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インキローラー鋳型とその鋳込み法-欧文印刷の権威:小宮山清さんからお便りがありました

長崎タイトルDSC03576 DSC03579 DSC03586小宮山清氏。昭和6年2月26日うまれ。[1]インキローラー鋳型とその鋳込み法-Ink roller mould & ink roller casting

活版 à la carte : 2016年05月19日}に欧文印刷の大ベテラン:小宮山印刷工業の小宮山清さんからお便りを頂戴した。
小宮山さんは{Viva la 活版 ばってん 長崎}にご夫妻で参加され、{崎陽長崎・活版さるく}には最長老のおひとりだったが、終始若者にまじって、きつい坂道もものともせず行動をともにされていた。

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。会長だの顧問といった肩書きに類するものはまったくない。
ところが小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  8?歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関して、わが国有数の知識と経験を有されている。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね*020
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[小宮山 清]
今回の長崎では貴重な物、珍しいところ、存分満喫させて頂きました。

会期終了の次の日に「日本二十六聖人殉教地(西坂公園)」の記念館に寄ってきました。宮田和夫様に長時間ご案内していただき申し訳なかったです。 特に上智大学(イエスズ会)のことで共通の話題などがありました。  

帰りがけに記念館のショップで、雑誌「楽」を買ってきました。 本木昌造、平野富二、二十六聖人のことが書かれてまして。今回の旅行のためのようでしたが、宮田さんがこれを執筆されたのは2012年の発行なのでびっくりしました。
戦前派には欠かせない「原爆資料館」にも行ってきました。本当に楽しい旅行でした。 有難うございました。

ローラー鋳型の写真   20160523222018610_0001 20160523222018610_0002 20160523222018610_0003 20160523222018610_0004『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』 (活版製造所 平野富二 伝明治10年版 平野ホール蔵) p.102 右肩にインキローラー鋳型が MOULD とされている図版記録をみる

最近の朗文堂のブログで見たのですが、インキをつけるローラーの鋳型のことです。
これはとても貴重な写真です。
わたしの手もとには見当たらないので、
よろしかったら、この写真のデーターを送って頂きたいのですが。  

これはわが家にもありましたが、戦前にテキンを購入すると附属品としてついてくるものでした。戦前のインキローラーは、ゴムではなく「にかわ」でした。夏になると印刷中にとけてしまってとても大変でした。
戦前でも勿論ローラー屋さんがあって「たき替え」をしてもらいました。 古いローラーをもう一度「煮なおし」て、各印刷屋に届ける商売です、ローラー屋さんの工場の中は湯気でもうもうでした。

戦後の復興にあたり、わが家でも昭和22年にまたテキンを設備しましたが、ローラー屋さんがまだ再開していなかったので、「にかわ」を買ってきて、テキンと一緒についてきたローラー鋳型でローラーを作って印刷したりしました。  

私事ですが、山の会の友人で印刷用ローラーを作っている知人に、昔は「にかわ」を使って印刷のロールを作っていた事を話した事があります。 この写真を見たとき、これは、どうしてもその知人(『ゴム工業便覧』1,300ページの図書の著者)に、この写真を見せなければと思い、このメールを書いた次第です。

{Viva la 活版 ばってん 長崎}13 新町活版所・境賢治と 貴重資料 インキローラー鋳型 Ink roller mould

長崎タイトル

2-1-49043 32-1-49545-2<Viva la 活版 ばってん 長崎>主会場となった長崎県印刷会館に、長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が明治期に使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が所蔵されている。
きわめて貴重なものではあるが、平素は収蔵庫のなかにしまわれている。今回のイベントに際し、これも貴重品の同館所蔵の「アルビオン型手引き印刷機」二台とあわせ、主会場中央に展示した。

設営日に一時間ほどをかけて清拭し、機械油で注油もして、脇には日吉洋人氏製作のB4判の解説パネルもおいて展示したが、なにぶん今回はコンテンツが多すぎて、この一見地味な機具はあまり注目はされなかったようである。
なにより会場写真として「インキローラー鋳型 Ink roller mould」をアップして撮影した資料はまだ手もとには到着していないのが現状である。したがって「インキローラー鋳型 Ink roller mould」の写真紹介は、前日に収蔵庫にあったときのものを紹介する。
総鉄製で重量は20キログラムほど、重厚感と迫力のあるものである。
DSC03576 DSC03579 DSC03586  インキローラー鋳型1030949

インキローラー鋳型とその鋳込み法
Ink roller mould & ink roller casting

【 roller casting 】  Walzenguss
膠ローラーの鋳込み。インキローラー鋳型(mould)は、円筒状もしくは半円筒状のものを合わせて円筒にしたもので、この筒孔の中心に鉄心棒(roller stock)をたてて、液状のローラー材料(roller composition)の融解せるものを流しこんだり、圧搾空気で注入してインキローラーを製作する。いずれの方法によるも、表面に気泡の生ぜざるように注意するを要す。
『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)

このように、翻訳書としてインキローラー鋳型とその鋳込み法(Ink roller mould & ink roller casting)を解説した『英和 印刷-書誌百科辞典』(日本印刷学会、昭和13年1月15日、印刷雑誌社)は、現在はいわゆる『印刷辞典』の第一版とみなされている。

ところが、第二版以降は、この項目は省略されて第五版にいたっている。
すなわち明治の末ころになるとインキローラー専門の工場が誕生し、一般にはこの機器の解説が不用となったためのようである。
機器や技術の変転がはげしかった「印刷」をつづった『印刷辞典』には、版を重ねるごとに、このようにふるい機器や技術の記載は、仕方がないとはいえもれている事例が多い。

インキローラー(ink roller)は、印刷インキを練ったり、印刷版面にインキをつけたりするための丸棒である。活字版印刷では、ふるくは皮革製のインキボール(タンポとも)をもちい、近年ではニカワ製のインキローラーが多くもちいられてきた。印刷の品質に関わる重要な機材のひとつである。

67現在では一定の耐久性のあるゴム製ローラー、合成樹脂製ローラーが多く使われている。明治中期ころのニカワローラーは7-10日ぐらいで摩耗・劣化がみられ、職人がみずから「巻きなおし(たき替え・煮なおし)」作業にあたっていたとされる。
日日の清拭作業、使用状況と保存状況によるが、いまでも、ときおりは鉄心棒(ローラー軸)と両端のコロを添えてローラー専門工場に依頼し、「巻きなおし」作業が必要になる。
この作業は「養生」を含めて相当の日数を要するため、本格印刷工場ではインキローラーをはじめから交換用予備を含めて複数セットを設備することが多い。

現在ではインキローラー専門の製造・巻きなおし工場も充実している。そこでは耐久性にすぐれたゴムローラーの製造がほとんどで、まれに簡便な樹脂ローラーをみるが、かつては臭気がつよい天然ニカワ(膠)をもちいて、作業者自身が煩瑣な「インキローラー(境賢治は肉棒としるしている)巻きなおし」を頻繁に実施していた。

境 賢治長崎新町活版所の境 賢治(1844-?)が使用していたとされる「インキローラー鋳型 Ink roller mould」が長崎県印刷工業組合に所蔵されている。 またその鋳込み法(ink roller casting)に関する記録が『本邦活版開拓者の苦心』にみられるので紹介する。

我が国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所
境 賢治氏 ── 煮方の秘奥を公開す ──

膠ローラーに就いては、今日尚、研究している人が多いくらいであるから、明治初期の関係者が如何に多くの苦心をこれに費やしたかは恐らく想像外であろう。本木[昌造]先生の創設された新町活版所に在って霊腕ママを振るっていた境賢治氏は、明治十年頃から、膠に色々の物を混合して、ローラーの耐久力に関する研究をしていたものである。

明治二十三年になって、其当時としては稍稍理想的なるものを発見することが出来たと云うから、研究にだけ(でも)十何年かを要したことになる。
然るにこの尊い経験を惜しげもなく一般に公開したのであるから、昔のひとは流石に寛容で恬淡で何となく大きいところがあったように思う。
[境賢治]氏の経歴其の他に就いては、調査未了なまま惜しくも省略して、此処には単に氏が公開した肉棒煮方秘訣の一文を記載することにした。

拝啓 ローラーの煮き方に就いては、貴所も随分御苦心致し居られ候も、今回当所にては、肉棒を練るに塩を少々宛入れて練り、殆ど一ヶ年間試験を致し見候処、暑寒により塩を増減し、冬分は膠八斤一釜に塩十六匁を加えて煮き、夏は塩四匁、此割合を用いれば肉棒堅くなること普通法より長く日数を保つのみならず、煮直しをなす時にも早く砕くるに付、其利益莫大なり、最も之は昨春以来当所に於て試験の成績に有之候故宜敷御心懸御実験可然と奉存候。其煮直しにも是迄十日間保つものは十五日間位は必ず差支無之候間兎も角御実験可然と奉存候。
二白 砂糖蜜又は蜂蜜は是迄の如く膠に加え候上に塩を加う事に御座候。
明治二十四年五月
長崎新町活版所  境    賢  治
「わが国初期の肉棒研究者 長崎新町活版所 境 賢治氏-煮方の秘奥を公開す-」 『本邦活版開拓者の苦心』 (伝三谷幸吉執筆、津田伊三郎編、津田三省堂、昭和9年11月25日、p.171-172)

このように境賢治の記録を『本邦活版開拓者の苦心』(昭和9年)にのこした三谷幸吉は、境賢治とは面識がなかったとみられ、半世紀余も以前の、たれに向けたのか判然としない境賢治の書簡を紹介するのにとどまっている。
長崎の新町活版所は、おおくの逸材が大阪・横浜・東京へとあいついで去り、新街私塾(新町私塾)関係者としてはひとり境賢治が孤塁をまもっていた。
ちなみに文末の「二白」は追伸と同義である。

 この新町活版所の孤塁を守りつづけたとされる境賢治に関する記録はすくない。
このすくない記録を整理すると、境賢治は1844年(弘化元)にうまれ、明治帝の最末期に贈位にもれたひとを詮議した1911年(明治44)には67-68歳で健在であったようである。
またこの世代の長崎印刷人の多くは新町私塾の終了生であったが、境賢治は塾生としての記録は見ない人物である。

わずかに『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 朗文堂 p.353)に肖像写真と以下のような記録をみる。
境 賢治20160519202753637_0001

 

 

 

 

 


本木昌造御贈位の詮議があった明治四四年(1911)のころには、長崎在住のおおかたの本木昌造の友人や子弟は物故していたが、高見松太郎(新町私塾出身 貿易商)、岡本市蔵(新町私塾出身、同塾会計掛をつとめた。長寿をたもち反物商)、立花照夫(新町私塾出身、長崎諏訪神社宮司)の三氏が健在で、ほかにはわずかに長崎新町活版所の境賢治(1844-?)が長命をたもっていた。したがって本木昌造の事績調査は主としてこの四名がその任をつとめたのである。

《活字組版術に長けたひと 長崎新町活版所/境賢治による『聖教歴史指南 完』》
本木昌造一門のうち活版印刷術の技術者の多くは、紙幣寮(印刷局)、大阪活版製造所、東京築地活版製造所などに旅立ったが、長崎に残留したのが境賢治であった。

境賢治がのこした印刷物は『長崎新聞』(初代)、『西海新聞』などの新聞印刷のほかにも数点しられるが、『長崎古今学芸書画博覧』(西道仙 海人艸舎蔵版 明治13年 新町活版製造所)、『書画雑記』(筆記幷出版人・西省吾 肥前長崎区酒屋町51番戸 西道仙か?)など大判の枚葉印刷物も多い。すなわち明治12年頃の新町活版所には、手引き印刷機ではなく、相当大型の円圧シリンダー型の印刷機があったと想像されるのである。

 ここに紹介したのは冊子本で『聖教歴史指南 完』(米国聖教書類会社蔵版 明治17年5月)である。「聖教」はキリスト教の意であり、また聖書をも意味した。
最終ページには、振り仮名(ルビ)以外にはあまり使用例をみない「七号明朝活字」字間二分アキで、
「 印 行 長 崎 新 町 活 版 所 」
とちいさくしるしている。
聖教歴史指南 表紙 聖教歴史指南扉 (この項つづく)

{Viva la 活版 ばってん 長崎}12 ことしは平野富二生誕170周年、タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。
平野富二
<平野富二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町司(町使)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。
16歳長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。
1872年(明治05)婚姻とともに引地町をでて外浦町に平野家を再興。平野富二と改名届出。同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)など、在京わずか20年でわが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用して、活字品質と鋳造速度の向上をはかり、東京進出直後から、在京活字鋳造業者を圧倒した。
federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]三階主会場には平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出されていた。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、福地櫻痴筆とされる)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391また平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋さんで、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。今回は家祖の出身地長崎にきて、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。
1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize下掲写真は平野富二生誕地、長崎町司「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)である。
{5月7日 崎陽長崎・活版さるく}参加者のみなさんとの記念写真となった。
今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、{活版さるく}で皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
上写真/懇親会会場入口にて 右) 山本太郎さん 左) 日吉洋人さん  横島大地さん撮影
下写真/受付業務担当日の横島大地さん、松尾愛子さん  ほか日吉洋人さん提供写真
横島撮
DSCN7306
DSCN74231030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会

