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「年年歳歳花相似─歳歳年年人不同」 唐・劉廷芝 {々 二の字点・カンクリ}の乱用を脱し脱し{〻 二の字点・ピリピリ}再考

24ad0c1081293947302de5927ad06284-692x1024[1]使用デジタルタイプ:「杉明朝体」、「弘道軒清朝体 復刻版75100e35e8f939573414c2327ca6af3a[1]《厄介な記号:漢数字のゼロ 〇 と、大きな丸印・白丸 ◯ 》
漢の字(漢字)とは、定まった字音(よみ)・字画(かたち)・字義(いみ)を必要とする。
このうちいづれかが欠けているばあいは「記号」ないしは「文 ≒ 紋」とされる。
いわゆる「漢数字のゼロ 〇」は、「一〇 ジュウ、一〇〇 ヒャク」となり、字音と字義が変動する。したがって「漢数字のゼロ 〇」は狭義の「字[漢字]」ではない。

また漢字分類法の部首はなく、ほとんどの漢和辞典や中国語辞典には掲載されていない。 電子機器では「〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」に配当されている。
Ideographic とは{表意文字[記号]}の意であり、JIS:2130番代の「0-F まで」の16項目に隣接して掲載されているのは「 ^  ̄ _ ヽ ヾ ゝ ゞ 〃 仝 々 〆 〇 ー ― ‐ /  」で ある。
上掲図版で紹介したが、変換ソフト ATOK ではこれらを「準仮名、準漢字」としている。

すなわち「漢数字の〇」は漢字ではなく、それに準ずる記号的な存在として扱われている。
ここで注意したいのが「〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「丸印、白丸 White circle JIS:217B」と、「◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」との混用ないしは誤用である。
JIS:2170番代の「0-F まで」の16項目に隣接して掲載されているのは「 $¢£%#&*@ § ☆ ★ ○ ● ◎ ◇ 」で ある。またポツンと離れて「 ◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」がある。
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◎ ご面倒でも電話口の向こうの知人に、電話番号、ビル名などをつたえるつもりで、ゆっくり丁寧によんでください

{文字壹凜} 2016年01月06日

ゼロと◯電話番号やビル名など、数字が所〻に混じった文を、口頭でひとに伝えるのは面倒なもの。
上掲の短文を、声にだして、ゆっくりおよみください。
もしかすると「0 → ゼ、ロ、 ま、る、」とまじってよみませんでしたか。

渋谷のランドマークのひとつ、 {渋谷109}は「渋谷 イチ マル キュウ」、イマドキの若者は「マルキュウ」がふつう。
これを「 縦、組、み、前、提、」でデジタル機器に入力すると、数字はテンキー使用だとばかりもいっていられない意外な事故が発生中。その危険性は{ 他人事 }とともにいずれ解明しましょう。
漢数字ゼロw[1]75100e35e8f939573414c2327ca6af3a[1]この「漢数字のゼロ」と、「大きな丸」はパソコンやスマホなどに搭載されている汎用性のある書体では、一見すると判別が困難である。
したがって、「 〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「 ◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」とが、混用ないしは誤用されたテキストが印刷所に持ちこまれることがしばしばみられる。

ところが縦組みで使用したテキストを、そのまま横組みに転用したときなどに、おおきな問題が発生する。
その対策として良心的な公版書籍印刷所などでは、事故防止のために独自の検索ソフトを作成して、「 〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「 ◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」とを判別し、正しいつかいわけをしている現状がある。 ──────────
《乱用がめだつ{
カンクリ 々} と、衰退した「ピリピリ 〻 」の見直しにむけて》
ほかにもいくつかの「漢字とおもわれている記号」がある。
◎ 「〃 JIS:2137  Ditto mark  同じく記号 印刷業界用語:おなじくチョンチョン」
◎ 「仝 JIS:2138 音読み:トウズ、 同上記号」
◎ 「々 JIS:2139 Ideographic iteration Mark  繰りかえし記号、印刷業界用語 カンクリ、最近の若者用語 ノマ」
◎ 「〻 Vertical ideographic iteration mark  画句点 1-02-22 二の字点・ゆすり点、印刷業界用語 ピリピリ」

電子機器の文字入力にあっては、「〃・々」は、「おなじ・どう」から変換ができる。
ただし「仝 JIS2138」は本来「同」とおなじ「字[漢字]」であり、また中唐の詩人:蘆仝ロドウ や、梁山泊の豪傑のひとり:朱仝 シュドウ にみるように中国では姓や名にもちいられている。
記号としての文字変換は「おなじ」からなされるばあいがほとんどで、どういうわけか「どう」からは変換されないことが多い。

やっかいなのは「々 と 〻」のつかいわけである。
古来はもとより、現代中国でも「々 カンクリ・ノマ」は、略記号という認識があるため、日常生活ではもちいるが、正式文書や詩歌ではほとんどもちいない。

わが国では漢字を漢字音でよみ、また和訓音でもよむ。
すなわち「日日」には、「日〻 にちにち」とし、「日々 ヒビ」とする要があり、この両音を区別するために、いつのころか「〻 ピリピリ」がうまれた。
当然和訓音がない中国ではまったくもちいられない記号である。

「〻」は英語表記では Vertical Ideographic Iteration Mark(垂直表意文字-縦組み漢字-の繰り返し記号)とされ、漢字水準では「〻 画句点:1-02-22」といった相当下位におかれている。
国際的には「〻 Unicode : U+303B」にある。
そのために汎用性の低い一部のデジタルタイプでは「〻」を欠くこともしばしばみられる。

7548d53fb5b74d13849da1aaf8c76092[1]5.0.2 JP P1こんにちの『毎日新聞』の源流をなす『東京日日新聞』は、1872年(明治5年)2月21日、条野伝平、西田伝助、落合幾次郎らが創刊した東京最初の日刊紙として呱呱の声をあげた。
ここでの紙名「東京日日」は、「とうきょう-にちにち」であり、略称や俗称として「にちにち」、「とうにち」などと呼ばれた。

当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、二年後に銀座(銀座四丁目三愛ビル直近、現ユニクロ店舗)に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。

1873年(明治6年)、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着した。ついで1874年(明治7年)入社と共に主筆に就任した福地源一郎(櫻痴)が社説欄を創設してからは紙面を一新し、政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。

『東京日日新聞』は、創刊からしばらくは「日日 日〻」などと表記したが、まもなくみずから崩れた。
すなわち「日々 ヒビ」としるして「日日 にちにち」と(勝手に)読者によませるようになった。

「々 JIS:2139 Ideographic iteration Mark  繰りかえし記号、印刷業界用語 カンクリ、最近の若者用語 ノマ」がすっかり定着し、「〻 Vertical ideographic iteration mark  画句点 1-02-22 二の字点・ゆすり点、印刷業界用語 ピリピリ」は、形象が横組み表記ではもちいずらかったのか、あまりに「々」の乱用が目立つ昨今である。 ことしは「々 〻」にこだわってみたいとおもうゆえんである。

【Season’s Greetings】 ドイツの友人バウマン+バウマンより All the best… 問題は思考だけでは解決できないのだから

cid_image001_jpg@01D24635-512x1024[1] cid_image001_png@01D239D9[1]上掲のカードは1993年のボンに設けられた当時の国会議事堂のプロジェクトで使用した詩です。
どんな色も、どんな問題も解決も、間違いも真実も、すべては混在しているというこの詩は、驚くほど現代とも通底しています。
親愛なる日本の友人たちに素敵なクリスマスと新年がやってくることを心から願っています。
情熱や勇気、既成概念にとらわれないクリエイティビティが、必ずや軍艦の浮かぶ世界の海を越えてくれるはずです。問題は思考だけでは解決できないのだから。
バーバラ・バウマン+ゲアド・バウマン b+b 

文字壹凜まとめ
【文字百景26 バウマン+バウマンと私たち PDF moji-hyakkei 26 B&B_1

【展覧会】 会期末迫る-2017年1月9日[日]まで 篠山紀信展 「快楽の館」[原美術館]

20161215150413_00001 20161215150413_000021960年代から現在まで、常に写真界の先頭を走り続けてきた篠山紀信が、このたび、そのカメラによって原美術館を《快楽の館》に変貌させます。
「ここ(=原美術館)で撮った写真をここに帰す(=展示する)」というアイデアのもと、出品作品はすべて当館で撮り下ろした新作で、およそ30名にものぼるモデルを起用したヌード写真です。

当館の建物は当初1938年に個人邸宅として建てられました。西洋モダニズム建築の手法を取り入れた、日本近代建築史の観点からも貴重な作例です。この場所は、写真家篠山紀信にとって、《撮る欲望》をかきたて《撮る快楽》に浸れる場であったということです。
その結果、空間はヌードのための背景ではなく、身体と空間が織り上げる、濃密なイメージの世界としての《快楽の館》が生み出されたのです。実在の空間と展示された写真の中の空間が交錯し、紡ぎだす恥美で幻惑的な世界をぜひとも覧ください。
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美術館は作品の死体置き場、
死臭充満する館に日々裸の美女が集う。

美女たちの乱舞、徘徊、錯乱、歓喜、狂乱、耽溺 ……
あらゆる快楽がこの館でくりひろげられる。

 幻蝶が舞う夢と陶酔の館。
この祝祭は初秋の夜にはじまり、歳明け、厳冬の朝に散る。

たった4 ヶ月余の一度だけの狂宴。

お見逃し無く。
2016年   篠山紀信

【 詳細 : 原美術館

【展覧会】 董其昌とその時代-明末清初の連綿趣味/東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画

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ぢゃむ 杉本昭生【活版小本】 次の本が出来るまで その41

七十二候(しちじゅうにこう)
「七十二候」とは、「二十四節季」をさらに約五日ごとに分類し気候の変化や動植物の様子を表現したものです。
12月2日より12月31日までを掲載します。
※大雪 次候の虎始交は書家であり画家の中村不折氏の作品です。最後に製作者のリストを掲載しておきます。いつか本にできればと思っています。
しかし印をひとつずつ押すのは大変でしょうね。でも楽しそう。
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書道博物館 施設概要】 冒頭部・部分
書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(1866-1943)が、その半生40年あまりにわたり独力で蒐集した、中国及び日本の書道史研究上重要なコレクションを有する専門博物館である。
殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑、瓦当、塼、陶瓶、封泥、璽印、石経、墓券、仏像、碑碣、墓誌、文房具、碑拓法帖、経巻文書、文人法書など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む東洋美術史上貴重な文化財がその多くを占めている。

こうしたコレクションと、昭和11年11月に開館した当初の博物館建設に伴う一切の費用は、すべて不折自身の絵画や書作品の潤筆料から捻出した。その偉業は日中書道史上においても特筆されるべきものである。
こうして書道博物館は、開館以来約60年にわたって中村家の手で維持・保存されてきたが、平成7年12月、台東区に寄贈された。そして平成12年4月に再開館したのが現在の台東区立書道博物館である。
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{新宿餘談}
中国明王朝は朱元璋(太祖)がほかの群雄を倒し、蒙古族王朝元を北に追い払って金陵(南京)に建朝した。三代成祖(永楽帝 1402-24)のとき北京(順天府 1421)に遷都。
明代前半期は久しぶりの漢族正統王朝のもとで「文藝復興」の時代とされ、また奇妙なことに西欧の「ルネサンス」の時代ともかさなっている。
ところが後半期は、皇族は奢侈にはしって治世が安定せず、宦官の専権が目立ち、各地で農民の叛乱が勃発し、異民族からの圧迫も多く、国勢は次第に衰微をみた。

董其昌(とう-きしょう 1555-1636)はそんな明朝末期に活躍した文人であり、特に書画に優れた業績を残して「藝林百世の師」とされた。また清朝の康煕帝が董其昌の書を敬慕したことは有名で、その影響で清朝においては正統の書とされた。

ところで、董其昌が活躍した明末清初の時代とは、わが国では徳川時代初期にあたり、徳川幕府の正統の書とは、楷書でも行書でもなく「お家流」とされた連綿体であった。
またここ最近、規矩の明確な明朝体・ゴシック体の使用に「活字ばなれ」と称されるような疲労感がみられ、ひら仮名からはじまり漢字にいたる「連綿体」が世上の関心をあつめている。
この奇妙な符合がどこから発しているのかを考えるのに好適な展覧会が、新春早早から開催される。
書道博物館オモテ 書道博物館ウラ

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
董其昌没後380年
董其昌とその時代一明末清初の連綿趣味-

