投稿者「katashio」のアーカイブ

朗文堂-好日録001 西尾綾さん「製本術入門」

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉本日の新宿私塾は、西尾彩さんを講師に迎えての特別講座「製本術入門」ワークショップ。西尾さんには開塾以来ずっと新宿私塾の講師をお願いしている。外連味 ケレンミ のない、堅実な製本術の講座である。隣室ではヨスト・アマンの職人絵図さながらの作業がつづいている。道具もこの絵図とさして変わらないものがもちいられている。いつも技芸の伝統、書物の歴史におもいを馳せるワークショップとなる。


◉11月17日、タイプコスミイクが「正調明朝体B Combination 3」、「和字たおやめ Family 7」を発表した。月内での発売開始に向けて、スタッフは最後のチェックに余念がない毎日である。ご予約、発売日のお問い合わせもいただいているようで嬉しいことである。もうほんのしばらくお待ちいただきたい。

◉木版刊本や浮世絵の例をあげるまでもなく、かつての版画はメディアであり、庶民の身近な存在だった。幕末のほぼ同時期に伝来した、銅版画と石版画も同様な歴史を背負って導入された。それがいつから、実用の工芸や技芸としての存在を失って、額縁のなかに鎮座し、ギャラリーの壁展示によって鑑賞するだけの芸術乃至は美術に変わったのだろう。

◉12月4-5日、第35回全国大学版画学会による版画展が町田市立国際美術館で開催される。アダナ・プレス倶楽部は昨年につづいて公開セミナーとワークショップに協力。昨年はとかく忘れられがちだった「リノカット」の魅力を再現することにつとめて反響を呼んだ。ピカソが、ダダイストたちが、そしてエミル・ルーダーが、「リノカット」を自在に駆使して、膨大な作品や書物をのこしていたことは意外に知られていなかったようだ。とりわけルーダーの作品は写真製版の網点だとしかおもっていないようだ。そこで愚考! 「そうだ! ふたたび、みたび、新島さんに、ドットのスタディ」の講習会を依頼しよう。

◉版画展はことしも意欲的なセミナーとするべく、9月から当番校の日本大学藝術学部と協議をはじめた。こころは「版画よ、額縁から脱出せよ!」。11月にはいってからは、4F- Bが空いている日には、ときおり製本担当者を交えて深夜までの準備作業がつづいている。テーマは「版画と活字」。公開制作では「製本した作品をみながらの、版画と活字作品制作のデモンストレーション」である。詳細はアダナ・プレス倶楽部ニュースに紹介されている。昨夜は早朝5時までの作業だった。武井武雄による『地上の祭』の完成を見守る志茂太郎の心境だった(すこし大げさかな?)。それでもチョット凄いものができそうなうれしい予感がした。

◉朗文堂Websiteの一隅に、あたらしいブログ「花筏 はないかだ」を開設。水面 ミナモ におちたひとひらの花弁のように、はかなくアーカイブの大海に沈むのがよい。乞い願わくば、アーカイブをふくめてのご愛読を。

◉本日、快晴。日日之好日。

花こよみ 001

詩のこころ無き身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく
(朗文堂ニュースより移転)

 

さまよいくれば 秋くさの
ひとつのこりて 咲きにけり
おもかげ見えて なつかしく
手折ればくるし 花ちりぬ

                                         ――― 佐藤 春夫

タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

【角 字 かく-じ】

10×10の格子-グリッドで構成された工芸の文字

「 伊呂波寄名頭字儘 ―― 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし 」
[ 釈読 : この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし ]
いわゆる文様帳 『伊呂波引定紋大全』 ( 盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地] 明治30年頃  雅春文庫蔵)

「かくじのわり」 ── おもに染色士がもちいた工芸の文字として、角字の割り出し技法のほか、各種の 「地紋 モヨウ 割り」 として、萬字繋  マンジツナギ、毘沙門 ビシャモン 地紋、亀甲 キッコウ 地紋などが、その製作技法とともに簡潔に紹介されている。
いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)

ブログ版朗文堂ニュース、2010年10 月05日号に、《 紙漉ツアー好評裡に終了しました 》  と題する報告記事がある。
その最後の部分で、五日市にある 「黒茶屋」 の暖簾を紹介した。 ここに改めて該当部分を紹介する。hakomoji1-300x193

サービスカットはランチョン会場 「黒茶屋」 の暖簾です。 レタリング関係の書物ではこうした文字を 「籠字」 としたものもありますが、チト疑問。   「籠字」 は双鉤字であり、籠写しにした文字です。  関心のあるかたは 『広辞苑』 でご確認ください。
それではこうした文字はなんというのか、「箱字?」……。  かつてはイナセな職人のハッピや、祭りの印し袢纏などでよくみた形象です。  この字の由来についてご存知のかたはご教授ください。


黒茶屋と書いてありました。
*        *        *

しばらくして、《紙漉ツアー》 にも同行された、友人の春田さんから、写真画像が添付された以下のような @メールをいただいた。

昨夜、御社ブログの 「黒茶屋の暖簾」 の項を拝見いたしました。
先日はうかつにも、わたしはこの文字を 「箱文字」と呼んでいましたが、その後、手元にあった明治30年代発行の『伊呂波引定紋大全』 という、いわゆる文様帳(呉服の文様を確認するために使用していたものらしい)を調べてみました。 そこには 「かくじ」(目次には角字)という言葉が用いられていました。「かくじのわり」 とされた文字作成用のマス目も送信致します。

この 『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』 のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。

ところが現代では『伊呂波引定紋大全』 のような実用書が刊行されることがすくなく、むしろ「芸術書」 や 「作品集」 が氾濫しているために、いつのまにか、こうした工芸 ・ 技芸の文字があったことが忘れられている。
ときおり筆者は 「 現代の文字と活字の風景はさびしいものがある 」 としるすのには、こうした背景もある。
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春田さんのご指摘のとおり、「黒茶屋」の暖簾にしるされていた文字は、レタリング書の解説などにみる「籠字・駕籠字」ではなく、あきらかに「角字 かくじ」であった。
おそらく「黒茶屋」の暖簾は、現代のレタリングデザイナーや、タイプ・デザイナーなどと称するひとの手によるものではないだろう。
なぜなら、こうした人たちは「角字」 を知らないから書けないのである。 それだけのことである。

ただし、プロであるから、その構成と技法を知れば、書けるようになることはもちろんである。 しかしながら、悲しいことに、ほかの多くの技芸家と同様に、わが国の「デザイン」とされる分野は、長い欧化思想崇拝の歴史をもち、「技芸家」にかえて「芸術家・美術家」であろうとした。そして、いまだにその埒外にたつことができないでいる。

もちろんかつての染色士たちも、「角字」を「紋帖」などの資料が無くてはこうした文字を書くことはできなかったはずである。  ただ、かつての染め物士は 「角字」の存在を知っていたし、簡略な実用書をもっていた。  したがって目的と用途にあわせて、自在に文字や文様を書き分けることができた。

「かくじのわり」 の写真をみると、この実用書に紹介された 「伊呂波寄名頭字儘」 は、10 × 10のグリッド ( 格子 ) によって分割され、構成された文字であることがわかる。 つまり書芸の文字ではなく、工芸の文字である。
換言すると、現代のデジタル ・ タイプの業界用語では、「ビット・マップ」 が10 × 10 の100 の格子によって構成された文字である。 したがって、ドット・フォントやビットマップ・フォントと「基本理念」においてはなんら異なるところがない。
これだけをみても、明治までの町の無名な技芸家たちは、現代のレタラーやタイプデザイナーに負けない、あるいは凌駕するだけの、豊富な知識教養と、すぐれた技倆をゆうしていたことがわかる。

與談ながら…… 、若くて意欲的なデザイナーが、しばしば 『グリッド・システムズ』を教えて欲しいと、勢い込んでやってくることがある。
以前はその原本と関連図書を紹介し、拙訳のコピーを渡したりもしていた。  ところが説明すればするほど、かれらは次第にガッカリした表情になり、拙訳を渡すと明らかに期待はずれといった表情にかわり、ついには当初の勢いはどこに消えたのか、肩を丸めてお帰りになることが多かった。

どうやらこうした人たちは、『グリッド・システムズ』が、欧州の一部の地域における、神話に満ちた秘伝か、なにやら玄妙な秘術であるかのような幻想をいだいてやってくるらしい。  もちろん一部ではそのように紹介する指導者も存在するのだろう。  どうやらそれに応えてあげなかったのがお気に召さなかったらしい。