年越しの古株からトロロアオイの花が咲きました

この種子のもとは2009年05月に、都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいた数株の苗にはじまった。
トロロアオイの花。2013.10その年の暮れからアダナプレス倶楽部の会員の皆さんに種子を配布してきたが、何人ものかたが単年に終わらせず、もう3回も同じ茎からトロロアオイの開花をみているそうである。

昨年早春、ビルの保守工事で、煉瓦をつんでつくった手づくりの「空中花壇」が、お気に入りの「ロダンの椅子」ともどもそっくり破壊されてしまった。

ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな

正岡子規(俳人・歌人 1867-1902)「小園の記」より

「空中庭園」には、子規庵の庭園さながら、雑多の艸艸がそだっており、煉瓦の裏側には野バトの巣もあった。工事がおわったあと、寒寒としたベランダになったままきょうにいたる。
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例年3月下旬に黒ポットにトロロアオイの種を播き、その2-3本を定植して花を楽しんできた。昨春は黒ポットも無くなっていたので、卵のパックに播種をしたが発芽段間で失敗したので、晩春に植木鉢に種子を直まきして成長をみまもった。
とろろあおい播種 DSCN7232密植しすぎて育ちはわるかった。しかも開花期に国外にでかけていて、報告の機会を失した。
ろくに肥料もやらず、鉢をそのままにしておいたら、04月下旬に花をつけた。例年に比ぶべくもない小ぶりな花だったがうれしかった。ほかにも花芽をつけていたので、あわてて液肥を購入してつぎの開花をまっている。
どうじに種子がたくさん残っているので、もう一鉢にトロロアオイを播いた。どんな花をつけてくれるかたのしみにしている。

【 関連情報 : 花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち 2013年10月09日

 

新書体『元朝体 志安』発売/欣喜堂:今田欣一製作、白井敬尚形成事務所:パッケージ平面設計、朗文堂:発売 電子活字シリーズの記録

この<花筏>の図版はスライドショーでもご覧いただけます。

金属活字が、写植活字時代をへて、いつのまにか電子活字(デジタルタイプ、フォント)となってひさしい。電子活字時代になってからもフォーマットの変化はつづいた。ビットマップ、トゥルータイプ、オープンタイプと変化のあゆみはとどまることをしらない。

そしてこれもまたいつのまにか、活字は Type としての物体性を失い、デジタルデータの一種となって、定まったカタチ Type がないまま、流通し、販売され、デジタル機器などによってもちいられる時代となった。ひとはこれを「フォントのダウンロード方式」などと呼ぶ。
和字Revision9

欣喜堂 : 今田欣一製作、白井敬尚形成事務所 : パッケージデザイン、朗文堂 : 発売による電子活字シリーズの最初は、2002年08月発売開始の<和字 Revision 9>であった。
「和字」とはひら仮名とカタ仮名の集合であり、「漢字」の対語である。これは今田氏の提唱による呼称で、これらの記録は『挑戦的和字の復刻』(Vignette 05、今田欣一、2002年7月23日)に詳細にのこされている。
銘石B

いっぽう漢字・和字・欧字を含んだ書体を「総合書体」と呼んでいる。
総合書体<HUMAN Sans Serif  銘石 B>は<和字 Revision 9>の発売から10年余ののち、2012年03月の発売であった。
この間、当初のトゥルータイプからオープンタイプにフォーマット変更があり、ユーザーにむけて「パッケージを提示していただければ新フォーマット版に無償交換」という、大胆な試みができたのも、実体のあるパッケージの存在がおおきかった。

総合書体<HUMAN Sans Serif  銘石 B>の発売から四年余ののち、すなわち2016年05月末、いつものスタッフで、次の書体、「元朝体 志安」が完成し、本格発売がまもなくはじまろうとしている。
そんな「元朝体 志安」のプロジェクトに集中しているいま、あらためて考えると15年ほどの期間、この三者協力態勢がつづいてきたことに驚かされる。その記録の意を含め、ここに<朗文堂・欣喜堂シリーズ>を、順不同ながら、総合書体、和字書体の全15パッケージの紹介をしたい。
また朗文堂では、簡略ながらプリントメディアで『robundo type cosumique』、『robundo book cosmique』を製作している。ご請求いただけたら幸甚である。

《 総合書体 》
元朝体パッケ表1 元朝体ロゴ

銘石B 龍爪パッケ 正調明朝体 正調明朝体B 清朝官刻体

《 和字書体 》
基本 CMYK 和字たおやめ7 和字ますらお9 和字おゝことのは9 和字おゝくれたけ9 和字Tradition9 和字Succession9 和字Ambition9 和字Revision9

【会員情報】 仙台の只野俊裕さん、「本作り相談所 蕃山房」を開設して活躍中

20160411130310293_0001 20160411130310293_0002ふるい友人の只野俊裕さんから、著作{「ゼッケル文庫」に見る16世紀の金属活字版印刷術の様相-装飾大文字の変遷と進化-}『東北大学附属図書館調査年報 第3号』(東北大学附属図書館、平成28年3月30日)をご恵送いただいた。

只野さんは、仙台の 笹木出版印刷株式会社 に長年勤務され、取締役営業部部長をもって停年退職された。同社はタイポグラフィに積極的な企業で、欧文活字字道鋳植機(いわゆるモノタイプ)のわが国初導入企業とされ、また「陶活字」を追試・試作して、社内に「笹っぱ活字館」をもうけるなどしていた。
同社創立90年に際し、<花筏 タイポグラフィあのねのね*20 2012年05月19日>に関連記事があるのでご覧いただきたい。

勤務時代はタイポグラフィ学会にも所属され、しばしば上京されていたのでお会いする機会も多かった。最近はお会いする機会が減ったが、なにぶん図書づくりが大好きな只野さんゆえ、退職後も「本作り相談所 蕃山房」を開設して活躍しているようである。
ご本人から消息をうかがったので紹介したい。
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私は2011年(東日本大震災の年)9月に笹氣出版印刷を退社しました。
現在は週に三日だけ相談役として顔を出しています。
主には「本づくり相談所 蕃山房」と号して、震災復興に関する出版や
書籍の制作に携わる事業を行っています。
そしてもう一つが東北大学附属図書館協力研究員としての活動です。
東北大学附属図書館のゼッケル文庫は宝の山です。
このことはまたお話しする機会があるかもしれません。

退職後はのんびりとやって行こうと思っていましたが、
東日本大震災(地震被害、津波被害、原発被害)の現場に生きている身としては、
そうは参りませんでした。
突き動かされるように、印刷の力による震災復興に微力を尽くしたいと願って
活動しています。

詳細は蕃山房ホームページ http://banzanbou.com/ をご覧ください。
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蕃  山  房  只野俊裕
本づくり相談所(企画・編集・制作・出版)
〒989-3126  仙台市青葉区落合一丁目4-8

電話 兼 FAX : 022-778-8679
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【講演会】 会員:真田幸治さんが泉鏡花記念会で「雪岱文字―春陽堂版『鏡花全集』を中心に」講演の報告

08学会誌_平

20160411130506209_0002 20160411130506209_0003489[1]タイポグラフィ学会、アダナ・プレス倶楽部会員(B級グルメ担当とも)、真田幸文堂・真田幸治さんが、論文「雪岱文字の誕生 ―― 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ」『タイポグラフィ学会誌』(2015年09月30日)を発表され、それを契機として金沢市「泉鏡花記念館」で関連講座が開催されました。その報告をご紹介いたします。

【『タイポグラフィ学会誌08号』論文】
論文 : 真田幸治「「雪岱セッタイ文字」の誕生 ── 春陽堂版『鏡花全集』のタイポグラフィ」
論文の概要
装幀家、挿絵画家などとして再評価著しい小村雪岱であるが、その評価は主に泉鏡花の著書の意匠によるものだ。

しかしながら「雪岱文字」が大きな役割を担っていたという事実は知られていない。
それは資生堂のロゴにおいても大きく寄与している。そして春陽堂版『鏡花全集』の装幀において「雪岱文字」はひとつの完成を見る。
本論では「雪岱文字」が、どのように誕生し展開されていったのかを考察する。

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泉鏡花記念館 企画展「鏡花本 装幀の美―清方・英朋・雪岱」関連講座
雪岱文字 ― 春陽堂版『鏡花全集』を中心に
◯ 講 師  真田幸治(装幀家・タイポグラフィ学会会員)
◯ 日 時  平成28年4月16日(土) 13:30-15:00
◯ 会 場  泉鏡花記念館 講座室
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image1 image2 image3{真田幸文堂 真田幸治さんのコメント}
金沢・泉鏡花記念会での講演「雪岱文字 ― 春陽堂版『鏡花全集』を中心に」、無事に終了しました! 手応えもあったと思います! そして、いまは帰京の車中です。
食の方はとても美味でした。とくに本日の寿司がまた当たり! とてもとても美味しかったです。
添付の画像は新聞記事のコピーと、寿司屋のネタです(万寿貝とノドグロ)。

【一周忌にあたり再掲載】 タイポグラファ群像 008* いちずに本木昌造顕彰にはげんだひと 阿津坂 實

本稿初出は2015年09月28日であったが、一周忌にあたり再掲載した。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_03近代活版印刷術発祥地のひとつ、長崎にうまれた阿津坂 實(あつさか みのる)氏は、徴兵検査にさいし胸部疾患が疑われて軍隊への召集を免れた。その後は療養につとめ、また地元の印刷企業に勤務していた。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)08月09日、長崎へ原子爆弾が投下され、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち、およそ7万4千人が死没、建物はおよそ36%が全焼または全半壊した。

原爆は長崎市浦上地区の中央で爆発してこの地区を壊滅させた。しかしながら浦上地区は、長崎市の中心部からは 3 kmほど離れていたことと、平坦地の広島市の場合と異なり、金比羅山など多くの山や丘による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて、市域中央部での被害は比較的軽微であった。
また県や市の行政機能も全滅を免れていた。
それでも長年にわたり、原爆による後遺症は長崎市民におもくのしかかっていた。
阿津坂氏は原爆被害に関して論及することは少なかったが、被爆者手帳の所持者であり、戦争を憎み、平和を希求することに篤かった。

戦後の復興が急がれた長崎県であったが、県都長崎市の原爆被害もあって復興は難航した。そのなかで阿津坂實氏は1947年(昭和22)08月、長崎県印刷工業協同組合に入組し、1956年(昭和31)併設された長崎県印刷工業組合と双方の、事務局員、事務長、専務理事などを歴任し、1988年(昭和65)依願退職するまでの40数年余にわたってその任にあった。
その後も両組合の相談役として、長崎県と長崎市の印刷業界におおきな影響をのこし、2013三年(平成25)にすべての役職から退任した。
2015.9.19学会レクチャー_ページ_08 2015.9.19学会レクチャー_ページ_06阿津坂實氏が、印刷業の祖、郷土の偉人として本木昌造をつよく意識したのは、長崎県印刷工業協同組合に入組してからまもなくのことである。
まず戦争末期に金属供出令で失われていた本木昌造の銅像(座像)を再建するために、1953年(昭和28)本木昌造銅像再建運動を事務方として開始し、はやくも翌年に、ところもおなじ諏訪公園に本木昌造銅像(立像)が再建された。
1968年(昭和43)長崎県印刷工業協同組合、長崎県印刷工業組合の双方の事務長に就任し、1972年(昭和47)専務理事に就任した阿津坂氏は、長崎県中小企業団体中央協議会、長崎県商工会議所などからさまざまな事業の委嘱をうけての活動も目立っていた。
また中小企業庁長官賞、長崎県知事表彰などの賞歴をかさねたのもこの時期である。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_04 2015.9.19学会レクチャー_ページ_05 2015.9.19学会レクチャー_ページ_09タイポグラフィ研究と印刷史研究は、首都東京では、三谷幸吉、川田久長、牧治三郎らによって、戦前から一定の規模ですすんでいたが、長崎では長崎学・郷土史家の、古賀十二郎、渡辺庫輔、田栗奎作らが、幕末から明治初期の長崎の状況の一環として、わずかに触れる程度にとどまり、印刷と活字関連、機械製造の資料の発掘は滞りがちであった。
阿津坂氏は長崎の各地に収蔵されていたこれらのタイポグラフィ関連資料を再発掘し、目録を製作するとともに、それを広く公開して、『長崎印刷組合史』、『長崎印刷百年史』の編纂をはじめ、『東京の印刷百年史』、『大阪印刷百年史』、『多摩の印刷史』など、各地の印刷組合や印刷企業の年史編纂のために、活字版印刷揺籃の地・長崎の資料を提供し、また後続の研究者にも積極的な情報提供と支援をつづけた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_02あわせて長崎各所にあった、活字版印刷の揺籃期の事業と施設を再検証し、「本木昌造生家跡碑」、「活版伝習所跡碑」、「新町私塾跡碑」、「福地櫻痴生誕地碑」などの建立をめざしての活躍も目立った。
また、本木昌造旧宅が取りこわされることになったとき、大学の建築学部に依頼して、詳細な実測図を論文としてのこすことにも協力をおしまたかったし、桜井孝三氏とともに、八丈島に現地調査にでかけ、本木昌造/平野富二らの漂着地が、それまで通説となっていた「相川浦」ではなく、「藍ヶ江」であることを発表した。

