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朗文堂-好日録021 日藝 タイポグラフィ セミナー

       

日本大学藝術学部デザイン学科 特別講義

Typography Seminar
Helmut Schmid
Jiro Katashio
Akiteru Nakajima
2012年10月27日[土] 14:00-17:50
展示/デザイン・プレゼンテーションルーム
講演/日本大学藝術学部 江古田校舎 西棟B1
企画・進行/細谷 誠専任講師

                              [告知ポスター Design : 日大藝術学部デザイン学科 細谷 誠専任講師]

《日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 前夜祭?》
爽やかな秋の毎日がつづいた。この時期は、梨、葡萄、柿とおいしい果物がたわわにみのり、食欲も意欲も増進するまいにちであった。まさしく食欲の秋である。
イベントもかさなり、ふだんからとことん出不精をきめこんでいるやつがれも、いやいやながら、なにかとかり出される季節でもある。
2012年10月27日、日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar が開催された。
第一報として《朗文堂 NEWS》には報告したが、ここでは気軽な内輪ばなしを中心に皆さまにご紹介しよう。

その前日、10月26日[金]には タイポグラフィ学会 月例定例会が夕刻から開催されていた。議題がほぼ終了し、雑談に移りかけていた 22 時ころ、翌日の講演会に備えて、南新宿のホテルに宿泊しているはずのヘルムート・シュミット氏が、突如タイポグラフィ学会定例会の会場に登場した。しかも桑沢デザイン研究所非常勤講師/阿部宏史さんと、その学生さんら数名と一緒の来訪であった。

たちまち狭い部屋は交流・懇親の会場に変貌し、シュミット氏お気に入りの赤ワイン「ラクリマ・クリスティー デル・ヴェスーヴィオ・ロッソ」 は店が閉まっていて買えなかったが、久しぶりの再開を祝して「とりあえずビール」での乾杯!
学生諸君は早めに引きあげたが、部屋の熱気はますばかり。熱いタイポグラフィ議論があちこちで交わされていた。

あ~あ、明日はシュミット氏もやつがれも、日藝講演会での講師だというのになぁ……。
結局皆さんはほぼ終電での帰宅。シュミット氏は酔い覚ましをかねて、新宿南口のホテルまでブラブラ歩きでひきあげられたのは、夜もだいぶ更けてからのことであった。
それにしても、年寄り モトイ 年輩者のほうが元気いっぱいなのはなぜだろう……。ト ふとおもう。


《 2012年10月27日、日大藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 本番》
この日藝 Typography Seminar の企画・展示・進行は、同大の細谷 誠専任講師。
細谷 誠専任講師 は、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)アートアンド・メディア・ラボ科の学生だったころに、シュミット氏の『バーゼルへの道』(朗文堂、1997年6月初版、品切れ中、増刷予定あり)を購読されて大きな感銘をうけ、デザインの道へ本格的にすすむ決意をされたそうである。

お世辞半分としてもうれしいはなしであるが、その反面、版元としては襟を正さなければという責任をひしひしと感じさせられた。
『バーゼルへの道』は第一刷り、第二刷りと版をかさねたが、現在は残念ながら品切れ中である。いずれ機会をみて第三刷りにとりくみたいところである。

特別講義の講師は、中島安貴輝主任教授と、ゲストとして、中島さんと年代がちかく、長年にわたって親好がふかい(悪友 !?)関係だった、ヘルムート・シュミットさん、片塩二朗の 3 名。各講師30 分の持ち時間で講演のあと、トークセッションにはいる。

      

Typography Seminar は、展示会と特別講義・トークセッションで構成されていた。
展示会は、中島安貴輝主任教授の長年にわたるデザイン活動と、デザイン教育を綴り、それを記録・展示し、次代のデザインを背負う学生の皆さんと、あらたな方向性を模索するという、とても意欲に富んだ、内容の濃いテーマであった。

トークセッションでの招聘講師となった、シュミット氏とやつがれは、さしずめ刺身のツマといったところかな……。

『Picto Graphics 1, 2, 3 』(中島安貴輝、朗文堂、1988年11月刊、品切れ)
まだ IT  環境が未整備な1980年代後半には、おもに紙焼きカメラで図版を拡大・縮小して使用していた。そのため片面刷り裏白で複写に備え、ペラ丁合で一冊一冊 3 分冊の図版集をつくった。中島安貴輝氏畢生の大作であり、使用権つきの意欲的なピクトグラム作品集だった(品切れ)。