閑話休題   角字は工芸者が伝えてきた文字であるから、『書道基本用語詞典』(春名好重ほか、中教出版、平成03年10月01日) には紹介されていない。
国語辞典としての 『 広辞苑 』 には ── かく-じ 【 角字 】 ③  模様 ・ 紋所などに用いる四角な字体。──  として紹介されている。

タイポグラフィ あのねのね 001 *淳化閣帖

じゅん-か-かく-じょう 【 淳 化 閣 帖 】

『淳化閣帖』 諸家古法帖巻五 中書令褚遂良書
(宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

『淳化閣帖』 款記 (宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

じゅん-か-かく-じょう 【 淳化閣帖 】
中国宋王朝第2代皇帝 ・ 太宗(976-997)が淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の、歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書であった王著(オウチョ ?―990)に命じて、編輯、摹勒(モロク 摸倣によって木石に彫刻)させた拓本による集法帖。10巻。

内容は、拓本集のような趣だが、全10巻中、3巻が王羲之 オウギシ、2巻が王献之 オウケンシで、二王父子が別格の扱いになっている。その題を紹介する。

法帖第一  歴代帝王
法帖第二  歴代名臣
法帖第三  歴代名臣
法帖第四  歴代名臣
法帖第五  諸家古法帖
法帖第六  王羲之書一
法帖第七  王羲之書二
法帖第八  王羲之書三
法帖第九  王献之書一
法帖第十  王献之書二

法帖 ホウジョウ とは、先人の筆跡を紙に写し、石に刻み、これを石摺り拓本にした折り本のこと。 ここから派生した製本業界用語が 【法帖仕立て】 である。 法帖としては、この宋の『淳化閣帖』、明の『停斎館帖』、清の『余清斎帖』などが著名である。

『淳化閣帖』の用紙は 澄心堂紙 ヨウシンドウシ、墨は李廷珪墨 リテイケイボク をもちいて拓本とし、左近衛府、右近衛府の二府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」である。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられない。 わずかに東京台東区立書道博物館に、虫食いの跡が特徴的な2冊の原拓本『夾雪本 キョウセツボン』がのこされているのにすぎない。

同館所蔵書はきわめて貴重なもので、王羲之の書を収録した第七、第八の2冊である。これは完成直後の初版本(原拓本)とされている。命名の由来は、虫食いの跡が白紙の裏打ちによって、あたかも雪を夾んだようにみえることから「夾雪本」の名がうまれた。所蔵印から、顧従義、呉栄光、李鴻章(1823-1901) らの手をへて、1930年代に初代館長・中村不折の手にわたった。

『淳化閣帖』 法帖第七 王羲之書二 夾雪本 (台東区立書道博物館蔵)

『淳化閣帖』法帖第八 王羲之書三 夾雪本(台東区立書道博物館蔵)

「勅賜の賜本」 としての『淳化閣帖』は数量がきわめてすくなく、すでに宋代において、原刻本からふたたび石に刻して帖がつくられた。そのままの形で刻したものを翻刻本 ホンコクボン といい、その内容や順序に編輯を加えたものを類刻本という。

宋代の翻刻本では賈似道(カジドウ 1213-75) による『賈刻本 カコクボン』、寥瑩中 リョウエイチュウ による『世綵堂本 セサイドウボン』が著名である。
重刻本としては『大観帖 タイカンジョウ』、『汝帖 ジョジョウ』、『絳帖 コウジョウ』、『鼎帖 テイジョウ』(書道博物館蔵)などがあるが、これらはいわゆるかぶせ彫りの「覆刻本」がおおく、真の姿を伝えているとはいいがたい。

明代になっても多くの翻刻本『淳化閣帖』がつくられた。顧従義 (コジュウギ 1523-88)による『顧氏本、玉泓館本 ギョクオウカンボン』、潘雲龍 ハンウンリュウ による『潘氏本、五石山房本 ゴセキサンボウボン』 などが著名である。

清代における翻刻本に『西安本』がある。これは現在陝西省西安の碑林博物館に展示されている。 重刻本としては清朝第6代皇帝 ・ 乾隆帝(在位1735-95)の勅命による『欽定重刻淳化閣帖』 があるが、これはあらたな編輯をくわえてつくられた、重刻による法帖である。

一般に『淳化閣帖』 と称されるが、これは最後の款記に「淳化三年壬辰歳十一月六日奉旨摹勒上石」 とあることによる。 また完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。

編輯摹勒したのが王著であるとされるのも確証はない。 王著は淳化元年 (990) に歿している。 むしろ王著が中心となって編輯し、その没後に完成したものとみられている。

参考資料 / 『宋拓淳化閣帖 』  影印本 中国書店 1988年3月
         『書道基本用語詞典』 春名好重 中教書店 平成3年10月1日
           『台東区立書道博物館図録』 書道博物館編 台東区芸術文化財団 平成12年4月1日

花こよみ 003

詩のこころ無きわが身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介たてまつらん

吾 亦 紅 に 寄 す

夏――   風になびく青い草原は   海のうねりにも似て
渺たる高原のそこここに   たそかれが迫る

とおく はぐれ蝉か ひぐ
らしの聲
ひと叢の ワレモコウが 風に揺れている
ひめやかに 晩夏の気配が  艸叢を覆う

秋――  妍を競って咲き誇った高原の艸草が
慌ただしく  種子の実りを終える
ワレモコウは  仔鹿の脚にも似た か細い茎を艸叢に屹立す

艸叢から  ちいさなつぶやきが
「ねぇ、ねぇ、わたしって、きれい?」

晩秋――  花序のあえかな彩りは くらい赤褐色に色とりをかえ
万葉ひとは なんのゆえありて  かくも 可憐な
「 ワレ  マタ  ベニ  ナリ —— 吾 亦 紅 」の名を与えしか
寥風がつのる   真紅の鮮血ほとばしらせ 慟哭する花  ここにあり
「 ねぇ、ねぇ、わたしって、クレナイの花よ!」

        ―――― よみひと しらす

A Kaleidoscope Report 002

『 活字発祥の碑 』をめぐる諸資料から
機関誌『 印刷界 』と、
パンフレット『 活字発祥の碑 』

『 活字発祥の碑
編纂 ・ 発行 / 活字の碑建設委員会
昭和46年6月29日
B5判  28ページ  針金中綴じ  表紙1 ・ 4をのぞき 活字版原版印刷

活字界
発行 全日本活字工業会 旧在 千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年6月1日終刊80号 昭和59年5月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判 8ページ  無綴じ  活字版原版印刷
01号40号 編集長 中村光男、41号56号/編集長 谷塚 実、57号75号 編集長 草間光司、76号80号 編集長 勝村 章。   昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる昭和59年までは、全日本活字工業会の専務理事を務めていた

 

★       ★       ★

レポート第2編は、全日本活字工業会の機関誌 『 印刷界 』 と、同会発行のパンフレット 『 活字発祥の碑 』 のふたつのメディアを往復しながらの記述になる。 主要な登場人物は 「 株式会社中村活字店 ・ 第4代社長 中村光男 」 と、印刷業界の情報の中枢、印刷同業組合の書記を永らく勤めて、当時67歳ほどであったが、すでに印刷 ・ 活字界の生き字引とされていた 牧治三郎 である。

『 印刷界 』 は1964年(昭和39)の創刊である。 編集長は中村活字店第4代社長 ・ 中村光男氏。 この年は池田勇人内閣のもとにあり、経済界は不況ムードが支配していたが、東京オリンピックの開催にむけて、新幹線が東京 ― 大阪間に開業し、首都高速道路が開通し、東京の外環をぐるりと囲む4車線道路、環状七号線が開通した、あわただしい年でもあった。 こんな時代を背景として、大正時代からあった 活字鋳造協会と、戦時体制下の統制時代にあった 活字製造組合 を基盤としながら、全国の活字鋳造業社が集会をかさね、あらたな組織として 全日本活字工業会 に結集して、その機関誌 『 活字界 』 を発行したことになる。

