朗文堂―好日録」カテゴリーアーカイブ

朗文堂好日録039-春を待つ日日。わっせクン、才助とかわす朝の挨拶

朗文堂 タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏 > には、さまざまなカテゴリーをもうけているが、そのひとつに、「 朗文堂好日録 」 のカテゴリーがある。 このコーナーは、いつの間にか39回の掲載をみた。

もともと <花 筏> には、日日のよしなしごとを、気軽にしるしてきた。
なかんずく、「 朗文堂好日録 」 には、もろもろのことを、おもいつくままにしるしてきた。
それが良かったのか 悪かったのかしらないが、おもいのほか ( わがままきわまる ) 固定読者がいて、すこしでも掲載をおこたると、「 躰の具合でもわるいのか 」 と心配(のフリ)をしてお便りを頂戴したり、ときには 「 サボるな!」 とメールで叱責されたりする。
花筏 京都・哲学の道【 花筏 : タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏での花筏 2013年12月28日
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あちこちに、なんどかしるしてきたが、ノー学部がベランダいっぱいに煉瓦を積みあげ(それ以降は放置
)、さまざまな艸艸を植え、たいせつにしてきた(やつがれ) 「 空中花壇 」 を、昨年、マンションの補修工事のために、ロダンの椅子 ( 100円ショップで購入のバケツを裏返したものダケド ) もろとも、完全に撤去されてしまった。

万事にしまりが無く、だらしないやつがれではあるが、唯一自慢できるのは、こよなく喫煙を愛するがゆえに、布団にはいっての 「 寝たばこ 」 をしないことである。
この誇るべき、うるわしき習慣は、まだ田舎の中学生のみぎり、布団をひっかぶって 「 かくれたばこ 」 を吸っているうちに、ついつい心地よくなってうたた寝をし、布団を焦がし、火傷を負ったあげく、オヤジに張りとばされたことによる。
したがってそれ以来、寝室というより自宅内では喫煙はしないし、もちろん灰皿もおいていない。 ただし、ばんやむを得ず、日中はきりなく喫煙するので、最近は威勢の良い、嫌煙家の諸君 ・ 諸嬢からはきらわれることはなはだしい昨今の窮状である。

DSCN7958 DSCN7987 DSCN7990 DSCN7989 DSCN7994 DSCN7977というわけで、寝起きのたばこは、寒かろうが、暑かろうが、ベランダで吸う。
これがまた、ことのほか美味いのである。 思索に耽る ?!  ための 「 ロダンの椅子 」はまだ復元していないし、もちろん 「 空中庭園 」 は、姿、形とも無い。

それでもベランダには徐徐に植物が増えてきた。 鉢植えの、花屋で買ってきたようなものだが、この冬は 「 ナデシコ 」 の寄せ植えが色とりどりの花をつけ、目を楽しませてくれた。
昨年の11月に鹿児島で買ったイチゴ(品種はわすれた)は、寒さにふるえながらも、けなげに花をつけ、実になろうとしているようだ。

ところで、ベランダを占拠している異物が < わっせクン > である。 < わっせクン > はバレンタイン モトイ ハロウィンのときに ノ ー学部がなにかのついでに100円ショップで買ってきた。
価格は安いが、ソーラーパワー ( 太陽電池 ) がどこかに内蔵されているらしく、陽射しがつよい日には 「 わっせ、わっせ 」 と左右に躰をはげしく振動させる。
ただそれだけのものだが、目覚めの一服のさなかは、たったひとりの朋輩であり、見飽きることがない。 だからベランダにでると、まず、勝手に名づけた < わっせクン > と挨拶、顔合わせをつづけている。

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< 才助 > は、鹿児島市長田町の五代友厚生誕地をたずねたとき、石垣の割れ目にチンマリと張りついていたちいさな野艸を、三株、たばこの空き箱にいれて持ち帰ったものである。
かにかくに、五代友厚 ( 1836-85  幼名 : 徳助、通称 : 才助 ) は、そのうちに各方面であらたな震撼をあたえるとおもわれるが、いまのところは静かにしておこう。 【 ウィキペディア : 五代友厚

鹿児島からもちかえったこの艸に、油かすの肥料をたっぷりあたえ、鉢植えにした。 残念なことに移植の直後に一株はカラスにもちさられたが、冬だというのにみるみる成長した。 石垣の割れ目では、いかんせん気の毒な感じがしたものだ。
この艸の名前はいまだにわからない。 名前がないのもなにかと不便だから < 才助 > と名づけて成長をみまもっているが、どうもたんなるデージーのような気がしないでもない。
それならそれでも良い。 やつがれ、五代才助こと、五代友厚の 稚気にみちた才覚が好きであるから……。
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2013年清明節に咲いた菜の花。
DSCN9993上掲02点の写真は、上が菜の花、下が野沢菜である。
菜の花はかつて 「 空中庭園 」 での栽培で、昨年年末にアダナ ・ プレス倶楽部忘年会に供した 「 野沢菜 」 は、ベランダでの鉢植えで育てた。

やつがれのふるさと、信州最北部では、菜の花よりも野沢菜の開花をたのしむふうがあった。
ことしは菜の花のふりをした野沢菜の開花をみるために、正月元旦に(ひまだったから)鉢いっぱいにレンゲ草とまぜまぜにして播種した。 いまはようやくフタバをつけたところである。
やつがれ、雪国うまれではあるが、関東平野のこの乾燥した寒さは苦手である。
春をまつこころ、切なるものがあるこのごろである。

春を待つこころ ー 早春賦の碑

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唱歌 『 早春賦 』(そうしゅんふ)は、1913年(大正02年)に発表されたもので、吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌。
この時代の唱歌によくみられるように、モーツァルト作曲の歌曲 『 春への憧れ 』 K.596 との曲想の類似性が指摘されている。

この歌碑は、春の訪れがおそい、長野県安曇野市穂高の穂高川の岸辺に建っている。
その脇には、北アルプスの湧水をもちいた「わさび田」がひろがっている。
如月、二月、このあたりは丈余の雪にうもれている。 春をまつこころ、せつなるものがある。
[ 2014年11月23日 撮影 ]
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【 YouTube : 早春賦   由紀さおり & 安田祥子
【 関連情報 : 早春賦の碑

朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

プラハ

   01  プロローグ 

01 02 03 04プラハで市販の 長尺観光絵はがき より

やつがれは、信州信濃の山奥からでてきた暢気な次男坊カラスである。
もともとバックひとつをぶら下げ、ふらりとお江戸にでてきたから、ものごと、金銭、身分、地位にこだわりはすくない。
むしろお江戸に倦んだら、またべつのところ ― 帰郷するか、天国か地獄 -にでも、まぁどこにでも往けばよいとおもう。
往って、そこで生きる ―― 往生か。 それもいいなぁとおもう。

つまり、おおかたの長男坊のように、家や門地にとらわれ、しがらみや守るべきものがないから、ものごとに拘泥するのは好きではない。 さらなる悪癖は、世間様の常識とされるものや、きまりごとには、むしろ反発することのほうがおおい(損な性分でもある)。

それより、たれにも、なににも、縛られることなくいきていたいとおもう。 等身大の自由人としてすくっと立っていたい。 また本気で 「 やつがれは、衣食住には関心がない 」 といってあきれられることのほうが多い。
こうした阿呆な次男坊カラスのことを、長男坊、有名人好き、権威好き、上昇志向が旺盛なひとは、
「 まるでボヘミヤの住人のようだ ―― という意で―― ボヘミアン Bohemian 」
と呼んで軽視もしくは蔑視するふうがある。

ボヘミアンとはもともとボヘミア地方の住人のことで、その中心都市はチェコのプラハである。
ボヘミアン ― チェコのひとは、欧州の中心に位置しているという自負がある。 ただしその地勢的な位置関係から、避けがたく、絶えず隣国の脅威にさらされ、それと闘い、ときには流浪し、堪え忍んできたという歴史もある。

また鉄鋼業を中心に産業もさかんであり、古来地味はゆたかで、ジャガイモ、テンサイ、ホップなどの農産物がおおく、チェコのビールは格段の味わいらしい。
下戸のやつがれはつまびらかにしないが、わが国でよく語られるほど、ドイツではビールを飲まないし、むしろワイン、それも白ワインを自慢するふうがあった。
ところがプラハでは、街のいたるところにビアレストランがあって、夕まぐれから深夜にかけて、おおきなジョッキを傾ける光景をしばしばみかけた。 またガラス工芸、機械工業も盛んな地である。

すなわち 「 ボヘミアン、おおいに結構じゃないか 」 とおもい、一度はプラハにいきたかった。
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ところでノー学部。 オカルトだい好きのノー学部の本棚には、やつがれがアンタッチャブルな一隅がある。
趣向が異なるやつがれには詳しいことは不明だが、そこには不気味な書籍がずらりと並んでいることは知っていた ( のちにその多くに、ヤン ・ シュヴァンクマイエル などの、チェコとゆかりの深い資料が含まれていることを知ることになる )。

そしてはなしの端端から、ノー学部も長年チェコ行きの機会をうかがっていたことも気がついていた。
ただしやつがれが10年ほど前に からだを壊したことと、飛行場や航空機が禁煙となり、愛煙家として大陸横断の長距離フライトを敬遠したために、最近は国外旅行といえば、もっぱら近場の中国や台湾が主流となっていた。

しかし一昨年2013年の年末、ノー学部がいつものごとく、やつがれにはなんの相談もなく、唐突に、
「 来年の秋に、チェコに行くチケットを予約したからね 」

とのたまわった。
そんなわけで、2014年の晩夏に03泊04日の弾丸旅行でプラハにいった。
報告がおそくなったがここ < 花筏 > に何度かにわけて報告したい。

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プラハ到着の翌日、時差のせいもあって、早朝から起床してホテルの近くを散策した。
市民会館前の広場に面して ちいさな教会があり、その石彫の文字がおもしろかった。 聖書の一節らしかったが読めなかった。
それでも こういう素朴な教会には似合いの石刻文字であり、「ローマ大文字 I 」 が長くのばして書かれている 「イ ・ ロンガ、アイ ・ ロング 」 も印象的
だった。

協会中庭の壁面に 数枚の木製の長板があった。 わが国の 「 千社札 」 のように、ここに礼拝した記念にのこすのであろうか、金属製のプレートに名前や祈祷の句を、刻印やシルク印刷にしたプレートが、たくさん木製の板に打ちつけてあった。
この習慣は合理的で、長尺の木板がプレートでいっぱいになると、教会内部の一隅に一定期間保存されるらしい。  これならば、ところ構わず、薄汚れた 「 千社札 」 がベタベタと貼りつけられた わが国の神社仏閣よりは、よほど清潔でよい。

《 プラハは様式のまちとされる ―― ロトンダとゴシックの建築と活字書体 》

LETTERS OF LATIN ORIJIN
ローマを起源とする文字
Roman Letter   なめらかな文字 : ローマン体
Blackletter   折れた文字 : ブラックレター

◯ Blackletter  = Round Gothic,  Rotunda -ラウンド・ ゴシック、ロトンダ  since 1486
i , n , m の上部のセリフが、鋭い尖りではないが折れている。カロリング朝の小文字のようなまるみを持つ。
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◯ Blackletter  = Textur - テクストゥール since 1455
小文字のストロークがほとんど折れている。
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                     参照資料 ―― ヤン ・ チヒョルト  『 書物と活字』  ( 朗文堂、p.24)  DSCN5855 DSCN5851rotunda_01rotunda_02ロトンダ系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

プラハのもっともふるい地域、ヴィシェフラド丘に現存するロトンダ様式の教会。
1100年ごろに建てられた聖マルティン教会のロトンダで、現存する建物の中ではプラハ最古の建築物とされる。 

このころの石積みは素朴で、ロマネスク様式の特徴である平天井を支えるために、石壁は粗削りで、分厚く、入り口や窓はちいさく開けられていることが特徴である。
この正面入り口は後世に改造されたとみられるが、壁と採光のための窓は創建時の素朴さをたもっていた。
この教会には、活字書体 < ロトンダ > が似合いだとおもった。 しばらくベンチや芝生に腰をおろしてながめていたが飽きなかった。
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DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 liturgisch_02テクストゥール系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

プラハ観光の最大の中心地、プラハ城には、ゴシック、ロマネスク、ルネサンス、アールヌーヴォなどの様様な様式の建築物があるが、なんといっても、天を突く尖塔がシンボルのゴシック様式による 「 聖ヴィート大聖堂 」 が観光客をあつめていた。

09月なかば、この晩夏の時期は、欧州では 「 アフター ・ バカンス 」 とされる。 バカンスの期間は混雑を避けて旅行を控えていた高齢者と、バカンス期間にアルバイトをして、懐があたたかくなった若者たちが、オフシーズンで安くなったチケット利用しての旅行者が多くみられた。
この建物は F ・ キセラの設計によるもので、内側からみると、画家/アルフォンス ・ ムハ ( わが国では ムシャ ) らによるステンドグラスが美しい ( らしい。 やつがれ、混雑につかれて内部には入らなかったゆえに失敗した )。

「 聖ヴィート大聖堂 」 のファサード上部に、いわゆるブラックレターの掲示板があった。
この系統の書体は、活字界では 「 テクストゥール 」 とよばれる。 ゴシック様式の尖塔によく似た、鋭角的で、ゴツゴツとした突起の目立つ形象の活字書体である。
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明け方は閑散としていたホテル近くの市民会館広場だったが、しば
らくすると露天がたくさんでていた。チェコのものなりの豊穣さを感じさせる店がおおく、チマチマとプラスチックのケースやビニール袋などに入れず、おおきな箱にはいって、ドカンドカンと陳列され、地元客と観光客とであふれていた。

その一画に 「 鍛冶屋 」 が出店していた。 コークスが赫く燃え、鞴フイゴこそ足踏みにかえてモーターを用いていたが、ふるくからあった村の鍛冶屋のふんいきがよかったし、オヤジの頑固そうな風采も気に入った。

だいぶ長いことアホ面をさらして「 鍛冶屋 」をみていたので、脇の店舗でテヘッとした表情の「蜘蛛」の細工物を買った。 オヤジが気になったのかのぞいて、塗料がはげているから直す……、という素振りをみせたが、このテヘッとした表情には、かえって塗料がはげかかったそれがよかった。

プラハは職人と工匠のまちでもあった。
あの「千社札」のようなプレートも、こうした工匠がいてこそ製作される。 わが祖国よ、日本よ、いつのまにか、ものづくりの匠のこころと、技芸家、アルチザンの精神をうしなってはいないだろうか……。

おそい夕陽がさすころ急に冷気がしのびよせた。
広場の片隅で、珈琲をのみながらそんなおもいに沈んだ。
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朗文堂好日録ー037 なにかとあわただしい師走です。【再掲載】 ポストカード postcard と クリスマス Christmas

uparunn DSCN4450 DSCN7406 DSCN9509ひさしぶりに < 朗文堂好日録 > をばしるさむ。
世間様では 「 師走 」 とて、なにかとあわただしいきょうこのごろである。 おまけにこんなときに、身勝手にもほどがあろうかという、衆議院議員選挙までかさなってしまった。

まぁそんな世間をよそに、わが家のサラマンダー、珍獣ウーパールーパーは、初代のアルビノこそ飼育に失敗したものの、「 ウパルン 」 「 ウパラン 」 の二匹とも、アイスクリームのカップに入ってやてきたとはおもえないほど、おおきくなったし、元気いっぱいである。
ふだんは海底に潜む潜水艦さながら、水槽の下にへばりついて運動不足が心配されるが、お腹がすくと、水草も蹴倒して餌の催促である。

従順な犬や猫がかわいいのはあたりまえだが、「 火喰い蜥蜴 トカゲ」 ともされるサラマンダーを、ペットとして飼育するのには、若干の諧謔趣味が必要かもしれない。 ふつうの感覚なら不気味とされても仕方なかろう。
それでも飼育をつづけると愛着が湧くもので、短文ブログなどでは、毎日のように サラマンダー自慢 をするひともいる。

< ウチの 仔 ?  は イケメン ?  だし、日本でいちばんかわいい ?  ワ、 ネッ !   ?? >
ネッ !   といわれても、ウチの「 ウパルン 」 「 ウパラン 」 と大差なくみえるから困る。
まぁサラマンダーが かわいいものかどうかの判断は、皆さんにお任せしよう。
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adana トップページPB010728 PB010732 PB010741 PB010744

そんなわけで [ どんなわけでしょう?]、2014年04月に投入した 小型活版印刷機 Salama-21A は順調な出荷が続いている。
また朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の <活版礼讃> のイベント、< Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO > も、「 5,000人を遙かに超え、 6,000人近いご入場者-尚古集成館の報告 」 をみて 盛況裡に終了した。
なによりもの成果は、南九州に < 活版礼讃 > のちいさな種子を
のこすことができたことである。

<新宿私塾>は第25期生の諸君が真摯な学習を続けているし、< Salama-21A  操作指導教室 > は間断なく開催されている。 新春からは < 活版カレッジ > が 久しぶりに昼間部での開催が予定されている。
< 朗文堂ブックコスミイク > は、新刊書の拡販と、既刊書のていねいな補充に気配りをしているし、来年の大型企画も始動中である。
<朗文堂タイプコスミイク> も、ことしは新書体の発表こそなかったものの、堅実な販売が持続している。
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師走に入った直後に、所用があって本郷の東大キャンパスにでかけた。 キャンパスのなかではイチョウが色づき、まちはすでにクリスマス商戦と歳末商戦にはいっていた。
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そんなわけで [ どんなわけでしょう?]、朗文堂は師走には関係なく、あわただしい日日をすごしている。
例年のことながら、年賀状の準備にもとりかかっている。
同行者がクリスマス ・ グッズを購入したので、フト ふるい記事をおもいだした。

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ふるい記事で恐縮ではあるが、本年の 「 ゴールデンウィーク 」 の無聊を慰めるためにしるした一文を再掲載したい。お役にたてば幸甚である。

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【再掲載】 ポストカード postcard と クリスマス Christmas
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 本項の初掲載は2014年05月03日であった。
テーマと問題点に進行がみられないこともあり、ここに再掲載した。

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《 黄金週間 ゴールデンウィークに入りました。 皆さまお元気ですか? 》

例年この長期休暇、ゴールデンウィークの期間中は 〈 朗文堂 〉 と 〈 アダナ ・ プレス倶楽部 〉 の WebSite は、双方ともに訪問者が減少します。
長期休暇の乏しいわが国のことですから、皆さまは、旅行に、帰省にと、楽しくゴールデンウィークをお過ごしのことと存じます。

ところでこの休暇を、かつては 「 黄金週間 」 と呼んで、その直前になると、新聞紙面などには賑やかに見出し活字の 「 黄金週間 」 の見出しが躍っていました。 それがいつの間にか 「 ゴールデンウィーク 」 に転じ、ことしの新聞の見出しには 「 GW 」 と、全角欧文 !?  で、縦組みになったタイトルが踊っていました。
このすっかりおなじみとなった 「 ゴールデンウィーク 」 を、『 広辞苑 』 にあたってみました。

【 ゴールデン-ウィーク 】  ( 和製語  golden week )  4月末から5月初めの休日の多い週。 黄金週間。

どうやら 「 ゴールデンウィーク 」 は、「 黄金週間 」 が転じたもので、いわゆる和製英語であり、英語圏での会話や表記には使わないほうが安全のようです。  なお標題語 「 ゴールデン-ウィーク 」 のダッシュは、音節 ( syllable ) をあらわすもので、ここに中黒やダッシュは不要です
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というわけで、せっかくの 「 ゴールデンウィーク 」 に、この 〈 タイポグラフィ ・ ブログロール  花筏 〉 をご訪問していただいたゲストの皆さまに、しばしばあやまって使われている英語表記をご紹介します。
ひとつは 「 郵便はがき ポストカード 」 で、ひとつは 「 クリスマス 」 です。

使用する資料は、英和辞書としてたかい評価がある 『 研究社 新英和大辞典 』 で、これは画像紹介の許可をいただいておりjます。
もうひとつは、『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 ( Oxford University Press, 1981,  p.318) です。
同書は、オックスフォード大学出版局の刊行書で、執筆者と編集者にむけて、あまりに日常化していて、ついうっかり、あぁ知らなかった、というたぐいの表記、間違えやすい英単語を中心に、簡潔に紹介したものです。

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ここには 「 post  郵便 」 から派生した英単語を列挙して、「 abbr.  省略語、短縮語 」、「 しばしばスペースを入れて二単語にされていますが、一単語ですよ 」、「 語間にハイフンを入れて表記してください 」 などと説明されています。
すなわち 『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、
「 郵便はがき ポストカードは  postcard  と一単語にしてください。 post card のように二単語では無いのでご注意を。 省略語は p.c. です 」

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いっぽう 『 研究社 新英和大辞典 』 では、とても丁寧に 「 postcard 」 を説明しています。
ここでの標題語 「 post ・ card 」 の中黒は音節 ( syllable ) をあらわすものであり、ここに中黒やダッシュやスペースは不要です。
さらに 『 研究社 新英和大辞典 』 では、「 郵便はがき (含む : 年賀はがき)」 にたいする日英の比較とともに、わざわざ強調の裏罫をもちいて、「 SYN  synonym  同義語、類義語 」 として、「 絵はがき  と はがき 」、「 postal card,  postcard 」 の使い分けと、英国と米国での相違まで説いています。

ご参考になりましたでしょうか。
この問題はわが国でもふるくから一部の識者から指摘されており、朗文堂 WebSite では 〈  タイポグラフィ実践用語集 は行 葉書・端書・はがき・ハガキ 〉 で、ずいぶん以前 ( まだ郵政省があって、専用ワープロを使っていた時代 ) から触れられています。
ところが、いまだに展覧会シーズンともなると、各種の造形者、とりわけ印刷メディアに関わることがおおい 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 の皆さまから、「 Post  Card 」 と、堂堂と二単語で印刷された 「 Postcard 」 をたくさん頂戴しております。

ふつうの生活人は、ほとんど 「官製はがき」 [このことばは、現代でも有効なのでしょうか] をもちいるので、あまりこのミスは犯さなくて済む。
この 「 印刷設計士/グラフィックデザイナー 」 が犯しがちなミスは 意外とやっかいで、1883年(明治16)ごろから < 公文書では 「 葉書 」 としている > と 『広辞苑』 は説くが、その説明文をみると、すべて 「はがき」 としています。

 いかがでしょう、  「 postcard 」 。 「 過ちて改めざるを是を過ちと謂う 」、「 過ちては改むるに憚ることなかれ 」 といいます。
この名詞語は、名にし負う天下のオックスフォード大学の 執筆者や編集者でも 「 ついうっかり 」 なのですから、なにも臆することはありません。 かくいうやつがれも、しばしばこうした誤用をおかしては反省しきりの日日であります。
そして 「 ゴールデンウィーク 」 が終わったら、「 そんなことは、昔から知ってたさ 」 、「 そんなの常識だろう 」 と、どっしり構えてください。

それでもおひとりでも、正しく 「 postcard,  Postcard 」 をもちいれば、まずは大切なクライアントに迷惑をかけることが無くなり、やがてちいさな波紋がどんどん拡大して、わが国の造形者が恥をかかなくなる日も近いことでしょう。
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《 すこし気がはやいですか。 暮れになったら X’mas はやめて、口語の Xmas も慎重に 》
いっぽう 「 クリスマス 」 は少しやっかいです。
それは某国語辞書 『 広辞苑 』 が、どこか意地になって、クリスマスの項目で 「 Christmas,  Xmas 」 を説明しているからです。

それに牽かれたのでしょうか、わが国の一部に 「 X’mas 」 と表記する向きがありますが、これは省略を重複したもので完全に間違いです。

『 THE OXFORD DICTIONARY for WRITERS AND EDITORS 』 では、「 Christmas  クリスマス 」 は執筆者や編集者にとってはあまりに平易であり、関心が乏しいようで、わずかに「 Cristmas (cap.)」 として、文頭を大文字にすること (p.70) 〈 参照/タイポグラフィ実践用語集 き行 キャピタライゼーション : capitalization 〉 として触れられています。

またギリシャ語由来の 「 Xmas 」 には、キリスト教徒の一部に抵抗を感ずる向きがあって、わたくしも20年ほど前に来社したアメリカの知人から、
「 ここに来るまでに X’mas,  X’mas Sale のディスプレイがたくさんあった。 あれはクレイジーだ。  Xmas ( エクスマス ) にも、発音からわたしには抵抗がある。 それよりどうして日本では、11月のはじめから Christmas Sale をはじめるのだ 」
と責められたことがありました。

宗教や宗派、まして発音までがからむと、わたくしの手にあまります。
まして某国語辞典の存在もあって困惑していましたが、『 研究社 新英和大辞典 』 に、わかりやすく 「 クリスマス 」 の解説がありました。 長文にわたりますので、その紹介にあたって、画像紹介の許可を研究社からいただくことができました。
そしてことしの暮れは、せめて 「 X’mas,  X’mas Sale 」 を見なくてすむように念願いたします。 そしてあくまでも口語で、文章語ではない 「 Xmas,  Xmas Sale 」 を、大量配布される広告や印刷物などへの使用に際しては、おおいに慎重でありたいものです。
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Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO-Report 00 番外編 しろくまは カゴンマ de ゴアンド !

 

天文館「ママ」のしろくまくん

本項の初出は2013年09月20日であった。 好評をいただいて閲覧カウンター数も多かったようである。
この旅の目的のひとつに、本年の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> の会場交渉があった。
<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> の開催、2014年11月01-03日の開催が迫ったいま、ここに若干の補整を加えて再紹介したい。
―― 2014年10月15日
Goando-red【 名 称 】 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
【 会 期 】 2014年11月1日[土], 2日[日], 3日[月 ・祝] 3日間
【 時  間 】   開場 8 : 30 ― 閉場 17 : 30
【 会 場 】 仙巌園〔磯庭園〕  尚古集成館本館 展示室 鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
【 主  催 】 朗文堂  アダナ ・ プレス倶楽部

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【 緊 急 の お 知 ら せ 】

◆ 尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による
特別講演 と ギャラリー ・ トークの 開催が決定しました !!
<尚古集成館所蔵/重要文化財 『木村嘉平活字』 と 薩摩藩集成事業について>

◯ 今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催にともなって、尚古集成館別館に、重要文化財「木村嘉平関係資料」が特別展示されます。
◯ 『木村嘉平活字』 研究の第一人者 : 田村省三館長に、講演とギャラリー ・ トークを担当いただきます。
◯ 11月02日[日] 14:00-17:00 仙巌園会議室
◯ またとない機会ですが、会場の都合で 限定20名様となります。
◯ 聴講料は不要ですが、仙巌園 ・ 尚古集成館の共通入場券 ¥1,000 が必要となります。
◯ 参加希望のかたは adana@robundo.com に、件名「木村嘉平活字講演会参加」で申し込みを。
◯ 申し込みは先着順で、定員になり次第締め切りとさせていただきます。
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《 いやぁ~ 南国 鹿児島での しろくま 結構なもので ごあんど ! 》

やつがれは下戸である。したがって甘党でもある。
糖尿病予備軍と医者に通告されてから及び腰になったが、ともかく甘いものには目がない。

完食寸前のアレの本物? カップアイスでは味わえない、本物のアレ。完食寸前でもう一杯食べたいおもいがある。

口惜しいことがあった。もう07年余も笑われ モトイ あざ嗤われてきた。
やつがれがお気に入りの、その 「アイス」 に囓りついていると、ノー学部が嘲笑を浮かべてボソッと口ばしる。

「 カチカチのカップ入りなんて……。 本物を知らないから、あわれなのよね~ 」
買い物は苦手だが、煙草の補給のためにときおりコンビニにいく。 帰り際にさりげなくアイスクリームのケースをのぞく。
「 アレ は本物じゃない、あわれなのだ 」
といわれたくないから、あくまでもさりげなくケースをのぞく。

人気の赤木乳業 「 ガリガリ君 」 はいつも中央部にデンと据わり、種類もまことに豊富だ。
「 ガリガリ君 」 なら、やつがれはあっさりめのソーダ味と梨味が好きだ。中央部はかき氷風で、外周部はキャンデーのようだ。
それ
でも 「 ガリガリ君 」 はあくまでも代替品であり、狙いのアレ、本命の アレ ではない。

その 「 疑似の アレ 」 は、気まぐれのように、時折コンビニのアイスケースの端のほうに、数個だけ置かれることがある。
家の近くにのコンビニは 「 ファミマ 」 が多いが、ときおりすこし遠い 「 セブン 」 に足を伸ばすのは、おなじ「 疑似の アレ 」 でも、セブンのアレのほうが、トロリと豊饒な甘さがあるからであある。 ファミマのアレは、カップの底までなめてやろうというまでの、恍惚たる至福感にいたることはない。

値段もファミマのほうは少し安いかもしれないが、あまり気にしていない。どうせ 「 アイス 」 だし、「 疑似の アレ 」 と罵られている代物だ。
しかもどこのコンビニも 「 ガリガリ君 」 の補充には熱心だが、もともと 「 疑似の アレ 」 は、専有面積が少ないし、同好の士もわずかにいるとみえて、アイスケースの手前右隅 ―― 一番目につきにくいところが定番の置き場所 ―― はポツンと空いていることが多い。

《 カゴンマ イキモンソ ! ウマカ ゴアンド ! ― 鹿児島にいきました。 悶絶する旨さでした !  》
2013年08月10日-12日、所用があって数年ぶりに鹿児島にでかけた。 主要な打ち合わせの相手が多忙ということで、こんなお盆休暇の直前での打ち合わせとなった。
旅の同行者はノー学部。

ノー学部は福岡で生まれ育ったが、父親が鹿児島大学を卒業し、母親の実家も鹿児島にあり、子供のころから長期休暇はイトコが多い鹿児島で過ごすことが多かったという。
そして父親が亡くなったいまは、母親が里の鹿児島にもどったために、ノー学部にとっては帰省の旅ともなった。やつがれは02泊03日の慌ただしい旅となる。

「むじゃき」
「むじゃき」2

「むじゃき」3 待望のしろくまくんに挑戦。

《 唖唖 遂に至福のときはいたれり。 やつがれ、鹿児島にて しろくま を食す 》
諸君 見て欲しい !
この天をもどよもす圧倒的なボリュームを、入道雲のごときふわふわ感を。なんとも圧巻ではないか !!  どうだ、これが本物の アレ、鹿児島名物 本物の「 しろくま 」 である。 

屈辱の07年余、軽蔑 ・ 侮蔑 ・ 嘲笑されながらも、ひとり黙黙と 「 コチコチで疑似のカップアイスの アレ 」 を食し、心中ひそか、せめて一度で良いから本物を食そうと、念願 祈願 切望してきた、これぞ 「 しろくま 」 の本物である !!!
鹿児島到着の夜、ホテルから近く、閉店間際に駆けこんだ、元祖 「 天文館むじゃき 鹿児島中央駅前店 」 での歓喜のひとこまである。
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コンビニのパックにはいった 「 アレ 疑似しろくま 」 しか知らなかったやつがれ、フルーツが山のように盛られ、蜜と練乳がたっぷりかけられた 本物の 「 しろくま 」 に陶然となった。
ところがやつがれ、かき氷はもちろん 「 アレ  疑似のしろくま 」 でも、食している最中にこめかみのあたりが痛くなり、最後は頭を絞りあげられるような傷みがはしる。

その怖れを抱きながら食したが、なんと本家 ・ 元祖 ・ 家元、鹿児島の 「 しろくま 」 は、1949年(昭和24) の発売開始のころから、ピュアな角氷を 「 カンナ削り製法 」 によって、ふんわりとやさしく仕上げてあるそうである。
そのせいかこのボリュームを食べても、こめかみにズキズキ感は無いし、むしろもっと食べたい気分にさせる。

「 フル-ティー & ミルキー  しろくま  ウマカ ゴアンド ―― とても美味しゅうございました 」

《 翌日は鹿児島市内を駈けまわったが、天文館の 「喫茶ママ」 で 「 しろくま 」 に再度挑戦 》

天文館「ママ」のしろくまくん

今回の鹿児島行きでは、車をふくめてすっかりノー学部の従姉 ・ ミカさんのお世話になった。
そのミカさんが繁華街/天文館の一隅、昭和のかおりがのこる喫茶店 「ママ」 に連れていってくれた。このひとは寡黙だが、薩摩おごじょであり、芯はつよいのかもしれない。
「 このママという店は、父と母が はじめてデートしたお店だそうです 」
「 やはりご両親も、初デートで しろくま をたべたのかなぁ 」
「 そこまでは聞いていませんが、それぐらいふるくからある喫茶店です 」

まつことしばし。 新種の 「 しろくま 」 登場。 昨夜よりいくらか落ちついて歓喜のときを迎えたが、「むじゃき」 とはいくぶん異なりながらも、これまた取り乱すほどの美味であった。
こちらは自家製の練乳を、これでもか、これでもかとかけて、おおきく切ったオレンジ、バナナ、スイカ、メロンがドカンと盛りつけられ、中央に餡豆が表情をつくるようにのせられている。
「フル-ティー &ミ ルキー しろくまくん ウマカ ゴアンド ―― とても美味しゅうございました 」

長島美術館から見た錦江湾と桜島。薩摩は人をもって城となす。薩摩鶴丸城は館づくりの平城であった。

鹿児島県立図書館の薩摩辞書の碑愛猫家の皆さんへのプレゼント!

