、ト念じているから、本音では祭のひとつ、正月を、さほどめでたいとはおもっていない。 むしろ、きょうとおなじ、あすがあって欲しいと願う。 しょうがない、つぎの正月まで、またポチポチやるか、という程度だ。

¶ 2010年最後の日、31日[金]も出勤した。 電話はちっとも鳴らないし、@メールもほとんど着信なし。 みんないったいどこにいったのだ。 そうか、年末年始休暇だとおもいあたる。
だからなんとなく(かえって)リズムが狂って、まとまりがないまま時間がすぎた。
夜更10時半退勤。 ちかくの「あおい書房」がまだ開いている時間だ。 そこで休日用の文庫本を購入。司馬遼太郎 『この国のかたち 4 ・ 5 ・ 6 』、宮城谷昌光ミヤギタニ-アキミツ 『三国志 1 ・2 ・ 3 』。
司馬さんの連載は、初出 『 月刊 文藝春秋 』 のときから読んでいる。上製本、文庫本と読んできたが、ぼろぼろになったので、また買った。

¶ 上製本はとっておくが、雑誌と文庫はどちらかというと睡眠導入剤。  だからすぐにぐちゃぐちゃになる。
やつがれ、もし文庫本が 「 電子出版 」 になったらまことに困る。 現状の文庫本や雑誌は、夜ごと、枕の下に埋もれ、尻や出っ腹に敷かれ、毛布と布団と敷布の間で行方不明になり、足蹴にされて布団からずり落ち、ときにはよだれでベトベトになっている。

それでもよい、頑丈、かつ、万に一つでも よだれによる感電事故などがない、また最低限の組版規範を達成した 「 電子機器 」 に成長したら、槍でも鉄砲でも 「 電子出版 」 でもなんでも良いぞ。  おそらくそんなものは当分登場しないから、いまのところはとりあえず、文庫を顔にのせて惰眠をむさぼるか。

¶ 帰宅後すぐに 『 この国のかたち 』 を読みはじめた。 久しぶりの司馬節、司馬史観に夢中になって03冊とも読了。 やはりこのひとは凄いな、ト 改めて脱帽。
このひと、いまにありせば、この乱世をいかに喝破するかとおもう。 かくするうちに しらじらと夜があけ、新年になっていた。
アダナ・プレス倶楽部 「 餅プレス大会 」 の折りの冷凍餅をチンして、マッタリおいしい大阪昆布の佃煮と食す。 旨し。  リポビタンD 1 本グビリ、これこそまことにもって、優雅なお節セチとお屠蘇トソではないか、ト 吾輩 初春にあたり 独居しておもう。

¶ 朝まだきの室外にでて、空中庭園で一服つけたら、おもわぬことに、黄色い花が一輪咲いていた。 「 こいつは春から、ほんとうに縁起がいいわい 」、ト 写真機でパチリ。
それにしてもコイツはどこから来て 植木鉢の真ん中を占拠して、どうしてこんな日に初花をつけたのかふしぎだ。 もちろん名もしらぬ。 花は蒲公英タンポポに似るが、草丈は 50 cm ほどもある。 吾輩の空中庭園には雑草という名のあはれな艸はない。 むしろすべてが雑草ともいえる 。だから コレハ ナンダ とおもったが、放っておいただけのこと。

¶ 元旦から駅伝をテレビでみる。  オフサカ-ゲーニン-録画版-莫迦嗤い-番組 はみない。
実業団の駅伝はかなり熱くなったが、学生の箱根駅伝はあまりにショーアップされて燃焼不足。 体育会学生がついにゲーニンになったのかナ。 アナウンサーの絶叫もチトうるさい。
だから往路はみたが、復路はパス。 ミヤギタニ文庫版 『 三国志 』 を手にする。 ここのところ北方謙三 『 揚家将 』  『 水滸伝 』 『 揚令伝 』 にすっかりはまっていた。
現在はいったい何巻になるのかわからない 『 史記 』 を、刊行されるたびに、待ってました ! と購入。 ケンゾウめ、司馬遷の名作をここまで勝手に改竄、断裁するのかとおもう。 えれぇ筆力だ、ト 呆れるばかりなれど、やめられない。

¶ もちろん ケンゾウ 『 三国志 』 もすでに読んでいた。 そんなケンゾウ節のせいもあって、久しぶりのミヤギタニに、すぐには入りこめなかった。それでも20ページほども読み進めると、すっかりミヤギタニに捉まったから単純なものだ。 このネットリ絡みついて離さない、大蛇アナコンダのような文体も味がある。 結局外出時も鞄に入れて持ち歩き、休暇中に読了。

凄い人混みの川越大師喜多院の達磨市

¶ そこで凡人、01月03日[月 正月休暇]、箱根駅伝観戦を早早に中断。 帰京したノーガク部と、川越喜多院の達磨市にでかけた。 このダルマは一昨年11月、宇都宮駅で偶然 「 高崎ダルマ市 」 を開催していて、無償配布をうけたもの。
俚諺 リゲン にいうぞ、「 タダほど高いものはない 」 ト。 まったくそのとおりで、ちょっとした願いごと (ささいなものだ、内緒だけど) をして片目を入れておいたら、昨年年末にめでたく念願成就とあいなった。 だから両目に墨がはいったが、サテその処分に困惑した。
信心などほとんどないが、「 このダルマさんを、まさか燃えるゴミにはだせないなぁ 」 ということで、Website で調べて、一番近く、休暇中にダルマ市を開催している川越にでかけた。

¶ びっくりした。東武線川越駅を降りたら、いきなりそこから長い行列。 「 喜多院 達磨市 専用往復バス切符 」 を売っていた。 行列の後尾についてようやく切符を買って、ピストン輸送の満員バスになだれ込むように乗り込む。
喜多院についたらますます押すな押すなの人混み。 人にアタル(中毒する)たちのやつがれは、もう青息吐息、酸素欠乏症状を呈する。 ラッシュアワーの通勤電車の比じゃない。 ただただうしろから突きとばされてあるく仕儀となる。

¶ 捨てにきた モトイ  お納めにきたダルマだから、べつに潰れても構わないはずだが、吾輩、なぜか後生大事にダルマを抱えてあるく。「達磨納め所」 の立札をみつけてそこに猛進。
道中、やはりことしのダルマも要るな、 ト おもいつく。 あたらしいダルマを購入。 衝動買い。 これでは輪廻転生 リンネ-テンショウ、来年もまたまた川越に来なくてはならなくなった。
つまり、結局のところ、タダでもらった達磨が ―― おそらく業者の狙いどおり、有料の新品に変わっていた。 <ウ~ン、ダルマ屋長期販売戦略か>。 しかも 「 達磨納め所 」 で志納金投入。交通費、食費その他を考慮するとかなりのもの。

¶ それでも餅ばかり食していたので、人混みをかきわけ、あちこちの屋台で怪しげなものをさまざま食した。 「 じゃがバター」 は旨かった。 ジャガイモを蒸かして、そこに一斗缶に入った 「 バター付け放題 」 だった。が、これはバターというよりマーガリン以下のシロモノ、黄色いなにか油の一種か。 むかしの学校給食のジャムバターをおもいだした。
さらに「たこ焼き」、「牛串 ―― 和製シシカバブー」、「お好み焼き」などを、ノー学部が得意げにつぎつぎと買ってくるママ食す。それにしても、あの人混みのなかで、よく喰いまくったなぁ。

新旧のダルマ。どちらが美男におわすか?

ダルマ納め所で、小さいながらも頑張る吾輩のダルマ。

¶ 昨年一年間、毎日にらめっこしてきた高崎ダルマとのお別れに、新旧の達磨をもって祠の裏に入りこんで記念撮影パチリ。 よくみたら高崎ダルマは小ぶりながら、彫りが深いお顔立ちで、なかなかの美男におわしました。 だから別れがたいおもいもある。
新人 ・ 川越大師のは、顔がでかく、彫りが浅い顔立ちで、なんとなくロンパリ ・ メンタマだった。 眉宇ビウ のあたりもきもち迫力に欠けるかな。 まぁこんなものかと納得。

¶  高崎ダルマをもって 「達磨納め所」 に入る。 うずたかく積まれたダルマがあった。 みんなが大願成就で両目を入れていたし、裏面には願文があった。 ほとんど無病息災、家内安全などと平凡だったが、なかに 「一攫千金 イッカク-センキン」 という、おそろしいのか、はたまた図々しいのかわからん願文を書き、両目を入れたおおきなダルマを発見。
その上にやつがれ高崎ダルマを鎮座させた。「一攫千金」 を成就したひとは、宝くじをあてたのか、泥ボーにはいったのかしらないが、メンタマも眼をむくようにでかかった。 その上に鎮座したのだからことしは凄いぞ。

¶ それにしても、この人混みの民草は、儚ハカナき願望をいだき、そのささやかな成就を謳歌しておるというのに、なぜにマス ・ メディアは、めでたい正月早早、口角泡を飛ばし、性事 モトイ 政治と金、性事 モトイ 政治不信、オザワ問題などと、十年一日、いつまでたっても (毎年 ・ 毎月 ・ 毎時) おなじことどもを、飽きもせで、たんなる繰り言をならべたて、セージの足を引っ張って得意になっておるのか。
すべてのつまらんギョー-カイ-ジンどもよ、雁首揃え 「 川越 喜多院 達磨市 」 へ詣るべし。
そしてアチチアチチの 「じ ゃがバター」 を食すれば、諸君のつまらんヒステリーや、欲求不満も解消するはずだ。 ともかくうるさいんだよ、あなたがたギョー-カイ-ジンは ネ。

宇都宮美術館外観(同館案内より)

《 あくまでも美術館にいったのだ、餃子を食しにいったのでは無いはずだ が 》
¶ 01月04 日[火 ・ 赤口・ 正 月休暇]、宇都宮美術館 「日本近代の青春 ―― 創作版画の名品」 展にいく。 ここはともかくゆったりとした時間が流れているから好きだ。 おまけに帰りがけには名物デッカイ餃子も喰えるしな。
さすがに正月、駅からの宇都宮美術館行きのバスはまったく貸し切り状態。 されど駐車場は栃木 ・ 宇都宮ナンバーの車でいっぱい。地 元客の来館者がおもいのほか多かった。

¶ 版画の印刷版と印刷方式にこだわった丁寧な解説におどろく。 ようやくここまできたか…… のおもい。 明治以降の木版画の多くは、バレン刷りではなく機械刷りであった。 印刷用の版、印刷版を理解してくれたようで欣快のおもい。 詳細省略。
「月映 ツクハエ」 にあらためて感動。 いずれ恩地孝四郎邸訪問記をアップの予定。 写真は同館案内パンフレットのもの。01点だけ、ちょいと藤森静雄を気取った、影印のある風景をパチリ。

明るい樹林に夕陽が射しこんでいた。

¶ 01月10日[月 ・ 成人の日 ・ 祝日]、正月明けから、05,06, 07日と営業したが、どこか間抜けな週であった。 バタバタしただけで、なにもまとまらずに時間だけが過ぎた。 まぁ暖機運転というところか。
01月11日[火 ・ 鏡開き]、いよいよ朗文堂も本格始動。 この週、すでにスケジュール表に余白無くビッシリ。

本日01月11日、一点の雲無き快晴。されど気温10度と寒し。
正月は終わった、燃えねばならぬ。

花こよみ 007

花こよみ 007

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

はつ春に 咲くやこの花 名をしらず

よみし ひとを しらず

花こよみ 006

 

花こよみ 006

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。 

ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな

      正岡子規(俳人・歌人 1867-1902)「小園の記」より

¶ ようやく  A Kaleidoscope Report 004  をアップした。Kaleidoscope(万華鏡)の連載は、いよいよ「活字発祥の碑」建碑がなって、その落成式・除幕式のあたりまでを記述した。この「活字発祥の碑」シリーズはまだまだ続きそうな勢い。
ところでその除幕式での混乱と混迷は大きかった。そしてついに、平野富二の嫡孫・平野義太郎によって紹介された「平野富二首証文」がおおきな話題となった。しかしその報告は全国活字工業組合の機関誌『活字界』であり、発行部数はわずか100部ほどにしかすぎなかった。そのためにいつの間にか忘れられていた話題である。

¶ 別に験ゲンかつぎをするわけではないが、バプテスマ、ヨハネの首級を所望したサロメでもあるまいし、これで2010年の「花筏ブログロール」を終わりにするのもチト一考を要するかな ト おもう。そこで「花こよみ」。

 

¶ 12月28日[火]、小社もひとなみに仕事納め。歳末恒例の大掃除の日でもある。2階ははやばやと片付け・大掃除が終わったが、4階は書類整理やら、なにやらで、結局掃除らしい行為のないまま納会へ突入。
年末恒例の大掃除ではあるが、年末の大掃除とは、大掃除に圧倒的に優先する、なにごとか正当かつ緊急性のある、差し迫ったことどもを考えださねばならぬ。だからひどく疲れる日でもある。

本音をもうせば、吾輩、小学生のみぎりから「通信簿」(かつてはそういった。これを父母に見せるのはつらかった)には、いつも「お掃除の時間になると、いなくなる性癖がある」と担任教師に書かれた。掃除とは性癖らしいぞ。ならば、性癖としては掃除は苦手ということにしてもらおう。

¶ ともかくアダナ・プレス倶楽部は、大掃除どころか、いまだに年賀状を印刷中なのだから始末に負えない。宛名面は2度刷りくらいで済ますようだが、絵柄面はいったい何度刷り(色数ではない)になるのかわからない。
吾輩もなんやかやで大晦日まで出社するつもり。正月三ヶ日だけは、おそらくマラソン観戦漬け。気分だけは箱根山をめざして若者とともにいっさんに駈けのぼる。

¶ アダナ・プレス倶楽部の年賀状は、例年活字の歴史を追ってきている。
すなわち、ブラック・レター、ヴェネティアン・ローマンからはじまり、オールド・ローマンを経て、ようやくトランジショナル・ローマンまできた。トランジショナル・ローマンなら英国のバスカーヴィルがいる。ところがバスカーヴィルは昨年ブレイクの詩を組んで実施済み。
ブレイクとは誰じゃい、とわが国ではもうひとつの評価だったが、この年賀状 モトイ ニュー・イヤー・カードにいたく感動してくださったのは、英国の「アダナランド 御領主陛下」だった。