「本木昌造没後百年供養」を契機として、1975年(昭和50)長崎に戦前からあった「本木昌造頌徳会」を改組改称して「本木昌造顕彰会」を創設することにも尽力した。
この「本木昌造顕彰会」と株式会社モリサワが母体となって「本木昌造活字復元プロジェクト」が開始された。 このプロジェクトは長期間におよび、当時の長崎県印刷工業組合理事長/内田信康氏、後進の長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏らとともに、阿津坂實氏も「NPO法人 近代印刷活字文化保存会」にあって陰助をかさね、
その成果は『日本の近代活字-本木昌造とその周辺』、『活字文明開化-本木昌造が築いた近代』の、あたらしい視座にもとづいた二冊の図書に結実した。

阿津坂實氏は長崎県印刷工業協同組合での勤務のかたわら、多趣味のひととしても知られ、自慢の調理の腕をいかして、長崎駅前に「中華料理店・飛龍園」を一家で営むいっぽう、生花の師範としてもおおくの子弟の育成にあたった。
家庭には長男・貴和、田中家に嫁した長女・三重 ミツエ、次女・邦子の一男二女をなし、長女の没後にはふたりの孫娘(田中裕子・田中恵子)も手もとに引き取って養育にあたった。
晩年はさすがに車椅子に頼ることがふえたが、家庭と店頭にはみずから活けた生花を欠かさず、デイケア・サービスではカラオケに興じた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_102007年(平成19)<活版ルネサンス>を標榜して「朗文堂アダナ・プレス倶楽部」が始動し、翌年五月に<活版凸凹フェスタ2008>を初開催した際には、長崎から東京・四谷の会場に駆けつけられ、このようにかたられた。
「本木昌造先生は嘉永年間のはじめのころから活字版印刷の事業に着手していた。活字版印刷は一度すっかり衰退したが、この一六〇年ぶりの再挑戦でぜひとも復興させて欲しい。活字版印刷は文化の根底をなすものですから、これを絶滅させたらいけません」

2013年(平成24) 初秋、東京で働くようになったふたりの孫娘の支援をえて阿津坂氏が上京され、東京白銀台の八芳園 にみずから席をもうけられ、全日本印刷工業組合連合会専務理事:武石三平氏、『多摩の印刷史』編著者・東信堂印刷所代表:桜井孝三氏夫妻、片塩二朗、大石 薫をまねかれた。
「ワタシ は若いころに本木昌造先生の銅像の再建をお手伝いした。それからは菩提寺の大光寺の本木家墓前に供花するとともに、諏訪公園の本木昌造先生のお姿をいつも拝見してきた。

それなのに東京ではどうなっているのだろう。 東京では平野富二さんの初進出の場所の特定もできていないし、東京築地活版製造所の跡には簡単な碑文があるだけです。
平野さんに関していえば、まずはその初進出の場所を正確に特定すること。ワタシ は若いころからそうした努力をした。
それと、やはりそのお姿が眼前にあってこそ、開拓者の苦心が偲べるという面はおおきいとおもう。長崎と大阪には本木昌造先生の立派な銅像が建立されている。そこで東京には、文明開化をもたらした活字版印刷の創始者として、平野富二さんの銅像、できれば本木先生と平野さんが並び立つ銅像をつくって欲しい。これが阿津坂の遺言だとおもって聴いてほしい」

2014年(平成26)09月、長崎の阿津坂家では、阿津坂實氏の99歳をむかえた「白寿の祝い」が開催された。
タイポグラフィ学会には「本木昌造賞」の受賞対象者として阿津坂實氏とする推薦状が提出された。
そのためタイポグラフィ学会では顕彰委員会が招集されて審議がなされた。 顕彰委員会では若干の議論があったと仄聞する。それは「本木昌造賞」は優れたタイポグラフィ論文の執筆者に授与されるものであり、阿津坂氏の功績は、タイポグラフィに優れた業績・顕著な功績をのこしたものに授与される「平野富二賞」がふさわしいのではないかとするものであった。

阿津坂氏の主著とされるものは「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ-本木昌造」『本木昌造先生略伝』(長崎県印刷工業組合創立四十周年記念/本木昌造先生歿後百二十周年記念、長崎県印刷工業組合、平成七年九月)を見る程度であることはたしかである。
しかしながら『長崎印刷百年史』(長崎印刷百年史刊行編纂委員会/主著者:田栗奎作、長崎県印刷工業組合、昭和45年11月)、『長崎印刷組合史-百年史の追補とその後の三〇年』(長崎県印刷工業組合/長崎県印刷工業協同組合/主著者:種吉義人、長崎県印刷工業組合、平成10年10月)の両書は、組合事業関連の部分の執筆、主著者への資料提供の多くは阿津坂氏によることが両書にもしるされている。
こうした功績と、ひとえに本木昌造の遺業をかたりつぐことに尽力された阿津坂氏の業績を勘案して「本木昌造賞」の授与が内定し、ご本人、ならびにご家族にも通知された。

タイポグラフィ学会では顕彰委員会と理事会の承認を経て、例年07-09月に東京で開催されている定例総会を、2015年は長崎で開催し、その際に阿津坂實氏への「本木昌造賞授与式」を併催する計画が進行していた。
まさにその計画の進行中、2015年(平成27)05月07日、阿津坂實氏は逝去された。
そのためご家族とも協議して、「本木昌造賞授与式」は東京での定期総会と併催して、お孫さん(田中裕子・田中恵子)おふたりに列席していただくことになった。

 【阿津坂 實氏の活動紹介 PDF  2015.9.19 atusaka 2.31MB 】

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【タイポグラフィ学会】
『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露および
第3回本木昌造賞授賞式を開催

2015.9.19学会レクチャー_ページ_01

タイポグラフィ学会は、秋晴れの抜けるような晴天のもと、2015年9月19日[土]、定例年次総会につづき、一般公開で、『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露会および、第3回本木昌造賞授賞式をとりおこないました。
<第3回本木昌造賞授賞式>は、山本太郎会長の挨拶につづき、プレゼンターに平野富二玄孫:平野正一会員があたり、阿津坂 實氏の孫娘、田中裕子・田中恵子両氏に賞状ならびに記念品が授与されました。

<第3回本木昌造賞授賞式>には、タイポグラフィ学会会員のほか、多数の皆さまのご来場をいただきました。ご参加ありがとうございました。詳細報告はタイポグラフィ学会のWebSiteで近日中にいたします。
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<Viva la 活版 ばってん 長崎>02-五月GW開催/長崎県波佐見町と佐賀県有田町 ふたつの陶器まつり開催との会期

16toukimatsuriばってん長崎_表《多彩なイベントが開催されるGW ふたつの陶器まつりと Viva la 活版 ばってん 長崎》
昨年の暮れに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部恒例の「Viva la 活版-活版印刷礼讃イベント」の会場候補地「長崎県印刷会館 長崎市出島町10-13」を訪問して、印刷工業組合執行部、事務局のみなさんと<Viva la 活版 ばってん 長崎>開催に向けての打ち合わせをした。

会期の設定として五月の連休、05月01-05日あたりを提案したところ、
「それはまずい。連休前半はハサミ町と有田の陶器まつりがあって、道路が大混雑するから」
とされて、連休後半の05月06-08日とする会期が決定した。
陶磁器の有田焼は著名で、ずいぶん前に有田の窯元数ヶ所を訪問したことはあった。ところが、恥ずかしいことに茶碗やお皿などのテーブルウェアの 1/4 -1/3 の市場占拠率をもつという「ハサミ焼」のことは知らなかった。

ただし、「波佐見焼」の文字列をみたとき、ハテ、どこかで見たぞ、となった。
意外や意外、このWebSiteの管理人で、本欄でも昨年12月07日に紹介した千星健夫さん <【会員情報】 造形者・千星健夫 NECKTIE design office による TEA BAG HOLDER SHIROKUMA>は、この波佐見の陶磁器工場で「SHIROKUMA」を委託製造されている。

千星さんは長崎市から70キロほど、長崎県の市町村で唯一海に面していない町、佐賀県との県境にある陶磁器の町「長崎県東彼杵郡波佐見町」まで何度もかよって、ネクタイ・デザインオフィス企画開発商品「SHIROKUMA   しろくま」をネットショップを中心に販売し、国内外でヒットさせている。

> 「しろくま」の製造は波佐見町でしたよね?
千星健夫:そうです、ここです。この波佐見町の工房で委託製造し、つり下げ金具の部分はネクタイ・デザインオフィスで仕上げ、破損防止のパッケージに入れて販売しています。
こんな@メールのやりとりがあった。
以下ネクタイ・デザインオフィス/千星健夫さんからの応援を得て「ふたつの陶器まつり」をしるす。
NECKTIE design office Shirokuma 】

《長崎県波佐見町、佐賀県有田町。県境を挟んで隣接するふたつの町の陶器まつり》
◎ 波佐見陶器まつり      04月29日-05月05日
長崎県東彼杵郡ヒガシソノギグン波佐見町   窯元・商事会社・販売会社など150店余が出展
30万人余の来客を予定  駐車場3,000台分を用意
hasami_02[1]◎ 有田陶器市          04月29日-05月05日
佐賀県西松浦郡有田町    知名度抜群で、著名な工匠を輩出した
400年の窯業の歴史、第113回の歴史を誇る  100万人余の来客を予定
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{千星健夫} 長崎県波佐見町の「波佐見陶器まつり」と、佐賀県有田町の「有田陶器市」は、まったく同じタイミングで実施されています。
このふたつの会場は、九州高速自動車道で、まったくおなじ「波佐見・有田インター」から会場に行くひとが大半です。 高速のインターを降りて、右に行くと波佐見、 左に行くと有田といった具合なので、とても混み合うようです。

それぞれの窯元・工房・メーカーが離れていることもあって、 車でなければちょっと会場を周りにくい状況なので、 すべての道路が混雑するようです。
波佐見と有田の陶器市と<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会期がぶつからなくてよかったですね。

なにしろ波佐見の「波佐見陶器まつり」だけでも 30万人、有田町の「有田陶器市」には100万人もの人出が予想され、あらゆる道が大渋滞になるので、 現地の人からするとあまりおすすめはできないということですが、 わけあり価格で販売されていたりするので人気が集中するようです。

また波佐見町に行くとなれば、隣の  嬉野温泉(佐賀県) がおすすめです。 美肌の湯として全国的に有名で、化粧水に浸かっているようなとろとろのお湯なので、女性には特におすすめです。でもやはり連休中はどうですか、すこし心配です。  千星健夫 shirokuma01 shirokuma03 hasami_14 hasami_37 hasami_16[1] hasami_39[1]

【展覧会】 恩地孝四郎展/東京国立近代美術館 会期末迫る & 恩地家三代公式記録 multirhythm WebSite紹介

国立近美恩地孝四郎展日本における抽象美術の父にして木版画近代化の立役者、そして時代に先駆けたマルチクリエイター恩地孝四郎、過去最大規模の回顧展。
日本で最初の抽象表現《抒情『あかるい時』》はもちろん、海外美術館所蔵の重要作62点を含む約400点を一挙公開します。
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日本における抽象美術の先駆者であり木版画近代化の立役者でもある恩地孝四郎の、20年ぶり3回目、当館では実に40年ぶりとなる回顧展です。

恩地は抽象美術がまだその名を持たなかった頃、心の内側を表現することに生涯をかけた人物です。
彼の創作領域は一般に良く知られ評価の高い木版画のみならず、油彩、水彩・素描、写真、ブックデザイン、果ては詩作に及ぶ広大なもので、まるで現代のマルチクリエイターのような活躍がうかがえます。
本展では恩地の領域横断的な活動を、版画250点を中心に過去最大規模の出品点数約400点でご紹介いたします。

