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【ボヘミアン、プラハへゆく】 03 再開プロローグ:語りつくせない古都にして活気溢れるプラハの深層

プラハ[1]

5317183b8e979c2d28ba03fb44bf5b30[1] Kafkasd2[1] DSCN0428 DSCN0430 DSCN0436 DSCN0439チェコの首都プラハは「モザイクのまち」「文明の十字路」「塔と黄金と革命の都市」「建築様式の宝庫」とも評される。わが国の京都と姉妹都市でもあり、まちの規模や歴史の重厚な蓄積には共通点が多い。
このプラハに2014年09月、2016年08月と二度にわたる旅行をこころみた。いずれもモスクワ経由で三泊五日のあわただしい弾丸旅行であった。

《 プラハ城場内 : 黄金の小径 22番 フランツ・カフカ作品執筆地のひとつ 》
やつがれは、いなかの高校生のころ、ユダヤ系プラハのひと、フランツ・カフカの作品にはまったことがある。当時はまさかその生家をたずね、その執筆場所のひとつを訪問し、墓参ができるなどとは考えたこともなかった。

《 アールヌーヴォーの旗手の変貌 Alphonse Mucha アルフォンス・ムハ or ムシャ 》
旅の同行者 : 大石は、いなかの高校生のころにアルフォンス・ムハの絵画に衝撃をうけたという。1989年(平成元)北海道立近代美術館を中心に「没後50年 アール・ヌーヴォーの華 アルフォンス・ムシャ展」が開催され、髙島屋を中心に全国巡回展が催された。福岡の美術館でも開催され、その四半世紀余も前の展覧会図録はいまだに本人の宝物らしい。

20160830172215_00001 20160830172215_00002「Alphonse Mucha」はチェコでうまれ、パリでデビューし、米国で美術教育にたずさわった人物である。わが国ではフランス音で「ミュシャ」とされることが多いが、明2017年に『スラヴ叙事詩』を中心として東京でおおきな展覧会が予定されている。

『スラヴ叙事詩』は、人気画家、アール・ヌーヴォーの旗手として官能的な女性を描いていたムハを想像するとおどろくことになる。この大作はちいさなものでも4メートル四方、おおきなものでは8×6メートルもある巨大な作品である。
パリとアメリカを往復して活躍していたムハが、1908年(明治41)ボストン交響楽団によるスメタナの『わが祖国』をきいてひどく感動し、余生を祖国チェコ国民とプラハ市に捧げるべく無償で描いた20枚の連作である。
ムシャ大作製作中 DSCN0262 DSCN0100 DSCN0101《 兄・造形家:ヨゼフ・チャペック Josef Čapek 弟・作家:カレル・チャペックKarel Čapek 》
さきごろ報告したが、かねて『園芸家12カ月』(カレル・チャペック 小松太郎訳 中公文庫)を読んでいた。
2014年晩夏、三泊五日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。
そのとき、画家にして装本家:兄 ヨゼフ・チャペック と、作家・戯曲家:弟 カレル・チャペック の墓をチェコプラハの民族墓地にたずねた。
カレルの墓標は、まさに現代の多段式ロケットの形態そのものであり、ヨゼフの墓はその背後にひっそりと佇んでいた。
891ebad257c3d67fdff8b3805a300815[1]仔細に読むとわかるが、この日本語訳の『園芸家12カ月』の表紙の写真はカレルが本書を執筆した場所とはことなり、結婚して晩年に居住していた場所である。
ヨゼフとカレルの兄弟が居住していた住居は、それぞれ門を構えたおおきな二世帯住宅で、プラハ10区に現存している。
DSCN0027 DSCN0005 DSCN0017 DSCN0018 DSCN0025 上掲写真の向かって右側が弟・カレルの住居、養蜂箱がおかれている左側の玄関が兄・ヨゼフの住居であった。
ふたりはこの建物にともに住んでいた。そしてカレルは結婚後に郊外に住居を求めて移転し、兄・ヨゼフはゲシュタポにとらわれ収容所で歿したが、子孫が現在もここに居住しており、プラハ市10区は、とりあえずカレルの住居跡を購入・管理しているが、まだ一般公開はされていない。

ヨゼフとカレルの共作ともいうべき『山椒魚戦争』がのこされた。同書はどんな名訳を得てもその魅力の半分も伝わらないおもしろい書物である。
今回のプラハ行きは、たまたま国費留学でプラハのカレル大学に留学されていたサラマ・プレス倶楽部会員:博士山崎氏と、プラハ在住10年余という友人:平松さんの支援をいただくことができた。事前のメールの交換で『山椒魚戦争』のチェコ語版のいくつかを購入できた。
近近撮影データとともにご紹介したい。
DSCN9934(25%縮小) DSCN0702(25%縮小) DSCN6316(25%縮小) DSCN6327(25%縮小) DSCN6331『プラハ迷宮の散歩道 ―― 百塔の都をさまよう愉しみ』(沖島博美 ダイヤモンド社)の冒頭ではプラハの魅力をこのようにしるしている。

プラハは奇跡だ、と人は言う。
何百年もの間に多くの戦争が起こった
それでも町は破壊されなかった
中世の町並みがそのまま残った

神聖ローマ帝国の偉大な皇帝カール四世は
プラハが最大の帝都になることをめざした
14世紀、プラハは神聖ローマ帝国一の大都市となった
その栄華がこんにちのプラハの基礎になっている

重厚なゴシック建築の間に輝くアール・ヌーヴォーの館
時代を超えて美しく調和する様ざまな建築様式
この美しい町は奇跡ではない
プラハ市民が命をかけて守ってきたものなのだ

以下はやつがれの備忘録であり、ご紹介予定の項目である。
◎ ムハ関連:ムハ美術館、ホテルパリ、プラハ市民会館、民族墓地、スラヴ叙事詩
◎ チェコの魅力:キュービズム建築、石畳、市電、技術博物館、アドルフ・ロース、ビールと煙草

【新資料紹介】 {Viva la 活版 ばってん 長崎}Report 14  ことしは平野富二生誕170周年、生家跡資料発掘・現地訪問。タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル 平野富二初号
ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。

ここに、新紹介資料にもとづき、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと {崎陽探訪 活版さるく} で訪問した、平野富二(矢次 ヤツグ 富次郎)生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介したい。

Print長崎諸役所絵図0-2 長崎諸役所絵図8 肥州長崎図6国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)、『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>では5月7日{崎陽長崎 活版さるく}を開催したが、それに際し平野富二の生家の所在地がピンポイントで確認できたというおおきな成果があった。
これには 日本二十六聖人記念館 :宮田和夫氏と 長崎県印刷工業組合 からのおおきな協力があり、また東京でも「平野富二の会」を中心に、国立公文書館の原資料をもとに、詰めの研究が進行中である。

下掲写真に、新紹介資料にもとづき、 {崎陽探訪 活版さるく} で、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと訪問した、平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介した。
平野富二<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

流し込み活字とされた「活字ハンドモールド」と、最先端鋳造器「ポンプ式ハンドモールド」
そして工部省の命により長崎製鉄所付属活版伝習所の在庫活字と設備のすべてが
東京への移設を命じられた

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の、加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用した。
これは活字鋳造における「道具から器械の使用への変化」ともいえるできごとで、長崎製鉄所で機械学の基礎をまなんだ平野富二ならではのことであった。
印刷局活版事業の系譜上掲図) 国立印刷局の公開パンフレットを一部補整して紹介した。
【 参考 : 朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

「ポンプ式活字ハンドモールド」は、長崎製鉄所付属活版伝習所に上海経由でもたらされたが、1871年(明治4)1月9日、工部省権大丞 : 山尾庸三の指示によって、在庫の活字は大学南校(東京大学の前身)を経て、大学東校(幕末の医学所が1869年[明治02]大学東校と改称。東京大学医学部の前身)へ移転された。

医学所と大学東校は秋葉原駅至近、千代田区神田和泉町におかれた。長崎からの活字在庫とわずかな印刷設備を入手した大学南校・大学東校は、たまたま上京していた本木昌造に命じて「活版御用掛」(明治4年6月15日)としたが、本木昌造はすでに大阪に派遣していた社員:小幡正蔵を東京に招いた程度で、どれほど活動したかは定かでない。
大学東校内「文部省編集寮活版部」は翌明治05年「太政官正院印書局」に再度移転し、結局紙幣寮活版局に吸収された。

ほとんどの活字鋳造設備と活版印刷関連の器械と、伝習生の一部(職員)は工部省製作寮活字局に移動し、その後太政官正院印書局をへて、紙幣寮活版局(現国立印刷局)につたえられた。
これらの設備のなかには「ポンプ式活字ハンドモールド」はもとより、もしかすると「手回し活字鋳造機=ブルース型手回し式活字鋳造機」もあったとみられる。また活字母型のほとんども移動したとみられ、紙幣寮活版局(現国立印刷局)の活字書体と活字品質はきわめて高品質であったことは意外と知られていない。

しかも当時の紙幣寮活版局は民間にも活字を販売していたので、平野活版製造所(東京築地活版製造所)はいっときは閉鎖を考えるまでに追いこまれた。そのため東京築地活版製造所は上海からあらたに種字をもとめ、良工を招いてその活字書風を向上させたのは明治中期になってからのことである(『ヴィネット04 活字をつくる』片塩二朗、河野三男)。
20160907161252_00001 20160907161252_00002 20160907161252_00003右ページ) 大蔵省紙幣局活版部 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版見本』明治10年04月 印刷図書館蔵)
左ページ) 平野活版所 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版様式』明治09年 現印刷図書館蔵)

BmotoInk3[1] BmotoInk1[1]したがって1871年(明治4)1月、新政府の命によって長崎製鉄所付属活版伝習所の活字、器械、職員が東京に移転した以後、長崎の本木昌造のもとに、どれだけの活版印刷器械設備と活字鋳造設備があり、技術者がいたのか、きわめて心もとないものがある。
財政状態も窮地にあった本木昌造は、急速に活版製造事業継続への意欲に欠けるようになった。

おなじ年の7月、たまたま長崎製鉄所をはなれていた平野(矢次富次郎)に本木昌造は懇請して、新塾活版所、長崎活版製造所、すなわち活字製造、活字組版、活版印刷、印刷関連機器製造にわたるすべての事業を、巨額の借財とともに(押しつけるように)委譲したのである。
このとき平野富二(まだ矢次富次郎と名乗っていた)、かぞえて26歳の若さであった。
それ以後の本木昌造は、長崎活版製造所より、貧窮にあえぐ子弟の教育のための施設「新町私塾 新街私塾」に注力し、多くの人材を育成した。そして平野富二の活版製造事業に容喙することはなかった。

平野富次郎は7月に新塾活版所に入社からまもなく、9月某日、東京・大阪方面に旅立った。それは市況調査が主目的であり、また携行したわずかな活字を販売すること、アンチモンを帰途に大阪で調達するなどの資材調達のためとされている。

その折り、帰崎の前に、東京で撮影したとみられる写真が平野ホールに現存している。
平野富二の生家:矢次家は、長崎奉行所の現地雇用の町使(町司、現代の警察官にちかい)であり、身分は町人ながら名字帯刀が許されていた。
写真では、まだ髷を結い、大小の両刀を帯びた、冬の旅装束で撮影されている。
平野富二武士装束ついで翌1872年(明治5)、矢次富次郎は長崎丸山町、安田家の長女:古まと結婚、引地町の生家を出て、外浦町に家を購入して移転、平野富二と改名して戸籍届けをなしている。
さらにあわただしいことに、事業継承から一年後の7月11日、東京に活版製造出張所を開設すべく、新妻古まと社員8名を連れて長崎を出立した。
平野富二、まだ春秋にとむ27歳のときのことであった。

この東京進出に際し、平野富二は、六海商社あるいは長崎銅座の旦那衆、五代友厚とも平野家で伝承される(富二嫡孫 : 平野義太郎の記録 ) が、いわゆる「平野富二首証文」を提出した。その内容とは、
「この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる」
ことを誓約して資金を得たことになる。そしてこの資金をもとに、独自に上海経由で「ポンプ式ハンドモールド」を購入した。まさに身命を賭した、不退転の覚悟での東京進出であった。

この新式活字鋳造機の威力は相当なもので、活字品質と鋳造速度が飛躍的に向上し、東京進出直後から、在京の活字鋳造業者を圧倒した。
【 参考 : 花筏 平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」


この「ハンドモールド」と「ポンプ式ハンドモールド」は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場で、一部は実演し、さらに双方の器械とその稼動の実際を、1920年に製作された動画をもって紹介した。

federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]
長崎製鉄所における先輩の本木昌造と、師弟を任じていた平野富二

<Viva la 活版 ばってん 長崎>の三階主会場には、平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな平野富二肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出された。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、連載一回目に製紙分社による執筆としるされたが、二回目にそれを訂正し取り消している。現在では福地櫻痴筆としてほぼあらそいが無い)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版 短冊現物未詳)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。
20160523222018610_000120160523222018610_0004最古級の冊子型活字見本帳『 BOOK OF SPECIMENS 』 (活版所 平野富二 推定明治10年 平野ホール蔵)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>を期に、長崎でも平野富二研究が大幅に進捗した

ともすると、長崎にうまれ、長崎に歿した本木昌造への賛仰の熱意とくらべると、おなじ長崎がうんだ平野富二は27歳にして東京に本拠をうつしたためか、長崎の印刷・活字業界ではその関心は低かった。
ところが近年、重機械製造、造船、運輸、鉄道敷設などの研究をつうじて、明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の再評価が多方面からなされている。
それを如実に具現化したのが、今回の<Viva la 活版 ばってん 長崎>であった。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋で、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。
今回は家祖の出身地長崎にきて、また家祖が製造に携わったともおもえる「アルビオン型手引き印刷機」の移動に、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。

1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize長崎諸役所絵図0-2長崎諸役所絵図0国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
国立公文書館蔵『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

上掲図版は『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184:0288)から。
同書は経本折り(じゃばら折り)の手書き資料(写本)だが、その「引地町町使屋敷 総坪数 七百三十五坪」を紹介した。矢次家は長崎奉行所引地町町使屋敷、右から二番目に旧在した。敷地は間口が三間、奥行きが五間のひろさと表記されている。

下掲写真は平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)の現在の状況である。
長崎県勤労福祉会館正面、「貸し会議室」の看板がある場所が、『長崎諸役所絵図』、『肥州長崎図』と現在の地図と照合すると、まさしく矢次富次郎、のちの平野富二の生家であった。

今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
 <Viva la 活版 ばってん 長崎> 会場点描1030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会  花筏

【朗文堂好日録】 梅雨があけた。夏が来る ー ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな : 正岡子規+ボヘミアン チャペック兄弟のことども