¶ ――いるのだ モトイ いらっしゃるのだ、本当に アダナランド御領主陛下は はるか遠い英国に、何エーカーかの(かそけき)御領地を所有なされて、たしかにおわしますのだ。
しかも陛下は、かしこくも 治世の証として(私製の、通用する!)切手までおつくりあそばされ、東海の小島から、いやしき平民がさしあげたニュー・イヤー・カードに、まことに畏れ多きことながら、賞賛のご親筆をたまわった。切手はもちろん御自ら制作あそばされた切手を、あちこちペタペタと貼って下賜されたのである。

¶ だからトランジショナル・ローマン体はここでよせばいいのに、今回はフランスのピエール・シモン・フールニエを無謀にも選んでしまった。
それでなくてもロココ美術は難解である。ましてフールニエにおいてをや。テーマは18世紀の、甘くやるせないシャンソンの名曲、『PLAISIR D’AMOUR 愛の歓び』である。「愛は歓び  されど儚く 愛は悲しみ とこしえに続く――」。たれもが知っている名曲である。活字は新鋳造のフールニエ装飾活字とフールニエのローマン体である。

¶ 吾輩は知らなかったから以下は受け売りである。
この『PLAISIR D’AMOUR 愛の歓び』は、ユー・チューブにたくさん画像と音声入りのものがある。

 『PLAISIR D’AMOUR 愛の歓び』その1(癒し系調)
 『PLAISIR D’AMOUR 愛の歓び』その2(劇中劇調)
しかもこの曲から、エルビス・プレスリーが、わが青春の愛唱歌の着想を得たというから二重の驚きである。オヤジならしみじみ泣けるし、若けぇのならプレスリーの偉大さに腰をぬかすこと必定だ。
 『Can’t Help Falling in Love 好きにならずにいられない』

¶ 恥ずかしながら吾輩、米国製脱脂粉乳給食で育ったせいもあって、いまでこそひどいアメリカ・アレルギーであるが、かつては腰こそ振らなかったが、熱烈なプレスリー・ファンであった。
アメ車ガソリンガブ飲みマスタングをプレスリーの映画に触発されて購入したこともあった。その後はビートルズ最初期ファンでもあったのだ。チョイ恥ずかしいけどネ。

年賀状の背景として、こんな興味ぶかい挿話があるのも、ときには楽しいことではないか、諸君! だからノート・パソコン内蔵スピーカーで音質は良くないが、それをガンガンかけながら製作すると、アドレナリンが滾滾コンコンとわき出して時間トキを忘れさせることもある。

アダナ・プレス倶楽部2011年賀状 絵柄面 9度刷り

¶ シャンソンの歌詞は甘くやるせないが、フールニエの活字は生やさしくはない。フールニエは、「あなたは印刷者ではなく、数学者だったのか !?」というくらい、精緻な構造計算をかさね、華麗かつ精緻なる装飾活字を駆使して絢爛豪華な誌面を構成している。
それを追試(あわよくば凌駕 ?!)しようというのだから、まことにもって無謀である。だからここのところ連日、来客が途絶えた夜更けから、計算機を片手にシコシコと組版をはじめ、それを印刷し、解版し、再度その作業を反復する日日。始発の電車で帰って、出勤は昼近くなる。もう勝手にやってくれ、という気分である。

¶ 片づかないのはなにも事務所だけではない。吾輩の花壇、「空中庭園」も子規庵に負けず劣らず相当なものである。
正岡子規の旧宅「子規庵」は、台東区立書道博物館のハス前にある。だからときどきのぞいている。子規はよほど蔓草が好きだったのか、小ぶりな花をつける朝顔が多く、瓢箪がブラリと下がったりする。

吾輩の「空中庭園」でも困ったことに、エアコンを停止したら急に元気になったニガウリが、11月下旬になってもつぎつぎと実をつけていた。さすがに12月ともなると、「緑のカーテン」とはいかず、黄葉にかわった。それでもけなげに花をつけるし、花の少ないこの季節には蜂が好んでやってきた。だから寒さにふるえてやってくる、みなしご・ハッチのためにそのままにしておいた。

¶ それを先週植えかえて、そこに晩春に掘りあげておいた、チューリップ、水仙、クロッカス、ヒヤシンスなどの球根を、ゴチャゴチャと植えた。久しぶりに黒々とした地面が露出した。
それがノー学部は不満らしい。ともかくノー学部の農具とはハサミがもっぱらで、それであちこちチョキチョキやるからたまらない。球根は発芽をはじめたが、いまのところハサミの使いようがないから安全だ。が、ノー学部それがお気に召さないからこまったものだ。

¶ さらに困ったことに、ノー学部は育種科だから、ともかくタネがことのほか好きらしい。夏ミカンを食べればそれを、枇杷ビワを食べれば枇杷を、アボガド、メロン、スイカ、ジャガイモ、里芋、長芋、オリーブ、サクランボ、馬鈴薯まで、ともかくタネや根っこをあたりかまわず蒔くし、まるで埋蔵金でも隠すようにコソコソと植えてしまう。
さらに、人参、ゴボウ、大根などの根菜は、わざわざ土つきのものを買ってきて、下は食すが、ヘタの部分を、これまた勝手にあちこちに植えてしまう。それがまた枯れもせで、根っこが生え、成長するから面白くもある。
それだけではない。豆モヤシまで、葉っぱは切って食べるが、根っこはヒソヒソと植え込んで知らぬ顔である。これまた『ジャックと豆の木』よろしく、ニュキニョキと這いずり回るから結構なものだ。しかし水遣り、肥料やりは育種科カリキュラムに無かったとみえて、ひと任せ、知らん顔。

¶ 嫌な予感がしたのだ、ほんとうに……。ロダンの椅子に腰をおろして一服 モトイ 思索に耽っていたときである。
球根を植えて露出した地面をみたノー学部が、「ことしはレンゲ草を植えないの」と聞いたからだ。
「レンゲの種は神田にいかないと買えないからな」
とごまかしたが、
「地面がみえるのって寒ざむしくない。レンゲはかわいいし、きれいじゃない?」
とこだわっていた。

それが今朝になって、なにやら得意そうに、小さなジャム缶にはいった、怪しげなものを持ちだして、
「これは北海道の地ばえの蒲公英タンポポの種だから、きれいだとおもうよ」
ときたもんだ。たしかノー学部が北海道にいったのは5月ころのはず。それをこの暮れのどん詰まりまで、機内食ででるちいさなジャム缶に入れて、後生大事にどこかに隠していたらしい。つまり吾輩に「バランス良く植えろ」ということ。

¶ 大晦日は赤口九紫である。だからどうということもないが、仏滅ではないらしい。もうやけくそで、大晦日に蒲公英タンポポを植えることにした。ただし、羽毛のような綿毛につつまれたこの種子は、どうみても、ヒラヒラ舞って、どこぞにたどりついてこそ蒲公英タンポポであろう。
悔しいことにノー学部は、吾輩が蒲公英タンポポや、菫スミレが好きなことを知っている。しかしそれを一定の範囲に植えるとなるとピンセットが必要となる。そうだ、きょうは忘れずにピンセットを鞄に入れて帰ろう。そして長芋の茎からこぼれ落ちた「ムカゴ」も植えてやろう、ト 大掃除に先立つ緊急かつ重大事態としてそれをおもっている。

¶ かくのごとく、わが空中庭園は、正岡子規がうたったように、
「ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな」
の風情のまま、あらたまの初春を迎えることになる。

5月から現在まで空中庭園の王者・とろろあおい

 

A Kaleidoscope Report 004 活字工業会と活字発祥の碑

『活字発祥の碑』
(編纂・発行/活字発祥の碑建設委員会 昭和46年6月29日)
A4判28P 針金中綴じ  表紙1-4以外の本文・活字原版刷り

「活字発祥の碑」を巡る旅も4回目を迎えた。ここではまず、昭和46年(1971)6月29日、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』から紹介しよう。同書に文章をよせたのは以下の各氏である。

『活字発祥の碑』 目次
◉ 活字発祥の碑完成にあたり…………1
渡辺宗助/全日本活字工業会会長・活字発祥の碑建設委員会会長
◉ 活字発祥の碑完成を祝う…………2
室谷 隆/日本印刷工業会会長・印刷工業会会長
◉ 活字発祥の碑建設を慶ぶ…………3
新村長次郎/全日本印刷工業連合会会長・東京都印刷工業組合会長
◉ 活字発祥の碑建設に当たりて…………4
山崎善雄/株式会社懇話会代表取締役
◉ 心の支えとして…………5
松田友良/東京活字協同組合理事長
◉ 東京築地活版製造所の歩み…………6
牧治三郎
◉ 東京日日新聞と築地活版…………12
古川 恒/毎日新聞社
◉ 活字発祥の碑建設のいきさつ…………14
活字発祥の碑建設委員会
◉ 築地活版のこと…………16
今津健之介/全日本印刷工業組合連合会
◉ 父・宗十郎と築地活版…………17
野村雅夫
◉ 築地活版の想い出…………18
谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長
◉ 活字とともにあって…………19
渡辺初男/株式会社文昌堂会長
◉ 建設基金協力者御芳名…………20
◉ 建設委員会名簿・碑建設地案内図…………24

このパンフレットには編輯者個人名の記載はないが、おおかたの編輯にあたったのは、当時の全国活字工業組合広報部長であり、また、活字発祥の碑建設委員会委員長補佐としてここにも名をのこしている中村光男氏としてよいだろう。

ほとんどの寄稿が1ページずつの、いわゆるご祝儀文である。とりわけ関連団体の代表者の文章にはみるべき内容は少ないが、活字鋳造現場からの素朴な声として「築地活版の想い出」(谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長 P18)、「活字とともにあって」(渡辺初男/株式会社文昌堂会長 P19)の記録には、ほかにない肉声がのこされているので紹介しよう。


谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長
東京都台東区松ヶ谷2-21-5に旧在

築地活版の想い出
谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長

私がいっぱしの文選工になろうとの志を抱いて、築地活版所に入ったのが明治43―4年[1910―11]の頃、たしか22才の時でした。当時煉瓦造りとモルタル造りの社屋があり、印刷部と鋳造部とに分かれていて、私は印刷部のほうの活字部門に入りました。当時の社長は野村宗十郎さんで、活字部長が木戸金朔さん、次長が川口さんという方でした。この頃が築地活版所のもっとも華やかなりし時でした。

当時のお給金は1日19銭で、3食とも会社で弁当を食べていましたが、これが16銭、あとはたまの夜業代が[手許に]残るだけでした。そのため私は浅草に住んでいましたが、当時の電車賃5銭5厘(往復)をはらえず、毎朝5時に起きて1時間半がかりで築地の工場まで通ったものです。会社は7時から5時まで10時間労働というきびしいものでしたが、今の人には全く想像もつかないことでしょう。

私はわずか半年ばかりしか[東京築地活版製造所に]勤めませんでしたが、その時『古事記類苑』[不詳]という書物の活字を拾った[文選した]ことを憶えています。[活字]鋳造機は手廻しのもの[ブルース型手廻し活字鋳造機、国産]が100台ほどあったようですが、夏は暑くて、裸になって腰に白いきれをまいて作業をし、たいへんなものでした。

また、当時は月島に分工場が、九州に支店がありましたが、月島からは、築地活版のしるしのついた赤い木箱の車で活字を運んでいました。配達もこの車やモエギの風呂敷に包み、肩にかついでやったようです。

私は大正3年[1914]、26才の時に独立して開業しましたが、やはり築地活版所の活字を[開業]当初は売っていましたから、だいぶいろいろとお世話になったものです。

私も築地活版所が解散する前に、[同社の]株をもっていて、株主総会にも2、3回出たことがあります。会社が思わしくなくなっても、株主には損はさせないと強調していました。しかし、1株55円だったものが、最後には5、6円になったようです。

しかし、築地活版所が無から有を生じることに努力して、印刷界発展の基礎をつくった功績は、まことに偉大なもので、とても筆に尽くせないものがあります。今日築地活版所跡に記念碑が建設されると聞き、昔の想い出を2,3綴ってみました。


渡辺初男/株式会社文昌堂会長
東京都新宿区東大久保1-489に旧在

活字とともにあって
渡辺初男/株式会社文昌堂会長

[前略]私の父、渡辺嘉弥太郎の話によりますと、明治19年[1886]秀英舎(大日本印刷の前身)に入社した当時[の活字鋳造設備]は、カスチング(手動鋳造機)[ブルース型手廻し活字鋳造機、国産。原型は米国、国産機は弘道軒・神崎正誼の義弟、上野景範が、英国公使時代の明治9年(1876)春に神崎に送ったもの。それを原型として赤坂田町4丁目、大川光次郎兄弟が興した大川製作所が明治16年(1883)に国産化に成功。大川製作所は師弟相伝で、大川製作所→大岩製作所→小池製作所と継承された。小池製作所は2008年8月閉鎖されたが、その主要従業員と特許などは三菱重工が吸収した。『七十五年の歩み――大日本印刷株式会社の歩み』(昭和27年 P27)、『活字文化の礎を担う――小池製作所の歩み』(東洋経済 小池製作所 昭和60年6月30日 P32)より。なお秀英舎は、大川製作所による国産化がなってから、ただちに同機を数台導入したとされる]が3台[あった]とのことでした。後にトムソン(自動鋳造機)[トムソン型自動活字鋳造機]が大正時代に導入されたそうです。明治時代に「欧文のライン[を揃えて鋳造すること]、および規格[活字格とも。活字のサイズ、高さなどの仕様が各社で微妙に異なっていた。そのためこれらの企業の金属活字を混用することは長らく、あるいは最後までできなかった]を作るのに苦労した」等の話も聞き覚えております。


ブルース型手廻し活字鋳造機[参考写真]

トムソン型自動活字鋳造機[参考写真]

それから39年間、[父、渡辺嘉弥太郎は]只活字ひと筋に[秀英舎に]勤め、関東大震災を契機として、大正13年[1924]に独立開業しましたが、その当時の主流をなす3大メーカーとして、築地[活版所]、秀英[舎]、博文館[共同印刷の前身]がありました。いずれも書体とか規格[活字格とも]に特徴がありました。書体も大分近代化し、やや細目のものが出廻り始め、昭和20年[1945]の戦災から後の変遷は、ひときわ目覚ましいもので、ほぼ書体においては、現在の基礎をなすものと思えます。

母型の彫刻機[ベントン型活字母型(父型)彫刻機]、活字自動鋳造機等も続々と新機種が出て、書体の改刻等により新書体の誕生、JIS規格の制定と相俟って生産能力の向上等現在に至っております。