シラス台地の海岸線東シナ海に没する夕陽

《 慌ただしい旅は終わった ―― 成果と宿題の多い旅となった 》
こうして久しぶりに鹿児島のタイポグラファとの再会をはたし、来年(つまりことし)の企画の打ち合わせもできた。また美術館、文学館、歴史資料館などでも打ち合わせを重ねることができた。
最終日の12日[日]は、アダナプレス倶楽部の鹿児島会員 : 陶芸家の窯と、手漉き紙工房の造形家のもとをたづねることができた。
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ことし(2013年)の夏、07月は北海道 《Viva la 活版 Viva 美唄》 にでかけ、08月はこうして鹿児島に出かけていた。
どちらも暑く、帰京してからも残暑がきびしかった。
そんなわけで暑さに負けて、すっかり脳内発酵をみて、この 《タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏》 の更新が滞っていた。
何人かの愛読者からは 「さぼるな」 「躰の調子でも悪いのか」 と、@メールでの叱声や、お心遣いをいただいた。

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たしかにいささか夏バテ気味ではあったが、本音は夏季休暇を終えて出社したノー学部が、
「 偶然、JAL の機内誌に、作家の浅田次郎さんが 『 しろくま 』 のことを書いていました。 面白いからお土産に貰ってきました 」
と、機内誌 『 SKY WARD 』 (620号、2013年07月27日) を差しだしたことにある。
その p.119-122 にわたって、文 : 浅田次郎 、絵 : 川上和生による 「 続 ・ しろくま綺譚」 が掲載されていた。

それによると、浅田氏は 5 年前の鹿児島訪問にあたって、取材のスケジュールに追われるあまり、 「 しろくま 」 を食べる機会を逸し、それ以後 5 年にわたり 「 しろくま 」 を食すことを渇望し、ようやく仇討ちにも似た気分で 「 しろくま 」 にありついたそうである。その感動を、軽妙な筆で描写していた。

浅田次郎氏といえば、やつがれはたいていの作品を読んでいる愛読者である。このとき浅田氏は宮崎での講演会を終えて、ひとり (ひそかに) 鹿児島を訪れて 「 天文館むじゃき 」 の 「 しろくま 」 を、二杯もむさぼったらしい。以下に 『 SKY WARD 』 の一部を抜粋したい。

旅の感動を言葉で表現するのは難しい。それを百も承知で書くと、たいそうすこぶるチョーメッチャうまかった。

カキ氷でもフラッペでもない。いったいどんなカキ方をすれば氷の粒子ががこんなに細かく、ふんわりとでき上がるのであろう。テンコ盛りのトロピカルフルーツと、クラシックな自家製練乳の甘みが相俟って、そのおいしさたるや、私がしろくまを食べているのか、それともしろくまに食われているのか、わからなくなるほどであった。

『 SKY WARD 』 のエッセイは、うれしくもあり、筆力の差を見せつけられたようで疎ましくもあった。 そのためと暑さ負けとで、ついついやつがれの駄文をしるす筆がおもくなっていた。
内心ではひそかに、
「 なんだよ、浅田次郎は 5 年のお預けかよ。こちとら、カタシオ ジロウは 7 年だぞ。俺のほうがずっとながく、臥薪嘗胆、艱難辛苦、かてて加えて 屈辱に耐えてきたぞ 」
「 文章家なら、感情表現に、もそっと気配りをせい。 『 たいそう すこぶる チョーメッチャ うまかった 』 とはなんだ。 テレビのグルメ番組のタレントでも、こんな寒いセリフは云わんぞ 」
と、悔し紛れの悪態をついていた。

ところでそこから浅田氏は奇矯に奔ることになったらしい。
つまり浅田氏はひとりでの鹿児島入りであり、仇討ちにも似た 「 しろくまを食した 」 ことの立会人 (つまり証人) がいないことにハタと気づいたという。
そこで、もちいたことのない写メールを、店員に操作を教えてもらいながら、5 年前に取材 (だけに) に引きずり回した担当編集者に 「 しろくま征伐、勝利の凱歌 」 の記録として送ったとしるしている。

『 SKY WARD 』 の挿絵は情感のある良い絵だが、この機内誌の編集者は、空前絶後かもしれぬ 「 浅田次郎の写メール 」 を紹介する、千載一遇の機会を逸しているのは残念である……。
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そしてやつがれ、火を吐く山 ・ 櫻島、錦江湾の紺碧の海、半島の尖端でみた東シナ海に没する夕陽、すなわち鹿児島のエトスにこころを奪われた。
エトス Ethos はギリシア語で、エートスとも音される。ご存知の パトス Pathos 感情 ・ 激情の対語である。そのことは本欄でもしるしたことがある。

【 花筏 : 朗文堂-好日録015  五日市のランドスケープ、佐々木承周老師 2011年11月23日 】

すなわちエトスとは、やつがれにとっては情念にちかく、簡略に述べると、ひとの性格 ・ 心性であり、ある社会集団にゆきわたっている恒常的な感性 ・ 情念であり、ときとして色彩感覚や宗教観や死生観でもあろうか。

どうやらやつがれ、田舎育ちのゆえに、火の山櫻島、紺碧の錦江湾、そして南国の氷菓 「 しろくま 」 にまで、地霊 ・ 山霊 ・ 岩霊 ・ 艸霊 ・ 木霊 ・ 水霊をおぼえるのである。そのふところに身をゆだねると安堵するエトス ── 情念 ・ 性癖ないしは心性があるらしい。
こうした山川の地では、一木一艸がいとおしく、小川のせせらぎ、かすかな瀬音、どうということのない路傍の小石までがこころをなごませる。

これからしばし、エトスが存するまち、なんといっても 「 しろくま 」 が一年中食せるまち、「 鹿児島 」 に、内心ひそかに情念のほむらを燃やしながら、こだわるつもりのこの頃ではある。

【お知らせ】 ブログ新開設 <弁護士鈴木篤のつれづれ語り>

『 わたくしは日本国憲法です。』 の著者 : 鈴木 篤 アツシ 弁護士がブログを開設した。

 < 弁護士 鈴木 篤のつれづれ語り >

プリント顔写真鈴木篤氏

鈴 木  篤 氏

著者 : 鈴木 篤氏、御年 6? 歳、四捨五入すれば70歳になろうかという年齢での、果敢な新デジタル・メディアへの挑戦である。
 開設は2014年08月26日[金]で、初日に一挙に三本の投稿がアップされた。
【 URL : 弁護士鈴木 篤のつれづれ語り 鈴木 篤氏08月26日 新規開設ブログ 】

08月26日[火]      ◯ はじめまして             
                                ◯ 恐ろしい世の中になったものです。
             ◯ てんやわんやの今日この頃
08月27日[水]   ◯ お知らせ
08月28日[木]   ◯ たくさんの人ありがとう   
08月29日[金]   ◯ 明日天気にな~れ
08月30日[土]              ──────
08月31日[日]      ──────
09月01日[月]   ◯ 盛況だった前田哲夫さんの講演会
09月03日[水]   ◯ 秋がすぐそこに

もともと法曹界ではワープロソフト「一太郎」のユーザーが多く、鈴木氏もその例にもれず、「一太郎」を縦横無尽、多彩に使いこなしていた。
どうやらその理由は、正確な文書作成がもとめられる法曹界にあっては、いち早く専用ワープロを導入し、それにつづいてNEC98 時代になると、文書作製ソフトとして「一太郎」の使用が盛んだったためらしい。
その分だけ、インターネット、ブログ、短文ブログなど、ソーシャルメディアへの対応には慎重だったともいえる。

また法曹界では いまもって紙メディアへの依存度がきわめてつよく、鈴木 篤著 『 わたくしは日本国憲法です。』 のフライヤー(チラシ・ビラ)を、小社では近年の傾向にあわせて1,000部を用意していたが、どんどん著者周辺で大量配布され、小社担当はフライヤーの増刷に追われるという、最近ではあまり経験しない「事件」もあった。
【 図書詳細情報 : 『 わたくしは日本国憲法です。』
──────────
鈴木氏はやつがれのふるい友人で、信州の高校時代の同級生でもある。クラブも新聞部で一緒だったが、やつがれは旧制中学さながら、バサラ者が多かった隣の部室(ベニヤ板で仕切っただけ)の、演劇部や弁論部でとぐろを巻いていることが多く、在校時代はどちらかといえば鈴木氏の印象はうすかった。
鈴木氏はさほどガリ勉型ではなかったとおもうが、成績は優秀で、東大法学部に現役で入学して弁護士となり、「江戸川法律事務所」を開設した。

もうふるいはなしになる。
小社刊行の図書 『ESPRIT』 ( Douglas Tompkins/Esprit De Corp 編著、1989年01月28日)が好評で、欧州でも大量に販売された。その際ハンブルグのディストリビューターが、数百万円の支払いを言を左右にして遅延させて紛争になったことがあった。
その相談を鈴木氏にもちかけたところ、
「国際問題は、そっちを得意にしている別の弁護士を紹介する」
とされて、東大での同級生だという虎ノ門の弁護士事務所を紹介されたことがあった。

気取りのない「江戸川法律事務所」とちがい、重厚で重重しい(大仰な)弁護士事務所だったが、名刺交換を終えてソファに腰をおろした直後から、その事務所の所長弁護士は咳きこむようないきおいで、、
「鈴木 篤先生とは、どんなご関係でいらっしゃいますか」
「信州の高校時代の同級生です」
「ご存じないようですが、鈴木先生は東大法学部の十年に一度の逸材とされていました。もし裁判官に任官されておられたら、最高裁長官もおありだったかたです。すごいかたです」

これには面食らった。やつがれ罰当たりなことに、鈴木 篤弁護士はさして勉強もせず、「地頭 ジアタマ」の良さだけで東大に現役入学したとおもっていたし、ときにはふるい癖で「篤 → 竹+馬 → タケウマ~」とも呼んでいたから……。
虎ノ門の所長は何度も繰り返して 「 もったいない、 欲のないかたで…… 」 とのべていた。たしかに鈴木 篤弁護士には通俗的な欲はないのは確かだ。
そのはなしはあながち大仰では無いようで、同席した東大での後輩とおぼしきスタッフ弁護士は、本題はそっちのけで、ほとんど憧憬としかとれない口調と表情で鈴木氏を褒め称えていた。
ともかくおどろいたこんな経験もあった。

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鈴木 篤氏の著作はすくなくない。
◯ 『 医療事故と患者の権利 』 (エイデル出版、1988年)
◯ 「 患者の側からみた医療過誤訴訟 」 『 現代法律実務の諸問題 』 (日本弁護士連合会、1987年)
◯ 「 医療裁判を始める人の心得7ヶ条 」 『 弁護士研修講座 』 (東京弁護士会刊、1986年)
◯ 『 カルテはなにも語らない ― いのちの裁判の記録 』 (労働旬報社、1990年) ほか多数

医療問題への取り組みもながい。
◯ 1977年 医療問題弁護団結成に参画、初代事務局長(-79年)
◯ 1989年 血友病 HIV 感染被害者救済訴訟弁護団 副団長
──────────
こうしてみると、鈴木 篤氏は正義感がつよく、いつも社会的弱者にあたたかい視線を向け、たとえ社会的弱者であっても、この国の憲法のもと、ひとりひとりの国民として、ひとしくその権利を有し、ひとしく義務を負う存在だとみなしていることがわかる。
そんな鈴木氏であるから、長年ふたことめには 「 民主主義 」 と口にして倦むことがない。

そして自民党多数体勢のもと、安倍晋三政権の、まさに暴挙としかいいようのない強引な施策の結果、憲法が危機的状況に陥っている現状に、矢も楯もたまらず、「日本国憲法」になりかわって、自分自身が読者にかたりかける図書の執筆を開始した。

それが 『 わたくしは日本国憲法です。』 として刊行されるまでの間、鈴木氏と小社の間にたくさんの電子メールが往復した。そこにはいつも、あふれるように熱い民主主義へのおもいと、憲法を損壊しようとする安倍政権へのつよい苛立ちがみられた。
それらの一部は『 わたくしは日本国憲法です。』にも収録したが、当然収録しきれないことがらも多かった。

そこで鈴木氏が年二回発行している情報誌 『 江戸川法律事務所だより 常磐木 トキワギ』 だけでなく、軽便なブログの開設を何度かすすめた。
それでも鈴木氏は多忙を理由に容易には腰をあげなかったが、「居残り会 佐平次」 こと、実兄/鈴木一彦氏のブログ 『 梟フクロウ 通信 』 のおおきな影響力などを知って、ようやくブログの開設に踏みきったようである。

【 関連情報 : 梟フクロウ通信~ホンの戯言  by saheizi-inokori  著者実兄 】
──────────
ところで……、このところ鈴木 篤氏からの@メールに、<ブログについてご相談>という件名が増加している。

すなわち、ことの成りゆきから、やつがれが鈴木氏のブログ相談係を押しつけられている。
ブログの立ち上げ設定は江戸川法律事務所の職員が担当したが、なにしろこの年になってはじめて経験するソーシャル・メディア、職員には聞きにくいことや、深夜でも対応してくれる相手が必要だったらしい


ここで、すべての<花筏>の愛読者の皆さん、とりわけ新宿私塾の修了生の諸君、なかんずく、和泉くん、千星くん、九鬼くん、米村くん、神村くん、ここは笑うところではありません。
どうやら見えないことをいいことに、真田幸文堂と 北くんは、腹を抱え、のけぞって嗤っているではないか! 失敬千万の沙汰である。
―― まぁやつがれも、なにかおかしいなぁとおもっているから、わかるけどネ。

朗文堂のホームページ本体は、当時ジャストシステムのコンサルタントをしていた関係で、同社に強引に押しつけられて、まだ閲覧者(URL 使用者)が 1,000 人も満たないころから開設されたふる~いものである。
それを長年にわたって社員が力をあわせ、つっかい棒をあちこちに入れてサポートしてきた(そろそろ限界説も)。そこでのやつがれの役割は、プレーンなテキストを作製すれば、あとはスタッフがまとめてくれていた。

ブログロール型のものは、2009年09月真田幸文堂が開設してくれ、その後は北くんが新規開設とサポートにあたってくれた。このときから徐徐にスタッフはブログ型から手を引いたために、よんどころなく、拙いながらも自分でブログロールを作製するようになっただけのこと。
もともとやつがれは、デジカメ、ケータイを購入したものの、落下するは、紛失するはで、「使う資格無し!」とされ、ノー学部に剥奪されたままである。
本人もデジカメやケータイは躯と脳と視覚にわるいとおもっているし、さらに <歩く化石> とおもっているほどのアナログ人間でもあり、当然 IT メディアに強いなどと一回も口にしたことはない。

またまたところで……、弁護士鈴木 篤氏は最初のうちこそ、
「ダブルクリックとはなんぞや? 画像のドラッグはどうすればいいのか?」
などとやっていたが、わずか数日でブログに写真画像までアップするまでに至っている。
見ておれ、御年 68 歳(アレッ、いっちゃった)、水彩画をこよなく愛し、東大卒などとえらぶること(そんなことをしたら、すぐにこちらから黙って縁を断つのがやつがれのいきかた)のまったくない、鈴木 篤氏の老人パワー(やつがれともども、老人とはつゆおもわぬらしい)がこれから炸裂するのだ。

ともあれ、図書 『 わたくしは日本国憲法です。』 が刊行された。
嬉しいことに同書の増刷(第二刷り)がたったいま決定した。―― この国、まだまだ見捨てたものではないとおもわせた。

そして著者のブログロールも開設された。
【 URL : 弁護士鈴木 篤のつれづれ語り 鈴木 篤氏08月26日 新規開設ブログ 】
これからは本格活動のときである。

【 URL :  イベント緊急紹介  殺さないで! 生かそう 日本国憲法 『わたくしは日本国憲法です。』 出版記念の集い 】

朗文堂好日録-036 台湾春節:林昆範さんの年賀状

恭賀新年

台湾の友人、林昆範リン-クンファンさんから、春節(旧正月)の「年賀状」をいただいた。デザインのモチーフは、中国の少数民族の「文 ≒ 紋」である。
上から順に、「瑤族 YAO ZU」、「侗族 DONG ZU」、「壯族 ZHUANG ZU」、「苗族 MIAO ZU」の、それぞれの民族を象徴する「文」である。

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中国でのお正月「春節 旧暦の正月」のことは【アダナ・プレス倶楽部 NEWS:エッ、いまごろお正月 !? 上海在住の会員がご来社に。そして「老北京のご紹介」】において紹介した。
古来中国では「暦」とは為政者が定めるものであった。したがって南北朝のように、国家が分立した際には、それぞれの国に「暦」があって、旅人などは難儀したことがあったとされる。

台湾も2014年(中華民国103年)の「暦」を、前年の2013年(中華民国102年)05月30日に、「行政院人事行政總處」が発表した【リンク:行政院人事行政總處 中華民國103年政府行政機關辨公日暦表】。
これは公務員の規定であるが、もちろん民間もこれに準拠することになる。すなわち中国と同様に、半年ほど前に、翌年の祝祭日と休暇が公示されている。

中国での2014年の法定祝日(旧暦元旦)は01月31日[金]で、休日は01月31日[金]-02月06日[木]の7連休であった。いっぽう台湾では01月31日[金]が祝日(旧暦元旦)であるのはおなじだが、休日は01月30日[木]-02月04日[火]の6日間となった
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林昆範さんと、その研究に関しては、このタイポグラフィ・ブログロール花筏でも触れてきた【朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で】。
林昆範さんはその研究を「字学研究」とされるが、わが国では「文字」ということばが普遍化しているために混乱を招きがちである。ご本人はいやがるが、「記号学」、「意匠学」とでもしたほうが「わが国では」わかりやすいかも知れない。

すなわち林昆範さんは、中国の観光産業と共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されている。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。
そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという。

その研究はだいぶ進捗をみたようで、紹介した「年賀状」もその一環である。また近近来日されるので、ご高説をうかがうことができそうで楽しみなことである。

近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心です。すなわち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。   林  昆範

朗文堂好日録-035 王のローマン体活字 ローマン・ドゥ・ロワの紹介

フランス王立印刷所 フランス国立印刷所シンボルロゴ フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所 新ロゴ

《火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所》
朗文堂ニュースアダナ・プレス倶楽部ニュースの双方で、「火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所」の奇妙な歴史を紹介してきた。それに際してフランス国立印刷所刊『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の画像を YouTube に投稿して紹介してきた。

トラジショナル・ローマン体とされる、「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」に関する資料は、もともとフランス王立印刷所の専用書体であり、それだけに情報がすくなく、わが国ではほとんど紹介されてこなかった。
その「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を紹介する、書物としての 『Étude pour un caractère : Le Grandjean』 は、おおきなサイズであり、銅版印刷、活字版印刷、箔押しを駆使した限定60部の貴重な資料である。しかしながら周辺資料に乏しく、厄介なフランス語であり、また大きすぎるがゆえにコピーもままならない。
すなわちいささかもてあまし気味である。そのためにできるだけ資料を公開し、もし「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を研究テーマとされるかたがいらしたら、できるだけ便宜をはかりたいとかんがえている。

【画像紹介:YouTube 3:53  『Étude pour un caractère : Le Grandjean』】

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写真上) フランス国立印刷所では、いまなお活字父型彫刻術を継承しており、『Étude pour un caractère : Le Grandjean』完成披露にあわせて、展示資料として、おおきなサイズで、わかりやすく活字父型、活字母型、活字を紹介した。
写真中) フランス国立印刷所では『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の刊行に際し、ジェームズ・モズレー James Mosley 氏に寄稿を依頼し、それを仏語と英語の活字組版によって印刷紹介している。この写真は、その寄稿文の組版の実際である。英語版から河野三男氏が日本訳をされたが、本書製作の裏話が多く、あまり参考にならなかった。日本語版テキストは保存しているのでご希望のかたには提供したい。

写真下) ジェームズ・モズレーの寄稿文を、活字版印刷機に組みつけた状態の写真。
────────
王のローマン体〔ローマン・ドゥ・ロワ Romains du Roi 1702〕と

活字父型彫刻士 フィリプ・グランジャン〔Phillippe GRANJEAN  1666-1714〕
                      〔取材・撮影・仏語翻訳協力:磯田敏雄氏〕

王のローマン体、「ローマン・ドゥ・ロワ  Romains du Roi ロァとも」と呼ばれる活字書体は、産業革命にわずかに先がけ、それまでの活字父型彫刻士という特殊技能士による視覚と手技だけに頼るのではなく、活字における「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」をめざしてフランスで製作された。
それは後世、オールド・ローマン体からモダン・ローマン体へと移行する時期の活字、すなわち「過渡期の活字書体  トラジショナル・ローマン体 Transitional typeface, Transitional roman」とされた。

ローマン・ドゥ・ロワの誕生には、16-18世紀フランスの複雑な社会構造が背景にあった。1517年、マルティン・ルターによる『95箇条論題 独: 95 Thesen』に端を発した宗教改革の嵐は、またたくまに16世紀の全欧州にひろがった。やがてカソリック勢力からは、新興勢力のプロテスタントを押さえ込もうとする巻きかえしがはじまった。
フランスでも拡張するプロテスタント勢力を排除・抑圧するためのさまざまな対策が講じられた。そのはじめは、フランス王ルイ13世(Louis XIII、1601-43)の治世下で、枢機卿リシュリュー公爵(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585-1642)が、1640年ルーブル宮殿内にフランス王立印刷所Imprimerie Ryyal を創設したことである。
その目的は、国家の栄光を讃え、カトリック教をひろめ、文芸を発展させることにあった。一方でリシュリューは文化政策にも力を注ぎ、1635年に「フランス語の純化」を目標とする「アカデミー・フランセーズ l’Académie française」を創設した。

アカデミー・フランセーズの主要な任務として、フランス語の規範を提示するための国語辞典『アカデミー・フランセーゼ(フランス語辞典) Dictionnaire de l’Académie française』の編集・発行があった。その初版はアカデミーの発足後60年の歳月を費やして完成し、1694年、次代のフランス国王ルイ14世に献じられた。同書は初版以後もしばしば改訂され、現在は1986年からはじまる第9版の編纂作業中にあるとされる。

ルイ13世の継承者フランス王ルイ14世(Louis XIV、1638-1715)はブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643-1715)で、ブルボン朝最盛期の王として、またフランス史上でも最長の72年におよぶ治世から「太陽王Roi-Soleil」とも呼ばれた。
1692年、ルイ14世はアカデミー・フランセーズに、「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の独占的な活字資産として、あたらしい活字書体の製作を命じた。アカデミー・フランセーゼはただちに小委員会を結成してあたらしい活字書体の検討に着手した。
ジェームズ・モズレーによるとこの委員会の構成員は、ジル・フィユ・デ・ビレ(Gilles Filleau des Billettes  59歳の科学者)、セバスチャン・トルシェ(Sebastien Truchet  37歳の数学者)、ジャック・ジョージョン(Jacques Jaugeon  38歳の神父にして数学教育者)、ジャンポール・ビニヨン(Jean-Paul Bignon  32歳の教育者)であった。

メンバーは学識はゆたかだったが、必ずしも印刷と活字の専門家とはいえなかった。かれらは手分けして、
「われわれはすべての事柄を保存する必要がある。まず技芸からはじめる。すなわち印刷術の保存である」(『王立アカデミーの歴史 Historie de l’Academie royale des Sciences』)として、印刷所・活字鋳造所・活字父型彫刻士・製紙業者・製本業者などの工場をおとづれて、取材をかさねたり、わずかな印刷と活字製造関連の既刊書を読んでいた。数学教育者のジャック・ジョージョンは、
「消え失せた言語と、生きている言語など、あらゆる言語のキャラクターを集めた。また天文学・科学・代数学・音楽など、ある種の知識にだけ必要な、特殊キャラクターを集めていた」

結局アカデミー・フランセーズは、小委員会のほかにニコラ・ジョージョン Nicolas Jaugeon を中心に、あらたな技術委員会を結成して、現実的な活字書体の研究に着手することとなった。ジョージョンの意図はアカデミーの意向を受けて、活字における徹底した「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」にあるとした。
ジョージョンを中心とした技術委員の3名は、視覚と経験にもとづく彫刻刀にかえて、定規とコンパスをもちいて、精緻な活字原図を書きおこした。そしてその活字原図は、アカデミーのたれもが理解できるように、大きなサイズの銅版に彫刻され、少部数が銅版印刷された。銅版彫刻師はルイ・シモノーであった。
このあたらしい活字書体は、この段階で「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の名称をあたえられた。
しかしこの銅版印刷物からは、書体の「鑑賞と観察」はできても、実際の活字として完成するまでには、もう少しの、そしておおきな努力が必要だった。
────────
フィリップ・グランジャン(Philippe Grandjean 1666–1714)は、若い頃から活字鋳造と活版印刷に関心をいだいて、パリにでてきていた。
ルイ14世にグランジャンの活字父型彫刻士としての能力を推薦したのはルイ・ポンチャートレイン(Louis Pontchartarain  1643-1727)とされる。その卓越した技倆は「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」のディレクター、ジャン・アニゾン Jean Anisson も認めるところとなった。

グランジャンはアカデミーの命をうけて「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の活字父型彫刻に、1694-1702年の8年余にわたって集中した。最終的には「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、21のサイズの、アップライト・ローマン体とイタリック体が完成した。
しかしながらその事業はグランジャン一代で終わることはなく、アシスタントだったジャン・アレキサンダー Jean Alexandre と、さらに後継者のルイス・ルース Louis Luce に継承されて完成をみた。

グランジャンをはじめとする活字父型彫刻士は、アカデミーから提示された「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」の原図を「参考」にはした。したがっていくつかのキャラクターのフォルムは、たしかに原図にもとづいているし、セリフは細身で、水平線がめだつという特徴は維持されている。
またイタリックの傾斜角度は均一に揃っていて、それまでのオールドスタイルのイタリックとは組版表情を異とする。

あらためて『Étude pour un caractère : Le Grandjean』に再現された、銅版印刷による原図をみると、ヘアライン(極細の線)や、ブラケットの無い細いセリフ──それだけに脆弱であった──は、当時の印刷法や紙の性質(この時代の用紙は当然手漉き紙であり、堅くて厚さが均一でなく、また印刷にあたっては十分に濡らしてから印刷していた)や、手引き印刷機によるよわい印圧、インキの練度では紙面上に再現できないとして、活字父型彫刻士としての矜持をもって、随所に「解釈」を加えていた。

「ローマン・ドゥ・ロワ」は、きたるべき産業革命時代を前にして、グランジョンらは、すぐれて人と関わりのふかい活字のすべてを、科学という人智をもって制御するより、視覚に馴致したみずからの経験と、ながらく継承されてきた技芸を優先させていたことがわかる活字書体である。
すなわちモダン・ローマン体と呼ばれる一連の活字書風が誕生するためには、まだ印刷術および周辺技術そのものが未成熟であった。それがして「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、「過渡期の活字書体、過渡期のローマン体  Transitional typeface, Transitional roman」とされたのである。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」には、フランス国王ルイ14世と「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の権威を保証するメルクマール(サイン)が付与されている。それはフランス王ルイ14世 Louis XIVのイニシャル、小文字の「l エル」の左側面のちいさな突起である。この突起の有無が、真正「ローマン・ドゥ・ロワ」の品格を保証した。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」は法による保護のもとに、フランス王立印刷所、そして現代ではフランス国立印刷所における、誇るべき占有書体としての地位をゆるぎなく保持している。
それでも18世紀から、このあたらしい活字書体は、「l エル」の突起部の有無をふくめて、多くの影響と同時に、摸倣書体をうんできた。なかんずく ピエール・シモン・フルニエ P.S.Fournier と、フランコ・アンンブロース・ディド P.F.Didot  らのフランスの活字鋳造者であった。
かれらの活字書体は、ひろく民衆のあいだに流布して「過渡期のローマン体 Transitional roman」と呼ばれている。時代はやがてモダン・ローマン体の開花をみることとなった。