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DSCN9636 DSCN9632昨年の早春、ビルの保守工事で、ベランダに煉瓦をつんでつくった、手づくりの「空中花壇」が、お気に入りの「ロダンの椅子」ともどもそっくり破壊・撤去されてしまった。

ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな

― この小園は余が大地にして 草花は余が唯一の詩料となりぬ   子規庵 ―
正岡子規(俳人・歌人 1867-1902) 「小園の記」より

わがベランダにあった「空中花壇」には、「根岸 子規庵」の庭園には比べるべくもないが、それでも雑多の艸〻がそだっており、煉瓦の裏側には野バトの巣もあった。
工事がおわったあと、寒〻としたベランダになったままきょうにいたる。
5ac10d6d67e779732659874f8ba65ff4[1] DSCN7232[1]いまベランダ庭園で妍をきそっているのは、トロロアオイとハイビスカスである。どちらも大輪の花をつぎつぎと開花させ、楽しませてくれる。

ようやくちいさな鉢植えの艸花とはいえ、ベランダ庭園がよみがえりつつあるのは、トロロアオイが衰弱し、わくら葉のまま、なんとかちいさな花をつけたことによる。

トロロアオイの花にはちょっとしたおもいいれがある。
昭和10年代、中野の早稲田通りにあった、アオイ書房社主にして、伊勢辰酒店主人だった志茂太郎に関することどもである。

活字狂を自認していた志茂太郎は、中國での泥沼の戦争から太平洋戦争にむかう時局下に展開された「変体活字廃棄運動 当時の表記:變軆活字廢棄運動」に義憤を感じ、それをみずからの愛書誌『書窓』に発表した。
そのため特別高等警察(特高)によって戦争末期の1945年(昭和20)に強制疎開を命じられ、郷里岡山への帰郷を命じられた。
いまは故郷「山の城」の宏大な志茂家塋域にねむるひととなった。

このことはあらかた『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗 朗文堂)にしるしたが、志茂家塋域をたずねたとき、なかば自生化したトロロアオイがたくさん初夏の風にゆれていた。
晩夏になると淡紅色の大輪の花をつけるのだとうかがった。

このトロロアオイの種子のもとは、2009年05月に都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいた数株の苗にはじまった。

◯ 活版 à la carte 年越しの古株からトロロアオイの花が咲きました 2016年5月1日
◯ 活版 à la carte 一週間の中国出張。すっかりよみがえったトロロアオイが大輪の花をつけて迎えてくれた 2016年6月7日

チャペック01さきごろ『園芸家12カ月』(カレル・チャペック 小松太郎訳 中公文庫)を読んでいた。
2013年晩夏、三泊四日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいったことがある。
そのとき、画家にして装本家:兄 ヨゼフ・チャペック と、作家・戯曲家:弟 カレル・チャペック の墓をチェコプラハの市民墓地にたずねた。
カレルの墓標は、まさに現代の多段式ロケットの形態そのものであり、ヨゼフの墓はその背後にひっそりと佇んでいた。

チャペック02弟:カレル・チャペックは、第一次・第二次大戦間のチェコスロバキア(ボヘミア)でもっとも人気のあった国民的作家である。
戯曲『ロボット (R.U.R.)』において、「労働」を意味するチェコ語:robota(もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)から ロボット ということばを兄と共同でつくった。また趣味をこえた愛園家を自負し『園芸家12カ月』をのこした。

カレル・チャペックは『ロボット』につづき、ロボットを火の精霊サラマンダー(山椒魚)にたとえ、より擬人化した長編小説『山椒魚物語』をのこしたが、そのなかでヒットラーとナチを諧謔をこめて痛烈に批判したため、ゲシュタポは1939年3月15日プラハを占領した際、いちはやくチャペックを逮捕するためにチャペック邸に乗り込んできた。

ところが、その前年12月25日、クリスマスの日にカレル・チャペックは死亡していた。
その死因は真冬の豪雨のなか、愛しぬいた庭園の手入れにあたり、それがもとで肺炎になったためとされている。その後におこったボヘミヤの不幸をおもうとき、『園芸家12カ月』の作者としては、ある意味本懐だったかも知れない。
それを知らず踏みこんで来たゲシュタポに、オルガは夫カレルはすでに四ヶ月前に歿したことを冷たく告げたという。、
そして造形家の兄:ヨゼフ・チャペックはゲシュタポに逮捕され、収容所に歿した。

装本家であり、造形家のヨゼフ・チャペックを中心としたおおきな展覧会がわが国でも開催されたことがある。
◯ 『チャペック兄弟とチェコ・アヴァンギャルド』(神奈川県立美術館 2002年)
◯ 『ブックデザインの源流を探して チェコにみる装丁デザイン』(印刷博物館 2003年)

作家であり弟のカレル・チャペックにとって(わが国では)不幸だったのは、「SF作家」と分類されたことだったかもしれない。
サイエンス・フィクション(英語:Science Fiction、略語:SF、Sci-fi、エスエフ)は、わが国では科学小説、空想科学小説とも訳され、科学的な空想にもとづいたフィクションの総称であるが、メディアによってはSF小説、SF漫画、SF映画、SFアニメなどとも分類されている。
そのため20世紀前半、おなじプラハ出身の フランツ・カフカ(1883-1924) の幽玄的な作品は、実存主義的見地から高い評価があるのに比べると、いくぶん軽んじられるふうがあるのは残念である。
ロボットが空想科学ではなく、いまや現実となってさまざまな分野で活躍している現在、カレル・チャペックはもっと評価されても良いのではないかとおもう。

2013年晩夏のプラハ行きはあまりにも予習不足だったし、ひさしぶりの欧州旅行への不安もあった。したがって前回のプラハ行きに物足りないところがあって、ことしのお盆の休暇に、またまた疲れにいくようなものだが、三泊四日の弾丸旅行でプラハ再訪をねらっている。
DSCN5878 DSCN6107 DSCN6105チェコプラハへの直行便はないので、ロシアのアエロ・フロートでモスクワにいき、そこでプラハ行きにトランジットした。プラハの旧市街は石畳、それもちいさな石をモザイク状に並べたものが多い。パリやウィーン経由でやってくるハイヒールの女性旅行者は、プラハではまずスニーカーの購入が必須となる。

◯ 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ
◯ 花筏 朗文堂好日録046 - 喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-02 プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

そんなこともあって、また『園芸家12カ月』をのこしたカレル・チャペックに触発されるところがあって、園芸とはいえないが、わが「空中花壇」にもすこしこころ配りをくわえている。気配りといっても水遣りを丹念にやり、10日に一度液肥をあたえるくらいのことである。
DSCN9642 DSCN9637「空中花壇」には名は忘れたが香草もいくつか植えられている。花は可憐でよい。
近所の花屋で160円で購入したミニトマトの苗も、ことしは順調に生長し、実をつけた。
ここで困るのがノー学部。気まぐれで花壇にやってきて、ハイビスカスはこの花壇にふさわしくないと文句をいう、(やつがれも内心では失敗とおもうが)抗弁する。
「そんなことはない。花が咲けばスミレでもタンポポでもオレは好きだ」
ノー学部はそれにかまわず、唯一の農具:小型のハサミで香草をチョキチョキやる。ミニトマトもしっかり収穫してしまう。
昨夜、投票終了直後、八時の時報とともに結果が判明した都知事選の開票速報を、幾分しらけた気分でみながらそれを食した。
ミニトマトはとびっきり旨かった。

【東京国立博物館】 特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」

20160719211830_00001 20160719211830_00002東京国立博物館 特別展「古代ギリシャ―時空を超えた旅―」
平成館 特別展示室   2016年6月21日[火] - 2016年9月19日[月]

ギリシャの彫刻、フレスコ画、金属製品などを展示します。新石器時代からヘレニズム時代までの各時代、キュクラデス諸島、クレタ島ほかエーゲ海の島々や、ア テネ、スパルタ、マケドニアなど、ギリシャ各地に花開いた美術を訪ねる旅に出発しましょう。
ギリシャ本国の作品のみによるものとしては、かつてない大規模なギリシャ美術展です。

【 詳細 : 東京国立博物館 特別展
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{ 新 宿 餘 談 }
DSCN9524 DSCN9546 DSCN9537もう蟬がないていた。 むしあつい夏の日の午後だった。
「エジプト展」とならんで、「ギリシャ展」はいつも混雑がひどい。7月17日[日]もそうだった。
人にアタル(人混み中毒症)のやつがれ、予習をだいぶしてきたので、平成館のせっかくのひろい展示場を、くねくねと細い通路でしきった、冷房の効きののわるい展示会場をかけ足でみてあるいた。
なにしろ本展は九割以上が日本初公開で、全325点の展示がなされている。やつがれの画像許容量をはるかに超える作品群だった。

人混みを避けて前庭に出る。ことしの東京は水飢饉が心配されるほど雨がすくなかったが、国立博物館(トーハク)の樹木と艸花は庭士がかわったのかとおもわせるほど元気だった。芝生では雀がむれていたし、蟻もさかんに活躍していた。
正面プラザからはいって、正面の「本館 日本ギャラリー」の前のユリノキ( 百合の木、学名 :  Liriodendron tulipifera は、袢纏にも似た葉をいっぱいにつけて元気だった。

ユリノキ 北アメリカ中部原産  
日本へは明治時代初期に渡来した。東京国立博物館本館前庭の巨木に添えられた銘板に、次のように記されている。
明治8、9年頃渡来した30粒の種から育った一本の苗木から、明治14年に現在地に植えられたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。
そのため東京国立博物館は「ユリノキの博物館」「ユリノキの館」などといわれる。

DSCN9536 DSCN9546 DSCN9548 DSCN9552 DSCN9559平成館の前庭には「芙蓉」らしき艸が、深紅の大輪の花をつけていた。
アレレッとおどろいた。いままで見逃していたのかも知れないが、庭のそこ此処に「龍爪槐 リュウソウ-エンジュ しだれえんじゅ」(画像集)がこんもりと繁っていた。

この低灌木は、冬になって剪定されると形相をかえて、鋭い龍の爪のように変貌する。このことは、<花筏 聚珍倣宋版と倣宋体-04 宋朝体活字の源流:四川宋朝体龍爪 と 龍爪槐をめぐって>で紹介した。
龍爪パッケまたことしの五月末にでかけた北京清華大学の指定ホテル「甲所」の前にも、生け垣のようにして龍爪槐がたくさんあった。

DSCN7899DSCN8137陽ざしはつよかったが、こうして平成館の前庭をぐるぐるまわり、喫煙所で一服をかさねた。
一時間余ののち、鑑賞をつづけていたつれあいが図録を重そうにかかえてはしりでてきた。
どういうわけか、「エジプト展」とならんで「ギリシャ展」はいつも混雑がひどい。
家に帰って図録鑑賞をゆっくり楽しもうとこころにきめた。

【字学】〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟情報過多の時代の活字と書物

Print〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟
情報過多の時代の活字と書物
成果無き大量書き込み・無責任投稿・上書き・削除・埋没のループ現象。

記憶は消える 記録は残る
されど、この現代の記憶媒体の有効期間はいつまでだろう ?

19世紀世紀末英国街頭風景『Printing  1770 – 1970』 より
18-19世紀イギリスの印刷・出版・広告界の混乱は、現代では想像を絶するものでありながら、どこかまた現代とも通底するところがある。

上図は1835年(江戸後期 天保6)、産業革命後イギリスの負の側面が露呈した、まさに狂奔というべき状況を記録したもので、「ビラ貼り職人」が街頭で競ってビラを貼っている様子をあらわす。
ビラを貼るそばには、ライバル企業のそれを剥がす専門のものいて、さらにその跡や前のビラの上に無遠慮にビラを貼るものがいたと記録されている。
ちなみに1835年には「Hand bill  (手で配る広告、ちらし 1753年初出)」はあったが、まだポスターということばの使用は記録されていない。

上図から三年ほどのち、1838年に Post の派生語として Poster なることばが誕生した。
下図は、1874年(明治7)蒸気機関車がみられる駅頭に掲出された巨大ポスター。これらのポスターの一部は、わが国の印刷博物館にも展示されているが、ともかく想像を絶する巨大なものである。
20160719141614_00001
もうひとつ図版を紹介したい。
上図は1829年(江戸後期 文政12年)印刷地は不明ながら、米国における「Auction sale の告知」(Sales notices  15”×12”)であるが、そのオークションの内容たるや「奴隷市」というすさまじいものである(Printed Ephemera, John Noel, W.S.Cowell Ltd., 1962 p.81)。
この Sales notices にはまだサンセリフ体の使用はみられないが、書物ではあまりみられなかった、おおきなサイズ、太い活字書体がもちいられている。

こうした旺盛な商業広告のなかから、それまでの書物の活字「テキスト・タイプ」にかえて、サン・セリフ体をはじめとする「ジョブ・タイプ 広告・端物用活字書体」が誕生し、巨大サイズの木製の活字も大量に生産された。
しかしこれらが書物と公版印刷に与えた影響とは必ずしも好ましいものではなく、19世紀世紀末から21世紀初頭にわたって展開された、「個人印刷所運動 Private press movement」、「金属活字改良運動  スタンリー・モリスンらのフラーロン派など」の動向をまって落ち着きをみせた。

『新英和大辞典』(第六版 研究社)によると、書物・図書としての Book の初出は、あまりにふるくて判明しないとされる。
いっぽう雑誌・Magazine は、ラテン語 Magazzino(仮設置き場・倉庫・雑貨店)から発し、英語での初出は1731年に仮置き場・情報保管庫の意からの初出がみられるとする。
また上述したように、ビラの淵源になったともくされる Hand bill  (手で配る広告、ちらし、ビラ ≒小型販促印刷物)は1753年に初出がみられるが、それがいっそう大型化し、掲出されるようになった Poster は、1838年 Post の派生語として初出がみられるとする。

すなわち産業革命を主導した英国においては、新聞・News peper は1670年の初出で346年ほど、雑誌・Magazine は285年ほど、ビラ・Poster は178年ほどの歴史しかなく、書物・図書の製造をもっぱらとしていた近代活字版印刷術 Typography の620年ほどの歴史とくらべると、いずれも比較的あたらしいメディアであることがわかる。

わが国への近代活字版印刷術 Typography 伝来の起点をどこに置くかは議論のあるところだが、いちおう1869年(明治2)10月上旬のころ、長崎製鉄所付属活版伝習所における迅速活字版製造の技術の伝習とすると、上掲図の10年後のこととなる。
また下掲図の駅頭に掲出された巨大ポスター1874年(明治7)とは、数えて27歳、青年平野富二が1871年(明治5)新妻 古ま と長崎新塾活版所の社員8名をつれて長崎を出立してから2年後、東京築地に「築地活版所」をもうけて、活版製造と関連印刷機器の製造に目途がついたころにあたる。

わが国への近代活字版印刷術 Typography の伝来は、おもに欧米諸国の租借地だった上海からもたらされた。この上海の租借地とは、欧米先進諸国が租借国となり、原則的にそこでは統治権を行使したので、ある意味では占領地にちかいものであった。
しかしながら、その背後の英国と米国の状況とは、両図にみるような混沌としたものだったことは忘れられがちである。
東京新聞
参議院議員選挙、気候不順などの話題がかさなってめだたなかったが、先般英国は国民投票によってEC(European Community)からの離脱を決定した。もしかすると、また欧州混乱の序章の幕開けを予想させる事態であった。
また、『東京新聞 2016年7月8日』には、<町の書店経営悪化>がおおきく報道された。
これは日本書店商業組合連合会(日書連)による全国4,015店の書店の実態調査で、
「ここ数年間の経営状態が悪化したとする回答が85%をこえたことがわかった」
としている。

経営悪化の原因としては、客の数やひとり当たりの購入額の減少だけでなく、雑誌の売り上げの低迷、ネット書店の台頭、後継者不足をあげる声が多数をしめたという。
10年前の同様の調査でも、すでに「客数の減少」「大型店の出店」が憂慮されていた。
同紙はまた【出版不況】について出版科学研究所の調査をひいてその不振とともに、雑誌と書籍の売上高が逆転したことを報告している。

それによると書籍と雑誌をあわせた出版物の2015年の推定販売金額は1兆5220億円で、その市場規模はピークだった1996年(平成8)の6割弱まで縮小しているとした。
また特に深刻なのは、これまで出版界を支えてきた雑誌で、出版取次(問屋)大手の日本出版販売が6月に発表した15年度決算において、雑誌の売上高が32年ぶりに書籍を下回ったと報じている。
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〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟
情報過多の時代の活字と書物
成果無き大量書き込み・無責任投稿・上書き・削除・埋没のループ現象。

記憶は消える 記録は残る
されど、この現代の記憶媒体の有効期間はいつまでだろう ?