中島安貴輝主任教授 は、東京オリンピックの準備期間中には、まだ日藝の学生であった。それでもそのころから、勝美勝先生の門下生として「青年将校」のようなかたちで、東京オリンピックの広報部門に関わったという経験を持つ。まだグラフィックデザインの夜明け前であり、それだけにのどかで可能性の大きな時代であった。

その体験をもとに、のちに沖縄海洋博覧会のデザインディレクターとして活躍された。そのことを、別会場で開催されている展示会の作品をもとに丹念に事例報告され、
「デザインも、アソビも、めいっぱい」
と学生諸君を激励されていた。

《2012年10月27日、日藝デザイン学科 Typography Seminar トークセッション》
ヘルムート・シュミットさんは、いったん入学したスイスのバーゼル工藝学校での体験から、本格的なタイポグラファになろうと決意し、欧州各国での活版印刷所で「Compositor 植字工」として、数年、実地体験としての修行をし、ついにふたたび念願のバーゼルで、エミル・ルーダー氏の特別教育を受けるにいたった経緯を詳細に述べられた。
そして定員 3 名だけのちいさなタイポグラフィ夜間私塾、ルーダー氏のタイポグラフィ教育内容を、大量の写真データとともに紹介された。そして長年とり組んでいる「typographic reflection」シリーズの製作意図と、将来展開までをかたられた。
通訳にあたられたのは愛妻・スミさんであった。

写真上) パソコン映像だけでは物足りなくなり、立ち上がって説明するシュミット氏。
写真中) シュミット氏は愛用の「Composing Stick 組版ステッキ」を携え、各地の活版印刷会社で「Compositor 植字工」としての修行をかさね、そこの「Meister 親方」から技術認定の修了証明書にシグネチュア(サイン)をもらってあるくという、厳しい修行の旅であったという。
写真下) 憧れのルーダー氏のもとで学ぶことができた、充実の日日の若きシュミット氏(左)。

《予告!『japan, japanese』 著者講演会》


ここについでながらしるしておきたい。ヘルムート・シュミット氏の『japan japanese』 の著者講演会を、来春 3 月に、朗文堂主催での開催を予定している。その打ち合わせのために、シュミットデザイン事務所と@メールのやりとりが盛んないまでもある。
詳細はあらためて新春にお知らせしたい。
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「Typography Seminar」は、日大藝術学部の授業の一環であったが、外部からの参加も自由ということで、わずかに朗文堂社内に A3 判告知ポスターを出力して掲示しておいた。
そのために、新宿私塾塾生と、修了生がたくさん押しかけて、講義室は溢れんばかりの盛況となった。中島先生、細谷先生にはもろもろご迷惑をおかけすることとなった。ここにお詫びを申しあげたい。

あらためておどろいたが、新宿私塾の塾生には、日大藝術学部のデザイン科だけでなく、写真科、建築科、それに日大農学部などの学生・卒業生もたくさん在籍していた。そんなかれらが、全面改装がなった母校をみることを口実に、大挙して講演会に押しかけたようである。

トークセッションの終了後、長時間の禁煙強制にたまりかねた愛煙家有志?!  3 名が喫煙所の傍らで、携帯灰皿を片手におおわらわで吸煙開始。そこへシュミット氏が通りがかり、
「ミナサン、ナニヲ  シテイル ノ デスカ ?」
ヤレヤレ、中学生でもあるまいし、みっともない姿をパチリとやられてしまったという次第。
[モノクロ調写真提供:木村雅彦氏]

   

朗文堂ー好日録020 故郷忘じ難く候



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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《唐突に妹から架電 ── 雪の降る前に、ふるさと飯山にいかない …… 》
11月03日は文化の日で土曜日だった。前日に突然妹から架電があり、
「もうすぐ雪が降るから、あした、おばあちゃん(おふくろ)のお見舞いにいかない?」
昨春に兄貴が長逝し、なんとなく疎遠になっていたふるさとであった。ところが信州・長野の郷里には、100 歳を超えたおふくろが老人施設の世話になっていた。そのもろもろの世話を、血脈からいえば他人ともいえる兄嫁に押しつけていることが心苦しかった。