このように考えてみますと、印刷文化に貢献しつつ100年を迎えました。しかし日進月歩の歩みは1秒も休みなく、昨今の印刷技術の進歩は幅広く、変遷も著しく、ややもすると、活字が斜陽化するような誤解を生じ易いと思われますが、文選植字機[文選と植字を同時にこなす、いわゆる日本語モノタイプ、自動活字鋳植機]等の開発も進み、良い持ち味のある印刷物には活字は欠かせないものと自負いたしております。[後略]

また、パンフレット『活字発祥の碑』には、6-9ページの4ページにわたって、牧治三郎が「東京築地活版製造所の歩み」を寄稿している。ここには図版紹介がなく、また一部に詳細不明なところもあるが、簡潔ながら良く整理された貴重な資料である。次回、別項として、筆者手許資料で補完した姿をもってこの「東京築地活版製造所の歩み」の全文を紹介したい。

さらにパンフレット『活字発祥の碑』から紹介するのは、「活字発祥の碑建設のいきさつ」(P14-15)である。この執筆者は、全国活字工業組合広報部長、活字発祥の碑建設委員会委員長補佐として名をのこしている中村光男氏(株式会社中村活字店社長)だとみている。この記録を読むと、除幕のまさにその瞬間まで、中村氏は全面的にこの建碑事業の人脈を、ほぼ牧治三郎にたよっていたことがわかる内容となっている。活字鋳造業者とは、ほとんどが現場の職人出身であり、当時にあっては意外と交友関係は狭く、知識に乏しかったのである。

活字発祥の碑建設のいきさつ
活字発祥の碑建設委員会(P14-15

長崎[諏訪公園]には本木昌造翁の銅像があり、また、大阪には記念碑[四天王寺境内・本木氏昌造翁紀年碑]が建立され、毎年碑前祭などの行事が盛大に行なわれておりますが、印刷文化の中心地といえる東京にはこれを現わす何もなく、早くから記念碑の建設、あるいは催しが計画されていましたが、なかなか実現するまでに至りませんでした。

こうした中にあった、活字発祥の源である東京築地活版製作所の建物が、昭和44年[1969]3月取壊わされることになり、[同社の]偉大なる功績を[が、]、この建物と共に失われていく[ことを危惧する]気持ちをいだいた人が少なくなかったようであります。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

ちょうどこの年[昭和44年、1969]は、本木昌造先生が長崎において、上海の美華書館、活版技師・米国人ウイリアム・ガンブル氏の指導を受けて、電胎母型により近代活字製造法を発明[活字母型電鋳法、電胎法はアメリカで開発されて、移入されたもので、わが国の、あるいは本木昌造の発明とはいいがたい]してから100年目にあたる年でもありました[ガンブルの滞日と滞在期間には諸説ある。長崎/本木昌造顕彰会では、興善町唐通事会所跡(現・長崎市市立図書館)の記念碑で、明治2年(1869)11月-翌3年5月の間にここで伝習がおこなわれたとする。したがってこの年はたしかに伝習後100年にあたった]。

この年[昭和44年、1969]の5月、箱根で行なわれた全日本活字工業会総会の席上、当時の理事・津田太郎氏から、築地活版製造所跡の記念碑建設についての緊急提案があり、全員の賛同を得るところとなりました。

その後、東京活字協同組合理事長(当時)渡辺初男氏は、古賀[和佐雄]会長、吉田[市郎]支部長、津田[太郎]理事らと数回にわたって検討を重ね、記念碑建設については、ひとり活字業界だけで推進すべきではないとの結論に達し、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会(現印刷工業会)、東京都印刷工業組合の印刷団体に協賛を要請、[それら諸団体の]快諾を得て、[活字鋳造販売と印刷の]両業界が手をとりあって建設へ動き出すことになったのです。

そして[昭和44年、1969]8月13日、土地の所有者である株式会社懇話会館へ、古賀[和佐雄]会長、津田[太郎]副会長、渡辺[初男]理事長と、印刷3団体を代表して、東印工組[東京都印刷工業組合]井上[計]副理事長が、八十島[耕作]社長に、記念碑建設についての協力をお願いする懇願書をもって会談、同社長も由緒ある築地活版に大変好意を寄せられ、全面的なご了承をいただき、建設への灯がついたわけです。

翌昭和45年[1970]6月、北海道での全日本活字工業会総会で、記念碑建設案が正式に賛同を得、7月20日の理事会において、発起人および建設委員を選出、8月21日第1回の建設委員会を開いて、建設へ本格的なスタートを切りました。

同委員会では、建設趣旨の大綱と、建設・募金・渉外などの委員の分担を決めるとともに、募金目標額を250万円として、まず、岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになりました。

翌昭和45年[1970]9月、津田[太郎]建設委員長、松田[友良]、中村[光男 中村活字店]、後藤[孝]の各委員が岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行ない、ついで、9月18日、第2回の委員会を開いて建設大綱などを決め、業界報道紙への発表と同時に募金運動を開始、全国の印刷関連団体および会社、新聞社などに趣意書を発送して募金への協力を懇請しました。

同年末、懇話会館に記念碑の構想図を提出しましたが、その後建設地の変更がなされたため、同原案図についても再検討があり、懇話会館のビルの設計者である日総建の国方[秀男]氏によって、ビルとの調和を考慮した設計がなされ、1月にこの設計図も完成、建設委員会もこれを了承して、正式に設計図の決定をみました。新しい設計は、当初2枚板重ね合わせたものであったのを1枚板とし、その中央に銅鋳物製の銘板を埋め込むことになりました。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[恒]氏の協力を得、同社田中会長に2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

なお、表題である「活字発祥の碑」の文字については、書体は記念すべき築地活版の明朝体を旧書体[旧字体]のまま採用することとしましたが、これは35ポイントの見本帳(昭和11年改訂版)[東京築地活版製造所が35ポイントの活字を製造した記録はみない。36ポイントの誤りか?]で、岩田母型[元・岩田活字母型製造所]のご好意によりお借りすることができたものです。

また、記念碑は高さ80センチ、幅90センチの花崗岩で、表題の「活字発祥の碑」の文字は左から右へ横書きとし、碑文は右から左へ縦書きとし、そのレイアウトについては、大谷デザイン研究所・大谷[四郎・故人]先生の絶大なご協力をいただきました。

一方、建設基金についても、全国の幅広い印刷関連業界の団体および会社と、個人[p20-21 建設基金協力者御芳名によると、個人で基金協力したのは東部地区/中村信夫・古川恒・手島真・牧治三郎・津田藤吉・西村芳雄・上原健次郎、西部地区/志茂太郎 計8名]からもご協力をいただき、目標額の達成をみることができました。誌上を借りて厚くお礼を申しあげます。なお、協力者のご芳名は、銅板に銘記して、碑とともに永遠に残すことになっております。

こうして建設準備は全て整い、銘板も銅センターの紹介によって菊川工業に依頼、この5月末に完成、いよいよ記念碑の建設にとりかかり、ここに完成をみたわけであります。

なお、建設委員会発足以来委員長として建設へ大きな尽力をされました津田太郎氏が、この4月に全日本活字工業会長の辞任と同時に[高齢のため、建設委員会委員長の職も]退任されましたが、後任として5月21日の全国総会で選任されました、渡辺宗助会長が委員長を継承され、つつがなく除幕式を迎えることができました。

私ども[活字発祥の碑建設]委員会としては、この記念碑を誇りとし、精神的な支えとして、みなさんの心の中にいつまでも刻みこまれていくことを祈念しております。また、こんご毎年なんらかの形で、碑前祭を行ないたいと思っております。

最後に重ねて「活字発祥の碑」建立へご協力いただきましたみなさま方に、衷心より感謝の意を表する次第であります。

また、この『活字発祥の碑』序幕の時点では、長らく活字工業会の重鎮として要職にあった、株式会社千代田活字・古賀和佐雄は、渉外委員としてだけ名をのこし、欧文活字の開発から急成長し、東京活字協同組合をリードしてきた、株式会社晃文堂・吉田市郎は、すでにオフセット平版印刷機製造と、当時はコールド・タイプと称していた、写植活字への本格移行期にはいっていた。そのため活字発祥の碑建設委員会では建設委員主任としてだけ名をのこしている。

つまり、古賀和佐雄・吉田市郎らの、高学歴であり、事業所規模も比較的大きな企業の経営者は、活字鋳造界の衰退を読み切って、すでに隣接関連業界への転進をはかる時代にさしかかっていたのである。これを単なる世代交代とみると、これからの展開が理解できなくなる。

また11ヶ月にわたったこの「活字発祥の碑」建立のプロジェクトには、活字鋳造販売界、印刷界の総力を結集したとされるが、奇妙なことに、ここには活字母型製造業者の姿はほとんどみられない。その主要な原因は、いわゆる日本語モノタイプ(自動活字鋳植機)などの急速な普及にともない、活字母型製造業者が過剰設備投資にはしったツケが生じて、業績は急速に悪化し、すでに昭和43年(1968)、活字母型製造業界の雄とされた株式会社岩田活字母型製造所が倒産し、同社社長・岩田百蔵が創設以来会長職を占めていた東京活字母型工業会も、事実上の破綻をきたしていたためである。

前号で吉田市郎のことばとして紹介した「われわれは、活字母型製造業者の冒した誤りを繰りかえしてはならない」としたのがこれにあたる。ただし岩田活字母型製造所は倒産したものの、各支店がそれぞれ、ほそぼそながらも営業を続けた。したがって活字母型製造業者は、かつての「東京活字母型工業会」ではなく、「東京母型工業会」の名称で、わずかな資金を提供した。また、旧森川龍文堂・森川健一が支店長をつとめた「岩田母型製造所大阪支店」は、本社の倒産を機に分離独立して、大阪を拠点として営業をつづけた。同社は「株式会社大阪岩田母型」として資金提供にあたっている。


「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行
『活字界 30号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年8月15日)

ここからはふたたび、全日本活字工業会機関誌『活字界』の記録にもどる。建碑とその序幕がなったあとの『活字界 30号』(昭和46年8月15日)には、本来ならば華やかに「活字発祥の碑」序幕披露の報告記事が踊るはずであった。しかし同号はどこか、とまどいがみえる内容に終始している。肝心の「活字発祥の碑」関連の記事は、「活字発祥の碑完成、盛大に除幕式を挙行」とあるものの、除幕式の折の驟雨のせいだけではなく、どことなく盛り上がりにかけ、わずかに見開き2ページの報告に終わっている。

それだけではなく、次の見開きには、前会長・古賀和佐雄の「南太平洋の旅――赤道をこえて、南十字星きらめくシドニーへ、時はちょうど秋」という、なんら緊急性を感じない旅行記をは2ページにわたってのんびりと紹介している。

そして最終ページには《「碑」建設委員会の解散》が、わずか15行にわたって記述されている。この文章はどことなく投げやりで、いわばこの事業に一刻も早くケリをつけたいといわんばかりの内容である。

華やかであるべき「活字発祥の碑」の除幕式が、こうなってしまった原因は、驟雨の中で執り行われた除幕式の人選であった。神主に先導され、東京築地活版製造所第5代社長の子息、野村雅夫夫妻と、同氏の弟の服部茂がまず登場した。この光景を多くの参列者は小首をかしげながらみまもった。そして序幕にあたったのは野村宗十郎の曾孫ヒマゴ、泰之(当時10歳)であった。その介添えには終始牧治三郎がかいがいしくあたっていた。

おりからの驟雨のなか、会場に張られたテントのなかで、野村泰之少年があどけない表情で幕を切って落とした。その碑面には以下のようにあった。ふたたび、みたび紹介する。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に
『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
 


昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。

あちこちで漏れた囁きは、しだいに波紋となって狭い会場を駆け巡った。参列者の一部、とりわけ東京築地活版製造所の元従業員からは憤激をかうことになった。その憤激の理由は簡単であり単純である。除幕された碑面には野村宗十郎の「の」の字もなかったからである。前述のとおり、この碑文は毎日新聞・古川恒の起草により、同社田中社長が決定したものであった。当然重みのある意味と文言が記載されていたのである。

式典を終え、懇親会場に場を移してからも、あちこちで「野村さんの曾孫ヒマゴさんが序幕されるとは、チョット驚きましたな」という声が囁かれ、やがて蔽いようもなく「なんで東京築地活版製造所記念碑の除幕が野村家なんだ! 創業者で、碑文にも記載されている平野家を呼べ!」という声が波紋のように拡がっていった。そんななか、牧治三郎だけは活字鋳造界には知己が少なかったため、むしろ懇話会の重鎮――銅線会社の重役たちと盃を交わすのに忙しかったのである。そんな光景を横目にした活字界と印刷界の怒りは頂点に達した。懇親会は険悪な雰囲気のまま、はやばやと終了した。

左) 平野富二
弘化3年8月14日―明治25年12月3日(1846―92)

右) 野村宗十郎
安政4年5月4日―大正14年4月23日(1857―1925)


 

《「碑」建設委員会の解散》

発祥の碑建設委員会は[昭和]45年8月に第1回目の会合を開き、それから約11ヶ月にわたって、発祥の碑建設にかかるすべての事業を司ってきたが、7月13日コンワビルのスエヒロで最後の会合を持ち解散した。

最後の委員会では、まず渡辺[宗助]委員長が委員の労をねぎらい、「とどこおりなく完成にこぎつけることができたのは、ひとえに業界一丸となった努力の賜である」と挨拶。

引き続き建設に要した収支決算が報告され、また今後の記念碑の管理維持についての討議、細部は理事会において審議されることになった。

《リード》
「活字発祥の碑」除幕式が、[昭和46年 1971]6月29日午前11時20分から、東京・築地の建立地[東京都中央区築地2丁目13番22号、旧東京築地活版製造所跡]において行なわれた。この碑の完成によって、印刷文化を支えてきた活字を讃える記念碑は、長崎の本木昌造翁銅像、大阪の記念碑を含めて三体となったわけである。中心となって建立運動を進めてきた全日本活字工業会、東京活字協同組合では、今後毎年記念日を設定して碑前祭を行なうなどの計画を検討している。