そして、活字設計にあたって、数値化と規格化をもとめて、キャラクターを48×48の格子枠に分割する ── すなわち 2,304  のグリッドをもうけて書体設計をするという「ローマン・ドゥ・ロワ」の基本構想は、良かれ悪しかれ、モダーン・ローマンの開発はもとより、こんにちの電子活字(デジタルタイプ)の設計にまでおおきな影響をおよぼしている。

◎ 参考資料:

Type designers : a biographical deirectory,  Ron Eason, Sarema Press, 1991  
Studies for a Type,  James Mosley ── 本書の解説文:翻訳協力/河野三男氏

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朗文堂好日録-034 毎+水=? 【回答編】年度末の宿題を、年末年始に回答です。

毎+水=?
 【 回  答  編 】

弘法大師 空海が、みずからの名前「空海」に
「毎+水」を「海」の字としてもちいていました。
最末部に どんでん返しがお待ちしております(冷汗)。

空海中国書法大字典

空海 海_ページ_3空海 海_ページ_4
 ↑ 資料1) 中国の「字」の資料
        『中国書法大字典』(香港 中外出版社 1976年11月修訂版) 
                  p.853-4 「海」標本35例     内 「海」字体は35例 「毎+水」字体は00例

↓  資料2)  日本の「字」の資料
         『書体大百科字典』(飯島太千雄編 雄山閣出版 平成8年4月20日)
         p.563-4  「海」標本20例   内 「海」字体は16例 「毎+水」字体は04例

空海 海_ページ_1
空海 海_ページ_2
《海と、毎+水≒海 の使用例を日中両国の 字書 にみる》
上掲のよっつの図版は、中国とわが国の、書芸家・書法家による「字」の標本を収集したものである。

資料1) 中国の「字」の資料
      『中国書法大字典』(香港 中外出版社 1976年11月修訂版) p.853-4
ここには「海」の標本35例があり、 内「海」の字体が35例で、「毎+水」字体は紹介されていない。
中国ではながい歴史のなかで、「字」も少しずつ形象をかえてきたが、いわゆる「雑体」とされるもの以外は、後漢の時代(西暦100年、永元12)に成立した許慎『説文解字』があり、そこで定義された「六書の法」からおおきく逸脱することはほとんど無い。もちろん現代中国における「簡体字、簡体」もその範疇で展開されている。

資料2) 日本の「字」の資料
      『書体大百科字典』(飯島太千雄編 雄山閣出版 平成8年4月20日) p.563-4
ここには「海」の標本20例があり、内「海」の字体は16例、「毎+水」字体は04例となっている。
ここでも「毎+水≒海」としたのは空海が最初とみられる。これは字の形成からいうと、「氵サンズイを水とみたて、旁の毎の下に置いた」もので、やや類似した例としては「峰 常用漢字 → 峯 異体字」、「島 常用漢字 → 嶋、嶌 異体字」などをあげることができるが、それでも「毎+水≒海」としたのは空海の独創とみられる。

『書体大百科字典』の編者:飯島太千雄氏は、空海の書が好きとみえて、ほかの事例紹介でも空海の書による、いわゆる「則天文字」、「梵字」、「飛白」などの書を引くことが多い。
「海」の字体16例のなかでも、空海の書として、637.「海 伊勢正法寺観音堂額」、7.「海 二荒山碑銘」、8.「海、毎+水、併用 空海 綜芸種智院式」、6.「海 益田池碑銘」のよっつの例をあげている。

いっぽう「毎+水」字体のほうは、標題語「丸のなかに海」につづき、許慎『説文解字』の例のつぎに、篆書風の4.「孫 技秀 百体千字文」がある。この孫 技秀は、いわゆる「雑体」の書を多くのこし、その影印本は、『篆書百体千字文』としてマール社から発売されている。

また肉太の大字、394.「毎+水 後小松院 円覚寺額」がある。この書額は実見していないが、円覚寺 は臨済宗(禅宗)の寺であり、空海が開いた真言宗の寺では無い。
また後小松院とは、室町時代、北朝最後の天皇「後小松天皇」(1377-1433)の追号で、空海没後550-600年余の長期にわたり、また禅宗寺院にも、この「毎+水≒海」の「字」がもちいられたことがわかる事例である。また高野山西南院には『後小松天皇宸翰秘調伝授書一幅』(重要文化財)がのこされている。これをみると、後小松天皇とはきわめて能筆のひとであったようである。
あとはすべて空海の書からの標本で、 8.「海、毎+水併用 空海 綜芸種智院式」、10.「毎+水 空海 越州帖」となっている。

《真言宗の開祖:弘法大師 空海、天台宗の開祖:伝教大師 最澄》
あらかじめお断りすると、やつがれは宗教ひと、とりわけ開祖・始祖としてあがめられるひとは苦手である。
もちろん、すぐれた才能と、学識によって、この国のひとびとの、こころの安寧をもたらした功績は素直に評価するが、どうしても近寄りがたいものがあり、できたら敬して遠ざかっていたいとするおもいがつよい。
とりわけ空海の周辺には、史実よりも伝承とされるものが多くみられるだけに厄介である。

『空海の風景』を著した司馬遼太郎もそんなおもいがあったようで、「小説」のなかで空海を、「喰えないひと」、「あざとい一面がみられる」、などと評している。
やつがれはそこまで述べる胆力も学識もないので、単にふたりを平安時代初期のすぐれた宗教ひととして捉え、空海、最澄と呼びたい。
そして、「わがくにの真言宗の開祖:弘法大師 空海 774-835」と、「わが国の天台宗の開祖:伝教大師 最澄 787-822」の日本語版ウィキペディアにリンクをもうけて紹介を終えたい。
以下、『弘法大師の書とその周辺』(東寺宝物館編 1987年9月20日)からその書をみたい。

風信帖

資料3)  『弘法大師尺牘 セキトク(風信帖 フウシンジョウ)』
                一巻 紙本墨書 縦28.8センチ、横全長158.8センチ 平安時代前期 京都東寺蔵
「風信雲書 天自 ヨ り翔臨 ショウリン す 之を披 ヒラ き 之を閲 ケミ するに 雲霧を掲 カカ ぐる如し 云云」
からはじまる第一信があるために、ふつうは『風信帖フウシンジョウ』として知られる。
この書状は書風からみると草書であり、あきらかに王羲之をまなんだ形跡がみられる書である。『風信帖』は空海40歳ころ(812-3)の書とみられ、格調がたかく空海遺墨の第一とされている。
最終部日付の前の行は「不具 釋空(毎+水)海 状上」としるされている。

弘法大師御遺告 巻首部
弘法大師御遺告 巻末部資料4)  『弘法大師御遺告 ゴユイゴウ』
       絹本墨書 縦53センチ、横全長393センチ 平安時代(12世紀) 京都東寺蔵
空海が入定(逝去)に6-7日ほど先だって、弟子たちにあたえた遺誡の書。
空海の遺言は、弟子がしるしたとみられるものをふくめ6種類あるが、これは「承和二年三月十五日」(835年。空海は旧暦承和2年3月21日(新暦835年4月22日)卒。年と日は「則天文字」)の日付をもち、東寺の聖教中でも特に重要視され、秘蔵されてきたものである。
書風は隷書の味をもった独特のもので、「則天文字」の使用も多い。最終部に「入唐求法沙門空(毎+水)海」としている。

大和州益田池碑銘 部分

大和州益田池碑銘2
資料5)  『大和州ヤマトノクニ益田池マスダノイケ碑銘 幷 序』
       紙本墨書 縦31.5センチ、横全長790.1センチ 室町時代の模本 京都東寺蔵
825年(天長2)大和ヤマトの国高市郡に、干魃にそなえた溜め池「益田池」が完成した(現奈良県橿原市周辺に所在したと比定されるが、埋め立てられて現存しない)。空海はこれを喜び、同年9月25日に碑銘を撰し、揮毫したとされる。原碑は室町時代に高取城築城の際に石垣にもちいられて現存しない。現在これを模刻した石碑が橿原市の久米寺境内に建立されている。

この模刻碑を現地でみたが、やつがれがどうしても空海を苦手とする理由がはっきりした。
この碑は、書風からいうと草書を主とし、鳥などは象形というより、具象そのものの鳥を描き、篆書、隷書、そのほか、雲書、垂露、転宿星などの雑体書にあふれている。そしてここにも「則天文字」が縦横に駆使されていた。
つまりこの復元碑には、事大趣味、衒学趣味が表出しすぎて鳥肌がたった。
なぜ「大和國」ではなく「大和州」とするのか。なぜ「沙門 シャモン 梵語Sramana」として、いち僧侶として謙譲の姿勢をみせながら、「遍照金剛」などと、「密教における大日如来の別称。光明が遍アマネく照らし、さらに金剛などと、金カネのうちでも最も堅い」と豪語するのか……、とおもってみていた。

序文の書き出しは、
「大和州益田池
  碑銘 幷 序
   沙門遍照金
   剛 文 幷 書   」
である。
それでも『大和州ヤマトノクニ益田池マスダノイケ碑銘 幷 序』は、わが国ではその奇抜さのゆえか、空海が好んで書いていた「梵字」(ボンジ、梵語すなわちサンスクリットをしるすのにもちいる字。字体は種種あるが、日本では主として悉雲シッタン字をもちいてきた。光明真言を参考[広辞苑])や、「飛白」(ヒハク、漢字書体の一。刷毛ハケでかすれ書きにしたもの。後漢の蔡邕サイヨウの作という[広辞苑])とならんで、これを模す例が多い【リンク:空海の書 画像集】。

《最澄も使用していた、毎+水≒海の例》 
のちに袂を分かつことになったが、書簡『風信帖』にみるように、もともと最澄と空海は親密であった。
最澄は802年(延暦21)
桓武天皇より入唐求法ニットウグホウ還学生ゲンガクショウ(短期留学生)に選ばれた。

その2年後、804年(延暦23)空海も正規の 遣唐使 の留学僧(留学期間20年の予定)としてに渡ったが、なぜか滞在わずか二年にして帰国した。
入唐ニットウ直前まで、ひとりの 私度僧 にすぎなかった空海が、突然国費による留学僧として浮上する過程と、その滞在期間のあまりの短かさは、こんにちなお多くの謎をのこしている。
いずれにしても空海は、史実よりも伝承につつまれたひとである。

弘法大師請来目録 巻首 伝教大師筆

弘法大師請来目録 巻末 伝教大師筆

資料6)  『弘法大師請来ショウライ目録』 伝教大師最澄筆
       紙本墨書 縦27.1センチ、横全長885.0センチ 平安時代(9世紀) 京都東寺蔵
空海が唐から持ち帰った法文、仏具、仏画などの目録である。空海は804年(延暦23)唐にわたり、806年(大同元年)8月に帰国した。同年10月22日唐から持ち帰った経巻などを目録として朝廷に上奏した。

本巻は空海自筆とされていた時代もあったが、その書風と、17紙におよぶ料紙の継ぎ目のすべてに捺印されている「延暦寺」の朱方印などから、最澄の筆写であることに争いは無い。いっとき最澄は空海から真言密教をまなんでおり、この目録もその過程で空海から借用し、筆写したものとみられている。
図版には巻首部と巻末部を掲げたが、「空海」がすべて「空 毎+水≒海」になっている。とりわけ巻末の跋文バツブンと、日付、署名にみる「空 毎+水」は、いかにも苦しげにみえるのは気のせいだろうか。
説文解字第十一上 水部1 説文解字第十一上 海 説文解字 海資料7)  『説文解字 影印本』
       東漢・許慎撰 趙 國華編輯 黄山書社 2010年10月
説文解字 影印本『説文解字』は中国最古の部種別字書。中国字学の基本的古典で全15巻。東漢の許慎が撰して西暦100年(永元12)に成った。
540の部首にわけ、「正文」として小篆を字頭に置き、9,353の文と字を解説 → 説文解字したもの。
また古文[ふるい字画]、籀文[チュウブン ≒大篆]、异体[イタイ ≒異体字]、重文[≒合分・成句]など、1,163字も紹介している。したがって「文を説き、字を解する」ために、133,441字からなっている。
許慎は「海」を、「天池也 以納百川者 从水 毎聲 呼改切」、意訳「幾百もの川の水を納める、おおいなる池なり。水(氵)の部首に从(従)う。声(漢字音)はマイ、バイ、ハイ hai なり」としている。

中国(台湾)には、こうした影印本や、批評と注釈を加えた批注本の『説文解字』がたくさん発行されている。
8-9世紀をいきた空海(774-835)が、西暦100年に成った、許慎『説文解字』に関心を寄せていたなら、こんにちのわが国の字学 ≒ タイポグラフィは、そうとう異なった姿になっていたとおもうことがある。 

《なぜか気になるひと、空海のこと》
まだ中国旅行がきわめて不便だったころ、盛唐時代のみやこ 長安、現在の西安をたずねたことがあった。そのとき空海が西明寺に滞在しながら、恵果(ケイカ、エカ 746-806)から真言をまなんだとされる、西安郊外の「青龍寺」をおとずれた。
恵果は、不空【フクウ、(Amoghavajra)、705-74 中国版百度百科:不空】の弟子で、空海の声望をきいてその来訪を待ちわび、その真言の一切を伝授したとされる。
中国での資料は、インド僧ともされる不空に関しては饒舌だが、恵果【ケイカ、エカ 746-806 日本語版ウィキペディア:恵果、中国版百度百科:恵果にはみるべきものは無い】に関しては、なぜかわが国の資料からの引用にとどまる。
当時は現地のガイドも「青龍寺」の所在地を知らず、ずいぶん苦労して「青龍寺跡」にたどり着いた。

小高い丘、ひろい野菜園(はたけ)のなかに、ちいさな堂宇がポツンとあり、中には老婆がひとりで埃をかぶった土産物を並べているだけだった。
堂宇の周囲には、日本の真言の寺が寄進建造した、こぶりな碑や仏塔がいくつかならんでいた。一時間ほど周辺を歩きまわったが、やつがれらのほかにたれひとりとして、このちいさな堂宇をたずねるひとは無かった。

《現代の、これからの「文」と「字」のありようへの希望》
上に掲げた地図は、「長安城復元図」(『随唐文化』陝西省博物館、中華書局、1990年11月)である【リンク:地図の拡大版】。唐王朝第二代、貞観ジョウガンの治をしいた皇帝・李世明(リ-セイミン 598-649)に仕えた褚遂良(チョ-スイリョウ 596-658)の自邸、そして李世明の長男で自死させられた隠太子廟なども描かれているので、盛唐時代とされた6-7世紀の記録とおもわれる。

現在の西安のまちの城壁は明代に造築されたもので、上図の盛唐時代の広壮な長安城の 1/4 ほどの規模になっている。
空海がここをおとずれた唐時代の長安城(まち)は、三蔵法師の尊称で知られる、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602-664)が、インドから持ち帰った仏典の訳教にあたったとされる、大雁塔のある慈恩寺も城内にあった。慈恩寺の境内は広大で、下図の右から3ブロック目、下から2-3ブロック目の「晋昌街・通善街」を占めていた。
盛唐時代の「青龍寺」も城内にあった。下図では右下寄り、第五街皇城東第三街としるされた道に面し、延興門のすぐ脇の「新昌坊」にあった。
────────
数年前、北京オリンピックが終わったあとに西安に友人ができて、かれの案内でふたたび「青龍寺跡」をおとづれた。そこはすっかり「日本人向けの観光地」になっていて驚いた【日本語版:ウィキペディア:青龍寺 中国語版:百度百科:青龍寺】。
それでもここを再訪してはじめて、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)のうまれ、空海こと、佐伯眞魚サエキ-マオ、諡号で弘法大師とされる人物は、たしかにこの地に立っていたと実感することができた。
そして「文」と「字」に夢中になり、その反古ホゴや欠片カケラのようなものまでの一切合切を、一気呵成の勢いで頭陀袋ズダブクロにほうりこんで、あわただしく祖国日本に戻ったのであろうと想像すると、なにかほほ笑ましいものがあった。そのころ空海は、数えて32-33歳のときであろうか。

こうした空海を、風景として描いたのは司馬遼太郎であった。
やつがれにとっての空海とは、「文」と「字」のひとである。
空海は「字」の成立の背後にひそむ、「文」の「咒ジュ性 乃至 呪ジュ性」、あるいは単にその神秘性といいかえても良いが、それに惹かれたのではないかとおもう。それがして空海を宗教ひとたらしめた。
したがって宗教ひと、それもあらたな宗派の開祖として耳目を惹きつけるために、「海」の字の結構(偏と旁)を左右型から上下型とし、旁の部首を「氵から水」として、「毎+水 → 海」とした、空海の心象風景に、衒学趣味をみるとはいえ、これはこのひとに独特の パフォーマンス Performance として看過すべきことだとおもう年齢にたっした。したがっていまでは、
「オイ、空海さん、あなたはとても面白いな」
と、声をかけたい気持ちになっている。

たしかに中国にとどまらず、エジプト、中東、インドなどにおける、ふるい時代の伝達記号、「文」のおおくが、そして「字」の一部も、古代宗教の神官の手になったものがおおく、そこに霊感や神秘性のごときものをみることはある。
それでもやつがれは、そうした「文」と「字」の背後に埋み火のようにひそむ咒性や神秘性は、できるだけソッとしておくべきだと考えている。そのため「字」におおきな神秘性をみていたであろう、武即天による、いわゆる「則天文字」は、これまでも触れてきたこともあり、今回はあえて触れなかった。

むしろ、天下万民のリテラシーが向上した現代にあっては、「文」と「字」とは、普遍の、おおやけの、正確な伝達記号でありたいとおもうのがやつがれのいまである。
そしていつかまた、『空海の風景』をカバンに忍ばせて「青龍寺」に立ち、「文」と「字」につよく惹かれたであろう空海の、こころの風景をかたりあいたいとおもうのである。

《追加項目:お詫びと訂正 ──────── 中国版電子データ『漢典』のご紹介 2014年01月09日》
本項は2014年01月04日に掲載した。新年始業後、たまたま「畑」と「畠」の異同をしらべるために、時折訪問する中国版「字」のデータ【 漢  典 】にあたっていた。ついでに、なにかと気になる「海」にもあたってみた。
そこでナント! 【 漢典 海 】の「异体イタイ字 ≒ 異体字」に、下図の「异体イタイ字 海」が掲載されており、なおかつユニコード番号がまでが振られていた。
基本 CMYK

上掲のみっつの「字」が【漢典】には、いずれも「海」の「异体字 ≒ 異体字」として紹介されていた。字のコードはいずれもユニコードで、左からU+23CD7, U+23CE0, U+23D34である。近近買い換えを迫られているやつがれのウィンドウズXPでは表示できないが……。
しかもである。やつがれが調査済とした『玉扁』、『康熙字典』に「毎+水 海」が掲載されているという。

大慌てで『玉扁』を調べた。この字書は中国・梁の顧 野王撰、30巻で543年になった字書である。悲しいことにやつがれの所蔵書は、明治初期のわが国における活字本で、「毎+水 海」は紹介されていなかった。
しかしながら空海は『玉扁』をみることができたはずだし、こうした偏と旁をかえた「結構」の「海」は、当時の中国にあって、空海が実見していた可能性が否定できないことになった。

また『康熙字典』は複数所有しており、もっぱら使い勝手の良い活字本をつかっていた。そこでもう一度、影印本『康熙字典』(張 引之校改 上海古籍出版社 1996年1月)にあたってみた。結果は下図に掲げた。
「海」は、「『康熙字典』巳集上 水部 七画」の五十一丁最初の行にあり、その最末部に「毎+水 〔集韻〕或作 毎+水」がある。
「毎+水」は、「『康熙字典』巳集上 水部 七画」の五十六丁二行目最上部にあり、たしかに「毎+水 〔玉扁〕同海」とされていた。
『康熙字典』「毎+水」_ページ01 『康熙字典』「毎+水」_02まこともって、正月休暇をつぶしてポチポチしるしてきたことだが、しまりの無い仕儀となった。
ここに読者の皆さまにご報告するとともに、お詫びとともに、改めてご報告した次第である。
(この項2104年01月09日しるす)

朗文堂好日録-033 毎+水=? 【設問編】 年度末の宿題を、年末年始に回答です。

毎+水=?

【 設 問 編 】

朗文堂ニュース 2013年03月11日】に、上掲の図版を掲げて、皆さんに質問を投げかけた。
おりしも年度末、慌ただしいときであった。
回答は、この【タイポグラフィ・ブログロール 花筏】で報告するとしていたが、忙しさにかまけ、いつの間にか忘れていた。

ところで「宿題」の件である。設問から半年余もたったので、もう皆さんはお忘れかとおもっていた。ところがWebsite には「ウェブ検索」のほかに、「画像検索」のコーナーがあり、そこにはしっかりと上掲の図も掲載されていた。

いままでやつがれは、ほとんど「画像検索」コーナーはもちいなかったが、最近この Website のサポートにあたっているキタクンは、もっぱら「画像検索」コーナーからはいって、検索をガシガシとはじめる。
デジカメもケータイも、すぐに壊したり、なくすので、「使う資格無し」として没収されるほど「機械オンチ」のやつがれは、こういう作業を「ググる」というのだとようやく知った。やがてキタクンを真似て、結構「画像検索」を試みるようになって便利なこともある。

検索ソフトのグーグルは、どのように画像データーを収集・編集・処理するのか知らないが、「朗文堂画像検索」編はあまりにふるく、画像も低解像度のものが多かったせいか、いくぶん貧相である。
どちらかというと、【朗文堂花筏 画像】編にあたらしいデータが収録されている。そこにこの「設問」の画像が逃げようもなく存在していた。
そんなことを気にしているうちに、ついに歳末に読者からの叱声がきた!
「朗文堂NEWS にアップした、 毎 と 水 のかさなった 字 の解説はどうした…… !?」
というわけで……、上掲の課題を越年させて、ポチポチとしるしている次第。

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森永チョコレートアイスクリームPARM ブランドサイト《平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar》に、2013年11月、15回にわたるタイポグラフィ・エッセイをしるした。
この写真の施設は「甲骨文」出土地として知られる、中国河南省安陽市の駅前に新設された「文字博物館」である。撮影は斜めから撮ったものだが、ファサード正面にむかって巨大なモニュメントが一直線上にならんでいる。

一番手前は金色に輝く「文 鳳凰文」である。その背後に「字 宀 ベン、メン、うかんむり≒家のなかでつぎつぎとうまれた子供=字」を象徴する巨大なモニュメントがそそり立つ。
ここ「文字博物館」での「文字」には、ちょっと注意が必要である。たしかに「文字」そのものは、中国漢代にもその使用例がある(『漢語大詞典』)が、その意味するところは、現代日本語の「文字」とはおおきくかけはなれている。

やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。そのために「文字博物館」の図録の序文には、「文≒紋」と、「字」のなりたちが、正面入口のふたつのモニュメントを例として丁寧に説かれている。
すなわちわれわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。
したがって甲骨文、金文、石鼓文、籀文(チュウブンン ≒小篆)などは、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としての扱いはうけずに、「文」と表記される。

このことの説明に際していつも苦慮するが、例をケータイ電話などでの「顔文(字)」に喩えたらわかりやすいかも知れない。
ケータイ電話の「顔文(字)」は、同一メーカー所有者など、一定の集団のあいだでは共有されるが、その意味範疇はあいまいであり、伝達の範疇は意外と狭いものがある。
またわが国の一部の資料に「文は部首である」とするものもある。これはにわかには首肯できない。

《正式な学問として存在する中国での字学》
甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者を「甲骨四堂」、あるいは「甲骨学 四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。
四堂とは、郭 沫惹カク-マツジャク/鼎堂、羅 振玉ラ-シンギョク/雪堂、王 国維オウ-コクイ/観堂、董 作賓トウ-サクヒン/彦堂であり、一宣とは、胡 厚宣コ-コウセンのことである。

郭沫惹氏 百度百科よりわが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹(カク-マツジャク、あざなは鼎堂テイドウ。中国四川のひと。日本の九州大学医学部卒。中日友好協会会長をながくつとめた。1892-1978)が、中国河南省鄭州の「河南省文物考古研究所」(王 潤杰オウ-ジュンケツ館長)のために書した、同所の扁額とパンフレットの題字の「殷虚」は、悪相とされる漢の字「殷虚」の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。
ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながら携帯電話の「顔文(字)」と同様に、あたらしいメディア上には表示できない。

つまり中国河南省鄭州テイシュウなどの遺跡で発掘される、前商(殷)時代・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。
【リンク:吾、台湾にて佛跳牆を食す !

やっかいなことだが、わたしたちはいつのまにかすっかり「文字」ということばに馴れてしまい、相当な専門書にも、「甲骨文」にかえて「甲骨文字」などとしるされている。もしこれをよしとするならば、青銅器などにみる「金文」は「金文字」となり、「籀文 チュウブン」は「籀文字」となり、つづみ形の石に刻まれた「石鼓文セッコブン」(現在は移転して北京:故宮博物院所蔵)は「石鼓文字」となる。つらいはなしではある。

したがって、わたしたちにとっては、この安陽の施設は「文モン or 紋モン and 字 の博物館 ≒ もん と じ の博物館」としてとらえたほうが誤解が少ないようである。
そんな予習のためにも、炬燵・蜜柑にアイスクリームを加えていただき、下記情報をご笑覧いただきたい。
平日のちょっと贅沢なライフスタイルマガジン Daily Premium Calendar 2013年11月12日
朗文堂好録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、仏跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと
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水+毎=?さて、本題にもどろう。上掲の「字 ≒ 文字」は、ひとつの「字」である。
漢の字、中国の字(漢字、中国では字 or 国字)というより、国字(わが国でつくられた漢字風の字)、もしかしたら個人の創意、あるいはわずかなテライ、もしくは軽い諧謔ユーモアをこめてつくられた「字」かもしれない。
図版でおわかりのように、上部に「毎」をおいて、下部に「水」をおき、ひとつの「字」としたものである。

やっかいなことに、この「字」は、わが国の歴史上で実際に書きしるされており、しかも複数の貴重な文書の上になんども登場していて、一部の「集団」からは、いまなおとてもおもくみられている「字」である。
したがって簡単に「俗字」「異体字」として片付けるわけにもいかず、原典文書の正確な引用をこころがける歴史学者などは、ほかの字に置きかえられることをいやがることがある。

1970年代の後半だったであろうか……。まだ写研が開発した簡易文字盤製造キット「四葉  シヨウ」もなかったころのことである。展覧会図録として、この「字」をふくんだ文書の組版依頼があった。
当時は原始的というか、当意即妙というのか、原字版下を作成して、ネガフィルムをおこし、それをガラス板にはさんで写真植字法で組版するという、簡便な方法で対処したことがあった。もう40年ほど前のこととて、その資料も、使用例も手もとにはない。

もちろん現代の文字組版システムは汎用性にすぐれており、こうした「特殊な字」は、アウトラインをかけるなどして「画像」とすればいいということはわかっている。それでも学術論文までもが Website で発表されるという時代にあって、やはりなにかと困った「字」ではある。
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先まわりするようだが、デジタル世代のかたが愛用するパソコン上の「文字パレット」や、「手書き文字入力」ではでてこないはずだ(やつがれのばあいは ATOK であるが)。
ちなみにこの「字」のふつうの字体は、人名・常用漢字で、JISでは第一水準の「字」であり、教育漢字としては小学校二年で学習(配当)する、しごくあたりまえの「字」である。

また、一部のかたが漢の字の資料としておもくみる『康煕字典』では、「毎」は部首「母部」で、「辰集下 五十七丁」からはじまり、「水」は部首「水部・氵部」で、「巳集上 一丁」からはじまる。
現代中国で評価がたかい字書のひとつ『漢語大詞典』(上海辞書出版社)もある。これらのおおがかりな資料にもこの「字」は見あたらない。為念。

また、わが国のふつうの『漢和辞書』とされるものは、なんらかの中国資料の読みかえがほとんどであるから、当然でてはこない。
管見ながら、これらの資料には「標題字」としては、上掲の「毎+水の字」は掲載されていないようである。もしかして、万がいつ、応用例としてでも、ちいさく紹介があったらごめんなさいである。
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とかく「漢字」「文字」というと、ほんの一部のかたのようではあるが、にわかに知的興奮にでもかられるのか、妙に衒学的になったり、エキセントリックになるふうがみられるのは残念である。
ここではやわらか頭で、トンチをはたらかせ、
「なぁ~んだ、つまらない」
「ナンダョ~、簡単じゃないか」
とわらって欲しい。
そしてこの「字」をつくりだした、天性のエンターティナーに、おもいをはせてほしい。
「回答」というほどのものではないが、答えは タイポグラフィ・ブログロール《花筏》にのんびりしるしていくつもりである。

朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち

ウパルンⅠ世

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《飼育に未熟だった。かわいそうに、短命に終わったウパルンⅠ世、そしてサラマンダーへ

【2013年07月27日、土曜日】
やつがれが歯医者(での治療 or 拷問?)にいっているあいだに、ちかくの「マルイ」の特設熱帯魚売り場から、家人が魚ともいえない妙なモノと、小ぶりな水槽、循環水ポンプ、水草などをかかえるようにして買いこんできた。

これには、TV-CM ですっかりお馴染みとなったウーパールーパーという愛称があるが、正式にはメキシコサラマンダー(Ambystoma mexicanum)とされ、もともとメキシコの湖沼に棲む両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類だそうである。
その愛称ないしは流通名が「ウーパールーパー」らしい。

ところが灼熱の焔からうまれる鋳造活字をあつかうタイポグラファとしては、こと「火の精霊 ── サラマンダー or サラマンドラ or サラマンドル」と聞くと、こころおだやかではない。
サラマンダーとは、欧州で錬金術が盛んだったころに神聖化され、ルネサンス初期のスイス人にして、医師であり錬金術士でもあった パラケルスス によって、「四大精霊」とされたものである。
四大精霊とは、地の精霊・ノーム/水の精霊・ウンディーネ/火の精霊・サラマンダー/風の精霊・シルフである。
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活版印刷の祭典「Viva la 活版 Viva 美唄」のイベントタイトルを、北海道の大河・石狩川にちかく、その支流・美唄川のほとりの会場「アルテ ピアッツァ美唄」にちなんで、若きアドリアン・フルティガーの設計で、パリのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所から発売された、欧文金属活字「水の精霊 オンディーヌ」をもちいたことは、アダナプレス倶楽部のコラム欄に既述した。その一部を引こう。