世相はあわただしかったが、活字製造に関していえば、大手印刷所、大手新聞社などのほとんどが活字自家鋳造体制になっていた。 それがさらに機械化と省力化が進展して、活字自動鋳植機 ( 文選 ・ 活字鋳造 ・ 植字組版作業を一括処理した組版機 ) の導入が大手を中心に目立ったころでもあった。 そのため、活字母型製造業者には、瞬間的に膨大な数量の活字母型の需要がみられたものの、導入が一巡したのちは奈落に突き落とされる勢いで需要が激減して、まず活字母型製造業が、業界としての体をなさなくなっていた。 また、新興の写真植字法による文字組版を版下として、そこから写真製版技法によって印刷版をつくる オフセット平版印刷業者が、文字物主体の印刷物にも本格進出をはじめた時代でもあった。 つまり活字鋳造業界あげて、前途に漠然とした不安と、危機感をつのらせていた時代でもあった。 こんな時代背景を 「 欧州を旅して 」 と題して、株式会社晃文堂 ・ 吉田市郎氏が 『 活字界4号 』 (昭和40年2月20日、5頁 )寄稿しているので紹介しよう。

活字地金を材料とした単活字や、モノタイプ、ルドロー、ライノタイプなどの自動鋳植機による活字を [ 鋳造による熱処理作業があるために ] Hot Type と呼び、写植機など [ 光工学と化学技法が中心で 熱処理作業が無い方式 による文字活字を Cold Type といわれるようになったことはご存知のことと思います。 欧州においては、活版印刷の伝統がまだ主流を占めていますが、Cold Type に対する関心は急激に高まりつつあるようでした。[ 中略
こうした状況は、私たち 日本の 活字業界の将来を暗示しているように思われます。 私たちは活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません。 このあたりで活字業界の現状を冷静に分析 判断して、将来に向けた正しい指針をはっきりと掲げていくべきではないでしょうか。 現在のわが国の活字製造業は幸いにもまだ盛業ですが、その間にこそ、次の手を打たねばなりません。 したがって現在の顧客層の地盤に立って、文字活字を Hot Type 方式だけでなく、Cold Type 方式での供給を可能にすることが、わが活字業界が将来とも発展していく途のひとつではないかと考える次第です。

当時の吉田市郎氏は、全日本活字工業会副会長であり、東京活字協同組合の会長でもあった。 そして吉田氏はこの報告のとおり、1970年代初頭からその立脚点を、晃文堂時代の活字を主要な印刷版とする凸版印刷、すなわち 「 活版印刷 」 から、写真植字機と写植活字を開発し、オフセット平版印刷機までを製造するためにリョービ ・ グループに参入し「 株式会社リョービ印刷機販売 ・ 現リョービイマジクス 」 を設立した。

 この吉田の転進が、こんにちのプリプレスからポストプレスまでの総合印刷システムメーカーとしてのリョービ ・ グループの基礎を築くにいたった。すなわち吉田氏は かたくなに活字を鋳造活字としてだけとらえるのではなく、金属活字から写植活字への時代の趨勢を読みとっていた。 そして1980年代からは、写植活字から電子活字への転換にも大胆に挑む柔軟性をもっていた。 それでも吉田氏は全日本活字工業会の会員として永らくとどまり、金属活字への愛着をのこしていた。

『 活字界 』 には創刊以来、しばしば 「 業界の生き字引き 」 として 牧治三郎 が寄稿を重ねていた。 牧と筆者は15―10年ほど以前に、旧印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために自宅まで同行したこともある。 当時の牧治三郎はすでに100歳にちかい高齢だったはずだが、頭脳は明晰で、年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。 下記で紹介する60代の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から見据えるようにしてはなすひとだった。 そんな牧が印刷図書館にくると、「 あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」 という具合で、当時の司書 ・ 佐伯某女史が 「 古老が呼んでいるわよ…… 」 と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず駆けつけたものだった。

牧治三郎は幼少のころから活版工場で 「 小僧 」 修行をしていたが、「ソロバンが達者で、漢字もよくしっているので、いつのまにか印刷同業組合の書記になった 」 と述べていた。 「 昔は活版屋のオヤジは、ソロバンもできないし、簿記も知らないし……」 とも述べていた。 牧とは、東京築地活版製造所の元社長 ・ 野村宗十郎の評価についてしばしば議論を交わした。 筆者が野村の功績は認めつつ、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを 「 そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ 」 とたしなめられることが多かった ( 片塩二朗 『 富二奔る 』 )。

ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎 ( ヨシタロウ、法学者、1897―1980)のことで、いずれここでも紹介することになる人物である。 なにぶん牧は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記をつとめており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。 牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという野村宗十郎を高く評価して 「 野村先生 」と呼んでいた。したがって筆者などは 「 若ケエノ 」 とされても仕方なかったのだが、野村の功罪をめぐって、ときには激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

しかし 「 牧老人が亡くなった……」 と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、略歴を伺う機会もないままに終わったことが悔やまれた。 牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷 ・ 活字 ・ 製本関連の機器資料とその歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログやパンフレットのたぐいもよく収蔵していた。その膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒」の資料は蔵書の山から見いだせなかった。牧は「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」と述べていたが、どうやらそれは実現しなかったよで、蔵書は古書市場などに流出しているようである。幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出 」 『 活字界15 』 ( 昭和42年11月15日 ) にインタビュー記事があったので、40年以上前というすこしふるい資料ではあるが、牧治三郎の写真と略歴を紹介したい。

牧  治 三 郎  まき-じさぶろう
67歳当時の写真と蔵書印
1900年( 明治33 ) ―( 2003―5年ころか。 不詳 )。
印刷同業組合の事務局に1916年(大正5)以来長年にわたって勤務し、その間東京活字鋳造協会の事務職も兼務した。1980年ころは、中央区新川で 活版木工品 ・ 罫線 ・ 輪郭など活字版印刷資材の取次業をしていた。
主著 /「 印刷界の功労者並びに組合役員名簿 」 『 日本印刷大観 』 ( 東京印刷同業組合 昭和13年 )、連載 「 活版印刷伝来考 」 『 印刷界 』 ( 東京都印刷工業組合 )、 『 京橋の印刷史 』 ( 東京都印刷工業組合京橋支部 昭和47年11月12日 )。
牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「 禁 出門 治三郎文庫 」 とあり、現在も古書店などで、この蔵書印を目にすることがある。

ふしぎなビルディングがあった……。
このビルは、東京築地活版製造所の本社工場として、当時の社長 ・ 野村宗十郎(1857―1925)の発意によって 1923年(大正12)7月 ( 現住所 ・ 東京都中央区築地1-12-22) に竣工をみた。 ビルは地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。 ところがこのビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。 下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。

もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者などと同様に、蒸気ボイラーなどに裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の 「 鞴 フイゴ」 をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して 「 イモノ 」 をつくっていた。 ふつうの家庭では 「 火吹き竹 」 にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。 そのために鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を 玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること はなはだしかった。 ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは 「 踏鞴 タタラ 」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足を踏むことを 「 蹈鞴 タタラ を踏む 」 としてのこっている。

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇 ( 聖徳太子の父、在位585-87 ) の 『 職人鑑 』 に、 「 蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆 」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。 つまり高温の火勢をもとめて鋳物士 ( 俗にイモジ ) がもちいてきた用具である。 そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。 また太陽の高度がさがり、昼がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、活字鋳造所でも 「 鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭 」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。 すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であったことを理解しないと、「 活字発祥の碑 」 建立までの経緯がわかりにくい。

それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して 市街地中央に位置したために 類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。 ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれた厄災とは、 関東大地震 による、まさに 《 火災 》 であった。

1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を越えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。 このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった……。

130年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災 ・ 震災 ・ 戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂 ・ 第2代社長、津田太郎 ( 全日本活字会会長などを歴任。 1896 ― 不詳 )が 「 活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として 」 と題して 『 活字界4号 』 ( 昭和40年2月20日 ) に報告しているので 該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に 「 物資統制令 ・ 故鉛 」 ということばが出ている。 これを記憶しておいてほしい。

・明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字 [ 取次販売 ] 業を開始する。 最初は [ それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の ] 江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた 熱変形を生じた不良の 活字母型を使用したため [ ] 、活字 [ の仕上がりが ] 不良で評判 [ ] 悪く、翌43年2月から、東京築地活版製作所の代理店として再出発した。

・明治42年、現在の鶴舞公園で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。この頃の印刷界は [ 動力が ] 手廻しか、足踏式の機械が多く、動力 石油発動機、瓦斯機関 が稀にあった程度で [ あった。] 8頁 [ B4サイズほど ] の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で 現代の人にこの意味が判るでしょうか あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。

・活字界も太田誠貫堂が堂々 [ とブルース型 ] 手廻し鋳造機5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。 その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。 もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区 [ を含めた商圏 ] が市場であり、後年に至り 津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み? の経営 コンナ言葉はなかったと思う で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。 五号活字が1個1厘8毛、初号 [ 活字 ] が4銭の記憶である。