中国明王朝の時代に文人として活躍した董其昌(とう-きしょう 1555-1636)は、高級官僚として官途を歩むかたわら、書画に妙腕を発揮しました。
書ははじめ唐の顔 真卿を学び、やがて王羲之らの魏晉時代の書に遡ります。さらに当時の形式化した書を否定して、平淡な書風を理想としながら、そこに躍動感あふれる連綿趣味を盛り込みました。
画は元末の四大家から五代宋初の董 源に遡り、宋や元の諸家の作風を広く渉猟して、文人画の伝統を継承しつつ、一方では急進的な描法によって奇想派の先駆けとなる作例も残しています。

董其昌は書画の理論や鑑識においても、卓越した見識を持っていました。『画禅窒随筆』は、董其昌の書画に対する深い理解と理念を示すものとして知られています。

明王朝から清王朝への移行は、単なる政権交代ではなく、漢民族が異民族である満州族に覇権を奪われた歴史上の一大事でもありました。
董其昌によって提唱された書画の理念は、明末から清初にかけた激動の時代の書画にも濃厚に反映されました。連綿趣味は、当時の人〻の鬱勃たる心情を吐露する恰好の場となったのです。
ところが満州族である清の康熈帝と乾隆帝が董其昌の書画を愛好したことで、その後三百年に及ぶ清朝においても董其昌は大きな影響を与え続けました。

今年度は、董其昌の没後380年にあたります。このたび14回目を迎える東京国立博物館と台東区立書道博物館の連携企画では、中国書画の流れを大きく変えることとなる董其昌に焦点をあてながら、そのあとさきに活躍した人〻の書画を取りあげます。
両館の展示を通して、魅力あふれる董其昌ワールドをお楽しみください。
【詳細:書道博物館
【詳細:国立博物館 東洋館

【Rebuilding】 朗文堂WebSite〝タイポグラフィつれづれ艸〟あまりにふるく気恥ずかしくはあるが若者に背をおされて再構築

kill-time-typography白頭を悲しむ翁に代わりて
唐  劉 希夷

   古人復た洛城の東に無く
   今人還た対す落花の風
   年年歳歳花相似たり
   歳歳年年人同じからず
   言を寄す全盛の紅顔の子
   応に憐れむべし 半死の白頭翁
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{新宿餘談}
当朗文堂の WebSite は、デジタル時代の時計では太古の時代の発足である。
したがってメーンページの左下片隅にちいさく案内がある〝タイポグラフィつれづれ艸〟などは、いつの間にか存在が希薄となっていた。
それでもずいぶん前から、何人もの社員や、外部の管理者がすこしずつ手を入れて細細ながら維持がなされてきた。
そんなコーナーにも若者には新鮮な発見があるという。
ならば公開をためらってきたコンテンツを序序に掲載して〝タイポグラフィつれづれ艸〟を再構築し、内容をゆっくり増補すべく、肩のこらない程度の改造に着手した次第。
朗文堂 WebSite の休息所として、ときおり訪問していただけたらうれしい。

【展覧会】 チェレンコフの光 戸山 灰 個展 “Cherenkov radiation” KOYAMA Kai Exhibition 

戸山灰絵柄面戸山灰宛名面チェレンコフの光 戸山 灰 個展 
“Cherenkov radiation”  KOYAMA Kai Exhibition
◯ 会期  2016年12月20日[火]-25日[日]

       10:00-18:30 初日のみ14時より 最終日17時まで
◯ 会場  川崎駅前タワー・リバーク3階 アートガーデンかわさき 第2展示室
       川崎市川崎区駅前本町12-1 電話:044-200-1415

【 詳細 : 戸山灰がつくっているもの
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{新宿餘談}
戸山 灰(こやま-かい)さんは、ときおり来社されてあつくアート談義をかたられます。
そしてデジタルタイプにも厳格な視点を有されています。
今回は久しぶりの個展に際し、[朗文堂 タイプ・コスミイク]扱いのふたつのパッケージから、「正調明朝体 金陵 あおい」と、「杉明朝-杉本幸治制作硬筆風細明朝」をご使用されました。
ご愛用ありがとうございました。
正調明朝体 杉明朝体パッケージ表out

【展覧会】 根津美術館コレクション展「染付誕生400年」2017年1月7日─2月19日

img_sometsuke[1]世界中が憧れたやきものである磁器は、永らく中国が生産の中心地でした。
日本では今からおよそ400年前の元和2年(1616)、朝鮮半島より渡来した陶工・李参平によって、肥前(現在の佐賀県)の地でその焼成に成功したのが始まりとされます。
そして肥前磁器は「伊万里焼」として、染付や白磁、青磁や色絵へと飛躍的に発展し、江戸時代を通して隆盛を極めます。

本展は、平成10年(1998)に山本正之氏が当館へ寄贈された作品を中心に、17世紀から19世紀までの肥前磁器を概観するものです。江戸時代の日本人が生活のなかで大切に伝えてきた美しい器をご堪能いただければ幸いです。
【 詳細 : 根津美術館 展示

【特別展】 国立印刷局お札と切手の博物館「印紙・証紙──小さなグラフィック・デザインの世界」

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【特別展】
国立印刷局お札と切手の博物館「印紙・証紙 ―― 小さなグラフィック・デザインの世界」
平成28年12月20日-平成29年3月5日

{小さな証明書の形・色・図柄}
本展で取り上げる「印紙・証紙」とは「何かを証明するために貼り付ける小さな印刷物」全般を指します。
これらの「小さな証明書」は貼り付ける対象や証明の内容などの用途に合わせてデザインされるため、多様な大きさや形態、ユニークな色分けや図柄になっています。
下邑政弥氏旧蔵の貴重なコレクションと併せ、製造機関である国立印刷局ならではの収蔵品を展示します。

{詳細:お札と切手の博物館

【図書+書体紹介】 当代の人気者ふたりが語り尽くす 集英社『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議』+くらもち銘石B

20161126145209_00001 20161126151043_00001みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議  
◯ 著者:みうら じゅん  著者:宮藤 官九郎     

◯ 発行所:集英社  ISBNコード: 978-4-08-780763-9
◯ 判型/総ページ数:四六判/256ページ 
◯ 定価:1,200円(本体)+税
◯ 発売日: 2016年7月20日
【 詳細 : 集英社 BOOKNAVI
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【内容紹介】
「ゆるキャラ」「マイブーム」の名付け親として知られるみうらじゅんと、
『あまちゃん』『ゆとりですがなにか』でおなじみの脚本家、宮藤官九郎。

彼らが、「男と女のあいだに友情は成立するのか?」「なぜ戦争はなくならないのか?」「なぜ男はハゲを恐れるのか?」といった、世界中の誰もが疑問に思いながらも曖昧なまま放置されてきた〝難題〟について、人類を代表して語り合います。

サブカルネタを軸にしながら、政治や国際情勢、下ネタまで縦横無尽に繰り広げられる“知と恥”の哲学問答は、決して世の中を憂うことなく、くだらなさの中にこそ人生の真理を見出していくための知恵が満載です。
混沌の時代を生き抜くための、グローバルスタンダードがここにある!

【本書で取り上げた議題】
◯ なぜ男と女はわかりあえないのか?
◯ 男と女のあいだに友情は成立するのか?
◯ セックスは女の人を何回イカせたら許してもらえるのか?
◯ チンコはデカいほうがいいのか、そうでもないのか?
◯ なぜ戦争はなくならないのか?
◯ お化けはいるのか、いないのか?
◯ なぜ男はハゲを恐れるのか?
◯ なぜ人はコンプレックスを持つのか?
◯ 天職とは何か?
◯ 親は子供にどんな背中を見せたらいいのか? ほか、約30テーマを収録。
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{新宿餘談}
『みうらじゅんと宮藤官九郎の世界全体会議』のブックデザイナーは、これまた当代の人気者 : 川名 潤 さんです。川名さんは<銘石B Combination 3>から、和字として「くらもち」を選択され、本書の随所でご使用されています。
ご愛用ありがとうございました。
銘石B
type con

「銘石B」の原姿はとてもふるく、中国・晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種、とくに碑石体と呼ばれる書風をオリジナルとしています。
『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之(309-40)は王彬の子で、また書聖とされる王羲之(307-65)の従兄弟にあたります。

この墓誌は東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれます。
遙かなむかし、中国江南の地に残された貴重な碑石体が、現代に力強くよみがえりました。「銘石B」は和字(平仮名と片仮名)三書体(くれたけ、くろふね、くらもち)が標準でセットされており用途に応じた選択ができます。

【図書紹介】 北方謙三<大水滸伝>全51巻完結! 伝説も去りて、残るは物語のみ。君に語れ、漢オトコらの物語。『岳飛伝』17巻文庫版刊行開始 ― ケンゾーの小説は脳にも躰にもわるいとおもう

main05[1] main06[1] 《活字・図書離れが語られ、取次・書店の不振もあらばこそ――怒濤の勢いの北方謙三》
テレビ・新聞・図書出版・雑誌・印刷・製本など、ほとんどのメディア産業が総崩れとされ、青息吐息、気息奄奄、意気消沈のさなか、ひとり<集英社 北方謙三大水滸伝コーナー>が気を吐いている。
ここには先の<Club 楊令伝>のときと同様に<Club 岳飛伝>が結成され、逐次刊行される文庫版の発売日直前に、北方謙三名義で集英社から下掲のようなメールが配信される。

登録、ありがとう。これから、月に一回ずつメッセージを送る。
『岳飛伝』の本筋には関係ないが、知っているとにやっと笑ってしまうような、そんなことが伝えられればいい、と思っているよ。
じゃ、今度の発売日に。 北方謙三
     集英社文庫 『岳飛伝』読破応援企画 ・ Club 岳飛伝

つまりやつがれ、北方謙三(以下ケンゾー)の読者(けしてファンではない⁉)として、<Club 楊令伝>のときと同様、<Club 岳飛伝>にも参加している。
20161124215858_00001
北方謙三『岳飛伝 第一巻 三霊の章』 四六判図書

したがって、『大水滸伝』全51巻のうち、『水滸伝』全19巻の四六判図書と文庫版、『楊令伝』全15巻の四六判図書と文庫版をすでに所有し読破ている。もちろん『岳飛伝』全17巻の四六判図書は購入済みである。
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{新宿餘談}

ケンゾーの粗放で語彙のすくない(失礼。豪放にして簡潔な)文章を読むと、なまの立木に一刀彫りで刻んだ円空仏をみたような妙な衝撃がのこる。
つまりことしの05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついにというか、ようやく、北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結して安堵した。

たまたま家人が書棚をすこし整理してくれた。それを好機としてケンゾー離れを意図して、ほかの作家の図書にとり組んだがどうもうまくいかない。
とりわけ併読していた宮城谷昌光や、葉室 麟、浅田次郎はかえって抵抗感があった。
そこでふるい蔵書の三島由紀夫や川端康成など、語彙を駆使し、情感たっぷり、丁寧に書きこまれた図書に触手をのばしたものの、リズム感に欠け、情景描写が多すぎたりして鼻についた。

つまりケンゾーは憑くのである。憑いたが最後はなれないから、躰にも脳の発達にも悪影響があるような気がする。
とどのつまり、ミシマもカワバタも中途で挫折して、結局はケンゾーの『史記』と『三国志』をもう一度読みなおしている惨状下にある。

ケンゾー『史記』は全七巻、ケンゾー『三国志』は全14巻である。
もともと吉川英治の『三国志』で長編小説のおもしろさを知り、司馬遷の『史記』に読みふけったやつがれであるからして、ケンゾー作品は原典無視もいいところである。したがって地下にある原作者にして厳格をもってなる史官の司馬遷は、ケンゾーの『史記』の存在を知ったら、悲嘆にくれるに違いないとおもえる。

ところがケンゾーはそんなことは一切頓着せずに、速く駈ける軍馬のこと、馬の乳から醸った酒はまずいが米の酒はうまいだの、射殺した鹿の骨つきのナマ肉に、手づかみで喰らいつくだの、死の床で家族に手を握られながら迎える漢オトコの死など、恥辱以外のなにものでもないなどととわめきちらし、戦場に疾駆し、全身に矢をあびてなお倒れず、絶命するのが真の漢の死だと断定するのである。こんなケンゾーにはただただ呆れるしかなかった。
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集英社からケンゾー名義の@メールがきた。
集英社文庫『岳飛伝』全17巻が11月18日[金]から発売されるとあった。
その日は帰宅をはやめ、近くの書店でケンゾーの集英社文庫『岳飛伝 第一巻 三霊の章』を買った。
うれしくもあり、どこかなさけなくもあった。
繰りかえすが ケンゾーは憑くのである。憑いたが最後はなれないから、躰にも脳の発達(衰退の促進)にも悪影響がある気がするのである。
これがして、ひそかに読者諸賢におすすめするゆえんである。
岳飛伝