「Viva la 活版 Viva 美唄」の新イベントサイン用書体として選択されたのは、日本語総合書体【銘石B くれたけ】と、欧文デジタルタイプの【オンディーヌ】であった。
【詳細情報:朗文堂タイプコスミイク 銘石B Combination 3  PDF データーつき

「オンディーヌ  Ondine」とは、フランス語で「水をつかさどる精霊」の意で、清浄な湖や泉に住んでいて、ほとんどのばあい、美しい女性のすがたとして描かれている。
語源はラテン語の unda(波の意)とされ、欧州各国語では、ウンディーネ(独:Undine)、アンダイン、あるいはアンディーン(英:Undine)、オンディーナ(伊:Ondina)などとされるようだが、ここではフランス発祥の活字(ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所、活字設計:アドリアン・フルティガー 1953-4年製作)でもあるので「オンディーヌ  Ondine 水をつかさどる精霊」としたい。

「Viva la 活版 Viva 美唄」のイベントタイトル書体として選択された「オンディーヌ」には、北海道美唄のゆたかな山河をめぐり、四大精霊のひとつ「水の精霊・オンディーヌ」にちなんで選択されたのには、こんな背景があった。
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もうひとつ「火の精霊・サラマンダー」は、古代ローマ時代では、「冷たい躰をもち、たちまち炎を消してしまうトカゲ」、「炎をまとう幻のケモノ」とされていた。
やがてそれが錬金術師・パラケルスス(Paracelsus  1493? -1541)『妖精の書』によって、四大精霊のうちの火に属する精霊として定義された。

わが国では神秘性を帯びて「火蜥蜴ヒトカゲ」とあらわされることもあるが、即物的に「サンショウウオの一種」とされることもある。
欧州では古来、炎をまとったトカゲ、または火の中でも生きていられるトカゲとして、怪異な姿で描かれることが多い。また、サラマンダーは、怪我をしても火を食して再生すると信じられていたことがあり、いまでもキリスト教の教会や、騎士のシンボルとしても使われており、かならずしもウーパールーパーのような可愛いしろものばかりとはいえない。
【リンク:サラマンダー画像集】。

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中世の錬金術と、鋳造活字の創始には深い関連があるとされている。そのためか、フランスに本格的なルネサンスをもたらし、またギャラモン活字の製作を命じた フランス国王、フランソワⅠ世(François Ier de France, 1494-1547)の紋章と、パリの「フランス国立印刷局 Imprimerie Nationale」の紋章は、ともにサラマンダーであり、すこし愛嬌がありすぎるがウーパールーパーはその縁者なのである。
家人はやつがれのこうしたこだわりの痛いところをついて、ペットとしてのサラマンダー(ウーパールーパー)を、なんの断りもなく、勝手に買い求めてきたのである。

やつがれがフランス国立印刷局を訪問した当時の紋章は、恐竜にも似た怪奇的な図柄であったが、現代はモダナイズされて「火を吐くトカゲ」の、愛嬌のあるデザインにかわっている。
また最近、フランス国立印刷局から、その紋章、サラマンダーに関するいくばくかの資料をいただいたが、この一連の資料を紹介するのには、もう少しの時間をいただきたい。
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また朗文堂 アダナプレス倶楽部はすでに2008年の年賀状において、ギャラモン活字をもちいて、
「我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo」
と題して、サラマンダーを、鋳造活字の象徴的な存在として扱ったことがある。
ふり返ってみれば、わが国では鋳造活字とサラマンダーに関する情報が不足気味のところに、いきなり年賀状として「火のなかの怪獣 サラマンダー ── アダナプレス倶楽部ではサラマンドラと表記している」の絵柄を送付したから、正月早早このはがきを受け取られたかたは、その奇っ怪さに驚かれたかたもいらしたようである。ちなみにここでいう「金青石 キンショウセキ」とは鉱石ないしは鉱物の意である。

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我ハ育クミ  我ハ滅ボス  Nutrisco et Extinguo

―― サラマンドラのごとく金青石は火によって生きる ――

灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火の如き 火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する

朗文堂 アダナプレス倶楽部 2008年01月  

20130701201604192_0003《わが国の鋳物士・活字鋳造者にみる火の神への信仰》
わが国でも、近年まではどこの鋳物士や活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。
同様に太陽すなわち火の神がもっとも衰える冬至の日には、どこと活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、一陽来復を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団の末裔であったことは忘れられがちである。その一部を下記にひいた。
【参照資料: A Kaleidoscope Report 002* 『活字発祥の碑』】

もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者や鍛冶士などと同様に、蒸気ボイラーなどに裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の「鞴 フイゴ」をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して「イモノ」をつくっていた。ふつうの家庭では「火吹き竹」にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。

そのために鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を、玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること、はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足カラアシを踏むことを「蹈鞴 タタラ を踏む」としてのこっている。

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇(記紀にしるされた6世紀末の天皇。聖徳太子の父とされる、在位585-87)の『職人鑑』に、「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」としるされるほどで、とてもながい歴史がある。
つまり高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)がもちいてきた用具である。 そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。

また太陽の高度がさがり、昼がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、一陽来復を祈念することが常だった。
すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団の末裔であったことを理解しないと、「活字発祥の碑」 建立までの経緯がわかりにくい。

《おもいでをたくさんのこして逝った、ウパルンⅠ世》
焔のなかから再生する鋳造活字とサラマンダーの関係はいまはおくとして、やつがれは持病として喘息をかかえており、ハウスダストをもたらす犬猫の飼育は避けているが、小魚となればすでに「出目金3匹、泥鰌2匹」をベランダの水槽で飼育しており、問題はない。
しかもいきなり、この「妙なモノ ── ウーパールーパー」と目があってしまった。俗なことばだが「つぶらな瞳」であった。
飼うことにきめた。というより、もう飼うしかなかった。名前は「ウパルン」とした。

かつてこの「ウーパールーパー」のブームがあった。それは1985年に「日清焼そばU.F.O.」のCMに、ウーパールーパーの呼び名で登場して、その奇妙な愛らしさから、おおきなブームになったものである。どうやらCMに登場した個体も、家人がもとめてきたものも、アルビノ(白体個体)とされるものらしい。
表情はほとんど無いが、ともかく仕草が愛らしく、イトミミズが好物で、乾燥飼料には抵抗していた。帰宅すると「ウパルン」を観察するのが楽しみとなった。

ことしの夏はともかくひどく暑かった。ところが習慣として外出時にはエアコンは切る。そのために密閉された室温は40℃を超える日も多かった。当然水槽の水温もあがり「ウパルン」は次第に衰弱していった。
衰弱の原因が水温が高すぎることに気づき、あわてて外出時もエアコンを入れっぱなしにしたが、ついに「ウパルン」はみじかい一生をおえた。「ベランダ野艸園」の片隅に葬った。

《手づくり花壇の裏、せまい排水溝に野鳩が巣をかけた》
春先から、ベランダに野鳩のつがいがしばしばやってきていた。
やつがれは、暑かろうが寒かろうが、目覚めからのいっとき、ベランダの「ロダンの椅子」に腰をおろし、紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとする。そこで陳腐なセリフだが、
「きょうも元気だ! タバコが旨い」 ── となって、やおら始動する。

そのとき、ときおりベランダの手すりに鳩をみかけた。小枝を咥えていることもあり、どこかに巣をかけるつもりだな、とはおもった。オドオドとしているが、こちらはロダンの彫刻さながら、不動のまま、ただ紫煙をくゆらせているので、飛びさることはなく、いつも植え込みの藪のしたからどこかに消えていった。

排水溝にもうけた鳩の巣

野鳩のことゆえ、 どうせエアコン室外機の下にでも巣をかけているのかとおもって、見て見ぬふりをしていた。

《颱風一過、2013年09月16日 ── 野鳩の巣を発見》
颱風18号が日本列島をまっぷたつにして駈けぬけていった。東京でも暴風雨がひどく、各地から河川の氾濫、洪水、土砂崩れ、竜巻、交通機関の混乱などの情報が報じられていた。
ベランダにブロックを積みかさねてつくった、わが「空中庭園・野艸園」でも、枝折れや、植木鉢の倒壊などの被害があった。この「空中庭園・野艸園」は、ノー学部が勝手に、ベランダの左右いっぱいにブロックを積みあげてつくったもので、いわばフラワー・ポットの大型版である。

被害状況を調べようと、ブロック積みと、ベランダの壁のわずかな隙間、20センチほどの排水溝をのぞいた。そこに野鳩の巣がふたつあり、卵が4個みられた。
ひとの気配に驚いたのか、狭い隙間から鳩は飛びさろうとしていた。よくもまぁ、こんなところに巣をかけたな、と呆れた。できるだけ鳩を驚かせないように撮影したので、不鮮明な写真となったがご容赦を。

《ことしも咲きましたよ! トロロアオイの花。2013年10月06日[日曜日]》
春先の02月17日に植えた「トロロアオイ」が、ようやく大輪の花をつけた。
晩夏に咲く花であることは知っていたが、まさかこんな異常気象の夏になるとはおもわず、ことしはすこし早めに播種して、ふた株を大振りな植木鉢に移植しておいた。
その記録は「花筏」にのこっていた。
【タイポグラフィ・ブログロール:花筏 朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種 2013年02月19日
その一部を引こう。

¶  2013年02月17日、トロロアオイの種子をテストで 播種
2011年、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部では、5月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ 2011〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。
それにかえて、会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2011』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性会員のOさんから、
「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」
との写真添付@メールが送られてきた。
Oさんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉にはるばる仙台から駆けつけてくださる、熱心な活版ファンである。またOさんご自身も「東日本大震災」ではなんらかの被害にあわれたかとおもえたが、それに関してはお触れにならなかった。

ことしもアダナ・プレス倶楽部会員のご希望のかたにはトロロアオイの種子をお配りしたいとおもっているが、昨年は開花期に中国にいったりして十分な水遣りができず、種子の大きさも小ぶりになったような気がしている。
そこですぐにも霙ミゾレになりそうな寒い雨の日だったが、発芽テストのために、ひとつまみの種子を黒ポットに植えた。元気に発芽してくれるように、しばらくは家の中で育ててみたい。

この種子のもとは、もう5年もまえに、都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいたものである。そのときからアダナプレス倶楽部の会員の皆さんに種子を配布してきたが、何人ものかたが、単年に終わらせず、もう3回も同じ茎からトロロアオイの開花をみているそうである。
また花は、おひたしにして食すと、とても美味しいそうである。やつがれは毎年播種して、開花をまちわび、種子を採取している。
ことし2013年は、10月06日[日曜日]に、ご覧のようにみごとな開花をみた。この花は大輪だが、昼過ぎにはもうしばみはじめ、いちにちだけの開花で終わる。

DSCN2111uuDSCN2130uu

《そしてやってきた、ウパルンⅡ世。きわめて元気である》

DSCN1880uuDSCN2165uu「ウパルンⅠ世」が短い生涯をおえてから、水槽にはメダカのようなちいさな淡水魚と、アダナプレス倶楽部会員・田中智子さんにいただいた、これもちいさなエビ ── いずれも本来は「ウパルン」の餌として用意したものが泳ぎまわるだけになった。
08月の終わりとともに「マルイ」の熱帯魚特設売り場は撤去されたらしい。
そこで花園神社の鳥居のちかく、地下鉄E2口に通じる、半地下のビルの熱帯魚店に、家人に誘われるままに「ウーパールーパー」をみにいった。
ともかく水槽が空疎で、帰宅後のさびしさもあったので、抵抗なくついていった。

そこには白いアルビノのウーパールーパーはいなかったが、上掲写真の「サラマンダー」がいた。プラスチックのちいさなカップにはいっていたが、そのうちの一匹と、なんの因果か、また目があった。
ウパルンⅠ世とくらべると、いささか無骨ではあるが、愛嬌のある、いい顔だった。結局買って帰ることにした。

名前はまた「ウパルン」とした。正式には「ウパルンⅡ世」である。Ⅰ世とくらべると、まぁよく食べるウパルンⅡ世である。
過食をおそれて餌やりを遅らせると、はげしく水槽内を動きまわって催促する。エラのような、手足のような、触角のようなものも、ひんぱんに動かせて水槽を駆けまわる。
飼育法の学習をかねて、Website の「ウーパールーパー画像集」をみたが、うぬぼれながら、そこでも五指にはいるほどの美男 ? のような気がしているがいかがであろう。
ただ「ウパルン」は体長20センチほどにまで成長するらしい。そうなったら、いささか不気味かもしれない。

《秋の深まりを感ずるこのごろ。2013年10月09日[水曜日]》
野鳩の巣がけのことを書いたので、気になって今朝そっとのぞいてみた。一羽がしっかりと抱卵していた。もう10月の中旬で朝晩は肌寒くなってきている。したがって、はたして雛が無事かえるのかいささか不安ではある。
そして年初には、表紙込みで13枚あったカレンダーが、いつのまにかもうのこり2枚になっている。もろもろの打ち合わせも、年末・年初の企画や、来年の企画対応がふえてきた。

2013年、平成25年、いろいろあった年ではあるが、わが家のいきものたち ── メダカ、エビ、ウパルン、出目金3匹、泥鰌2匹、そして北海道・美唄の艸叢からもってきた、キャベツ大好きのカタツムリのでんでん、勝手に居着いた野鳩をふくめて、わが家のいきものは元気である。

朗文堂-好日録030 漱石公園-夏目漱石終焉の地 漱石山房と、イオキ洋紙店



大きな地図で見る

《夏目漱石 と 方丈記》
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例タメシなし。
世の中にある、人と栖スミカと、またかくのごとし。
                 『方丈記』(鴨  長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

昭和は、もう遠くなったのかも知れない……。
上掲写真はイオキ洋紙店(162-0805 東京都新宿区弁天町111に2011年まで旧在)の、ありし日の姿である。

初代・伊尾喜イオキ氏(名前を失念/のちほど調査記入予定)は、用紙販売業界の大手「大文字洋紙店」から、戦後すぐに暖簾わけのかたちで独立開業して、市谷・榎町・早稲田・江戸川橋など、近在一帯の印刷・出版業者からの信頼をあつめた。
小社は初代・伊尾喜さんの時代から「二十日会ハツカカイ――大正製薬・中外製薬などの紙器印刷会社・西武堂主催の無尽講だった」の会員として親しくおつき合いし、二代・伊尾喜章社長(70歳で退任したが、ふるい顧客は終始アキラさんと呼んだ)とも親しくおつき合いしてきた。小社の印刷用紙も、ながらくこのイオキ洋紙店から購入していた。

印刷とその関連業界とはふしぎな業界で、ふるい体制がそのままのこっている。
とりわけ印刷用紙の製造販売は、明治初期の「洋紙製造」が「国策(国営)」からはじまったという歴史があり、どことなく硬直した上意下達のおもむきがあり、つい最近まで「山陽国策パルプ」などの社名までがのこっていた。
イオキ洋紙店は、出身の「大文字洋紙店」にならって「洋紙」を社名にもちいていた。すなわち「イオキ洋紙店は、印刷・出版用紙を販売していた」ことになるが、ここでの「洋紙と用紙」のつかいわけは厄介であり、しばしば混同・誤用されている。

流通販売経路も古色蒼然としたもので、製造会社 → 代理店 → 府県商フケンショウ → 紙販売店の流通経路は、流通革命といわれた時代を経て、ネット通販全盛のいまなお盤石のようにみえる。
「府県商 フケンショウ」の名は、かつて印刷用紙販売が「統制下」にあり、(都道)府県知事の許認可を必要としたためで、その認可をうけている用紙販売業者を業界用語で「府県商」と呼んだ。
「イオキ洋紙店」も府県商であった。

画材店や文具店などの、少量の用紙を扱う業者は、ふつう「紙販売店」とされる。「紙販売店」は、容易には府県商を飛びこえて、代理店やメーカーから直接に仕入れることはできない仕組(商慣習?)になっている。
これは出版社や印刷会社のほとんども同様で、府県商を飛びこえて、代理店やメーカーとは容易に取引ができない仕組み(商慣習?)がある。
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インキにも似たような例がみられる。すなわち「印刷用インキ」は、いまもって、かたくなまでに「印刷用インク」とはいわない !? 
近代活版印刷 ≒ タイポグラフィは、鎖国下にあった江戸期に、オランダから開港地の長崎に、ほそぼそともたらされた。オランダ語では「Inkt  インキ」、英語では「Ink  インク」とされる。

近代医学もほぼ同様に、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 鎖国下で出身を隠していたが正確にはドイツ人、1796-1866)や、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)らによってもたらされ、蘭法医学と呼ばれてひろまった。

蘭法医は奇妙な金属製の器具をもちいて、それを消毒と称して熱湯のなかで煮沸シャフツした。それは V 字の形状で、バネ(発条)をそなえていて、「Pincet  ピンセット」というものだと教えられた。
活版印刷でも、活字版組版の結束や、活字の差しかえに際して、やはりピンセットをもちいた。
そのためにピンセットは、長崎の医術用や活版用からはじまり、やがて長崎をでて、各種の小細工にももちいられるようになったが、それでも「ピンセット」と呼ばれてきた。
のちに英語の「Tweezer トゥイーザー」も知ったが、すっかり人口に膾炙カイシャした「ピンセット」の名称は不動にみえる。

ところで「Inkt  インキ」である。「印刷用インキ」業界には「府県商」こそ存在しないが、こちらも印刷用紙と同様に、製造会社 → 代理店 → インキ販売店の流通販売経路が厳然として存在する。
1970年代からつづく活版印刷業務の衰退にともなって、活版印刷用インキの販売にあたっていた「活版印刷資材販売業」は、ほぼすべての企業が「オフセット平版印刷資材販売業」などに転廃業をしている。
それでもまだまだ印刷業界では「インクよりインキ」が優勢であるが、「インクジェット」などのあたらしい機器が登場するにおよび、次第に頑固頑迷な業界でも「インキ → インク」への転換もみられる昨今である。

「活版ルネサンス」を標榜し、あたらしい活版造形者とともに活版印刷を継承していこうとする朗文堂 アダナプレス倶楽部にとって、この「活版用インキ」の確保が困難な状況になりつつある。
すなわち大手のインキ製造会社は、統廃合を繰りかえし、採算性が悪化した「活版用インキ」の製造を廃色・中断・終了にすることが多い。
それも唐突に一枚のファクシミリ(@メールにあらず)が届いて、
「店頭在庫をもって、製造・販売を終了します」
という「通告」型が多いのが悩みの種である。この時点ではすでに製造は終了し、倉庫はおろか、流通在庫などもほとんど無い状態になっている。
そのために「活版用インキ製造の継続」をメーカーと粘りつよく交渉しているが、いくら親しくなっても、大手のメーカーからの直接仕入れはできない慣習があるらしい。

最近は、活版印刷関連機器はもとより、活版印刷用インキに関しても、外国からの問い合わせ、注文が多い。いずれの国でも、あたらしい活版造形者の増加とともに、中古機市場は部品供給などに難があるために縮小している。
また印刷インキにも、かつての活版印刷業者では考えられなかったような、特殊な色彩展開を計るかたも増えている。そのご熱意はわかるものの、その「高度なご要求」の問い合わせには、上述の理由もあって、なかなか対応が困難なばあいが多い。
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《45年ちかくにおよんだ牛込柳町公害問題の解消》
もうかれこれ45年になることにおどろく……。「牛込柳町鉛公害」と、「光化学スモッグ」がおおきな話題となった。
東京の自動車保有台数が200万台を突破したのが1969年(昭和44)であった。翌1970年4月、新宿区牛込柳町で、当時はハイオクタン・ガソリンなどに含有率の高かった、鉛を含んだ自動車の排気ガスによって鉛公害が問題となり、同7月には、環状七号線に沿った杉並区を中心に、広い地域で光化学スモッグが発生した。

ときの東京都知事は美濃部亮吉氏だったと記憶している。環境問題、とりわけ大気汚染がおおきな話題となりはじめたひとつのきっかけでもあった。
ところが「光化学スモッグ」はまだ記憶にあたらしいが、「牛込柳町鉛公害」は、対象地域が狭いせいもあって、おおかたからは忘れられているようだ。なにせ45年も前のことであるから、ネット上の若者などは、おおきな話題となったことも知らない時代となっている……。

しかし「牛込柳町鉛公害」をうけて、東京都からはさっそくさまざまな対策が打ちだされた。まずガソリンの品質が問題となり、無鉛ガソリンが普及した。
牛込柳町交差点は、外苑東通りと大久保通りが交差しているが、どちらも交通量が多く、しかも地形がすり鉢状になっていて、風の吹きぬけがわるいために、排気ガスが滞留しているとされて、大久保通りでの停止線が、坂の上の、交差点からは遠くに引かれて奇妙な景観を呈した

いっぽう外苑東通りは道路幅の拡張がはかられた。外苑東通りは、信濃町から四谷三丁目を経由して、靖国通りとの立体交差の曙橋をすぎ、市谷中之町までは片側二車線で、歩道もゆったりとられている。
すぐに市谷中之町の交差点に達する。ここを左折すると女子医大方面に、右折すると大日本印刷の本社や市谷工場がひろがる。
この市谷中之町交差点から牛込弁天町交差点までのあいだ、およそ1キロほどの外苑東通りが、突然片側一車線になり、歩道もせまく、しかも繁華な商店街がつづいているために、駐停車お車もあって渋滞が激しかった。

この箇所の拡幅工事は、個人経営の商店が多かったためもあって、立ち退きが難航し、1970年代の初頭から、断続的に40年ほどのちのいまもつづいている。それでも完成はいつになるのかわからない状態である。
イオキ洋紙店はこの外苑東通りに面しており、この拡幅工事の影響をもろにうけた。すなわち倉庫のほとんどと、本社ビルの大半が立ちのきを終始迫られることになり、ついに2011年をもって、暖簾と社員と顧客を親族企業に譲渡し、70年ちかくにわたった「イオキ洋紙店」の看板をおろした。
さきに紹介した『方丈記』は以下のようにつづく。

玉敷タマシキの都のうちに、棟を並べ、甍イラカを争へる、高き、賤しき、人の住まひは
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年コゾ焼けて、今年造れり。或いは大家オオイエ亡びて、小家コイエとなる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は
二、三十人が中ウチに、わづかに一人二人なり。
朝アシタに死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
                 『方丈記』(鴨  長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

《夏目漱石と愛猫家 漱石終焉の地》
世の中には、愛猫家 アイビョウカ と愛犬家がいる。やつがれはなまくらで、猫も犬も好きであるから、ながらく犬と猫をいっしょに飼っていた。
ところが風邪が引き金でひどい喘息になって、呼吸困難に。ついには入院騒ぎとなって、医者に犬猫などのペットの飼育を固く禁じられた。犬猫のフケ、抜け毛、寄生しているダニの死骸などが呼吸器官にはいって、喘息を引きおこすのだそうである。

そんなわけで、いまは犬猫の飼育をあきらめている。その分、愛猫家と愛犬家を冷静にながめることができるようになった。
愛猫家は、ともかく感情の起伏が激しく、猫と同様に、ときおり爪を立て、引っ掻いたり、噛みついたりするから厄介だ。愛猫家を、ゆめ、こころやさしきひとなぞとおもわぬほうがよい !?

やつがれの娘は極端な愛猫家である。それがどうしてか猫どもにはわかるらしい。娘時代には、ちかくの遊歩道で、
「おいで」
と、ひとこえかけると、どこにいたのか野良猫が四五匹でてきて、ゾロゾロと娘のあとをついて歩くのは不気味でさえあった。やつがれがいくら呼んでもノラどもはわいてもこないが……。
いまは結婚して杉並区のマンション11階が住まいであるが、ベランダ一面にネットを張って、猫(いずれも捨て猫・ノラ猫だった)を三匹ほど飼っている。当然猫と同様に感情の起伏が激しく、ときおり爪を立て、引っ掻いたり、噛みついたりするから極めつきに厄介だ。

いっぽう愛犬家は……。これはやめておこう。愛犬家が気がついていないことだから。

かつて、外苑東通りの弁天町にイオキ洋紙店があったころ、その倉庫裏からでると、すぐのところが「新宿区立 漱石公園――夏目漱石終焉の地、漱石山房」だった。漱石も愛猫家であったようである。

夏目漱石の小説が好きだったころがある。
最初のころは『吾輩は猫である』『倫敦塔』『坊つちやん』など、初期の時代の作品が好きだった。
次第に年を重ね、漱石が逝去した数えの50歳(漱石は満49歳10ヶ月で卒した)を越えるころになると、漱石後期三部作とされる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』などを好んで手にした。


 

 
 夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5)12月9日は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。

なにしろここは、イオキ洋紙店のすぐ裏手で、倉庫の裏からでるとすぐそこだったので、商用がおわるとしばしばここをたずねた。あかるくて、なんにもなくて、よいところである。
漱石の生誕の地も、ここからあるいて10分とかからない。
漱石は英国に留学したり、松山の英語教師になったりしているので、英語通で旅好きなのかとおもっていたら、どこにいっても、すぐさまこの牛込界隈に、まるで家に駆けこむ猫のように立ち戻っていた。それはまるで「猫はひとではなく、家につく」といわれるようなもので、そしてここに歿した。

この近くには佐々木活字店もある。活字店訪問のおり、久しぶりにここをたずね、すっかり更地になって、はやくも夏の野艸が生い茂っているイオキ洋紙店の跡と、漱石公園・漱石山房をたずねた。そしてフト『方丈記』の一節がおもいうかんだ次第である。
─────
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例タメシなし。
世の中にある、人と栖スミカと、またかくのごとし。
玉敷タマシキの都のうちに、棟を並べ、甍イラカを争へる、高き、賤しき、人の住まひは
世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或いは去年コゾ焼けて、今年造れり。或いは大家オオイエ亡びて、小家コイエとなる。
住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は
二、三十人が中ウチに、わづかに一人二人なり。
朝アシタに死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
                 『方丈記』(鴨 長明、1212年[建暦24]作、1155-1216)

朗文堂好日録ー029 宮澤賢治とピンセット

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、
日日のよしなしごとを綴りたてまつらん
本稿は「あの日、2011年03月11日」から間もなく
2011年04月28日掲載文の修整一部再録です
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文豪/宮澤賢治大先生へ
たかが……、されど、貴重なピンセット
かなり苦労しております。

 《苦労しています! 活版用ピンセット》
¶ 活版印刷材料商がほぼ全面的に転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezer  Pincet」はとても入手に困難な器具のひとつである。

『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年05月11日、以下写真同じ)

みた目は医療用やデザインにもちいるピンセットと類似しているが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。
アダナ・プレス倶楽部の発足当時に「活版用ピンセット」の流通在庫を探したが、いくら探してもどこにもなく、新規製造を交渉したら、500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。

すべての製造業界が一括大量生産型に変貌した現代工業では、少少割高でも少量製造に応じてくれる業者を探すのはとても困難になっている。これは「活版印刷ルネサンス」を標榜しているアダナプレス倶楽部にとっては、いつも悩みの種である。
ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、
「あの活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」
との架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。

¶ 園芸用ピンセットに変貌した活版用ピンセット
しばらくして、最低でも50本ほどはあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。
折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度と耐久性を持っていた。
朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット=活版用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一である。ヤレヤレと胸をなでおろした。

¶ 文豪・宮澤賢治先生に苦情をいうわけではないが……。
活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解している向きが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットはまったく使わない。
Websiteでも《活版印刷今昔01》 http://blue.ap.teacup.com/masamichi/472.html の執筆者は、文選作業でピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのご様子である。

すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、活字組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。
この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層に多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。

¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。
ここで『新編銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、30代の若さで逝去したため、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは十数年にわたって宮澤賢治の手もとに留めおかれ、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ている。

没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。以下に紹介する『銀河鉄道の夜』は、『新修宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた書物といえる(天沢退二郎氏評)。
この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある(改行段落を一行アキとし、適宜ふり仮名を付した。アンダーラインは筆者による)。

活 版 所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜 カラスウリ を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込む小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

 ¶  『銀河鉄道の夜』は、孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語で、宮沢賢治童話の代表作のひとつとされている。
ところが宮澤賢治の生前(1896年08月27日-1933年09月21日、満37歳で歿)とは、ほど無名にちかい存在だったといえて、ほかの多くの宮澤賢治の著作と同様に、その生前に書物として刊行されることはなかった。
それが逝去ののちに、草野心平らの尽力で、その多くの未刊作品群の存在が知られ、世評もたかまって書物として刊行されたものがほとんどである。『銀河鉄道の夜』もそんな作品のひとつである。

¶ すなわち、『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。
まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。
明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたったある大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して、一部から顰蹙をかったことがあった。

また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかた、漢字と仮名の使いわけも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。

「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、前後の脈絡からみても、おそらく「文選箱」のことであろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。

「たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと」とある。これも、傾斜のある「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選作業のために立ったのであろう。
ふつう文選作業にあたって、使用頻度が低く、最下部に配される「外字」や、より使用頻度がすくなくて、特定の部所(活字ケースの縦の段)をもたず、部首別にだけわけて配列される「ドロボー・ケース、無室ケース」の採字以外は、活字ケース架の前にしゃがみこむことはあまりない。
活字文選作業は使用頻度の高い字種ほど採字しやすいところにあって、立ってなされることがほとんどである。

「たくさんの輪転器がばたりばたりとまわり」とある。
活字版印刷機にも、印刷版が往復運動をする通常型の平圧印刷機のほかに、シリンダー型印刷機(円筒印圧機)もあるので、それを「ばたりばたりとまわり」としたのかもしれない。ただしこれらの印刷機は「輪転器」とはいわない。
また新聞社などでは、かつては活字版から紙型をとり、そこに活字地金を流し込んで円筒形の印刷版(ステロ版)として、輪転印刷機をもちいることが多かった。

また近年では、品質の悪い用紙でも印刷対応ができ、印刷版が比較的安価な樹脂凸版などでも対応でき、設備投資がすくなく、技術者の養成が比較的短期間ですむ「活版輪転機、俗称・かつりん」の使用がみられる。
これらの「機械」はいずれも相当大型であり、「器具」とはいいがたい「機械」であるので、「輪転機」とあらわされるのがふつうである。

¶ ついに問題の箇所である。
ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。
既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う作業である。
鉄製がほとんどのピンセットをもちいて活字を拾うと、鉄より相当軟らかな鉛を主成分とする活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。
活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられていた。
落下した活字には、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box──多くは林檎箱や石油缶だった」に活字を投げ入れた。
この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。

したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、活版用ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。
したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無く、当時は盛んだった活版印刷の現場を取材しなかったことが推測される。

また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの、
「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」
とされる問題点を、謙虚に、そして小さな声で、ひそかに指摘したとおもわれる。

「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。
まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。
それにしても、造形者や編集者が「印刷処・印刷所」にほとんど足を運ばなくなってひさしいものがある。この現状をひそかに危惧するいまである。

朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種。

愛すべき ゆるキャラ「ひこにゃん」のことは、かつてこの《花筏》でもしるした。当時は知識不足で「ヒコニャン」とカタ仮名表記してしまったくらいで、さほど関心があったわけではない。
★ 朗文堂-好日録 010  ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁 2011年08月27日

ところが昨今の報道では、絶対の人気をほこった滋賀県彦根市の「ひこにゃん」が、熊本県の「くまモン」の人気にすっかり押され気味だという。
くまモン」とは熊本県庁が2010年から「くまもとサプライズ」キャンペーンにおいて展開している、熊本県のPRマスコットキャラクターである。こちらはまだ実物はみていないが、下の動画をみるとなかなかのおもしろさである。見てみたい気も ムニャムニャ モゴモゴ なくはないぞ。。
★  「くまもとサプライズ くまモン オフィシャルサイト」 くまモン体操 3:01 YouTube

RJCリサーチの調査によれば、PRキャラクター総合力ランキングの地域ジャンルにおいて「くまモン」は2011年の46位から、2012年は43ランクアップして、彦根市の ひこにゃん、奈良県の せんとくん に次ぐ3位になったとしている。2013年、ことしはどのような具合であろう、チョイト心配だ。
それでも最近の報道では、2013年の年賀状が「ひこにゃん」宛てに1万891通も届き、バレンタインデー・チョコレートも228個届くほどの人気ではあるらしい。
★ ひこにゃん、自由すぎる! 2:53 YouTube  
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「ひこにゃん」に関しては、原作者と彦根市が、類似グッズの販売をめぐって、著作権と商標権を裁判で争い、ようやく和解にいたったようである。

それを受けて、彦根市はそのWebsiteに「ひこにゃん 公式サイト」をもうけて、そこに「ひこにゃん 商標使用のページ」をおいて、くわしく使用法をといている。

いっぽう「くまモン」は、あらかじめ熊本県がデザイナーから商標権を買い取り、熊本県のブランド力向上つながると判断したものについては、商標の使用権を無料にしていて、すでに認可件数は6,000件を超しているとのことである。

小社のようなちいさな企業でも、出版部(Book Cosmique)、活字部(Type Cosmique)で、類似の問題がまれに発生することがある。だから無関心ではいられないテーマである。ともあれ小社では、こうした問題には、できるだけオープンにすることを基本として、問題がおきたら、ともかく誠意をもって、慎重に対応することにしている。

そこで、ようやく紛争を解決した「ひこにゃん」を応援すべく、ふるい資料で恐縮だが、上述の「朗文堂好日録 010」を再編集して、ここに「ひこにゃん」応援のためにあらためて紹介したい。

★      ★       ★

¶ 2011年07月某日、関西方面出張。
この年は「東日本大震災」の年であった。例年の新年度のイベントや、GW 恒例開催の「活版凸凹フェスタ 2011」も中止としていた。なんとなく全般に意気消沈して低調な東日本だった。

ところがその間、意外なほど西日本各地では活況を呈していた。朗文堂 サラマプレス倶楽部はそれを受け、2011年07月某日、タイポグラフィゼミナール、活版ゼミナールを兼ねての強行軍での関西出張となった。
たまたまほぼ同じ時期でのおはなしだったので、スケジュールを集約調整して、大阪 3 ヶ所、京都 2 ヶ所、滋賀 1 ヶ所を駈けまわるという強行スケジュールとなった。

京都駅に降りたっておどろいたのは、駅舎もまちも明るいことだった。計画停電、節電下の関東地区とは大違いだった。このころの東京の駅舎は昼でも夜でも減燈され、まちなみは暗く、活気にとぼしかった。
なにはともあれ交通の便だと、オノボリサン丸出しもいいところで、京都駅前の「京都タワーホテル」を根拠地とした。
これはのちほど、京都育ちのHさんに、古都の景観を損傷した京都タワービルには入ったこともない …… と呆れられたが。ともかくそこをベース・キャンプにして仕事に集中。

それから 4 日間というもの、大阪・京都・大津といったりきたり。それなりの成果もあったし、充実感もあった。
されど、ここで仕事のはなしをするのは野暮というもの。なにせノー学部といっしょだったから、忙中に閑あり。やってくれました !
なんともまぁ、唖唖、こんなこと !!

¶ なにかおかしいぞ……、と、嫌な予感はした。ノー学部の巧妙な誘導質問だった。
「京都から大津にいって、そこから彦根にいくって、たいへんですか」
「直線距離ならたいしたことはないけど、なにせ琵琶湖の縁をこうグルッとまわってだね……、結構面倒かな」
「彦根城には、いったことはあるんでしょう。前に好きなまちだと聞いたことがあります」
「水戸天狗党の藤田小四郎のことを調べていたころに、敵対した井伊大老の居城ということで 1 回だけいった」
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」

やつがれ、なにを隠そう、ちいさいながらも城下町で育ったせいか、彦根のふるい家並みのまちが好きである。ここには大坂夏の陣で破れた忠義の武将、木村重成公の墓(首塚)もあるし、お馴染みの「徳本 トクホン 行者 六字名号碑   南無阿弥陀仏」もある。それよりなにより、近江牛のステーキは垂涎ものである! それにしても、なんのゆえありて、彦根ではなく、
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」
ト、彦根城とのたもうたのか、考えなかった時点でもはや敗北。

¶ 雨中の江州路をゆく……。
こうしるせば、ふみのかおりたかいのだが、実相は違った。ハレ男を自認しているやつがれにしては、この日はめずらしくひどい雨がふっていた。
「並んで、並んで。ハイハイ並んでくださ~い」。

やつがれ、駅からタクシーで彦根城にきて、いきなりわけもわからず傘をさしたまま、雨のなかのながい行列に並ばされた。2-300人はいようかという大勢の行列である。みんな「ひこにゃん」なるものを見るのだそうである。
きょうは雨なので、お城に付属した資料館のようなところ(彦根城博物館ホール)に、50人ほどの来館者を次次と入れて、そこに「ひこにゃん」なるものは登場するらしい。
濡れながら行列に並んで、やつがれはまだ「ひこにゃんとは、いったいなんぞい」とおもっていた。

ところがナント、まことにもって不覚なことながら、やつがれ(順番の都合で偶然とはいえ)、最前列に陣どって、ともかく嗤いころげて「ひこにゃん」をみてしまったのだ。要するにかぶり物のキャラクターだったが、ちいさな仕草がにくいほどあいらしかった。

かつて徳川家康の麾下にあった井伊直政は、徳川四天王とされ、その麾下は勇猛で、つねに先鋒の役をつとめたとされる。井伊家の軍勢とは甲斐武田勢の一部を継承したもので、「井伊の赤備え」と敵方からおそれられた赤い兜も、愛嬌のあるものにかわっていた。
ここではうんちくは不要だろう。ともかく「ひこにゃん」はあいらいく、おもしろかったのだから。

       エッ、この人力車に乗ったのかって ── 乗るわけないでしょうが、いいおとなが ── 。ところがやつがれ、こういうキッチュなモノが意外と好き。
ハイハイ正直に告白。「ひこにゃん」も大わらいして見ましたし、この人力車にも乗りましたですよ、ハイ。チト恥ずかしかったケド、しっかりとネ。

ともかく急峻な坂道を天守閣までのぼり、さらに内堀にそってずっと玄宮園のほうまで歩いたために、足が棒になるほど疲れていた(言い訳)。
実際は、なによりもはやく旨い近江牛を食しに、このド派手な人力車に乗って、車中堂堂胸をはって(すこし小さくなっていたような気もする ケド)いった。ステーキはプチ贅沢、されど旨かった。
────────────────
あとはもうやけくそ! 字余り、破調、季語ぬけおかまいなしで、一首たてまつらん。

雨中に彦根城を訪ねる   よみしひとをしらず
    ひこにゃんに 嗤いころげて 城けわし
    青葉越し 天守の甍に しぶき撥ね
    湖ウミけぶり 白鷺舞いて 雨しげく

木邨重成公の墓に詣る  よみしひとをしらず
    むざんやな 苔むす首塚 花いちりん

   

 

¶  簡素な浄土宗の寺、宗安寺
彦根市本町2丁目3-7に 宗安寺 はある。この通称赤門とされる「山門」は、石田三成の居城、佐和山城の正門を移築したものとされる。
その脇には徳本トクホン行者の筆になる六字名号「南無阿弥陀仏」の巨大な碑がある。このひとと、この六字名号碑に関しては、いずれ本格的にとり組みたいとおもっている。

ご本堂向かって左手奥の墓地には、戦国武将・木村長門守重成( ? -1615)の首塚が、ひっそりとたたずんでいる。重成は豊臣秀頼の家臣として、大坂冬の陣で善戦し、その和議に際しては徳川家康の血判受けとりの使者をつとめた知略のひとであった。
翌年大坂冬の陣若江堤で戦死し、首実検ののちに安藤長三郎が譲り受け、代代安藤家の墓域で守護をつづけているものであった。どちらもあっぱれ、忠義の家というべきだろう。

¶  2013年02月17日、トロロアオイの種子をテストで 播種
2011年、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部では、五月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ 2011〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。
それにかえて、会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2011』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性会員の O さんから、
「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」
との写真添付 @メール が送られてきた。

O さんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉にはるばる仙台から駆けつけてくださる、熱心な活版ファンである。また O さんご自身も「東日本大震災」ではなんらかの被害にあわれたかとおもえたが、それに関してはお触れにならなかった。

ことしもサラマ・プレス倶楽部会員のご希望のかたにはトロロアオイの種子をお配りしたいとおもっているが、昨年は開花期に中国にいったりして十分な水遣りができず、種子の大きさも小ぶりになったような気がしている。
そこですぐにも霙ミゾレになりそうな寒い雨の日だったが、発芽テストのために、ひとつまみの種子を黒ポットに植えた。元気に発芽してくれるように、しばらくは家の中で育ててみたい。

朗文堂好日録-027 台湾再訪Ⅱ 吾、佛跳牆を食す。「牆」と異体字「墻」のこと。台湾グルメ!

《そも  佛跳牆-ブッチョウショウ とはなんぞや ? 》
この中国料理は近年わが国でも次第に知られるようになったが、説明と発音が面倒なためか、最近の中国や台湾向け観光旅行のガイドブックなどでは「ぶっとびスープ」などと紹介している。
そこには以下のような説明が加えられることが多い。
◉  特殊な料理なので、どこの店でも扱っているメニューではない。
◉ 10日から1週間前、最低でも 4 日程度前には予約をする必要がある。
◉ 予約をしても、食材が揃わないとして断られることがある。
◉ ホテルのレストランなどでも「佛跳牆」をみるが、期待はずれに終わることが多い。

なにやら面倒な料理のようだ。
検索してみたら、東京・丸の内には クリスマス・メニューで 1 杯 5 万円の「佛跳牆」もあるという。
もちろん『花筏』は観光ガイドではないし、ましてやグルメガイドでもない。公式にはタイポグラフィ・ブログロール『花筏』と称しているのである。
また本稿は二部構成となっており、その前半はグルメ記録というより、林昆範氏とやつがれとの、まことに真摯なタイポグラフィ研究の学徒たる!? 一面を記録したものである。
★朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で

したがって、すこし煩瑣ではあるが、まず上掲の第一部の記録をご覧いただき、そののちに「佛跳牆 ブッチョウショウ、fótiàoqiáng、別名;ぶっとびスープ」を、すこしくタイポグラフィカルに、個個の「字」から紹介しよう。

【 佛 跳 牆 】

◎ 佛
佛は「仏」の異体字であり、もちろん「仏跳牆」でもかまわない。しかし台湾では繁字体 ≒ 旧漢字の使用が中心なので、ここでは「佛跳牆」でとおしたい。なお、大陸中国では、簡体字の使用によって「佛跳墻」とあらわされるが、その理由は後述する。ここでの「佛」は戯画化してえがかれたもので、単独ではさしたる意味はない。

一部にこの「佛」にひかれたのか「佛跳牆」を精進料理とする解説をみる。精進料理とは、肉や魚介類をもちいないで、穀類・野菜類・海草類・豆類・果実類などの精進ものを食材とする料理である。したがってこの解説にはチト疑問がある。
「佛跳牆」は、もともと中国広東省から福建省あたりの祝膳料理として発祥し、山海の珍味をベースとして、肉や魚介類を豊富にもちいて、滋養に富んでおり、医食同源とする漢族のあいだでは、むしろ「薬膳料理、祝膳料理」とされる。

◎ 跳
「跳」は常読で「チョウ」であり、意読では「とぶ、はねる、おどる」などとされる。「ぱっととびはねて、足が地からはなれる → 跳躍」であり、「はねあがっておどる → 跳舞」となる。
すなわち「佛跳」となると
「佛さまが  はねあがって  舞い踊る」の意となる。
したがって、たれが名づけたのか知らぬが、台湾ガイドが常用する「ぶっとび」とは、字音と字義をうまくとらえた、できのよい愛称といってよい。
ただし類語の「ぶっとぶ」は「飛ぶ」の意をつよめていう語であり、漢の字と併用すると「打っ飛ぶ」とあらわされるので、注意が必要である。
それでは「佛が、どこで、なぜ、舞い踊ったのか」を調べてみよう。

◎ 牆
「佛」「跳」にくらべると、「牆」はチト厄介である。
すなわち「牆」の漢字音には「ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)、qiáng 」などがあるが、和訓音はなく、習慣的に意読として「かき、へい」とよんでいる。
そもそも漢字部首「爿ショウ部・片ヘン部」の漢の字が意外と厄介なことは、すでにこの『花筏』にも何度かしるした。



 
★  新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』
★  新・文字百景*003 いろいろ困っています「片」の字

そもそも漢字部首「爿」と、その「爿」を意符や音符として字画の一部に含む漢の字は「將軍 → 将軍、莊園 → 荘園、裝束 → 装束」のように、常用漢字ではほとんど「丬」に置きかえられている。
しかも漢の字「牆  部首爿部  シフトJIS E0AD」には、異体字「墻  部首土部  シフトJIS 9AD4」がある。「墻」は「牆」の異体字とはいいながら、もちろん同音同義の字である。それでなお「牆・墻」は、漢字部首まで「爿ショウ部、土ツチ部」とおおきく異なるのである。

ついでながら、繁体字をもちいる台湾では「佛跳牆」であり、大陸中国では簡体字(わが国では異体字)とされる「墻」をもちいて「佛跳墙」とあらわされる。
もちろん大陸中国では、メニューにも「佛跳墙」とあらわされるので注意が必要である。

余談をかさねると、「ラチもない」をおもいだした。地方によっては「らっちもない」とする。
「ラチもない」とは、仕事の糸口がつかめない、乱雑である、つまらない、仕事がはかどらないの意となるが、漢の字をもちいると「埒が無い」となる。

類語に「埒を明ける(開ける)」がある。これはものごとのきまりをつけること、はかどらせることである。また立派に申し開きをするの意にももちいられる。
「埒」(JIS第2水準、シフトJIS 9ABD)とは、低い垣、かこいのことであり、わが国ではふるく、馬場の周囲のかこいのことをいった。
かこいの無い馬場では、馬丁などの仕事がはかどらないことは当然であろう。

「牆・墻」は、ともに「石や土で築いた細長い へい」の意であり、「牆垣 ショウエン」「囲牆 イショウ」のように、いずれも「周囲をとりまいた へい」のことである。もちろん「埒」よりも壮大なものをいう。また「無 喩 我 牆 → 我ガ牆ヲ 喩ユル無ケレ」(詩経)のような使用例もある。
中国では古来、堤防・城壁・土塁・家屋・寺院・墳墓・道路など、巨大構造物をの多くを、板を積みかさね、その間に粘土質の土を入れて、堅く突き固める工法  版築 法が用いられた。そしてそれらの構造物を「牆・墻」などと称したのである。

中国河南省省都・鄭州にみる「鄭州商代牆(墻)曝露地」。古来からの版築法によって修復・再現作業が展開していた。版築法における工具の木材に注目すると「牆」となり、素材の土に注目すると「墻」となる。漢の字における同音同義の異体字とは、このようにして誕生する。

この漢の字「牆・墻」は、わが国では「石や土で築いた(巨大で)細長い へい」より、生け垣や竹垣のように、より軽便なものをもちいるために ── つまり「牆・墻」に匹敵するような巨大な「石や土で築いた細長い へい」自体があまり無いために、ほとんど使われることがない。

むしろ童謡「たきび」(作詞 ; 巽 聖火、作曲 ; 渡辺 茂)の、
♫ かきねの かきねの まがりかど たき火だ たき火だ おちばたき ♫ 
のように、垣根とか、塀、屏、あるいはせいぜい石垣ないしは土塁などをもちいることが多い。

《中国 河南省省都 鄭州に「牆」をみる》
かつて中国 河南省省都 鄭州「テイシュウ Zheng Zhou」のことをこの『花筏』で紹介した。その際、「このまちは、わかりにくい」としるした。
★ 朗文堂好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ  2011.10.04 

すなわち、土中から発掘されるふるい商代(前商、前殷とも)の鄭州の文物には「文はあるが、字はない」からである。中国ではわが国でいう「文字」はあまり使われず、「文」と「字」は、それぞれの発祥と意味をもつ。
ここでは「牆・墻」の実物、遺構がたくさんみられる鄭州のことを、あたらしい写真とともに再録したい。

★      ★      ★

《文 ≒ 紋様学、字 ≒ 文字学、あわせて 文字 の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり鄭州の遺跡で発掘される、商(殷)・周時代初期の土器や銅器などにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などは、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。

 

 

まして中国では甲骨文 ── くどいようだが甲骨文字ではない ── を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。司馬遷『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な武器や青銅器を製造し、本来錆びに弱いはずの青銅器が3000年余も腐食しないほどの、高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)をもっていた。
また安陽を都とした商代の後半(後商、後殷)となると、甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また数頭の馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨(甲 ≒ 海亀の腹部、骨 ≒ おもに牛の大腿骨)にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

殳 ──── シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形(躰を反対にねじる)である。また「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。

殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

 

 
やつがれ、2011年09月の中旬、ひさしぶりの中国旅行とは、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。

河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」は、中原を東流する黄河の南岸に位置し、東は開封市、西は洛陽市、北は新郷市、南は許昌市と接する。人口はおよそ750万人。
この鄭州では、前期の商(前商、前殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれはこの鄭州城市訪問は3度目だが、ともかくこのまちはわかりにくいとしかいえない。なによりもこのまちでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされるのである。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の牆(現代中国では簡体字によって「墻」とする。高い土塁といったらおわかりいただけるだろうか……)がみられるが、それは全体の1/3-1/4ほどの高さでしかなく、ふつうのビルの6-8階分に相当する、峨峨として巨大な「牆」のほとんどは地中ふかくに埋もれている。
そしてこのまちのあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からは発見されたという報告はない。

河南省北部の「安陽市 Anyang」は、前述の鄭州から近く、列車かタクシーで日帰りできる。その安陽市北西郊外(俗にいう小屯村)に、紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が鄭州から移動して都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文 ≒ 紋学、字 ≒ 字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。


上掲の写真は、すべて鄭州市内のものである。このまちのあちこちで商代の「牆」や、あるいはのちに興亡をくりかえした各王朝も、ここを都としたり、主要都市として「將・墻」を築いたために、幾重にもかさなった「牆」がある。その一部は石積やコンクリートで補強されているが、ほとんどは地中に没し、わずかに地上にでている原型のままの「牆」がみられる。

「牆」の一部は公園化されている。昇ってみると遊歩道のように整備されていて、わが国の「スーパー堤防」ほどの広さがあるが、高さはかなり高い。
また一部の「牆」は、景観保存のために、古代からの版築法によって復元されていたりする。こういう情景を考古学者は「鄭州商代牆(墻)曝露地」とよんでいる。

後半に紹介した「河南省文物考古研究所」(所長・王 潤杰 オウ ジュンケツ)は、まさしくそうした「鄭州商代牆曝露地」の一画をおおい占めた建物のなかにある。
所内の展示場には王 潤杰氏が多年にわたって発掘してきた石器・土器・青銅器などがならぶが、そこにはさまざまな意味を内包した「文 ≒ 紋様」はみられるが、後代のものをのぞいて「字」をみることはない。

河南省文物考古研究所の扁額や図録の題字は 郭沫惹(カクマツジャク 1892-1978)氏の筆になるものである。郭沫惹氏は中国の文学者・政治家で、毛沢東の信任があつく、ながらく中日友好協会会長をつとめた人物である。
その業績と評価は、文化大革命時代の行蔵もあって多様にわたるが、「甲骨学」の研究者としての評価はゆるがないものがある。

甲骨文を研究する学問を、中国では「甲骨学」とし、その著名な開拓者の4名を「四堂一宣」シドウイッセン とよんで尊敬している。四堂とは、羅 振玉/雪堂、王 国維/観堂、董作賓/彦堂、郭沫惹/鼎堂であり、一宣とは、胡厚宣のことである。
わが国ではあまり知られていないが、「甲骨学 四堂一宣」の大家、郭沫惹が書した「殷虚」は、悪相とされる漢の字の形象・字画を巧妙にさけて、ご覧のような「好字、好相の字」におきかえている。ところがこれらの「好字、好相の字」は、残念ながらあたらしいメディア上では表示できない。

うんちくが長くなった。整理しよう。  

【 佛 跳 牆 】

あまりの香りのよさに誘われて、佛さまや修行僧が、寺院の石や土で築いた細長いへいの「牆」に跳びあがって、舞い踊りながらやってくるほどおいしい料理です。

 《佛跳牆の味自慢が、ノー学部にはよほど羨ましかったらしい》
佛跳牆 ブッチョウショウ をはじめて食したのは、10年ほどまえに 林 昆範 リン クンファンさんの兄弟と、台北の湖南省料理のレストランで、忘れられない味の料理をご馳走になったのが最初である。
林さんの一家は優秀で、父親は「中醫學博士」で、弟さんはアメリカで近代医学の「医学博士」号を取得していて、当時はそのレストランからほど近い病院の勤務医だった。当時の林昆範さんは、まだ日本大学藝術学部大学院で、博士号取得のために研鑽中であった。

「佛跳牆」はスープの部の順番にでてきた。
「この料理は、もともとは福建省や広東省や湖南省あたりのお祝いの料理で、1月1日の中華民国開国記念日、2月10日頃の春節(旧正月)、清明節、端午節、中秋節などに、一族が寄り集まってたべるものでした。佛跳牆には、あわび、フカヒレ、乾燥ナマコ、マツタケなどの乾燥食材のほかに、高級漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などもはいっていて、喘息や気管支炎に有効です。またコラーゲンがたくさん含まれていますから、老化防止や、女性の美肌効果がおおいにあります」

漢族には古来医食同源とするならいがある。いわゆる漢方医薬師、中醫學博士の家にうまれた林さんの弟、近代医学博士のありがたい解説のあとで食した「佛跳牆」は、蓋つきのスープ皿で、上品に(少量が)供されたが、それはそれは、芳ばしく、美味しく、忘れがたいものだった。
 それでもその湖南省料理店は相当の格式で、ご馳走になったとはいえ、メニューでチラッと「佛跳牆」などの価格を見てしまった。つまりかなり高額の支払いが予測された。
「このレストランの予約も支払いも弟がしましたから。弟は医者で、収入も多いから気にしないで」
林さんの兄は最初にそういった。林さんの弟はうなずいていた。そういうものらしい ? ……。
ついでながら、中国でも台湾でも、ほとんど「割り勘」という習慣はない。

そんな「佛跳牆」の忘れがたい味を、しばしばグルメ大好きのノー学部にはなしたおぼえがある。
いまにしておもえば迂闊であり、無警戒だったが、急遽今回の台湾再訪が決まったとき、いつのまにか呆れるほど、徹底的に調査してあった「佛跳牆関連資料」のコピーをもちだして、台北市中山北路二段137巷18號の「明福餐廳 メイフクサンチョウ」にどうしてもいきたいといいはった。
しかもあちこちに@メールを送りつけて、強引に予約を取りつけていた。だからこうして、林昆範さんともどもここにいる。
────
「明福餐廳」の外観は、まったくどうということなない、ふつうの大衆中国料理店にみえた。
しかしここには、台北では著名で頑固な店主 兼 調理人、阿 明 師(阿は名の前につける尊敬と親愛をこめていう愛称、師はここではシェフ。阿 明 師は台湾では一流シェフとして著名だという)がいて、店舗の改装や拡張はほとんどしないが、政官財の著名人がひそかに通う店とされる。
なかでも 元 中華民国総統・陳水扁氏 のお気に入りの店としてしられ、昼間の時間帯は地元客が多いと聞いたし、店内にも陳水扁 チン スイヘン 氏の写真と書額が飾られていた。

また日本の美食家、とりわけ女性のあいだでは「明福餐廳」の名前はつとに知られていたらしい。もちろん狙いは「美肌効果 !!」。
ともかく女性の美にたいするあくなき執着には、男どもは畏れいるしかなし、触らぬ神にたたり無しとおもったほうがよい。
また口のおごった日本のタレントなども相当押しかけているようだった。だから 渡辺満里奈志村けんお笑いトリオ・ネプチューン研ナオコ ら、日本の芸能人の写真がさりげなく置いてあったりする。
────
まだ夕方もはやいというのに、「明福餐廳」の店内は、香港からの団体客30名余と、テーブル席に12名の団体、そしてわれらが一行、林昆範さん、ノー学部、やつがれの3名でいっぱい。

別にコース料理を取ったわけではないが、ノー学部情報で次次と(勝手に)料理を注文した。
前菜ででたのが、台湾の高山地帯 花蓮 で採れるという 山菜「山蘇 サンソ」をサッと油通ししたもの。「山蘇」の見ためはワラビのような山菜だが、ぬるぬるしていながら、シャキシャキした歯ごたえがたまらない。これもはもうひと皿追加注文した。

 

一の皿という感じて供されたのが「とこぶしとマヨネーズ あぶり焼き」。
台湾マヨネーズと、とこぶしの取り合わせの旨さがグッとくる。焼き加減も、店頭の水槽で活きているとこぶしの鮮度をいかしたもので、その癖のない味つけに、やつがれ、いつのまにか「これは、すこし違うぞ !!」と、椅子に深深と座りなおして身構えることになった。

悪い癖で、料理の合間にときおり店外にでてベンチで喫煙していたが、その折りにみかけた光景は、最低でも四組30名ほどの団体客が「明福餐廳」押しかけ、いずれも予約外ということで、すげなく門前払いを喰らっていた。これには呆れるというか、おそれいってしまった。

二の皿。「紅蟳 コウジン 炒飯」── コレハ コレハ。おもわずホッコリした。
あまりひとにかたりたくない味だ。つまりひとには秘密にしておきたい、癖になる味だ。
ひごろ衣食住に関心が無いとうそぶくやつがれは、海底を徘徊する、エビ、カニのたぐいは苦手とするが、これには一本とられた気分。もちろん美食できこえた清朝の西太后でさえ、おそらくびっくりの旨さ(チト大仰かな?)。

ともかく、これでもかというまでに、ご飯にたっぷりまぶされたカニのたまごと、ほんの少量の油で炒めたこの炒飯は、はるかに炒飯のカテゴリーを超越していた。
なにぶん店頭の水槽で活かされているカニをたっぷり使うので、荒天がつづいて出漁できなかったあとや、注文が集中したら、すぐにオーダーストップだそうである。だから値段は「時価」。
もっとも「明福餐廳」の「時価」はリーズナブルな価格で、さほど驚くようなものでは無い。むしろどこぞの国の鮨屋の「時価」のほうがよほどおそろしい。
────
ここまでしるしてきたら、もはや「佛跳牆」のことをかたる勇気が失せてきた。ここまで繊細で芳香に満ちており、上等な料理をかたる資格はやつがれにはない。
やつがれは、料理とは、ただの料理であり、命をつなぐためにあるものだとおもっている。つまり敗戦の直後にうまれたやつがれは、飢餓のこわさをおぼろに記憶している。だから料理とは腹が減ったら食べるものだというくらいにおもっている。
いちおうそれが満たされたら、旨いにこしたことはない。つまり料理とは、ただの料理で、せいぜい愉しむくらいでよいとおもっている。それ以上料理に拘泥するのは卑しいことだとおもっていた。

ところがノー学部はもはや陶然としているし、日ごろ冷静沈着な林昆範さんまでが、
「これはおいしいですねぇ~」
と、何杯もおかわりしながら食していた。
こうなると、衣食住にさほどの関心はないなどと、日ごろからうそぶいているやつがれは顔色をうしなう。

しいていえば「明福餐廳」の「佛跳牆」は、ホテルのレストランで供される「佛跳牆」などのように、排骨(豚のリブ)やタロイモを入れて煮込んだ、とろ味のあるスープとは異なり、おもには乾物の、干しあわび、乾したフカヒレ、干しなまこ、ホタテの乾燥貝柱、干し貝各種、干しマツタケ、漢方薬の 冬中夏草トウチュウカソウ などの高級食材を10数種類ももちいて、これらの乾燥食材をまず水にもどしてから、トロ火でたっぷり時間をかけて煮込んで、旨み成分を十分にとりだしたものらしい。もちろん、価格はリーズナブルであった。
したがってコラーゲン独特の粘りはあるが、ゆたかな香りと、清よらかに澄んだスープは、あっさりとして、筆舌につくせぬうまみがあった。

提供された「佛跳牆」はもちろん事前にノー学部が予約しておいたものだったが、料理の最後のほうに、ド~ンと大きな壺に入ってでてきた。
最少のサイズで注文したというが、どうみても5-6人用で、それまでにさんざん料理を食べまくってきた3人で食すにはいかにも多かった。それでも何杯もおかわりして、あらかた壺の底がみえるまで食べまくった。

そうこうしているうちに、いつのまにか隣席の香港チャイニーズの皆さんともうち解けて「ドゥ ── 日本のVサインにかえて、親指を突きだして ドゥ という」のエール交換。
こうして台湾の夜を「明福餐廳」で、こころゆくまで満喫したのであった。