・取引きも掛売りが多く、「 活字御通帳 をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。 営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。 活字屋風景として夜 [ になって ] 文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ 説明しても現代っ子には通じないことです )をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。

・盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火 これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい をボウボウ燃やして、その下で [ 作業をし ]、また津田三省堂は 蝋燭を使用 燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの )、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル 説明を省く [Gas Mantle  ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、後漸く電灯になった。 当時は10燭光 タングステン球 であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ! と叱られた記憶すらある。

・当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。 もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う。 当時の 新愛知 名古屋新聞社 共に [ ブルース型 ] 手廻し鋳造機が2―3台あり五号 活字 位を鋳造していた )。

・大正元年 大阪の啓文社が支店を設け [ たために、地元名古屋勢は ] 大恐慌を来したが、2―3年で [ 大阪に ] 引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。当時は着物前垂れ掛で 小僧 と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。

・大正3年、津田三省堂が9ポイント 活字 を売り出した。 名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。 7年は全国的に米騒動が勃発した。 この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。

・大正11年、盛功社 が取次だけでなく 活字鋳造を開始。 国語審議会では当用漢字2,113字に制限 [ することを ] 発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。

・大正12年9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[]残さず灰燼に帰した。その為に津田三省堂も供給杜絶となり遂に殉難して休業のやむなきにいたった。

・大正14年秋、津田三省堂は鋳造機 手廻し [ ブルース型活字鋳造機 ] 6台 )を設置 [ して ] 再起した。 活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。

・大正15年、硝子活字 初号のみ )、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。

・昭和3年、津田三省堂西魚町より鶴重町に移転。 鉛版活字 仮活字 を売り出す。 また当時の欧文活字の系列が不統一を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。

・昭和5年1月、特急つばめが開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年10月の超特急は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。

・昭和5年、津田三省堂は林栄社の [ トムソン型 ] 自動 活字 鋳造機2台を新設、[ ブルース型 ] 手廻し鋳造機も動力機に改造し12台をフルに運転した。

・昭和6年、津田三省堂で宋朝活字を発売した。

・昭和8年、津田三省堂が本木翁の 陶製 胸像3000余体を全国の祖先崇拝者に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。

・昭和10年、満州国教科書に使用せられた正楷書を津田三省堂が発売した。 当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる。

・昭和12年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉( いずれも故人 ) の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923吋 と決定するという歴史的一頁を作った。

・昭和12年 7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。 物資統制令の発令 [によって] 活字の原材料から故鉛に至るまで その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。 受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。

・次第に空襲熾烈となり、昭和20年3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。

 津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに 「 新社屋を新築して その移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した 」のである。 活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰したが、不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。 野村宗十郎はさっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所からの支援をうけて再興にとりかかった。

ところが……、本来なら、あるいは設立者の平野富二なら、笑い飛ばすであろう程度のささいなことながら、震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去と、新築ビルの易学からみた、わるい風評がじわじわとひろがり、それがついに野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。 こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版を 『 活字発祥の碑 』 から紹介しよう。
1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所。

1923年(大正12)竣工なった東京築地活版製造所。
正門がある角度からの写真は珍しい

平野富二の首証文
東京築地活版製造所の前身、平野富二がここに仮社屋を建てて、長崎新塾出張活版製造所、通称 ・ 平野活版所の看板を掲げたのは1873年 ( 明治6 ) で、赤煉瓦の工場が完成したのは翌1874年のことであった。 長崎からの進出に際し、平野富二は ―― 長崎の伝承では 六海社 ( 現 ・ 長崎十八銀行の源流のひとつ ) に、平野家の伝承では薩摩藩出身の豪商 ・ 五代友厚 ( 大阪で造船 ・ 紡績 ・ 鉱山 ・ 製銅などの業を興し、大阪株式取引所、現大阪商工会議所などの創立に尽力。1835―85 ) 宛に―― 「 首証文 」 を提出して、資金援助を仰いでいた。 現代では理解しがたいことではあるが、明治最初期の篤志家や資産家は まだ侠気があって、平野のような意欲と才能のある若者の起業に際して、積極的な投資をするだけの胆力をもっていた。 筆者は、長崎の伝承と平野家の伝承も、ともに真実を伝えるものであり、平野はこの両社に 「 首証文 」 を提出して資金を得たとみているが、何分確たる資料はのこっていない。

すなわち平野富二は 「 この金を借りて、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる 」 ( 平野義太郎 『 印刷界31 4P  昭和46年11月5日』 ) という、悲愴なまでの覚悟と、退路を断っての東京進出であった。ときに平野富二26歳。

この 「 平野富二首証文 」 の事実は意外と知られず、長崎新塾活版製造所が、すなわち本木昌造が東京築地活版製造所を創立したとするかたむきがある。 しかしながら、平野の東京進出に際して、本木昌造は新街私塾の人脈を紹介して支援はしているが、資金提供はしていないし、借入金の保証人になることもなかった。 それでも平野は可憐なまでに、本木を 「 翁 」 としてたて、その凡庸で病弱な後継者 ・ 本木小太郎に仕えた。

東京築地活版製造所の創立者を 本木昌造におくのはずっと時代がさがって、野村宗十郎の社長時代に刊行された 『 東京築地活版製造所紀要 』 にもとづいている。 これもちかじか紹介し たい資料である。 薩摩藩士でありながら、本木昌造の新街私塾にまなび、大蔵省の高級官僚だった野村宗十郎を同社に迎えたとき、どういうわけか平野富二は倉庫掛の役職を野村に振った。 おそらく活字製造に未経験だった野村に、まず在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は どうやらこの待遇に不満があったとみられる。 しがたって野村が昇進をかさね、社長就任をみてからは、東京築地活版製造所の記録から、平野の功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。

移転当時は大火災の跡地であった築地界隈
東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。―― 「 平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 ( 五千石 ) 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった」。

ところが、牧治三郎が江戸切絵図で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。 どうやら牧はこの記録を見落としたようだが、この日、銀座から築地一帯に強風のなかでの大火があって、築地では西本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一帯が焼け野原と化した。 そして新政府は、同年7月13日に東京中心部の墓地を移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで 雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大墓地をつくって市中から墓地の移転をすすめていた。 したがって築地西本願寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、これらの新設墓地へ移転していたのである ( 『 日本全史 』 講談社 918ページ 1991年3月20日 )。

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事中の歌舞伎座のあたり、采女ヶ原の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷 現松竹ビル )、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所 現懇話ビル となった。 いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が上野景範家で、弘道軒 神﨑正誼がこの上野の長屋に寄留して 清朝活字 を創製した。 活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。


大火のあとの煉瓦建築
創業時からの東京築地活版製造所の建物が煉瓦造りであった……、とする記録に関心をむけた論者はいないようである。 もともとわが国の煉瓦建築の歴史は 幕末からはじまり、地震にたいする脆弱さをみせて普及が頓挫した関東大地震までのあいだまで、ほんの65年ほどという、意外と短い期間でしかなかった。 わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年 ( 安政4 ) 長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。 その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスの お雇い外国人 の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。 それが一気に普及したのは、前述した1872年 ( 明治5 ) 2月25日におきた 銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は西本願寺の大伽藍をはじめとして 一帯が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際して、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。 そのために東京築地活版製造所は 、社史などに わざわざ 煉瓦建築で建造したと、しばしば、あちこちにしるしていたのである。 さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円という、おそらく当時の物価からみて低額で獲得することができたのである。 その事実を購入価格まで開示して、出資者などにたいし、けっして無駄なな投資をしたのではないことを表示していていたものとみたい。すなわち、牧治三郎が述べた 「 幕末切腹事件 」 などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

新ビルの正門は裏鬼門に設けられた
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。 牧治三郎が短い連載記事で述べたのは、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよかったかもしれないとおもったことがある。 このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。 [ 西川さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、正門が裏鬼門にあることを意識してなかったのですか? ]。 「 もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ [ 活字鋳造工 ] の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出りしなかった。 オレだって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな 」。 [ それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか? ]。 「 野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった 」。

東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられた。

家相八方位吉凶からみた裏鬼門
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。 あらためてしるすと、このビルは1938年(昭和13)東京築地活版製造所の解散にともなって「 懇話会 」 に売却され、1971年 ( 昭和46 ) まで懇話会が一部を改修して使用していたが、さすがに老朽化が目立って取り壊され、その跡地には引き続いてあたらしい懇話会館ビルが新築されてこんにちにいたっている。 取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学ではもっとも忌まれる死門、坤 に設けられていた。 現代ではこうした事柄は迷信とされて一笑に付されるが、ひとからそれをいわれればおおかたは気分の良いものではない。 牧治三郎は取り壊しが決定したビルの こうした歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「 寝た子をおこした 」 のである。