《本文》
小雨の降る中、「活字発祥の碑」除幕式は、関係者、来賓の見守るうちに、厳粛にとり行なわれた。

神官の祝詞奏上により式は始まり、続いて築地活版製造所第5代社長、野村宗十郎氏の令息雅夫氏のお孫さん・野村泰之君(10歳)が、碑の前面におおわれた幕を落とした。

拍手がひとしきり高くなり、続いて建設委員長を兼ねる渡辺[宗助]会長、松田[友良]東活協組理事長、印刷工業会・佐田専務理事(室谷会長代理)、株式会社懇話会館・山崎[善雄]社長がそれぞれ玉串をささげた。こうして活字および印刷業界の代表者多数が見守る中で、印刷文化を支えてきた活字を讃える発祥の記念碑がその姿をあらわした。

参列者全員が御神酒で乾杯、除幕式は約20分でとどこおりなく終了した。

ともあれ、「活字発祥の碑建設委員会」は11ヶ月にわたる精力的な活動をもって建碑にこぎつけて解散した。同会委員長代理であった中村光男氏は、同時に、そして引き続き、全日本活字工業会広報委員長でもあった。ここでもう一度建碑までの時間軸を整理してみよう。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

この連載において、牧治三郎は大正12年(1923)秋、野村宗十郎社長のもとで竣工した旧東京築地活版製造所ビルの正門が、裏鬼門、それも死門とされる、[方位学などでは]もっとも忌むべき方角に正門がつくられていたことを指摘した。そしてこのビルの建立がなった直後から、東京築地活版製造所には関東大地震、第二次世界大戦の空襲をはじめとするおおきな罹災が続き、また、野村宗十郎をはじめとするビル落成後の歴代経営陣にも、多くの病魔がおそったとを不気味な調子で記述したり、口にもしたのである。

信心深く、ふるい技能、鋳物士イモジの伝統を継承する活字業界人は、反射的に、それを、折からの不況と、業績不振とに関連づけた。そして除霊・厄払い・厄落としのために記念碑の建立を急ぎ、なにはともあれ昭和46年(1971)6月9日、無事に除幕式にこぎつけたのである。この間わずかに11ヶ月という短期間であったことは特筆されてよい。

なにごとによらず、うたげのあとは虚しさと虚脱感がおそうものである。ところが意欲家の中村光男氏は、建碑がなったのち、ふたたび全日本活字工業会広報委員長の立場にもどって、同会機関誌『活字界』を舞台に、「活字発祥の碑」を巡って、みずからもそれまであまり意識してこなかった、活字鋳造の歴史と背景を調査、記録することにつとめた。これ以後、牧治三郎にかわって、毎日新聞の古川恒がなにかと中村光男氏を支援することになった。そしてここに、ながらく封印されていた「平野富二首証文」の記録が、嫡孫の平野義太郎からあかされることになった。

これに驚愕した中村光男氏は、序幕から一年後に「活字発祥の碑 碑前祭」を挙行して、ここに平野家一門を主賓として招くと同時に、『活字界』(第34号 昭和47年8月20日)に「平野義太郎 挨拶――生命賭した青雲の志」と題して、再度「平野富二首証文」の談話記事を掲載することとなる。

そして「活字発祥の碑」の序幕にあたった、野村宗十郎の子息、野村雅夫とその一門は、まったく邪心の無い人物であり、なにも知らずに牧治三郎に利用されただけだったことが以下の記事から業界に知れて、いつのまにか活字業界人の記憶から消えていった。
平野家の記録
上左:平野富二  中:義太郎、一高時代、母つるとともに(1916)
下:義太郎、東大法学部助教授就任のとき
『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)より

平野富二とふたりの娘。向かって左・長女津類、右・次女幾み(平野ホール藏)

ーーついにあかされた《平野富二首証文)ーー
平野富二の事蹟=平野義太郎」
「活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫」

『活字界 31号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年11月5日)

平野義太郎
平野富二嫡孫、法学者として著名 1897―1980

★平野富二の事蹟=平野義太郎

平野富二が明治初年に長崎から上京し(当年26歳)、平野活版所(明治5年)、やがて東京築地活版製造所(明治14年)と改称、つづいて曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました。このことを、このたび日本の印刷文化の源泉として建碑して下さったことを、歴史上まことに意義あるものとして、深甚の感謝を捧げます。

1)風雲急な明治維新の真只中における、祖父・平野富二の畢生ヒッセイの事業は、恩師である学者、本木昌造先生の頼みを受け、誰よりも早く貧乏士族の帯刀をかなぐり棄てて、一介の平民となって、長崎新塾活版所の経営を担当したことでした。そのときすでに販売に適する明朝活字、初号から五号までを完成していました[初号活字は冷却時の熱変形(ヒケ)が大きく、木活字を代用とした。鋳造活字としての初号の完成は明治15年ころとされる]。しかも平野は他の同業者に比し、わずか4分の1の1銭で五号活字を売り捌いたということは、製造工程の生産性がいかに高かったかを示すものでした。

2)さて印刷文化の新天地を東京にもとめ、長崎から東京にたずさえてきた(明治5年7月)のは、五号・二号の字母[活字母型]および、鋳型[活字ハンドモールドのことか]各1組、活字鋳込機械[平野活版所には創業時から「ポンプ式活字ハンドモールド」があったとされるが、これを3台を所有していたとは考えにくい。詳細不詳]3台、ほかに正金壱千円の移転費だけでありました。四号の字母[活字母型]は、そのあと別送したものです。平野は長崎で仕込んだ青年職工・桑原安六以下10名を引きつれて上京、ついに京橋区築地2丁目万年橋際に新工場を建てました(明治6年7月)。そこはいま碑の建てられた場所です。この正金壱千円の大金を、平野はどのようにして調達したのでしょうか。

この正金壱千円の移転費を、長崎の金融機関であった六海社(平野家の伝説では薩摩の豪商、五代友厚)から、首証文という担保の、異例な(シャイロック型の)[Shylock シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』に登場する、強欲な金融業者に六海商社を義太郎は擬ナゾラえている]借金をしたのでした。

すなわち、「この金を借りて、活字鋳造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差し上げる」という首証文を担保にした借金だったのである。

3)平野活版所は、莫大な費用を投じ、煉瓦建工場を建設(明治7年5月)、つづいて阿州[阿波藩・現徳島県]藩士、曲田成 マガタ シゲリ を社員に任用し、清国上海に派し、あまねく良工をさがしもとめ、活字の種板を彫刻させた――これが活字改良の第一歩であった。

曲田成氏という人は、平野富二について、つねに片腕になって活動された人であって、しかも特筆すべきことは明朝活字の改良は、曲田氏の手によってなしとげられたといって[も]過言ではないことである。

明治14年3月(1881年)、築地活版所[長崎新塾出張活版製造所から改組・改称し、東京築地活版製造所]と呼称した。平野は従来の投資になる活版製造所の一切の所有権を恩師・本木昌造先生の長子、[本木]小太郎社長に譲渡した。それで平野は本木先生の信頼にたいして恩義に報いたのであり、また自分は生涯の念願である造船業に全エネルギーを注ぎ込んだ(石川島平野造船所の建設)。
曲田 茂 マガタ  シゲリ
阿波徳島の士族出身、幼名岩木壮平、平野富二と同年うまれ
弘化3年10月1日-明治27年10月11日(1846-94)

ちなみに、曲田成氏は明治26年、東京築地活版製造所の社長となり、わずか1ヶ年余の活動ののち、明治27年に死去された。

★活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫

このたび[の]活字発祥の碑が建設されつつあることを、私は全然知りませんでした。ところが突然、西村芳雄氏、牧治三郎氏の御紹介により、全日本活字工業会の矢部事務局長から御電話がありまして、文昌堂の渡辺[初男]会長と事務局長の御来訪を受け、初めて[活字発祥の碑の]記念碑が建設されることを知りました。そして6月29日午前11時より除幕式が行われるため是非出席してほしいとのお言葉で、私としても昔なつかしい築地活版製造所の跡に建設されるので、僭越でしたが喜んでお受けした次第です。何にも御協力出来ず誠に申し訳なく存じております。

なお、除幕式当日の数日前には御多忙中にも拘わらず、渡辺[宗助]建設委員長まで御来訪いただき感謝致しております。当日は相憎[生憎]の雨天にも拘わらず、委員長の御厚意により車まで差し回していただき恐縮に存じました。除幕式には私共夫妻と、孫の泰之それに弟の服部茂が参列させていただき、一同光栄に浴しました。

式は間もなく始まり30分程度にてとどこおりなく終了しましたが、恐らく築地活版製造所に勤務された方で現在[も健在で]おられる方々はもちろんのこと、地下に眠れる役職員の方々も、立派な記念碑が出来てさぞかし喜んでおられることと存じます。

正午からの祝賀パーティでは、殊に文化庁長官[今日出海]の祝詞の中に父の名[野村宗十郎]が特に折り込まれて、その功績をたたえられたことに関しては、唯々感謝感謝した次第です。

雨もあがりましたので、帰途再び記念碑のところに参りましたら、前方に植木が植えられ、なおいっそう美観を呈しておりました。

最後に全日本活字工業会の益々御発展を祈ると共に、今後皆様の御協力により永久に記念碑が保存されることを希望してやみません。

「活字発祥の碑」建碑を終えてからも、『活字界』は積極的に取材を重ね、周辺情報と、人脈を掘りおこしていた。なかでも平野富二の嫡孫・平野義太郎の知遇を得たことが中村光男氏にとって、井戸のなかから大海にでたおもいがしたようである。驚くかもしれないが、そもそも平野富二の嫡孫であり、また東大法学部助教授の俊才として名を馳せた、高名な法学者・平野義太郎が、東京都内に現住していることは、当時の活字業界人は知らなかった。その次第はあらかた『富二奔る――近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗 朗文堂 2002年12月3日)にしるした。端的にいえば、天下の悪法・治安維持法のためであった。また平野義太郎の詳細な評伝も刊行されている。『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)。両書をご参照願いたい。

★      ★

碑前祭り厳粛に挙行、活字発祥記念碑から一年
『活字界』(34号 全日本活字工業会広報委員会 昭和47年8月20日)

『活字界』34号は、落成・除幕式の折の陰鬱な記録とはまったく様相を異とし、「活字発祥の碑」建碑から1年、碑前祭りの記録――が、全8ページのうち、6ページをもちいて、中村光男氏の弾み立つような文章に溢れている。ここで平野義太郎がかたった「首証文」の借用書に関して名前が出てくる、長崎・大阪の豪商・金融業者・「協力社、永見松田商社、六海商社、五代友厚」に関してあらかじめ簡略に紹介しよう。

『百年の歩み――十八銀行』
(十八銀行、昭和53年3月28日

《長崎における会社》 P11
当時の長崎に存在した会社、商店についての資料は非常に少ない。明治11年『県統計表』によると国立銀行五行(第十八、第九十七、第九十九、第百二、第百六)の外に、会社としては、つぎの8社があげられているにすぎない。
勧業会社(対馬厳原   物産繁殖           株金1万5、000円)
六海商社(長崎区西浜町 物産繁殖          株金5万円)
以文会社(長崎区勝山町 書籍ならびに活字印刷  株金  5、000円)
又新社 (長崎区東浜町 石鹸製造           株金  2、000円)
養蚕社 (対馬厳原   養蚕ならびに職工      株金  1、000円)
漸成社 (東彼杵郡大村 養蚕             株金  1、500円)
長久社 (東彼杵郡大村 桑苗ならびに茶園     株金    800円)
新燧社 (本社東京   マッチ製造              株金1万円)

《第十八国立銀行の前身――永見松田商社の設立》 P12
明治3年1月長崎の有力商人たちのうち、中村六之翁、盛千蔵、山下右一郎、永見伝三郎(当行初代頭取)、村上藤平、三田村庄次郎、和田伊平次、松田勝五郎、永見寛二、深川栄三郎、伊吹卯三郎、下田嘉平の13人は、長崎県の要請により、「協力社」という為替会社とは性格を異にする商社を組織することになった。

この協力社は長崎産物会所が旧幕時代に海産物商その他に前貸ししていた貸付金約9万5,000両の整理をはかるため設立されたもので、協力社はこの貸付金を回収して明治4年から10ヵ年賦上納することと定められていた。しかし、これらの貸付金は諸国産物商に対する滞り貸付や、幕府の残した抵当物件のようなもので回収は急速にははかどらず、協力社は為替、貸金業などをいとなんでいたものの運営資金は乏しく、金融の効果はあげ得なかった。

松田源五郎(当時第2代頭取)は、かねて新時代を迎えてこれからの長崎の発展のためには、近代的金融機関「バンク」の設立が必要であると痛感し、当時の有力な商人、富商らに、その実現について極力働きかけていたが、旧商慣習になずむ人たちが多く、その実現は容易なことではなかった。

しかし、永見伝三郎、松田勝五郎、永見寛二その他の一部の有志は、ようやくこの進歩的主張に動かされ、明治4年会社設立に踏み切り、12月15日資本金5万円をっもって、東浜町326番地に本店をおき、合資組織による「永見松田商社」を設立、松田勝五郎を社長として翌明治5年1月2日をもって開業した。この永見松田商社こそ、後年における第十八国立銀行および株式会社十八銀行の先駆をなすものであり、九州における近代商業銀行の嚆矢といってもあえてさしつかえない。

また「永見松田商社」へ参加しなかった人びとも、明治6年1月「協力社」を「六海商社」という合資組織の会社に改組し、盛千蔵が社長となった。

平野義太郎は「平野富二首証文」の提出先として、長崎の伝承では六海社としているが、これは上記資料からみても「六海商社」のことであろう。六海商社はもともと長崎銅座の豪商による一種の講であったとされる。いまはわずかに長崎市街地に銅座川の名をのこすにすぎないが、わが国はながらく産銅国として知られ、銅竿を長崎に集め、ふき替えをして銀や金などを取り出してから輸出して、巨利をあげていた業者の講があった。そして、その町人地を江戸期は銅座と呼び、明治以後はそれらの富商は六海商社に結集していたとされる。「協力社」系の企業、六海商社の資金力は、前記資料をみても、のちのナンバー銀行「十八銀行」と同額の5万円であったことに注目したい。ここに「平野富二首証文」を提出したという風聞は、長く長崎には流布していたようである。

しかし平野一家では、それを大阪の豪商、五代友厚(1835―85)として、いまも伝承している。五代は元薩摩藩士として外遊を重ね、維新後は外国事務局判事などをつとめた。のち、財界に身を投じて、おもに大阪で政商として活躍した人物である。その興業は造船・紡績・鉱山開発・製藍・製銅などにおよび、大阪株式取引所、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)などの創立に尽力した。また五代関連の資料では、大阪活版製造所の創立者を五代に擬すものが多い。