また見逃せないのは、里帰り展示される62点。戦後、特に外国人からの評価が高かった恩地の作品は、その多くが海を渡っていきました。
本展では海外所蔵館(大英博物館・シカゴ美術館・ボストン美術館・ホノルル美術館)の多大な協力のもと、現存作が一点しか確認されていない作品や摺りが最良の作品など恩地の重要作をご覧いただきます。
【 詳細 : 東京国立近代美術館
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この 【展覧会】 恩地孝四郎展 ―― 形はひびき、色はうたう 東京国立近代美術館 に関する情報は、東京国立近代美術館からの情報をもとに、本コーナーには02月08日に紹介した。
その際別途に、恩地孝四郎嫡孫・恩地元子様からも封書で、長文の文書と招待券を頂戴していた。
忙しさに取り紛れて文書をじっくり拝読していなかったことが悔やまれるが、とても貴重な資料をご提供いただいていたことを改めて確認したのでここに皆さまにご紹介したい。

恩地家三代――恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)は、いずれも東京藝術大学にまなび、才能と個性と造形力がゆたかなかたばかりであるが、やつがれは荻窪の恩地邸にしばしば押しかけ、恩地邦郎氏とそのご夫人展子様にたいへんお世話になった。

恩地孝四郎は1935年(昭和09)04月創刊の『書窓』(アオイ書房、志茂太郎)の第一号から1944年06月、志茂太郎が官製の国民運動「変体活字廃棄運動」に抵抗したため、強制疎開によって郷里の岡山に帰郷したための終刊号、『書窓』(第17巻第05号、通巻103号 日本愛書会書窓発行所)まで、一貫して編輯・執筆・造形・装本にあたっていた。
つまりやつがれは、わが国における近代版画家、抽象絵画の祖としての恩地孝四郎ではなく、印刷・出版人としての恩地孝四郎像を追っていた。

アオイ書房/志茂太郎と、『花あしび』(堀辰雄、2000年10月06日、朗文堂)の刊行を企画していたころ、堀辰雄関係の知人の紹介を得て、荻窪の恩地邸(遠藤 新 アラタ 設計)をはじめて訪問したのは、恩地邦郎氏が長年にわたった明星学園での教職をはなれた直後のことであり、おそらく1990年ころであったとおもう。
恩地邦郎氏ご夫妻はこころのあたたかなかたで、いつも居間でくつろぎ、展子夫人のピアノ演奏もたのしませていただいた。
やがて当時の「金曜かい」の若手の諸君(いまは50代初頭の中年になっているが)も恩地邸に押しかけるようになり、お庭のアカンサスを愛で、孝四郎氏と邦郎氏の二代にわたるアトリエを拝見させていただいた。

それからは、毎年のように銀座の画廊で個展を開催されたので、そこでお会いしたりしていたが、ご著作『随想 春の雪』(恩地邦郎、1997、ぶんしん出版)を頂戴した。それからまもなく2001年に行年81をもって恩地邦郎氏は逝去された。
近年になり、宇都宮美術館の企画で<恩地孝四郎邸見学会>があり、そのグループの一員として、やつがれと大石とで懐かしい荻窪の恩地邸をおとづれた。
およそ15年ぶりほどの訪問であったが、恩地家第三代・恩地元子様が、故邦郎・展子ご夫妻とほとんど変わらぬ笑顔で恩地邸をご案内されていた。
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前置きがながくなった。恩地家三代 ―― 恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)の三人の活動について、お知らせ、報告するWebSiteが開設されている。

URL :  multirhythm

管理・運営は恩地元子氏によるもので、いわば恩地家公式WebSiteといえるものであるが、とても丁寧なつくりこみがなされており、情報も正確でゆたかである。
初代・恩地孝四郎の歿後60年余、二代・恩地邦郎の歿後15年余のときが経過した。ともすると記憶はしだいに鮮明さをうしない、精度を欠くようになる。
このWebSiteの誕生を欣快とし、皆さまにご紹介するゆえんである。

ときのたつのははやいもの。久しぶりに薩摩隼人・薩摩おごじょの皆さんと熱い交流

adana トップページつい最近のこととおもっていたのに、もうあれから一年半ほどのときがたちました。
3日間5,000人ほどのお客さまを迎えた活版礼讃イベント<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>開催の地、櫻島を至近にあおぐ鹿児島「尚古集成館・仙巌園」に2月13日[土]-14日[日]の週末に、商用もあって一泊二日の日程でいってきました。

【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 15  いまも続く薩摩隼人, 薩摩おごじょとの協働作業 DSCN6311 DSCN6293 DSCN6311 DSCN6293 DSCN6291 DSCN6318 DSCN6320 DSCN6325 DSCN6328 DSCN6329DSCN6333仙巌園の菜の花2014年11月開催の<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>以後、おおきな変化は2015年(平成27)7月5日に、尚古集成館(旧集成館・旧集成館機械工場を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録)が世界遺産に登録されたことでしょうか。

そのために「尚古集成館」「仙巌園」ともどもサインや施設の一部に変更がみられました。
また二月の初旬に数十年ぶりにみた降雪のため、「尚古集成館」も特別休館を余儀なくされ、植栽にも被害があったそうですが、二月中旬のこのとき、館内庭園には避寒櫻が花をつけ、名をしらぬ大きな鳥が憩っていました。

<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>で併催された、尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による特別講演会 < 尚古集成館所蔵/重要文化財 『 木村嘉平活字 』 と 薩摩藩集成事業について >で薩摩藩(鹿児島)の、そして長崎の活版印刷事業の嚆矢となった俗称『薩摩辞書』と五代友厚に関しては、NHK 連続ドラマ『朝がきた』が話題となったことで、すっかり著名な存在となっていて、田村館長ともどもすこし笑いました。
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 11  講演会 : 田村省三館長、 展示紹介 : 加久本真美さん、渡辺 絵弥子さん
DSCN7916 DSCN7912 DSCN7914 DSCN7918 DSCN7926DSCN7927《鹿児島の夜はいつものところで、いつものメンバーとご一緒しました》
鹿児島にはアダナ・プレス倶楽部の会員がたくさんいらっしゃいます。
今回も六花窯:横山博さんの肝煎りで、鹿児島市役所ちかくの「いつものところ-店主のご意向で店名はご容赦を」で、松山先生、前田さんご夫妻、早川さん、稲留さん、橋口さんらの様様な造形者の皆さんとの熱い交流。

お料理いっぱい、薩摩焼酎どっさりのせまい会場では、地元の皆さんでも数年ぶりという再会があったり、前田夫人の詩吟もとびだして、鹿児島の夜はしんしんと更けていきました。
いずれにしても、各所で活版印刷が始動しています。
鹿児島にも一粒の種子がちいさな芽をだしました。こんどまた鹿児島を訪問するのはそう遠くはないようです。 DSCN6286 DSCN6277 DSCN6276

【会員投稿】 掃苔会新会員/時盛 淳さん、平野家塋域 単独代参参上の記録

DSC_1010東京谷中霊園中央園路に面して建立されているおおきな石碑が、平野富二の十三回忌に際して、株式会社東京築地活版製造所有志、株式会社東京石川島造船所有志の拠金による「平野富二君之碑」(甲01号01側)である。
篆額の揮毫は榎本武揚、碑文の撰幷書は福地源一郎(福地櫻痴)による。
この項の詳細は古谷昌二『平野富二伝』(p.810 – 18)を参照願いたい。

DSC_1012 DSC_1013 DSC_1014平野家塋域は東京都谷中霊園の東北部、乙11号14側にある。
中央の平野富二の墓石の表面には、吉田晩稼の筆になる「平野富二之墓」が陰刻され、向かって右側面には、法名の「修善院廣徳雪江居士」が刻まれている。
吉田晩稼(1830-1907)は長崎興善町うまれ。陸軍・海軍に奉職したのち辞して書芸をもっぱらとした。大楷書を得意とし、筆力雄勁にして並ぶものなしと評された。また本木昌造とは歌友であり、東京九段の靖国神社の標柱、大阪四天王寺の本木昌造像の台座の書も晩稼による。
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{新塾餘談}
「平野富二墓」は太平洋戦争の際、上野駅周辺に無数に投下された焼夷弾をあびており、焼損が見られるのは残念である。平野家一門には再建の議論もあったが、この墓石は本来浅草雷門再建のために切りだされた房州の小松石をもちいた由緒あるものであり、また吉田晩稼の書の典型例としてやつがれは再建には反対してきた。
それでも近年碑面にも剥落がみられるようになり危惧をいだいている。なにかよい保存法があればご提案いただけたら幸甚である。
DSC_1032

DSC_1036 DSC_1024 DSC_1025平野家塋域はいってすぐ左脇に法名「妙清古登童尼」と陰刻されたちいさな墓標がある。
裏面には「平野富二長女 古登子 享年三歳 明治八年七月七日歿 大正二年三月再建」とある。
明治05-08年という、もっとも平野富二が多忙をきわめた時期にうまれ、そして夭逝した「長女 古登子 琴 コト」の墓である。戸籍が未整備な時代だったため、明治五年の何月のうまれかは記録にない。

塋域右奥には「平野鶴類墓」がある。のちに平野家を継承した平野津類は長女古登の逝去から三ヶ月後の1875年(明治08)09月30日に誕生した。明治12年ころに編成された京橋区戸籍記録には長女:古登の記録はなく、二女津類が「長女」として記録されている。
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平野津類は青森県出身の勇造(旧姓境、のち離別)と結婚して、嫡孫:平野義太郎が1897年(明治30)03月05日に誕生して、平野家第三代を継承した。
平野義太郎は高名な法学者であったが、その妻:嘉智子とともに、塋域右奥にねむる。

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【 参考資料 : 花筏  平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連 】

朗文堂好日録046 - 喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-02 プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

プラハ

02    プラハ城付設「黄金の小径」とフランツ・カフカ

新コーナー{文字壹凜}にかまけて、<花筏>の更新が遅滞していた。
昨週週末(01月15-16日)長崎に出張した。土曜日は長崎の若手学芸員の皆さんとおあいした。想像以上に<花筏>をよくご覧いただいていた。うれしかった。
{文字壹凜}は縦書き式短文ブログであるが、一応目標としていた100投稿をこえて、まもなく120投稿に達することができた。スタート直後からデバイスの異同による「バケ」に悩まされているが、読者のご寛容に救われている。これもまた楽しい試練ではある。

<花筏>に管理者:千星健夫氏が手を入れてくれて、ここでも<活版 à la carte>と同様に画像をスライドショウで楽しんでいただくことができるようになった。 再開第一弾を【朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ 】の続編とした。ほぼ一年ぶりのこととなる。ご愛読を乞い願う次第である。

☆       ☆       ☆

京都在住、ぢやむ杉本昭生氏の活版小本の新作フランツ・カフカ『道理の前で』を紹介した。
杉本氏はいつも活版小本を送付される際に「一筆箋」のような文章を添付されているが、今回はめずらしくこぼしが多かった。
たしかに「活版小本」の杉本昭生氏がマッチ箱サイズをねらっても、あまり収穫がないような気はした。 この 「テ」 は読書家の杉本氏には似合わなかった。ほかの豆本製作者に任せてもよいかもしれないとおもえた。

ところで、やつがれ フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。 したがって「活版小本 カフカ『道理の前で』」 4 ページ 一丁、15丁60 ページかがり綴じ、前後見返しつき、前扉別紙差し込みからなるマッチ箱サイズの上製本をうれしく拝読させていただいた。
そこでフトおもいだしたのは、この作品はチェコ プラハの「黄金の小径」で執筆されたのではないかというおぼろな記憶だった。

2013年晩夏、三泊四日のあわただしい日程で、はじめてチェコ、プラハにいった。 その報告は「花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ」にあるが、ここには序章があるだけでその後の記述はない。
すなわちやつがれが情報過多に陥り、ひとさまにプラハの紹介をすることができなかったというのが苦しいいいわけになる。

2013年のプラハ行きはロシアの航空会社「アエロフロート航空」で、モスクワ経由でいった。
このときの収穫はおおきなものがあったが、ともかく魅力がありすぎて、未整理なままやつがれの脳裡の片隅にある。 2014年に再挑戦をこころみたが、円安のためもあって旅費が高騰していた。

プラハにはいま、アダナ・プレス倶楽部会員・博士山崎が研究のため長期滞在中である。 ノー学部と博士山崎は情報交換が盛んのようである。したがってどうやらもう一度プラハにいく機会がありそうな昨今である。

プラハの一隅にはカフカの生家があり、そこはいまちいさな博物館となって公開されているという。 そしてカフカの墓は、その近くの「ユダヤ人墓地」にあるという。 前回はユダヤ街にいく時間がなかった。再訪を得たらぜひともたずねたいとおもう。
すなわち、畏友杉本昭生が製作し、失敗作と自嘲した一冊の活版小本、フランツ・カフカ『道理の前で』が契機となって、プラハ再訪を決断することになったということである。 プラハ絵はがき01 プラハ絵はがき02 プラハ絵はがき03 プラハ絵はがき04プラハ市販の長尺絵はがきより。下から二段目、プラハ城脇、かつて錬金術士が居住したことから「黄金の小径」と呼ばれる長屋街。いまはみやげ店がならぶ人気の観光スポット。左手の青い22番の建物は、カフカがここで『城』などの作品を執筆していたとされる家。