《ホテルは近代的だったが、窓があかないことと、禁煙強制で、すっかりまいった》
今回のホテルは「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」。前回宿泊した「圓山大飯店」とちがって、市民大道三段83號と、まちなかの高層近代ホテルだった。ところが近代高層建築にありがちの、窓がすべてはめ殺しになっていて開けることができなかった。
当然ながら、ロビー、カフェはもとより、全館全室全面禁煙。たばこ税高額納税者の愛煙家を、かくまで虐めて、なにがおもしろいのかとおもうのだが……。

それでもホテルの外に、お情けのように灰皿をひとつだけポツンとおいてあって、そこで喫煙が可能だった。みんなが寝静まってからも、ここだけは深夜まで賑わっていた。もちろんやつがれもしばしばここを訪れた。というより、ここの常連だった。
ちょいとまいったのは窓がまったく開かないこと。別に閉所恐怖症ではないが、近ごろの高層オフィスビルでは会議中に酸欠状態を感ずることもある。こういう高層ビルの、空気が循環するだけのエアコンで馴致されていたら、おそらく長寿は望めないとおもうほどである。
だから部屋はそこそこ広かったが、ともかく息苦しくて寝付きが悪かった。やはり次回の台北行きは「圓山大飯店」がいいとおもう。窓とは、ひろびろと開けはなってこそ窓であるから。 
★ 朗文堂好日録-025
  台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

   

台湾大学、台湾工業大学、日星鋳字行、それに前回は資金不足で買えなかった図書をもとめて「古今書廊二手書店」などにもいったが、ここでは仕事の報告を含めてすべて割愛。
食の繊細さに、この歳になってようやくめざめたやつがれである。ここはともかく意地でもグルメ紹介に徹したい。

ふつう、旅先での朝食は、ホテルで摂るほうがなにかと無難だが、なにせノー学部は、スケジュールのエクセル・プリントに空白部があると気に入らないらしい。そこですこしホテルの近くを散策してから、まちの中心部の「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」の軽食をとることになっていた。

  

ホテルを出ると、すぐ隣がひろい空き地になっていたが、そこにパパイヤの木がたくさん実をつけていた。やはり台湾は南国だなぁ、と感心しながら歩いていたら(内心は、ここは空き地だし、採って喰いたいとおもういじましさ)、チョット面白い看板「日式鍋料理 涮涮鍋」を発見した。

台湾では「日式」というと日本風ということになるが、台北のまちに写真のような「日式鍋料理 涮涮鍋」のお店があった。 林 昆範 さんの解説によると、
「涮涮鍋はシュワンシュワン-グヮ といいます。みんなが涮涮鍋は日本の料理だと知っていますし、ここは人気のある、しゃぶしゃぶ料理のチェーン店です。意味からいうと 涮鍋 でもでいいのですが、涮涮 シュワン シュワン と繰りかえすことで、スープのなかで、サッサ、サッサと肉をゆする行為をうまくあらわしていますね。
台湾には似たような鍋料理に、涮羊肉 サンヨウニク, シュワン-ヤン-ロウ, shuàn yáng ròu という、蒙古族の民族料理、羊の肉の火鍋料理もありますから、蒙古族や女真(満州)族の料理が日本にわたって変化したものかもしれません」

どうやらあまりみかけない字「涮」がキーワードのようなので、帰国後に調べてみた。
涮  JIS 第4水準 画区点 2-78-66、U+6DAE
漢字音読み:サン、セン、セツ、セチ。 和訓読み:なし

[説文解字風にまとめてみた]
許慎六書の法でいう会意を3回繰りかえした字。
「氵」は水(ここではスープ、だし汁)をあらわす。
「刷」はサッとこすり取るが原義。はく、清める、サッとなでてゴミを取りさる。する「印刷」
左側は「尸シリ+布ヌノ」の会意の字で、人が布でお尻の汚れを拭きとる意をしめす。
刷はそれに刀をくわえた字で、刀のような細長いもので、サッと汚れをこすりとる意。
────
ところでわが国の肉の鍋料理「しゃぶしゃぶ」の起源は意外にあたらしく、1952年(昭和27年)に大阪のスエヒロが、自店の料理に「しゃぶしゃぶ」と命名したものがはじまりとされている。
同店では1955年(昭和30)に「しゃぶしゃぶ」ではなく「肉のしゃぶしゃぶ」の名で商標登録をしているが、ここでも「しゃぶしゃぶ」はひら仮名であらわされている。
もし「涮涮」の名前で商法登録したら、ここまでの定着をみなかったかもしれない。それよりなにより、役所が「涮涮」の漢字登録を受けつけてくれなかったかもしれない。

《ついでに……、スキヤキの漢字表記》
2012年12月22日[土]新宿私塾第21期生 懇親忘年会が開催された。
例年12月の声をきくと、あちこちで新宿私塾修了生が、同期ごとに懇親会を兼ねた忘年会を開催しているようだ。それぞれの期ごとに幹事が工夫して、安く、楽しく、お酒もたくさん呑める会場をさがしての開催である。
★ 新宿私塾忘年会 +涮涮ってなに? スキヤキの漢字は?     

おおむね女性が幹事だと、しゃれた、グルメ調の洋風の店になり、男性が幹事だと、大衆居酒屋のようなところになるようである。
新宿私塾第21期生の「懇親忘年会」は、ビルのなかにある、清潔でおしゃれなお店であったが、やつがれも招かれて参加した。料理の中心は「スキヤキ風しゃぶしゃぶ」(写真:町田さん提供)。

宴たけなわ、お酒もだいぶまわってきたころに、チョイと意地悪な質問をした。
「このコースターの裏に、スキヤキ を漢字で書いてください!」
「え~ぇ、スキヤキに漢字なんてあるんですか~?」
とワイワイガヤガヤやって、できたのが下の図版である。残念ながら全員アウト! 


牛・鶏肉などに、ネギ・焼き豆腐などを添えて、鉄鍋で煮焼きしたもの。
明治維新の前、まだ獣肉食が敬遠されていたころ、屋外で鋤スキの上に獣肉をのせ、焼いて食べたからとされる。また肉をすき身(薄切り)にしたからともいう。〔広辞苑〕 
────
《行列をし、開店をまって飛びこんだが、すぐに満員となるほどの人気店だった》
「鼎泰豊本店 ディンタイフォン」は飲茶ヤムチャが中心の店で、そんなに早くから開店するお店ではない。それでも遅い朝食を摂ろうと、大安区信義路二段194號の本店前についたとき、すでに客の行列がはじまっており、店舗の脇では多くの支店へ食材を配送するための軽トラックが次次と横着けされていた。ノー学部にいわせると、
「ここは支店がいくつかあるけど、やはり本店がいちばん美味しいらしい」
とのことである。ちなみに、このお店はなんと、新宿髙島屋にも支店があるそうだ。

ところでノー学部。写真の小籠包ショウロンポウのような「ゆるキャラ」が大好きときている。だから行列にならぶのをやつがれに押しつけて、こんな妙なゆるキャラの撮影に夢中なのだから、まったくもって嫌になる。
かつて滋賀県の彦根城にいったときも、やつがれはわけもわからず「ひこにゃん」なるものの、ながい列にならばされた。

ところが彦根市の「ひこにゃん」ですっかりゆるキャラに目覚めてしまったやつがれ、
「この小籠包の、ぽっちゃり旨そうなキャラクターもいいなぁ」
と、アホ面をさらして眺めていたのだから、なにもいえない。

だいぶ歩いてくたぶれていたし、おまけに行列にまでならばされて不機嫌になっていたが「鼎泰豊 ディンタイフォン」に入って、まず前菜ででてきた料理 ── クラゲとなにかの食材をいためたものか ── が出たとたん、すっかり機嫌がなおった。さっぱりしていて旨かったのだ。

やがて「鼎泰豊」自慢の小籠包がでてきた。アチチ、アチチといいながら、ジューシーな味わいの小籠包のとりこになる。ともかく皮が薄く、それでいて破れず、とろけるような味といったら「鼎泰豊」の人気のほどがおわかりいただけようか。
そしてエビ焼売シュウマイ。もともとやつがれは焼売が好きだが、ここの焼売は小籠包に似てジューシーな味わい。
ウ~ン、真っ昼間から飲茶でこんなに食べまくっていては確実に太るなぁ。でも旨いんだから、まぁしょうがないか……。

《林東芳牛肉麺を食し、遼寧夜市を散策》
あまり詮索することが得意でないやつがれも、この頃になると、ノー学部はどうして今回のホテルを、さしたる特徴もない「台北 美麗信花園酒店 Miramar Garden Taipei」に決めたのか察しがついてきた。すなわち、このホテルはどこのグルメ拠点からも近いのである。
このように呆れるしかないが、ノー学部は5,000年におよぶ中華文化の深淵をさぐるために、あえていえば食文化 !? からの視点でみることが中心となっているようである。

ホテルから徒歩圏内、500メートルほどのところに「林東芳牛肉麺 リンドウハン ニュウロウメン」がある。「牛肉麺」とは、わが国のラーメンにも似て、台湾のひとが好んで食する大衆食品である。
ラーメンに豚肉をトッピングに加えたチャ-シュウ麺があるが、あれをたっぷりの牛すじ肉の煮込みでつくったとおもえば近いかもしれない。

 

「林東芳牛肉麺」の店舗はとても狭く、しかも一軒だけほかの店を夾んで、ちいさな二店舗が並んでいる。だから客は店頭にたっている小娘シャオジェの指示で、左右どちらかの空いた店に入るが、タクシードライバーなども立ち寄る、安くて、早くて、おいしい人気店である。

つまり大衆食堂だが、最近は日本人観光客にも人気があって、なかなか店内には入れないほどの活況を呈していた。
ここはチト狭くて慌ただしかったが、ディッシュ ? の牛肉麺の前菜としてとった「小皿」が、どれも質・量・味の三拍子がそろっておいしかった。
おもうに、近ごろのわが国の奇妙な「ラーメン文化」をかたり、行列に連なるやからなぞは赤面してしまうかもしれない。つまりラーメン一杯だけで1,000円余も支払い、咥え楊枝でのれんからでてくる、オヤジやオヤジギャルの姿なぞはあまりみたくない。

ちょっとスパイシーな牛肉麺を楽しんだあとは、腹ごなしのために「遼寧リョウネイ夜市」をブラブラあるいてホテルまで戻った。
きょうもよく食べた。まぁ食欲は健康の印、食もまた文化なりということにして、タバコも我慢して寝てしまおう。

 

《とどめとして、帰国前の朝の朝食に、台湾おかゆの人気店にいった》
明日は帰国という前夜に、ノー学部がのたもうた。
「明日の朝は6時に起きてください。朝ご飯を忠孝東路一段108號の 阜杭豆漿 フーハン ドゥジャンのおかゆを食べにいきます。朝5時半からの開店だそうで、ものすごく混むようですから早くにいきます。ホテルから近いので、歩いていけます」

   

中国や台湾では、朝食に外食、それもおかゆ料理を摂ることが多い。「阜杭豆漿」は華山市場ビルの2階にある地元客相手の店だったが、最近では評判店として観光客も押しかけて、えらい人気になっている店だそうである。
地図でみるとさほどの距離にみえなかったが、「阜杭豆漿」までは徒歩だと30分以上かかり、店に着いたときは、それこそ階段から店外にまで行列が伸びていた。店内はひろくて清潔で、オープンキッチンでは観光客が撮影に夢中になっていた。

地元客は自宅に持ち帰って食べるひとのほうが多い。観光客は1-2割弱かとおもえたが、おおかた写真のような品をオーダーしていた(ここまで多くはないが……)。
やつがれは、これが最後とばかり、豆乳粥にパンとごま団子まで摂って朝から大満足。
このあと荷物をまとめて、あわただしく空港に駆けつけて帰国した次第である。
明日からはまた、東京でのあわただしい毎日がまっている。

朗文堂好日録-026 台湾再訪Ⅰ 糸 絵 文 紋 字 を考える旅-台湾大藝埕の茶館で  

 

《ようやく活版カレッジ台湾訪問記を『花筏』にアップ完了後なるも……》
いずれも昨年のこととて、いささか旧聞に属して恐縮だが、2012 年10月06日-08日にかけて「アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ  Upper Class」の皆さんが台湾旅行にでかけた。

まさかその翌月に台湾再訪となるとはおもわなかったが、所用があって  2012年11月23-25日、2泊3日の慌ただしい日程でまた台湾にでかけた。
その所用は1日で済んだので、その後は旧友の林昆範との再会を楽しみ、さらにおいしいものに目が無く、グルメ大好きであり、前月の旅ですっかり台湾グルメに惚れ込んだらしいノー学部とも合流して、台北のまち歩きを楽しんだのち、結局のところやつがれの苦手とする「グルメ三昧」となった。
その報告は「朗文堂 NEWS」12月08日に前半部分だけを掲載した。それをここ『花筏』に移動して掲載し、あわせて後半部分もつづいて掲載することとした。

ここしばらく、台湾と中国もの、それもグルメに関する話題が続きそうな『花筏』の怪しい気配ではあるが、ご用とお急ぎでないかたは、まぁ一服でもしながら、ごいっしょに 文+字  文字談義などはいかがでしょう。

★      ★      ★

《2012年11月23-25日、台北の茶館で林昆範氏と歓談》
関与先の台湾企業から、急遽訪台の要請があり、11月22日の最終航空便の手配をされた。翌 23 日[金]は早朝からその用件に追われたが、ここで報告するような内容ではないので割愛。

24日[土]からは解放され、また運良く連休の週末だったので、久しぶりに 林昆範 さんとお会いすることにした。
夕方からはノー学部も台北で合流することになっていた。ノー学部は台湾再訪が決定して、こんなみじかい期間に、よくもまぁ……、とおもうしかない強行日程を、それもグルメ中心のスケジュールを勝手に組んでいた。このノー学部と合流後の阿鼻叫喚は後編にゆずりたい。
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林昆範 リン-クンファン さんは、日大藝術学部大学院の修士課程・博士課程の履修期間中と、その後しばらくの6年半ほどのあいだ、当時の指導教授・松永先生のご指示で、実に律儀に、誠実に、夏休みもなく朗文堂に毎週1回かよわれたかたである。

博士課程履修期間の後半は「グループ 昴スバル」の一員としても活躍され、その成果を朗文堂 タイポグラフィ・ジャーナル ヴィネットに、『中国の古典書物』『元朝体と明朝体の形成』『楷書体の源流をさぐる』『石の書物-開成石経』などにまとめられた。
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林さんは博士号取得後に帰国され、現在は台湾中原大学助教授として、しばしば学生を引率して大陸中国で「中国少数民族の文化」の調査・研究にあたっており、今回は中国南西部での調査から、前日に帰国されたばかりであった。
それでも長旅の疲れもみせず、ホテルのロビーまでピック・アップにきていただいた。
★朗文堂ニュース:林昆範関連図書のおすすめ 2010年03月11日

久しぶりの再会のあと、この日の午後の日程管理は林さんにお任せ。夕方の18:00からはノー学部と合流して、林さんと3人での食事会を予定していた。
「きょうは 大藝埕 ダイゲイテイ にいきましょう。もともと日本統治時代に開発され、銀行や商事会社がたくさんあったまちですが、いまは東京の代官山のように再開発がすすんで、若者に人気のお店がたくさんあります」
「大藝埕は、日本のガイドブックには、美食街とされていたまちですね」
「美食はカタシオさんは苦手でしょう。ご案内したいのは道教の施設、隍廟(コウビョウ 道教)の隣の、ちょっとオシャレな茶館です。ここは日本統治時代のビルを改装して、現代台湾のデザインショップや、ギャラリーもありますし、なによりも、ふるい臺灣と、あたらしい台湾がみられますから……」

しばらくふたりで大藝埕 ダイゲイテイのまちをぶらついて、隍廟 コウビョウの隣のふるいビル・民藝埕 ミンゲイテイにはいることにした。
このあたりは日本統治時代の築70年余のふるいビルを丁寧に改装した建物が多いが、さりとて日本風というわけではなく、コロニアル・スタイルというか、大正ロマンというか、アールデコというか、つまり無国籍な、ふしぎな感じをうける。
漢方薬や書画骨董品などの、日本人観光客めあてのお店もあるが生彩はない。いまはガイドブックの紹介も減って、日本人の姿はあまりみかけないまちになっている。

ブック・カフェやデザイン小物の店がならぶ、まちあるきのあいだに、林さんの教え子や現役の学生たちとしばしば出会った。なかにはかつて林さんに引率されて、朗文堂まで研修にこられたもと学生もいて、うれしい再会となった。
そのなかの、日本へも留学されたおひとりに、道教の廟「台北霞海城 隍廟」で、道教式の礼拝の作法を教わった。

道教は漢民族の伝統宗教で、黄帝や老子を教祖として仰ぐ。さらに古来の巫術(フジュツ、シャマニズム)や老荘思想の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想までを加味したものであって、やつがれにとってはきわめてわかりにくいものであった。
理解できる範囲でいうと、現世利益 ── 不老長寿、富貴、子孫繁栄、商売繁盛などをねがい、符呪や祈祷などをおこなうものである。

道教は東漢末の社会不安のなかから、漢中あたりで勃興した五斗米道 ──  ゴトベイドウ、張陵 チョウリョウ が老子から呪法を授かったとして創始した。五斗米道の名は、入門の際に五斗の米を納めさせたからいう。天師道とも ── にはじまり、北魏の寇 謙志之 コウケンシ によって改革され、さらにインドからもたらされた仏教の教理などをとりいれて次第に成長した。
唐代には宮廷の格別の保護をうけて全盛となり、現在でも漢民族のあいだの民間宗教としてひろくおこなわれている。

上掲写真の「隍廟」は、台北でも有数の道教の拠点の「廟」であり、見た目よりは奥行きがあって内部はひろい。そこには、それこそ善男善女、老若男女が、たくさん列んだ神像の前で祈祷を繰りかえしていた。それでもいくらひろいとはいえ、廟内は香華と人混みで、むせかえるほどの盛況であった。

     

台北の街角には、大小さまざまな道教の施設がある。
写真上)は、高速道路下の「八徳市場」の入り口にあった施設。こうした少し大きめな施設は「廟」といい、線香・供え物・おみくじなどを販売する道士なのか管理人 ? のようなひともいる。写真のように供物と香華が絶えることはない。
ちいさなものは、無人で「祠」とされるが、この規模でも香華は絶えない。この「祠」は、クリスマスツリーを飾られておおらかなもので、さしずめわが国のまち角の「お地蔵さん」か「お稲荷さん」のような感じだった。

また商店などにも、わが国の神棚のような位置に道教の神像が祀られていることもおおい。

「林さん、このあたりの 埕 テイ とはどういう意味ですか ?」
「商店街とか、マーケットということでしょうか」
帰国後に調べてみた。「埕」とは本来口が細長い素焼きの酒瓶であり、海水を細長い水路で砂浜に導き入れてつくる、ふるい製法の塩田の名称にももちいられている。この「細長い」の意から、細長くつづく商店街やマーケットのことになるようであった。

民藝埕 ミンゲイテイにはいくつもの商店やギャラリーが入っていた。ちょうど土曜日だったためか、ギャラリーから若者が溢れていた。なにかとおもったら、台湾で著名な若手造形家のギャラリー・トークが開催されていた。
ところが、どの施設も、あまりにむき出しで、素朴な、バウハウス・スタイル、1925 年代国際様式、あるいは「白の時代」で溢れていて、こちらが照れてしまうほどであった。

なによりも、この店のとなりには、先に紹介した、強い色彩と、インパクトのある装飾に充ち満ちた「台北霞海城 隍廟」があるのである。
それでも茶館「陶一進民藝埕 トウイッシン-ミンゲイテイ」に入って、しばらくして「なるほどなぁ」と納得させられることになった。

ちなみに、茶館「陶一進民藝埕」で、80 種類ほどもある「お茶」のメニューのなかからオーダーしたのは、写真手前が林さんのもので、インド北東部ヒマラヤ山脈南麓産の「ダージリン紅茶」であった。
写真奥がやつがれのもので、中国江蘇省蘇州産の緑茶「璧羅春 ヘキラシュン」である。なかなか国際色ゆたかであった。
茶館「陶一進民藝埕」のパンフレットを簡略に紹介すると以下のようになる

当店は台湾民藝 100 年の伝統と、現代日本のデザインを弁証法的に融合させた茶館です。
日本の民藝と美学の大家である 柳 宗悦氏、工藝デザインの大家の 柳 宗理氏の父子両代にわたる理論と作品の数数と、喫茶を通じて対話していただけます。

つまりこの茶店「民藝埕」に関与したとされる、民藝と美学の大家である 柳 宗悦、工藝デザインの大家 柳 宗理の父子を理解しないと、この「陶一進民藝埕」、ひいては大藝埕のまちなみのことを理解しがたいことになる。

柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889 年 3 月 21 日-1961 年 5 月 3 日)は、旧制学習院高等科から東京帝國大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。
のちに香港うまれの英国人で、画家・デザイナー・陶芸家として知られる バーナード・リーチ の知遇をえて、その縁から英国 19 世紀世紀末の「アーツ&クラフツ運動」に触発されて、手仕事の復権や日用品と美の問題などを語り合って「民藝運動」を起こし、生活に即した民藝品に注目して「用の美」を唱えた。また 1936 年(昭和 11 )東京都目黒区に「日本民藝館」を設立して、1957 年(昭和 32 )文化功労者となった。

またその子息、柳 宗理 (やなぎ そうり、本名 : 宗理 むねみち、1915 年 6 月 29 日- 2011 年12 月 25  日)は、惜しいことに一昨年の暮れに亡くなったが、日本の著名なプロダクトデザイナーであった。
柳宗理は 1934 年東京美術学校洋画科入学。バウハウスまなんだ水谷武彦の講義によってル・コルビジェの存在を知り、工業デザインに関心を持つようになり、プロダクトデザイナーとして活躍したひとである。

柳宗理の師となった 水谷武彦 (みつたに たけひこ、1898 年-1969 年)は、日本の美術教育、建築の教育者である。また日本人として最初にバウハウス(Bauhaus)へ留学した人物としても知られる。帰国後には様様な活動をつうじて、日本にバウハウスを紹介し、その教育を実践した人物である。

これらの19 世紀世紀末「アーツ&クラフツ運動」や、1925 年代「バウハウス国際様式」にまなんだ人物が、どのようなかたちで、どこまで「大藝埕」の景観づくりと、「民藝埕」ビルと、茶館「陶一進民藝埕」などの再開発に関わったかは不詳である。
それでも「国際様式」とは、たれが名づけたものか知らないが、全体に激しい色彩と、インパクトの強い形象が目立つ台湾のまちのなかで、この大藝埕あたりのランドスケープは、かなり異なった風合いがあった。

茶館「陶一進民藝埕」の食器(テーブルウェア)は、すべて柳宗理のデザインによるものであった。その純白の器のなかに、お茶の淡い色彩が幻想的に浮かびあがる。
おおきな急須に、従業員がときおりお湯を注いでくれるので、ほどよく蒸れたころ、それをガラスの器にうつして、ちいさな茶碗で喫茶する。
「陶一進民藝埕」では 3時間余も、写真のお茶をおかわりするだけで長居したが、べつに嫌がられもせず、つぎつぎとお湯を注いでくれた。料金はそこそこの値段で、お菓子もついて日本円でひとり500円ほどだったであろうか。
────
林さんとのはなしに夢中になっているうちに、いつの間にか、かつての新宿邑の、雑然とした朗文堂にいるころとおなじように、たがいにあつくなって、タイポグラフィ論議を展開した。
テーマのほとんどは 文 + 字 = 文字 であった。蒼頡 ソウケツ 神話をかたり、そして許愼 キョシン『説文解字』をかたりあった。
「糸 繪  文 糸 紋 宀 子 字」そして「文 + 字、文字」であった。

先述したように林昆範さんは、中国大陸における観光産業との共同作業で「中国少数民族の文化」を考察・研究されていたが、その途中経過をモバイルメディアの画面に提示しながら、中間報告をしていただいた。
中国にはいまでも54ほどの少数民族があって、それぞれに守護神をもち、それを象徴化した図画・紋様をもつということである。そしてその民族が守護神を失ったとき、その紋様とともに滅亡にいたる……。すなわち伝統紋様とは守護神が視覚化されたものだという報告は新鮮であった。
────
帰国からしばらくして、写真が添付された@メールに、以下のようなうれしい報告があった。

久しぶりにゆっくりおはなしができて、刺激的でしたし、発奮しました。
近年、大陸における観光産業との共同研究で、中国少数民族の文化を考察しています。それらの考察はデザインに使われる素材〔紋様〕として扱い、その素材収集が中心でしたが、このままでは研究とはいえなくて悩み、まして論文発表までは考えてもいませんでした。
ところが、片塩さんのご指摘により、伝統紋様は原始の〔ことば〕であることを理解しました。即ち、「文」の造形性が強調されて「紋様」になりました。そして「文」の記号性が強調されて「字」になりました。この両者が結合したものが「文字」ということです。
来年の夏までに、先日のご指摘と、これまでの収集の成果を見なおして、なんらかの発表ができるようにまとめることに全力をあげます。
日本と台湾でお互いにがんばりましょう。 林  昆範
(この項の写真は、すべて林昆範氏撮影) 

朗文堂好日録-025 台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶

《 活版カレッジ Upper Class 有志旅行 台 湾 探 訪 》
わが国の活字鋳造法、なかでも活字母型製造法は、再再触れているように幕末・明治最初期から昭和 25 年ほどまでは「電鋳式活字母型製造法」(電胎法ともいう)であった。
その状況がおおきく変化したのは、1949-50 年(昭和 24-25 )に、三省堂が所有していた「機械式活字父型・母型彫刻機 いわゆるベントン彫刻機」の国産化に、津上製作所、ついで不二越製作所の両社が成功し、それが急速に普及したためである。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884 年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」であった。
しかしながらこの方式による活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012 年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から 128 年、国産化から 62 年という歴史を刻み、2012 年をもって専業者レベルにおいては事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、もはや専業者がいなくなり、また残存するわずかな原字パターンの字体にも、いわゆる「常用漢字字体表」などの字体資料と、あきらかな字体の齟齬が相当数にみられるようになった。
すなわち、いまやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という 19 世紀の技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
──────────
台湾における活字鋳造、活字組版会社、日星鋳字行(行 ≒ 店)の存在と、その CAD 方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
台湾における活版印刷と、活字鋳造の現状は、臺灣活版印刷文化保存協會の柯 志杰 カ シケツ さんによると、
   いまの台湾では、活字鋳造、活字版製造、活版印刷の崩壊を、あやうく
   防止できたという段階にあり、これから徐徐に活字母型の修復作業に
   とりかかりたい。
   将来課題としては、新刻作業に入りたいという希望をとおくに見据えている
   段階にある。
ということであった。

したがって、この活字母型 CAD 式製造法をまなぶことを主目的とした台湾旅行は、一昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011 年 3 月 11 日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。
その間逆に、2011 年の年末に、数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、2011 年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
そしてなによりも、日星鋳字行は、震災で中断しながらも、翌年 5 月に再開した《活版凸凹フェスタ 2012 》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
それらの研究と交流の成果は、以下のページに収録されている。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート 14 
★朗文堂-好日録 019 活版カレッジ台湾旅行

今回は「台湾探訪」『アダナ・プレス倶楽部 会報誌  Vol.19 』(文責・大石 薫)をもとに、ときおりやつがれが介入するかたちで、すこしふるい情報ながら、活版実践者の皆さんが 2012 年 10 月06-08日、 2 泊 3 日の短い日程のあいだに、いかに台湾にまなび、いかに台湾を満喫したのか、その姿をご紹介したい。

なお写真にはやつがれがしばしば登場するが、それはデジカメをもたず(ひとによっては「使えず」とも評す。まっこともって けしからん発言である。事実だけど。)、撮影どきに暇そうにしているから被写体となったに過ぎず、けっして出たがりではない。ここに為念強調しておきたいのだ。 〔ここまでカタシオ wrote〕

★     ★     ★     ★

「台湾探訪」『サラマ・プレス倶楽部 会報誌  Vol.19 』(文責・大石 薫より転載)

「活版カレッジ」(3ヶ月間 全9回)を修了された活版カレッジ Upper Class」の皆さん恒例の有志旅行も、今回で3回目となりました。
2012年10月06-08日の3連休を利用して、今回は「活版カレッジ Upper Class」はじめての海外旅行、台湾の台北 タイペイ 市に行ってまいりました。その際の訪問先のいくつかをご紹介いたします

《台北  松山空港》
東京と台北間の直行便での空の旅は、成田空港 ⇔ 台湾桃園トウエン国際空港(旧・中正チュウセイ国際空港)の便と、羽田空港 ⇔ 台北松山 ショウザン 空港 の便があります。今回は台北市内へのアクセスが便利な、羽田空港 ⇔ 松山空港便を利用しました。
参加者の中には、松山空港が台北の空港の名前とは知らず、
「羽田空港から国内線で、愛媛県(四国)の松山 マツヤマ 空港を経由し、そこで国際線に乗り換えて台湾に入るものだ」
と出発間際まで勘違いしていた人もいて、最初から笑いの絶えない旅となりました。

航空会社は、創立から現在まで、死者や航空機全損事故は皆無だとして、世界で最も安全な航空会社として知られる「エバー航空」を選択しました。
台湾の航空会社ですが、機内でも日本語が通じますのでなにかと便利です。

搭乗した便は「ハロー・キティ号」だったため、機体はもとより、座席も食事も、エチケット袋からトイレットペーパーに至るまで「キティちゃん」づくし。空飛ぶアミューズメントパークといった感じでした。写真は松山空港到着時のもの。

飛行時間は〔東京 → 台北〕約4時間、〔台北→ 東京〕約3時間です。なお日本と台湾との時差は1時間です。

台北松山空港に着くと、そこの時計の広告に「労力士 = ローレックス」の文字がありました。さぁ、いよいよ漢の字の国へ来たなという実感がわきます。

《初日・昼 ──── 日星鋳字行 台北市大同区太原路97巷13號》
松山空港からタクシーに分乗して、ホテルのチェックインに先だって、荷物を抱えたまま、現在台湾で唯一営業を続けている活字店「日星鋳字行」さんをまっ先に訪問しました。
ここの取材が今回の旅の主目的でした。