しかし五代は近代主義者であり、開明派をもって任じており、26歳の有為の青年・平野富二に、「首証文」を担保として提出を求めたとは考えにくい。もちろん軽々しく断定はできないが、筆者はむしろ長崎の伝承にしたがって、ふるい銅座の旦那衆であった「六海商社」が、上京開業資金の借り入れに際して担保を要求したため、青年・平野富二は六海商社に「平野富二首証文」を提出したものとみなしている。

また平野義太郎は、平野富二の右腕兼後継者として、曲田茂マガタ-シゲリを何度もあげたが、野村宗十郎に関しては、冒頭にわずかに一度触れただけで、ほとんどそれを無視した。これは通説にたいする見事なしっぺ返しである。義太郎が再々のべたように、いわゆる「活字書風築地体」の確立に果たした役割は、やはり創業者・平野富二と、その右腕の曲田茂によった、と筆者もみなしている。野村宗十郎の役割と功績は、少し別な見地から再評価されるべきであろう。

ともあれ、明治維新に際して長崎の富商は「協力社」に集められ、そのうち金融業者を中心に、これまた長崎出身、福地櫻痴による新造語「BANK→バンク→銀行」に変貌した。そのうち「永見松田商社、のちの立誠会社、長崎十八銀行」は、本木昌造の事業、平野富二の事業にきわめて積極的に関与していた。とりわけ実質的な創業者であり、第2代頭取・松田源五郎は、東京築地活版製造所、大阪活版製造所の取締役としても記録されている。また第5代頭取・松田精一は、、十八銀行頭取(1916―36)と、東京築地活版製造所の社長職(1925―35)を兼任していたほどの親密さでもあった。

したがって松田精一が歿し、長崎人脈と、長崎金脈が事実上枯渇したとき、明治5年(1872)7月、神田佐久間町3丁目長屋に掲げた「長崎新塾出張東京活版所」、すなわち、のちの東京築地活版製造所は、あっけなく解散決議をもって昭和13年(1938)3月、66年の歴史をもって崩壊をみたのである。このあたりの記録は次稿『東京築地活版製造所の歩み』でさらに詳細記録をもって紹介したい。

6月29日午後3時から、東京・築地懇話会館前の「活字発祥記念碑」の前に関係者など多数が出席して碑前祭が行われた。[全日本活字]工業会では昨年6月29日、各界の協力を得て旧築地活版所跡に「活字発祥記念碑」を建立した。この日はそれからちょうど1周年の記念日に当たる。

碑前祭には、全印工連新村[長次郎]会長、日印工佐田専務、東印工組伊坂理事長、全印工連井上[計]専務、懇話会館山崎[善雄]社長、同坂井支配人、同八十島[耕平]顧問、全印機工安藤会長はじめ、毎日新聞古川恒氏、平野義太郎氏(平野富二翁令孫)、牧治三郎氏(印刷史評論家)など来賓多数も列席、盛大な碑前祭となった。

碑前祭は厳粛に行われ、神主が祝詞をあげ、渡辺会長を先頭に新村会長、伊坂理事長とつぎつぎに玉串を捧げた。

懇話会館入口では出席者全員に神主から御神酒が配られ、この後は同会館の13階のスヱヒロで記念パーティが行われた。渡辺[宗助]会長はパーティに先立って挨拶し、その中で「ホットとコールド[金属活字と写植活字]は全く異質なものであり、われわれは今後とも[金属]活字を守り、勇気をもって努力していきたい」と語った。つづいて挨拶に立った全印工連新村[長次郎]会長は、「活字があったればこそ、今日の]印刷業の]繁栄があるのであり、始祖を尊ぶ精神と活字が果たしてきた日本文化の中の役割を、子孫に伝えなければならない」と活字を讃えた。

また、和やかな交歓が続くなかで、日本の活字発祥の頃に想いをはせ、回顧談や史実が話された。毎日新聞社史編集室の古川[恒]氏は、グーテンベルグ[ママ]博物館の話を、平野義太郎氏はそのご子息と一緒に出席、祖父について同家に伝わるエピソードを披露した。牧治三郎氏からは本木昌造翁、平野富二翁、ポイント制を導入して日本字のポイント活字を鋳造・販売し、その体系を確立した野村宗十郎翁などを中心に、旧築地活版所の歴史を回顧する話があった。

活字をめぐる情勢は決して良いとはいえないが、こうして活字業界の精神的な柱ともいうべき碑ができ上がったことの意義が、建立から1年を経たいま、確かな重さで活字業界に浸透していることをこの碑前祭は示していたようだ。

平野義太郎氏挨拶――生命賭した青雲の志

私はここで[晴海通り側からみて、懇話会館ビル奥のあたりが平野家であった]生まれましたが、平野富二はここで死に、その妻、つまり私の祖母[駒・コマ 1852―1911]もここで死んでおります。その地に碑を建てられ、今日またここにお集まりいただいた活字工業会の方々はじめみなさまに、まず御礼を申し上げます。

エピソードをなにか披露しろということですので、平野富二が開国直後の明治5年に東京へ出てくる時の話をご紹介します。この時、門弟を4-5人連れて長崎から上京したのであるが、資本がないし、だいたい上京の費用がない。そこで当時の薩摩の豪商[五代友厚を意識しての発言とみられる]に、“もし返さなかったらこの首をさし上げる”といって借金した[という]話が、私の家に伝わっております。それくらいに一大決意で[活字製造の事業を]はじめたということがいえましょう。本木昌造先生の門弟としてその委嘱を受けて上京、ここではじめて仕事を始めたということです。

これら創生期の人々も、その後築地活版を盛り立てた方々も、きっと今日のこの催しを喜んでいることだろうと思います。

朗文堂-好日録005|朗文堂-好日録005|ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 PRG のこと|’10年12月21日|少少補修

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日のよしなしごとを綴りたてまつらん
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本稿の修訂記事が NOTES ON TYPOGRAPHY にあります。双方とものこしておきます。
古記録発掘【花筏 朗文堂-好日録005】ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 PRG のこと|’10年12月21日|少少補修’25.4.10

★ 忙中に閑あり 美術館巡りのこと───
ひとなみに年末バタバタ騒ぎの渦中にある。そんなことを綴っても面白くもない。だから忙中に閑ありて、美術館のこと。

このごろはなかな良い美術館があちこちにできた。東京の美術館はチマチマ、コセコセ、混雑しているので、いささか敬遠気味。でかいビルのこちらのワン・フロアが美術館です、といわれても味気ない。

だから最近はチト遠出をして(新宿から電車一本、バス一回)、宇都宮美術館がお気に入り。関東平野、ここにつきたか ─── といった小高い丘のうえにある。ともかく緑ゆたかな景観がよい。天井がたかくてゆったりした建物もいい。それが宇都宮美術館である。
ここは展示スペースが広く、ごちゃごちゃした美術館のように、作品がくっつきあって、たがいに視覚に干渉することがない。また、ここのカフェのランチは、地元の食材を使って新鮮で旨い。そして帰りがけに、駅前でのんびりと、名物のでっかい餃子をたらふく楽しむ。

★ 横須賀美術館にて《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》を展観する
2010年12月18日[土]、勇気をふるって横須賀にでかけた。横須賀には30年ほど前に一度いった。やたらと制服のヘイタイさんがおおくて辟易した。それ以来である。

もともと「制服」がおおいに苦手である。制服・制帽の着用を義務づけられた高校入学式の前夜、ひたすら制帽の芯(ただのボール紙だった)を全部ぬいて、禅宗坊主のズダ袋のようにした。
なにぶん高校は、鈍くさい、田舎の元旧制中学だったから、一応(甘かったけど)制服・制帽の着用が義務づけられていた。まして、お粗末なことに、「風紀委員」などという、時代錯誤、勘違いの輩ヤカラがいて、翌朝に新入生指導と称して、肛門 モトイ 校門の前で服装チェックをしていた。
トンチンカンを相手にするのは面倒だから、鞄から苦心の「ズダ袋」を取り出して、頭にひっかぶって、
「おはようございま~す。ご苦労さまで~す」
と通り抜けた。それでもけしからん一年生だと、すぐさま風紀委員からの呼び出し。(軟弱で硬直した風紀委員なぞは衆を頼むから)大勢に取り囲まれたが、
「わが校の校則に、質実剛健 シツジツゴウケン、和衷協同 ワチュウキョウドウ、至誠一貫 シセイイッカンとありました。質実剛健を体現するべく斯様 カヨウにいたしました。ナニカ?」
といって退かなかった。

これですっかりトンチンカンから目をつけられたが、ひとつきもたつと、たれもとがめなくなった。べつに制帽などという暑苦しいものをかぶる必要はないだろう。できるだけ自由人でありたいし、等身大でスッと立っていたいものだ。ところで風紀紊乱 ビンラン なることばもあったな。忘れていた。
しかし、暑くも寒くもない4月、それも若いうちから帽子などをかぶっていると、将来の毛髪の消長に甚大な影響があろうというものだ。そんなものなのだ、風紀なぞとは、所詮。

いまだにこの制服嫌いは徹底している。バスやタクシーの運転者の制服くらいなら反応しないが、ホテルの黒服などには過敏に反応する。客にはくそ丁寧をよそおいつつ、慇懃かつ無礼きわまるからである。こんなのに限って、同僚のベルボーイやウェイターには居丈高であったりする。
ときとして、トンチンカンにとっての制服とは、なにか、おのれはたれかより偉いト、愚かにも勘違いさせたりする。これが階級章をつけた制服の警察官や自衛官であると、もうそれだけで吾輩のアレルギーは危険水域にはいる。それが元となって、ずいぶん埒 ラチ もない、語るに落ちる、つまらない経験をした。それでもこのアレルギーだけは現在進行形、症状はますます重篤なのだ。

ところで横須賀。横須賀美術館《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》展覧である。
本展の図録を新宿私塾修了生Hさんが担当。ご案内もいただいたので気になっていた。しかし横須賀は制服アレルギーの発作がこわかったので逡巡していた。それでも会期終了が近づいたし、雲一点もなき快晴だし、行くか ! 
てっきり東京駅から古ぼけた横須賀線に乗って、チンタラ横須賀までいくものだとおもっていた。ところがノー学部が Website で調べた、分刻みの路線案内にしたがって、地下鉄でいく。どこかでそのまま京浜急行に乗り込んだようだが、ともかく新宿から地下鉄に乗って、乗り換え1回で京急馬堀駅に降り立つ。道中居眠りしていたせいもあって浦島太郎よろしくよくわからない。

ナント! 目が覚め、降り立った地下鉄 モトイ 京浜急行の馬堀海岸駅の眼前には、眩いまでの海が広がっていた。吾がふるさと信州信濃には海が無い。だから吾輩を含む信州人にとって、海は永遠の神秘(であるはず)。まして地下鉄に乗って居眠りを続けてきたから、地底から救出された銅鉱山の鉱夫のように、この衝撃はまぶしく大きい。

バスでチョイ、横須賀美術館に着く。景観に感激。海を借景にしたというとなにか変だが、海と山にはさまれた素晴らしい眺望だった。
まずは海を堪能しながら、ギャラリー・カフェでランチをとる。プチ贅沢をゆるす。写真はまた失敗したので、同館パンフレットのものを紹介。‘10年12月18日[土]は一点の雲もない、あっぱれ日本晴れだったのだが。
これでデジタルカメラの操作マニュアルなどという、技術屋の記述による、無味乾燥、これがわが国語かという、妙な文章にあふれた七面倒なものをみないで、撮影技術が伴えば鬼に金棒だ!

ここのところ、ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900 イギリスの芸術批評家・社会思想家)と、ラファエル前派との関連を折りに触れて調べていた。例のアーツ・クラフツ運動の理論的指導者として、この人物の存在が無視できなかった。それにしては翻訳書からの理解は歯がゆいものがあった。
だから横須賀美術館で、愛読書の『建築の七灯』『この後の者にも』の原著(ガラスケースに入っていたけど)を見たり、ラスキンの自筆のスケッチを見られたのには興奮した。
[この大聖堂のスケッチは、批評家というより、もはや素描家だな。ラスキンめ、なかなか巧いじゃないか] トおもう。

ただし、エリート画家(無謀で反抗的だったけど)が結集した、ロイヤル・アカデミー(王立美術学校)出身の、「ラファエル前派兄弟団  P R B」という若い画家集団の絵画(とりわけ第一世代、20代の作品)は、どこか意識過剰で、生硬で、消化不良をおこしているようで、少々辛かった。
また主題を構成する部分より、周辺細部の草花やら道具やらの、なにやら一見暗示的(神秘的?)な仕掛けばかりが目について、主題が散漫になっていた。
[ラスキンの奴メ、若けぇ画学生どもを、うまく煽ったな]── トおもった。

★ラファエル前派兄弟団 P R G
いまから160年ほど前のことである。1848年09月、ロンドンの片隅に6人の画家と1人の作家が集まった。年齢は18歳から20歳、意欲と能力はあったが、まだまだ未熟、発展途上の造形者であった。中心メンバーは、ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-96)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827-96)、ダンテ・ガブリエル・ロセッテイ(1828-82)らであった。

かれらは当時のイギリス画壇の潮流を、大胆不敵、一刀両断のもとに斬り捨てて、「ラファエル前派兄弟団 P R B-Pre-Raphaelite Brotherhood の頭文字」と名乗った。その構成員はしばらくは内密にされ、作品にはただ「P R B」とだけしるされた。
[このあたり、悪戯半分で、中世アルチザンの秘密結社を真似たのかな?]
トすこしばかりおもう。

さらに大胆にも「ラファエル前派兄弟団」は、イタリア・ルネサンス期の巨匠、ラファエル(Raffaello Santi  1483-1520 ヴァチカン宮殿の壁画、サン-ピエトロ大聖堂の建築監督、ラファエロとも)をもっとも唾棄すべき存在とした。かれらはラファエルに代表される、ルネサンスよりも前の時代、すなわちそれまで暗黒の時代とされていた「中世」を賞揚すべき存在とした。
これはまた同時に、イタリア・ルネサンスを否定して、中世復古、ゴシック・リバイバルを意味することにつながった。乱暴に解釈すれば、秘技・秘術・錬金術バンザイでもあった。