Kafkasd2ところでやつがれ、ふるくから フランツ・カフカ(1883-1924)のひそかなファン。
民族と言語がもざいくのようにあやなす欧州、とりわけ中欧のカフカのような人物の経歴をあらわすのは困難だが、カフカは当時のボヘミヤ地方、正確にはオーストリア=ハンガリー帝国領のプラハで、高級小間物商をいとなむユダヤ人の両親のもとでうまれた。
その母語となるとさらに複雑で、父親のヘルマン・カフカ(1852-1931)はチェコ語を母語としたが、母親のユーリエ(1856年-1934)は当時の支配階級にならい、ドイツ風の慣習に馴染んでドイツ語をはなす、ほとんどドイツに同化していたユダヤ人であった。

父ヘルマンは息子を学校にいかせるにあたり、プラハにおいて多数の話者を持つチェコ語の学校ではなく、支配者階級のことばであるドイツ語の学校を選んだ。 しかしカフカはチェコ語やフランス語の本を多く読み、プラハ大学で哲学や法律をまなんでいた。
そのみじかい人生の晩年、カフカは結核に罹患したためもあって休暇がふえ、また民族意識に目覚め、ヘブライ語やラテン語の学習にもはげんだ。 しかしその著作や、のこされた書簡のほとんどは、ドイツ語でしるされている。

フランツ・カフカは1924年(大正13)6月3日、宿痾の結核でオーストリアのキールリングで歿した。満40歳であった。
遺骸は故郷プラハに移送されて、この街のユダヤ人墓地にねむる。
──────────
フランツ・カフカの作品は、長編小説『審判』、『城』、『失踪者』のほかに、多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、その少なからぬ点数が未完であることで知られている。
これらの「遺稿」が刊行をみたのは、プラハ大学での一級下級生であったマックス・ブロートの力に負うところがおおきい。

その作風は、孤独感と不安が横溢しながらも、それを巧妙にユーモアでおおい、夢の世界を想起させるような独特の小説作品をのこした。
作品の評価が歿後にはじまったことと、幻想的で浮遊するような軽妙さの二点において、10年ほどのちのことになるが、わが国の 宮澤賢治 (1896-1933)と似たところがみられる。
宮澤賢治の著作で生前に刊行されたのは『春と修羅』(詩集)と、『注文の多い料理店』(童話集)だけであり、ほとんど無名に近い状態であったが、歿後に草野心平らの尽力によっておおくの作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となった。

《2014年09月 アフター・バカンスでプラハの観光地は賑わっていた》
プラハ観光の最大の中心地「プラハ城」には、ゴシック、ロマネスク、ルネサンス、アールヌーヴォなどの様様な様式の建築物があるが、なんといっても、天を突く尖塔がシンボルのゴシック様式による 「 聖ヴィート大聖堂 」 が観光客をあつめていた。

DSCN5492 DSCN549509月なかば、この晩夏の時期は、欧州では 「 アフター ・ バカンス 」 とされる。 バカンスの期間は混雑を避けて旅行を控えていた高齢者と、バカンス期間にアルバイトをしてふところがあたたかくなった若者が、オフシーズンで安くなったチケット利用しての旅行者が多くみられた。
この建物は F ・ キセラの設計によるもので、内側からみると、画家/アルフォンス ・ ムハ ( わが国では ムシャ ) らによるステンドグラスが美しい ( らしい。 やつがれ、混雑につかれて内部には入らなかったゆえに失敗した )。
DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 「 聖ヴィート大聖堂 」 のファサード上部に、いわゆるブラックレターの掲示板があった。 この系統の書体は、活字界では 「 テクストゥール 」 とよばれる。 ゴシック様式の尖塔によく似た、鋭角的で、ゴツゴツとした突起の目立つ形象の活字書体である。 プラハ絵はがき03その後黄金の小径へ。色とりどりのちいさな家が立ち並ぶ通りで、いまはみやげもの屋となっているが、もともとは城に仕える召使たちが住んでいて、いっとき錬金術士がおおく居住していたために「黄金の小径」と呼ばれる人気スポットとなっている。

ここの22番と表記された青い建物が、いっときカフカが仕事場としていた家とされる。 せまい建物におおきなリックサックを背負った若者がたくさんつめかけていて、なかなか中にはいれなかった。
そこで錬金術士の工房(なかなか怪しくてよかった)や、椅子のあるみやげもの屋に逃げたことを後悔しているが、なんとか写真だけは押さえてあった。

{ 新宿餘談 }
友人にドイツの印刷系の大学院を修了した人物 IS 氏がいる。博士論文のテーマに 「グーテンベルクは錬金術士だった」 をテーマにして研究をすすめていたところ、指導教授に 「これを発表したら、君もわたしもこの世界から抹殺される」 と説得されてほかのテーマにしたという。

このはなしは故ヘルマン・ツァップが笑いながらおしえてくれた。そして日本に戻っていたIS 氏を
「ユニークな発想のおもしろいひとですよ……、ぜひお会いになってください」
として
紹介された。
IS 氏は晩年のツァップにインターネット環境の設置をすすめ、その設定にもあたっていたことがあった。
いまは毎週一回はメールを送付されるIS 氏であるが、ちょっと人間関係が複雑なわが国の環境になじめないでいる。ときおり来社されて
「グーテンベルクは錬金術士だった、そう思いますよね」
とかたられる。やつがれは苦笑するしかないが、内心は首肯している面もある。
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以下「黄金の小径」を紹介するが、格別の説明はしない。むしろスライドショウでお楽しみいただけたら幸いである。
じつはやつがれ、このプラハ城と「黄金の小径」で人混みにもまれ、すっかり疲労困憊。

ゲートをでるとルネサンス様式の建物があり、そこでの「夕べのコンサート」をノー学部が予約していた。 ベドルジハ・スメタナの『わが祖国』(チェコ語: Má Vlast )が演奏された。
このスメタナの代表作は毎年おこなわれる「プラハの春音楽祭」のオープニング曲として演奏されるそうである。

『わが祖国』とうたいあげなければならなかったボヘミアのひと、ボヘミアンのスメタナをおもい、「祖国とは、母語とはなんだろう」とおもわずにはいられなかったであろう、ボヘミアンのフランツ・カフカをおもい、妙に鼻の奥がムズムズしたが、なんとか耐えることができた。 DSCN5558 DSCN5559 DSCN5561 DSCN5562 DSCN5565 DSCN5566 DSCN5567 DSCN5568 DSCN5569DSCN5573 DSCN5574 DSCN5575 DSCN5576 DSCN5577 DSCN5580 DSCN5580 DSCN5583 DSCN5585 DSCN5586 DSCN5587 DSCN5588 DSCN5589 DSCN5591 DSCN5592 DSCN5596 DSCN5726

【会員情報】 Bonami の三人が「湯河原・真鶴アート散歩」の一環として<dear my sister>の展示会開催

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Bonami のホームページに「dear my sister」の特設ページがアップされています。
http://atelierbonami.com/?p=2777
閲覧をお勧めいたします。

Bonami

< ボナミ について >
杉山聡 三木葉苗 三木咲良さん のトリオ。
神奈川県の小さな港町、真鶴のアトリエで
手製本、活版印刷などを用いた本や紙のものを制作しています。
Bon ami ( ボナミ ) はフランス語で 「 なかよし ・ 良き友だち 」 の意味。
私たち 3 人は、はじめて出会ったその瞬間から仲良しになりました。
そのことが、私たちの人生でいちばんの彩りです。
浮き沈む日々も、ただ、こう言います。 「 私たちは Bonami ( なかよし ) です。」
──────────
いつも、どこか、なにか、いい感じの Bonami  のトリオです。
活版礼讃イベント<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>での出品作品は、多くのかたが手にされ、おおきな感動を呼んでいました。
そんな Bonami のお三方が、2015年11月「湯河原・真鶴アート散歩」の一環として<dear my sister>と題した「活版印刷と手製本で綴るオリジナル絵本 四作目」の展示会を開催されます。
開廊日に注意してのご参観をお勧めいたします。

【展覧会】 良寛と有願の傑作選-良寛の里美術館 秋の特別展

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良寛の里美術館 秋の特別展

良寛と有願の傑作選

◯ 期        間 : 2015年09月09日[水]-11月03日[火]
◯ 会        場 : 良寛の里美術館 (道の駅 良寛の里 わしま内)
◯ 開館時間 : 午前09時-午後05時
◯ 入 館  料 : 大人500円(高校生以上)/小人300円(小・中学生)
◯ 主       催 : 良寛の里美術館
          949-4525 長岡市島崎3938番地  道の駅 良寛の里 わしま内
          TEL . 0258-74-3700

【 詳細情報 : 良寛の里美術館 長岡市  良寛の里 わしま

【展覧会】 豪農伊藤家コレクション-北方文化博物館 中国 韓国の陶磁展

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-豪農伊藤家コレクション- 北方文化博物館
中国 韓国の陶芸展

◯ 日        時 : 2015年10月18日[日]-12月20日[日]
◯ 会        場 : 北方文化博物館 集古館
◯ 入  館  料 : 大人800円
◯ 開館時間 : 午前9時-午後5時(集古館のみ午後4時30分)
◯ 休  館  日 : 会期中無休
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<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>ともなった北方文化博物館は、越後随一の豪農であった伊藤家歴代、とりわけ第七代伊藤文吉(世襲名)が、明治15年から八年余の歳月をかけて建造した邸宅と、その庭園を保存・公開しています。
<中国 韓国の陶芸展>では、伊藤家コレクションのなかから、およそ30点を展示いたします。
伊藤家の暮らしの記憶が息づく館において、コレクション作品のあらたな魅力を発信します。
会場の「集古館」は、博物館の西北にある、白壁と瓦の土蔵造りの建物で、昔は飯米蔵としてもちいられ、多いときで2,000俵の米俵が積まれていたといわれています。
現在は、歴代の当主達が収集した書・画・古美術品などが展示されており、伊藤家の優雅な暮らしぶりを知ることができます。

【 詳細情報 : 北方文化博物館 集古館

タイポグラファ群像*009 アドリアン・フルティガー - 子午線から宇宙へ、鮮烈な活字の記憶

追    悼
20世紀の壮大な Univers 宇宙をキャンバスとし
鮮烈な Meridien 子午線に軌跡をのこしたひと。
Univers,  Meridien,  OCR – B などの不朽の活字設計をなし
オルリィ空港、シャルル・ド・ゴール空港、パリ地下鉄道の
サインシステムと制定書体を製作し
旧約聖書にもとづいた記号学の進展にもおおきく貢献したひと。
2015年9月10日  スイス・ベルンにて逝去
Adrian Frutiger   1928-2015

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Brief History  -  Adrian Frutiger

◯ 1928年5月24日  スイス・インターラーケンにて生れる。
のちオットー・シェフリー印刷所にて活字植字工となる

◯ 1949-50年 チユーリッヒ工芸専門学校にて力リグラフィを学ぶ
◯ 1951年  同校卒業制作の小冊子『Schrift, Ecriture, Lettering 』が縁で、シャルル・ペイニョ率いるパリのドベルニ & ペイニョ 活字鋳造所に勤務
◯ フランスのドベルニ & ペイニョ 活字鋳造所、ドイツのシュテンペル活字鋳造所ほかから、以下の主要活字書体を発表した

Phoebus (1953),  Ondine (1954),   President (1954), Meridien (1957),  Univers (1956 – 1957), Opera (1959 – 60),  Egyptienne (1960),  Apllo (1964),  Serifa (1967),  OCR-B(1968),  lridium (1975),  Frutiger (1976),   Breughel (1982),  lcon (1982), Versailles  (1982), Centennial (1986)
◯ 1952-60年 パリの美術工芸学校「エコール・エティエンヌ」にて記号学とタイポグラフィ教育に従事
◯ 1954-68年 フランス国立高等美術工芸学校にてタイポグラフィ教育に従事
◯ 1959年  パリ・オルリィ空港のサインシステムと制定書体の製作
◯ 1962年  パリにアトリエを開設(スタッフ:アンドレ・ギュルトレール、ブルーノ・ブフェリ)
◯ 1070年  新設されたシャルル・ド・ゴール空港のサインシステムと制定書体を製作
◯ 1973年  パリの地下鉄道のサインシステムおよび制定書体を製作
◯ 1976年  シャルル・ド・ゴール空港の制定書体を写植活字用に改刻し「フルティガー」シリーズを製作
◯ エール・フランス社のシンボルマークを製作
◯ SNCF(フランス国有鉄道)ロワシィ駅に長さ250mのコンクリート・レリーフを製作(建築:ポール・アンドルー)
◯ 1980年代 この時代には、メリディエン、ユニヴァースなどの主要な書体を、手組活字から、活字自動鋳植機、写植活字、電子活字などのメディア変遷のために、既成活字書体のユニットの再設定や、リデザインに追われた。
◯ 1986年  グーテンベルク賞受賞