アニキ、やつがれ、妹は、三人兄弟として、千曲川にそった信州の北西のはずれ、豪雪地帯でなる 北信濃 飯山 でうまれそだった。アニキはいやいやオヤジの跡をついで開業医になったが、昨春にスキルス性胃がんでなくなった。次男坊がらすのやつがれと、薬剤師の妹は、気ままに郷里をはなれて東京にでていた。

ここのところ数年、3月と11月は一年のうちで、もっとも多忙な月である。なにかとイベントがかさなり、年度末対応・新年度対策や、年末年始進行を意識し、年賀状やクリスマス・カードの想を練るのも11月のことである。
だから往復 600 キロほどの長距離ドライブとなるが、日帰りの旅として、妹の亭主が運転する車に乗せてもらった。
旅の同行者は、はじめてやつがれの郷里をみることになったノー学部。
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関東平野から山河の邦・信州にはいる道はさまざまにあるが、妹夫婦は、はじめて飯山をたづねるノー学部のために、風景の単調な高速道路一本やりではなく、この時期ならではの、紅葉のきれいな草津・志賀高原ルートを予定してくれていた。

この道は2級国道292号線で、近年にできた高速道路にくらべると、山坂は急峻でカーブ箇所も多いが、群馬県草津温泉から、コバルトブルーで輝く白根山の火口をみて、長野県北部への直行ルートとなる。
群馬県側ののぼりには、伊香保温泉草津温泉などの名だたる名湯がある。また近年建設の続行が話題となった「八ッ場ダム ヤンバ・ダム」の工事現場も経由する。この工事のおかげで、すでに自然はずいぶん破壊されていたが、道路は格段によくなっていた。むずかしいものだ。
また 志賀高原 をへて信州側へのくだり坂には、高原一帯に大小さまざまな山の湖が点在し、そこに照り映えるナナカマドやダケカンバの紅葉は、たとえようもない見事さのはずであった。
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早朝 6 時半、調布駅前で妹夫婦と合流してそのまま出発。関越自動車道から分岐して、北陸自動車道をほんのすこし走って、渋川・伊香保で高速道路をおりて一般道にはいった。道は次第に狭隘となり、急峻な坂道がつづく。やがて道は軽井沢と草津温泉への分岐点となる。そこを草津温泉側に右におれて、国道292号線、いわゆる志賀・草津ルートにはいる。

この道は国道の中では日本一標高の高いところを通る道路でもある。国道最高地点の標高は 2,172メートルであり、上野コウズケ-ノ国・上州/群馬県と、信濃シナノ-ノ国・信州/長野県とをへだてる 渋峠 のちかくにある。その場所には「日本国道最高地点」の碑が建てられている。
かつては有料道路で快適なドライブを楽しめる道であったが、最近は無料で解放されている。だから時節柄「もみじ狩り」とおぼしき家族連れの車輌も、前後にたくさん連なっていた。

ところが……、草津温泉街をすぎてしばらくいくと、突然車止めがあって、係員に制止された。
「ここから先は、昨夜の降雪が凍結していて危険です。すべての車輌が通行止めです」
嫌も応もなかった。すべての車はそこからUターンを余儀なくされた。再確認すると、2012年11月03日、まだ降雪には早すぎる、秋分の日のできごとだった。
残暑のきびしいことしだったが、このときは意外にはやく降雪があったようである。いずれにせよ国道292号線は2012年11月15日-2013年4月25日まで本格的な冬期閉鎖期間となっている。

急遽予定を変更して、嬬恋村 ツマゴイムラ から 菅平高原 をへて、信州・須坂におりる一般国道に変更した。こちらには2,000メートルをこえるような高度はないが、菅平高原から須坂への最後の下り坂は急峻で、かなりのベンチャールートとなる。

草津・志賀高原ルートをあきらめ、群馬県側の嬬恋村 ツマゴイムラ をへて、県境の鳥居峠に辿りつく。そこで小休止して長野県側の菅平高原にはいる。最後の下り坂は、かつては山崩れがたびたびあって難所のひとつだったが、随分と道は整備されていた。
ようやく信濃の国、信州飯山市にたどりついたのは、すでに昼下がりのころであった。