【朗文堂好日録】 水も土も凍りはじめる立冬というのに、空中花壇の園芸家はいまだ多忙なり

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《 畏友 杉本昭生[活版小本]によれば 11月07日 水がはじめて凍るとき――立冬とする 》

活版小本そもそもブログや SNS で犬や猫をテーマにするのは禁じ手ではなかろうか。
犬も猫もあまりに、そして無条件にかわいいし、さまざまな愛らしいポーズもとってくれる。
京都吉田山に居住する杉本昭生さんは、季節のうつろいをブログ上にえがきだしてみごとである。今回は画像の一部を拝借した。ここには当然犬猫のたぐいは登場しない。

やつがれは犬も猫もだいすきである。以前は同時に犬も猫も飼っていたが、喘息によくないからと医者に飼育をストップさせられた。その恨みと焼きもちの気分もすくなからずある。
そこでいつもの「空中花壇」の話題に転じよう。

DSCN8651 DSCN8664DSCN7994吾が 「 空中花壇 」 の造園家は迂闊で、しばしば播種のときをはずすし、季節はずれの艸花をムキになって育てたりしている。
また、世間では「雑草」の代表のように唾棄する野草を、わざわざ 鹿児島の五代才助(友厚)生誕地から採取 して 「 才助 」 と名づけて育ててきた。


そもそもやつがれ、「 雑草 」 という名の艸はないと心底おもっているから、懸命に育てていた。やがて 「 才助 」 は野菊に似たちいさな花をつけた。 それはわざわざ鹿児島から持ちかえるまでもなく、東京でもどこの空き地にでも繁茂している、まぎれもない「 雑草 」 だったが、名を調べないまま枯れるまで見まもっていた。

【 花筏 : 朗文堂好日録039-春を待つ日日。わっせクン、才助とかわす朝の挨拶 2015年02月04日

《 そもそも、ハロウィン ・ グッズを花壇に持ちこむ不逞のやからがいるからして…… 》
10月31日は 「 ハロウィン 」 である。
昨今のハロウィン祭りは、アメリカ経由のカラ騒ぎの面がみられるが、本来のハロウィンは、紀元前1000年ころに中央ヨーロッパを席巻した 古代ケルト人 が起源の祭とされ、秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事である。
ケルトの「 文  ≒ 紋学 」 [ウィキペディア画像集]は、「 字学 」 と同様に興味がつきないが、現代の視点からみると、多くの古代文化の造形と同様に、面妖で怪奇な面もなくはない。

吾が「 空中花壇 」 に、ちいさなカボチャを頭にして、三年ほどまえから鎮座ましましているのが 「 わっせ君 」。 これはバレンタイン モトイ ハロウィンのときに ノ ー学部がなにかのついでに100円ショップで買ってきた。
価格は安いが、ソーラーパワー ( 太陽電池 ) がどこかに内蔵されているらしく、いまでも陽射しがつよい日には 「 わっせ、わっせ 」 と左右に躰をはげしく振動させている。
ただそれだけのものだが、目覚めの一服のさなかは、たったひとりの朋輩であり、見飽きることがない。 だからベランダにでると、まず、勝手に名づけた 「 わっせクン 」 と挨拶、顔合わせをつづけている。

[ノー学部] わたしのガラ携動画で撮ったので画質が悪いのですが、片塩さんのベランダ喫煙の友「わっせ君」の動く様子です。一年365日、ベランダで頑張っている健気なやつです。

ことしはやつがれが丹精している赤と紫のペチュニアふた株の植木鉢に、失敬千万、けしからんことに、いつの間にかコウモリがついた風車のようなハロウィン・グッズが居座っている。これもノー学部の仕業に違いない。
このペチュニアは過酷な夏、それもエアコンの室外機が吐きだす熱風にまけず、花をつけ続けた愛着のある艸花であるのに。

ところで、長岡栃尾の 「 紙漉 サトウ工房 」 でも味わいのある草木染めをみた。とても味わいがあってよかったが、やつがれはだいぶ前から、いつか草木染めに挑戦しようという意図があって、密かにこの花柄を摘んで空き瓶に貯めている。
DSCN8422このごろすこし赤花のパペチュアが元気がないなとおもったら、なんと、
せまい植木鉢から  「 才助 」 がニョキニョキと芽ばえていた。考えてみたらこの植木鉢はかつて 「 才助 」 を育てた鉢だった。
もちろん移植に際して土替えはしたが、なにしろ悪名とどろく 「 雑草 」 のことゆえ、どこかに種子をのこしていたらしい。
それでも隣のピンクのベゴニアの花は、なんとなく草木染めには適さないとおもっていたし、ペチュニアの赤い花も、紫の花にくらべると
すこし力感に欠けると……。だからいまは、おそらく 「 才助 」であろうが 、ニョキニョキと伸びるがままにしている。
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すこしうれしいのは、ちいさな苗で買った香草がげんきなこと。「ホットリップス」、「レモン・マリーゴールド」、「セージー」などが次〻に花をつけている。原産地はメキシコ高地の植物だというからこのまま冬を越しそうな勢い。

《 畏友 : 杉本昭生「活版小本」によれば11月12日からは立冬 次候 : 地始凍とするが 》
553[1]11月も半ばとなった。古来の暦法、二十四節季、七十二侯によれば、すでに立冬で、水も土も凍りはじめるときらしい。
ところが「空中花壇」の園芸家は、摘芯のときをわすれ、背丈だけやたらに伸びて、颱風のおり、支柱のさきから半分枝折れしてしまったミニトマトをいまだに育てている。
ミニトマトとしては、夜などは摂氏10度を下まわる寒さのなかで結実するのは、さぞかしたいへんなこととおもわぬでもない。
DSCN8415反対側の壁面には、熱帯植物 : 雲南百薬 {おかわかめ} と、謎の巨大植物 {メキシカーナ} がげんきである。
既報のとおり、最近 {おかわかめ倶楽部} という奇妙な会が誕生し、あちこちの黒ポットにムカゴや挿し芽の{おかわかめ}が寒風に震えながらも育っている。
念のためにしるすが、{おかわかめ}はあくまで熱帯地方の草花である。かような立冬のさなかに増植すべきものではないはずだとおもう。
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11月12日[土]、寒い朝だったが陽光がベランダに射していた。
そんな朝、「立冬 地始めて凍る」と京都の畏友が予告しているにもかかわらず、早朝からたたき起こされた。
「たいへん、たいへん、またトロロアオイが咲いてるよ」
冗談ではない。やつがれ今日か明日かと待ち望んでいた、ひこばえから健気に結花しようとしているトロロアオイのことなど十分に知っていた。
せっかくの休日だったが、ともかくこの花の開花時間はみじかい。そこで眠気まなこをこすりながら、間違いなくことし最後であろう「トロロアオイ」の花を観賞した。

嗚呼無情、こののちわずか、朝食の木綿豆腐の上に、長寿の薬草{おかわかめ}と、{トロロアオイ}の花が一輪、ちいさく刻まれて載り、いつの間に採取したのか、赤くなったミニトマトが数個、トーストの脇に転がっていた。
そのとき、椋鳥かなにか、つがいの渡り鳥が{メキシカーナ}にやってきて、ギャーと啼いた。 

【造形詩集】 森 郁 男 造形詩集 『 青 春 の 虜 』

森 郁男は、若くしてデビューした「造形詩」の詩人であった。 そして80年代のどこかで交通事故に遭遇し、いっときは生命の危険すらあったひとである。
森郁男造形詩集_青春の虜
たれに紹介されたのか、刊行直後に『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』を入手した。
それからすでに40余年が経過した。
やつがれも詩人も相応の歳をかさね、いつの間にかやつがれの書棚から詩集がみられなくなった。

それでも年賀状の交換がつづいた。いつも正月になると一枚のはがきにつづられた森 郁男のことばに霰にうたれたようになり、ときに、あかるい陽光をあびたような気持ちになっていた。

最近 『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』 を再読したくなったが、詩人の手もとにも一冊をのこすだけだと聞いてあきらめていたところ、デジタルデーターを送付していただいた。
ここに紹介する。
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<森  郁 男  略歴>
1949年  新潟県十日町市にうまれる (本名 : 江村 清)
1952年  東京都足立区梅田町に移転
1971年     同人誌 『わだち』 創刊に参加
1973年  「 詩と造形について No.2 」を『わだち』第7号に発表
1975年  『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』 わだちの会より発行

その詩は、みずからことばを紡ぎだし、そのことばを、縦横に、大胆にコンポジションする作風で、一世を風靡した。
その詩集に綴られた百篇のことばは、ひとのことばではなく、呻吟し、選択をこらし、みずからが紡ぎだしたことばによる。
またその造形手法は、ふり返れば性能のひくい写真植字機をみずから駆使しての 「造形詩」で あった。

森 郁男は、造形詩集『青春の虜』を発刊後も、翌1977年より官製はがきによる「造形詩通信」を発行。2016年現在76号。表現粒子としての「文字」の可能性を探り続ける。
「日独ヴィジュアル・ポエトリイ展」や「ヴィジュアル・ポエジィ・パリ展」をはじめ内外のヴィジュアル・ポエム展への出品を継続中。

そういえば森 郁男は、電子メール、ケイタイ電話などのデジタルメディアには消極的なようである。その分達筆で、悪筆をきわめるやつがれなど、お便りをいただくたびに赤面する。 そこでいまは、わが国には森 郁男という、すごい詩人がいる ―― ということにしておこう。

森郁男造形詩集_青春の虜 森-01rre 森-02rre 森-03rre 森-04rre 森-05rre造形詩集    青 春 の 虜
著      者    森  郁 男
発  行  所    わだちの会
装      本    A 5 判 118ページ 上製本 横開き
組版印刷    写真植字版下法 オフセット平版印刷

発      行    1976年01月01日
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造形詩集    青 春 の 虜     あとがき
「青春の虜」という名の詩集。今から四年前に名づけられていた脳裏の中の詩集。
それが、やがて間もなく現実のものとなろうとしている。 詩集と呼ぶところを敢えて「造形詩集」と袮したことについては、ここで理由づけをするまでもなく、読んでいただいた人、あるいは視ていただいた人の判断にお任せしようと思っている。

いずれにしても、二〇代も後半になって、やがて〝いい年をして〟などと云われるような頃になってこれを発行することに、若干のためらいを感じたりしている。
しかし、この「青春の虜」を発行することで、きょうに至るまで私の青春に対して、ひとつの区切りをつけたいという気持ちがあったことは確かである。
詩隼を発行することが青春への訣別ならば、一日延ばしに発行が遅れて、何年も時が経ってしまったこの年月の間、私はまさに青春の虜の中にいたのかも知れないと思ったりしている。

〝お前の青春時代に何があったのか?〟と問われたとき、私は詩を書くかくことしかなかったと答えるかも知れない。
私にとって、生命の次に大切なものが、青存時代に書き綴ったこれらの詩篇だといえる。
〝僕はね、たった今、火事か地震がきたら、書き綴ったこれらの詩篇の束を抱いて、外へ飛び出すつもりだ〟と友に語ったことがある。
生命の証し、あるいは生きた証し。青春時代にひとつの情熱を燃やして書き綴った紙きれが、日々の思いを日めくりのよう再現してくれるはずである。


しかし、私は殆んどといっていいくらいに、過去に書いた詩を読むことをしない。過去を回顧することよりも、できることなら明日の為の新しいい一ページを書き添えたいと思っている。 詩を書くことしかなかった十代の終わりからの青春の日々。万年筆を握りしめて、ただただ何かを見つめていた、そんな過ぎし日の自分の姿が思い出されてくる。

詩を他人に見てもらうということは、嘗て思いもよらないことだった。詩は、ひとり静かに書き綴っていればよいのではないか。そんな思いが、今となっても心の奥底に濳んでいたりする。

今は、詩集を出そうと決意した日から今日に至るまでの問、常に心の中にあった緊張から解放されて、ほっとしたやすらぎを感じている。
この詐集を発行することで、青春への訣別を告げるとともに、できうれば、明日からの道標としたいと思っている。

単なる詩隼としてではなく「造形詩」としてヴァリエーション化したこの試みが、どのように受けとられるか未知である。心の中では、今後も造形詩に閇わっていくかも知れないという疑問符に浸りながらも、その一方では、ひとつひとつ言葉を創造していった青春の日々のようにして詩を書いてみたいという願いがあったりする。