これからその牧の連載を紹介したい。 ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの歴史が丹念につづられている。 これについで、次回には 当時の印刷人や活字人が、牧の指摘をうけて、どのように周章狼狽、対処したのかを紹介することになる。

*      *

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 21号』(編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、大正12年 1923 3月に竣工した。 地下1階地上4階の堂々たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。 ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは 焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。 また隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いて焼失した。 焼失を免れたこのビルは1971年(昭和46)まで懇話会館が使用していたが老朽化が目立って、全面新築されることになったことをきっかけとして牧治三郎による連載記事が掲載された。

活字発祥の歴史閉じる
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。 この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円 ( 現在の金で4億円 ) を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕が、ここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

大正12年に竣成
[ 東京築地活版製造所の旧社屋は ] 大正11年、野村宗十郎社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。 特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた 月島分工場も灰燼に帰した。 罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所 [ 大阪活版製造所 ] の字母 [ 活字母型 ] が健在だったので、1週間後には活字販売を開始、[ した ]。 いまの東京活字 [ 協同 ] 組合の前身、東京活字製造組合の罹災 [ した ] 組合員も、種字 [ 活字複製原型。 ここでは電鋳法母型か 種字代用の活字そのもの ] の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。
平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内 [ 門前とも ] の長屋 としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。 東都下谷絵圖 1862 を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町3丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多くてさほど大きな変化はない。 すなわち藤堂和泉守屋敷は、台東区立和泉小学校となり、その路地を挟んで佐竹右京太夫邸との間の、細長い民家の家並みが 長屋 」跡とみられ 、その神田佐久間町三丁目の一部が、平野の最初の拠点であったとみられる。 尾張屋静七判『 江戸切絵図 人文社 1995年4月20日 )

 明治5年外神田で営業開始
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機 [ このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない ] 2台、上海渡りの8頁ロール 人力車廻し [ B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた印刷機 ] 1台、ハンドプレス [ 平圧式手引き活版印刷機 ] 1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

 明治6年現在地に工場に建築
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁をはさんで、釆女が原 ウネメガハラ から、木挽町 コビキチョウ を過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

移転当時の築地界隈
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 五千石 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

煉瓦造工場完成
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、 神田佐久間町まで半日がかりで活字買い [ に出かける ] の時間が大いに省けた。 商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

勧工寮と販売合戦
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字 [ 活字ハンドモールドを用いて製造した活字 ] で売出していた 志貴和助や大関某 [ ともに詳細不詳 ] などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷 [ を担当していた ] の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の手強い競争相手だった。

活字割引販売制度
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争 [ 太平洋戦争 ] の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した [ もの ] に外ならない。 勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

西南戦争以後の発展と母型改刻
西南戦争 [ 1877/明治10年 ] を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体 [ 活字 ] 母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された [ 印刷図書館蔵 ]

次いで、同14年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。 残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。 この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

*      *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』 ( 編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年7月20日 )

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 [ 大阪活版製造所社長を兼任 ]
、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。
その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [ 平野 ] 造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

 築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治256年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治278年戦役 [ 日清戦争 ] の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の [ 活字 ] 鋳造機は、手廻機 [ 手廻し式活字鋳造機 ブルース型活字鋳造機 ] 120台、米国製トムソン自動 [ 活字 ] 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 [ 自動 ] 鋳造機 [ 詳細不明。 調査中 ] 1台で、フユーサー機は日本 [ 製の ] 母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 [ した。 その ]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 [ ] にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
[ はなしが ] 前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で [ はあるが ] 、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易 [ ] でいう鬼門[裏鬼門にあたるの]だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版 [ 東京築地活版製造所 ]の重役で、 [ 印刷機器輸入代理店 ] 西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 [ ] の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 [ ] 解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。 これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会 広報部 中村光男
( 『 印刷界22号 』 囲み記事として広告欄に掲載された )

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で 旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件 について協議した。 旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌 活字界 に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と 同建物跡に建設される 懇話会館の八十島 [ 耕作 ] 社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会は こうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。 この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

花こよみ 002

初   恋

詩のこころ、無き身なば
古今東西、四季折々のうた、ご紹介奉らん。

まだあげ初 ソ めし前髪の
林檎 リンゴ のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたえしは
薄紅 ウスクレナイ の秋の実に
人こい初 ソ めしはじめなり

わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を
君が情 ナサケ けに酌みしかな

林檎畑の樹 コ の下に
おのずからなる細道は
誰 タ が踏みそめしかたみとぞ
問いたもうこそこいしけれ

                                                      ――――― 島崎藤村 ( 1872―1943 )

A Kaleidoscope Report 001 活字発祥の碑 問題提起

『 活 字 発 祥 の 碑 』
( 全日本活字工業会 活字発祥の碑建設委員会 昭和46年6月29日 )

『 活字発祥の碑 』 パンフレット表紙

活字発祥の碑 案内図

「活字発祥の碑」。
コンワビル晴海通り側、排気筒の傍らにひっそりと佇む。

旧築地川をはさんだ遠景。 右より松竹ビル、コンワビル、電通テックビル。
コンワビルがほぼ東京築地活版製造所の跡地。
電通テックビルのあたりに、関東大地震まで平野家があった。
隣接して元駐英ロンドン公使 ・ 元老院議員/上野景範(ウエノ カゲノリ 1845-88)家があった。
ここはまた、上野の義兄 ・ 神﨑正誼による弘道軒清朝活字誕生の地でもあった。

かつての築地川は埋め立てられ地下を高速道路がはしり、地上は小公園になっているが、
日比谷通りの交差点には今も  「  万年橋東 」  の標識がのこる。

*

 東京 ・ 築地にちいさな石碑がある。 称して 「 活字発祥の碑 」 である。 このあたりがわが国の近代タイポグラフィが発祥した場所であることを記念するちいさな碑である。 所在地は東京都中央区築地1-12-22。 懇話会館ビルの傍らにひっそりと鎮まっている。 この地と、「 活字発祥の碑 」 は、タイポグラフィの実践者、研究者ならぜひとも訪れ、活字と書物の来し方、行く末におもいを馳せていただきたいものである。 碑面には以下のようにしるされている。

活 字 発 祥 の 碑

明治六年(一八七三)平野富二がここに
長崎新塾出張活版製造所を興し
後に株式会社東京築地活版製造所と改稱
日本の印刷文化の源泉となった


『 BOOK  OF  SPECIMENS  MOTOGI  &  HIRANO 』
( 俗称/平野活版所明治10年版活字見本帳 )。
築地に開設された平野活版所の木版画。
看板に長崎系の出自を現す 「 長崎新塾出張活版製造所 」 とある。
木版印刷物を版下とした石版印刷とみられる。

1903年(明治36)ころの東京築地活版製造所の威容。
銅版印刷物を版下とした石版印刷とみられる。
当時は重量のある印刷機器や活字の運搬には水運を用いることが多かった。

——————————————————

1873年 ( 明治6 ) 青雲の志を抱いて、平野富二  ( 1846―92 )  がこの地に 「 長崎新塾出張活版製造所 」 を設立した。平野富二このとき26歳。 当時の住所表示では 「 東京築地2丁目万年橋東角20番地 」 にあたる。 このあたりは、明治5年、銀座から築地一帯をおそった大火により一面の焼け野原であった場所であった。 草創期の素朴な建物は神田佐久間町の味噌蔵を 《 耐火煉瓦で改装した建物 》  であったが、増築をかさねられた。

やがて事業の安定をみた平野富二は、次第に活字製造 ・ 販売を、膝下の長崎 ・ 新街私塾系の人脈に任せて、自らの軸足を1876年 ( 明治9 ) から、念願の造船 ・ 重機製造において 「 石川島平野造船所 」 を設立した。 この企業は改組 ・ 改称を繰り返し、現在は株式会社 I H I として造船 ・ 重機界の巨大企業となっている。 いっぽう 「 平 野活版所 」  も改組 ・ 改称を繰り返しながら 「 東京築地活版製造所 」 として発展した。 そして明治36年ころともなると、威容を誇る大工場に成長した。