日星鋳字行代表の張介冠 チョウ-カイカン さんと、台湾活版印刷文化保存協会の柯志杰 カ-シケツ さんは、今まで何度も朗文堂を訪ねてくださり、2012年には< 活版凸凹フェスタ> にも出展されて、同じく活版印刷を愛し、その存続を願う活版カレッジの皆さんともすっかり打ち解け、交流を重ねてきました。なお、中国語で「行」は「お金を扱うお店=銀行」と同様に「お店」という意味です。「銀行」は現代中国でももちいられていますが、意外なことにわが国での翻訳語が元で、明治の奇妙人・福地櫻痴が Bank から翻訳したとされています。

日本の活字店では活字の鋳造と販売が中心であり、活字組版はおもに活版印刷所で行うことがもっぱらですが、台湾では活字鋳造と活字組版を行うところまでが活字屋さんの役割です。
すなわちもともとの活字印刷版製造所、略して活版製造所の業務であり、活版印刷所へは活字組版の状態で納品となります。

そのため、日星鋳字行では、日本の活字店のような差し込み式の収納棚に、部首順の活字ケースを仕舞い込むのではなく、ふつうの活版印刷所と同じく、文選がしやすいように、対面式の活字馬棚ケースに、部首別かつ使用頻度順に配置された活字ケースがずらりと並んでいました。

簡体字政策が進んだ中国大陸とは異なり、台湾では繁体字が広く使用されています。そのため日星鋳字行には、大陸の簡体字にくらべて日本人にも馴染みが深い、旧字体を含む繁体字の漢字活字が豊富に揃っていました。

今回の旅の一番の目的は、日星鋳字行代表の張介冠さんが取り組んでいる、現代のテクノロジー CAD(Computer Aided Design) を採用したあたらしい活字母型の製造方法の見学と、その新しい技術を使ったオリジナルの活字母型と、鋳造活字の製造でした。

今回は、あらかじめ原字のデジタルデーターを送付しておき、日本ではすでに鋳造が難しくなってしまった「初号  42 pt 」の大きさの活字を作ることにしました。
まだ台湾に着いてから数時間にも関わらず、参加者それぞれのオリジナル初号活字ができあがったとたん、喜びのあまり、

「早く家に帰って、自分の活版印刷機で、この MY 活字を印刷してみたい!」
と言い出す面〻です。ともかく台湾初日の最初の訪問先にて、すでに大満足の活版カレッジ Upper Class のメンバーでした。



【 新塾餘談 ──── なぜか好きなもの 文選箱とゲラ 】
文選箱大好きという、龍爪堂コレクションに、あらたに加えられた 日星鋳字行による新製造の文選箱。台湾でもすでに文選箱が不足がちで、あらたな企画で文選箱の製造・販売をはじめていた。
張社長によると、売れゆきは期待値の半分もないとのことだった。わがサラマ・プレス倶楽部では教育機関などには新品を供給しているが、まだ中古品の在庫が若干あり、個人ユーザーでは、新品と中古品の要望が半半といったところか。

写真左 : 台北・日星鋳字行が新製造した文選箱。材料 : アメリカ杉。9pt.活字 25×20 本 2 段。工業用糊+釘打ち。頒価 : NT$  400元(税別)
写真右 : サラマ・プレス倶楽部が新製造している文選箱。材料 : ホオの木。五号活字 40×20 =800 本収納。一部入れ子細工。定価 :1,000円(税別)

《版画工房 美好一日工作室 One Fine Day Studio  台北市大同区太原路 97 巷 16 號》
日星鋳字行のすぐ向かいにある版画工房が「美好一日工作室  One Fine Day Studio」です。
代表の楊 忠銘 ヨウ チュウメイ さんは若手の版画作家ですが「台南藝術大学」や「MOCA 台北當代藝術館」で後進の版画指導もされています。

楊忠銘さんは、学生に活版印刷について教える際には、サラマ・プレス倶楽部編『 VIVA !! カッパン♥』を積極的に参考資料として活用しているとの嬉しい報告もありました。また揚忠銘さんは日星鋳字行とのコラボレーションによる、新しい絵柄の活字デザインも意欲的に行なっています。

《初日・夜 ──── 寧夏夜市、鬍鬚張(ひげ張)  台北市大同区寧夏路62號》
外食が日常化している台湾では、夜市が連日連夜開催されています。そのなかでも、寧夏夜市は歴史が一番古い夜市で、日星鋳字行さんからは徒歩で10分程度の近距離にあります。
今回は寧夏夜市内にある「鬍鬚張-ひげ張」さん本店で、張さんご一家と、台湾活版印刷文化保存協会ならびに台湾大学大学院の皆さんを交えての、楽しくにぎやかな夕食会となりました。




  

「鬍鬚張」さんは日星鋳字行代表の張 介冠のご紹介でした。「鬍鬚張」は本来「魯肉飯 ルーローファン」の老舗ですが、鬍鬚張二代目社長の張 永昌さんと、寧夏夜市観光協会の張 永賢さんの粋なはからいによって、一店舗に居ながらにして、寧夏夜市の人気屋台料理のすべてを調達してくださる「寧夏夜市  ミニ満漢全席」なるサービスを受けました。

なおここに登場する 3 人の張さんは、親しいご友人ですが、縁族ではないそうです。
今や台湾全土に支店がある「鬍鬚張」さん。日本にも石川県に支店が2店舗あるそうです。
こうして台湾到着から数時間の、収穫と刺激の多かった長い一日が終わりました。

《 2 日目・午前中 ──── 公館駅・台湾大学周辺》
皆さん強行日程だった1日目の疲れもみせず、早朝から各自で朝食をすませて、ロビーに集合。タクシーに分乗して公館駅周辺の古書店街にでかけました。
台湾では古書のことを「旧書(舊書)」あるいは「二手書」(まさに「Second Hand」ですね)と呼びます。以前は、中正区の高架道路の下の旧光華商場に、古書や骨董の市場街がありましたが、現在は新しいビルが完成して、秋葉原のような電気街へと変貌しているため、今回は台湾大学周辺の学生街で、古書店も多い「公館駅」の周辺を散策しました。

  
この周辺は台湾大学、台北大学も近いために、神田神保町というと大袈裟ですが、昔ながらの古書店である「公館舊書城」(台北市中正區汀州路三段130號)や、「古近書廊二手書店」台北市中正區羅斯福路三段244巷23號、17號)、ブックカフェ風の小奇麗な古書店など、たくさんの古書店があります。棚には日本の本や、中国大陸から来た本もたくさん並んでいました。

  学生街のため、安くて美味しい飲食店がたくさんあるのもこの地区の魅力です。
人気の台湾スイーツのひとつに「タピオカ・ミルクティー」があります。台湾では「タピオカ」のことを「青蛙」と表記し、お店のトレードマークに蛙を採用しているお店も少なくありません。
タピオカがカエの卵のようにみえることからその名称がうまれたと聞きました。人気店の長い行列にならんで、ようやく購入した「タピオカ・ミルクティー」は絶品で、ほとんど飲んでしまってからの写真となりました。

《 2 日目・昼から ──── 台湾故宮博物院 台北市士林区》
この日の皆さんは、公館駅のちかくでいくつかのグループにわかれて、古書店やスィーツを楽しみ、公館駅周辺のお店で軽食をとってから「故宮博物院」にかけつけました。

「故宮博物院」といえば、中華人民共和国北京市の「故宮博物院(紫禁城)」と、中華人民共和国遼寧省省都:瀋陽市(旧満州奉天)の「瀋陽故宮博物院」、中華民国台湾台北市の「国立故宮博物院(台湾故宮博物院)」があります。なかでも台湾の故宮博物院は、その貴重かつ膨大な収蔵品の数から、大陸中国の故宮博物院を差し置いて、世界四大博物館 のひとつに数えられています。


故宮博物院は、ラストエンペラーで知られる溥儀 フギらの清王朝の一団が紫金城を退去したのち、1925年に紫禁城の宝物を一般に公開したのがはじまりです。その後、日中戦争や中国大陸での内戦の激化により、蒋介石率いる国民党軍(のちの中華民国政府)によって、紫禁城にあった宝物の一部は、北京から南京などに避難の旅を続けました。

のちに形勢が不利となった国民党軍(中華民国政府)とともに、宝物は台湾に渡り、台湾故宮博物院 の開設となりますが、その際台北に運び込まれた宝物は3,000箱近くに及んだとされています。
この中国大陸から台湾への宝物の移動は、結果的にのちの文化大革命時代の中国大陸の美術品破壊から宝物を保護することへもつながりました。
混乱期の長旅を経て台湾に辿りついた宝物は、紫禁城に残った宝物にくらべて小振りのものが中心ですが、選りすぐりの逸品揃いであるといわれています。

なお、台湾故宮ではスタッフのほとんどが、国語(北京官話)、台湾語(もともと福建省寄りの言葉が台湾独特の方言に発展したもの)、英語、日本語をあやつるマルチリンガルです。そのため無理をして英語を使うより、むしろ日本語のほうが通じます。また、ミュージアムショップでは日本語版の図録や DVD も多数販売されています。
展観の途中から消えた松尾篤史さんと「やつがれ」さんは、古書店に続いて、ここのミュージアム・ショップでも図書をどっさり買いこみ、ひとりでは身動きもできないという始末でした。

《 2 日目・夜 ──── 士林夜市》
士林夜市は台湾で一番大きな夜市で、故宮博物院と同じ士林区にあります。2011年の年末に新しいビルの地下に美食街がつくられ、そこに多くの屋台が移転したばかりでした。いまはビルの地下ですから昔のような風情は無くなりましたが、衛生面や安全面も向上し、屋外屋台のような雨の心配もいりません。

  

  

士林名物の巨大フライドチキンに、特大台湾ソーセージ、牡蠣オムレツ、青蛙下蛋(直訳は「蛙の卵」ですが前出のタピオカのことです)、マンゴーかき氷などの人気店が立ち並んでいます。

ところで、旅の途中 Upper Class メンバーがたびたび「マンゴージュース」を注文しましたが、口頭で注文すると、どういうわけかいつも「オレンジジュース」が出てきていました。
欧米のカフェで「珈琲」を頼むと「コーラ」が出てしまうことがありますが、それと同様に「マンゴー」が「マンダリン-マンダリンオレンジ」に聞こえてしまったのでしょうか。ちなみに、台湾語でマンゴーは「ソワァンヤァ」と呼ぶそうです。

《ホテル  ──── 圓山大飯店 台北市中山区中山北路四段1號》
台北松山空港に飛行機が到着する直前、飛行機の窓から竜宮城のような、巨大で絢爛豪華な建物が見えました。
「あれが台湾故宮博物院かな」
と思っていた Upper Class の面々は、空港からもみえるその威容に、
「あれが、今回皆さんが泊まるホテルですよ」
と聞かされても冗談だと思っている様子でした。

圓山大飯店の豪華絢爛なロビーに案内され、さらに呆気にとられた面々は、チェックインの手続きをはじめても、まだ半信半疑の様子で、
「予約のときにホテル代はそんなに高くなかったけど、本当にここに泊まるの? 追加料金取られない?」
と心配の様子でした。

台湾にはもっと安くて、最新設備を整えた小奇麗なホテルや、もっと高額なラグジュアリーホテルもたくさんありますが、そのような現代的な西洋風ホテルよりも、内容の割にはリーズナブルな価格でありながら、台湾らしさを存分に満喫でき、贅沢な気分に浸れるのが圓山大飯店です。

その昔、台湾政府の迎賓館として使用されていた建物の壮大さと、中国の宮廷建築の特徴が盛り込まれた装飾は圧巻です。客室も広々としていて、各客室占有のベランダだけでも一部屋分くらいの広さがあります。


《 3 日目・最終日 ──── 圓山大飯店内の飲茶の店・圓苑での昼食会 兼 ハプニング》
短い滞在だった3日目、最終日の午前中は、皆さん地図を片手に町歩き・お買い物を楽しまれました。昼食は圓山大飯店の中にある飲茶のレストラン「圓苑」です。
ホテルの中のレストランにしては、手頃な価格帯で美味しい飲茶が頂けます。

   

今回はたまたま、お誕生日が近いメンバーが3名もいましたので、圓苑名物の「紅豆鬆糕(豆入りライスケーキ)」をホールのままひとつ注文し、バースデー・ケーキ代わりにしました。

大皿で提供される中国料理は、少ない人数では2-3品程度ですぐにお腹がいっぱいになってしまうため、いろいろな料理を楽しむことができませんが、今回は適度な人数で食卓を囲むことができたため、品数も豊かに、台湾での最後の楽しいひとときを過ごすことができました。

そして、山ほど買いこんだ「台湾特製活字」をはじめ、柿+ミカン+子豚ちゃんの縁起物「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」、実家がお茶屋さんだという某会員は、なんども下見を繰りかえし、比較検討の末、みずからの美意識に合致したという  ン万円の急須を買いこんだりと、楽しく収穫の多い台湾での旅を終えて、松山空港から羽田への帰国便に搭乗しました。
「勉強になったし、ともかく面白かったし、なんでも美味しかったねぇ。また台湾に来ましょうね」。
──── 皆さんのお声でした。

朗文堂-好日録024 禹王、王羲之、魯迅、孔乙己、咸亨酒店、茴香豆、臭豆腐

中国 ・ 紹興 「 咸亨酒店 」 と、東京 ・ 神保町 「 咸亨酒店 」 のふたつの 「 咸亨酒店 」 のことは、このタイポグラフィ ・ ブログロール 『 花筏 』 ですでに紹介した。
両篇とも相当量の長文だが、それぞれその終末部に掲載してある。
★朗文堂-好日録016──吃驚仰天!中国西游記 2012年08月01日
★朗文堂-好日録023──気がつけばカレンダーが1枚だけ! 2012年12月06日

《 東京 ・ 神田神保町/咸亨酒店 カンキョウシュテン 》
この中国料理店に関してはつい先日 ★朗文堂-好日録023 で触れた。
神田神保町の「咸亨酒店」は、紹興の「咸亨酒店」を模してはいるが、料理そのものは 紹興  というより、そこからほど近い港町、寧波 ( ネイハ、ニンボー、波を寧ヤスんずる ) の家庭料理風の調理の店であった。
したがって味つけやメニュー構成は、相当日本人客を意識して、上海ガニやフカヒレのスープなどを前面に押し出している。

しかしながら、神保町「咸亨酒店」の中心料理は、数種類のお粥 ( 中国ではオカユはほとんど朝食として摂るが…… ) であり、なによりも紹興名産 ・ 紹興酒 ( 黄酒 オウシュ、ホワンチュウ ・ 老酒 ラオチュウ ) の5-15年といった年代物がずらりと列んでおり、左党にはたまらない店のようである。

「 酒店 」 とあると、やつがれのような酒が苦手な不調法者は入店をためらうが、「 咸亨酒店 」 では中国茶をたのむと格段いやな顔をせずに、大きな急須いっぱいの中国茶が出て、料理はどれも本場の 「 咸亨酒店 」 と較べても遜色がなかった。
なによりも 好ハォ !  なのは、天井が高いために、嫌煙家にもさまで嫌われずにタバコが吸咽できることだ。 愛煙家とてはいろいろ気にする昨今である。

上掲写真 右側の料理は、蘇東坡ソトウハ ゙( 中国北宋代の政治家 ・ 詩人 ・ 書家、蘇軾ソショク トモ ) の考案によるとされ、家人の大好物 「 杭州名物 東坡肉 トンポーロー」 を模し、寧波家庭料理風に仕立てた豚の旨煮料理である。
写真を撮るのも忘れて半分ほど食べてから慌てて撮った写真で、妙なものになっているが、ともかく旨かった。

とかくわが国では気軽に 「 中華料理 」 という名称で呼んで、中国各地の料理をひとくくりにしているが、ロシアをのぞいて、50ヵ国ほどの国と地域ががひしめく  ヨーロッパ 諸国  が、そのまま中国一国の国土にスッポリはいるほどの広大さがあるのが中国である。

それなのにわが国では、ヨーロッパの、フランス料理、イタリア料理、スペイン料理などの違いはつよく意識するが、あまりに付きあいのふるい 「 中華料理 」 となると、地域性、食材、調理法、味つけの違いなどには意外と無頓着になっている。

はやいはなしが 「 ラーメン、餃子、チャーハン 」 は、どこの中国料理店でもあると考えているひとが多い。
したがって 「 中国料理店 」 の多くは、出身地や、その調理や食材の特徴を、「 陝西料理 」 「 四川料理 」 「 北京料理 」 「 湖南料理 」 「 浙江料理 」 「 福建料理 」 「 広東料理 」 などとあらわして、さりげなく主張している。

内陸部の「 陝西料理 」 「 四川料理 」 は、比較的味が辛く、羊や豚肉と小麦粉料理が中心である。
海岸部の 「 浙江料理 」 「 広東料理 」 は、比較的味が淡泊で、鶏や魚貝料理と米飯が中心である。

だいぶ以前のはなしだが、米国 ・ シアトルの 「 日本料理店 」 につれられていった。 そのさほど大きくない店には、寿司、ソバ、焼き鳥、すき焼きなど、なんでもござれのメニューがあって、おどろいたことがある。
それと同じで、「 ラーメン、餃子、チャーハン 」 の豪華三点セット !?  は、日本式の 「 中華料理 」 だと心得たほうが間違いがすくないようだ。

それはさておき、若者の掲示板などでも 「 神保町 咸亨酒店 」 はそこそこの評価 を得ているようである。
神保町 「 咸亨酒店 」 は皆さんも一度お試しいただくとして、紹興の 「 咸亨酒店 」 を理解していただくために、同店の屋外看板の解説をテキストで紹介しておこう。

咸 亨 酒 店   かんきょうしゅてん/シャン ヘン ジュー デェン
「 咸亨酒店 」 は、紹興酒のふるさと、中国浙江省紹興に、清朝時代(1894-96)に実在したお店です。
魯迅 ロジン をはじめ、多くの文化人に愛されたこの店は、彼らの憩いの場ともいえる由緒ある名店でした。( 現在のお店と建物は、1981年に魯迅の生誕百周年を記念して復興されたものです )。
魯迅は、故郷の紹興酒とともに、生家の近くにあったこの店をこよなく愛し、名著 『 孔乙己  コウイッキ 』 の舞台として描き、この店名を世界に広く知らしめました。
当店は、日本で紹興酒の専門店を開業するにあたり、紹興の多くの関係者から賛同と幾多の協力をいただき、この神保町に咸亨酒店を創りました。
石造りの建物と、柳の木は、古都紹興の街並みを連想させるもので、看板の文字は、書聖と称される王羲之を奉る紹興の名所 「 蘭亭 」 の胡 雄氏の直筆によるものです。
1992年3月16日

《 紹興のまち、簡略紹介 》
紹興 シャオシン Shaoxing (中国版 : 紹興) は、浙江省省都の杭州、あるいは杭州空港から、電車でも高速道路でも30-40分ほどの距離にあり、人口は500万人、浙江省の副都ともされる。
ふるくから拓けたまちで、会稽、山陰(阴)、大越、上都、仙都 などの異称もある。

このまちの名産品に ご存知の 紹興酒(シャオシンチュウ  黄酒 ・ 老酒) がある。
紹興酒は このまちではおもに 「 黄酒 ホアンチュウ、huáng jiŭ 」 と呼ばれ、糯米モチゴメを主原料として発酵させた醸造酒であるが、そのなかでも長期間熟成させたものを 「 老酒  ラオチュウ」 と呼んで珍重する。

いずれにしても下戸のやつがれには 「 猫に小判 」 であるが、日本の 「 中華料理店 」 とされる店でだされるものは、ほとんどが台湾産の 「 紹興酒 」 であることぐらいは知っている。

写真01) 禹王廟にあった紹興酒の献上品。わが国でも神社仏閣などに、薦被りの清酒がならぶ光景をみるが、伝説の王朝 ・ 夏カの創始者/禹王ウオウ廟に献上された紹興酒は、緋毛氈の上に太鼓とならんで、うやうやしく置かれていた。
写真02) 杭州から紹興への高速道路のドライブインの売店でも、さまざまな紹興酒を販売していた。ブランドと製造年代も、大小各種のものがならんでいた。
写真03) ドライブインに 「 紹興特産  臭豆腐 しゅうどうふ、チョウドウフ」 の売店があった。 これに関心をしめしたことが、2時間ほどのちに、たいへんな悲劇 ?  喜劇 ?  をもたらした。
写真04) 紹興のまちのあちこちにも、紹興酒の銘柄の懸垂幕と酒家の名前がみられる。「 会稽山 」 「 紹興古城 」 はいずれも紹興酒のブランド名。 背景の 「 咸豊 カンポウ 酒家 」 は、中国清代末期の元号 「 咸豊 」(1851-61)で、ふるい創業を誇っている。

ふるくから、それも有史以前からひらけたまちなので、名所 ・ 旧跡は数えきれないほどある。
◎  大禹ダイウ陵-伝説の王朝・夏カ王朝の創始者/禹王の陵 (伝BC2070頃)。 〔中国版 : 禹王
◎  府山公園-春秋時代  の王城跡。越王殿(BC600頃-BC334)。〔中国版 : 越王勾践〕
◎  蘭亭-王羲之(推定303-361) 蘭亭序 の碑と、「 中興中路 」 にある書聖故里
   ( 『 蘭亭序 』 は中国歴 ・ 永和9年3月、西暦353年、わが国は古墳文化の、まだ無文字の時代の作 )
◎  魯迅故里-魯迅(1891-1936)の生家と記念館。
◎  周恩来故居-周恩来(1898-1976)元首相の生家と記念館。 未訪問。
◎  会稽山—中国九大名山のひとつ。会稽刻石 ( 始皇帝の宰相 李斯 碑 ) がある。
  山頂までは未訪問。〔中国版 : 会稽山〕
◎  宋六陵—南宋皇帝の墓陵。 江南では最大の皇陵区。〔中国版 : 宋六陵〕 未訪問。

《 紹興と魯迅、魯迅と版画、魯迅の図書装幀 》

禹王廟から会稽山山系をのぞむ。かつてこのあたりが会稽と呼ばれていたように、紹興のあちこちからこの山容と、山頂に設けられた伝説の夏カ王朝 ・ 禹ウ王の巨大な立像をみることができる。

禹ウ王殿境内の土産物店で、おおきな紫紺の扇に、金泥で 『 蘭亭序 』 を老人が書いていた。 2012年07月15日だったが 猛暑の日で、老人は半裸になってブツブツと 『 蘭亭序 』 を唱えながら、相当の力量の行楷書で鮮やかに書いていた。
片隅に、もうたれも買わなくなった1970-80年代のふるいパンフレットを売っていたので、懐かしくなって購入した。 扇子は寶物のひとつとなった。

下に、その扇子の写真と、昨年秋に杭州の土産物屋で購入したもので、竹簡を模した 『 蘭亭序 』 ともども紹介する。現代中国でも、いかに 「 書聖 ・ 王羲之」 と、『 蘭亭序 』 が愛されているかわかる。


写真上) 魯迅の肖像写真とそのシグネチュア(署名)。
      〔『 魯迅与書籍装幀 』  上海魯迅記念館、新華書店上海、1981年08月 〕
写真下) 紹興の大通りに面した 「 魯迅故里 」 の入口広場。 中央の座像 2 体がなんなのかは、あまりに暑く、またこの直後から団体客が押しよせて取材できなかった。 このあたりは人口500万の大都市 ・ 紹興の中央通り 「 中興中路 」 に面しており、すっかり近代化されていて、ちかくには ESPRIT や、マック、ケンタッキーなど、国際資本の店舗もたくさんあった。

魯迅の旧居にむかう道中で、フト「 老年活動室 」 の看板が目についた。 扉が開けっぱなしだったので、
「 ン !   これはオレのための施設かナ 」
とおもって、断りもなく、勝手にはいった。
奥でトランプゲームと、麻雀をやっていて 「 老年活動室 」 はにぎやかだった。麻雀のメンツ ・ ターター(人数あまり)で暇をもてあましていた(ここでは)若け~のが、
「 日本からきたの、アッソ~。 暑いねぇ~ 」
といった (らしい、多分。 早口の中国語で詳細不明だったけど )。
ここ 「 老年活動室 」 で、暫時休憩、暫時一服。 ここにすっかり馴染んで、くつろいでしまっているやつがれが、チョイと口惜しいではないか!

写真上) 魯迅故里にある魯迅の故居。 扁額には 「 魯迅祖居 」 とされている。 簡素で好感がもてる建物だったが、夕方で閉館されていて内部には入れなかった。
写真下) 魯迅の故居前の記念碑。 よく整備されていて、涼風を感ずる、あかるい空間だった。

魯  迅  ── Lu Xun  本名 : 周 樹人。中国 ・ 浙江紹興のひと。 1881-1936年。
〔中国版 : 魯迅〕
 〔魯迅関連 画像集〕

中国の近現代文学を代表する存在。 はじめ医学をこころざし、東京 ・ 牛込の日本語学校・ 弘文学院の松本亀次郎に日本語を学び、1904年9月から仙台医学専門学校 ( 現在の東北大学医学部 ) に留学した。
しかし日露戦争の記録映画などをみて、医学にかえて文学による漢民族の民族性の改造をこころざし、帰国後に発表した処女作 『 狂人日記 』 〔青空文庫 : 狂人日記 〕 で評価をうけた。

そののち、自著自装本 『 吶喊 』(トッカン、鬨トキの声 )に 「 狂人日記 」、「 孔乙己 コウイッキ」〔 青空文庫版 : 孔乙己 コウイッキ〕 〔 孔乙己 コウイッキ 画像検索 〕、 「 故郷 」〔 青空文庫 : 故郷 〕、「 阿Q正伝 」〔 青空文庫 : 阿Q正伝 〕 などの著名な短編作品を収める。
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以上がおおかたの魯迅の略歴紹介である。 邦訳 ・ 公開されている短編小説にはリンクを設けたので、できたらお読みいただきたい。 やつがれが好きなものをあげておいた。

ところで……、ここで意外に見落とされている事実を紹介したい。
魯迅は中国近現代を代表する文学者であり、創作 ・ 社会批評 ・ 海外文学の紹介者とされている。

ところが魯迅は、相当の力量をもった装幀家であり、ブックデザイナーであり、木版版画の実践者であり、推奨者でもあったことである。

魯迅の代表作 『 吶喊 』(トッカン、鬨の声。魯迅著、北新書局、1926)を、自著自装本であるとして紹介した。 この資料 『 魯迅与(ト)書籍装幀 』 ( 上海魯迅記念館、新華書店上海、1981年08月)は、「 咸亨酒店 」 の復元とおなじ年、魯迅生誕100年を期して刊行されたデザイン書である。

同書によると、魯迅は自著を含め64冊の書籍や雑誌の装幀にあたっている。
デザイン傾向は様様で、アールヌーボー、ロシア構成主義、アールデコ、日本大正ロマン、1925年代国際主義 ( いわゆるバウハウス ・ スタイル ) などの影響が、それぞれ顕著にあらわれている。
以下に魯迅の装幀による書物のいくつかを紹介する。

             

     

     

     

     

興味ぶかいのは、魯迅は相当印刷術に精通していたとみられ、石版印刷、木版と活字版を併用した凸版印刷の技術を縦横に駆使した格調のたかい書籍がみられる。 とりわけ木版画の使用に長けており、しばしば表紙や装画にもちいただけでなく、『 木刻紀程 壹 』( 魯迅編、鉄木藝術社、1934年) という、木版画彫刻の技法書まで刊行している。
同書のなかで魯迅はつぎのように述べた。

中国の木版画は、唐から明まで、かつて見事な歴史があった。 だが、現在のあたらしい木版は、その歴史とは無関係である。 あたらしい木版は、ヨーロッパの創作木版の影響を受けたものである。
創作木版の歴史は朝花社にはじまる。 その出版した 『 藝苑朝華 』 四冊は、選択と印刷製本が精巧ではなく、芸術界の有名人には黙殺されたが、若い学徒の関心をひきおこした。 1932年になって、上海に中国最初の「木版画講習会」が成立した。

ここにしるされた創作木版の 「 朝花社 」 は、魯迅と 作家 ・ 柔 石が組織した文芸団体であり、1928年11月成立、1930年春に終結した。
また 『 藝苑朝華 』 は魯迅の朝花社が編集出版したもので、下記の5冊の版画集を刊行した。
   1.『近代木刻選集』(1)、 2. 『蕗谷虹児画選』、 3. 『近代木刻画集』(2)
   4. 『ビアズリー画選』、    5. 『新ロシア画選』

また、竹久夢二とともに抒情画家として知られる 蕗谷虹児 (フキヤ-コウジ  童謡 ・ 花嫁人形の作詞者、挿絵画家、1898-1979)〔 蕗谷虹児画像集 〕 の影響も見られるだけでなく、『 蕗谷虹児画選 』 ( 芸苑朝花第一期第二輯、朝花社出版、1929) まで装幀・刊行している。
「 童謡  花嫁人形 ♪  金 襴 緞 子 の  帯 し め な が ら 花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ 」
の作詞者、新潟県新発田シバタ市出身の蕗谷虹児と、その新発田市の記念館のことは  ★朗文堂-好日録012 に 紹介したことがある。

郵便切手にもちいられた、蕗谷虹児画の「花嫁」。2013年の正月、新宿の郵便局でも積極的に販売されていた。 無粋ではあるが不正使用が無いように一部に画像処理を加えて紹介した。 いずれにしても蕗谷虹児と魯迅とは  ──  なんとも考えさせるテーマである。

どちらかというと、葉巻をくわえ、髭を蓄え、いかつい風貌の魯迅が、少女向けのロマンチックな絵画をのこした蕗谷虹児の、どこに惹かれたたのかとかんがえると、ほほえましいものがある。

以下に、たまたま気になって保存していた 「 町田市民文学館ことばらんど-蕗谷虹児展 」 のパンフレットを紹介しよう。 裏面右下に、魯迅 『 蕗谷虹児画選 』 の表紙が図版紹介されている。

すなわち魯迅(1881-1936)は、わが国の恩地孝四郎(1891-1955)よりはやくから、版画の近代運動に尽力していたこととなる。
恩地孝四郎は、最近作品集が翻刻出版され、評伝も刊行されたので、一部で注目されている。 恩地は東京うまれ、東京美術学校中退。 『 月映 ツクハエ 』 同人として抽象的版画を製作し、創作版画運動にも尽力した。 また 「 アオイ書房 」 志茂 太郎の物心共の援助をえて、愛書誌 『 書窓 』 を編集 ・ 装幀した人物である。

昨秋に、そのときが 「 中秋節 」 と知らずに杭州を訪れたことがあった。 ひどい混雑だったが、西湖白堤にある 「 浙江美術館 」 で、大大的に 「 魯迅と木版画展 」 をやっていた。
そこには魯迅が愛用していた彫刻刀も、何本も陳列されていた。 文豪 ・ 魯迅は、また版画家でもあったのである。