そんなかれらが作品を発表すると、当然世上は辛辣な批判にあふれ、無理解のおおきな壁に突き当たった。もちろん異端は異端であるだけでは注目されない。「ラファエル前派兄弟団」にはそれだけの(批判をあびるほどの)理論構築と技倆がともなっていたということだ。
そのとき批評家ラスキンは、むしろ積極的に、この暴走族にも似た、無謀な若者のグループを支持したが、さすがにその「ラファエル前派兄弟団」の名前を「いささか滑稽な」と評した。
しかしながら19世紀の中葉、停滞した英国ヴィクトリア王朝美術の復興は、無謀で大胆な、美術学校の学生運動ともいえる、若者たちの破壊的な挑戦からはじまったことだけは特記されてよい。
─── それにしても現代の若者は「よゐこ(ぶった)」が多いとおもう。若者は生意気で、挑戦的であって良いのだ。そして老人はやかましくて、口うるさくて良いのだ。─── 話柄がそれた。戻りたい。

「ラファエル前派第二世代」とされるのが、画家のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-96)、ウィリアム・モリス(1834-96)である。このふたりはロイヤル・アカデミー(王立美術学校)の学生が中心だった第一世代とは異なり、オックスフォードのエクセター・カレッジに入学し、神学を学んだ。ふたりを結びつけたのは中世文化への傾倒だったが、その後急速にキリスト教社会主義と、ラスキンの社会思想の影響を受けるにいたった。

ジョーンズとモリスにいたって、あまりに教条主義的だった「ラファエル前派兄弟団」の写実性は、穏当なアルチザン(技芸者)とアーチスト(工芸者)のものへと変容を遂げた。かれらはまた書物と活字にも目を向けた。ここからはすでに語り尽くされているので割愛。

吾輩、すっかり若者の熱気にあおられ、久しぶりに血が熱くなった。展観を終えて、外に出ると、はや日はどっぷり暮れて満天の星。汽笛がボーッと鳴る。ほぼ桃源郷に遊ぶこころもち。
お腹がすいたので、走水神社前の和食店 ── というよりふるぼけた食堂に飛び込む。これがまた !! いいんですねぇ! ことばを失うほどのうまさ。そして安いときているから、いうことなし。

老店主は漁士で、息子夫婦が地魚の食堂を経営しているようだ。ピチピチのアジの刺身、サザエ、地タコ、ナマコを食す。いうことなし。美術と美食で満腹であるぞ。そういえば「美食同源」だったな、イヤ「画文同源、画文一致、そうか医食同源」だったかな? もはやなんでも良いぞ。旨かったから。

おお、忘れるところだった。
同館所蔵品特集《藤田 修 ── 深遠なるモノローグ》が常設展示場の一室で開催されていた。ここではじめて藤田修なる版画の異才を知った。とりわけフォトポリマー・グラヴェール技法と、レタープレス(活版)による「生まれるのに時があり」の作品に凍りつく。
「版画よ、額縁から脱出せよ!」「活版印刷よ、額縁にとりこまれるな!」── と念じている吾輩にとって、まさに欣快、ポンと膝を叩いて、やったな! の作品であった。
「やっぱりいたか。こんな造形者が、わが国にもな~」
のおもい。図録を 2 冊買って帰りの電車でみていたら、ナント! こちらの図録のデザインは、これまた新宿私塾修了生Mクンだった。みんなあちこちで大活躍しているなぁ。トいたく感激。

《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》は12月26日まで。23日(天皇誕生日)と、この週末の休みもある。その気になれば新宿から1時間半。荒らされるからあまり教えたくないが、美術館から徒歩 5 分、走水神社バス停前(行けばすぐわかるはず)には、新鮮・旨い・安い(店主夫妻は無愛想だし、チトきたないけどネ)、地魚食堂つきの旅である。図録は二点ともとてもすばらしかった。できたらこの週末、再度いきたいものである。

2010年12月18日[土]、一点の雲無き快晴。21日[火]重い雲がのしかかる。曇天なり。日日之好日

花こよみ 005

詩こころ無き身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

冬   が   来   た

きっぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹 イチョウ の木も 箒 ホウキ になった

きりきりともみ込むような冬が来た
人にいやがられる冬
草木にそむかれ、虫類に逃げられる冬が来た

冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た

高村光太郎(詩人・彫刻家 1883-1956)

朗文堂-好日録004 吾輩ハ写真機ガ苦手デアル

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉吾輩ハ写真機ガ苦手デアル――――どうも写真機、モトイ、カメラとの相性が悪い。3年ほど使っていた、平べったい小型「エスオーエヌワイ」電子カメラが起動しにくくなり、Websiteで検索したら、こうした事例が多い機種とみえて、対処法がいくつか掲載されていた。最初にヒットしたアメリカのユーザーは「手をまっすぐ伸ばして、そこから落下させると起動する……」と、なんとも怖ろしいことを書いていた。おとなしい日本のユーザーは「膝の上でトントンと、やや強く叩くと起動する」などとしていた。どうやら接触不良が原因か? それでもなんとか、だましだまし使ってきたが、ついにまったく起動しなくなった。もちろん保証期間はすぎていた(このあたりは良くできていたな、ウン)ので、泣く泣く次世代機を購入。

伊勢丹ちかくの「大きなカメラ--元 安さ爆発! カメラのさくら屋~♫」で、安物ではあったが「ナイコン」一眼レフ型の新機械を買った。もともとナイコン一眼レフカメラ愛用者だった。その重厚感としっかりしたピント合わせが魅力だった。しかし今回の購入時にはひと悶着あった。接客態度があまりに凄い。「メモリー・チップも欲しいんですけど」、「あそこにありますから」  ト 遠くを指さす。「ふつうどのくらいの容量を買えばいいんでしょう」、「それはお客さんがきめることです」。ト きっぱり。

チョットひどすぎるとおもった。支払い時にチトクレーム。すこし偉そうな店員さんが(格好だけ)平謝り。その説明(言い訳)によると、担当した店員さんは競合某社からの派遣社員であって、「ナイコン」を選んだ小生は(彼のひとにとっては)客ではなかったようだ。偉そうな店員さんがにこやかに(中も確認しない箱のまま)袋に(放り)入れて「これが保証書です」、との説明を受けて退出。ヤレヤレのおもいで帰社。最初にテスト撮影をしたら、レンズがおおきく突き出たまま、そこでフリーズ。なんともトンマな姿であった。「バッテリーを外して再起動すると治る、モトイ、直る」といわれ、やってみたらたしかに起動した。だがまたすぐにフリーズした(いいんだろうか? 写真機とパソコンを同じ用語で語っても)。

そもそも平べったい「エスオーエヌワイ」の小型カメラも最初は難儀した。カメラはファインダーを覘いて撮るものと(いまでも)決めているから、ファインダー(だとおもっていた)穴が、よもやレンズとは露おもわなかった。たいていは「向けて撮~る」だから、撮影後にみたらオカルト画像のような、妙なモノしか写っていなかった。それが自分のメンタマだとわかるのに少し時間がかかった。これですっかり機械オンチであることがバレて軽蔑された。電子カメラもレントゲン撮影機(胸部の)と同じ構造になったとおもいこんだのが間違いだった。

さて「ナイコン」のその後。10回に1回はフリーズするので、保証書と一緒に「大きなカメラ」に修理依頼で持ちこんだら、「新宿ナイコン・サービスセンター」を紹介され(追い出されて)退出。新宿西口までトボトボ歩く。さすがに「ナイコン」は丁重そのもの。即刻にこやかに同型の新台と交換(速攻追い出し)退出。なにか不満足、なにかが物足りないぞ。

精密機器の修理とは、痩身の技術者が、何だかふしぎなルーペを目にはめて、小さなドライバーでシコシコ修理するのだとおもっていた。そして所在なくふるい週刊誌などをみていると、やがて「ハイ、お待たせしました。直りました!」と技術者と共に喜びたかったのだ。精密工業技術を誇る日本製なのに、なんたることかとよくみたら、MADE IN INDONESIAと、底部に豆粒のような字でしるしてあった。嗚呼! 唖唖 !! 精密工業の底辺を支えてきた信州人を愚弄しているではないか。わがふるさとは貧しく、民草は泣いておるというのに。

銀座凮月堂のおいしい和菓子-味の粋

◉吾輩ハ、銀座凮月堂デ「味ノ粋」ヲ食ス――――銀座をぶらつく、というとちょっと格好がいいが、ふるい資料と、例の「ナイコン」を鞄にいれて、晴海通りから一本新橋寄りの「みゆき通り」を徘徊する。晴海通りから、gggギャラリーに続く「すずらん通り」に入って、一本目の道路が「みゆき通り」である。ここをうろうろとさまよい歩く。徘徊の最中は明治11年ころの南鍋町2丁目1番地を歩くこころもち。

町の名前からして、江戸期のこのあたりは「居職」商工者の町で、鍋や釜などの鋳物屋が多かったとされる。その一部が文字の鋳物--活字鋳造業者に転じたということ。明治11年、当時ここには「活版製造所弘道軒」があった。そしてご自慢の英国直輸入(原産国は米国)ブルース手廻し活字鋳造機が(最初から最後まで)1台だけあって、清朝活字を製造していた。そのすぐ脇には「日報社・東京日日新聞社、いまの毎日新聞社」があり、数寄屋橋に近寄れば秀英舎活字鋳造部製文堂もあった。いわば築地の東京築地活版製造所とともに、明治の印刷・出版・活字史を飾った企業群があったメディア発祥、活字ゆかりの地である。

かつては東京築地活版製造所、秀英舎の創業の地を訪ねて、やはりその周辺を徘徊した。いまは「活版製造所弘道軒、南鍋町2丁目1番地」である。古地図『東京京橋区銀座附近一覧図』(明治35年、京橋図書館蔵)が頼りとなる。そこでは「菓子商・米津凮月堂」の一軒隣が「活版製造所弘道軒」となっている。凮月堂はいまでもみゆき通りに本社と直営店を構えているが、移転を最低でも三度は繰りかえし、はす向かいの現在地に落ち着いたことがわかった。南鍋町2丁目1番地の弘道軒は、現在は鈴乃屋呉服店(中央区銀座5丁目6-10)あたりであるとみなす。

客足が途絶えたところを見計らって、鈴乃屋呉服店に飛び込む。「まことにつかぬことを伺いますが、こちらは何年ころから営業されておられるのでしょう?」「昭和5年(1930)と聞いています」。このくらいは事前にWebsiteで取材済み。社長が出てきてこんにちは♫ 親切に対応。関東大地震(大正12・1923)の後始末がついて、各店舗が開設されるまでに時間がかかったようである。収穫多し。

みゆき通りからすずらん通りに左折、2軒入ったところ。ここも昭和5年創業の「タカオカ靴店」に「ワンカップ」数本を片手に再訪問。ここは靴屋である。その証拠にショー・ウィンドーに照明が入っているが、商品は革靴が一足だけポツリ。それも確実に4ヶ月は連続して現状のママ、イキ。店主はいつも店右奥でフリーズして、ズック、モトイ、黒いスニーカーを履いている。今回は、みゆき通り、銀座中央通りに、関東大地震のころまで「ドブ・溝・クリーク・川・運河」があったか否かを再取材。タカオカ翁、御齢96歳。まだ昼下がりなのに、まずワンカップをグビリ。

「戦争中か、おぅ、陸軍に召集よ(敬礼)」。[第一師団ですか?]。「冗談じゃねぇ、あんな金ピカ近衛じゃねぇ、第六聯隊、実戦部隊だ」。[第六聯隊はほとんど全滅したとされてますね]。「まあな。青森や岩手の聯隊からは軽くみられてたな、弱兵だってな。逃げんのが早いんだよな」。[ところでタカオカさん、そこのみゆき通りには、関東大地震のころには、ドブか、クリークか、川のようなものはありましたか?]。「震災後も、戦前までは川があった。ここからも中央通りに流れていた」。[それはドブのようなものでしたか?]。「ドブじゃねぇさ。泥鰌やタニシくらいはいたし、中央通りにいけば、鮒やメダカだっていたな。ところで若いの、幾つだ?」。[65歳になりました]。「そうか、若いな(?)。オレの息子の歳だな」。[はい、わたしの母親もタカオカさんと同じ96歳で健在です]。障害難聴者と加齢難聴者の会話は、ここが銀座のど真ん中か、という具合で、端から見たら(たれも入ってこないけど)怒鳴りあいの大声でつづく。

チョイ疲れたし、取材メモを整理するために凮月堂に入る。1階のショーケースで和菓子の品定めをして、2階の喫茶室にあがる。一服して和菓子「味の粋」が食べたかった。ただしこの菓子の読み方がわからなかったので、写真付きのメニューから、「コレと、珈琲をください」と註文。昼下がり、甘いものをひとりで食すのはチト恥ずかしい。テストを兼ねてこっそり「ナイコン」でパチリ。

まもなく妙齢のご婦人が隣席に。「アジのイキと、お抹茶、よろしくね」とこちらは小粋に決めた。同じ和菓子がでてきたぞ。なにか引っかかったので、一階のレジで、伝票にプリントされた「味の粋」の読み方を質問。「当店ではアジ-ノ-スイと呼んでおります」。あぁ良かった、恥をかかなくて済んだ、とおもうと同時に、湯桶ユトウ読みや重箱ジュウバコ読みにはふり仮名を! とおもった。そして「ナイコン」。やはりひどい仕上がりだった。これはカメラのせいではなく、まぎれもなく小生のせいである(らしい、悔)。

中央が鈴乃屋呉服店。すずらん通りの右が旧日報社とみられる。

タカオカ翁、96歳。意気軒昂!

銀座のど真ん中タカオカ靴店。堂々と靴一足!盛業中!