これまで産業革命がもたらした書物と印刷・活字における負の側面をみてきた。
産業革命(Indusrial revolution)とは、1760年代の英国にはじまり、1830年代以降欧州諸国に波及したもので、ちいさな手工業的な作業場にかわって、産業の技術的な基礎が一変し、機械設備による大工場が成立し、社会構造が大きく変化したことをいう。

とかく、活字離れ、町にみえている書店の不振ばかりが話題になるが、いっぽうでは電子技術の進展と利便性を「IT 革命」として歓迎するむきもある。
それでなお、取次中堅業者(図書の問屋)が倒産したり、集合化している深刻な事態は看過され、印刷所・出版社・新聞社・メディア関連業界が気息奄奄たる状況にあることは見逃されている。
小社も零細とはいえ出版社である。この危機的状況の埒外にあるわけではない。
いいたいことは山ほどあるが、たれのせいでもない、傍観も看過もできないが、いったそばから天に唾するがごとく、わが身にふりかかる難問でもある。

〝過ぎたるは猶及ばざるが如し〟―― 孔子『論語』にみられる警句である。
「海の日」にちなんだ三連休、近場への外出はあったが、カレル・チャペックKarel Čapek, 1890-1938)の著作を文庫版で三冊買いこんで読了するつもりだった。

『園芸家12ヶ月』、戯曲『ロボット (R.U.R.)』と二冊まではおもしろく読みすすんだが、楽しみにしていた小説『山椒魚戦争』で行きづまった。

これは著者のせいでも訳者のせいでもない。この翻訳書は世評のたかい版元であり、印刷所だったが、この印刷所の活字書体と組版にはどうしてもなじめなかった。
『山椒魚戦争』は、原著のチェコ語版を含めて、いくつかの言語の版を「みてきていた」。みるだけでおもしろく、楽しい書物だった。それだけに残念で、月曜深夜というより、火曜朝までなんとか読もうとねばったがとうとうあきらめた、
「よむため」に、別の版元からでている翻訳書を購入することにした。
出版人として、タイポグラファとして、まだやることがあるとおもって朝をむかえた。

【字学】 『株式会社秀英舎 創業五十年誌』より 秀英舎は佐久間貞一・大内青巒・宏仏海・保田久成らにはじまり、こんにちの大日本印刷につらなった

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創業50年誌 創立者『 株式会社秀英舎 創業五十年誌 』
B五判 上製本 120ページ 基本 : 活字版印刷 図版 : コロタイプ、オフセット平版印刷

[奥付刊記]
昭和二年三月十五日 印刷
昭和二年三月二十日 発行         非売品
発行者  株式会社 秀 英 舎
       右代表  杉山 義雄
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷者  佐久間衡治
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
印刷所  株式会社 秀 英 舎
       東京牛込区市ヶ谷加賀町一丁目十二番地
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由来

 

       社名及商標ノ由来

吾カ秀英舎ノ名称ハ幕末ノ偉人勝安房伯ノ命名セル所ニシ

テ創業当時伯ハ舎長佐久間貞一ニ対シ将来英国ノ右ニ秀ツ

ル意気ヲ以テ事業ノ発展ヲ期セヨト激励シ毫ヲ揮ヒ秀英舎

ノ三文字ヲ題シテ与ヘラレタルニ由来シ其ノ商標ノ 生 字ハ

秀英ノ反切ニシテ創業発起人安田久成ノ起案ニ係ル所ナリ

【 意読 一部を常用漢字にした p.4 】  基本組版 10pt. 明朝体 26字 字間四分
秀英舎の社名および商標の由来
わが秀英舎の名称は、幕末の偉人 勝 安房伯爵(かつ-やすよし 海舟とも 1823-99)が命名したものです。創業にあたって勝伯爵は、舎長の佐久間貞一(1848-98)に対して、当時強勢を誇っていた英国より将来は上位になり、さらに秀でた存在になるとの意気をもって事業の発展を期すように激励し、筆を揮って「秀英舎」の三文字を題して与えられたのに由来します。
秀英舎の商標「生」の字は、「秀英」の 反切 で、創業発起人の保田久成(佐久間貞一の義兄 1836-1904)の起案にかかれるところです。

[ 付記  反切 ハンセツ について ]
わが国で漢和辞書が本格登場したのは明治後期であり、それまでは漢字音を示すのにほかの漢字を借りてする法があり、それを「反切」と呼んだ。
ここでは「秀」の字の声(頭の子音)と、「英」の字の韻を組み合わせた発音が「生」の字となるとしている。ところが現代中国音では「秀」はxiu 、「英」はying 、「生」はsheng であるから、かならずしも当てはまらないことになる。
したがって現代では「反切」はほとんどもちいられず、やや「死語」と化しているともいえる。詳しくはリンク先でご覧いただきたい。
一部に「反切」を「半紙」と読みかえた紹介をみるが、疑問がのこる。

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口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」

創立者

       沿  革  略  誌

明治九年十月九日佐久間貞一大内青巒宏佛海保田久成ノ四名金壹千円ヲ共同出資シテ高橋活版所ノ事業及設備ヲ買収シ今ノ京橋区当時ノ東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地ニ活版印刷ノ業ヲ創ム是即チ株式会社秀英舎ノ濫觴ナリ当時社名ヲ単ニ秀英舎ト称シ四六判八頁掛手引印刷機半紙倍判掛手引印刷機械及半紙判掛手引印刷機械各一台竝ニ四号五号ノ活字若干ノ設備ヲ有スルノミニシテ従業員亦二十余名ノ少数ニ過キサリキ

【 意読 一部を常用漢字にした 口絵 p. 1 】  基本組版 14pt. 明朝体 34字 字間四分
沿  革  略  誌
明治09(1876)年10月09日、佐久間貞一(口絵上右 さくまーていいち 元幕臣・彰義隊隊士、初代舎長・社長 1848-98)、大内青巒(口絵上左 おおうち-せいらん 1845-1918)、 宏 仏海(口絵下右 ひろし-ぶっかい 曹洞宗僧侶 『明教新誌』社主兼印刷人 1838-1901)、保田久成(口絵下左 やすだーひさなり 元幕臣・学問所教授 佐久間貞一夫人 て津 の実兄 秀英舎第二代社長 1836-1904)の四名が発起人となり、金壹千円を共同出資(おもに保田久成が資金提供)して、東京府第一大区八小区山城町(いまの泰明小学校のあたり)の高橋活版所の事業および設備を買収し、それをもっていまの京橋区西紺屋町角(数寄屋河岸御門外弥左衛門町)、当時の東京府第一大区八小区弥左衛門町十三番地(現東京都中央区の晴海通りに面し、数寄屋橋交番の前にあたる)に活版印刷の業をはじめた。これがすなわち株式会社秀英舎、現大日本印刷株式会社のおこりとなった。
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創立当時の社名は単に秀英舎と称し、そのトップを舎長と呼んでいたが、明治27(1894)年01月15日から株式組織となり、初代社長に佐久間貞一が就き、明治31(1898)年11月28日第二代社長に保田久成が就任して、こんにちにいたる基盤を構築した。

創立当時の設備は高橋活版所から譲渡を受けたもので、四六判八頁掛手引き印刷機(おおむねB三判)、半紙倍判掛手引き印刷機(おおむねA三判)、半紙判掛手引印刷機(おおむねA四判)印刷機がそれぞれ一台ずつと、四号、五号サイズの活字が若干あるのみであった。また従業員も20余名の少人数であった。

{新宿餘談}
平野富二の事績調査にあたっていた際、わが国近代産業の開発者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創始者:平野富二と同様に、秀英舎創業者:佐久間貞一らに関する公開資料もきわめて少ないことにおどろかされた。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日)

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

やつがれは『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日)を著し、上掲のことどものあらかたをしるしたつもりだった。
爾来10年余が経過し、二次循環でも『秀英体研究』が入手難だとも聞くこのごろである。
BsyueiPH2[1]さりながら依然として、東京築地活版製造所の創立者にして、現 IHI につらなる巨大企業の創立者 : 平野富二と同様に、秀英舎創業者 : 佐久間貞一に関する公開資料がきわめて少ない現状がある。これがしてここに再びデーターを開いた次第である。

『株式会社秀英舎 創業五十年誌』の本文用紙はきわめて上等な、いくぶん厚手で生成りの非塗工紙であるが、筆者旧蔵書は、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」に関しては、どういうわけかひどく「アカヤケ・紙ヤケ」して、劣化がめだっていた。
たまたま古書カタログで「極美麗書」とされた『株式会社秀英舎 創業五十年誌』が紹介されていたので、重複を承知で購入した。

新『株式会社秀英舎 創業五十年誌』は某団体への寄贈書で、収蔵印はあったが、ほとんどたれも手にしたことがないとおもわれるほどの「極美麗書」であった。
案の定というか、「アカヤケ・紙ヤケ」がめだった、口絵 創立者四名の肖像写真と、ページナンバー01「沿革略史」のページの前に、「いわゆるウス、グラシン紙」がそのまま挿入されており、おそらくそれが酸性紙であって、対抗ページの本文用紙の劣化を招いたとおもわれた。
すなわち劣化の原因は判明したが、残念ながら良い状態での紹介はできなかった。

佐久間貞一は真言宗円明山西蔵院(台東区根岸3-12-38)にねむる。
ここには佐久間家歴代の墓、そして焼夷弾の焼損によるとおもわれる損傷がいたいたしい、秀英舎の創業者/佐久間貞一の墓があり、境内には榎本武揚による巨大な顕彰碑がある。
黄泉にあそぶひととなった偉人は、塋域がもっとも雄弁にその人物像をかたりかけてくることがある。
dc66f84aa4d9497c09d1fe6d07666210[1]また、幕末の敗者となった、彰義隊士や新撰組隊士を、官許をえてまつることで知られる、曹洞宗補陀山円通寺 (荒川区南千住1-59-11)には、『佐久間貞一君記念之松』碑(明治33年5月13日建立)がひと知られずにある。松はいまはみられない。

佐久間貞一は彰義隊士ではあったが、水戸に蟄居した徳川慶喜に同行したために上野戦争には参加しなかったとされる。
それでもいっときは追補される身となり、その後企業人として成功した。しかし没年の二年ほど前に彰義隊士の寺院に記念植樹を寄進したこころ根には熱いものがあったとおもえる。
 しばらく 佐久間貞一にこだわってみたいゆえんである。

【字学】 秀英舎(現 大日本印刷)初代舎長・社長/佐久間貞一遺墨 『送 太田温郷之帰省』、『法の序』 をみる

Print極めつけの悪筆ゆえ「書は以て姓名を記するに足るのみ」といっている。もちろん負け惜しみの減らず口である。
ところが「書は体を表す」ともいう。
たしかに肉筆からは、
それをしるしたひとの人柄を、ある程度推しはかることができる。

佐久間02佐久間貞一肖像画 木口木版 生巧館 : 合田 清(1862-1938)
『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 明治37年11月3日)

秀英舎の創業者 : 佐久間貞一(1848-98)の遺墨とされるものは少ない。
わずかに見るのは、その七回忌に際して発行された『佐久間貞一小伝』(豊原又男 秀英舎庭契会 印刷所・秀英舎 明治三七年一一月三日)の口絵である。
しかしながら石版印刷によるとみられる複写図版は、あまりに不鮮明で解読に難航して紹介をえなかった。

佐久間01佐久間貞一肖像写真
『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 明治43年12月15日) 

もうひとつは一三回忌に際して発行された『追懐録』(豊原又男 佐久間貞一追悼会 印刷所・秀英舎第一工場 明治四二年一二月一五日)の口絵にみる、佐久間貞一の遺墨二点である。こちらを紹介させていただく。

そのひとつは静岡で読まれた七言絶句である。韻を踏んでまことに堂々としたものである。
静岡時代の佐久間貞一は、戊申の役に際し、彰義隊隊士として敗北を喫し、追捕の身となって流浪を重ねていた時代のことであった。
佐久間貞一、ときに数えて二一歳、血気と侠気盛んな青春のときでもあった。

佐久間貞一筆書01この書をみると、まさに痩勁である。裂帛の気合いのこもった、まさに痩勁な書である。
友人(詳細不詳)「太田温郷」との別れに際してのこしたものであろう。詩もほれぼれするほど良い。
その読み下しを古谷昌二氏の助力をえて試みた。もとよりこの分野は専門ではない。識者の叱正を待ちたい。