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《 飯山は、日本のふるさと …… 》

ところで、南国の四国や九州出身のひとでも「ふるさと」というと、藁屋根に雪がこんこんと降りつもり、あといくつ寝るとお正月になるのかを、炬燵にあたって、ミカンを食べながらかぞえる情景をおもいうかべるらしい。そして春の小川には、どじょっこや、鮒っこが泳ぎまわるらしい……。
それはまさに、信州信濃の山奥の、ここ飯山の情景であることをおおくのひとは知らないでいる。

飯山市・信州中野市・木島平村の境ににそびえる休火山「たかやしろ 高社山 コウシャサン、別称・高井富士」。右のうしろがわには溶岩流が流れた美しい山裾がみられる。ここから4キロほど上流の旧飯山町内からは、左側の主峰はかくされて、右端の支峰だけが、まるでシルクハットを伏せたようにみられる。たかやしろは、飯山では東を指ししめす絶好のランドマークとなっている。

信州・いいやまは、日本の ふるさと とされる……。つまり典型的な田舎の風情がある。

ノー学部は、こういう阿呆なシロモノをどこにいってもいちはやく発見する。そしてこんな噴飯ものの呆けたおこないが好きである。やつがれはもうやけくそで「ヘソ丸出し、莫迦丸出し」の愚行に加えられる(撮影:鈴木 齊)。

老人施設に100歳超えのおふくろを見舞う。娘時代までの記憶はあるがおおかたの記憶はない。妹(娘)に「お名前は?」と聞かれると「藤巻のり(旧姓)」と応えるおおらかさである。やつがれ同様おふくろの眉毛もぶっといことを再確認した。それでもやつがれより元気なのではないかとおもえる壮健さが救いである。旅の主目的をここに達成。

おぼろ  月  夜

  菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば、
  夕月かかりて、にほひ淡し

     二
     里わの火影ホカゲも 森の色も
     田中の小路を たどる人も
     蛙カワズのなくねも かねの音も
     さながら霞める 朧月夜

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小学唱歌『朧月夜 オボロ-ヅキヨ』 
作詞:高野 辰之 (明治09年4月13日-昭和22年01月25日)
作曲:岡野  貞一 (明治11年2月16日-昭和16年12月29日)
昭和08年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』
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《高野辰之タツユキさんのこと と 高野辰之記念館 》
高野辰之さんの生家は、旧飯山藩藩領、長野県下水内郡豊田村のかなりゆたかな農家であった。
やつがれの生家は、豊田村から秋津村をはさんで、千曲川にそったもうひとつ下流で、東に千曲川、西には新潟県との県境につらなる山山にはさまれた下水内郡飯山町  → 現  飯山市である。

高野さんは、飯山中学(現飯山北高)、長野師範学校(現信州大学教育学部)卒。飯山町で教員生活をしたのち、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授となり、在京時代は代代木駅前に居住していた。その代代木の木造の旧居には、3年ほど前まで記念柱があって保存されていた。
老境にいたり、郷里にちかい長野県上高井郡野沢温泉村の湯源の麻釜のちかくに陋屋をもとめ、それを「対雲山荘」と名づけて移住して、ここで老境をすごして永眠された。
現在野沢温泉には、遺著や遺作を収蔵する《おぼろ月夜の館 斑山ハンザン文庫》がのこされている。

高野辰之さんと、やつがれの母方の祖父/藤巻 一二 イチジ、その弟で大叔父/藤巻幸造は、旧制飯山中学の同窓で、よほど昵懇だったらしい。
またオヤジの郷里も長野県下高井郡野沢温泉村大字坪山のちいさな農家であり、また、飯山中学の後輩でもあった。だからしばしば大叔父/藤巻幸造や、父母に連れられて、野沢温泉の高野家隠居所「対雲山荘」を訪問した。昨年逝ったアニキは、高野さんに抱かれたことを覚えており、その写真も実家にある。
やつがれも抱かれたらしいが、なにぶん乳児のころとて記憶にない。わずかに「温泉のおばあちゃん」と呼んでいた高野未亡人に、おおきな温泉風呂にいれてもらったり、氷水やマクワウリをご馳走になったことをおぼろに覚えているくらいである。
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猪瀬直樹『唱歌誕生  ふるさとを創った男』(小学館、2008年08月)がある。
主人公は高野辰之さんと、真宗寺 元住職 井上円光氏。この浄土真宗西本願寺派・安養山 真宗寺の元住職は、1902-14(明治35-大正03)の頃、ここ草深い信州から旅だって「大谷探検隊」の一員として、敦煌莫高窟の調査にあたった奇特なひとである。