◯ 1996年  心臓疾患を患い、その克服後にスイスに住居を移し、ベルン郊外にて製作を継続
◯ 1999年  ドイツ・ライノタイプライブラリー社のために、ユニヴァース・ファミリーの全面改刻を実施。21のファミリーを59へと大幅に拡張した(ディレクター:オットマー・フォーファ)
◯ 2001年  邦訳書『活字の宇宙』(朗文堂)刊行
◯ 2015年9月10日  スイス・ベルンにて逝去。行年87

20151004215520954_0002世界中でひろく使われている本文用活字をかさねてみると、
ある基本的なパターンがもとめられます。
ギャラモンのようにふるい活字では a の下部のカウンターは小ぶりですし
 e の横棒はたかい位置にあります。
しかし、いろいろな活字をかさね合わせるという方法によってみえてくることは、
 a の下部のカウンターが次第におおきくなり、e の横棒が中央に下がってきていることです。
それは文字としての美しさと、文字の判別性 Legibility とのせめぎあいの結果であり
もっとも読みやすいという、文字の
基本的な目的に合致するのです。
                    Adrian Frutiger  [アドリアン・フルティガー]
20151004203352856_0002
左) ヘルマン・ツァップ      1918年-2015年 享年96
右) アドリアン・フルティガー 1928年-2015年 享年87

1998年07月、フルティガーの70歳の祝いと、改刻版ユニヴァースの完成を祝って、ハイデルベルクの古城で開催された祝賀パーティ。会場に駆けつけた、最大のライバルでありよき友人の、ヘルマン・ツァップ氏とかたい握手をかわすふたり。
(ハイデルベルク社主催。写真提供:オットマー・フォーファ。参考:『文字百景62号』)

2015年06月04日、ヘルマン・ツァップ氏が逝去 され、いまだにその気持ちと記録の整理ができかねているところに、2015年09月10日、アドリアン・フルティガー氏の逝去 をご報告するはこびとなりました。
20世紀後半、世界のタイポグラフィを主導されたおふたりは、それぞれ、朗文堂に『ヘルマン・ツァップのデザイン哲学』(ヘルマン・ツァップ著、1995年04月11日、朗文堂)、『活字の宇宙』(アドリアン・フルティガー著、2001年04月11日)の重い存在の著作をのこされました。

ヘルマン・ツァップ氏とは、次著『仮称:活字と夢と』を刊行すべく、双方ともに努力のさなかの逝去でしたから、私家版をふくむほとんどの著作を保存しております。なかんづく2003年に、
「造形者としての、わたしのすべてをまとめてみた …… 」 とされたDVD資料をいただき、ときおり読者の皆さまに公開しております。

アドリアン・フルティガー氏とは、『活字の宇宙』(アドリアン・フルティガー著、2001年04月11日)刊行取り組みでのおつき合いだけでなく、甥のChristoph Frutiger氏の製作による DVD Video<Adrian Frutiger The Man of Black and White>(発行者:Christoph Frutiger)を紹介しただき、四回にわたって朗文堂 タイプコスミイクから販売してまいりました。
後半の二回は、朗文堂/新宿私塾第5期修了生のペートラ・シッファート Prtra Schiffarth さん、河野三男さん、木村雅彦さんのご協力をいただき、翻訳テキストをMACデータで添附しての販売でした。

『普及版 欧文書体百花事典』(組版工学研究会編、朗文堂)には、<Sans Serif 誘目性からから出発し、可読性をめざして-サン・セリフ体の潮流>、<Univers 宇宙に子午線をみたひと-アドリアン・フルティガー>などの項目があり、またアドリアン・フルティガーに関して随所で触れられておりますので、ぜひともご覧いただきたいと存じます。

残念ですが、図書『活字の宇宙』(アドリアン・フルティガー著、2001年04月11日)、DVD Video<Adrian Frutiger The Man of Black and White>ともに、現在は品切れ、販売中止となっています。

《アドリアン・フルティガーとユニヴァースを取りあげつづけた『文字百景』》

DSCN8204『文字百景』全100冊合本。 題字:美登英利、組版フォーマット設計:白井敬尚

『文字百景』は、B6判、中綴じの軽便な冊子で、書物と活字の周辺を風景としてとらえてみよう…… 、そんな企画から1995年06月にスタートし、それから四年半ほどのちの1999年12月、文字どおり100冊の小冊子の刊行・販売をおえて終了したものです。

アドリアン・フルティガーの活字製作者としてのデビューははやく、パリのドベルニ & ペイニョ活字鋳造所から発表された著名な活字書体は、ほとんどが20-30代前半の製作です。
すなわち、まず25歳のとき、デビュー作としてPhoebus (1953)を製作し、 つづいて「水の精」を意味する Ondine (1954),   President (1954) とつづき、Universは、56 年の製作発表、57 年の発売です。
同年に「子午線」の意から名づけられたセリフ書体 Meridien (1957) が発売されたのは、フルティガーはまだ29歳の若さでした。

わが国では、どういうわけかほぼ同時期に製作されたサンセリフ書体の Univers (1956 – 1957) ばかりが喧伝されてきましたが、セリフ書体の Meridien はシャルル・ペイニョ社長のお気に入りの活字書体で、完成直後からドベルニ & ペイニョ活字鋳造所のレター・ヘッドや広報物の中心書体でした。

この『文字百景』が連続刊行されていた20世紀最後の数年、アドリアン・フルティガーはすでに70歳ちかい高齢であり、ひとつのまとめとして、あまりにも拡散し、多様化してしまった<ユニヴァース>の改刻作業にあたっていた時期とかさなります。
そのせいでしょうか、『文字百景』には<フルティガーとユニヴァース>に関する記述が四本みられます。

◯ 『文字百景23  新ユニバースのテンヤワンヤ』(飯山元二 1996年03月)
◯ 『文字百景30  ユニヴァースの誕生秘話・そして再生へ アドリアン・フルティガーに会いました』(坪山一三 1996年12月)
◯ 『文字百景38  パリのタイポグラフィ行脚』(酒井哲郎 1997年03月)
◯ 『文字百景62  電子活字の開拓者 オットマー・フォーファ』(飯山元二 1998年09月)

さいわいなことに、『文字百景30  ユニヴァースの誕生秘話・そして再生へ アドリアン・フルティガーに会いました』(坪山一三 1996年12月)の資料が保存されていましたので、ここにご紹介いたします。
写真は当時の簡便なコンパクトカメラで撮影し、紙焼きプリントでのこされていたものですので、いくぶん不鮮明な点はご容赦ください。

◆    ◆    ◆

ユニヴァース誕生秘話・そして再生へ
アドリアン・フルティガーに会いました
組版工学研究会・坪山一三

初出 : 文字百景 030   朗文堂 December 1996(一部に補整)

このひと、アドリアン・フルティガーに会うのは三度目です。
はじめは、モリサワの書体コンテストの審査員として来日された折、無理をお願いして、ある団体の主催で、講演をしていただきました。そのときは、わたしは裏方で、講演をゆっくり聞くいとまもありませんでした。
結局この団体では、報告書も講演録もまとまらず、記憶の底に沈澱してしまいました。1987 年6 月28 日のことです。
その後、1990 年にパリのフルティガ一氏のアトリエを大勢のタイポグラファといっしょにたずねました。人数が多すぎてアトリエに入りきれないほどで、あまり印象に残りませんでした。
──────────

パリを朝06 時40 分、始発のTGV (新幹線)にのって、スイスのベルンをめざしています。
きょう( 1996年9 月10 日)の午後三時に、フルティガ一氏の自宅をたずねる予定です。

フランスの首都:パリから、スイスの首都:ベルンへの移動です。いかに始発の電車に乗車したとはいえ、当日の午後に異国の首都での面会予定とは、いかにもヨーロッパだなぁとおもいます。

発車してしばらくすると、あわただしかったパリでの三日間のことがおもいだされます。予定ではパリのアトリエを訪れてフルティガーと会う予定で、友人のエルンスト・アパリッチョにパリでのスケジュールの組み立てを依頼していました。
ところが、病を得たフルティガーは、スイスに移転していることをパリでの滞在中にエルンストに告げられ、急遽日程を大幅に組みかえてベルンへ向かっての電車にのっています。

車窓からは早秋の野面に、ぶどう摘みの農夫が働いているのがみえます。途中リヨン駅に停車。ここはふるい印刷・出版の町で、「Museum of Printing and Banking」 のあるところです。
(今回も、ここには結局寄れなかったなァ。またいつかチャンスがあるかな) 。
同行は、河野三男さん、白井敬尚さんです。
河野さんは英会話は練達ですが、これまでの経験で、フルティガー氏が英語での会話はつらそうでしたので、パリ(現在はパリの真南へ550km、カオールという街の近くの小さな村)在住の悪友・酒井哲郎に、フランス語での通訳を依頼しました。持つべきものは悪友で、酒井哲郎は面白半分、ベルンまで同行してくれました。

なにはともあれ、ベルンに着いて、ホテルにチェック・インです。急にベルン入りを決めたので、首都とはいえさほどおおきなまちではないベルンでは、見本市の開催とかさなってホテルがいっぱいで、贅沢なことに最高級の五ッ星、駅の真前の「シュワイツァホフ」となりました。ドーンと石造りの格調ある建物です。ちょっと分不相応でなホテルです。

20151004203352856_0005 20151004203352856_0015 20151004203352856_0017ベルンはふかく青い空が、ぬけるように高く晴れわたっていました。まさに爽秋のもっとのよい気候でした。軽く昼食を摂って、ともかくフルティガー邸に急ぎました。フルティガー宅のある Bremga 地区は、タクシーでホテルからきっちり15 分。およそ16 キロの道のりです。

スイス一国の首都とはいえ、ベルンの町はちいさく、もうすっかり郊外にでて、ゆるやかな丘陵がひろがっていました。赤いスレート瓦の建物がならぶ郊外新興住宅地といったおもむきの場所で、タクシー・ドライバーが番地をさがしはじめました。すると白髪の老人が途にでていて、
「オ~イ、ここですよ~」
なんと、にこやかな笑顔の、フルティガ一氏がわざわざ道角にたって迎えてくれたのです。

午後のひざしが、やさしくさしこむスタジオに案内していただきました。庭には黄色と紫の花がおおく、ブルーペリーが実をたくさんつけ、コスモスと藤パカマが、こい紫の花をいっぱいつけていました。建物は木造で、一部二階建の連棟式になっていました。
不朽の名作活字、メリディエン、ユニヴァースをつくり、世界に名をとどろかせたフルティガ一ほどのひとですから、もっと大邸宅とおもっていた ―― と河野さんはいいます。予想に反し、意外につましい家であり、パリ時代のアトリエと同様に北向きの簡素なアトリエでした。

20151004203352856_0010 20151004203352856_0011 20151004203352856_0016それでも周りは草花にあふれ、木のぬくもりのある、やさしい空間でした。壁をびっしりと埋める試作の文字たち。色鉛筆で描かれたパウル・クレーもどきのちいさな素描画も眼をひきます。書棚の図書の一冊一冊、あるいはドベルニ & ペイニョ活字鋳造所時代のパンチ父型(デモンストレーション用)や、メタルタイプも眼を奪います。
しばらく、みんな茫然自失、まったくことばもないという状態でした。気をとりなおして …… 、勇気をふるって持参したお土産を披露します。わたしたちのお土産ですから、それは図書であったり、さまざまな印刷物ですが。

20151004203352856_0005 20151004203352856_0008 20151004203352856_0009 20151004203352856_0013まず、白井さんの研究作品の『 Transitional & modern roman 』と題されたカレンダーです。テクストは日本語なのですが、そこはプロ同士、ふしぎに意志は通います。それをフルティガ一は隅隅まで丁寧にみて、
「とても誠実で、美しいカレンダーです。活字研究のツボを心得た作品だとおもいます。感心しました」
と、にこやかに語る。白井さんはもう耳まで赫くなって、緊張しきっています。
続いて白井さんの
ユニヴァースのレタースペーシングに関する実験作品について、コメン卜をもとめました。その解答は詩のようでもあり、哲学者のつぶやきのように、重みのあることばでした。