東京築地活版製造所においては、明治6年の創業から、1938年 ( 昭和13 ) の解散の直前にいたるまで、長崎の本木昌造系人脈、なかんずく長崎新街私塾の教授陣とその元塾生が代表を勤めていた。 すなわち東京築地活版製造所では、開祖の本木昌造は 「 翁 」 と称され、平野富二は 先生 と呼ばれていた。また、従業員であっても、長崎 ・ 新街私塾出身者は 塾生 と呼ばれていた。そして東京で雇用をみたものは、従業員でも職人で もなく、 生徒  と呼ばれていた ( 島屋政一 『本木昌造伝』 )。

つまり兄弟企業の 「 大阪活版製造所 」 と同様に、この企業は人脈 ( 新街私塾 ・ 新町活版製造所 )、 金脈 ( 長崎銅座の旦那衆 ・ 六海社 ・ 長崎十八銀行、元薩摩藩士で長崎遊学が長かった関西の豪商 ・ 五代友厚 ) ともに、 最初に平野富二が看板に掲げた商号 「 長崎新塾出張活版製造所 」 があらわすように、 「 長崎の新街私塾と新町活版製造所から、東京の築地に出張してきている、活字版印刷関連機器製造販売と 活字鋳造製造販売の企業 」、すなわち 「 東京築地活版製造所 」 という 「 意識 」 が色濃くみられた ( 平野義太郎 『 活字界31,34』 )。

それだけでなく、両社ともに終幕を迎えた折りは、多くの企業のように汚点をのこしがちな、いわゆる倒産や破産ではなく、「 解散 」 によって見事に清算されて、歴史に汚点を残すことがなかった。 当然そこには、長崎十八銀行が人材 ・ 資金ともに支援にあたり、敏速かつ徹底的な清算にあたったことはいうまでもない ( 『長崎十八銀行百年史』 )。  すなわち最初から最後まで、なにかと長崎に依存することが多かった、いささか特異な企業として記録されている。

東京築地活版製造所の代表者を列挙すると、長崎にうまれ育った設立者の平野富二に続き、病弱で終生平野の支援を受けた、本木昌造の長男 ・ 新街私塾出身/本木小太郎 (1857-1910)、 新街私塾出身/曲田 成 (マガタ  シゲリ 1846―94)、 新街私塾教授・大審院院長・貴族院議員/名村泰三 (ナムラ  タイゾウ 1840―1907)、 新街私塾出身・大蔵省銀行局出身/野村宗十郎 (1857―1925 )、 長崎第十八銀行頭取と東京築地活版製造所代表を兼任/松田精一にまで及ぶ。

この長崎系人脈が絶えたあと、同社は東京市電気局長の大道良太を社長に迎え、ついで宮内省関係出身の阪東長康を専務に迎えたが、経営は不振を極め、1938年 ( 昭和13 ) 3月17日、臨時株主総会において一挙に解散廃業を決議して、土地建物は債権者の勧業銀行から、懇話会館に売却された。 この株式会社懇話会という、いっぷう変わった名の企業も、広島に悲しい残骸をさらしている 「 原爆ドーム 」 とともに いずれ紹介したい。

この石碑の建立がなったのは1971年 ( 昭和46 ) 6月29日のこと。その披露にあたって配布された小冊子が  『 活字発祥の碑 』 ( B5判  針金中綴じ 28ページ 非売品 ) である。

巻末の会員名簿によれば、主唱団体だった全日本活字工業会の当時の会員は、北海道支部4社、東部支部51社、中部支部14社、西部支部9社、九州支部8社、都合86社を数えていた。 しかしながらほぼ40年後のこんにち、全日本活字工業会の会員の多くはオフセット平版印刷材料商などに転廃業しており、2010年 ( 平成22 ) 現在も活字鋳造を継続実施している業者は、わずかに6社を数えるのみという淋しさである。 皮肉なことに、むしろこの名簿に記載されていない、比較的小規模だった非組合員の活字鋳造所のほうが、現在もたくさん操業している。

「 活字発祥の碑 」 は小さくて簡素な碑ではあるが、そこにはじつにさまざまなドラマが秘められている。  それをそのまま歴史の大海の中に放置し、風化に任せるのは心許ないものがある。  また、タイポグラフィの歴史の空白がどんどん拡大して、活字印象論や活字美醜論だけが大手をふるって語られている現状を寂しくおもう。

この碑の建立には、全日本活字工業会、東京活字協同組合、印刷工業会、全日本印刷工業組合連合会、東京都印刷工業組合など、1970年代初頭の印刷 ・ 活字界の有力団体と企業が総力をあげて資金を拠出し、建立に尽力している。  しかしながら、ここにはすでに発起人にも協賛団体としても 活字母型工業会の名前は無く、わずかに東京母型工業会が拠金にあたって名をのこしている。  それは活字母型製造界の雄とされた 株式会社岩田母型製造所が、すでに1968年に倒産しており、この時代にはもはや活字母型製造界が活力を失っていたことが大きい。 すなわち 『 活字発祥の碑 』 の建立がなった1971年 ( 昭和46 ) とは、すでに活字母型製造業は凋落し、その発注者であった金属活字製造社とその関連業界にもあきらかな翳りが見え、オフセット平版印刷の隆盛がはじまっていたのである。

ここで1960年 ( 昭和35 ) 当時の全国活字工業会の主要メンバーを紹介する。 これらの同業組合の役員とは、多分に1-3年ごとに持ち回り制のところがみられるが、ある程度はこの時代の活字関連業者の主要メンバーを知ることができる。

○ 会  長  古賀和佐雄
千代田活字有限会社 東京都千代田区神田猿楽町1-5
○ 副会長 ・ 東部支部長 吉田市郎
株式会社晃文堂 東京都千代田区神田鍛冶町2-18
○ 副会長 ・ 中部支部長 津田太郎
株式会社津田三省堂 名古屋市中区矢場町1-35
○ 副会長  古門正夫
株式会社モトヤ 大阪市南区塩町通1-14
○ 西部支部長  奥田福太郎
日本活字工業株式会社 大阪市北区真砂町43
○ 北海道支部長  林下忠三
北海道印刷資材株式会社 札幌市大通り西1丁目16
○ 九州支部長  島田栄八
合資会社南陽堂商店 北九州市門司区大阪町2-4-2

また 『 活字発祥の碑 』 発行所としてしるされた、全日本活字工業会/東京活字協同組合の合同事務局は、東京都千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル にあった。 そこには12-3年ほど前までは非常勤ながら職員がいて、毎週水曜日には開館していたが、これまた現在は閉鎖されて事務局自体が存在しない。 それだけでなく、「 活字発祥の碑建設委員会 」 に名を連ねた15名のほとんどが鬼籍に入り、わずかに吉田市郎氏と中村光男氏だけが健在という、ぎりぎりの状況にある。 すなわちいまは 「 活字発祥の碑 」 と、その記録書 『 活字発祥の碑 』 だけがわずかにのこっているという状態である。

『 活字発祥の碑 』
発 起 人           全日本活字工業会   東京活字協同組合
協   賛         印刷工業会 全日本印刷工業組合連合会 東京都印刷工業組合
土地所有者     株式会社懇話会館
所 在 地        東京都中央区築地2丁目13番地
( 旧東京築地活版製造所跡 )
設 計 者        国方秀男氏 ( 日総建 )
銘板レイアウト     大谷四郎氏 ( 大谷デザイン )
銘板之製作     菊川工業株式会社
石       材     宮本石材店

《 収録内容 》
◎ 活字発祥の碑建設にあたり ―― 渡辺宗助 ( 株式会社民友社活版製造所 )
全日本活字工業会会長/活字発祥の碑建設委員会委員長
◎ 活字発祥の碑建立に当たりて ―― 山崎善雄 ( 株式会社懇話会代表取締役 )
◎ 心の支えとして ―― 松田友良 ( 株式会社松田 )
◎ 東京築地活版製造所の歩み ―― 牧治三郎
◎ 東京日日新聞と築地活版――古川 恒  ( 毎日新聞社 )
◎ 活字発祥の碑建設のいきさつ ―― 活字発祥の碑建設委員会
◎ 建設基金協力者御芳名
◎ 全日本活字工業会 会員名簿

わが国の活字鋳造に関する記念碑としては、 戦前から、長崎 ・ 諏訪公園、 大阪 ・ 四天王寺境内に本木昌造の銅像があった。  ところが関東にはなんらこうした活字関連の記念碑が無く、その建立が再々提起されていたが、議論百出、実現をみないままに終わっていた。 その議論の主要な争点は、「本木昌造 ・ 平野富二らの長崎系の活字鋳造より先んじて、ほかにも活字鋳造を実施した者がおり、東京築地活版製造所系だけの顕彰には問題がある 」 とするグループが存在したためであるとされる。 それに対して 「 先行事例は認めるが、活字鋳造と活字版印刷の量産と、工業化に成功したのは、平野富二と東京築地活版製造所である 」 とするグループ間の論争がもとになっていたとされる。