造形詩への傾倒は、出版に当って詩と最後まで関わっていこうと思ったこと。自らの手でクリエイ卜することによって、より一層詩と一体化できるのでは? と考えたからである、さらに、この百篇の詩の背後には、詩集に載ることのなかった多くの詩篇があることを自ら認識したいと思っている。
オリジナリティとかアイディアの踏襲だとかいうことには、何の意見も持ち合わせてはいない。とにかく自分の力の可能な限り頑張ってみたつもりである。 この「青春の虜」の意味することは、新しい創造へのステップだとか芸術だとか理屈づけをすることではなく、青春の日に毎夜憑かれたように詩を書いていた一人の青年の、極く単純なロマンの軌跡であると回時に、ロマンへの執着魂であるといえる。
一九七五年 冬                     森   郁 男

【ボヘミアン、プラハをいく】 04 パリ在住ボヘミアンの磯田俊雄さん、フランス版『山椒魚戦争』(カレル・チャペック作)と、フランソワⅠ世にちなむシャンボール城のメダルを持参して来社

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【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

《 長いつき合いになる。 在仏のボヘミアン : 磯田俊雄さん 》
最高気温が摂氏14度というひどく寒い日だった。 パリ在住30年余になる磯田俊雄さんが2016年11月22日、ほぼ一年ぶりにパリから飄飄と来社。

たまたまハンブルクから大澤能彦さんも来社されており、欧州勢のバッティング。 欧州在住がながいふたりとも愛煙家で、やつがれは友垣をえたおもいでうれしい。 大石は渋い顔。

磯田氏は神戸出身。 四人兄弟の末、パリでソルボンヌ大学博士課程修了の才媛と結婚し、息子も立派に自立した。
フラ~とニューヨークにいったはずが、いきなりパリからファックス。
「パリに住むことにしました。 荷物はカメラの寺さんに任せました。 当分かえりません」
爾来在仏35年ほどか。 このひとも、気軽で暢気なボヘミアンといってよかろう。

かれとは大日本印刷 CDC 事業部でコピーライターとして勤務していた頃からのふるいつき合いである。 若く見えるが、やつがれともさほど年は離れていない(はずだ)。 それでも最初の頃に「磯やん」と呼んでいたので、いまだに「磯やん」。
もともとフランス語での簡単な翻訳監修や〝eBay〟の窓口は 「 哲っちゃん 」 という同窓生が担っていたが、高齢化してスペイン国境に近い田舎に移転して隠居生活。 したがって現在は大石がメールを乱発して、磯やんを悩ませたり酷使しているようである。

今回も大石の依頼で、プラハの作家カレル ・ チャペック(Karel Čapec  1890-1938)がのこした、邦題 『山椒魚戦争』 のフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版 (印刷地 : プラハ、フランス語表記 1960年発行)の 『 La Guerre des Salamanders 』 を苦心惨憺で購入されての持参であった。
フランス国立印刷所 旧ロゴ[1]「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード ・ ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章である。 フランス国立印刷所は創設以来、現在でも、同所のシンボルロゴがこのサラマンドラである。
下部には、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)によるとされる、
識語 <我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす> が配置されている。 この紋章がフランス国立印刷所のシンボルロゴに連なり、シャンボール城で記念メダルを販売している。

ほかにも大石は、「サラマンダー」をみずからの紋章としていたフランソワⅠ世の離宮(狩猟用離宮 ・ 世界遺産) シャンボール城 の記念メダルをねだっていたらしい。
そもそも大石はひどい地理 幷 方向音痴である。 したがって、
「 パリ郊外のシャンボール城にいくと、サラマンダーの紋が入った記念メダルが購入できるはずです。 それをぜひ購入してきてください」
といった調子のメールを磯やんに送っていたらしい。

「大石さんはときどきヘンなことをいってくるんです。 パリ郊外などと、まるで東京から横浜にいってメダルを買って来いみたいな調子だったけど、ロワール渓谷のシャンボール城は、パリの隣り街じゃないんです。 パリから170キロほど、禁漁区のおおきな森にかこまれた、昔の王様の狩猟用の別荘のようなところで、電車も無いし、車でも一日がかりですよ・・・・・・」
とボソボソとこぼす。 やつがれは歓喜せんまで、つよいの共感のあまり、深くうなずきながら、そこは共に気軽なボヘミアン、
「 磯やん、申し訳ない、悪かった。 面倒をかけた。 ごめん、ありがとう。 これからもよろしく」
以下、一部ウィキペディア画像の助けを借りながら、シャンボール城とフランソワⅠ世を紹介したい。

フランス離宮シャンボール城概観 シャンボール城の装飾屋根 シャンボール城 フランソワⅠ世紋様シャンボール城の各所にみられる火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード ・ ギャラモンに 「王のギリシャ文字」を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり、 創立以来いまなおフランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。

フランソワⅠ世の紋章 「サラマンダー」 は、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして 21世紀の初頭に再生された。  詳しくは次ページを参照願いたい。saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワⅠ 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。
フランス国立印刷所は、580年ばかり以前のこの年、フランソワⅠ世治世下の王室印刷所、1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワⅠ世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による識語、<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす> 付与した。 この紋章がシャンボール城ではメダルとして販売されており、今般磯やんが持ち来たったということである。

以下サラマンダーとフランス王立印刷所のシンボルロゴに関して、詳しくは次ページに 【 [文 ≒  紋学] フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン ・ ドゥ ・ ロワ、そして朗文堂 サラマ ・ プレス倶楽部との奇妙な関係 】を一部修整して再掲載したのでご覧いただきたい。

《 プラハの造形家 ・ 執筆者 ・ 園芸家にして小説家 : チャペック兄弟とは 》DSCN0063DSCN0025DSCN0027DSCN0005チェコのプラハ市第10区に 「 チャペック兄弟通り  BRATŘİ ČAPKŮ 」 と名づけられた小高い丘への通りがある。 そこの頂上部に連棟式のおおきな二軒住宅がある。
向かって左が、画家にしてイラストレーター ・ 執筆者の兄  :  ヨゼフ・チャペック の住居で、現在は直系の子孫が居住しているという。
向かって右が、ジャーナリストにして戯曲家 ・ 作家の弟 : カレル ・ チャペック の住居跡である。

カレルの家は、現在は無住となっており、すでにプラハ市第10区が買収済みだという。
ところがどちらもいまは非公開の建物であり、庭園である。 したがってカレルの庭園の写真は相当無理をして、ほんの一画だけを撮影した。
この兄弟がここに居住していた頃にのこした一冊の図書、世界中の園芸家に読み継がれている、原題 『Zahradníkův rok 』、邦題 『 園芸家の一年 』、『 園芸家の12カ月』 がある。
20161027164925_00001イラスト : ヨゼフ・チャペック
チャペック01 20161027164925_00002翻訳書も手軽に入手できる。『 園芸家12カ月 』 (カレル・チャペック著、小松太郎訳、中公文庫)、『 園芸家の一年 』(カレル・チャペック著、飯島 周訳、恒文社)、『 園芸家の一年 』(カレル ・ チャペック著、飯島 周訳、平凡社)。
どの版も工夫を凝らしており楽しいものだ。

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チャペック02やつがれにとっては、兄 : ヨゼフ ・ チャペック、弟 : カレル ・ チャペック兄弟とは、なによりも愛読書 『 園芸家12カ月 or 園芸家の一生 』 の挿絵画家、著者であり、せいぜい戯曲『 ロボット (原題:R.U.R.)』において 「 ロボット 」 なる造語をふたりでつくった兄弟程度の知識に留めておきたいところだが、ここに困った図書が一冊ある。
20161103145611_00004『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫)。 いま、やつがれの手もとにあるのは、1978年7月18日 第1刷り2013年10月4日の版の、第14刷りの版である。
ここでは「著者」ではなく、「カレル ・ チャペック作」とされている。その理由を訳者は 「訳者はしがき」 「解説」 「訳者あとがき」 のなかで縷縷のべている。

すなわち 『 山椒魚戦争 』 には、活字見本帳 ・ ちらし ・ 新聞記事の切りぬき、マッチ箱などの図版(文字活字によるものがほとんど)が無数にあるのである。
文庫版とはそんなものだろうともいえそうだが、チャペック兄弟の図書は、プラハにおける初版はもちろん、多数の翻訳書をふくめて、わずかな例外をのぞいて軽装版である。 ところが岩波文庫版には、残念ながら二点の図版紹介をみるだけであり、しかも原寸を欠いている。

岩波文庫版 『 山椒魚戦争 』 は、1978年の初版以来、35年ほどのあいだ、14版を重ねてきた図書である。
このような名著に四の五のいうわけではないが、ともかく活字サイズが 「本文 明朝体8pt. 相当」、「注釈 ・ 図版説明 ・ 訳注 ・ 解説 ・ 訳者あとがきなど 明朝体6pt.相当」 といったちいさな活字サイズであり、しかも総ページ数496ページにおよぶのである。
とりわけこの本文より文章量が多いとおもえる注釈などの活字書風とサイズ 6pt. はつらい。

情けないことに、すでに視力がずいぶんと低下したやつがれは、再再の挑戦にもかかわらず同書を通読していない。 別の翻訳者と版元からの 『 山椒魚戦争 』 が電子化されて、電子図書「キンドル」で読めるが、こちらはいささか翻訳になじめないでいる。
造形者にとってある意味では必読書ともいえる『 山椒魚戦争 』である。ぜひ視力がしっかりしているうちに読了をおすすめするゆえんである。
20161103145611_0000320161104192107_00001ところで、大石は磯やんの助力をえて、このたびフランス Les Ėditeurs Francais Réunis 社版(印刷地 : プラハ、フランス語表記 1960年発行)の『 La Guerre des Salamanders 』 を購入した。
ところが大石は、すでに上掲図版のフランス Éditions Cambourakis, 2012 『 La Guerre des Salamanders 』 をもっている。
同書はフランス語で表記されているが、図版は原寸で、ほとんどがオリジナルの各国語のまま、改変を加えずに紹介している。

ほかにも煙草の臭いが移るからとしてめったにみせないが、プラハにおけるチェコ語の初版、戦後版、ドイツ語版、ロシア語版、英語版、仏語版など、異種本を10冊余ほど所有しているようである。
これらの異言語版は、この兄弟の思想的立脚点もあったのか、初版をふくめてほとんどが軽装版であり、いわゆる上製本仕立ては一点だけである。
そして内容を理解するために、邦訳書ももっているが、もっぱらチェコ語版と英語版で、挿画と造本、なによりも「 サラマンダー、山椒魚 」 の各国の解釈を 「 活字見本帳のような図版 」 で楽しんでいるようである。

岩波文庫 『 山椒魚戦争 』 には、本文中の図版として紹介されたものは、上掲図版 Éditions Cambourakis, 2012 『 La Guerre des Salamanders 』  p.264 のものと同一の図版が、「カタコトの日本文」 p.309 として紹介され、あとは「訳者あとがき」に紹介された「新中國版畫集」 p.455 のわずか二点であり、しかも他の版のほとんどが原寸紹介であるが、同書はどちらも原寸を欠いている。
すなわち 『 山椒魚戦争 』の隠喩、欧州中央部に位置し、文化文明の十字街路たるボヘミア ・ プラハならではの、多言語下における活字組版表現の実験を楽しみ、紹介するゆとりをいささか欠いているようである。
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《カレル ・ チャペックを中軸に、その教育体験と職歴をみる 》
読みたいのに読めないという焦燥感はつよい。 皆さんにお勧めしたいのは、『 山椒魚戦争 』はできるだけ視力が健康な、若いうちに読了されることである。
ここで、わが国ではとかくSF作家とされる弟 : カレル ・ チャペックの受けた教育と仕事から、そのもうひとつの魅力、造形家の側面に迫ってみたい。

1909年、ギムナジウムを優等で卒業したカレルは、プラハの名門大学カレル大学へ進学し、哲学を専攻する。 1910年、ベルリンのフリードリヒ ・ ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学 。1911年、ベルリンの大学を修了後に 兄 : ヨゼフがいたパリのソルボンヌ大学へ留学、造形芸術家集団に参加する。 パリ時代にヨゼフとともに戯曲 『 盗賊 』 を書く。