この真宗寺はふるく、島崎藤村の小説『破戒』の主人公・瀬川丑松の下宿先として描かれた寺でもある。『破戒』のなかでは真宗寺は蓮華寺とされているが、地元では蓮華寺=真宗寺であることは周知のことである。しかしながら島崎藤村の描写の一部に問題があるとして、真宗寺23世住職・井上寂英は激怒して、高野辰之氏までまきこんで、
「島崎藤村は仏法の敵である。藤村には二度と信州の敷居をまたがせない」
とまで怒ったと伝えられていた。
そこで地元の教育委員会が中心となって、真宗寺と島崎家の和解をはかり、1965年にようやく和解がなり、いまではご本堂右手に《破戒の碑》が建立されている。

真宗寺には、このほかにもおもしろい逸話がたくさんのこっている。
1868年(慶応4)幕末の戊辰戦争に際して、徳川幕府派の越後高田藩士/古屋作左兵衛門ら衝鋒隊 ショウホウタイ 隊士600名余が飯山城下に結集し、この上町 カンマチ(現 南町) 真宗寺を本陣としてたてこもったことがあった。

ときの飯山藩は親幕府派ともいえた存在だったようであるが、なにぶん藩兵150名たらずの小藩でもあり、心底困惑し、城をかたく閉ざして模様みをきめこんだらしい。ところが城下の住民は衝鋒隊に物心ともに助力することが盛んで、真宗寺の本陣に駆けつけて気勢をあげたりしたので、藩名をもって沈静を命じていた。

その鎮圧のため新政府軍として松代藩兵ら2,000余名が、千曲川右岸(東岸)の木島平に布陣し、時間的にはほんの少少の抵抗で、武力におとる幕府派衝鋒隊は鎮圧されたとされている。
その際飯山城下はおもに衝鋒隊による放火で炎上し、中町・肴町・愛宕町・神明町など、城下の山側半分を焼失した。俗にいう「幕末 飯山戦争」である。

「幕末 飯山戦争」に際して、飯山藩は局外中立をたもったとはいいながら、その大手門付近でも交戦があり、親幕府派のものか、新政府軍派のものかはわからないが、大手門の柱にはいくつもの刀傷や弾痕をのこしていた。
このかつての飯山城大手門はちいさなものではあるが、現在は長野市の信叟寺(長野市大字金箱 禅宗 万松山信叟寺)の山門としてのこされている。

そもそも 飯山藩 なぞ、北信濃4郡を支配した3-5万石そこそこの小大名にすぎず、城というのも哀れなほど、ささやかな小山を根拠地にしたにすぎない。
それでも飯山の住民は、いまでもひそかに、戊辰の戦争に際して、越後・長岡藩や陸奥・会津藩などの雄藩と同様に、小藩ながら孤軍奮闘、中央権力に抵抗したことを誇りとする異風がある。

変わり者、頑固者が多いのが飯山の特長とされる。「〇〇居士」を名乗るほうもたいがいだが、それを墓石に刻むことを許す寺も随分と鷹揚かも知れない。ふつうは整備されているがこのときはケヤキの大木の落葉が積もっていた。右奥の黒い小さな御影石が、やつがれの生家の墓標。

現在の真宗寺の住職は、26世・井上孝雄コウユウ氏である。このひとはやつがれより4-5歳年上で、かつては「孝雄 タカオ ちゃん」と呼ばれて、弟の「孝栄 コウエイ ちゃん」ともども、やつがれらと、大公孫樹イチョウによじのぼったり、ケヤキの大木に足場をこしらえて隠れ家をつくったりと、なかなかのやんちゃであった。

ところで、浄土真宗では、読経のあとに「お説教」という行事がある。これは文字どおり、読経のあいだの正座で、足がしびれて悲鳴ををあげているのに、さらに念入りに仏教行事として「ありがたいお説教をお垂れあそばされる」(ご法話)困った モトイ ありがたいしきたりである。
ところが、オヤジやアニキの法事などでの真宗寺26世・井上孝雄コウユウ住職の「お説教」は、しみじみとこころに沁みるものがあった。さすがである。