ところが 『 活字界 』 ( 21号―1966年5月、 22号―1966年7月、 全日本活字工業組合 ) に掲載された、B5判2ページずつ、都合2回、計4ページの きわめて短い連載記事 「 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し 」 ( 牧治三郎 ) が、活字業界にとてつもなく大きな衝撃を与え、この余震は印刷界にまで及んだ。

この時代の全国活字工業組合の広報委員長は中村光男氏 ( 株式会社中村活字店社長 1926― 。  84歳) であった。  中村光男氏は牧の原稿をみて 驚愕するというより、むしろ震えあがり、直ちに ( 『活字界』 22号の発行前に ) 迅速に行動した。 そしてその結果を 6月27日開催の東京活字協同組合理事会に 「 コト は急を要する緊急課題だ 」 として問題提起した。 東京活字協同組合理事会では 「活字発祥の碑 」 建立が、このときばかりは嫌も応もなく即決された。  したがっ て 『 活字界 』  ( 22号―1966年7月20日発行 ) には、牧治三郎の連載記事 「 旧東京築地活版製造所  社屋の取り壊し 」 とあわせて、その下部の広告欄を潰す形で、 「 旧東京築地活版製造所その後 」 ( 中村光男 ) が同一ページに緊急掲載されているので紹介しよう。



旧東京築地活版製造所その後
東京活字協同組合では  6月27日開催の理事会で 「 旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件 」 について協議した。 旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については 本誌 『 活字界 』 に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。
この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。 この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

牧治三郎が何を指摘したのか、 詳細は次回のこのレポートで報告したい。  牧は B5判4ページの連載の最後にこうしるした。  「 以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で [ も ] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。 これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動 [ への ] 参加を願うのもよいと思う 」。

1960年代の東京活字協同組合の重鎮は、 瓢箪のマークで知られる千代田活字製造株式会社 ・ 古賀和佐雄であり、 中堅としては欧文活字で盛名を馳せた 株式会社晃文堂 ・ 吉田市郎氏と、 株式会社民友社活版製造所 ・ 渡辺宗助であった。 そして若手の活動家に中村光男氏がいた。 中村光男氏は銀座 ( 木挽町 )の 株式会社中村活字店の社主であり、現在の中村明久社長の叔父にあたる人物である。  『 活字発祥の碑 』 を理解するために、まず、この3人の記録を追ってみよう。

古賀和佐雄――
1898年 ( 明治31 ) 3月10日―1979年 ( 昭和54 ) 8月5日
佐賀県小城郡大字柿樋瀬315番地の富農の家に、父 ・ 徳市、母 ・ トラの三男として誕生。  中央大学経済学部卒業からまもなく、1922年 ( 大正11 ) 東京神田蝋燭町に千代田印刷材料社を創立。  凸版印刷株式会社と提携して、旧満州 ( 中国東北部 ) に大々的に進出したものの  敗戦により撤収。 1946年 ( 昭和21 ) 千代田印刷機械製造株式会社に改組 ・ 改称。  1950年( 昭和25 ) 同社立川工場から活字鋳造部門を千代田区猿楽町に移転。 罫線 ・ 活字母型製造 ・ 鈑金 ・ 活版木工の総合工房とする。 のちに瓢箪マークで知られる 千代田活字株式会社がこれである。 この頃より活字ケース ( ウマ棚 ) のスチール製 ・ レール多段式などを開発。  古賀和佐雄の没後、 同社は小森コーポレーションの一部として吸収された。

吉田市郎――
1921年 ( 大正10 ) ― 。 90歳
新潟県柏崎市うまれ。  名古屋高等商業 ( 現 ・ 名古屋大学経済学部 ) 卒。 三井商事を経て、株式会社晃文堂社長、株式会社リョービイマジクス社長。 現在同社顧問。 1970年代からの吉田氏は、リョービ ・ グループに参入して、 リョービ印刷機販売株式会社 ( 現リョービイマジクス )  を設立して、徐々に活字版印刷関連業界から、オフセット平版印刷業界に軸足を移していた。 それでも活字工業会会員としては、古賀和佐雄、民友社 ・ 渡辺宗助とともに積極的に活動していた。 「活字発祥の碑 」 銘板レイアウトに大谷四郎 ( 大谷デザイン ) を起用したのは吉田市郎であるが、碑文の文章でも喧々諤々の議論あり、またできあがった碑面の書体が いわゆるレタリング調で、一部の会員からは東京築地活版製造所明朝体独特の、気迫と格調が無いとして不評をかったと苦笑する。  また東京活字工業組合では、現在地ではなく、「 もう少し方角の違う場所に建立したかったのだが、それは懇話会館ビルの設計変更が必要だったので、現在地に決まった 」 とだけ述べている。

中村光男――
1926年3月11日―  。 84歳
1910年 ( 明治43 ) 初代 ・ 中村貞二郎が、京橋区木挽町1丁目 ( 現 ・ 中央区銀座2丁目13番地7 ) において、活字母型と活字の取扱店 「 中村活字店 」 を創業。 中村貞二郎には4人の男子、長男 ・ 貞吉 ( 1908年1月31日― 。 102歳 )、 次男 ・ 國次郎 ( 1916年3月18日ー1992年6月4日 )、 三男 ・ 光男氏 ( 1926年3月11日― 。 84歳)、四男 ・ 和男氏があり、貞吉から光男氏までが 順次 「 中村活字店 」 の代表をつとめた。 第4代 ・ 中村光男氏は、古賀和佐雄、吉田市郎氏らが第一線をひいたのちの 全日本活字工業会/東京活字協同組合を、野見山芳久 ( 株式会社錦精社 千代田区神田錦町3-15 )、後藤 孝 ( 株式会社後藤活字製造所 港区西新橋3-14-1 ) らとともに 逆風の中で良く牽引した。  また中村光男氏は 全日本活字工業組合の広報委員長として、また機関誌 『 活字界 』 40号までの10年間を編集長として尽力した。その間、牧治三郎の記述 ( 提言 ) をうけ、率先して 「 活字発祥の碑 」 建立にあたった。 なお現在株式会社中村活字店は 創業100年を誇るが、社長/第5代 ・ 中村明久氏の父は 第3代 ・ 國次郎であり、 第4代 ・ 中村光男氏は叔父にあたる。

中村光男氏と 『 活字界 』、 そして牧治三郎 「 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し 」 に触れるのは別稿を得たい。 冒頭で 「 活字発祥の碑 」に は秘められた、おおきなドラマがある……としるした。 たしかにこの碑に関しては比較的資料が多い。 しかしながら資料がすべてをかたるわけではない。 むしろ、その資料の行間に秘められ、隠された事実をひとつひとつ洗い出していく努力が必要であろう。

筆者はかつて吉田市郎氏がフト漏らした 「 あの碑は、本当はもう少し方角の違う場所に建立したかったのだが、それは懇話会館ビルの設計変更が必要だったので、現在地に決まった 」 とする言を、 [ たしかに排気筒の近くであるし、また路地深くに入ったところであるから……]、 程度に軽くとらえていた。 つまり、中村光男氏がのこした記録の行間に、秘められた物語があることに気づいたのはつい最近のことである。 そのため、筆者もすこし時間をかけて、行間を埋める努力をしなければならない。

ここでは、まず 『 活字発祥の碑 』 に掲載された 興味深い論考をひとつ紹介したい。 執筆者は古川恒である。 古川は日報社 『 東京日日新聞 』 と、東京築地活版製造所の長い取引を紹介している。 『 東京日日新聞 』 は1872年 ( 明治5 ) 2月21日、 條野傳平、 西田傳助、 落合幾次郎が日報社を設けて創刊した 東京最初の日刊紙であり、その後改組 ・ 改称を重ねて現在の 『 毎日新聞社 』 となっている。 当初は浅草茅町 ( 現浅草橋近辺 ) の條野の居宅から発刊したが、 2年後 銀座 ( 現 ・ 銀座五丁目 ニューメルサビルのあたり ) に社屋を建てて進出した。 最初は雑報入りの 「 新聞錦絵 」 が東京土産として話題を呼んだ。 1873年 岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受けて大衆紙として定着した。 また1874年入社とともに主筆に就任した福地源一郎 ( 櫻痴 ) が社説を創設してから 紙面を一新して、政府擁護の論陣を張る 「 御用新聞 」 となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。 櫻痴 ( 福地櫻痴 ) の社説、 吟香の雑報、 それに成島柳北の雑録が 『 東京日日新聞 』 の三大名物と謳われた。