1914年、第一次世界大戦が勃発する。 チャペックは鼻骨の怪我により従軍することはなかったが、カレルの友人たちは従軍した。

1915年に帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。 卒業後しばらくは家庭教師の仕事をしていたが、1916年、チャペック兄弟として正式にプラハの文芸 ・ 造形界にデビューした。
このころはフランス詩の翻訳、とりわけアポリネールの象形詩に熱心に取り組んで、アポリネールがフランス語で象形化した詩(詩画)を、チェコ語での再現の実験に取り組んだ。
同年、持病の脊椎のリウマチにより兵役免除となる。 1917年、独立前に唯一発行が許されていた『 国民新聞 ナーロドニー ・ リスティ 』 に論説文を書く仕事に就く。

1920年、プラハのヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたカレル ・ チャペックは 『 ロボット R.U.R. 』 を書き上げる。 このときにヨゼフの助言をえて「ロボット」ということばが生まれ、全世界に拡散した。 後に妻となるオルガ ・ シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。

1921年、チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府の動向ににあわせて次第に保守化していく『 国民新聞 』 に不安を感じ、『 民衆新聞 リドヴェー・ノヴィニ 』 へヨゼフとともに移籍する。 戯曲 『 虫の生活 』(ヨゼフとの合作)を出版する。
その後逝去のときまで『 民衆新聞 』に在籍し続けた。

《 チャペック兄弟の最後 プラハ市 : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov にねむる》
ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)裏口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)入口2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)2 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟 ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟のムハの霊廟アップ ヴィシェフラット民族墓地(Vyšehradský hřbitov)スラヴィーン(Slavín)合同霊廟の斜め前にあるスメタナの墓プラハ : ヴィシェフラット民族墓地 Vyšehradský hřbitov はチェコの首都 : プラハの中央部にゆたかな緑につつまれて鎮まっている。
ここには 「合同霊廟 スラヴィーン Slavín」 があり、アール ・ ヌーヴォーの華といわれながら、晩年にボヘミアンとしての民族意識にめざめ、無償で描いた超大作絵画 「 スラブ叙事詩 」 をのこしたアルフォンス ・ ミュシャ(現地ではムハ)がねむり、その斜め前にはボヘミアとスラブの魂を歌曲にした作曲家 : スメタナもねむる(白い墓標)。
DSCN6084 DSCN6082 DSCN6045 DSCN6048そのかたわらにヨゼフとカレル、ふたりのチャペックの墓がある。兄 : ヨゼフはゲシュタポに捉えられ、ドイツの強制収容所に歿したために、歿時の月日記載がないのが胸をうつ。
弟 : カレルの墓は、1938年の没年ではあるが、現代のロケットともあまり相違ない形象のロケット型の墓標である。
ふたりとも第一次世界大戦と第二次世界大戦のはざま、過酷な時代をいき、そして誇り高きボヘミアンであった。
最後にチャペック兄弟の最後をしるした一文を、来栖 継氏の「解説」から紹介したい。

『 山椒魚戦争 』(カレル ・ チャペック作、栗栖 継訳、岩波文庫) 「解説」 p.453-4
[前略] 一九三九年三月十五日、ナチス ・ ドイツ軍はチェコに侵入し、全土を占領した。[弟カレル]チャペックも生きていたら、逮捕 ・ 投獄されたにちがいない。 事実、ゲシュタポ(ナチス-ドイツの秘密警察)は、それからまもなく[カレル]チャペックの家へやって来たのだった。 やはり作家で、同時に女優でもあるチャペック未亡人のオルガ ・ シャインプルゴヴーは、ゲシュタポに向かって、「 残念ながらチャペックは昨年のクリスマス [1938年12月25日歿] に亡くなりました 」 と皮肉をこめて告げた、とのことである。

チャペックの兄のヨゼフ ・ チヤぺックも、「独裁者の長靴」と題する痛烈な反戦 ・ 反ファッショの連作政治マンガを描きつづけた。 そのために彼は、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年四月、すなわちチェコスロバキア解放のわずか一ヵ月前、ドイツのベルゲン=ペルゼン強制収容所で、栄養失調のため死んだ。 彼が収容所でひそかに書いた詩は、戦後 『 強制収容所詩集 』 という題名で出版された。[後略]

【文 ≒紋学】 フランス国立印刷所のシンボルロゴ/火の精霊サラマンダーと 王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ、そして朗文堂 サラマ・プレス倶楽部との奇妙な関係

サラマプログ

Nutrisco et Extinguo  我ハ育ミ 我ハ滅ボス

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火のごとき  火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する
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火喰蜥蜴サラマンドラは、活字父型彫刻士クロード・ギャラモンに 王のギリシャ文字を彫らせたフランス王フランソワⅠ世の紋章であり フランス国立印刷所のシンボルロゴでもある。 2008年アダナプレス倶楽部年賀状 裏2008年アダナプレス倶楽部年賀状 表朗文堂 アダナプレス倶楽部[2016年07月01日よりサラマ・プレス倶楽部に改称]では、2008年の年賀状で「活版印刷術とサラマンダーのふしぎな関係」を紹介した。
ここにあらためて、フランス国立印刷所であたらしく再生されたシンボルロゴと、わがサラマ・プレス倶楽部の「小型活版印刷機 Salama シリーズ」のシンボルロゴとの、奇妙でながい歴史を紹介したい。
[取材・翻訳協力 : 磯田敏雄氏]
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《 国立印刷所の新しいシンボルロゴ —— Le nouveau logo de l’Imprimerie Nationale 》

フランス国立印刷所は定款を変更して、あたらしいロゴとして、今回もやはり「サラマンダー」の意匠を採用した。
あたらしいシンボルロゴとして神話の生物サラマンダーを選定したのは、フランス国立印刷所のながい歴史と、象徴主義とふかく結びついている。

フランス国立印刷所 新ロゴ フランス ヴァロワ朝 フランス王、第9 代フランソワ1 世(François Ier de France,  1494-1547)は、フランスにルネサンスをもたらし、また1538年にフランス王室で印刷事業をはじめたひとである。 フランス国立印刷所は、この年1538年の創立をもってその淵源としている。

フランソワ1世は、みずからと、その印刷所の紋章として、フランス王家の伝統としての百合の花を象徴する王冠 【 画像集リンク : フランス王家の紋章 】 とともに、火焔のなかに棲息するサラマンダーを取りいれた。
そこにはまた、ギャラモン(Claude Garamond,  1480-1561)の活字父型彫刻による標語を<我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす>付与した。

「Je me nourris de Feu et je L’éteins  意訳:我は火焔をはぐくみ、それを滅ぼす」 フランス国立印刷所 旧ロゴこのサラマンダーは何世紀もの歴史のなかで、すこしずつ意匠をかえて、フランス国立印刷所の紋章としてもちいられてきた。それらの意匠変遷の記録のすべてはフランス国立印刷所にのこされているが、21世紀のはじめに、どれもが幾分古ぼけた存在とみなされ、それを「モダナイズ」する計画がもちあがり、フランス国立印刷所のデザインチームが改変にあたった。

その結果よみがえったサラマンダーは、フランス国立印刷所の伝統を継承しつつ、かぎりなく前進をつづける、あたらしいフランス国立印刷所のシンボルロゴとして再生された。 saramannda- フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所シンボルロゴ《火の精霊 ― サラマンダーと、サラマ・プレス倶楽部のサラマくん》
フランス国立印刷所では21世紀の初頭にシンボルロゴを近代化して、Websiteに動画をアップした。同所のあたらしいシンボルロゴのモチーフは、1538年の創立以来変わらずにもちいられてきた「サラマンダー」である。

わが国では、このサラマンダーには TV CM でお馴染みのウーパールーパーという愛称があるが、正式には メキシコサラマンダー(Ambystoma mexicanum)とされ、もともとはメキシコ高地の湖沼に棲む、両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類であり、その愛称ないしは流通名がウーパールーパーとされている。

ところで、灼熱の焔からうまれるイモノの「鋳造活字」をあつかうタイポグラファとしては、こと「火の精霊 ── サラマンダー or サラマンドラ or サラマンドル」と聞くと、こころおだやかではない。とりわけ今回はフランス国立印刷所からの、「王のローマン体、王家のローマン体  ローマン・ドゥ・ロワ or ローマン・ド・ロァ Romains du Roi 」のメッセージと図書も届いた。

Viva la 活版 Viva 美唄タイトルデザイン04 墨+ローシェンナ 欧文:ウンディーネ、和文:銘石Buu サラマンダーは、欧州で錬金術が盛んだった中世のころに神聖化され、パラケルススによって「四大精霊」とされたものである。
四大精霊とは、地の精霊:ノーム/水の精霊:オンディーヌ/火の精霊:サラマンダー/風の精霊:シルフとされる。

この「四大精霊」のことは欧州ではひろく知られ、アドリアン・フルティガーは、パリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所で、活字人としてのスタートのときに、「水の精霊/オンディーヌ Ondine」と名づけた活字を製作していた。
この欧文活字「オンディーヌ」と、和文電子活字「銘石B」 をイベントサインとしてもちいたのが< Viva la 活版 Viva 美唄 > であった。
【 花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち

《サラマンダーに代えて Salama の登録商標を取得し、サラマくんのイメージロゴを製作》
サラマ・プレス倶楽部の製造・販売による小型活版印刷機は、「Salama シリーズ」として登録商標が認可されている。 また冒頭でご紹介した「Salama ペットマーク」はサラマ・プレス倶楽部 AD 松尾篤史氏の設計による。 DSCN0689 DSCN0741 DSCN1173もとより朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、ユーザーの皆さまには < SALAMA Salama サラマ> の名称を今後ともご自由にお使いいただきますし、現在OEM方式により製造 ・ 販売中の < Salama-21A,  Salama-LP,  Salama-Antiqua>を、「さらまちゃん、サラマくん」とでもご自由にお呼びいただき、ご愛用いただきたいと考えている。
わが家のウーパーウーパー/ウパシローは、シャイで気の弱い、わががまものである。

【資料紹介】 株式会社東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略傳』(松尾篤三編集兼発行 東京築地活版製造所印刷)

01活字と機械論考-1024x341[1]

曲田成 resized 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・『曲田成君畧傳』(国立国会図書館 請求記号 特29-644)

本書は、東京築地活版製造所第三代社長/曲田 成(まがた-しげり 弘化三年一〇月一日〈西暦 1846年11月19日〉-明治二七年〈1894年〉一〇月一五日 行年四九)の略伝である。
序文を福地源一郎(櫻痴 三号明朝 字間 四分アキ)、本文を同社第四代社長・名村泰蔵(五号明朝 字間 四分アキ)で組まれている。
本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆 不詳)がある。最後に「跋」がおかれ、ふたたび東京築地活版製造所社長の名で、名村泰蔵(三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には発行日として「明治28年10月16日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。
編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙のなかにその名をみることができる。
印刷者として支配人・野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。
印刷所として東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

『曲田成君畧傳』によって、今後本木昌造、平野富二関連文書の行間を大幅に補填することが可能となった。すなわち従来は平野富二と曲田成に言及するところがきわめて少なく、両者のであい、当初の器械設備、活字改良の次第などは暗中模索の状態にあった。
さらにことばをかさねれば、東京築地活版製造所から『平野富二伝』が発行されるにいたらなかった次第は、本書の中で名村泰蔵自身があきらかにしている。

ここに読者諸賢に『曲田成君畧傳』の存在をお知らせし、ともに『曲田成君畧傳』をタイポグラフィ研究に資することを期待したい。

【字学】 『安中翁紀念碑』より 明治長崎がうんだ出版人・印刷人・慈善家・篤志家にして〝ふうけもん〟安中半三郎

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安中半三郎resized安中 半三郎 (あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

安中半三郎翁紀念碑『安中翁紀念碑』
長崎県立盲学校 校門左脇在

明治長崎の印刷・出版・文化史において看過できない人物に安中半三郎がいる。
これまではおもに「長崎学」の分野において、慈善家、篤志家、ときとして〝ふうけもん〟として、わずかに触れられる程度であった人物である。
先般長崎史談会顧問:宮川雅一氏より虎與号・安中書店店主/安中半三郎の資料を拝借することができた。

ここではまず安中半三郎の功績者としての側面を、長崎県立盲学校と、長崎県立ろう学校の資料「安中翁紀念碑」から紹介したい。
「安中翁紀念碑」は、大正11年(1922)11月、安中半三郎の一周忌に際して、長崎市桜馬場町「長崎盲唖学校」の校庭に、元長崎肓唖学校長:山本 明の撰、長崎市中野郷:福丸秀樹の書によって建立された。
この年はまた長崎慈善会の創立三十年と、肓唖学校の創立二十五年記念にあたる年でもあり「同志あい計り碑を校庭に建て、もってその功績を不朽につたえる」としるされている。