ここ、真宗寺は、1953年(昭和28)5月18日に「飯山大火」という、フェーン現象下でのおおきな火災で、飯山町の南側半分117戸とともに焼失した。当時やつがれは小学2年生であった。このときやつがれの生家は飯山駅前にあったが、3件隣で火は鎮火して焼失は免れた。
徴兵から復員後に借家で開業していたオヤジは、こののち、真宗寺の焼失地の一隅を購入して移転した。そのためにお寺と医者が隣接しているという奇妙な光景がうまれることとなった。
ここ、真宗寺に、やつがれのオヤジとアニキは眠っている。
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『おぼろ月夜 ♫ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし~』
『故郷フルサト ♫ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川~』
『春の小川 ♫ 春の小川は さらさら流る 岸のすみれやれんげの花に~』
『春が来た ♫ 春が来た 春が来た どこにきた~』
『紅葉モミジ ♫ 秋の夕陽に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数あるなかに~』
以上の小学唱歌の作詞は、すべて高野辰之さんである。

猪瀬直樹(実は お~獅子シッシ と呼んでいた、高校の一級後輩)はしるす……。
「ほとんどの日本人は、ふるさとというと、たくまずして、山があり、川が流れ、雪がシンシンと降りつもる、ここ北信州・信濃の飯山周辺の情景をおもう。それは小学唱歌で刷りこまれた幼児時代の記憶であり、その作詞家・高野辰之の心象描写による」
と。お~獅子、エライ!(ここは選挙とは一切関係なし! 為念)。

《やつがれの方向感覚とランドマーク》

たかやしろこの山河の邦・飯山で中学時代までをすごした。ここはまた地勢的には飯山盆地とされる。
高校生になって30キロほど千曲川の上流で、すこし平野部のひろい善光寺平の長野にでた。
そのとき……、体内磁石というか、方向感覚が狂ったおもいがした。すなわち土地の目印というか、陸標というのか、ランドマークを喪失したおもいがした。

やつがれにとっての基準点とは、いまもって、あくまでも飯山町である。
そこでの東とは、まるでシルクハットのようにみえる、たかやしろ(高社山 コウシャサン、別称・高井富士)であった。それがすべてであり、西とは、まだらお(斑尾山 マダラオサン)であり、南とは、千曲川(新潟県では信濃川トモ)の上流で、北とは、千曲川の下流であった。
だから長野でも、その後あちこち移動して、東京にでてからでも40余年になるが、いまもって方向の認識は、いったん飯山の情景に置換してからになる。

山河がとぼしく、平野部が広大な関東平野や北海道出身のかたの体内磁石はどうなっているのだろう。太陽がでている昼間ならともかく、曇天や夜などは、どのように方角や方向を認識しているのか良くわからないままでいる。
関東平野のど真ん中、埼玉県の平野部出身の某氏にそれを聞いた。
「エ~と、駅の北口とか、西口とかあるじゃないですか。それが目印です」
やはり、そうか……、というおもいであった。認識と目印は違うんだけどな、というおもいで聞いていた。息子にも聞いたが、北とか東とかに、そんな興味はないという素っ気ない返答であった。

のっぺらぼうの東京、それも交通が便利なだけに移動圏がひろがり、ビルの乱立している近代東京では、富士山を望遠することも稀になった。したがってただの棒か点でしかない、東京タワーも、スカイツリーも、ランドマーク(地標)とはいいがたいものがある。
娘も息子も東京で生まれ育ったが、おそらくやつがれとは、方角の認識にたいする執着度がことなるのであろうか……。

《平成の大合併のもたらしたもの……》
ところで、北アルプスに源流を発する梓川と、中央アルプスに源流を発する千曲川は、長野市のあたりで合流して、新潟県にはいると信濃川となる。上流からみて、その左岸はふるくから、上水内カミミノチ郡、下水内シモミノチ郡、右岸は、上高井カミタカイ郡、下高井シモタカイ郡と呼ばれてきた。
このように千曲川に沿った地域では、川上・川下にたいする意識がつよく、それをつづめて「カミ、シモ」などともする。

千曲川をはさんだだけというのに、あまり橋もおおくなかったこの時代、これらの各郡はともに競合し、たがいになにかとライバル視する仲でもあった。もちろんそれは、県会議員の選挙区区割りや、通学圏、通婚圏や、ふしぎなことに文化圏や言語圏などにもその影響はおよんでいた。