「わたしはタイプデザイナーです。つまり瓦づくりの職人で、建築家ではありません。白井さんは建
築家であり、デザイナーであり、このようにすばらしい能力にあふれた、ユニヴァースの組み手です。だからあなたはこれからも自信をもってユニヴァースを組んでください。瓦職人は黙って見守るのです」
おそらく、白井さんのデザイン人生にとって、この瞬間は、もっとも光輝ある瞬間であり、これからもなんらかの迷いに捉われたときに、脳裡をよぎる激励であったとおもいます。

フルティガ一は数年前に心臓を患い、パリのスタジオを閉鎖したということです。現在はベルンの自邸で、アシスタン卜もなしでタイプデザインを続けています。しかし69 歳をむかえ、疲れることもあるのでしょう …… 、スタジオの隅には簡易ベットが置かれ、いつでも横になれるようになっているのも印象的でした。
しかし眸のよさと、勘のするどさ、記憶の確かさはさすがで、わたしたちが用意していた質問にいつも先廻りをしてきます。そのうちに、ゆっくりと、驚愕するようなことを語りだしました。
つまりユニヴァース
の誕生秘話であり、その再生にいたる物語りです。

ユニヴァースの誕生、そして再生へ

わたしがチューリッヒの美術学校の学生のころ、卒業制作のテーマとして、ルネサンスの時代に、ローマの大文字が、どのようにして小文字と併用されて発達したのかを、『Schrift, Ecriture, Lettering 』という名前のジャパラ折りの小冊子に、木版に彫ってまとめたことがありました。
それに注目されたのが、パリのドベルニ & ペイニョ活字鋳造所( DP 社)の、シャルル・ペイニョ社長でした。このひとは眸のすばらしくいいひとでしたね。それが縁で、わたしはパリの14 区のフェリス通りのDP 社に住みこみで働くことになったのです。
20151004203352856_0004そうそう、あなたがたは、きのうまでパリのDP 社の跡をたどっていたんでしたね。あそこにはもうなにも残っていなかったでしょう。あの損保会社のル・マン社が入っているビルの一室で、わたしは寝とまりしていたんですよ。
毎日、毎日、暗室の中で、コンパスや定規を使って、活字母型機械彫刻機(わが国ではベントン彫刻機と俗称する)用のパータン原図をおこすことが、わたしの仕事でした。ボド二、ギャラモン、ディドなどの名作活字をリ・デザインしましたね。とても勉強になりました。

そのころD P 社はルミタイプという、写植機メーカに関係していました。初期のガラス円盤形の電算写植機の会社でしたが、そのルミタイプのヒゴノさんとマ口ーさんが、ドイツやスイスで、サンセリフが流行っているので、ウチもぜひ、ということで、シャルルさんに開発を申しこんだんですね。

そもそもシャルルさんは、まったくサンセリフの活字は好きではなかったですから、マァ、若手のわ
たしに、
「フーツラをもとにして、そんなようなサンセリフ活字を大至急つくれ」
こんな調子で、大雑把なものでした。
おかげで自由にやれたのは、ありがたかったですね。

当然フーツラを分析・検討はしました。しかしあの活字は、あまりに幾何学的で、構成的で、魅力にとぼしくみえました。

ところでわたしは1954 年に「プレジデント」という、大文字だけの活字をつくっています。そして
メリディエン、ユニヴァースとみていくと、おわかりいただけるとおもうのですが…… 、わたしの活字の骨格はひとつだけです。
ヘルマン・ツアップ氏は、力リグラフィのひとです。ですから、ツアップ氏は活字の流れを重視します。そして手の動きはひとつですが、骨格はさまざまです。
わたしは、もともとグレーパー( 彫刻土・Graver )ですし、活字の骨格はひとつだけです。

メリディエンは金属活字のために作った書体ですが …… 、長い文章、読書用にはセリフのある、メリディエンがいいとおもうのですが ――つ まり、読書するひとは、森のなかを散歩するように、あるいは通りぬけるように活字と接します。したがって活字をつくる、書体を制作するということは、たんなる技術ではなく、もっとおおきく、人生そのものなのです。

わたしの人生にとって重要なのは、ローマン体です。ルネサンスのヒューマ二ストの考えは、わたしの考えです。とりわけニコラ・ジェンソンは、わたしの師匠です。
ジェンソンの精神は、わたしの精神
です。
ジェンソンのスピリッ卜は、わたしのスピリッ卜なのです。

東洋のひとであるあなたがたは、よくおわかりでしょうが、物事には陰と陽があります。印刷された黒い部分よりも、残された白い部分が重要です。文字の形象そのものよりも、文字のカウンターや、レタースペースのほうが重要なのです。読書には、白のハーモニーこそ重要だと、すでに15世紀に、ニコラ・ジェンソンは気づいていたのです。

ユニヴァースに関しておはなしすると、もとの形、骨格は55 番で、それはひとつのみです。
それは18 ユニット
でつくりました。
さらにそれをプロジェクターで写して、ファミリーを構築しました。いままでわたしは、
およそ4,500 字ほどのユニヴァースを描いたことになります。
ユニヴァースはもともと写植活字として設計しましたので、金属活字のように、ポイント・サイズごとにパターンを描きわける、つまりサイズごとに視覚調整した(オプテイカル・スケーリング)原字の制作は不要でしたので、ウェイトや文字幅への展開、つまり、あのユニヴァースのファミリー展開は写植活字だから可能だったのです。
金属活字では、口ーマン、イタリック、スモール・キャピタル、数字や約物を描き、そのポイン卜ごとのシリーズを描きわけることで、せいいっぱいですから…… 。
写植の登場のおかげで、ユニヴァースは、 6 種類のウェイトと、 4 種類の字幅( Widths )をもった、 21 書体からなるファミリーの展開ができたのです。
20151006191541466_0001
そうして写植活字で成功したので、イギリスのモノタイプ社が、自動活字鋳植機用の金属活字に展開したのですが、こうした例は1950 年代では、はじめてかもしれませんね。D P社が手組用の金属活字にしたのは、さらにそのあとのことです。
ユニヴァースは、56 年の製作発表、57 年の発売ですので、今年でちょうど40 年になります…… 。
DP 社は1972 年に閉鎖されましたので、ユニヴァースの販売権は、その後、スイスのハース社に、そしてドイツのステンペル社、ライノタイプ・へル社に移っていきました。

現在世界中で、およそ100 社ほどが、さまざまなフォーマットでユニヴァースを販売しています。それはそれで嬉しいのですが、問題がなくはありません。
たとえばユニヴァース85 番は、ドイツ連邦銀行のハウス・スタイルとしてユニヴァースが採用されたため、太いウェイトを ―― ということで、要求があったのですが、至急に欲しいということで、ベルトルド社のギュンター・ランゲ氏が製作したもので、わたしが描いたのではありません。
40 年もたてば、なんでもいろいろな問題が発生するということでしょうか。

同じころに誕生したへルペチカは、いまやカジュアルで、ブルー・ジーンズのように、だれもが使えるものになりました。そこでわたしは40 年ぶりに、ユニバースを手元にもどして、改刻を加えながら、25 番台のUltra light 、35 番台のThin 、85 番台もあたらしくわたしが描いて、Heavy 、95 番台のBlack 、105 番台のExtra Black のファミリーに拡張しようとしています。これで都合59 の新ユニヴァース・ファミリーが誕生することになります。
Jenson Romanの成立 55 Jenson Romanの成立 56
(1472年 ヴェネツィア ニコラ・ジェンソン 図版資料提供:木村雅彦氏

わたしはそれまで、ニコラ・ジエンソン(1420-80 )と、その活字にあまり注目したことがありませんでした 。そこでこのたびのフルティガ一氏の指摘を得て、約30 年後のアルダス・マヌティウスの印刷所の活字と並べて比較してみました。
アルダスは明快で均整がとれて、エックス・ハイトが高めに設計されているのにたいして、ジェンソンは、力リグラフィ的で、どこか不統一で、バランスを失してみえますし、なにより土くさく、泥くさくみえてきます。

さらにアルダスは、ギャラモンやベンボの誕生に、おおきな影響を与えていますが、ジェンソンは、ようやく420年ほどのちに、ウィリアム・モリスによって、ゴールデン・タイプ(1890 )に、エメリ・ウォカーとコブデン・サンダーソンによって、ダブスプレス・ローマン(1899 )に、ブルース・口ジャースによってモンテ一二ュ(1902 )、セントール(1914 )と復刻を得たり、影響を与えたのみで、その系譜は途切れたものと考えていました。

もしかすると、ウィリアム・モリスのゴールデン・タイプの図像ばかりをみせられて、その過剰な中世趣味に醇易して、ニコラ・ジェンソンにおおきな誤解をもっていたのではないかと反省させられました。
しかし、フルティガーの製作による、プレジデント、メリディエンを、ジェンソンを通してみてみると、その影響のおおきさは明瞭になってきます。さらに、うがちすぎかもしれませんが、ユニヴァースにおける素材感や、土くささのようなものも、そこに透けてみえてくるようにおもえてきます。
15世紀インキュナブラのひと、ニコラ・ジェンソンの精神とその造形は、まぎれもなく、20世紀スイスのひと、アドリアン・フルティガーによって継承されていました。

このユニヴァースの改刻の作業は、40 年ぶりに子供が家に帰ってきたようなものですから、それはそれは楽しい作業ですね。ライノタイプ・へル社がパック・アップしてくれています。
同社ではコンビュータのインターポーレーション技術も使って
いますが、わたしは40 年前とまったくおなじ、手の作業で仕事をしています。
わたしたち老夫婦にとって、すでに貯えは十分にありますので不安はありません。ですから、このプロジェクトの報酬は、きわめてわずかなものです。わたしの願いは、よい活字が、ながく存続していくことにあるのです。

以上がフルティガ一氏の語った、ユニヴァースに関するあらましです。あまり著作の中で語られていない事柄も多く、そのひとこと、ひとことが、肺腑をえぐるような重みで迫るものがありました。とりわけニコラ・ジェンソンが、フルティガ一氏のこころの師であると述べたときなど、全身に鳥肌がサァッーと立つような緊張感と、迫力がありました。
もちろん、フルティガ一氏は、フランス語で話された訳であり、酒井
哲郎氏の的確な通訳を得て記録されたものです。このひと、わたしの悪友ですが、まことに名通訳でした。正式に頼むと相当に高いギャラ( らしい)を要求されます。
20151004203352856_0007 20151004203352856_0014
宙を翔ぶような、雲のなかをただようような、快い興奮と、感激のときは終わりました。おたが い別れがたいおもいはありました。
最後におもいがけず、フルティガ一氏が、ホテルまで送っていくといいだし
ました。
「ホテルはどちらですか」
即座にわたしたちは、三人で声をそろえて、胸をはって、
「シュワイツァホフです」
今回の旅のなかで、唯一自慢できるホテルなのですから ――。
明日も早起きして、酒井氏はパリに戻り、わたしたちはアルプスを越えて、イタリアへの電車の旅がまっています。

【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*05 アメリカン・ポイントシステムの規準

《 金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムと、コンピュータ上の DTP ポイントシステムの相違 》
タイポグラフィにおける現今の話題は、コンピューター一色であり、おおかたは、そこにおける DTP ソフトウェアなどへの対応と、デジタル書籍への対処が中心のようである。

デジタル書籍への対処はひとまず措いて、金属活字組版が写真植字法をへて、コンピューター上のデジタルタイプになって、なにが変わったのかをみると、相変わらずヤード・ポンド法の長さの単位、インチ ( Inch ) と パイカ ( Pica ) と ポイントサイズ ( Pointsize ) を基本としており、大きくは金属活字時代のアメリカン・ポイントシステムとはなにも基本的には変わっていないことがわかる。

20150424155225361_0001すなわち DTPポイント とは、金属活字時代の基本尺度の 1 pt ≒  1/72 in ( 0.3514 mm ) から、 およそ( ≒ )が、正確な( = ) になっており、あいまいさが回避された功績はおおきいが、金属活字時代のアメリカン ・ ポイントシステムの概念を DTP システムも継承し、組版寸法と計測単位だけをみると、相変わらずインチ、パイカ、ポイントとしており、大差のないものとなっている。

◯ アメリカン ・ ポイントシステム    1 pt  ≒   1/72 in  ( 0.3514 mm )

◯ DTP ポイントシステム            1 pt  =   1/72 in  ( 0.352777……. mm ) 

20150828173130703_0001
大正13年版 『活字と器械』 口絵 (東京築地活版製造所)

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つまり、欧文組版でも、和文組版でも、アメリカン・ポイントシステムを規準としたばあいには、

72 points = 1 inch

であり、以下の公式だけを丸暗記しておけばよいことになる。
こだわりのあるかたで、簡便ながら正確な透明スケールをご希望のかたは、ご来社いただければ頒価500円[税込]で進呈したい。

pika

 