DSC_2488[1]『史跡 盲唖學校跡』 碑
この碑が設置されたのは、それほど昔ではないと思います。高さは一メートルにも満たない大きさで、桜馬場の住宅街の片隅にひっそりと立っています。 宮田和夫氏提供

そもそも県立学校に、創設者個人の顕彰碑が建立されていたり、それもふたつの施設の校友誌にほぼ同一記録をみることはめずらしい。
また長崎県立図書館も、その創立記録として安中半三郎の名をとどめている。

長崎慈善会による「長崎盲唖院」は、その後「盲・聾教育の組織分離」がなされたため、現在は大村湾に面した「長崎県立盲学校」(長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873)と、長崎空港からちかい「長崎県立ろう学校」(長崎県大村市植松3-160-2 長崎新幹線の駅舎設置のため同市内に移転予定)のふたつの県立学校となっている。

「安中翁紀念碑」は時津町の 長崎県立盲学校 の校門左脇にあるという。
まだこの碑の実見にいたっていないのは断腸のおもいである。また訪崎の機会をえたらぜひとも訪問したいものである。

◎ 「長崎県立盲学校」 本校の歴史長崎県立盲学校 長崎県西彼杵郡時津町西時津郷873 WebSiteより一部引用)
<明治時代>
本校は、安中半三郎氏を中心とする民間団体「長崎慈善会」によって、明治31(1898)年に「長崎盲唖院」として創立されました。同年9月12日開院、その安中氏に盲唖院設立を相談した、自らも視覚障害者である野村惣四郎氏の居宅(市内興善町)の一部を仮校舎として、授業が開始されました(以後この日が開校記念日)。

開院時の生徒数は13名、京都以西では二番目に設置された盲聾教育機関となります。
この年の11月28日には、電話発明者として有名なA・G・ベル博士が来院し、教師及び生徒に対して手話演説を行っています。
九州初の盲聾教育機関であったために、開院以来九州全域及び愛媛・広島からの生徒の入校もあり生徒数は年々増え続けました。そのため、校舎が手狭になり二度の移転を余儀なくされ、最終的には明治41(1908)年市内桜馬場町に新校舎が落成し落ち着くこととなりました。

校名も明治33(1900)年には「私立長崎盲唖学校」と改称。その後九州各地に相次いで開設された盲唖学校の中核的存在として、明治45(1912)年には第1回西部盲唖教育協議会を開催するなど、九州地区の盲・聾教育の研究、実践に大きな役割を果たしています。
<大正時代>
大正08(1919)年には「長崎盲唖学校」と改称。大正12(1923)年「盲唖学校及聾学校令」が公布されたのに伴い、翌年7月12日には盲・聾教育の組織分離がなされ、「長崎盲学校」及び「長崎聾唖学校」の両校が開設されました。
また、この法令には普通教育と職業教育の分離化とその指導充実が明確にうたわれ、それを受けて本校でも指導内容の充実が図られるようになり、修業年限も初等部6年、中等部鍼按科及び音楽科4年、別科按摩専修科2年となりました。
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◎ 長崎県立ろう学校
長崎県立ろう学校 学校沿革抄(長崎県大村市植松3-160-2 WebSiteより一部引用)

明治維新以来わが国の文化は日に月に進み目覚しい発展を遂げたが、わが同胞で耳が聞こえず目が見えぬため、終生人生の悲境に泣く人が顧みられなかったことは、人道を重んじ博愛の心あるものにとっては一日として見過ごするにしのびぬところであった。わずかに京都・東京において明治11年相前後して盲ろう教育の機関を設けたが、その以西にあってはいまだその施設があるを聞かなかった。長崎慈善会が特に率先して盲ろう教育に先べんをつけた動機は実にここに存したのである。

明治29年慈善会幹事安中半三郎らは、会の事業として盲唖院を経営することを提議したが、さいわいにして衆議もこれを容れ京都盲唖院を標準として調査を続け、一方同30年12月20日慈善会総会では安中半三郎ら9名を盲唖院創立委員にあて開校を促進するに至った。この間京都の盲唖院から寄せられた同情と支援は言葉に尽くせないものがあった。かくして明治31年開校の運びとなり、全国ろう教育史上4番目の伝統を誇る足跡が印されたのである。
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以下、資料 : 『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)と、『安中翁紀念碑碑文 原文』(手稿 宮川雅一氏資料)をもとに、まず平易な現代文で「安中翁紀念碑」から紹介する。原文は最後に置いたので参照して欲しい。
なお紀念碑には末尾に五言絶句様の漢詩があるようだが、『明治維新以後の長崎』はそれを収録していない。この部分は手稿原稿からの引用であることをお断りしたい。

☆      ☆      ☆      ☆

安中半三郎resized安中半三郎(あんなか-はんさぶろう 名 : 有年 ありとし 号 : 東来 とうらい)
1853年12月29日(嘉永6年11月29日)-1921年(大正10)4月19日 享年69

翁の姓は安中(あんなか)、名は有年(ありとし)、通称半三郎、東来(とうらい)はその号なり。
嘉永六年十一月二十九日(西暦1853年12月29日)江戸神田相生町に、父為俊、母長沢氏の三男としてうまれた。6歳のとき父にしたがって長崎に来て家業をたすけるかたわら、長川東洲、池原大所(香穉・日南とも)に和漢の学をまなび、歌道にも通じた。
明治のはじめ、皇道の由来を悟り、父にすすめて祖先の祭祀を神式にあらためた。明治19年(1886)書籍・新聞・文具などの業を営業しこんにちにおよぶ。

安中家墓地長崎市本蓮寺脇にある神式の特設墓地「安中家と安中半三郎の墓碑」。
本蓮寺は日蓮宗の名刹で、勝海舟が幕末の海軍伝習所にまなんだときここに寓居した。
また長崎史談会の故古賀十二郎もこの本蓮寺墓地にねむるという。

翁はうまれつき剛直にしてすこぶる義気にとみ、公共のことに尽くすことが多かった。すなわち市会議員に選出され、市参事会員にあげられて多年にわたって市政に貢献した。また商業会議所議員、その副会頭(現在の長崎商工会議所の前身。会頭は松田源五郎)として商工貿易の進展に参画した。また(長崎十八銀行頭取)松田源五郎翁らと電灯会社をおこし、長崎の灯明の新世紀をひらいた。

十八銀行本店前「長崎商工会議所発祥の地」碑

松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影上) 「長崎商法会議所発祥の地」碑 十八銀行本店前
下)松田源五郎「明治10年内国勧業博覧会」 上野彦馬撮影 : 松尾 巌氏蔵  長崎商法会議所 年代不明02 宮川資料 長崎商業会議所会員 年代不明 宮川資料長崎商法会議所前にて 年代不詳ながら1879年(明治12)10月以降の明治初期
下図は上掲写真の部分拡大。当時は写真撮影をすると指先から魂を抜かれる、レンズに心胆をのぞかれるなどの迷信があり、長崎の有力財界人であっても、レンズから視線をそらし、手指を袂にいれて隠すふうがあった。
長崎商法会議所 年代不明03 長崎商法会議所 裏面に明治39年(1906)01月の書き込みがある。
手指をだし、おおかたのひとの視線がカメラ目線に変化していることがわかる。
長崎県立図書館落成記念写真 宮川資料長崎地名考 扉[1] 長崎地名考 付録1[1] 長崎地名考 刊記[1] ORAYO-GO[1] 長崎安中半三郎は「安中書店「虎與號 とらよ-ごう」の名称で『長崎地名考』(香月薫平)、『類代 酔狂句集 初編』(素平連 安中半三郎)など何冊かの図書の刊行と、「虎與号」から販売もしている。安中半三郎における印刷・出版・文化人といった面からの研究は未着手である。

長崎慈善会「軍人家族贈呈衣類収容所」右手最奥に安中半三郎 宮川資料長崎慈善会「軍人家族贈呈衣料収容所」。左手最奥部、裏庭のまえに、手帳を片手にうつむき加減の安中半三郎がみえる。東来半三郎は写真を苦手としたか?  明治27年12月1日

いっぽう文雅同好の士(西道仙、香月薫平ら)とともに「長崎文庫」をはじめ、それは現長崎県立図書館の源流となった。そのほかにも神社の振興や名所旧蹟の保存にも尽力した。
そのほかにも特筆すべきこととして、明治24年(1891)尾濃震災(のうび地震)に際しては、同志とともに音楽会や幻灯会を催して金品をあつめて罹災民の支援にあたった。これをはじめとして明治26年(1893)に「慈善会」を創設して、各地の天災地変や出征兵士の慰問などに金品を寄付すること30余回におよんだ。

櫻馬場盲聾学校校舎 年代不明 宮川資料櫻馬場盲聾学校校舎 明治41年(1908)以降。年代不詳

明治31年(1898)「慈善会」の事業として「盲唖学校」(現:長崎県立盲学校長崎県立ろう学校)を創立し、資金の蒐集と学位資格管理に苦心した。このようによく一生の心血をそそぎ、おおくの可憐な子女を教養してこんにちにあることに尽くした。 その期間実に三〇年および、長崎市における社会事業のさきがけとも、経営の柱石ともなった。そのため巷間では狂とも奇とも呼ばれることもあったがそれを厭はなかった。

このように功労は常人の及ぶところではなく、特殊堅実なる守操がなければこのような事業を成し遂げられなかった。
大正四年十一月国家の大典(大正天皇即位式)に際し、その功績が表彰された。
大正十年に入り、病を得て四月十九日ついに歿す。享年六十九。
その死にいたるまで一日も病床に就かず、端座してよく簿冊を管理していた。その剛健さと黽勉ビンベン(努力)はいつもこのようであった。 その妻ジウ子もまた翁の志をうけ、内助の功が多かった。翁とのあいだに長男生逸があり家を継承した。

翁が逝去して一周年、あたかも慈善会の三十年と肓唖学校の二十五年記念にあたる年であり、同志あい計り碑を校庭に建て、もってその功績を不朽につたえる。

   瓊浦の水洋々   峨眉の峰清秀   偉才其間に出づ   嗚呼安中君
   力を公事に致し  其績歴たり     銘を負石に勒し    以て来世に告く

         大正十一年十一月    元長崎肓唖学校長  山 本   明 撰
長崎市中野郷     福 丸 秀 樹 書
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三四 長崎盲唖学校

安中翁紀念碑

翁姓ハ安中名ハ有年通称半三郎東来其号ナリ嘉永六年十一月二十九日江戸神田ノ相生町ニ生ル為俊翁ノ三男ニシテ母ハ長沢氏タリ翁六歳ニシテ父ニ従フテ長崎ニ来リ家業ヲ助クル傍長川東洲池原大所ニ従ヒ和漢ノ学ヲ修メ心ヲ歌道ニ潜ム明治ノ初年皇道ノ由来ヲ悟リ父ヲ勧メテ祖先ノ祭祀ヲ神式ニ改メ同十九年書籍新聞及文具等ノ業ヲ営ミシヨリ連綿トシテ今日ニ及ヘリ翁天資剛直ニシテ頗ル義気ニ富ミ公共ノ事ニ尽セシコト甚多シ即チ市会議員ニ選ハレ市参事会員ニ挙ケラレテ多年市政ニ貢献シ又商業会議所議員及其副会頭ニ推サレテ商工貿易ノ進展ニ参画シ先進松田源五郎翁等卜謀リ電灯会社ヲ起シテ本市灯明界ノ新紀元ヲ開キ文雅同好ノ士卜共ニ長崎文庫ヲ創メテ図書館ノ萠芽ヲ育成セリ其他神社ノ振興ニ或ハ名所旧蹟ノ保存ニ力ヲ致セシコト亦少ナカラス而シテ其特筆スヘキハ明治二十四年尾濃震災ノ際同志ト共ニ音楽幻灯会ヲ催フシ金品ヲ集メテ罹災民ヲ賑ハシタルヲ始メトシ同二十六年ニハ慈善会ヲ創設シ爾来同会ヨリ各地ノ天災地変及出征兵士ノ慰問等ニ金品ヲ寄附シタルコト実ニ三十余回ノ多キニ及ヒ越エテ三十一年会ノ事業トシテ盲唖学校ヲ創設セシヨリ資金ノ蒐集卜学位ノ管理トニ一層ノ苦心ヲ加ヘタルモ克ク一生ノ心血ヲ濺キテ多数可憐ノ子女ヲ教養シ以テ今日アルヲ致セリ其間実ニ三十年本市ニ於ケル社会事業ノ魁トナリ其経営ノ柱石トナリ狂ト呼ハルヽモ厭ハス奇卜其功労常人ノ及フ所ニアラス特殊堅実ナル守操アルニ非スンハ曷ソ能ク此ノ如クナルヲ得ンヤ宜ナルカナ大正四年十一月国家ノ大典二際シ其功績ヲ表彰セラレタルコト大正十年ニ入リ病ヲ得四月十九日遂ニ歿ス享年六十九其死ニ至ルマテ未タ一日モ寝ニ就カス端座シテ克ク簿冊ヲ理ム其剛健黽勉始終此ノ如シ室ジウ子亦翁ノ志ヲ承ケテ内助ノ効多ク長子生逸家ヲ継ク翁逝テ一周年恰モ慈善会ノ三十年卜肓唖学校ノ二十五年紀念ニ当ル乃チ同志相謀リ碑ヲ校庭ニ建テ以テ不朽ニ伝フ
大正十一年十一月    元長崎肓唖学校長  山 本   明 撰
長崎市中野郷     福 丸 秀 樹 書