『 東京日日新聞 』 と 『 毎日新聞 』 の題号の変遷についても略記したい。
・1872年3月29日 ( 明治5 ) 『 東京日日新聞 』 東京浅草の日報社から創刊。
・1876年                                  『日本立憲政党新聞 』 大阪で創刊。
・1885年             『 大阪日報 』 と改題。
・1888年              『 大阪毎日新聞 』 と改題。
・1911年                                 大阪毎日新聞社が日報社を合併。
・1943年1月1日                   東西で異なっていた題号を 『 毎日新聞 』 として統一した。

『 東京日日新聞 』 と東京築地活版製造所、活版製造所弘道軒の地理関係も簡単に紹介したい。 銀座5丁目の日報社 『 東京日日新聞 』 から 「 東京築地2丁目万年橋東角20番地 」、現 ・ 懇話会館ビルのあたりの 東京築地活版製造所 までは、徒歩7分ほどで到着できる。 また活版製造所 弘道軒 は 「 京橋区南鍋町二丁目一番地 」 ( 現 ・ 銀座鈴之屋呉服店のあたり) とは、ほぼ棟を接する至近距離にあった。

古川に関しては略歴を紹介できる。 しかしここのところ困惑しているのは、『 京橋の印刷史 』 の主著者であり、この碑の建立にも深く関わった牧治三郎の経歴がまったくわからないことである。 筆者は晩年の牧の謦咳に接し 「 戦前は印刷同業組合の書記を永らく勤めた 」 「 もうじき百歳になる。 そうしたらお迎えがくる 」 とは聞いていたが、うっかり牧の経歴調査をおこたってきた。 どなたか ご存知のかたがおられたらぜひともご教授願いたい。

古川 恒 ―― ふるかわ ひさし  1910―86年。享年76。
昭和2年6月16日 『 東京日日新聞 』 入社。 印刷局、活版部副部長、企画調査局第一部長、総務局副理事、同参与。 同社は1943年 ( 昭和18 ) 大阪毎日新聞、東京日日新聞の題号を 『 毎日新聞 』 に統一した。  また 「 家庭に恵まれず、現 ・ 東京都立工芸高校 夜間部に通いながら 東京日日新聞、毎日新聞に奉職した 」 と自らしるしている。 [東京日日新聞/毎日新聞の活版部員、1989、6頁]。  なお 『 毎日新聞百年史 』 の技術編はそのほとんどを古川が執筆した。 晩年は小池製作所の技術顧問を勤めた。

東京日日新聞と築地活版
古河 恒 ( 毎日新聞社 )

毎日新聞は昭和47年2月21日で創刊100周年を迎える。[毎日新聞の前身] 『 東京日日新聞 』 の創刊号は木版、題字奥付はセピア色、本文は黒という凝ったものであった。この色刷は11号までセピア、以後は青系統に変わり、30号から黒1色となっている。

2号から11号めまでは、当時恵比寿屋が上海美華書館から輸入した明朝体の活字が使われている。 この活字は 漢字にすべきところを カタカナにしたところが多く、また奇妙な当て字が多く使われているために 「 新聞漢文 」 と悪口を言われたという。 この原因は 漢字が足りなかっただけでなく、肝腎のケース [ 活字ケース、 活字スダレケース ] というものがなく、 [ 活字の ] 分類と整理が不完全であったのではないかと思われる節がある。

12号から 木版に返り、117号まで続き、 明治5年7月2日付 118号から木活字が使われている。

明治5年といえばこの時既に、本木系の活字も、勧工寮の活字もできていたのだが、何故わざわざ手間のかかる木活字を作ったのであろうか。 結局鉛活字は高価で買うことが出来なかった[ためだと ] と思われる。

木活字の工賃について 広岡幸助氏の思い出話によると、当時の東京日日新聞の活字は 四号に近かったが、1個の工賃は5厘、日新真事誌は三号に近かったが、1個につき6厘で、職人が『日新真事誌 』 の方が割がよいというので、東京日日新聞の仕事をやりたがらず、やむを得ず東京日日新聞も6厘にしたとのことである。

明治6年3月2日付304号から [ 東京日日新聞は ] 勧工寮の鉛活字を使い始めた。 この時の払下げ価格が幾らであったかは 必ずしも判明しないが、 同年2月18日付日新真事誌の付録に、勧工寮の広告に、鉛活字大2分5厘方が1銭1厘、 中縦2分5厘横2分が8厘5毛、 2分方が8厘、 小1分2厘5毛方が7厘、 同振仮名6厘2毛5糸方が4厘5毛とある。 この小1分2厘5毛方が五号で 1個7厘だったのである。

東京日日新聞は 創刊以来意外なほどの売行きを示した。 創立者の1人 西田傳助氏の思い出話によると、 100号毎に1,000部ずつ部数を増したとのことである。 従って鉛活字に切換えた時は、既に4,000部近く発行していたものと思われる。 そして経済的にも、木活字より高価な活字の払下げを受けることもできたのであろう。

勧工寮にとって東京日日新聞への活字の払下げは 一つの紀元 [ 起源 ・ 転機 ] となったようである。 東京日日新聞の木活字の使用経験、特に [ 活字収納 ] ケースのあり方は、鉛活字実用化への正に踏み石となったのである。 勧工寮では明治6年5月19日に、活字を広く販売する方針を決め、6月19日付東京日日新聞に広告を掲載している。 そしてこの時は鉛製活字 大2分5厘方が9厘、 中縦2分5厘横2分が8厘、 小1分2厘5毛方が3厘で、 前記日新真事誌の広告の時に比べ大幅な値下げをしている。 特に五号活字は 半分以下の値段となっていることが注目される。 なおこの時勧工寮の活字の売捌元になったのは、 東京日日新聞の木活字を作った辻家であったのである。

勧工寮の活字は、少なくとも3種の系統の異なった活字が混在していた。 そしてその一つは本木系で、平野富二によって納入されたものであった。 これは書体のよくそろった美しいもので 順次他の系統のものを駆逐して行った。 明治6年8月16日付東京日日新聞第453号に、

是迄外神田佐久間町3丁目において、活版並銅版鎔製エレキトルタイプ 摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間、不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也
明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

という広告が掲載されている。 この広告掲載に際し、平野富二が浅草瓦町の東京日日新聞を訪れたか否かは 必ずしも判っていない。 しかし このころから東京日日新聞は築地活版の活字を直接購入する計画を立てたようである。

勧工寮は明治6年11月19日に廃止され、活字製造の業務は製作寮に引継がれた。 東京日日新聞はこれを機に、築地に移転した平野活版と直接取引を開始した。 東京日日新聞11月24日付第540号からこの活字が使われ、 この時以来築地活版と密接な繋りを持った。

明治42年4月2日付第10603号 ( 創立満37周年記念特集号 ) の 第9面に 「 我邦活版の祖 」 と題して、野村宗十郎の談話が掲載され、野村氏は本木昌造の功績を述べたあと、次のようにいっておられる。

……吾社の今日有るは実に本木氏の御陰であります。 其間我社の終始変ぜざる一大花主 [ 得意先 ] ともいふべきは、 即はち日日新聞社で 明治5年の頃より我社の明朝活字を採用され、10年頃一時弘道軒の楷書活字を使用された事あるも、再び我社の花主と為て以来、今日に至る迄髙庇を蒙って居る次第である。 斯の如く本社とは其の創立の年を同じくし、互に姉妹の関係を以て三十有七年の久しき共に、社運の隆興を見るに至ったのは誠に慶賀に堪へない次第である。

ここで  [ 野村宗十郎は ] 弘道軒の活字に触れているが、これは東京日日新聞が 明治14年1月4日付から8ページとなり、同8月1日付から 本文活字として弘道軒の活字を採用したことを指しており、この活字は明治23年2月11日付まで使われた。しかしこの間にも相場、商況広告等は築地活版の明朝五号が使われており、築地と縁が切れていたわけではなかった。

創業100周年を前にして、本社と因縁の深い築地活版跡に記念碑の建てられることは極めて意義のあることと思われる。 種々の困難を克服して、これを実現された活字工業会のご努力に対し心からの敬意と、深甚の感謝の意を表する次第である。