送 太田温郷之帰省
杜鵤啼度客樓遣  祝席傷心首夏天
男子常慙児女態  如今臨別転凄然
    静岡
貞一   再拝

ほととぎす啼きて客楼にわたらしむ
祝席にあって傷心、夏のはじめの天

男子はつねに慙ハジる 児女の態タイ
別れに臨みて淒然とすること今の如し

もうひとつは、宿痾の病としていた肺結核が進行し、死期を悟ったときのもの、あるいは辞世の句とも読める悲壮なものである。
弱〻しい筆で入って、それでも気力を振り絞ってしるしたような、これまた痩勁な書である。おそらく宿願であった「工場法」の制定をみないままに果てる無念さをうたったものか。

佐久間貞一筆書02
ありし日に 逢見し老いの おはりにと
法の 序 の かなしかりける

「対づ  ついづ」とは(順序よく)定めるの意である。つまり労働者にあたたかい視線をむけていた佐久間貞一の宿願であった「労働法」の成立をみなかった無念をあらわす。
佐久間貞一がのこしたこのふたつの書に、筆者は秀英体活字書風の遠い源流をみる。

BsyueiPH2[1]【 参考 : 『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷株式会社  発売 : トランスアート 2004年12月12日) 9-1 佐久間貞一の墨書の源流  p.652-660 】

【字学】 本木昌造関係家系図、そのおいたち、その肖像・銅像

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本木昌造02◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所)にも掲載されているが、これには裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印字されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。
 
◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。

明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

【本木昌造関係家系図】

参考資料 : 長崎諏訪神社蔵『本木氏系図』
「櫻痴、メディア勃興の記録者」『ヴィネット00』(片塩二朗 朗文堂)
『文明開化は長崎から 上』(広瀬 隆 集英社)
本木家系図

【本木昌造の生い立ち】

本木昌造は、文政七年(一八二四)六月五日、長崎会所請払役 ナガサキカイショ-ウケバライヤク : 馬田又次右衛門 バダ-マタジエモン の二男として、長崎新新石灰町 シン-シックイ-マチ (現在の油屋町アブラヤ-マチ)にうまれた。幼名は作之助、成人して元吉モトキチと改めた。

その後、長崎新大工町((現在の長崎市新大工町)乙名 オトナ : 北島三弥太 キタジマ-ミヤタ の仮養子となり、ついで阿蘭陀 オランダ 通詞 : 本木昌左衛門久美の婿養子となった。
仮親の北島三弥太は、馬田又右衛門の実兄で、本木昌左衛門久美の従姉 繁 を妻にしていた。繁は、一説では久美の祖父本木栄之進良永の長男の娘で、幼くして父を失い、叔母(良永の長女)に養なわれていたとされる。元吉が本木家に養子に入るに当たって、本木家の長男の家系に属する 繁 を元吉の仮親とし、本木家と縁続きであることとしたと見られる。

なお、久美の父 : 本木庄左衛門正栄は、本木家と血脈のつながる 法橋 ホッキョウ 西 松経 ニシ-ショウケイ の三男で、本木栄之進良永の長女を娶って本木家を嗣いだが、早く妻を亡くして、長崎宿老 シュクロウ 徳見尚芳の娘 綾 を迎え、その長男光芳は徳見家を嗣ぎ、二男昌左衛門久美が本木家を嗣いだ。
久美も早く妻を亡くして 萬屋 ヨロズヤ 浅右衛門の娘 たま を後妻とし、その間に生れた娘 縫 を娶わせるために元吉(昌造)を迎えた。〈「蘭皐本木君墓碑」、「蘭汀本木君墓表」、「阿蘭陀通詞由緒書」など。一部推測による〉
 
昌造は、本木家に入って養父昌左衛門の「昌」の字を貰って改名したもので、諱 イミナ は永久 ナガヒサ、雅号は梧窓 ゴソウ 、堂号は點林 テンリン、戯号は 笑三、咲三と多くの名を持っているが、戸籍名は昌三に改めている。
明治五年(一八七二)、戸籍編成の際に作成されたと見られる資料には、
「 平民
    実父元長崎会所吟味役馬田又次右エ門亡二男
    本木昌三
  壬申四十九歳 」
とあり、さらに続けて、父は隠居した本木昌栄、母は たま と記録されている。
父は隠居後に昌左衛門久美を改めて昌栄としたことが分かる。
この記録においては、実父馬田又次右衛門(故人)は元長崎会所吟味役と記録されているが、請払役の後に、より高位の吟味役になったと考えられる。

また本木昌造の異母弟には、松田雅典 マツダ-マサノリ (八歳下、国産缶詰製造の始祖)、伊藤祐吉、長川東明(大蔵省出仕)、柴田昌吉 シバタ-ショウキチ (一七歳下、外務省権大書記官、岩倉全権大使に随行、『英語字彙』を編纂)がいる。
 
本木昌造の祖父にあたる 本木栄之進良永は、平野富二の生家、矢次 ヤツグ 家五代目 矢次関次と一緒に仕事をすることが多く、本木家と矢次家とは、少なくともその頃から付き合いがあったことが分かる。
DSC00889 14-4-49348 ◎ 本木昌造の銅像
この銅像は長崎公園に設置されている本木昌造の銅像である。戦時中に金属供出された坐像にかわって、昭和二九年(一九五四)九月に立像として再建された。 

4947613548

朗文堂愛着版 『本木昌造伝』
島屋政一著  朗文堂刊
A5判 480ページ 上製本 スリップケース入れ 輸送函つき
口絵カラー写真20点、本文モノクロ写真172点、図版196点

残部僅少。ご希望の方は直接朗文堂ヘお申し込みください。
直販のみで書店では取り扱っておりません[詳細:朗文堂ブックコスミイク]。

[本項には古谷昌二氏、春田ゆかり氏から情報を提供していただいた]

【朗報】 4月22日[金]-5月24日[火] 東京都立美術館に40万の観覧者をあつめた『若冲 Jakuchu 展』図録が特別追加販売

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伊藤若冲(1716-1800)は、18世紀の京都で活躍したことで知られる画家です。
繊細な描写技法によって動植物を美しく鮮やかに描く一方、即興的な筆遣いとユーモラスな表現による水墨画を数多く手掛けるなど、85歳で没するまで精力的に制作を続けました。

本展では、若冲の生誕300年を記念して初期から晩年までの代表作89点を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」3幅と、「動植綵絵」30幅が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
──────────.
『生誕300年記念 若冲展』日本経済新聞社 展覧会図録(代引き発送)
◎ 展覧会会期 : 東京都美術館 2016年4月22日(金)-5月24日(火)
◎ 図録仕様 : サイズ  A4 判変形、(約)縦29.7×横22.5×厚さ2.3cm、 327頁
◎ 価   格 : 3,900円(消費税 8%込)
【 詳細 : 日経アート社

★        ★        ★        ★

{新宿餘談}
この『若冲展』のことは、本欄でも二度にわたって紹介した。
会期二日目にいったが、すでに相当の混雑で、図録を購入するのにも長蛇の列だった。
本項末尾には<見逃すなかれ 若冲展>と強調しておいた。

20160424142155830_000420160424142155830_0005生誕三百年記念 若冲 じゃくちゅう 展
04月22日― 05月24日
──────────
伊藤若冲(1716―1800)の生誕三百年を記念して、初期から晩年までの代表作を紹介します。
若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」三幅と「動植綵絵」三〇幅(宮内庁三の丸尚蔵館)が東京で一堂に会すのは初めてです。
近年多くの人々に愛され、日本美術の中でもきら星のごとく輝きを増す若冲の生涯と画業に迫ります。
東京都美術館展覧会
──────────
{新宿餘談}
若冲が気になって、「若冲展」二日目、23日[土]に東美(東京都美術館)にでかけた。
できたらとなりの国博(東京国立博物館)の「黒田清輝展」もいっしょに見ようと、はやめに上野公園に向かった。
曇天だった。国博の入場口は閑散としていた。言問通りでタクシーを捨てた。
東美の裏側から回りこんでいったら、入場券売り場から長蛇の列だった。会場内はギッシリ満員。ひとにアタル(中毒)やつがれ、入場前からすでに疲労困憊。

若冲の絵画には息をのんだ。すごかった。
したがって画像記憶許容量をたちまちこえて、脚がなんどもすくんだ。
気がついたら階上のレストランにいて、デザートに旨いティラミスを摂っていた。国博行きはこの瞬間にあきらめた。
見のがす無かれ、若冲展。

──────────   <5月24日掲載分>

「長崎松の森なる千秋亭にて いと厳粛に …… 」と綴った〝ふうけもん〟福地櫻痴。大石は長崎のパワースポットと評す

「長崎松ノ森ナル千秋亭ニテ」(千秋亭は1889・明治22年、総理大臣伊藤博文の命名により富貴楼と改名)ときいて、ハッと反応するような奇妙人を、長崎では〝ふうけもん〟という。
松の森には放し飼いの「若冲 じゃくちゅう」 が数羽いた。おおむねひとになついていたが、一羽挑みかかる鶏がいた。その不届きもんの鶏を「若冲一」と名づけ、以下五羽の鶏と、モソモソとあるく烏骨鶏ウコッケイとしばし戯れた。

東京都美術館の若冲展 は好評だったがきょう(05月24日)で終わり。
会期二日目(4月23日)に参観して息を呑んだやつがれ、「見逃す無かれ 若冲展」として本コーナーでも紹介した。会期後半の週末などは入場に五時間待ちという混雑だったときいた。巡回展が期待されるところである。
そして「長崎松の森なる千秋亭」への再訪の機会をうかがうやつがれがここにいる。
長崎タイトルresize20160424142155830_0005DSCN7620 DSCN7623 DSCN7738 DSCN7728

【字学 活字と機械論攷シリーズⅡ】 長崎川柳吟社 素平連 SUPEREN 「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位報告祭に活句をよみて奉る」

統合長崎諏訪神社所蔵
「本木昌造関係文書集」より

故本木昌造翁の功績を追懐して
贈位奉告祭に活句をよみて奉る
長崎素平連
──────────

點林の枯骨   贈位の花か咲き       紫泉
本木にて朽ちぬは   文字の元祖也    鈍々
文学の修業場   巌流坂に建て       藤覚
鋳上けた活字   銅像と成て立ち      應来
贈位の御沙汰   文明の日の本木     躬之
ステロ版本木の  末に流れ出て      豊舟
本木から枝葉   繁る新聞紙        竹仙
発明の活字を  積て位山           我天
名の如く永久  朽ちぬ君か功        和薩
摩滅せぬ偉勲  活字の発明者       東籬
活字版桜木    よりも世に薫り       東来

統合

「川柳吟社 素平連 スペレン 」は明治期長崎にあった川柳・狂句の会で、虎與號トラヨゴウ・安中ヤスナカ書店/安中半三郎(号:東来トウライ 嘉永六年十一月二十九日[西暦1853年12月29日]-1921年4月19日 行年69)が主宰した{花筏}。

もともと「川柳吟社素平連」は知るところがすくなかったが、故阿津坂 實氏の紹介をえて、わずかにこれらの句を『活字をつくる ヴィネット04』(片塩二朗・河野三男 2002年06月06日 朗文堂 p.207)でも紹介した。
ようやく長崎でも「ふうけもん 安中半三郎」が注目されるようになり、今般長崎で一次複写資料を入手したので、ここに古谷昌二氏の釈読で紹介した。
しかしながら、依然としてこれらの句をのこした「川柳吟社素平連」の会員名は「安中半三郎=東来」以外の詳細は不明である。

冒頭に、「故本木昌造翁の功績を追懐して 贈位奉告祭に活句をよみて奉る」とあるのは、明治45年(1912)2月26日に本木昌造に従五位を追贈する旨が通達された。
東京築地活版製造所では同年5月25日「本木昌造翁贈位祭典」が星野 錫、野村宗十郎、松田精一、三間ミツマ隆次を発起人として「上野精養軒」で盛大な祝賀会が催されている。
おそらく地元長崎でもこのような祝賀会が催され、「川柳吟社素平連」も句を寄せたものであろう(『本木昌造伝』島谷政一 朗文堂 p.218-228)。

【字学 活字と機械論攷シリーズⅠ】 <旧 外浦町ホカウラマチ由来>碑をめぐって-{活版さるく補遺}

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 旧 外浦町由来 [ほかうらまち 振り仮名が彫られている]

この地はもと外浦町と呼ばれた
元亀二年(一五七一年)大村純忠の町割りに
より開かれた長崎最古の町である。
爾来糸割符会所、長崎奉行所等が
置かれ長崎で最も枢要の地として栄
えた。また幕末には海軍伝習所や医
学伝習所が設けられわが国文明開化
胎動の地ともなった。
昭和三十八年(一九六三年)町制変更によ
り万才町(現在地)、江戸町となり四百
年に及ぶその歴史を閉じた。

──────────
[古谷昌二]
この碑文は、万才町の一画に設置されていた石碑の表面に刻まれた碑文を、朗文堂写真から判読したものである。
昭和三八年五月に町界町名変更があったが、それ以前にも、旧島原町が万才町に、町名の無かった出島が出島町になり、明治以前の古地図とは若干の相違が見られる。

この写真が撮影された2010年のころ、「旧 外浦町由来」碑は、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の玄関脇に設置されていたという。
しかし平成25(2013)年5月7日に「農林中央金庫長崎支店」は長崎市出島町1-20に移転しており、現在この写真のビルは取り壊されて工事中(2016年6月30日閲覧)となっている。
したがってこの碑の所在はいまのところ不明である。

{新宿餘談}
この「旧 外浦町由来」碑の写真は2010年晩夏に撮影したものである。
同行したのは故 阿津坂 實 翁、元長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏、それに大石とやつがれだった。

2-1-49043 RIMG0084 RIMG0083阿津坂翁の「活版さるく」は、いつも出島にある長崎県印刷会館からはじまり、「唐通詞会所跡」碑、「活版伝習所跡」碑(元興善小学校・新興善小学校。現 長崎市立図書館 脇 長崎市興善町1-1)から「活版さるく」をはじめるのを常とした。

ついで「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前に設置されていたが、のちに同ホテル内ロビーの一隅に移設された。現在はマンション工事中のため碑文の所在は不明)をまわるのが定番のコースだった。
DSC01028 DSC01024 2016年06月{崎陽探訪 活版さるく}では、「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前)も訪問した。ホテルは取り壊され、マンションの工事中であり、碑文は見あたらなかった。

そこから大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷)を案内されるのを常とされていた。
これらの碑の建立に際しては、阿津坂翁が多大な尽力をなしていたことは紹介した。

「新町活版所」に関しては諸文献でも触れているので、ここでは「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」に関して『平野富二伝』(古谷昌二)から紹介しよう。