宮川氏原文
資料:『明治維新以後の長崎』(著作兼発行者 長崎市小学校職員会 大正14年11月10日)
『安中翁紀念碑碑文 原文』(手稿 宮川雅一氏資料)

DSCN7439{宮川雅一氏 略歴紹介}
1934年(昭和9)長崎市の老舗の酒類・食料品店に生まれる。勝山国民学校・新制長崎中学校・長崎東高等学校卒。
1957年(昭和32)東大法学部卒業後、自治庁(現・総務省)に入る。以来、自治省・大蔵省(現・財務省)・公営企業金融公庫(現・地方公共団体金融機構)・福岡・滋賀・愛媛・香川各県庁に勤務。
1979年(昭和54)川脯日本都市センター研究室長から長崎市助役に就任。1986年(昭和61)長崎市助役を退職し、長崎都市経営研究所を設立。

現在、長崎史談会会長を経て同相談役、長崎釈尊鑚仰会事務総長、長崎近代化遺産研究会会長、唐寺研究会代表幹事、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表、長崎ちびつ子くんち実行委員会会長、出雲大社長崎分院・松森天満宮・伊勢宮の各責任役員など。
著書に『宮川雅一の郷土史岡目八目』(宮川雅一 長崎新聞社 平成25年9月1日)、『長崎散策』シリーズほか。

{ 関連資料 : 文字壹凜 安中半三郎の肖像紹介 『東来和歌碑』釈読紹介 宮川雅一氏

【舞台公演】 IHIステージアラウンド東京 そのこけら落とし公演は 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。日本の Entertaiment が Drastic に変わる

話題沸騰! キミはこの衝撃に耐えられるか?
アジア初、没入型エンターテインメント施設として2017年03月に誕生する 「IHI ステージアラウンド東京」。
こけら落とし公演は 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。
劇団☆新感線 の公演フライヤーと、Village Audiens Club (VAC) から紹介。  蜉・屮譁ー諢溽キ喀荳ュ髱「隕矩幕縺・ 蜉・屮譁ー諢溽キ喀荳ュ髱「隕ウ髻ウ髢九″2017年3月に東京・豊洲にオープンする 新劇場 「IHIステージアラウンド東京」。

そのこけら落とし公演 ・ 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花、 Produced by TBS。 

「IHI ステージアラウンド東京」は、1300人以上もの観客を乗せて360°回転する円形の客席を劇場中央に配置し、その周囲をステージとスクリーンがぐるりと取り囲み、観客席が回転しながら舞台、映像、音楽、照明の全てが画期的な方法で融合することで、これまでにない感覚を体験させてくれるアジア初の没入型エンターテインメント施設。

「IHI ステージアラウンド東京」 こけら落とし公演となる 劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 は、いのうえ ひでのり による演出、劇団☆新感線 座付き作家 ・ 中島かずき が手掛けた脚本で、7 年ごとに再演を繰り返す 劇団☆新感線 の代表作。
その 『髑髏城の七人』 を、“ 花 ・ 鳥 ・ 風 ・月 ” の4 シーズンに分け、シーズンごとに全て異なるキャスト、脚本 ・ 演出も練り直され、 2017年から2018年の約 1 年に渡るロングラン公演が予定されています。

皮切りとなる 『髑髏城の七人』 Season 花  Produced by TBS では、2011年に上演された『髑髏城の七人』 で捨之介を演じ、6 年ぶりの 劇団☆新感線 参加となる 小栗 旬をはじめ、山本耕史、成河、りょう、青木崇高、清野菜名といった 劇団☆新感線 初参加となる個性豊かな顔ぶれや、2003年『阿修羅城の瞳』以来、13 年ぶりの参加となる 近藤芳正、そして古田新太、河野まさと、逆木圭一郎、村木よし子、礒野慎吾、吉田メタル、保坂エマといったお馴染みの劇団員も集結し、約2 か月半におよぶ公演に挑みます。
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劇団☆新感線 『髑髏城の七人』 Season 花  Produced by TBS
◎スタッフ&キャスト
     作    : 中島かずき
演    出 : いのうえひでのり
出    演 : 小栗旬/山本耕史/成河/りょう 青木崇高 清野菜名/近藤芳正/古田新太 ほか
◎上演スケジュール

2017年3月30日[木]-6月12日[月]  IHI ステージアラウンド東京

主    催 : TBS
制    作 : ヴィレッヂ
企画・製作 : TBS ヴィレッヂ 劇団☆新感線
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【資料発掘】 活字のうた―或る植字工これをつくる 『活字界』 Vol12-3 / No.47 p.5 昭和51年4月5日

ここに紹介する詩は、ある大手の印刷会社の植字工を永年やっていた故松崎映太郎が、昭和23年,復興経済労働問題講座の席上発表したものといわれる。
印刷同友会の市村道徳会
長がこの詩を高く評価し、印刷同友会20年史に所載したものを、同氏のご好意により本誌に転載させていただいた。{活字界 編集部}

『活字界』合本。

活   字   の   う   た

(或る植字工これをつくる)

ケースにいっぱい詰っている活字は
満開の桜のように美しい
その一本一本が生きもののように
生命をもっている
活字とはいみじくも名づけられたもの
その一本一本の活字の望みは
花のように美しく植えられることにある
幼い苗を植えて
豊かな果樹園を実らせるように
立派に組み上げられた活版
そしていっぱいに盛り上る文化
しかもむだ花として散ってしまうのではなく
再び解きほぐされて息吹きかえす
小さな不死鳥よ フェニックス ────────── 活字。

太初に道あり ―― はじめに ことば あり
ことばは神と共にあり
と、ヨハネ伝はかく誌シルす
マインツのダーテソベルクが
最初の活版印刷を発明した時に
先づ刷ったものは聖書だったという。
ああ 近代印刷の技術の泉は
まぶしいような神の言葉と共に湧いたのだ。
活字を植える人よ

印刷するひとよ
此の古い事実に深い意味をさぐれ。
 『ルラ』(ローラー)が一回転して紙がその上を通れば
そこには取り返しのつかぬ歴史が生れることを
汚ないインキのしみを
人類の文化になすりつけることに心せよ
ケ-スにいっぱい詰まっている活字は
輝やく眼マナコで原稿をきびしく査シラべ
ステッキの中に組まれた活字は
やがて世の中へ出てゆくものの倫理を叫ぶ
活字が紙幣サツを刷るに役立たぬことは
いかにうれしい宿命であろう。

ああ活字
可憐な、きよらかな文化の釘
賤イヤしいただの金儲けや
恥知らずの本造りブックメーカーの手から
お前を護ろう
巨人ゴリアテを仆タオした
ダビデの掌の中の小さい石のような
正義の武器 活字を
人々よ いつくしみ育てて
新しい日本の大きい組版の中に
星のように輝やかしくちりばめようではないか

【花筏】 きょうは中秋の名月 されど 迫りくる颱風が心配 トロロアオイが大輪の花をたくさんつけました 月餅と最中がおいしい季節

DSCN7554DSCN7557DSCN7558DSCN7564停滞する秋雨前線、連続して襲来する颱風。どこか妙な昨今の天候。
だからすっかり中秋をわすれていた。それをグーグルに教えられるとはなさけない次第。
吾が空中花壇は、陽ざしが傾くとともに秋桜(コスモス)が咲き、秋の気配が濃くなった。
「トロロアオイ」は、二年年越しの株と、ことし五月初旬に播種した二鉢ともに、あわい黄色の大輪の花をつけはじめた。

ノー学部は昨今はミニトマトをはじめ、実のなる艸木からの収穫が減り、ほとんど「空中庭園」を荒らしまわることが無いが、たまになにかゴソゴソやっていて、早くも「かぼちゃ祭り ハロウィン」の気分らしい。
やつがれは衣食住にほとんど容喙することはないが、南瓜(カボチャ Pumpkin)、甘藷(薩摩芋)、煮た栗だけは苦手とする。だから阿呆な「かぼちゃ祭り」はやめてもらいたいのだが。

目下の関東の空模様では、昨夜も今夜も名月は望むべくもないが、せめて今夜は「月餅」か「最中 もなか」でも愉しみたい気分。

《 菓子の 月餅と 最中モナカ の季節感とは 》
わが国の暦コヨミから季節感が乏しくなって久しいものがある。
そもそもほとんどのひとが、祝日(特に国でさだめた、いわいの日)と、祭日(皇室の祭典をおこなう日。神道シントウで死者の霊をまつる日)の違いがわからなくなっている。ましてかつて存在した「旗日」などということばは、ほぼ死語となっている。
また、暦ならぬカレンダーのおおくは、日曜と祝日が平日とは色違いで表示されるくらいで、その日がいったいなんの祝いの日で、どうして休日になっているのかわからないままのことが多い。

DSCN7232[1] DSCN7282[1] DSCN7264[1]ところで「月餅」と「最中」である。
わが国ではいまや、ほぼ四季を問わずみかけるお菓子であるが、中国の習慣では月餅も最中モナカも、もともとは秋の、それも秋のさなか、仲秋(中国では中秋)のお菓子である。

気候の苛烈な中国にあっては、餡アンを主体として水分の多いこれらのお菓子は、夏ならすぐに腐敗するし、冬ならまもなく凍結してしまう。
これがおだやかな気候のわが国にもたらされ、さまざまに工夫され、また保冷 ・ 保温設備(かてて加えて防腐剤)の普及などもあって、四季を問わずに食せる、わが国にすっかり同化したお菓子となった。

「最中」とはおもしろいことばである。
すなわち漢の字の最中は、「最中 さなか ・ さいちゅう ・ もなか」とさまざまによまれる(和訓)。
お菓子の「最中モナカ」は、餅米の粉を蒸し、それをうすくのばして、餡をつつみこんで、月餅と同様に、陰暦の初秋、仲秋、晩秋の 「秋の最中サナカ、仲秋 ・ 中秋」 につくられ、食されていたものである。

この最中の由来には若干異論もあろうが、本来は望月 ≒ 満月を模して丸い形をしていた。それがいまや各地の名産品となって、形もさまざまに変化し、パンダ最中、くまモン最中までが登場するようになって、日持ちのよい、わが国のお菓子となった。
したがっていまや、秋よりは食感がおとるものの、真夏や真冬に「月餅 ・ 最中」を食そうと、それはそれで良いのではないかとおもっている。

《 中国の中秋節は09月中・下旬に設定され、三連休となって秋の行楽のときとなる 》
古来の暦法にならい、中国では翌年の祝日を、12月中旬になってから法定祝日として政府が発表するそうである。これではカレンダー製作業者などはおおごとかとおもえるが、
「秦の始皇帝のころから、暦はそうなっています」
と、平然としているのが中国人の奇妙さでもある。したがって09月中旬の現在、来2017年の法定祝日はまだ発表されず、あくまで予想である。
【 リンク : 中国の祝日 2016年カレンダー/2017年 予想

いまの中国の法定の祝日には、元旦 ・ 春節 ・ 清明節 ・ 労働節 ・ 端午節 ・ 中秋節 ・ 国慶節などがあり、元旦(新暦の正月)は01日、春節(旧暦の正月)と、国慶節(1949年中華人民共和国建国記念日。10月01日)は07日、それ以外の祝日は03連休となる。
ちなみにことしの中国の中秋節は09月15日で、休日は15日[木]-17日[土]の三連休、実際には日曜日を加えて四連休となっている。