花こよみ 004

詩こころ無き身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

楓 橋 夜 泊
月 落 烏 啼 霜 満 天
江 楓 漁 火 対 愁 眠
姑 蘇 城 外 寒 山 寺
夜 半 鐘 聲 到 客 船
      ―――― 唐  張 継

蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
月 落ち からす ないて 霜 天に満つ
江楓コウフウ 漁火ギョカ 愁眠シュウミンに対す
姑蘇コソ 城外の 寒山寺
夜半の鐘声 客船に到る

張継は中国8世紀前半盛唐の詩人。字は懿孫イソン。
湖北襄州のひと。玄宗のとき進士。『張祠部詩集』
一巻があり「楓橋夜泊フウ-キョウ-ヤ-ハク」の詩で著名。

朗文堂-好日録003 秀英体100、正調明朝体B、和字たおやめ

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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大日本印刷 ggg  ギンザ・グラフィック・ギャラリー 「秀英体100」を発表――大日本印刷のgggギャラリーが、第294回企画展「秀英体100」を発表している。会期は2011年1月11日[火]-31日[月]。同社秀英体開発室を中心に、長年にわたって展開してきた「秀英体平成の大改刻」には、小社もお手伝いを重ねてきた。プロジェクト自体はまだ中途であるが、その中間報告として画期的なイベントとなることが期待される。新年のダイアリーには、まずこの予定を書き込んでいただきたい。  【 詳 細

朗文堂タイプコスミイク――《正調明朝体B金陵 Combination 3》、《和字たおやめ Family 7》発売開始。
お待たせしました! いよいよ発売開始です。このふたつのパッケージ書体は、林昆範さん、今田欣一さんとの勉強会「グループ昴スバル」でのいいつくせない思い出がある。あのころは熱かったとおもう。そして、これからも熱くありたいとおもう。

祝祭日――11月23日は「勤労感謝の日」だった。最近の「デザインの効いた」カレンダーの一部には、祝日は刷り色だけを赤などにしてあるものの、どうして会社や学校が休日になるのかわからないものが多い。つまり気がつかないうちに、あまり使われないことばとなって、もはや死語と化しつつあることばが「祝祭日」かもしれない。もともと祝日は「めでたい日、いわいの日、特に国家の定めた祝いの日」であった。いっぽう祭日は「国民の祝日の俗称」ともされるが、本来は「祭りをおこなう日――皇室の祭典をおこなう日、神道で死者の霊を祭る日、物忌みする日」であり、旧制度のもとでは別途のものであった。このふたつをまとめて「祝祭日」としたから、わかりにくくなり、あまりつかわれなくなったことばのようだ。

勤労感謝の日――勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあうとする日だそうである。もともとは皇室行事の新嘗祭ニイ-ナメ-サイ。祭日が祝日にかわった一例でもある。ここのところ、チト無理をしてきたので、自分を褒め、勤労感謝! 朝からバスタブにぬるいお湯をいれて長湯をしたら、全身がけだるくなって休日(になってしまった)。新嘗祭とは天皇が天神地祇に新穀をすすめ、また親しくこれを食する日。もちろん天皇は古式ゆかしく正装し、この行事を粛々とこなされたことだろう。顧みてわが身。ただボケーッとして、溜まっていた書物を読みとばし、うたた寝をしただけの休日。たまたま腹がすいたので、コンビニでカレーをチンしてこれが小生の新嘗祭。ついでに100円ショップに寄って、「平成23年版カレンダー」を買う。これにはスケジュールも書き込めるし、祝日がなんの日かはもちろん、旧暦、六曜もでているから便利で昨年も買った。ちなみに、きょう24日は「旧暦10月19日、仏滅一白」だ。だからどうしたというわけではないけど。

A Kaleidoscope Report 003をアップ――東京築地活版製造所の跡地に建立された「活字発祥の碑」の背景を描くシリーズも3回目を迎えた。逡巡はあったが、牧治三郎さんのことを踏み込んで書いた。すこし辛かった。

◉11月24日[水] 本日快晴。日日之好日。

A Kaleidoscope Report 003 活字発祥の碑 活字工業会

多くのドラマを秘めた「活字発祥の碑」

東京・東京築地活版製造所跡に現存する「活字発祥の碑」、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』、その建碑の背景を詳細に記録していた全国活字工業会の機関誌『活字会』の記録を追う旅も3回目を迎えた。

この「活字発祥の碑」の建立がひどく急がれた背景には、活字発祥の地をながく記念するための、たんなる石碑としての役割だけではなく、その背後には、抜けがたく「厄除け・厄払い・鎮魂」の意識があったことは既述してきた。それは当時、あきらかな衰退をみせつつあった活字業界人だけではなく、ひろく印刷界のひとびとの間にも存在していたこともあわせて既述した。

その端緒となったのは、全国活字工業組合の機関誌『活字界』に連載された、牧治三郎によるB5判、都合4ページの短い連載記録、「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第21号、昭和44年5月20日)、「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)であった。これらの記録は、このブログの「万華鏡アーカイブ、001,002」に詳述されているので参照してほしい。

牧治三郎の連載を受けて、全日本活字工業会はただちに水面下で慌ただしい動きをみせることになった。昭和44年5月22日、全国活字工業会は全日本活字工業会第12回総会を元箱根の「山のホテル」で開催し、その記録は『印刷界』第22号にみることができる。そもそもこの時代の同業者組合の総会とは、多分に懇親会的な面があり、全国活字工業組合においても、各支部の持ち回りで、景勝地や温泉旅館で開催されていた。そこでは参加者全員が、浴衣姿や、どてら姿でくつろいだ集合写真を撮影・記録するのが慣例であった。

たとえばこの「活字発祥の碑」建立問題が提起される前年の『活字界』(第17号、昭和43年8月20日)には、「第11回全日本活字工業会総会、有馬温泉で開催!」と表紙にまで大きく紹介され、どてら姿の集合写真とともに、各種の議題や話題がにぎやかに収録されているが、牧治三郎の連載がはじまった昭和44年の総会記録『活字界』第22号では、「構造改善をテーマに講演会、永年勤続優良従業員を表彰、次期総会は北海道で」との簡潔な報告があるだけで、いつものくつろいだ集合写真はみられず、背広姿のままの写真が掲載されて、地味なページレイアウトになっている。

このときの総会の実態は、全国活字工業会中部地区支部長・津田太郎によって、「活字発祥の碑」建立問題の緊急動議が提出され、かつてないほど熱い議論が交わされていたのである。すなわち、歴史研究にあたっては、記録された結果の検証も大切ではあるが、むしろ記録されなかった事実のほうが、重い意味と、重要性をもつことはしばしばみられる。

有馬温泉「月光園」で開催された「第11回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第18号、昭和43年8月20日)

元箱根「山のホテル」で開催された「第12回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)。ここでの主要なテーマは、牧治三郎の連載を受けた、津田太郎による緊急動議「活字発祥の碑」建立であったが、ここには一切紹介されていない。ようやく翌23号の報告(リード文)によって、この総会での慌ただしい議論の模様がはじめてわかる。

この「第12回全日本活字工業会総会」においては、長年会長職をつとめていた古賀和佐雄が辞意を表明したが、会議は「活字発祥の碑」建立の議論に集中して、会長職の後任人事を討議することはないまま時間切れとなった。そのため、総会後に臨時理事会を開催して、千代田印刷機製造株式会社・千代田活字有限会社・千代田母型製造所の社主/古賀和佐雄の会長辞任が承認され、後任の全国活字工業会会長には、株式会社津田三省堂社長/津田太郎が就任した。
古賀和佐雄は7年にわたる会長職在任は長すぎるとし、また高齢であることも会長辞任の理由にあげていた。しかし後任の津田太郎は1896年、明治29年1月28日うまれで当時75歳。高齢を理由に辞任した古賀和佐雄は明治31年3月10日うまれで当時73歳であった。すなわち高齢を理由に、若返りをはかって辞任した会長人事が、その意図に反して、73歳から75歳へのより高齢者への継承となったわけである。
津田太郎はそれ以前から全日本活字工業会副会長であったが、やはり高齢を理由として新会長への就任を固辞し、人選は難航をきわめたそうである。しかし、たれもが自社の業績衰退とその対応に追われていたために、多忙を理由として、激務となる会長職への就任を辞退した。そのためよんどころなく津田が、高齢であること、名古屋という遠隔地にあることを理事全員に諒承してもらうという条件付で、新会長への就任を引き受けたのが実態であった。こうした内憂と外患をかかえながら、全国活字工業会による隔月刊の機関誌『印刷界』には、しばらく「活字発祥の碑」建立に向けた記録がほぼ毎号記録されている。そこから主要な記録を追ってみたい。

◎『活字界』(第23号、昭和44年11月15日
特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記

この東京築地活版製造所記念碑設立顛末記には、無署名ながら、広報委員長・中村光男氏の記述とみられるリード文がある。そのリード文にポロリともらされた「懇願書」としるされた文書が、同一ページに「記念碑設立についてのお願い」として全文紹介されている。この「懇願書、ないしは、記念碑設立についてのお願い」の起草者は、平野富二にはまったく触れず、本木昌造と野村宗十郎の功績を強調するとする文脈からみて、牧治三郎とみられる。ただし牧の文章はときおり粗放となるので、全日本活字工業会で協議のうえ形式を整えたものとみている。

また「記念碑設立についてのお願い」あるいはその「懇願先」となった懇話会館への案内役は、当時67歳を迎え、ごくごく小規模な活版印刷材料商を営んでいた牧治三郎があたっている。ときの印刷界・活字界の重鎮が連れだって「懇願書――記念碑設立についてのお願い」を携え、懇話会館を訪問するために、印刷同業組合のかつての一介の書記であり、小規模な材料商であった牧が、どうして、どのようにその案内役となったのか、そして牧の隠された異才の実態も、間もなく読者も知ることになるはずである。そもそも株式会社懇話会館という、いっぷう変わった名称をもつ企業組織のことは、ほとんど知られていないのが実情であろう。同社のWebsiteから紹介する。

◎ 企業プロフィール

昭和13年(1938年)春 戦時色が濃くなって行く中、政府は戦時物価統制運用のために軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手、銅配給統制協議会を最高機関として、複数の関連各機関が設立されました。

一方その効率的な運用のためには、都内各所に散在していたこれら各機関の事務所を一ヶ所に集中させることが求められ、同年11月に電線会社の出資により株式会社懇和会館が設立され、同時に現在の地に建物を取得し、ここに銅配給統制協議会・日本銅統制組合・電線原料銅配給統制協会・日本故銅統制株式会社・全国電線工業組合連合会などの関連諸団体が入居されその利便に供しました。

その後昭和46年(1971年)に銀座に隣接した交通至便な立地条件に恵まれたオフィースビルとして建物を一新し、コンワビルという名称で広く一般の企業団体にも事務所として賃貸するほか、都内に賃貸用寮も所有し、テナント各位へのビジネスサポートを提供する企業として歩んでおります。

◎ 会社概要

社  名    株式会社 懇話会館
所 在 地     東京都中央区築地一丁目12番22号
設  立       1938年(昭和13年)11月28日
株  主        古川電気工業株式会社
住友電気工業株式会社
株式会社 フジクラ
三菱電線工業株式会社
日立電線株式会社
昭和電線ケーブルシステムズ株式会社
事業内容
1) 不動産の取得
2) 不動産の賃貸
3) 前各号に付帯する一切の業務

ここで筆者はあまり多くをかたりたくはない。ただ『広辞苑』によれば、【統制】とは、「統制のとれたグループ」の用例のように、ひとつにまとめておさめることであり、「言論統制」の用例のように、一定の計画に従って、制限・指導をおこなうこと、とされる。また【統制経済】とは、国家が資本主義的自由経済に干渉したり、計画化すること。雇用統制、賃金統制、軍事的強制労働組織などを含む労働統制、価格統制、配給統制、資材・資金の統制、生産統制などをおこなうとされる。

ここで少しはなしがずれるようだが、広島に無残な姿をさらしている、通称「原爆ドーム」に触れたい。この建物は国家自体がなんらかの薬物中毒にでもかかったように、闇雲に戦争に突入していった、悲しい時代の記念碑的な建物として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。そして、「二度とおなじような悲劇を繰りかえさない」という戒めと、願いを込めて、「負の世界遺産」とも呼ばれている悲しい建造物である。

広島県商品陳列所(1921―33頃)から、「原爆ドーム」となった建物。
ウキペディアより。

この現在「原爆ドーム」と呼ばれている建物は、1915年(大正4)に、チェコ人のヤン・レッツェル(Jan Letzel)の設計による、ネオ・バロック風の「物産陳列館」として完成した。その後1921年「広島県立商品陳列所」と改称され、さらに1933年「広島県産業奨励館」となった。この頃には盛んに美術展が開催されて、広島の文化の拠点としても貢献したとされる。

しかしながら、戦争が長びく中で、1944年(昭和19)3月31日にその産業奨励の業務を停止し、かわって、内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。つまりここには「土木・木材関係の統制機関」がおかれていたことになる。そしてあまりにも唐突に廃業が決定された東京築地活版製造所の旧社屋には、「銅を中心とする金属関係の統制機関」が入居した。すなわち「統制機関」としては、広島のある時期の「内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの行政機関・統制組合の事務所、現在の原爆ドーム」と、戦前のある時期の懇話会館は、「聖戦遂行」のための、国家権力を背景とした「統制機関」としては同質の組織だったことになる。

そして1945年8月6日午前8時15分17秒、広島の空に一瞬の閃光が炸裂して、この歴史のある貴重な建物は、中央のドーム部分をのぞいて崩壊した。ここ広島にも、「統制」による悲しい物語が人知れずのこされている。そして、東京築地活版製造所の新ビルディングは、完工直後の関東大地震、太平洋戦争による空襲のはげしい罹災をへながらも、よく使用にたえた。しかしながらさすがに老朽化が目立つようになって、1971年(昭和46)に取り壊され、あらたなオフィスビルとして建物を一新されて、コンワビルという名称でこんにちにいたっているのである。

以上を踏まえて、株式会社懇話会館の株主構成をみると、いずれの株主も電線製造という、銅を大量に使用する大手企業ばかりであり、その生産・受注にあたっては、熾烈な企業間競争をしている企業がずらりとならんでいる。それらの企業が、戦時統制経済体制下にあったときならともかく、1938年(昭和13)から70年余にわたって、呉越同舟、仲良く、ひとつのビルを共有していることには素朴な疑問を持たざるをえない。

また、その発足時の母体企業となった銅配給統制協議会、なかんずく日本故銅統制株式会社とは、時局下で陰湿に展開された「変体活字廃棄運動」を牽引した、官民一体の統制組織であり、活字界における故銅――すなわち貴重な活字母型を廃棄に追い込んだ組織であったことは、まぎれもない事実としてのこっている(片塩二朗「志茂太郎と変体活字廃棄運動」『活字に憑かれた男たち』)。このわが国活字界における最大の蛮行、「変体活字廃棄運動」に関しては、さらに詳細に、近著「弘道軒清朝活字の製造法並びにその盛衰」『タイポグラフィ学会論文集 04』に記述したので、ぜひご覧いただきたい。