小倉藩蔵屋敷は明治維新後に小倉藩が退去し、その屋敷の一部を買収して本木昌造の経営する「新塾活版製造所」が設けられた。平野富二は後にこの活版製造所の経営を任せられることになる。
なお、活版所と活版製造所は明治28年(1895)9月に解散するまで存続した。
この場所は現在では興善町5番の区画に相当し、丸善ハイネスコーポと食糧庁長崎事務所が建てられている。
  IMG_3823 IMG_3824

脚が弱られた阿津坂翁のために、このときの移動はもっぱらタクシーだった。
1997年に閉鎖された「新興善小学校」は、2008年にあらたに開設された「長崎市立図書館」にすっかり変わっていた。当然ふたつの碑文の位置もいくぶんかわっていた。

どこのまちでもありがちなことではあるが、本木昌造宅が外浦町5のあたりにあったことが確実視され、また生家の矢次家をでて独立し、別家平野家をたてたころの平野富二郎(平野富二)も居住していた「外浦町」のよみは、旧来「ほかうらまち」とされてきた。

この[明治4年・1871の暮れから戸籍届出の翌年2月までのあいだ]年、平野富次郎の身辺に大きな異動があった。年が明けて間もなく、長崎在住の安田こまと結婚し、それまで兄矢次重平の厄介として居住していた引地町ヒキジマチ50番地の生家を出て、外浦町ホカウラマチ94番地に家を求めて転居した。
た、この年はわが国で最初の戸籍編成の年に当り、その人別調べに幼名の富次郎を富二に改名して平野富二として届け出た。
『平野富二伝』(古谷昌二)

ところが近年、一部の長崎関連文書のなかで「外浦町 そとうらちょう」とする向きがみられたので、故阿津坂 實(1915-2015 行年99)氏にそのことを質したことがあった。
「本木昌造先生の旧宅と、平野富二さんの旧宅があった「ほかうらまち」が「そとうらちょう」になってしまったいるわけかな。それは困ったな…… 。
それなら県庁前に『旧 外浦町由来』の碑があるからそこに戻ってみよう。たしか『ほかうらまち』の振り仮名があったはずだ」

というわけで、急遽タクシーはUターンして、「旧 外浦町由来」碑をみるべく、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の前に戻った。
「旧 外浦町由来」碑はつよい赤味を帯びた自然石に陰刻され、この建物の玄関脇に設置されていた。

大通りに停車していたタクシーを待たせないように慌てていたことにくわえ、この碑文の重要性を当時はさほど重視していなかったので、石碑背面の写真を撮影することを忘れていた。したがってこのビルが取り壊されている現在、「旧 外浦町由来」碑の建造者・建造年月日などの資料が背面にある可能性をのこすことになってしまった。

それでもこの「旧 外浦町由来」碑には、主題語「旧 外浦町由来」に振り仮名が刻されていたことによって、「ほかうらまち」のよみが確定した。また四百年の歴史を有した「外浦町 ほかうらまち」は、1963年(昭和38)の町制変更によって万才町マンザイマチ、江戸町エドマチとに分割されて、その歴史を閉じたことがわかった。
ただしまことに残念ながら、この「旧 外浦町由来」碑の所在はいまのところ判明しない。
DSC03641

DSC03627RIMG0069 RIMG0071そこからふたたびいつものように、大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷 長崎市興善町5)をたずねた。
「新町活版所跡碑」は改修され、向かって左側に活字を模したモニュメントが設けられていたが、それまで並立していた「詩儒 吉村迂齋遺跡」碑はすこし移動して、ビル正面側に設けられていた。

このあたりで阿津坂翁に疲労がみられたので、長崎駅前大黒町の自宅兼店舗「飛龍園」に車をまわした。
DSC03656
《長崎市の地名 ウィキペディア》
◎ 江戸町(えどまち)
1963(昭和38)年、江戸町、玉江町3丁目、外浦町の南半、築町の一部より発足。10街区。長崎県庁があり、町の半分近くを県庁が占める。
その他、東部に江戸町商店街があるなど、商店が多い。中央橋バス停・交差点があり、交通の要所である。

◎ 万才町(まんざいまち)
1963(昭和38)年、平戸町、大村町、万才町、本博多町、外浦町の北半より発足。8街区。
国道34号が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎地方裁判所、長崎地方検察庁、長崎家庭裁判所、長崎県警察本部などの官公庁もある。

[付 記]  『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)
現在の町名である万才(まんざい)町は、明治5年(1872)に明治天皇が長崎を行幸した折の萬歳(万歳)に由来しており、西道仙がその改名を提案したとされている。

当時、萬歳は呉音の「マンザイ」や漢音の「バンセイ」などと発声されていた。
「バンザイ」と発音されるようになったのは大日本帝国憲法発布の日の明治22年(1889)で、「マ」では腹に力が入らないという理由から、漢音と呉音の混用を厭わず「バンザイ」となったとされる。

◎ 興善町(こうぜんまち)
1963(昭和38)年、本興善町、新町、興善町の南半、豊後町の西半、引地町の西半、堀町の南半より発足。6街区。国道34号線が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎市消防局、長崎市立図書館もある。
──────────
活版印刷礼讃<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、{崎陽長崎探訪・活版さるく}として、長崎を訪問した全国各地からの参加者、地元勢あわせて60名余でこれらの地を訪問した。
たくさんの新発見があったが、同時に、阿津坂 實翁は卒し、2010年の資料とくらべても、おおくの施設や碑文が移転していることがわかる。
創立10周年企画として<Viva la 活版 ばってん 長崎>に特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんとともに、さらなる資料整理が進行しているいまである。
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【図書紹介】 ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―(増永 驍著 長崎文献社 2008年3月13日)

20160517175007358_0001 20160517175154723_0001《崎陽長崎俚諺 さんか と ふうけもん》
長崎では、しばしば自虐的にこのまちを「さんか」のまちとする。
「さんか」とは、急峻な山容がそのまま海に没するこの長崎を特徴づけるもので、
一  坂   「さか」
二  墓   「はか」
三 馬鹿   「ばか」
の三つのことばの語尾が共通して「か」であることから「さんか」とするものである。

DSC00668 DSC00749 DSC00732 DSC00760たしかに長崎はほんのわずかな沖積地をのぞいて、急峻な「坂」のまちであるし、そこに這いあがるようにひろがる「墓」のまちでもある。
それでもさすがに「馬鹿」と口にするのをはばかって〝ふうけ〟とするふうがいまもある。「ふうけたことをいう……」は、「馬鹿なこと、ふざけたことをいう」といったかんじである。
したがって〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿ものを意味するが、おなじ馬鹿でも、侮蔑のニュアンスはすくなく、もうすこし愛嬌のある馬鹿もののことである。

長崎新聞社の記者をつとめ、のちに長崎県庁に転じた増永 驍は、明治初頭長崎の「稀少人種」の〝ふうけもん ≒ 馬鹿もの〟として、本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・池原香穉・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)らを配し、同名の小説『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)をのこした。

本木昌造02 平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち_トリミング松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』増永 驍によって〝ふうけもん〟とされたおとこたち
本木昌造 : 長崎諏訪神社蔵  平野富二 : 平野ホール蔵 松田源五郎 : 松尾 巌蔵

『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(増永 驍著)は、明治長崎の40年をかたるとき、おもしろい視座を提供する図書ではあるが、いつものように【良書紹介】としなかったのは、それなりの理由はある。本書をおよみいただきやつがれの意をお汲みいただけたら幸いである。
──────────

『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(増永 驍著 長崎文献社 2008年3月13日 第三章 長崎ぶらり p.258 より)
一  一番さん
長崎に「さんか」という俗語がある。
さんかとは、単語の語尾が「か」で終わる長崎の特徴をあらわす言葉、さん(三種)の「か」
というほどの意味である。
天領[江戸幕府直轄の領地]として海外交易で栄えた長崎の港は、外海からの波浪を鎮めるように、三方を小高い山並みに囲まれ平地は極めて少ない。
このため丘や山を削って港の一部を埋め立てて、市街地を造成し、削り取った跡地には山頂をめざして住宅が連なっている。
その街中を貫く生活道路のはとんどぱ坂道と石段である。

まず、さか(坂)が「さんか」の、かのひとつ目である。
信心深い住民ぱ、西方浄土を臨む安息の土地を求め、宅地の上の山際を造成して墓地とした。
町並みを取り囲むように墓地がある。二つ目は、はか(墓)である。
江戸時代、海外交易の一部が住民に還元されるなど、およそ全国でも例を見ない安穏な暮らしを続けた長崎の民は、その気質もまた異なるものがある。

良く言えば、他の土地からの旅人にもあふれるはどの親切心にあふれ、また、変化は好まず日々の安穏を願うお人好しである。
先祖代々、はぐくんできた気質は成熟している。
他人に先駆けて栄達しようなどとの心構えは、数百年をかけてオランダ船と唐人船に積み込んで海の彼方に捨てている。
苦労知らずの世間知らず、空想にふけり、ぼーっとして人生を過ごす者がいる。
したがって、三つ目は、ばか(馬鹿)である。
現実離れして何かのことに夢中になり、巷の者の常識に外れた者を長崎では「ふうけもん」と言う。近い言葉でいうなら馬鹿である。
ただし、ふうけもんにも幾つかの種類がいる。
現実を理解できる能力を有しないものが多数なら、理想と空想を混在し、さらには現実と虚構を混在し、むやみやたらに積極的となり実現不可能な騒ぎを起こす者も存在する。
希少人種の「ふうけもん」が中島川の右岸の土手を軽やかに走っている。
──────────
{著者紹介}
増永  驍 ますなが-たかし
1945年うまれ。日本大学法学部卒。同大学法学専攻科修了。
長崎新聞記者を経て長崎県庁に勤務。総務部消防防災課長、佐世保高等技術専門校長をへて退職。2004年から総務省所管の公益法人の長崎県支部長。
主要既刊書
『ながさき幕末ものがたり 大浦お慶』(1991年 長崎文献社)、『現川伝説』(1994年 長崎文献社)、『鯨神 深澤義太夫異聞』(1997年 長崎文献社)、『友好の奇跡 兪雲登回想録』(2006年 長崎新聞社)

北方謙三<大水滸伝>全51巻完結! 伝説も去りて、残るは物語のみ。君に語れ、漢オトコらの物語。

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20160607224214284_00012016年05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついに北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結した。 十余年におよぶながいつき合いだった。 『 水滸伝 』(全19巻)、『 楊令伝 』(全15巻)、『 岳飛伝 』(全17巻)である。
集英社の特設WebSite <大水滸伝> などは、この終巻をもって、嬉しいのか、哀しいのか、さびしいのか知らないが、阿鼻叫喚、まるでお祭り騒ぎである。

北方謙三の < 大水滸伝 > は、まず『小説すばる』に連載され、連載中に並行して四六判書籍が発行され、書籍刊行終了後に文庫版が順次発売されていた。
したがって北方謙三は版ちがいのたびに文章に手をいれており、将来全集でも刊行されるなら、文庫版に記載されたものを定稿としてほしいとしばしばつづっている。

やつがれはといえば、ゴチャゴチャとした雑炊のような文芸雑誌は苦手なので、『 小説すばる 』 はときおり立ち読みし、四六判書籍、文庫版ともに刊行直後に購入してきた。愛読書ではあるが愛書家ではないので、あちらの本棚、こちらの片隅と、未整理なまま山積みになっている。
この作家は、冗長と過剰をきらうので、四六判書籍のときすこしテンポが遅いな、とおもわれた箇所などが、文庫版となるとバッサリ切りすてられていることに驚いたこともあった。

司馬遼太郎(1923-96)が卒したころ、北方謙三は 『 楊家将 』 の連載中だったとおもう。
ほんとうに偶然だった。 所在のないままなんとなく書棚から、ハードボイルド作家だとおもっていたこのひとの作品 『 楊家将 』 を取りだしたのがはじまりだった。ともかくダイナミックな中國歴史演義であり、登場人物のあしらいが鮮明で、読みやすかった。
のちに 『 楊家将 』 は吉川英治賞を受賞しているが、まさかそれから10年余におよぶ 『 水滸伝 』 『 楊令伝 』 『 岳飛伝 』 の <大水滸伝> シリーズにつらなり、ずっと付きあうことになるとはおもってもいなかった。

歴史を作るのは英雄だけじゃない。
歴史に名を残した武人から、人知れず消えていった民草まで。
ここにあるのは「人間」の物語だ。
駈けよ。──── 夢追いし者、永久に。
生きる。──── 去りし者のぶんまで。  [集英社WebSiteより]

ともあれ、これから 『 岳飛伝 』 文庫版の刊行がはじまるとおもうが、やつがれとほぼ同世代の北方謙三は <大水滸伝> 51巻を完結した。 この間やつがれはなにをなし得たかというと忸怩たるものがある。
──────────
そこで、『 岳飛伝 』 の主要な舞台のひとつ、岳飛の墓所がある杭州 (Hangzhou) を紹介しよう [撮影 : 2011年09月]。
岳飛は北宋を滅亡させた女真族金国(満州族王朝 前金)に抵抗して軍閥をなし、「 盡(尽)忠報国 」 の四文字を背に刻んで 「 抗金 」 をさけんでいたとされる。
その墓は杭州西湖のほとり、岳飛廟に息子の岳雲の墳丘とならんである。夜になると岳飛廟のすぐ近くの湖畔で 「 水上ショー 」 が開催され、内外の観光客であふれる。

この街ではかつて、あまたの南宋刊本が刊行され、小説とはことなるが岳飛が刑死した。
やがて南宋も金国もたおれたのち、元(蒙古族王朝 1271ー1368)の時代にやってきたマルコ ・ ポーロが、「 世界でもっとも美しいまち 」 と評した西湖のほとりに、南宋の宮殿跡も、「岳飛廟」もある。

“ Hangzhou, The mosut beatiful and splendid city in the world. ”    Marco polo

その西湖には、白楽天の築造とされる 「 白堤 」 があり、わずかな期間の中華民国時代、そのなかの小丘で、丁 補之・丁 善之兄弟によって、近代宋朝体活字(中国では倣宋体とする)が誕生したことは意外に知られていない。

それを追ってやつがれがはじめて杭州の地をおとづれたのは、もうかれこれ35年余も前のことになる。
その紹介の役割は、できたら辞退したいところであるが、たれも名乗りをあげないまま20余年が経過した。
それよりなにより、これからたれの小説を読めばいいのかというのが喫緊の課題である。

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{Viva la 活版 ばってん 長崎} 14 活版印刷作品展示紹介