ノー学部がはじめて中国を訪れた2011年は、たまたまこの「中秋節」の休日にぶつかって、各地で観光バスでやってくる観光客の大混雑に巻きこまれておおいに閉口した。
中国南宋のみやこ、杭州(臨安)を訪れた日がまさにその中秋節で、日中は残暑と人混みですっかり疲労した。

 
夕暮れの西湖1 西湖の中秋の月【 参照 : 十五夜のお月さま―― 月に叢雲ムラクモ、花に風といいますね。月餅と最中

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 16】 長崎のアルビオン型手引き印刷機が復旧 長崎活版さるく 思案橋横丁ぢどりや三昧

長崎バーナー

1030963 1030946 10309502-1-49043[1]{Viva la 活版 ばってん 長崎}は、近代機械産業発祥の地、それも140年余の歴史を刻んだ活版印刷にはじまる印刷産業の中核地・長崎県印刷会館を主会場として開催された。
そのため、地元長崎の印刷人だけでなく、ひろく全国から長崎に結集した活版印刷実践者・研究者とのよき交流の場となった。
ばってん長崎_表 プリント全国各地から長崎を訪問されたかたは50余名。それに地元長崎の印刷人と、テレビや新聞報道によって長崎県印刷会館に来場された一般のお客さまはおおきをかぞえた。
このイベントに際し、会場設営・会期三日間・会場撤収と、十数名のアダナ・プレス倶楽部会員と、新宿私塾修了生の皆さんにご協力いただいた。
また創立十周年を期して特別参加された「タイポグラフィ学会」の皆さんにも全面的なご協力をいただいた。

あれから四ヶ月あまりの時間が経過したが、訪崎された皆さんは、長崎で収集したあまりに膨大な資料や写真の整理が追いつかないとされるかたもおられ、いまだにうれしい悲鳴も聞こえるいまである。
それは主催者 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部もまったく同様で、あまりにも多くの知見と資料にかこまれ、またあらたに誕生した長崎の活版印刷術を守もろうとされるおおきな人の輪、皆さんとの交換に追われる日々をすごしている。
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《 Viva la 活版 ばってん 長崎 主会場 : 出島町 と 宿泊所 : 新地周辺 》
主会場は長崎市出島町の「長崎県印刷工業組合 長崎県印刷会館」であったので、県外から参加されたみなさんは、そこから徒歩でもせいぜい5-6分、会場至近の「新地地区」のホテル五ヵ所にそれぞれ滞在されていた。
この出島と新地は、現在では埋め立てがすすんで境界が明確ではないが、下掲図でみると、右側の扇形の築島が「出島」であり、左方の矩形の築島が「新地」であった。
4-1-49076 長崎諸役所絵図8 上図) 江戸時代に描かれた長崎港出島周辺の絵図。半円形の樹木が茂った場所は、長崎奉行所西役所(現長崎県庁)。
その前に半円状にひろがる民家は、出島御用をつとめた町人らが居住した江戸町。幕末の「海軍伝習所」は長崎奉行所西役所に置かれた施設であった。

長崎県印刷工業組合・印刷会館は、出島左先端部に設けられた「牛小屋・豚小屋」の位置と、「新地」の中間部のあたりにあたる。いまはすっかり埋め立てられているが、市電は印刷会館の直前を出島海側跡(出島通り)に添うように、湾曲しながら走行している。
長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側中図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「出嶋 総坪数三千九百六十九坪」。
出島右先端部は「通詞部屋  七間五間」である。出島内の建物は多くが二階建てであったが、オランダ通詞の詰め所であった「通詞部屋」も二階建てであった可能性がたかい。
そのほかにも町役人 乙名 オトナ 詰め所が二箇所あり、また番人・料理人や身のまわりの世話をする日本人が出島の内部にも相当数、日中のみ滞在し、一部は居住もしていた。
料理人のなかには退役ののち、長崎町内で「南蛮料理」をひろめたものもいたとされる(長崎史談会顧問:宮川雅一氏談)。

長崎諸役所絵図 出島拡大左側 長崎諸役所絵図 出島拡大右側長崎諸役所絵図9上図) 『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184-0288)より「新地荷蔵 幷 御米蔵 総坪数三千八百六十坪」。出島左方海中の矩形の敷地。
中国からの船舶(唐船)が入港すると、小型舟艇で海岸の倉庫に積荷を搬入していたが、元禄11年(1698)の大火で焼失した。
そのため「俵物」などの貿易用荷物の搬入と運び出しの便を図り、荷物を火災や盗難から守り、また密貿易を防ぐために、元禄15年(1702)に海岸を埋め立てて築島をつくり、そこにたくさんの蔵所(倉庫)を建て、「新地荷蔵」と称した。

幕末から明治初期になると唐人屋敷(最盛時九千三百六十三坪)が廃止されたので、唐人屋敷に在住していた中国人の一部がこの新地に移り住み、今では中国料理店や中国産の土産物店が軒を並べ、長崎独特の中国人街を形成している。

《 5月5日[木]設営日 数名が前夜最終便で長崎入り。早朝から展示設営開始 》
イベント前日、「先乗り班」として長崎新地地区のホテルに分宿していた会員数名が、続続と長崎県印刷工業組合・印刷会館の三階主会場に集結した。
ほとんどのかたはサラマ・プレス倶楽部・活版カレッジ修了生であったが、創立10周年で特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんの姿も多かった。また心づよい援軍として長崎県印刷工業組合の会員も参加されていた。

<Viva la 活版 ばってん 長崎>で使用した小型活版印刷機は、もっぱら整備と注油・清拭をかねて、長崎県印刷工業組合所蔵の機械をもちいた。
その設置、試運転、展示物の配置などは、三階:横島さん・石田さん・小酒井さん・古谷さん・平野さん・真田さん・須田さん・加久本さんらのベテラン会員の手で順調に展開された。

1-7-50052-06.jpg一階特設会場には、タイポグラフィ学会の展示と、懇話室 兼 休憩室がもうけられ、その設営は春田さん・小酒井さんを中心に、福岡から駆けつけられた大庭さんと、三階の展示設営が目処がついたかたから順次応援にまわっていた。

通常のサラマ・プレス倶楽部の活版礼讃イベント<Viva la 活版  シリーズ>では、いつも予算過少のせいもあって、懸垂幕などの「大型告知」は経験不足であった。ところが長崎ではおもいきって大型懸垂幕に挑戦した。
製作・設置担当はタイポグラフィ学会会員・活版カレッジ修了:日吉洋人さん。

初出・明治24年『印刷雑誌』掲載「東京築地活版製造所広告」、また大冊の活字見本帳『活版見本』(東京築地活版製造所 明治36年)に「電気版見本」として収録され、サラマ・プレス倶楽部のアイキャッチ、アイドルおじさんとして創部以来もちられてきた「活版おじさん」を主要モチーフに、防水対策も完ぺきに施されたおおきな懸垂幕が、展示会場に工場直送で既に到着していた。

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《 設営に難航した懸垂幕、実稼動に失敗したアルビオン型手引き印刷機 》
さて、会場設営もほぼ目処がついたころ、いよいよ懸垂幕の設置にとりかかった。
担当者は長崎ははじめてだったが、完ぺきな設置予定図まで準備していた、
ところが、長崎県印刷工業組合・印刷会館ではこれまでこうした懸垂幕を設置したことがないそうで、当然吊り下げ装置や金具が無い!
垂れ幕02DSCN7247 DSCN7253
あれこれ工夫し、また急遽スマホで吊り下げ方法を検索したところ、
「懸垂幕で検索すると、前半は製作業者の広告がつづき、後半は体験者のブログで、『甘く見るな! 懸垂幕の吊り下げ法』がどっさりです」
との報告でびっくり仰天。
ちょうど小雨も降ってきたし、ひと晩ゆっくり考えれば何とかなるさ・・・・・・(やつがれ)、というなんとも無責任な発言で、懸垂幕設置作業は翌朝に持ちこしとあいなった。

この懸垂幕と、後述する「チンパン Tympan」の張り替えは、ともに日吉さんの担当。バスターミナル・ホテルに宿泊していた日吉さんは、この夜は悶々として一睡もできなかったようである。
翌朝は会館(定時:09-17時)に無理をお願いして、早朝八時から作業にとりかかり、来場者をお迎えした定刻十時には、何ごともなかったように?! 設営が完了していた。
1030963
松尾愛撮01 resizeまた<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機二台を収蔵庫から取りだし、そのうち部品欠損の少ない「仮称 一号機」の麻布製の「チンパン Tympan」だけを張り替えて実稼動させる予定であった。
この仮称一号機は、大阪・片田鉄工所、明治30―40年ころの製造とみられ、百年余も以前の印刷機であったが、収蔵庫から引き出して注油・清拭してから点検したところ、上部のカムに破損があり、応急修理では稼動しないことが判明した。

《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造の墓参・法要」で復元修復報告 》
その後訪崎され、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられたタイポグラフィ学会会員:板倉雅宣氏が詳細に点検され、やはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、復元稼動を支援することになった。

ここで長崎県印刷工業組合もついにアルビオン型手引き印刷機(一号機)の本格修復を決断されて、福岡市の(有)文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

アルビオン型手引き印刷機の構造アルビオン・プレスの構造 挿入図
『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 2011年09月15日 朗文堂 p.73)
20160914163336_00002 20160914163336_00001福岡で活版印刷業を営まれている有限会社文林堂/山田善之氏ご夫妻
『かたりべ文庫 職人の手仕事 Vol.17 〈活版印刷〉』
(ゼネラルアサヒかたりべ文庫 2015年4月1日)

手引き印刷機のチンパン「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。「チンパン Tympan」は会期前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。
(有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」

20160914163731_00001ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を片塩が解説にあたった。
{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露}

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《 『崎陽長崎 活版さるく』 と 印刷会館閉館五時以降 連夜の さるく と 根拠地 ぢどりや 》
15-4-49694 12-1-49586矢次家旧在地 半田カメラ
会期の中日、2016年05月07日[土]には、参加者40名ほどでマイクロバス二台をチャーターしての「崎陽長崎 活版さるく」が実施された。
その夜参加者は疲れもみせずに、長崎県印刷工業組合のお手をわずらわせた、これも新地角の中国料理の老舗「京華園大ホール」での懇親会に臨まれた。
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その報告は本欄でも、<長崎行き、参加されたかたも、断念されたかたも大集合 Viva la 活版 ばってん 長崎 スライド報告会>でも報告したが、主会場の長崎県印刷工業組合会館は、定時が午前九時から午後五時であった。

ところで、多くの若い造形者の皆さんは、朝に弱く夜にはめっぽうつよい。そのため開場は十時としたが、閉館は印刷会館の規定で夕刻五時厳守となった。

それでなくても西端のまち長崎の日没はおそい。当然会場を五時に出てもホテルにすぐ引きあげるわけはない。ましてサラマ・プレス倶楽部には真田幸文堂と横島大地さんという、グルメ情報ならなんでも任せておけというふたりがいる。
出島町印刷会館から徒歩10分ほどで、繁華街思案橋がある。橋といっても高知の「はりまや橋」と、長崎の「思案橋」は、いまではこれが橋かというほどあっけないものではある。

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長崎ことば「さるく」とは、もともと「うろつきまわる」の意であるとされる。
ところが2006年開催「長崎さるく博‘06」で、主催者の「長崎さるく博‘06推進委員会事務局」が間違えて説明したために、「『さるく』とは『ぶらぶら歩く』という意味である」と説明するメディアが後を絶たない――ウィキペディア とされている。

ここからは格別の説明を加えず、長崎を堪能し「さるく――うろつきまわった」参加者の皆さんをご紹介したい。ただしイベント本番の{崎陽長崎 活版さるく}とはちがい、「さるく」の本拠地となったのは主会場ちかくの思案橋横丁で、(B級)グルメ : 真田幸文堂、横島大地のコンビが、
「ひとの良さそうなお母さんがひとりでやっている店です。ここは良さそうです」
と初日の夜に推薦した、
思案橋横丁「ぢどりの三昧」であった。

10人も入ればいっぱいのこの店に、連日、それもイベント中日には25名ほどで押しかけ、客席はもとより調理場まで占拠し、ついには店外での立ち飲みまではじまる騒ぎとなった。
また最終日には引退しているご主人とともに、お母さんが<Viva la 活版 ばってん 長崎>に参加され、しまいにはサラマ・プレス倶楽部から同店に「感謝状」まで贈呈することになった。
ちどりや

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 《 長崎 さるく の 記録 》
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