また20年ほど前の1994年に、町田市立国際版画美術館が 『 1930年代 上海 魯迅 』 と題して、魯迅の版画運動を紹介したことがあった。 あれからはや20年、日中交流もだいぶ容易になったいま、もういちどどこかの文学館なり美術館が 《 文豪魯迅の図書装幀 》 とでも名づけて展覧会を企画してもらえるとうれしいのだ。

《 魯迅著 『 孔乙己  コウイッキ 』 と  茴香豆 ウイキョウマメ  ──  咸亨酒店 カンキョウシュテン 》
ここからの紹介は、団塊世代の皆さんが、実に熱心に歩きまわって取材し、丁寧に写真を撮って、ブログなどに紹介されていることばかりである。
そもそも日ごろから 「 衣食住にはさほど関心がない 」 とうそぶいて、出歩くのをいるやつがれなぞは、およそグルメ紹介などには適さない。 おおかたは旅に同行したノー学部のなすところである。

「 咸亨酒店 」 は清代に実存した店で、魯迅の短編小説 『 孔乙己 』 に紹介され、主人公の孔乙己の名とともに知られることとなった。 現在の店舗は1981年に魯迅生誕100周年をもって、外装は旧店舗にできるだけ忠実に再建されたものである。

店のシンボル孔乙己 コウイッキ は、官僚登用試験 ・ 科挙の落第生とおぼしき人物として設定されているが、小説のなかの人物で、実在したわけではない。
また、この短編小説 『 孔乙己 』 の邦訳(井上紅梅訳)のなかでは、「 咸亨酒店 カンキョウシュテン」 ではなく、振り仮名つきで 「 咸享酒店  かんこうしゅてん 」 とされている。

中国の 「 百度百科 」 には、図版をまとめたものがおおくあり、それも下記にリンクで紹介した。 おなじキーワードで検索すると、驚くほどたくさんのブロガーの記述にでくわす。
中国版 : 魯迅 孔乙己図版 〕 〔 中国版 : 孔乙己 茴香豆 〕

写真上) 「 咸亨酒店 」 正面入口。 店の前には孔乙己コウイッキが、酒の碗をテーブルにおいて、茴香豆ウイキョウマメをつまんでいる立像がある。 観光客だけでなく、地元の客も多かった。 いまの 「 咸亨酒店 」 は、1981年に魯迅生誕100周年を期して再建されたものだという。
写真中) 外のテラスでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には 「 黄酒 」 の甕がならぶ。 地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
写真下) 魯迅はたそがれどきになると、ここにあらわれて、葉巻の紫煙をくゆらせ、茴香豆をつまみながら老酒をチビチビやっていたらしい。 やつがれもそれを真似て、チョイと一服。 ともかくこの日は暑かったのだ。

いまの 「 咸亨カンキョウ酒店 」 は店舗が近代化、拡張され、入口で飲み物とプリペイド ・ カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。 精算は出口のカウンターでする。
それが面倒なら、2 階席はテーブルクロスのかかった、本格的な酒店だという。 もちろんやつがれは庶民的な 1 階席でテーブルについた。

上掲料理写真の真ん中は、鶏の丸焼き料理。 右側が茴香豆。 最奥はその名もビックリ 「 臭豆腐  チョウドウフ」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり 「 臭豆腐 」 と書かれると、食欲が失せて敬遠していた。
キッチンは清潔で、どこもオープンキッチンになっていたが、「 臭豆腐 」 売り場だけはガラス張り。

「 臭豆腐 」 は、中国各地の屋台店などでみかける大衆食品であるが、紹興のまちでも名産とされている。 いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた ──  というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら 「 臭豆腐 」 をどんどん運んできた。
「 茴香豆 」 〔 茴香豆画像 〕 は空豆を八角という香辛料でゆでたものらしいが、 旨かった。

つまり 「 臭豆腐 」 を避けて 「 茴香豆 」 ばかりを食べていたら、臭いを気にせず、美味しいから 「 臭豆腐 」 も食べろと勧められた。
真ん中の写真は 「 臭豆腐 」 をほお張って、吐きだすにだせず、ウップしたまま絶句しているやつがれと、それを、
「 いいか、必ず、絶対に、喰えよな!」
といわんばかりに、つめたく ?  みつめるドライバーの潘 偉飛 さん。

このひと、日本語はできないが、身振り手振りと筆談で、ほぼ意思の疎通には困らない、 いい人なのだが……。
「 臭豆腐 」 はききしにまさる、すさまじい臭いで辟易するが、ふたくち目からは臭いも気にならず、食すと好ハオ!  ほぼやつがれが食べてしまった。 写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を 「 コーラ 」 と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「 アナタガタ   ココハ  紹興ヨ!  黄酒ヲ ノマナイデ  ドウスル 」
こんな具合だったようであるが、やつがれはすでにテーブルについて 「 茴香豆 」 と 「 臭豆腐 」 に挑戦中で、くわしくは知らない。 それでも自慢の黄酒より コーラのほうが高かった……。
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『 孔 乙 己 』 ( 魯迅著、井上紅梅訳、改造社、1932年11月18日) 〔参考 : 青空文庫版 孔乙己 〕

魯鎮ロチンの酒場の構えは他所ヨソと違っていずれも皆、曲尺形カネジャクガタの大櫃台オオ-テーブルを往来へ向けて据え、櫃台テーブルの内側には絶えず湯を沸かしておき、燗酒がすぐでも間に合うようになっている。仕事をする人達は正午ヒルの休みや、夕方の手終テジマいに、いちいち四文銭を出しては茶碗酒を一杯買い、櫃台テーブルに靠モタれて熱燗の立飲みをする。──これは二十年前のことで、今では値段が上って一碗十文になった。──もしモウ一文出しても差支えなければ、筍タケノコの塩漬や、茴香豆ウイキョウマメの皿盛を取ることが出来る。もし果して十何文かを足し前すれば、葷ナマグさの方の皿盛りが取れるんだが、こういうお客様は大抵袢天著ハンテンギの方だからなかなかそんな贅沢はしない。中には身装ミナリのぞろりとした者などあって、店に入るとすぐに隣接した別席に著き、酒を命じ菜を命じ、ちびりちびりと飲んでる者もある。
わたしは十二の歳から村の入口の咸享酒店カンコウシュテンの小僧になった。
〔中略〕
孔乙己コウイッキが一度わたしに話しかけたことがあった。
「お前は本が読めるかえ」
「…………」
「本が読めるなら乃公ダイコウ、オレが試験してやろう。茴香豆ウイキョウマメの茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ」
わたしはこんな乞食同様の人から試験を受けるのがいやさに、顔を素向ソムけていると、孔乙己はわたしの返辞をしばらく待った後、はなはだ親切に説き始めた。
「書くことが出来ないのだろう、な、では教えてやろう、よく覚えておけ。この字を覚えていると、今に番頭さんになった時、帳附けが出来るよ」
わたしが番頭さんになるのはいつのことやら、ずいぶん先きの先きの話で、その上、内の番頭さんは茴香豆という字を記入したことがない。そう思うと馬鹿々々しくなって
「そんなことを誰がお前に教えてくれと言ったえ。草冠の下に囘数の囘の字だ」
孔乙己コウイッキは俄ニワカに元気づき、爪先きで櫃台テーブルを弾ハジきながら大きくうなずいて
「上出来、上出来。じゃ茴の字に四つの書き方があるのを知っているか」
彼は指先を酒に浸しながら櫃台の上に字を書き始めたが、わたしが冷淡に口を結んで遠のくと真から残念そうに溜息を吐(つ)いた。
〔中略〕
中秋節が過ぎてから、風は日増しに涼しくなり、みるみるうちに初冬も近づいた。わたしは棉入ワタイレを著て丸一日火の側ソバにいて、午後からたった一人の客ぐらいでは眶マブタがだらりとせざるを得ない。するとたちまちどこやらで
「一杯燗けてくれ」
という声がした。よく聞き慣れた声だが眼の前には誰もいない。伸び上って見ると櫃台テーブルの下の閾シキイの上に孔乙己コウ-イッキが坐っている。顔が瘠せて黒くなり何とも言われぬ見窄ミスボらしい風体で、破れ袷一枚著て両膝を曲げ、腰にアンペラ ムシロノコト を敷いて、肩から縄で吊りかけてある。
「酒を一杯燗けてくれ」
番頭さんも延び上って見て
「おお孔乙己コウイッキか、お前にまだ十九銭貸しがあるよ」
孔乙己はとても見惨ミジメな様子で仰向いて答えた。
「それはこの次ぎ返すから、今度だけは現金で、いい酒をくれ」
番頭さんは例のひやかし口調で
「孔乙己、またやったな」
今度は彼もいつもと違って余り弁解もせずにただ一言イチゴン、
「ひやかしちゃいけない」
というのみであった。
「ひやかす? 物を盗らないで腿を折られる奴があるもんか」
孔乙己は低い声で
「高い所から落ちたんだ。落ちたから折れたんだ」
この時彼の眼付はこの話を二度と持出さないように番頭さんに向って頼むようにも見えたが、いつもの四五人はもう集っていたので、番頭さんと一緒になって笑った。
わたしは燗した酒を運び出し、閾シキイの上に置くと、彼は破れたポケットの中から四文銭を掴み出した。その手を見ると泥だらけで、足で歩いて来たとは思われないが、果してその通りで、彼は衆ミナの笑い声の中に酒を飲み干してしまうと、たちまち手を支えて這い出した。
それからずっと長い間孔乙己を見たことがない。年末になると、番頭さんは黒板を卸して言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
次の年の端午の節句にも言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
中秋節にはもうなんにも言わなくなった。
それからまた年末が来たが、彼の姿を見出すことが出来なかった。そして今になったが、とうとう見ずじまいだ。
たぶん孔乙己コウ-イッキは死んだに違いない。(1919年3月  魯迅記)

《 書聖 ・ 王 羲之  簡略紹介 》
王 羲之(オウ-ギシ 307?-365)。 あざなは逸少。 東晋の書家である。 また官僚でもあり、右軍将軍、会稽内史でもあった。
楷書と草書において古今に冠絶した存在で、その子 ・ 王  献之とともに 「 二王 」 とよばれる。
書に関しては、ある事情があって 「 真筆 」 とされるものは現存しない。

唐王朝の実質的な建朝者 ・ 二代皇帝 太宗 ( 李 世明、598-649 ・ 在位627-649 ) が貞観元年 ( 627 ) に即位し、また賢臣をもちいて、唐王朝とそのみやこ ・ 長安を空前の繁栄に導いた。 その治世を 「 貞観 ジョウガンの治 」 という。
太宗はみずからもすぐれた書芸家であった。 その作は、西安 碑林博物館正面入口 「 碑亭 」 に置かれている 隷書碑 『 石台孝教 』 ( 天寶4年 ・ 745、後述 ) にあきらかであるが、また王羲之の書を愛好し、その書200余を宮中にあつめた。
そして、書簡を中心に 王 羲之がのこした 『 蘭亭序 』 をはじめとする真筆の書は、その書を溺愛した唐の太宗 ・ 李世明が、すべてをみずからの陵墓 ・ 昭陵にともなったとされている。

写真上) 王 羲之と 『 蘭亭序 』 への愛着さめやらぬ太宗は、ついにみずからの柩に 『 蘭亭序 』 はもちろん、生涯をつうじて収集した王 羲之の書幅のすべてを副葬させるにいたった。
太宗の陵墓は 西安市郊外、九嵕山 キュウソウサンにある 「 昭陵  ショウリョウ」 である。

この陵墓は五代、後梁のとき(10世紀初頭)、盗賊あがりの武将 ・ 温韜 オントウが墓室をあばいたとする説もあるが、真偽のほどは定かでなく、いまだ未盗掘とされている。
昭陵は近年整備されて、巨大な石像もできた。 この巨大な皇帝陵のいずこかに 『 蘭亭序 』 をはじめとする王 羲之の真筆作品は、李 世明の遺骸のかたわらに置かれているとされる。

写真下)  昭陵 『 玄武門 』 跡地にて。
番犬のつもりでいるのか、一匹のちいさな犬がつきまとって離れなかった。 やつがれは、ただ [ 李 世明は、こんな山中に、なぜこれほどまでに巨大な陵墓をきづいたのか…… ] という感慨にとらわれていた。 また太宗 ・ 李 世明の墓碑はアメリカにあるともきいた。
初秋の山稜を吹き抜ける風は爽やかだった。 いずれ詳細紹介の機会を得たい。
2011年09月。

★参考:新・文字百景*004  顔 真卿生誕1300年+王羲之

また、三国のころ、魏国の曹操によって薄葬がすすめられ、立碑が禁じられていたので、東晋のこのころの王羲之には碑文も現存しない。ただし臨模による 『 蘭亭序 』 『 楽毅論 』 『 十七帖 』 などの模作がある。

伝 ・ 王  羲 之  肖像画

王 羲之と顔 真卿に関しては、いずれ詳細報告の機会を得たい。 今回は王羲之の旧居跡とされるまちの風景の紹介にとどめたい。
魯迅故里から紹興の大通り 「 中興中路 」 を車ですこし走ると、東晋の時代、王 羲之の別業 ( 別荘 ) であったとされる 「 戒珠寺 」 がある。
このあたりは風致地区として、ふるい中国のまちなみがのこされている。 またすぐ近くには、墨池、題扇橋などの、王 羲之ゆかりの場所ものこされている。

台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寶シンポウ 諸事大吉 文と寓意

台湾みやげ《開運臻寶 諸事大吉》
柿+ミカン+豚の組み合わせは、
なぜ 縁起がよいのか?

◎本稿は2012年10月18日 アダナ・プレス倶楽部ニュースに
    掲載されたものの再録である。いささか旧聞に属するが
  お正月をことほぎ、ここに一部を修整して再掲載した。
────

台湾旅行にでかけて、おみやげに「諸事大吉」とあった縁起物を買ったものの、もうひとつその縁起がわからないから、わかりやすく説明せよ……との要望が参加者からあった。
そもそも中国・台湾では、まま  文+字 をもちいて、あるいは、ほかのものごとにかこつけて、それとなくある意味をほのめかせる「寓意」を駆使するから困るのだ。
そしてそれをくわしく説明すると「シッタカ」と揶揄される。ナラバと、おもいきり平易に説明すると「ウザイ」とされるから嫌になるのだが……。

これは一見ハロウィンのカボチャのようにもみえるが、柿+ミカン(だいだい、橘)+豚(猪)を組み合わせたもので、正確には「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」と呼ばれ、幸運をもたらす縁起物とされる。
すなわち「運勢がひらけ、宝物がどんどんやってくる。すべてのものごとが、このうえもなく良くなる」という、きわめておめでたいものである。 

「諸事大吉」の販促カタログをみると、ふんだんに商品解説が加えられている。その解説がおもしろい。原文の字面をながめるだけでも(むしろ原文のままのほうが)この縁起物の、寓意と諧謔 ユーモア がつたわりそうなのでここに紹介しよう。

◎ 創新的思維加上古老的吉祥語意再融合藝術大師的手藝便造就了令人驚奇不已的逗趣可愛吉祥外型。
◎ 橘子象徵吉祥,笑開懷的圓滾滾【諸事大吉】更象徵著凡事皆歡喜,諸事皆圓滿,大吉又大利,諸事皆順利。
◎ 逗趣可愛外型,象徵極好之諸事大吉。
◎ 笑顏常開諸事皆歡喜,諸事皆圓滿。


    
   

これだけでは不満そうなので、チョイと面倒でいつも嫌われるだが、もうすこしくわしく、写真の子豚ちゃんが寓意するところを解いてみた。
参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月)

 【 柿 】
漢字音(中国読み)では、柿(Shih4)と、事(Shih4)は同音同声である。
したがって、ふたつ並んだ柿は「柿 柿」となって、多くのものごと「事 事 ≒ 諸事・百事・万事」をあらわす。
また唐の段成式は『酉陽雑俎』のなかで、柿には以下のような ななつの徳があるとのべている。
   1.壽がある
   2.多陰→夏に葉が茂り日陰を提供する
   3.鳥が巣をかけない
   4.蟲が寄りつかない 
   5.秋の霜に負けない(翫) 
   6.嘉実≒縁起のよい果物
   7.落葉肥大→落ち葉が大量で、よい肥料となる
このように柿とはもともと、雅ミヤビであり、俗でもあるが、まことに賞賛すべき果物である。

また、「獅」(Shih1)と、「柿・事」(Shih4)とは同音異声である。
すなわち「柿 柿」は、ここに「百獣の王たる 獅 子」をも寓意する。
これすなわち「諸事如意 ≒ すべてが意のごとくになる」のである。

 【ミカン → 橘】
中国・台湾では、ミカン、だいだいのことを、ふつう 橘 とあらわす。
ところで、おおきな橘 = 大橘(Ta4 Chu2)と、大吉(Ta4 Chi2)は音が相似ている。
すなわち、おおきなミカン=大橘は、幸福をもたらす大吉に相通じ、きわめて吉祥をあらわす。

 【豚 ≒ 猪】
中国・台湾では、ふつう豚は猪とあらわされる。その猪がなぜ珍重されるのかは、中国的形而上学がふんだんに織り込まれていて興味深い。
すなわち中国高級官僚登用試験「科挙」の成績上位者 3 名を「解元・会元・状元」の 大三元 と呼び、唐代には玄奘三蔵(ゲンジョウ-サンゾウ 三蔵法師 600?, 602?-664)ゆかりの西安・大慈恩寺の雁塔ガントウにその名を刻し、ひろく天下に公表された。それを「雁塔題名、金榜題名」と呼び、きわめて名誉なこととされた。

ところで豚の「蹄 ヒヅメ」と、「雁塔題名、金榜題名」の「題」とは、中国音ではともに「Ti2」とされ、同音同声である。
こうして猪=豚は、秀才・天才をあらわすこととなり、名誉なこととされる。
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このようにして「開運臻寶シンポウ 諸事大吉」、すなわち「柿+ミカン+豚の組み合わせ」は、「可愛吉祥型であり、諸事に大吉をもたらし、諸事皆円満」となるのである。

さて……、これでご納得いただけたであろうか。
あれっ、どこからか、こんな蘊蓄ウンチクを聞かされるより、この愛らしい置物をみてるだけで幸せになれる、という声がきこえたような?

《もうひとつ、おまけ ── ホテルのキーホルダーの寓意》
今回の台湾旅行でのホテルは、皆さんとプチ贅沢して「圓山エンザン大飯店 Grand Hotel Taipei」に宿泊した。見た目は巨大な中国式の宮殿のようだが、街中の近代的なホテルとくらべても、ほとんど料金は変わらない。
かつて「圓山大飯店」は迎賓館としてつかわれ、台北第一の格式を誇ったホテルだった。それだけに近代ホテルでは味わえない、漢民族の歴史と伝統の重みを感じさせる重厚さがある。
それでも「圓山大飯店」は郊外の山の中腹にあって、交通はすこしく不便である。したがってこのホテルが選ばれたのは、いまの台湾は喫煙にとてもうるさく、かろうじてベランダでの喫煙が許される(黙認)のが、ここが選ばれた最大の理由だった。

ホテルのルームキーは、古風で、重量もかなりあるシロモノだった。これでは外出時にもちあるくのは辛いので、フロントにキー・ドロップすることになり、紛失も少なくなる効果もありそうだ。
このルームキーの形態は、中国春秋戦国時代(前 770-前 221)のころの貨幣「布貨 フカ」を模したものである。「布貨」は農機具のスキやクワに似せ、次次と勃興した春秋戦国時代の各国で、それぞれ意匠をこらしてつくられた。

古来農業国であった中国では、農具はたいせつな財産であり、その農具を模した青銅の貨幣を「布貨」と呼んでいた。その由来はやはり貴重な商品であった「布帛  フハク 織物・絹」とどこでも交換されたので、その名がうまれたとされる。

こうした縁起をもった「布貨」を模したカギの表面には、このホテルの名称「圓山」を巧妙にデザインした意匠がみられる。
また「布貨」の裏面には、篆書風の字による「財」が配され、富貴をねがう国民性をすなおにあらわしている。
文+字 の国とするゆえんである。
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アダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生有志の皆さんが、2012年10月6-8日、体育の日の連休を利用して、2泊3日の強行軍で台湾旅行に出かけた。
台湾での初日、活版製造所「日星鋳字行」での真摯なタイポグラフィ学徒の皆さんの紹介と、翌日からの休暇を、故宮博物院観覧と、まち歩きをめいっぱい楽しまれたときの詳細記録は、朗文堂の『タイポグラフィ・ブログロール  花筏』において順次紹介の予定である。こちらも合わせてご覧いただきたい。
★タイポグラフィブログロール 花筏 朗文堂好日録-019 

朗文堂-好日録023 気がつけばカレンダーが1枚だけ!

《2012年11月15日 GK デザイングループ  創立60周年祝賀会》
秋晴れの15日[木]、「GK デザイングループ 創立60周年祝賀会」に出かけた。会場は椿山荘。招待客は600名余におよび、グループ各社の社員も加わって、さしもの椿山荘の大ホールも人混みでいぱいだった。

GK デザイングループは 1952年、戦後の荒廃の中から、ふるい工芸にかえ、生活の復元と進展を求めて、インダストリアルデザインを中心に創立された。
代表を  栄久庵憲司氏  として、東京藝術大学出身者を中心とした Group of Koike = GK として出発したのを最初とする。

会場にはGKデザイングループ最初期の作品である、ヤマハ発動機 YA-1 と キッコーマン卓上醤油瓶などが展示され、同社の60年にわたる数数のデザイン製品群が、いまなお鮮度を失わないことにあらためて驚いた。
記念品にお饅頭をいただいた。お祝いの大福かとおもったが、カットすると意外な趣向がかくされていて、鮮やかな紅白の紋様があらわれた。
栄久庵さんもお元気だったし、心のこもった、すばらしい祝賀会だった。

《2012年11月18日[日] 新宿御苑遊歩道を散歩》
すぐ近く、あるいて 2 分とかからないところに新宿御苑正門がある。ところが燈台もと暗しというか、あまりに近きが故に、めったに訪れることがないのが新宿御苑でもある。
イチョウの黄葉が見事なので、外周路ともいえる遊歩道に出かけた。有料の苑内にはいると、なにかと規制(芝生立ち入り禁止、禁酒・禁煙 ! )が煩わしいが、遊歩道には最近、ちいさなせせらぎがもうけられ、また無料で解放されていて、散歩にはとても良い環境になった。

平日の昼間でも、ウォーキングにいそしむ高齢者や、ちいさな犬をつれた近在のひとがゆったりと歩いている。ようやく樹木も成長して、良い環境がもどってきた。これならわざわざ遠出して、人混みにもなれながら「もみじ狩り」になどにいく必要がなさそうである。

遊歩道にはギンナンの実がたくさん落ちていた。
10年ほど前まで、この季節になると、酒好きの某編集者が、袋いっぱいのギンナンの実をひろってきて、帰りがけに来社して自慢していた。左党のかれは晩酌のつまみにギンナンを煎ったものは好適だといっていた。
いまはそうしたひとも減ったとみえて、ギンナンの実は踏まれるままになって、独特の異臭をはなっていた。
そんな小径を歩きながら、最近うわさもきかなくなった、いいささか酒乱の某氏をおもった。

《2012年12月08日[日] 神田神保町の咸亨酒店に行く》
家人が週末に書芸塾に通っているので、神保町三省堂本店で待ち合わせ。
会社のすぐ近くにあった「あおい書店」が閉鎖され、三越百貨店のあとにできた「ジュンク堂書店」も移転したので、気軽に書物を買える書店がちかくに無くて不便である。
だから神保町まででかけた。そこで北原謙三『岳飛伝』ほか数冊の書物を購入し、塾帰りの家人と落ち合って、近くの「咸亨 カンキョウ 酒店」で夕食。

同名の中国料理店「咸亨 カンキョウ 酒店」は紹興酒(黄酒)の提供で知られ、また魯迅が好んだ酒店として著名である。たまたま今年の7月に、本場の中国・紹興の魯迅の旧居近くの「咸亨 カンキョウ 酒店」をたずねたことがあった。
このときは、水にあたって腹具合がわるく、またドライバーの潘 偉飛さんにすすめられて、おそるおそる食した「臭豆腐」にまいったが、すべての料理がいたくおいしかったことは覚えていた。
その店を模した、雰囲気の良さそうな中国料理店が、書芸塾の近くにあるので行ってみようと誘われて、三省堂からは幾分距離があったのでブツクサいいながら歩いた。

イヤァ、チョイとやつがれ驚いた。旨かった。本場の「咸亨酒店」と較べても遜色がなかった。
上掲写真右側の料理は、蘇東坡の考案によるとされ、家人の大好物「杭州名物 東坡肉 トンボーロー」を模し、寧波家庭料理風に仕立てた豚の旨煮料理である。写真を撮るのも忘れて半分食べてからの撮影で、妙なものとなっているが、ともかく旨かった。
若者の掲示板などでも「咸亨酒店」はそこそこの評価を得ているようである。

ただ、神田神保町の「咸亨酒店」は紹興というより、そこからほど近い港町、寧波(ネイハ、ニンボー、波を寧ヤスんずる)料理であった。また本格的な中国料理(値段はさほど高くなかったが)を楽しむには、4-5人で出かけて、いろいろな料理を楽しむのがコツである。ふたりだけでは3皿もとったら満腹になってしまう。

紹興の「咸亨酒店」、そして蘇東坡、王羲之などのことを『花筏 朗文堂-好日録 016』にしるした。当時の写真を探して、さらにこれらの書芸家と料理に迫ってみたい。
なにやら料理がメーンになりつつある『花筏』の昨今。それでも若者にかこまれて、十分タイポグラフィ漬けの毎日ではある。──つまりこの項目は書きかけである。

朗文堂-好日録022 吉田佳広 水彩画展を観覧

《2012年11月05日 吉田佳広 水彩画展 の観覧に出かけた》
11月05日は月曜日だったが、吉田佳広さんの水彩画個展 のオープニングだった。
もとから出不精のせいもあり、会社にきてからスケジュールを確認した。オープニングのことはうっかり忘れていたし、ひどく寒かったので、ひどい身なりで出社していた。
したがってオープニング・パーティーに出かけるのには、およそふさわしくない不格好だったが、久しぶりに吉田佳広さんにお会いできるならと、失礼を顧みず代代木駅前の会場にかけつけた。

さほど広い会場ではなかったが「風景からの手紙」と題されたように、各地をたずね歩き、その風景を、繊細かつ瀟洒に、愛情をもって描いた水彩画で溢れていた。
会場には主催者の吉田佳広さんをはじめ、多くの先輩・知人がいた。中には数年ぶりにお会いできたタイポグラファもいて、うれしくも、なごやかなパーティであった。

やつがれ、この歳ともなれば、たいていの人や物には驚かないし、怖くはないが、この吉田佳広さんというひとには、ともかく〔ヨワイ〕のである。
いや、もうひとかたいらした……。こちらは吉田市郎さんである。
両吉田さんと、やつがれの 3 人は、ふしぎなことに、皆がひとまわりずつ異なる酉トリ年のうまれである。そのせいか波長は合うが、おふたかたとも大先輩だけに、ともかく〔ヨワイ〕のである。
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◎ 吉田市郎 Yoshida Ichiro   1921年(大正10)酉年うまれ
吉田市郎 さんは、欧文活字の雄とされた「晃文堂株式会社」の創業者。
また時代の変化をいちはやく読み切り、大胆に写真植字機と写植文字板製造に踏みきって「リョービ印刷機販売 → リョービイマジクス」を設立されたひとである。

デジタル時代が到来すると、これまた大胆な取り組みをみせ、自社書体をいちはやくデジタル化したばかりでなく、財団法人日本規格協会文字フォント開発普及センターの委嘱をうけ、平成書体シリーズの中核をなす「平成明朝」をリョービグループを叱咤激励して納期内に製作させた。文字どおり戦後日本のタイポグラフィの開拓者のおひとりであった。

社長 ≒ タイプディレクターとして吉田市郎さんがのこされた書体は、膨大な欧文活字書体をはじめ、故杉本幸治氏を起用して製作した「晃文堂明朝・本明朝シリーズ」、血縁の関係で藤田活版から原字資料の提供を受け、社内スタッフを中心に改刻を加えながら製作した「晃文堂ゴシックシリーズ」、水井正氏・味岡伸太郎氏と、タイプバンクの協力で製作した「ナウ・シーズ」・「味岡伸太郎かなファミリー」など、枚挙にいとまがないほどである。

吉田市郎 1921年(大正10)新潟県柏崎市出身。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。戦時召集解除ののち 1947 年神田鍛冶町に欧文活字の専門店「晃文堂有限会社 → 晃文堂株式会社」を創立。のちにリョービ・グループのいち企業「リョービ印刷機販売株式会社 → リョービイマジクス株式会社」社長となり、同社会長職をもって退任して現在にいたる。酉年うまれ。
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◎ 吉田佳広  Yoshida Yoshihiro   1933年(昭和08)酉年うまれ
長崎県長崎市出身。中央大学法学部卒。高橋正人デザイン研究所修了。1966年吉田佳広デザイン研究室設立、1996年有限会社ヨシダデザインオフィスに改組。ACC殿堂入り。ADC賞、電通賞、ACC賞など受賞。著作『ベストレタリング』など多数。日本グラフィックデザイナー協会所属。

吉田佳広さんは、朗文堂からも 2 冊の著作を発表された。
『文字の絵本 風の又三郎』(吉田佳広、1984年01月、品切れ)
『マップ紀行 おくのほそ道』(吉田佳広、1985年03月、品切れ)

吉田佳広さんは、かつては日本タイポグラフィ協会に所属し、同協会内にタイポグラフィのユニット「タイポアイ」を結成し「暮らしの中に文字を」を主張して長年にわたって活動をつづけた。また、ここ数年熱心にとり組んでいる「地球はともだち チャリティー・カレンダー展」の中心メンバーとして出展・活動されるほどの壮健さである。
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そしてやつがれが、1945年(昭和20)酉年うまれとなる次第。
吉田佳広さんにお会いするのはほぼ 2 年ぶりだった。この間に吉田さんは少少体調を崩されたが完全復調された。
「いやぁ~、歳くったら髪がうすくなっちゃってさぁ。だから帽子かぶってんだよ。ガハハ」
いつもの調子で笑いとばした。お得な性格である。
隣にいた「タイポアイ」の同志、中島安貴輝  さんは複雑な表情をされていたけど……。