長崎タイトル

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◎ 田中智子(はな工房)
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【作品名】 『栞』
【作者名】 田中智子(はな工房)
【版式・技法】 箔押
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【作品名】 『MY TYPE』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『ざしき童子(ぼっこ)のはなし』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷) 図版:凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 『風景』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字・他:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『かごっまことば』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字・他:凸版(活字版印刷)
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【作品名】 『風のうた』
【作者名】 印刷・製本:田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷) 図版:凸版(ゴム版印刷)

◎ 加久本真美
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【作品名】 『活字見本帳』
【作者名】 加久本真美(東洋美術学校 タイポグラフィ・サークル QP 卒業生)
【版式・技法】 凸版(活字版印刷)
一昨年から学校に残る金属活字の整理を開始し、見本帳を制作。
掃除 → 分類(書体・活字サイズ別)→ 印刷の手順で、活字の状態と種類を調査している。

◎ 日吉洋人
プリンティングオフィスresized

【作品名】 THIS IS A PRINTING OFFICE
【作者名】 言葉:Beatrice Warde   組版・印刷:日吉洋人
【版式・技法】 凸版(活字版印刷)

◎栃木香織(文香―Fumikou―)
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【作品名】 『photo book』
【作者名】 印刷・製本:栃木香織(文香―Fumikou―)  写真:上野隆文(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)  図版:凸版(樹脂凸版)  写真:インクジェット印刷
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【作品名】 『モンヨウ誕生記念』
【作者名】 印刷・製本:栃木香織(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 文字:凸版(活字版印刷)  図版:凸版(樹脂凸版、ゴム版画)

宗則和子(botaniko press)
宗則和子(botaniko press)さんの出品は、展示とあわせ受付でも展示して販売されました。
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【作品名】  スズラン 二種類/ワスレナグサ 三種類/スノードロップ 二種類/アンティーク押し花 スミレ 二種類/アンティーク押し花 スミレ/アンティーク押し花 アネモネ 二種類/タマゴタケ・ベニテングタケ
/アマタケ・イッポンシメジ/タマゴタケ/ベニテングタケ/ イッポンシメジ
【作者名】 宗則和子(botaniko press)
【版式・技法】 凸版(樹脂凸版) 

◎ 日本大学藝術学部 美術学科 版画研究室

DSCN7484【作品名】 『SORA 2012』
【作者名】 版画 : 日本大学藝術学部 美術学科 版画研究室
装丁:西尾 彩
【版式・技法】 凸版、平版(リトグラフ)
「キのスプーンのあじがするキセツに」 SAKAI MINORI 酒井みのり
「そらが さびしくないように」 AOYAMA YUKIE 青山由貴枝
「ソラノオト」 SAKAI MINORI 酒井みのり
「いつも見あげております」 ISHIAI HIROKO 石合広子
「ソラ タカク」 YUKO SASAI 笹井祐子
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DSCN7480【作品名】 『THE LOVE OF BOOKS ― Old English Song
【作者名】 版画:日本大学藝術学部 美術学科
高浜利也、菊池史子、笹井祐子、宮澤真徳、山﨑香菜、大槻孝之、
日比野絵美、宮澤英理子
活字組版 : 大石 薫(アダナ・プレス倶楽部)
製 本 : 栃木香織(文香―Fumikou―)
【版式・技法】 版画 : 凸版(リノカット、木版)、凹版(銅板)、平版(リトグラフ)、モノタイプ(モノプリント)など    文字 : 凸版(活字版印刷)

本書は、第35回全国大学版画展(主催:大学版画学会/町田版画美術館)において、日本大学藝術学部 美術学科 笹井祐子准教授(当時)と、大学版画学会所属のアダナ・プレス倶楽部 大石薫による公開セミナー「版画と活字」のための参考展示作品として制作されたものである。
活字版印刷を導入した授業展開の一例として、同じ詩をテーマに、各々でイメージをふくらませながら、それぞれのイメージに合った技法で版画を制作し、一冊の折本のかたちにまとめた試みである。手製本はアダナ・プレス倶楽部会員 栃木香織の協力による。

◎ Bonami
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【作品名】 かみきりサックル
【作者名】 絵・文 : 三木葉苗
               装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)   絵 : 凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 さくらとカトリ
【作者名】 絵・文 : 三木葉苗
               装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)  絵 : 凸版(樹脂凸版)
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【作品名】日々への手紙
【作者名】作者:三木葉苗
装丁・印刷・手製本:Bonami
【版式・技法】凸版(樹脂凸版)
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【作品名】 dear my sister
【作者名】 絵 : 三木咲良 文 : 三木葉苗
装丁・印刷・手製本 : Bonami
【版式・技法】 凸版(活字版印刷、樹脂凸版)   平版(オフセット平版印刷)

関 宙明 ユニバーサル・レタープレス
DSCN7507【作品名】 『わが友ユダ』
【作者名】 詩 : 新井延男      版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
──────────
【作品名】 『草地の時間』
【作者名】 詩 : 村野美優      版元:港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
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【作品名】 『鈴を産むひばり』
【作者名】 歌 : 光森裕樹       版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
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【作品名】 『夜の甘み』
【作者名】 詩 : 伊藤啓子       版元 : 港の人
本文活字組版・印刷:内外文字印刷
表紙箔押し:真美堂手塚箔押所
デザイン:関 宙明
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【作品名】 『詩への途中で』
【作者名】 詩・エッセイ : 高橋 馨        版元 : 港の人
本文活字組版・印刷 : 内外文字印刷
表紙箔押し : 真美堂手塚箔押所
デザイン : 関 宙明
―――
これら一連の書籍のアートディレクション・デザインを担当した関 宙明氏は、Adana-21J をもちいた活版印刷部門ユニバーサル・レタープレスでのみずからの活版印刷実践を、本職であるグラフィック・デザインにも活かし、活版印刷所とのコラボレーションによる書籍づくりを展開しています。

杉本昭生 ぢゃむ
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【作品名】 活版小本
印刷・製本 : すぎもとあきお(ぢゃむ)
【版式・技法】 文字 : 凸版(樹脂凸版)

『芥川龍之介の遺書』芥川龍之介/『マーク・トウェインの箴言集』マーク・トウェイン/『菊池寛』菊池寛/『實語敎』/『盈満の咎』/『黒猫・餅饅頭』薄田泣菫/『漢詩抄』/『子規随筆』正岡子規/『死生に関するいくつかの断想』ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)/『狂訳 小倉百人一首』/『盈満の咎 弐』/『獨樂吟』橘曙覧/『Greise  老人』リルケ・森鴎外訳/『冬日の窓』永井荷風/『老嬢物語』ギ・ド・モーパッサン/『舞鶴心中の事実』高浜虚子/『我が子の死』西田幾多郎/『電車の窓』森鴎外/『尾生の信』芥川龍之介/『夢十夜より  ─第三夜─』夏目漱石/『てがみ・二十一のことば』チェーホフ/『蜜柑』芥川龍之介/『老人の死』シャルル・ルイ・フィリップ/『ごぜくどき地震の身の上』/『道理の前で』 フランツ・カフカ/『変な音』 夏目漱石/『名家遺詠集』/『挽歌詩三種』 陶淵明

◎ タイポグラフィ学会創立10周年 特別参加
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【作品名】 タイポグラフィ学会創立10周年 特別展示
【作者名】 タイポグラフィ学会 有志
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【作品名】 タイポグラフィ学会「本木昌造賞表彰状」
【作者名】 紙面設計 : タイポグラフィ学会
活字組版・印刷 : 大石 薫(タイポグラフィ学会会員)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)
オーナメント、プリンターズ・マーク : 凸版(銅凸版)
オーナメントは『BOOK OF SPECIMENS』活版製造所
平野富二(明治10年)より採録

◎ Lingua Florens(桐島カヲル)

DSCN7495【作品名】 断片小説
【作者名】 Lingua Florens(桐島カヲル)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)      図版 : 孔版(シルクスクリーン)

【北京空港のサインからⅢ】 巨大競技場施設のゲート表示からはずされている、いくつかのローマ大文字の例をみる

トラヤヌス帝

トラヤ02 トラヤ049784947613592 『トラヤヌス帝の碑文がかたる』(木村雅彦 ヴィネット01号 朗文堂)
DSCN7985《 持つべきものは良き友人か 》
これまで「A-L」まである北京空港のチェックインカウンターに、なぜか「G 列」と「I 列」が無いことを紹介してきた。
その理由を考察する前に、このことを報告がてら、サインデザインや空間デザインを多く手がけている「GKデザイングループ」の木村雅彦さんに、ほかにもサインデザイン製作の現場でこのような事例が報告されていないのかを問い合わせてみた。
こののち、木村雅彦さんは台湾行政府からの招聘で現在は台湾出張中であるが、まず、ここにGKデザイングループからの報告をご紹介したい。
あわせて本項をご覧になった読者からの情報提供もお待ちしたい。
──────────
[GKグラフィックス 木村雅彦さんのコメント]
こんにちは。漢字だけ、それも横組みベタ組みを多く見かける中國での字間のコントロールと、北京空港でのサイン表記の記事を興味ぶかく拝見しました。
お問い合わせのあった、大型施設でのサインのキャラクター選択の事例に関し、GK設計でサイン企画を担当している鎌田博美(もとチームの同僚)からのコメントをご紹介します。
──────────
[GK設計 鎌田博美さんのコメント]
今までの業務の中で、スタジアムの仕事の時に同じような状況に遭遇しました。

このときは、ゲート番号をアルファベットで表記し、座席番号をアラビア数字で表記する場合、ローマ大文字の「I」は、アラビア数字「1」との誤読を避けるため、「I」はゲートサインからは抜いた提案としました。
(この時のゲート番号には A-M までのアルファベットをもちいましたが、この中で「I」を使用しませんでした)。
海外のスタジアムでも同じような傾向がみられます。その一部をご紹介します。

[海外のスタジアム事例 Ⅰ]
 ◎ ドイツのサッカースタジアム  「アリアンツ・アレーナ Allianz-arena」
ゲートサインに「 I,  O,  Q 」 を使用していない。
アリアンツ・アレーナ」は、ドイツのミュンヘンにあるサッカー専用のスタジアム。「アリアンツ」とはドイツ最大の保険メーカーの名前。

AllAr_Lagepläne_E2_1500x1200_EN AllAr_Lagepläne_E6_1500x1200_EN

●Allianz-arenaの公式HPのSite-and Seatmapsのページ
Stadium Plansより
Level 2 のpdf.
Level 6 のpdf.


[海外のスタジアム事例 Ⅱ]

 ◎ イギリスのフットボールスタジアム 「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」
ゲートサインに「 I,  O 」 を使用していない。
サッカーなどのフットボール専用のスタジアムですが、イングランドを発祥とするサッカーとラグビーの2つのフットボールのうち、「トゥイッケナム・スタジアム Twickenham Stadium」が「ラグビーの聖地」と称されるのに対して、「サッカーの聖地」と称されるのがこの「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」。
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●Wembley Stadium
公式HPのStadium guideページ
 
1Fフロアガイド(Level 1)
5Fフロアガイト(Level 5)


DSCN8507 DSCN8504北京空港のゲートサインに使用されなかった「G,  I 」とは、ゲート数も違いますので若干ことなりますが、これら三つの大型施設に「共通して I 」がもちいられていないことと、わたしたちが担当したプロジェクトでも、共通してローマ大文字の「I」の使用をさけたことは興味のあるところです。
以上、簡略ながら少しでもご参考になればと思います。[GK設計 鎌田博美]
──────────
「GKデザイングループ」からの報告と、やつがれの発見をまとめてみよう。
◎ GK設計が手がけたスタジアムのサイン設計にあたり、A-M までのゲートサインのうち、「I」を使用していない。
その理由は、アラビア数字の「1」と、ローマ大文字の「I
」との「誤読を避けるため」であったとされている。
◎ ドイツのサッカースタジアム  「アリアンツ・アレーナ Allianz-arena」は、A-R までのゲートサインのうち、「 I,  O,  Q 」 を使用していない。

◎ イギリスのフットボールスタジアム 「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」は、A-P までのゲートサインのうち、「 I,  O 」 を使用していない。
◎ 北京空港のチェックインカウンターは、A-L までのゲートサインのうち、「 G,  I 」を使用していない。

DSCN7985《 結論をもとめる前に、サイン用にもちいられることの多い、ローマ大文字の歴史をみる 》
先に羽田空港にある「 BULGARI  ブルガリ ROMA 」の広告を紹介した。
北京清華大学での講義への旅立ちを前にして、この広告には関連したテーマがギッシリとつまっていた。
まず、フォロ・ロマーノにある「トラヤヌス帝の碑文」の伝統を継承した、ローマ大文字の揺らぎのない字画形象、風通しの良いおおらかな字間設定、「U,  V」の古典的なつかいかたが目につく。

そして彫られた文字に特徴的にあらわれる、控えめなセリフ、なかんずく、最終文字に登場する「I」の上下にみられる控えめなセリフと、最終部の「R I」にみられるような大胆かつ見事なまでの字間調整である。

ところで、高齢化して視力の衰えた友人が「C,  G」をあやまって判断することがあると述べたことは既述したが、
「浮世ばなれしたかれなら、イタリアのファッションブランドのブルガリを知らないだろうし、まず BVL で発音にこまって、さらに GARI を CARI とやりかねんな……」 とも考えた。
──────────
上掲書『トラヤヌス帝の碑文はかたる』のなかで、木村雅彦氏は以下のようにしるしている。

「トラヤヌス帝の碑文」に刻まれた六行の文字のおおきさは、一見上部の行が大きくて、下の行になるほど徐徐に小さくなっているように見えます。
またこれまでの定説では、ひとが下から見上げたときに、文字の大きさが同じように見えるように、視覚的な遠近法による調整がほどこされているとされてきました。
しかしながら、碑文を採取して実測してみると、二行目がもっとも大きくて、一行目と三行目に対して104%であることがわかりました。この二行目の中央部には「神なるミルウァの息子」という文があって、DIVI つまり「神なる」という意味の単語にみるふたつの「I」には、「アイ・ロンガ」と呼ばれる、神に関することばを強調するための長い「I」がつかわれています。

KIMURA02ジョバンニ・フランチェスコ・クレッシのローマ大文字(1570年)上掲書p.35

ローマ大文字「Q」は英語アルファベット17番目の文字であるが、実際に単語を形成するのは「Quack, Quake . . . . Quote 」まで、「Q」からはじまるほとんどすべての語の次に「u」がくるため、昔から「Q」の尾部(Tail)を長く描き、そこに「u」を乗せて「合字」としたものも多かった。