高野辰之さんの郷里と、やつがれの郷里は、かつてはともに下水内郡であり、道路が整備されたいまでは車なら10分ほどの距離であり、実家の片塩医院の通院・往診範囲内であった。
ところがなんと、豊田村は2005年04月01日、いわゆる平成の大合併で、川向こうの旧下高井郡信州中野市と合併した。
したがって、かつて飯山市が中心となって設立した 高野辰之記念館 は、信州中野市の施設となっている。 

豊田村の合併にやぶれた飯山市は逆襲にでて、これもやはり川向こうの下高井郡にてをだして、野沢温泉村を合併しようとしたが、住民投票の結果合併は否定され、野沢温泉村は勇気ある孤立のみちを選んだ。
すなわちわがふるさと・飯山市は、豊田村を川向こうの中野市にうばわれ、ならば仕返しとばかり、川向こうの野沢温泉村に合併をしかけて袖にされた。豪雪の地、過疎の町・飯山は、あまりにあわれである。

オヤジが元気なころ、盆暮れには子供をつれてそんな飯山にたびたび帰省していた。オヤジが去って、アニキの代になると、次第に足が遠のいた。
まして昨年アニキが逝くと、ひとがいいとはいえ、兄嫁さんと甥・姪の家では、もうふるさととはいいがたいものがある。
てまえ自慢と同様に、いなか自慢はみっともないとされる。
されど、故郷  忘じ難く候!

朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる

《CAD システムを駆使した日星鋳字行の活字母型製造法》
今回の台湾旅行の最大の目的は、台湾・台北市にある活字版製造所/日星鋳字行(代表/張 介冠氏 チョウ-カイカン)をたずね、パンタグラフの比例対応方式を応用した、機械式活字父型・母型彫刻法(以下ベントン彫刻と略称)にかわる、あらたな活字母型の製造法、すなわち  Computer Aided Design(CAD)方式の採用による「あたらしい活字母型製造法」を実地に体験して、それを学習することにあった。

既報のとおり、わが国における近代活字の活字母型製造法とは、なんの疑いもなく、西洋近代の文明開化を象徴する新技術として、明治最初期から「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」がほとんどであった。
この方法は簡便ではあるが、「既成の活字から、それを複製原型として、あらたな活字母型、活字をつくる ──  Making Matrices from Type」、すなわち活字の不正複写が多発するとされて敬遠され、欧米ではオーナメントや精密画像の複製用などの「電気版 電胎版とも Electrotype」に使用される程度にとどまった技法であった。

ところがわが国では、近代タイポグラフィの導入期から、各地の活字鋳造所でひろくおこなわれていた活字母型製造法は、この不正複写問題が多発するとされ、欧米では敬遠された「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」であったことは、そろそろ明確に記憶にとどめてもよいだろう(『Practical Typecasting』Theo Rehak, Oak Knoll Books, Delaware, 1993, p.152-163 )。

わが国では、ほかには「弘道軒清朝活字」を製造販売した「弘道軒活版製造所」など、ほんの数社が、欧米とおなじように、複製原型としての活字父型を彫刻して「パンチド・マトリクス方式  Punched Matrix」を採用して活字母型を製造していた。

すなわち世界的な規模において、近代タイポグラフィ界にあっては、ながらく、活字製造の複製原型は活字父型(木製のばあい種字とされることもある)であり、その活字父型(種字)の存在が、原鋳造所のなによりの誇りであり、証明となっていた。
当然活字父型はたいせつに保管されていたので、欧米各国の活字鋳造所、活字博物館、活字記念館などでは枢要な展示物として活字父型をみることができる。

わが国では、前述した弘道軒活版製造所の活字父型のほとんどは、関東大地震の被害をまぬげれて、神崎家 → 岩田百蔵氏 → 日本タイポグラフィ協会の手をへて、まだ未整理な段階にあるものの、現在は印刷博物館が所蔵している。
また岩田百蔵氏の時代、少数ながら弘道軒活版製造所のよく整理された資料が、女婿・平工栄之助の手に継承され、その資料は研究対象として現在朗文堂がお預かりして、公開展示や実際の印刷テストなどにももちいている(平工家蔵)。
【参考資料:「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌 04』(片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日)】