タイポグラファ群像 008* いちずに本木昌造顕彰にはげんだひと 阿津坂 實

2015.9.19学会レクチャー_ページ_03近代活版印刷術発祥地のひとつ、長崎にうまれた阿津坂 實(あつさか みのる)氏は、徴兵検査にさいし胸部疾患が疑われて軍隊への召集を免れた。その後は療養につとめ、また地元の印刷企業に勤務していた。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20)08月09日、長崎へ原子爆弾が投下され、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち、およそ7万4千人が死没、建物はおよそ36%が全焼または全半壊した。

原爆は長崎市浦上地区の中央で爆発してこの地区を壊滅させた。しかしながら浦上地区は、長崎市の中心部からは 3 kmほど離れていたことと、平坦地の広島市の場合と異なり、金比羅山など多くの山や丘による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて、市域中央部での被害は比較的軽微であった。
また県や市の行政機能も全滅を免れていた。
それでも長年にわたり、原爆による後遺症は長崎市民におもくのしかかっていた。
阿津坂氏は原爆被害に関して論及することは少なかったが、被爆者手帳の所持者であり、戦争を憎み、平和を希求することに篤かった。

戦後の復興が急がれた長崎県であったが、県都長崎市の原爆被害もあって復興は難航した。そのなかで阿津坂實氏は1947年(昭和22)08月、長崎県印刷工業協同組合に入組し、1956年(昭和31)併設された長崎県印刷工業組合と双方の、事務局員、事務長、専務理事などを歴任し、1988年(昭和65)依願退職するまでの40数年余にわたってその任にあった。
その後も両組合の相談役として、長崎県と長崎市の印刷業界におおきな影響をのこし、2013三年(平成25)にすべての役職から退任した。
2015.9.19学会レクチャー_ページ_08 2015.9.19学会レクチャー_ページ_06阿津坂實氏が、印刷業の祖、郷土の偉人として本木昌造をつよく意識したのは、長崎県印刷工業協同組合に入組してからまもなくのことである。
まず戦争末期に金属供出令で失われていた本木昌造の銅像(座像)を再建するために、1953年(昭和28)本木昌造銅像再建運動を事務方として開始し、はやくも翌年に、ところもおなじ諏訪公園に本木昌造銅像(立像)が再建された。
1968年(昭和43)長崎県印刷工業協同組合、長崎県印刷工業組合の双方の事務長に就任し、1972年(昭和47)専務理事に就任した阿津坂氏は、長崎県中小企業団体中央協議会、長崎県商工会議所などからさまざまな事業の委嘱をうけての活動も目立っていた。
また中小企業庁長官賞、長崎県知事表彰などの賞歴をかさねたのもこの時期である。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_04 2015.9.19学会レクチャー_ページ_05 2015.9.19学会レクチャー_ページ_09タイポグラフィ研究と印刷史研究は、首都東京では、三谷幸吉、川田久長、牧治三郎らによって、戦前から一定の規模ですすんでいたが、長崎では長崎学・郷土史家の、古賀十二郎、渡辺庫輔、田栗奎作らが、幕末から明治初期の長崎の状況の一環として、わずかに触れる程度にとどまり、資料の発掘も滞りがちであった。
阿津坂氏は長崎の各地に収蔵されていたこれらのタイポグラフィ関連資料を再発掘し、目録を製作するとともに、それを広く公開して、『長崎印刷組合史』、『長崎印刷百年史』の編纂をはじめ、『東京の印刷百年史』、『大阪印刷百年史』、『多摩の印刷史』など、各地の印刷組合や印刷企業の年史編纂のために、活字版印刷揺籃の地・長崎の資料を提供し、また後続の研究者にも積極的な情報提供と支援をつづけた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_02あわせて長崎各所にあった、活字版印刷の揺籃期の事業と施設を再検証し、「本木昌造生家跡碑」、「活版伝習所跡碑」、「新町私塾跡碑」、「福地櫻痴生誕地碑」などの建立をめざしての活躍も目立った。
また、本木昌造旧宅が取りこわされることになったとき、大学の建築学部に依頼して、詳細な実測図を論文としてのこすことにも協力をおしまたかったし、桜井孝三氏とともに、八丈島に現地調査にでかけ、本木昌造/平野富二らの漂着地が、それまで通説となっていた「相川浦」ではなく、「藍ヶ江」であることを発表した。

「本木昌造没後百年供養」を契機として、1975年(昭和50)長崎に戦前からあった「本木昌造頌徳会」を改組改称して「本木昌造顕彰会」を創設することにも尽力した。
この「本木昌造顕彰会」と株式会社モリサワが母体となって「本木昌造活字復元プロジェクト」が開始された。 このプロジェクトは長期間におよび、当時の長崎県印刷工業組合理事長/内田信康氏、後進の長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏らとともに、阿津坂實氏も「NPO法人 近代印刷活字文化保存会」にあって陰助をかさね、
その成果は『日本の近代活字-本木昌造とその周辺』、『活字文明開化-本木昌造が築いた近代』の、あたらしい視座にもとづいた二冊の図書に結実した。

阿津坂實氏は長崎県印刷工業協同組合での勤務のかたわら、多趣味のひととしても知られ、自慢の調理の腕をいかして、長崎駅前に「中華料理店・飛龍園」を一家で営むいっぽう、生花の師範としてもおおくの子弟の育成にあたった。
家庭には長男・貴和、田中家に嫁した長女・三重 ミツエ、次女・邦子の一男二女をなし、長女の没後にはふたりの孫娘(田中裕子・田中恵子)も手もとに引き取って養育にあたった。
晩年はさすがに車椅子に頼ることがふえたが、家庭と店頭にはみずから活けた生花を欠かさず、デイケア・サービスではカラオケに興じた。

2015.9.19学会レクチャー_ページ_102007年(平成19)<活版ルネサンス>を標榜して「朗文堂アダナ・プレス倶楽部」が始動し、翌年五月に<活版凸凹フェスタ2008>を初開催した際には、長崎から東京・四谷の会場に駆けつけられ、このようにかたられた。
「本木昌造先生は嘉永年間のはじめのころから活字版印刷の事業に着手していた。活字版印刷は一度すっかり衰退したが、この一六〇年ぶりの再挑戦でぜひとも復興させて欲しい。活字版印刷は文化の根底をなすものですから、これを絶滅させたらいけません」

2013年(平成24) 初秋、東京で働くようになったふたりの孫娘の支援をえて阿津坂氏が上京され、東京白銀台の八芳園 にみずから席をもうけられ、全日本印刷工業組合連合会専務理事:武石三平氏、『多摩の印刷史』編著者・東信堂印刷所代表:桜井孝三氏夫妻、片塩二朗、大石 薫をまねかれた。
「ワタシ は若いころに本木昌造先生の銅像の再建をお手伝いした。それからは菩提寺の大光寺の本木家墓前に供花するとともに、諏訪公園の本木昌造先生のお姿をいつも拝見してきた。

それなのに東京ではどうなっているのだろう。 東京では平野富二さんの初進出の場所の特定もできていないし、東京築地活版製造所の跡には簡単な碑文があるだけです。
平野さんに関していえば、まずはその初進出の場所を正確に特定すること。ワタシ は若いころからそうした努力をした。
それと、やはりそのお姿が眼前にあってこそ、開拓者の苦心が偲べるという面はおおきいとおもう。長崎と大阪には本木昌造先生の立派な銅像が建立されている。そこで東京には、文明開化をもたらした活字版印刷の創始者として、平野富二さんの銅像、できれば本木先生と平野さんが並び立つ銅像をつくって欲しい。これが阿津坂の遺言だとおもって聴いてほしい」

2014年(平成26)09月、長崎の阿津坂家では、阿津坂實氏の99歳をむかえた「白寿の祝い」が開催された。
タイポグラフィ学会には「本木昌造賞」の受賞対象者として阿津坂實氏とする推薦状が提出された。
そのためタイポグラフィ学会では顕彰委員会が招集されて審議がなされた。 顕彰委員会では若干の議論があったと仄聞する。それは「本木昌造賞」は優れたタイポグラフィ論文の執筆者に授与されるものであり、阿津坂氏の功績は、タイポグラフィに優れた業績・顕著な功績をのこしたものに授与される「平野富二賞」がふさわしいのではないかとするものであった。

阿津坂氏の主著とされるものは「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ-本木昌造」『本木昌造先生略伝』(長崎県印刷工業組合創立四十周年記念/本木昌造先生歿後百二十周年記念、長崎県印刷工業組合、平成七年九月)を見る程度であることはたしかである。
しかしながら『長崎印刷百年史』(長崎印刷百年史刊行編纂委員会/主著者:田栗奎作、長崎県印刷工業組合、昭和45年11月)、『長崎印刷組合史-百年史の追補とその後の三〇年』(長崎県印刷工業組合/長崎県印刷工業協同組合/主著者:種吉義人、長崎県印刷工業組合、平成10年10月)の両書は、組合事業関連の部分の執筆、主著者への資料提供の多くは阿津坂氏によることが両書にもしるされている。
こうした功績と、ひとえに本木昌造の遺業をかたりつぐことに尽力された阿津坂氏の業績を勘案して「本木昌造賞」の授与が内定し、ご本人、ならびにご家族にも通知された。

タイポグラフィ学会では顕彰委員会と理事会の承認を経て、例年07-09月に東京で開催されている定例総会を、2015年は長崎で開催し、その際に阿津坂實氏への「本木昌造賞授与式」を併催する計画が進行していた。
まさにその計画の進行中、2015年(平成27)05月07日、阿津坂實氏は逝去された。
そのためご家族とも協議して、「本木昌造賞授与式」は東京での定期総会と併催して、お孫さん(田中裕子・田中恵子)おふたりに列席していただくことになった。

 【阿津坂 實氏の活動紹介 PDF  2015.9.19 atusaka 2.31MB 】

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【タイポグラフィ学会】
『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露および
第3回本木昌造賞授賞式を開催

2015.9.19学会レクチャー_ページ_01

タイポグラフィ学会は、秋晴れの抜けるような晴天のもと、2015年9月19日[土]、定例年次総会につづき、一般公開で、『タイポグラフィ学会誌08号』刊行披露会および、第3回本木昌造賞授賞式をとりおこないました。
<第3回本木昌造賞授賞式>は、山本太郎会長の挨拶につづき、プレゼンターに平野富二玄孫:平野正一会員があたり、阿津坂 實氏の孫娘、田中裕子・田中恵子両氏に賞状ならびに記念品が授与されました。

<第3回本木昌造賞授賞式>には、タイポグラフィ学会会員のほか、多数の皆さまのご来場をいただきました。ご参加ありがとうございました。詳細報告はタイポグラフィ学会のWebSiteで近日中にいたします。
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【アダナ・プレス倶楽部 会員情報】 アルドの遺伝子-東京製本倶楽部

 

アルドの遺伝子_01 アルドの遺伝子_02アルドの遺伝子

学術出版の祖アルド・マヌーツィオ500年忌
15世紀の書物から現代ルリユールまで

◯ 日 時 : 2015年10月5日[月]-2015年11月19日[木]
10:00-18:00  日曜日および11月6日[金]閉室
ただし、10月18日[日]は開室(10:00-17:00)
◯ 
会 場 : 早稲田大学総合学術情報センター 2階展示室
◯ 
主 催 : 早稲田大学図書館 ・ 東京製本倶楽部
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今年2015年は、ルネサンス時代にヴェネツィアで活躍した、印刷出版業者アルド・マヌーツィオが亡くなってちょうど500年になります。
「ルネサンス」とは古代ギリシア・ローマの文芸の復興・再生です。アルド・マヌーツィオはまさにそれを印刷術の面から成し遂げた一人に数えられます。
また、書物に様々な工夫を施して書物を中世から近代の姿に改良した人物として知られています。
本展覧会は、アルド・マヌーツィオを彼とその後継者たちの仕事と、彼の遺伝子を受け継いで出版された様々な資料によって振り返り、アルドの500年忌を記念するものです

展覧会は大きく4 つの部分から構成されています。
第1 部は、活版印刷術の誕生からアルド・マヌーツィオ以前のヴェネツィアの印刷物です。
第2 部は、アルド・マヌーツィオとその後継者およびその影響で刊行された資料です。
第3部は、アルド・マヌーツィオに関するわが国初の単行書『アルド・マヌーツィオとルネサンス文芸復興』(東京製本倶楽部、2014年)を、日本を代表する24名の装丁家が独自のデザインと技術によって制作したルリユール作品です。
第4部は、アルドの遺伝子を受け継いだ英国の出版社の作品と、今日までに刊行された主なアルド書誌と、1994年と2015年に欧米で開催された展覧会カタログからなります。

アルド・マヌーツィオの500年忌に、ルネサンス時代から現代にまで連綿と引き継がれているアルドの遺伝子をごゆっくりとお楽しみください。
【 詳細情報 : 東京製本倶楽部