それにたいして現代の活字書体、なかんずくサンセリフの「Q」の尾部は、ちいさくて貧相で、「O」との判別性 Legibility に劣るものがおおく見かけられる。
DSCN5421 DSCN5437 DSCN5427 DSCN54402014年09月 チェコ、プラハの街角の教会にみた「アイ・ロンガ」の例。建造年などは不詳
[ 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

logo朗文堂ではこのようなおおらかなローマ大文字の彫刻風の力感をもとめて、ながらくホームページ「ROBUNDO」のタイトル書体としてもちいている。
おりしもヘルマン・ツァップが逝去して一年が経過したが、ここにみる「ROBUNDO」の大文字だけの活字書体は、ヘルマン・ツァップによって設計された、碑文系書体「ミケランジェロ・タイトリング Michelangelo Titling」(D. Stempel AG /フランクフルト 1950年)である。
朗文堂ホームページのメインタイトルは、1999年以来碑文系由来の「ミケランジェロ・タイトリング」がもちいられてきている。
ツァップ夫妻左) Gudrun Zapf von Hesse グドゥルン・ツァップ・フォン・ヘッセ
1918年01月02日 ドイツ、メクレンブルクうまれ
右) Hermann Zapf ヘルマン・ツァップ
        1918年11月08日-2015年06月04日 ドイツ、ニュルンベルクうまれ

1950年の秋、わたしたちは活字書体のインスピレーションをもとめてイタリアへでかけました。この旅ではもっぱらスケッチブックとカメラを手に、フィレンツェ、ピサ、ローマをおとづれて、ふるいローマ時代の碑文を探しました。
 
ここでの数数の碑文との出会いと、フィレンツェとバチカンの図書館で見たすばらしい書物が、その後のわたしたちの活字設計におおきな影響をあたえました。とりわけ刺激がおおきかったのはトラヤヌス帝の碑文との出会いでした。
文字の美しさを理解するひとならだれでも、西暦114年にローマのフォロ・ロマーノ地区に建造されたトラヤヌス帝の大円柱にしるされた碑文をみて、わたしがいかに有頂天になったかを理解していただけるでしょう。
 
ところが残念なことに、この碑文の位置がたかすぎて、歪みのない、まともな写真を撮ることができませんでした。それでも諦めきれずに奮闘するうちに、どうやらわたしはだれの眼にも明らかなほど夢中になっていたようです。
たまたまそばを通りかかった警備員は、メジャーをもって大円柱に詰め寄るわたしを見て、碑文をはぎ取って地面に引きずりおろそうとしているとおもったのでしょうか、あわてて制止されたことが懐かしくおもいだされます。

Zapf_80-1プリント《 そもそもサイン Sign とはなにか。なぜ標識・記号・看板ではいけないのか 》
sign は、名詞では意味をもったしるし、動詞では意味をもったしるしをしるす。
要約すると、あらわれ、形跡、身ぶり、標識、記号となり、それらの情報を記載した「看板」のことである。
看板なら比較的最近まで、町角のおちこちに「看板屋」の看板をかかげた自営業者が見られたが、近年はサインデザインという名称で、平面設計の分野のひとつになり、町角から店舗は消えた。
さらに環境・景観デザインなどということばもうまれてきた。すなわち比較的あたらしい造形のジャンルであり、発展途上にある職種でもある。

そもそも和製英語としての「サイン」は混乱の極致にある。
作家や著名人などにもとめる「サイン」は、Sign ではなく autograph である。
「Can I have your autograph ?」 であり、「サインをください Can I have your sign ?」は誤まりであることは何度かしるしてきた。
野球などでの監督やバッテリー間の「サイン」は Signal 。サイン入りボールは an autographed ball 。図書の「サイン会」は an autograph session である。便利な用具であり、ことばの「サインペン」は完璧な和製語であり、ふつうは「フェルト・ペン」としたい。

「看板屋」さんの時代は、個性とおもむきのある手書き文字がつかわれてきたが、看板がサインボードと名称が変わったころから、分業化と工業化がみられ、さまざまな機器、現代ならコンピューターを駆使して製作されている。
さらに工業化がすすみ、工業製品のひとつとなってからは、技芸家が文字部をしるすことが急激に減少し、かつての手書き文字にかわって写植活字やパソコン電子活字がもっぱらもちいられている。

そこではローマ大文字の出自、標識や記号の時代はわすれられ、ほとんどが肉厚で、キャラクターの特徴点でもあった、セリフを失った「仏:サン・セリフ、英:セリフレス・ローマン、独:グロテスクとも」の使用がもっぱらである。

この報告はⅢをもって終わる予定でいたが、近年のわが国の欧文電子活字情報には、あまりに正確な情報が乏しく、製品・商品名をもちいた企業宣伝というより、あまりに大量な、掲示板用語でいう「ステマ Stealth marketing」情報が多すぎることに気づいた。
そこで結論を急ぐことなく、読者と共に『欧文書体百花事典』「SANS SERIF  誘目性から出発し、可読性をめざして――サン・セリフ体の潮流」(組版工学研究会編、杉下城司担当 p.441-446 朗文堂)をじっくり読み込んでから、このローマ大文字をもちいたサインシステムの考察をふかめたい。
[この項つづく]

【北京空港のサインからⅡ】 字間調整と、漢字・ローマ大文字の判別性 Legibility, 誘目性 Inducibility をかんがえる

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《北京 清華大学 視覚伝達系でのスペーシングのコントロールのエクササイズ》

五月下旬、清華大学美術学院 視覚伝達系の原 博助教授、趙 健主任教授の招聘で、北京行きとなった
これまでの経験で、矩形の漢字(字、国字)、それもほとんど横組みでの表記をもちいている現代中國では、グラフィックデザイナー(平面設計士)でも字間(字と字の間隔)にたいする認識に乏しいとおもっていた。
もちろんこの字間のスペーシング認識は、日常のビジネス文書やテキスト組版におよぶものではない。

今回の訪中は視覚伝達(グラフィックデザイン)教育、それも中國有数の高度なデザイン教育の現場であるからもとめられると考えた。
この「字間のコントロール」の教育は、わが新宿私塾でも基礎をなす重要な講座と位置づけられている。
東京・北京事前に用意したのは「北京 BEIJING」、「東京 TOKYO」。おおきなサイズ 84pt. のタイムズ・ローマン体で、これをバラバラ(モノスペース)で紙に出力したものを用意した。
上掲図のうち、上部だけを課題資料としてわたし、下部のノーマルスペースにある程度スペース調整を加えたものはのちほど参考資料として提示した。

この課題用紙をもとに、単語としての「BEIJING」、「TOKYO」を組み並べる課題である。
「BEIJING」にはステム(Stem  印刷用語:幹縦線・活字書体のふとい縦線)がならび、「TOKYO」には見出し語などでは処理をせまられるカウンター(Counter 印刷用語:谷[void]、活字面の凹所)「TO,  YO」があって、その調整にまま苦慮するものである。
換言すると通常のパソコン処理でこの見出し語をそのまま(おおきなサイズ)で組むと、「BEIJIN」は詰まりすぎ、「TOKYO」はパラパラと間が抜けた状態となる。

事前に「均等なスペース」と、「均等にみえるスペース」との相違を説き、その調節の簡略なエクササイズを試みておいた。それからこの課題を提供した。
さすがに北京清華大学の学生諸君は優秀で、課題の意味と意図を即座にくみとり、パソコンをはなれ、ほとんど全員がはじめての経験となる、三角定規にかえての金属スケール、カッター、カッターマット、スプレー糊などの「道具」をもちいて、このエクササイズに取り組みはじめた。
DSC04091 DSC04102 DSC04092 DSC04103DSCN8221予想どおりというか、「BEIJIN」のうち、ステムが連続する中央部の「IJI」の処理に苦心しているようだった。
途中うしろの席の男子学生がスマホを片手におおきな声をだした。通訳を担っていただいた同大陶芸系:劉教授(東京藝術大学博士課程修了)によると、
「あの学生はですね、スマホの画面でちいさくしてみたら、字間が詰まりすぎで、ベッタベタだ~! って叫んでいますよ」
と笑われた。やつがれは「そんな テ もあったのか」と逆に感心した。

この評価にあたっては「J」のキャラクターの誕生は意外にあたらしく、それまでは子音と母音の両方をあらわしていた「I」から、16世紀ころに独立したものが「J」であることを説明した。
また「U」はもっとやっかいで、元来「U」は「V」の草書系のキャラクターであり、「U」が母音をあらわすようになる中世後期までは、「V」が母音と子音の双方をかねていた歴史もあった。
したがって欧米からの手紙などで、「U, V」をフリーハンドで書かれると、その判別に苦労することもある。
「U, V」は長年(いまなお)交換可能なキャラクターとして存在したが、1800年のイギリスの辞書ではじめて分離したかたちで表記されたものである(『トラヤヌス帝の碑文がかたる』木村雅彦、2008年11月28日 朗文堂 p.22)。

ともあれ、全角ベタ組み、矩形の漢字(字・国字)の国に、字と字のあいだのスペーシングへの配慮という、ひと粒の種子だけは置いてきた。
DSCN8089DSCN7985 2016年05月29日 北京への旅立ちを前に「BVLGARI」の広告の前で 於:羽田空港

DSCN8507北京空港のビルは、鳥瞰図としてみるとおおきなジェット機が翼をひろげたようなかたちをなしている。先の【 北京空港のサインからⅠ 】で、この空港のチェックインカウンターに「G」と「I」のカウンターが無いことを指摘した。

ここで「I」のカウンターが無いことの発見がおくれたのは、実はこの「吸烟区」のかたわらにある、巨大なサインボードの基調色が暗灰色であり、そこに重要な情報が存在することがわからなかったのが気になっていたのである。
まして、そこに白抜きで表示された、このボードの主題語ともいえる「辦理乗机手続区域指示図 Check-in Area Diagram」(漢字は簡体字)が、判別性 Legibility と、誘目性 Inducibility に乏しいことが気になっていた。
──────────
【 参考 : 朗文堂 タイポグラフィ 実践用語集 カ 行 活字書体の判断における三原則 より 】

活字書体の判断における三原則
レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ:
legibility, readability and inducibility


これらのタイポグラフィ専門用語の外来語は耳慣れないことばかもしれません。本来は活字版印刷の業界用語でしたから、一部の英和辞典や和英辞典には掲載されていないものもありますし、紹介があっても混乱しがちです。
したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極致にあります。
その結果わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばも混乱しがちです。
しかし活字書体の評価や判断にあたってはたいせつなことばです。タイポグラファなら、ぜひとも記憶していただきたいたいせつなことばです。

◎ 判別性   Legibility    レジビリティ
   活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

◎ 可読性   Readability   リーダビリティ
   文章として組まれたときの語や、文章としての活字書体の読みやすさの程度。

◎ 誘目性   Inducibility   インデューシビリティ
   視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度。

《誘目性 Inducibility 》  判別性 Legibility と 可読性 Readability はリンク先で。

英語の形容詞 Inducible =誘致[誘引]できる;誘導できる ; 帰納できるの名詞形で、名詞形の Inducibility としての初出は 1643 年のことである。
すなわち「視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度」をあらわす活字版印刷の業界用語として登場したので、和英辞書などには未紹介のものが多い。

誘目性が重視されるのは、サインボードや広告の世界が多い。空港や駅頭で、的確な情報を提供し、そこに視線を誘導することは文字設計の重要な役割である。
またポスターやカタログなどの商業広告においても、旺盛な産業資本の要請にこたえて、誘目性を重視した活字書体や印刷物が製作されてきた。

産業革命以後、この誘目性が活字書体設計でも「ディスプレー書体」などとして強く意識されるようになり、黒々とした、大きなサイズの活字が誘目性に優れているという誤解も生じた。
しかしながら、もともと「 Display 」は動物の生得的な行動のひとつで、威嚇や求愛などのために、自分を大きく見せたり、目立たせる動作や姿勢のことで、誇示・誇示行動をあらわす。

もちろん、現代では表示・展示・陳列などの意でも用いられるし、コンピュータの出力として、図形・文字などを画面に一時的に表示する装置にも用いられるが、原義とは怖ろしいもので、ディスプレー書体の多くは、誘目性を過剰に意識するあまり、あまりに太かったり、奇妙なデザインに走って、一過性の流行の中に消滅してしまったものも少なくない。
活字の世界で求められるのはいつも判別性と可読性であり、誘目性はむしろ押さえ気味にしたほうが無難なようである。すなわち、芭蕉翁にまなんで「不易流行」ということか。
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ダークグレーに白抜き文字のメーンタイトルの表示の是非はともかく、せっかく字画の整理が進んで、判別性 Legibility が向上した字(漢字・国字)による「辦理乗机手続区域指示図」(表記は簡体字)にたいして、下部の「Check-in Area Diagram」がふとく見え、しかも字間がタイトなので、ひとつの土塊のかたまりのように凝固していることが気になって仕方なかった。DSCN8507表示がデバイス任せになっているWebSiteでかたっても成果はとぼしいが、「Check-in」の箇所にみられる短いダーシュ、ハイフン?の、「k-i」のスペース、なかんずく k のうしろのアキと -i のアキが不揃いで、しかも -i の息苦しいスペースが気になって煙草どころでは無くなってしまうのである。
せめて -i のあいだにシンスペース(Thin space  薄いが原義。わずかなスペース)を置いてくれたら、このビルに一歩でも脚を踏みこんだが最後、長時間にわたる羽田空港までの禁煙地獄に陥るこの際、しみじみとおいしく煙草を味わえそうなのだ。
[この項つづく]

【北京空港のサインからⅠ】 チェックインカウンター表示 A,B,C,D,E,F,H,J,K,L あれっ! G, I はどこに ?