ここで読者は牧治三郎の主著のひとつ、『創業二五周年記念 日本印刷大観』(東京印刷同業組合、昭和13年8月20日)を想起して欲しい。同書はB5判850ページの大冊であるが、その主たる著者であり、同会の書記という肩書きで、もっぱら編輯にあたったのは牧そのものであった。そして懇話会館が設立されたのも「昭和13年春」である。さらに、牧の地元、東京印刷同業組合京橋地区支部長・高橋與作らが「変体活字廃棄運動」を提唱したのも昭和13年の夏からであった。さらに牧がつづった昭和10―13年にかけての東京築地活版製造所の記録には以下のようにある。これだけをみても、1938年(昭和13)とは、東京都中央区(旧京橋区)における牧の周辺のうごきは慌ただしく、解明されていない部分があまりにも多いのである。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。
・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。
・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。
・昭和11年(1936年) 7月
『 新刻改正五号明朝体 』 ( 五号格 ) 字母完成活字発売。
・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。
・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。
牧治三郎「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』
(編輯発行・同碑建設委員会、昭和46年6月29日)

すなわち、牧は印刷同業組合の目立たない存在の書記ではあったが、1920年(大正9)から1938年(昭和13)の東京築地活版製造所の動向をじっと注目していたのである。そして長年の経験から、だれをどう突けばどういう動きがはじまるか、どこをどう突けばどういうお金が出てくるか、ともかく人とお金を動かすすべを熟知していた。もうおわかりとおもうが、牧は戦前から懇話会館とはきわめて昵懇の仲であり、その意を受けて動くことも多かった人物だったのである。

筆者は「変体活字廃棄運動」という、隠蔽され、歴史に埋もれていた事実を20余年にわたって追ってきた。そしてその背後には、官民合同による統制会社/日本故銅統制株式会社の意をうけ、敏腕ながらそのツメを隠していた牧治三郎の姿が随所にみられた。それだけでなく、戦時下の印刷・活字業界の「企業整備・企業統合――国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――『広辞苑』」にも牧治三郎がふかく関与していたことに、驚愕をこえた怖さをおぼえたこともあった。そのわずかばかりの資料を手に、旧印刷図書館のはす向かいにあった喫茶店で、珈琲好きの牧とはなしたこともあった。ともかく記憶が鋭敏で、年代までキッチリ覚えていた牧だったが、このときばかりは「戦争中のことだからな。いろいろあったさ。たいてえは忘れちゃったけどな」とのみかたっていた。そのときの眼光は鈍くなり、またそのときにかぎって視線はうつむきがちであった……。

つまり牧治三郎には懇話会館とのそうした長い交流があったために、懇話会館に印刷・活字界の重鎮を引き連れて案内し、この記念碑建立企画の渉外委員として、ただひとり、なんらの肩書き無しで名をのこしたのである。もしかすると、この活字発祥の地を、銅配給統制協議会とその傘下の日本故銅統制株式会社が使用してきたこと、そしてそこにも出入りを続けてきたことへの贖罪のこころが牧にはあったのかもしれないと(希望としては)おもうことがある。それがして 、牧自筆の記録、「以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で[も] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動[への] 参加を願うのもよいと思う 」という発言につらなったとすれば、筆者もわずかながらに救われるおもいがする。

[編集部によるリード文]本誌第21,22号の牧治三郎氏の記事が端緒となって、本年の総会[昭和44年5月22日、元箱根・山のホテルで開催]において津田[太郎]理事から東京築地活版製造所の記念碑設立の緊急動議があり、ご賛同をえました。その後東京活字工業組合の渡辺[初男]理事長は数次にわたり、[古賀和佐雄]会長・[吉田市郎]支部長・津田理事と会談の結果、単に活字業者団体のみで推進すべきことではないので、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会、東京都印刷工業組合に協力を要請して快諾を得たので、去る8月13日、古賀和佐雄会長、津田副会長、渡辺理事長、ならびに印刷3団体を代表して井上[計、のちに参議院議員]副理事長が、牧氏の案内で懇話会館・八十島[耕作]社長に面接し、別項の懇願書を持参の上、お願いした。八十島社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的に記念碑設立を諒承され、すべてをお引き受けくださった。新懇話会館が建設される明春には記念碑が建つと存じます。⌘

活字発祥記念碑建設趣意書

謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ、本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。

先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。

爾来歴代社長の撓まぬ努力により、書風の研究改良、ポイント活字の創製実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。

また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。

更に同社は時流に先んじて、明治の初期、銅[版印刷]、石版印刷にも従事し、多くの徒弟を養成して、平版印刷業界にも寄与し、印刷業界全般に亘り、指導的立場にありましたことは、ともに銘記すべきであります。

このように着々社業は進展し、大正11年鉄筋新社屋の建築に着工、翌年7月竣工しましたが、間もなく9月1日の大震火災の悲運に遭遇して一切を烏有に帰し、その後鋭意再建の努力の甲斐もなく、業績は年々衰微し、昭和13年3月、遂に廃業の余儀なきに至り、およそ70年の歴史の幕を閉じることとなったのであります。

このように同社は鉛活字の鋳造販売と、印刷機械の製造の外に、活版、平版印刷に於いても、最古の歴史と最高の功績を有するのであります。

ここに活字製造業界は、先賢の偉業を回想し、これを顕彰するため、同社ゆかりの地に「東京における活字文化発祥」の記念碑建設を念願し、同社跡地の継承者、株式会社懇話会館に申し入れましたところ、常ならざるご理解とご好意により、その敷地の一部を提供されることとなりましたので、昭和46年3月竣工を目途に、建設委員会を発足することといたしました。

何卒私共の趣意を諒とせられ、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げる次第であります。    敬 具

昭和45年9月

発起人代表    全日本活字工業会々長   津田太郎
東京活字協同組合理事長  渡辺初男
協    賛    全日本印刷工業組合連合会
東京印刷工業会
東京都印刷工業組合
記念碑建設委員会委員
委員長        津田太郎(全日本活字工業会々長)
委員長補佐     中村光男(広報委員長)
建設委員           主任 吉田市郎(副会長)
宮原義雄、古門正夫(両副会長)
募金委員           主任 野見山芳久(東都支部長)
深宮規代、宮原義雄、岩橋岩次郎、島田栄八(各支部長)
渉外委員          主任 渡辺初男(東京活字協同組合理事長)
渡辺宗助、古賀和佐雄(両工業会顧問)、
後藤 孝(東京活字協同組合専務理事)、牧治三郎

◎『活字界』(第27号、昭和45年11月15日)
特集/活字発祥記念碑来春着工へ、建設委員会で大綱決まる

紹介された「記念碑完成予想図」。
実際には設計変更が求められて、ほぼ現在の姿になった。

旧東京築地活版跡に建立する「活字発祥記念碑」の大綱が、このほど発足した建設委員会で決まり、いよいよ来春着工を目指して建設へのスタートを切った。建設に要する資金250万円は、広く印刷関連業界の協力を求めるが、すでに各方面から基金が寄せられている。

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全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となり、印刷関係団体の協賛を得て進めてきた、東京における活字発祥記念碑の建設が軌道に乗り出した。同建設については、本年6月北海道で開かれた全国総会で正式に賛同を得て準備に着手、7月20日の理事会において発起人および建設委員を選出、8月21日、東京・芝の機械振興会館で第1回の建設委員会を開催した。

同会では、建設趣意書の大綱と建設・募金・渉外など委員の分担を決め、募金目標額は250万円として、まず岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになった。

9月8日、津田[太郎]委員長をはじめ、松田[友良]、中村[光男]、後藤[孝]の各委員が、岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行なった。

ついで、第2回の建設委員会を9月19日、東京の赤坂プリンスホテルで開催、岡崎石工団地における調査の報告および作成した記念碑の予想図などについて説明があり、一応これらの線に沿って建設へ推進することになり、さらに、募金総額250万円についても再確認された。

このあと業界報道紙11社を招いて記者会見を行ない、建設大綱を発表するとともに、募金の推進について紙面を通じてPRを求めたが、各紙とも積極的な協力の態度をしめし、業界あげての募金運動が開始された。

活字発祥記念碑は、旧東京築地活版製造所跡(中央区築地1丁目12-22)に建設されるが、同地には株式会社懇話会館が明年4月にビルを竣工のため工事を進めており、記念碑はビルの完成後同会館の花壇の一隅に建設される。なお、現在記念碑の原案を懇話会館に提出して検討されており、近日中に最終的な設計ができあがることになっている。

◎『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に


「活字発祥の碑」完成予想図と、碑文の文面並びにレイアウト。

昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。

次回のA Kaleidoscope Report 004では、いよいよ「活字発祥の碑」の建立がなり、その除幕式における混乱と、狼狽ぶりをみることになる。すなわち、事実上除幕式を2回にわたっておこなうことになった活字界の悩みは大きかった。そしてついに、牧治三郎は活字界からの信用を失墜して、孤立を深めることになる。

朗文堂-好日録002 電子出版の未来

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉爆睡の昨夜――仕事も、依頼原稿もだいぶたまっているのに……。きのうは新宿私塾が西尾彩さんの特別講座だったことをいいことに、隣室でA Kaleidoscope Report 003の執筆。講座は5時に終わったが、メシも喰わず一気呵成に書き終えて擱筆。時計をみたら10時を過ぎていた。帰途にメシをかき込んだら睡魔がおそった。考えたら6月頃から土日をまともに休んだことはない。風呂もなにもなく、そのまま爆睡。

◉早起きは三文の徳――スッキリとした目覚め。早朝7時。新聞を読み終えて、このごろお気に入りのカフェに。中西秀彦著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』をかかえていく。ここはベローチェでもドトールでもないのだが、名前はまだ知らない。ただ珈琲がそこそこにうまいのと、ともかく空いているので、煙草くさくないのが良い。このごろ肩身の狭い愛煙家でも、やはりケムイのは嫌なのだ。どうせなら、おいしく煙草をくゆらしたいのだ(我が儘を承知で、せめて日曜の朝ぐらいだ)が。

◉中西秀彦さんのこと――中西さんは、京都の老舗印刷所・中西印刷株式会社の経営者で、執筆の主舞台は印刷学会出版部の『印刷雑誌』での連載である。その軽妙洒脱な語り口が好評で、連載も長期にわたっているし、単行本も売れているようだ。ところがその連載の前任者はなんと筆者であった。筆者の連載は18ヶ月であった。それに大幅に加筆して『活字に憑かれた男たち』として発売されたが、売れているとはいいがたい。筆力の差か。

◉中西亮さんのこと――中西印刷の六代目社長、中西亮さんとはふしぎなご縁があった。きっかけは1914年(大正3)うまれ、ただいま96歳のオフクロ。オヤジが亡くなった25年ほど前からしばらく、ようやく身軽となったオフクロは「お父ちゃんが、エジプト、ギリシャ、蒙古、アラスカ……行きたいっていっていたから」とまことに都合のよい理由を見つけて、海外旅行を楽しむようになっていた。もちろん老人のことゆえ、単独行ではなく、添乗員つきの団体旅行がおもだった。気に入りの旅行代理店があったらしい。そこでオフクロとしばしば海外旅行にご一緒したのが中西亮さん。ある日オフクロが「お前と同じで、ホテルでも、レストランでも、メニュー、コースター、マッチまで集めて、どこでも勝手に町の印刷屋さんに飛び込む京都のひとがいる。面白くていいかただから一度お訪ねしてごらん……」という次第で、京都の中西印刷さんを二度ほど訪問したことがあった。おもに京都大学の学術書用の特製活字を見せていただいた。そこには一朝一夕の蓄積ではない、素晴らしい「金属活字」があった。

◉ふたたび中西秀彦さんのこと――かつて『本とコンピュータ』という雑誌があった。創刊から3年ほど筆者も連載記事を執筆していた。編集担当は、いまは怪しげな筆名にかわった河上進さんだった。ある日怪しげさんが「オンデマンド印刷、どうおもわれます?」とやってきた。「あんなもの、ゼロックスのトナー・コピーだろう」。「そうそう、それでいきましょう」。怪しげさん、なにやら嬉しげにひとりで納得。しばらくして大日本印刷のgggギャラリーのビルで「激論! オンデマンド印刷の未来」と題する対談が設定された。そのときの「オンデマンド印刷、バラ色の未来の論客?」としての対談相手が中西秀彦さんだった。筆者は怪しげさんが勝手に設定した「オンデマンド印刷だと? ふざけんな! 派」だったらしい。

◉アンダースローの軟投型の投手――対談は1時間の設定だったが、話題がまったく噛み合わず、3時間は優に超えても終わらなかった。中西さんはときおりアンダースローから巧妙な変化球を投じてくる。筆者はジャイアンツの小笠原よろしく、あたりかまわず(なんの思惑もなく)バットをブンブン振りまわす「試合」に終始した。気の毒だったのはカメラマン。最初に対談風景の写真を撮り終えていたが、帰るに帰れず、カメラを抱いたままウツラウツラしていたのを覚えている。あれから何年経ったのだろう。整理の悪い筆者はその掲載誌も探し出せないでいる。それより皆さん、オンデマンド印刷って知っていますか? 使っていますか? オンデマンド印刷はだいぶ進歩して、筆者はときおり急ぎで少部数の「印刷≒コピー」に使ってます。いまやたれもお先棒は担がないようですけどね。

◉中西秀彦著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』――カフェで2時間ほどかけて読了。書名のタイトルはチト大袈裟かな? 著者は出版社と印刷所が主従関係にあり、あたかも別途の存在としてかたっているが、もともと印刷所から創業して出版社になった版元は多いし、いまでも出版部と印刷部を併営している企業はたくさんあるしなぁ。だから感想はなし。いまさら電子出版に抵抗するはなしをされても困ったなぁ……、というのが実感。便利で安いものは受け入れられるもの。それでダメだったら見捨てられるだけのはなし。それでも定価1,680円、一読の価値はありそうだ。ただし、今朝の珈琲の味はいつもより苦かった。

◉19日[金]に来社した新宿私塾修了生曰く。「掲示板、ブログ、チャット、ミクシィ、ツィッターってやってきたけど、どれも荒れちゃうんでね。もうツィッターも飽きちゃたし、やめました……」。オイオイ迂生は、みんながツィッターにいってブログが空いたんで、周回遅れを笑われながら、シメタとばかりブロガーになったばかりだぞ!

◉4F-Bでは、はるばる金沢から来社されたご夫婦が、Adana-21J操作指導教室受講中。5時で終わり。日帰り日程。きょうは、きょうのうちに帰ろう。

◉11月21日[日]、本日曇天。日日之好日。