DSCN8499 DSCN85055月29日-6月3日にかけて北京清華大学美術学院の招聘にこたえてでかけた。
ことしから中國も喫煙にきびしくなって、吸烟区(喫煙所)以外、「屋根のある建物の下では喫煙禁止」となっている。
当然レストランやカフェも禁煙で、さらにいくぶん寛容な「分煙制 喫煙席」などは皆無なので愛煙者にはつらい。それでも街角のゴミ箱の上に灰皿があるので、途中退席・外出して一服となる。

写真は北京空港での「最後の一服」。フランス、ベルギーでのテロ事件以降、北京空港の保安チェックは厳格をきわめ、混雑のせいもあって、チェックイン、パスポートチェック、保安検査と、搭乗手続きに二時間では到底足りないほどのきびしさとなっている。
したがってここでの喫煙は暫時の妄想にふける貴重ないっときである。機内持ち込みは軽便ラーター、燐寸のたぐいはまったく禁止・厳禁であるから、「吸烟区」の付近には軽便ライターが大量に放置されている。

一服の途中で背後のカウンター案内の掲示板を見るともなくみていた。三月の下旬にもおなじ中華航空で訪中していたので、北京空港のチェックインカンターに「G」が無いことは知っていた。このことを帰国後に知人とはなしたことがあった。
「歳をとったのと、若干糖尿のケがあるので視力がおちたのか、駅や空港の案内板(サイン)で、 G と C を間違えたことがある。とくにゴシック(サンセリフ)だとわかりにくい」
別の友人はこうかたった。

「遠くからだと、大文字の B と、アラビア数字の 8 の見分けがつかないときがある。O と Q もよく間違える」

そんなことを想起しながら掲示板を A から順番に ボ~とみていたら、
「あれっ! H のあとの I アイ も無いぞ !! 」
たしかに巨大な北京空港のチェックインカウンターには、「G 列」も「I 列」もなかった。
DSCN8507 DSCN8505【 参考 : 朗文堂 タイポグラフィ 実践用語集 カ 行 活字書体の判断における三原則 より 】

活字書体の判断における三原則
レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ:
legibility, readability and inducibility


これらのタイポグラフィ専門用語の外来語は耳慣れないことばかもしれません。本来は活字版印刷の業界用語でしたから、一部の英和辞典や和英辞典には掲載されていないものもありますし、紹介があっても混乱しがちです。
したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極致にあります。
その結果わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばも混乱しがちです。
しかし活字書体の評価や判断にあたってはたいせつなことばです。タイポグラファなら、ぜひとも記憶していただきたいたいせつなことばです。

◎ 判別性   Legibility    レジビリティ
   活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

◎ 可読性   Readability   リーダビリティ
   文章として組まれたときの語や、文章としての活字書体の読みやすさの程度。

◎ 誘目性   Inducibility   インデューシビリティ
   視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度。

《 判別性 Legibility 》    可読性 Readability と 誘目性 Inducibility はリンク先で

判別性は、大文字の B 8 に見えたりするときや、大文字の I アイ、小文字の l エル、アラビア数字の 1 が混同したり、ローマ大文字 O オーとアラビア数字の 0 ゼロ が明確に判別できないときにもちいられます。
わが国では、漢字の網と綱の差異判別や、カタ仮名のロと漢字の口が混同しないように製作したり、議論するときにもちいます。
Legibility の和訳語はなかなか定着せず、従来は可視性・視認性・識別性などともされてきました。

Legibility は形容詞 legible から派生した名詞で、文字が読みやすいこと、読みやすさ、判別や識別の程度、判別性・識別性などをあらわします。活字版印刷術が創始されてから、すなわち 1679 年にその初出がみられます。
形容詞の legible は筆跡や印刷された文字が看取される、識別可能なという意味です。そのほかにも、容易に読める、読みやすいという意味で、後者の比較語(confer)としては readable があげられます。

[この項つづく]

北京清華大学美術学院からの招聘で昨週いっぱい特別講義。無事に帰国いたしました

DSCN8230DSCN8234DSCN8173ここしばらく中國(中国)とのやりとりや往復がふえている。
2016年三月下旬に 方正字庫 (FOUNDER 方正 北京大学全額出資のIT企業)と、中國美術大学の最高峰のひとつとされる 中央美術学院 の招聘で一週間の北京滞在となった。
前半の3日間は、北京大学キャンパス内、方正字庫の主催で<字体大赛 ≒ 書体大会>の国際審査員としての参加。

後半の1日は、天安門の間近にある巨大な 中國國家大劇院 に会場を移し、前日までの<字体大赛の審査結果>が、信じがたいほどのはやさながら、発表され、展示され、受賞者の表彰式があり、審査員講演がなされと、なんともあわただしく、おおがかりなイベントが続いた。
講演の一番手はやつがれ。いい訳はしたくないが諸諸あって講演は失敗だったとおもう。

最終日は大石が担当。中央美術学院の大ホールで<小型活版印刷機による印刷演習>。
ここでも 字体大赛 の審査員四名の講演もあったが、最終講演となった大石担当分は、おおきな会場に、あまりにちんまりとした小型活版印刷機での講演とエクササイズであった。
この日の大石は五時間余におよぶ講演会の最終担当とあって、企業人はさすがに退席が目立ったが、学生諸君は、もっともわかりやすく、関心があったようで過熱気味であった。

なにしろ中國は国家体勢がいくぶん異なるので、北京大学(北大と略称)、中央美術学院、方正字庫との関連性や、書体コンクールの意味性が判然としなかった。
もちろん会場の知人にこの関連性を質問したが、「これが中國です」とかわされてしまった。
また一週間というもの、連日連夜の懇親会(大宴会)がつづき、下戸のやつがれにはかなりこたえた。
この三月下旬の喧噪にみちた訪中報告は、気持ちと情報の整理がつかないまま、いまなお実現していない。
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五月上旬は<Viva la 活版 ばってん 長崎>で長崎に全力投球であった。
そして五月下旬、清華大学美術学院の招聘で、また北京行きとなった。
もともと、この
の招聘は本コーナーでもお馴染みの、清華大学美術学院視覚伝達系の原 博(Yuan Bo)助教授のお招きで、昨年の暮れにはスケジュールが決定していた。
したがって北京大学系のイベントへの突然の招聘は、多分に清華大学行きを聞きつけての決定ともおもわれた。

ともあれ北京大学系のときは、連日連夜の宴会でとても疲労した。
ところが清華大学は原博先生はもちろん、主任教授の趙 健教授とも親しかったので、意志の疎通はスムーズで、夜は到着初日の歓迎会以外はほおっておいてくれるので助かった。

月・火・水と講義がつづいた。どこで聞きつけるのか知らないが、学内正規授業に位置づけられているのに、清華大学の学生だけでなく、中央美術学院、印刷大学ほかの大学の教授、学生、IT 系企業人も講義に参加していた。
三日間とも受講者は50-60名。集合写真を呼びかけ 「日本の WebSite にアップしますよ~」 といったら、女子学生を中心にキャッキャと逃げていった。いずこもおなじ学生諸君であった。 DSCN8089ホテルは同大内・指定の「甲所」。ここは広大なキャンパスの中央部に位置し、おもに招聘教師たちが宿泊する森の中の簡素なホテル。
留学生など短期滞在の学生は真向かいにある「丙所」を利用するようだが、カフェ兼レストランは教師陣と学生との共有で「甲所」にあるので、活気と国際色に満ちており、また中國の大学では卒業式を間近にひかえており、にぎやかだった。

わたしたちももっぱらこの「甲所餐庁 甲所レストラン」で朝食をとり、お茶・食事・懇談などをかわした。つまりキャンパスからほとんど出なかったが、ともかく無事終了でひと安心。 DSCN8137 DSCN8118 DSCN8152 DSCN8165 DSCN8056上掲写真の白い彫刻は原 博(Yuan Bo)先生のご主人にして、同校教授の陳 輝(Chen Hui)先生の作品。その後方に美術学院棟が四棟ならんでいる。キャンパス案内では、指定ホテル「甲所」からはここまで徒歩25分だが、やつがれには無限に遠い場所だった。

講義には方正字庫のスタッフも3名ほど参加していた。かれらは朗文堂のWebSiteをみているようで、なぜ報告記事が掲載されないのかとただされた。つまりすごいことだと報告しろと迫られた。ところがやつがれは実感無し。方正字庫のときも、清華大学のときも、いつもと、つまり新宿私塾と同じですから。 DSC04193しばらくしたら、原博先生から当日の写真データーを受領・紹介しますが、それまでのあいだ、下掲の記事は、前回も、今回も、連日参加されていた、中央美術学院の刘 釗(Liu Zhao 上掲写真右端)教授のブログサイトをご紹介。
刘女史は大石の講座を間近にみるのははじめてとあって、活版エクササイズには夢中でとり組まれていたので、その紹介は遅れ気味らしい。
刘女史のおはなしでは、このサイトには一日5,000件以上のヒットがあるそうです。
よろしければご笑覧を。結構笑えますよ。中国までいって恥をかくなよ ト。
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◯05月29日[日] 羽田発、北京入り。
◯05月30日[月] 北京清華大学美術学院 第一講座
学科長:趙 健先生挨拶、片塩講義大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi4u.html
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6f.html
◯05月31日[火] 北京清華大学美術学院 第二講座
原 博(Yuan Bo)先生挨拶 終日大石担当日 活版演習
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wi6m.html
◯06月01日[水] 北京清華大学美術学院 第三講座
原 博(Gen Bo)先生挨拶、 片塩講義、大石担当でエクササイズ
http://blog.sina.com.cn/s/blog_55714a910102wil7.htm

長崎報告とあわせ、北京報告もお楽しみに。   朗文堂  片塩二朗  大石 薫

【展覧会】 創流90周年記念 草月いけばな展 <造形る!変化る!>

http://www.sogetsu.or.jp/event/2016shinjuku.jpg20160525170129538_0002
草月いけばな展 「造形イケる!変化イケる!」

創流90周年皮切りの本部主催展となる本展では、約300名の作家達が集い、創流の精神のもと植物に想いを解き放ちます。
会場は個人エリアと、合作エリアの2部で構成されます。
合作エリアは、「いけばな展の概念にとらわれない」をコンセプトに、通常の展覧会に見られるような花席を設定せずに、個々の発想を重視しています。
大きさも形も違うこれら全ての作品を、家元が受け止めて、作品が互いに共鳴しあうひとつの空間へ導いています。
新たな試み、挑戦ともいえる本展を皆様に是非ご覧頂きたく、ご来場を心よりお待ち申し上げます。
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◯ 会  場  新宿髙島屋 11階催会場
◯ 会  期  2016年6月2日[木]― 7日[火] 午前10時→午後8時
前期:6月2日(木)→4日(土) 後期:6月5日(日)→7日(火)
※前後期で作品が入れ替わります。詳細参照。
◯ 監  修    勅使河原 茜(草月流家元)
◯ 入場料    前売券¥700(税込) 当日券¥800(税込) ※15歳以下の方は無料

 【詳細 草月ニュース

【良書紹介】 渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か十八銀行:松田源五郎

 

20160520212058459_0001渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営
著者名 |水尾順一  田中宏司  蟻生俊夫 編著
判  型    | 四六判   頁数 260ページ
定   価   | 1,944円(本体1,800円+税)
ISBN 9784496051975          第1刷 2016年05月01日

「論語と算盤」にはその理念が次のように述べられている。 「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」 この理念のもと、ともすれば失われてしまいがちな企業の社会的責任について、現在の経営を根本から見直す。
【 詳細 同友館 OnLine
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{ 新宿餘談 } 長崎タイトル長崎では印刷界でも機械製造界でも、同市出身の平野富二が語られることはほとんどなく、活版印刷なら本木昌造が、機器製造なら岩崎弥太郎だけだと周囲にお伝えしてきた。
今回<Viva la 活版 ばってん 長崎>に各地から訪崎された皆さんは、その実態を眼前にして、やはり驚かれたようであった。

その逆に、三菱重工業長崎造船所(ながせん)の関係者で、懇親会に参加されたかたは、 「今回のみなさんは、平野富二さんに詳しくて、お好きですね~」 といささか呆れていた。

『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』 第11章 「算盤勘定だけでない企業経営/IHI」 の執筆者は、IHI 執行役員の水本伸子氏により、渋沢栄一が手がけた多くの事業の一環として IHI の事績を14ページにわたって、とてもわかりやすく、簡潔にまとめている。 とりわけ注目されたのは、
3. 渋沢栄一の貢献  (2) 最初の株主  であった。 

「有限責任石川島造船所」設立の1889(明治22)年、資本総額は17万5000円(1株100円)株主数は17人で計1750株だった。会社創立時の株主名簿は現存していないが、3年目の株主とその持ち株数が第3次営業報告に載っている(図表11-1)。渋沢、平野、梅浦、西園寺の4名は設立時委員を務めた。

図表11-1 最初の株主と持ち株数 (第3次営業報告書[明治25年]記載)
渋沢  栄一  400株
平野  富二  389株
松田源五郎  270株
田仲  永昌  250株
西園寺公成  150株
梅浦  精一  130株

渋沢栄一はともかく、またのちに同社社長となった梅浦精一のことは若干の知識があったが、ここに第三位の株主として、長崎十八銀行第二代頭取にして「長崎の渋沢といわれた人物」が登場することに興味をひかれた。 松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影たまたま小社に松田源五郎の外戚で、玄孫にあたられるかた(松尾 巌氏)が来社され、明治10年の松田源五郎の肖像写真(撮影:上野彦馬)を提供していただいた。
解像度は低いが一般公開はこれがはじめてとなるようである。

上野彦馬の台紙にみる「明治10年内国勧業博覧会」、このとき松田源五郎36-7歳。
この博覧会は、前年に新設された十八銀行支配人(のち第二代頭取・衆議院議員)松田源五郎が企画したもので、西南戦争の大混乱のさなかに、長崎諏訪公園のいわゆる丸馬場を会場として開催されたものである。

平野富二の創建による「石川島(平野)造船所」が、規模の拡大とともに資金需要がまし、渋沢栄一の助言と支援を得て「有限責任石川島造船所」(現 IHI )となった。
その筆頭株主は第一銀行頭取・渋沢栄一であり、第三位の株主として長崎の十八銀行頭取・松田源五郎が記録に登場するのは、この写真から15年ほどのちのことになる。 松田源五郎立像 戦前 長崎商工会議所 14-4-49353この諏訪公園丸馬場に、戦前は巨大な松田源五郎の立像があった。
この像はならびたっていた「本木昌造座像」とともに戦時供出されたために、いまはいくぶん小ぶりの胸像が設置されている。

この松田源五郎を〝ふうけもん〟と評した人物、長崎新聞に長く勤務した増永 驍がいた。
〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿を意味する。いずれ詳細を紹介するが、おなじ馬鹿でも、もうすこし愛嬌のある馬鹿のことである。

増永は〝ふうけもん〟の本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)を配し、同名の小説『ふうけもん』をのこした。
たしかに紹介した写真をみても、冷徹な銀行人というより、長崎人に多い面長で、瞳は好奇心にあふれ、わんぱく坊主がそのまま成長したような風貌にもみえる。

また十八銀行は松田源五郎のころから平野富二の活字版製造(東京築地活版製造所)を終始支援し、同社の取締役にも就任している。
のちにも松田精一(十八銀行第五代頭取、衆議院議員)は、東京築地活版製造所の第五代社長も兼任していたほどの密接な関係にあった。

そのためもあり、すこし松田源五郎と十八銀行にこだわってみたいとおもっていた。そこで昨週末本書を読了した。
読者諸賢に、もっともソロバン勘定の苦手なやつがれが、『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』をお勧めするゆえんである。