イタリアのタイポグラフィの王者、王者のタイポグラファと称賛される Giovanni Battista BODONI(1740-1913、パルマ)の「ボドニ活字博物館」の収蔵資料。同館ではボドニの活字父型、活字母型、鋳造活字、それで印刷された書物がすべてセットで展示されているのが大きな特徴である。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」であった。
しかしながらこの方式による機械式活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から128年、国産化から62年という歴史を刻み、2012年をもって事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、残存するわずかな原字パターンの字体にも、常用漢字を中心に時代性と齟齬がみられたり、もはやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という19世紀の活字製造周辺技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
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台湾における活字鋳造会社、日星鋳字行の存在と、そのCAD方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン-クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
したがって、そもそもこの台湾旅行は、昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011年3月11日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。その間逆に、昨年末に数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ-カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ-シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材の立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、昨2011年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
なによりも日星鋳字行さんは《活版凸凹フェスタ2012》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート14 

  
  
  
上左・右)日星鋳字行のコンピューターで、あらかじめ送付しておいた原字データーに、鋳造活字にもとめられる「Bevel 傾斜面」のデーターを付加するなど、CAD彫刻方式に必要な画像処理が加えられていた。

中左)そののち、斬削加工機にデーターが搬送される。この斬削加工機はさして特殊なものではなく、金属加工業界ではふつうにもちいられている程度のものだそうである。
中右)所定の金属材料マテ(Material のなまり。ここでは真鍮の角材)を、定められた位置に正確に置いて固定する。それ以後は操作パネルの操作で、極細のドリルが降下してきて、あとは自動的に彫刻がはじまる。

下左)ドリルの移動は、ベントン彫刻機が手技によって輪郭線をなぞる作業からはじまるのにたいして、本機ではデジタル・スキャナーと同様に、ドリルは上部から下部にかけて、水平運動を繰り返していく。ドリルは作業中交換されることは無く、この1本のみで終了する。これで初号から、現段階では実験的ながら、六号サイズまでの活字母型彫刻に対応しているとのことである。
下右)彫刻を終えた活字母型は、検品・補修のうえ、すぐさま活字鋳造がはじまった。日星鋳字行には活字鋳造機が、台湾製/2台と、日本・八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」1台があった。今回の活字鋳造は八光活字鋳造機製作所のものがつかわれた。

日星鋳字行の活字鋳造機は、上掲写真右側の八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)の製造による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」とほぼ同型の機種であった。

今回の参加者全員の原字データーは、いったんアダナ・プレス倶楽部に集約されて、かつてのベントン彫刻機のパターン製造のときと同様に、あらかじめ簡便な「文字作成ソフトウェア」をもちいて、2インチ角の枠と、センター・トンボをつけた文字データとして日星鋳字行に送付しておいた。
作成予定の活字母型と活字は、初号活字(42ポイント)であった。形象が複雑で、彫刻時間が長時間になるものは、あらかじめ日星鋳字行で機械彫刻が先行していた。

彫刻時間だけをみると、楷書体初号「朗」のひと文字を彫刻するのに15分ほど、おなじく「文」のひと文字を彫刻するのに10分ほどの時間がかかった。
斬削中はつねに操作面に機械油が注がれて、斬削粉の除去と、ドリルの加熱を防止していた。
なにぶん金属加工や機械関連には知識が乏しい。また、日星鋳字行の独自のノウハウも尊重しなければならない立場であった。そのため参考資料として【平田宏一氏 機械加工の基礎知識】をあげておいた。関心のあるかたは参考にしていただきたい。

《活版凸凹フェスタ2012》会場にて──2012年05月05日

上) 『昔字・惜字・習字』(臺灣活版印刷文化保存協會 2011年 中華民国100年12月
同書の序文に「鉛活字印刷技術之復興 ── 風行一時、日星又新」とある。
日台でのおもいは同じで、どちらも《活版ルネサンス》。柯 志杰さんによると、
いまの台湾では、活字鋳造、活版印刷の崩壊をあやうく防止できたという段階に
あり、これから徐徐に修復作業にとりかかり、将来課題として新刻作業に入る
段階にあるとのこと
である。
左) 日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表

右) 台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

日星鋳字行地階の作業場にて。後列はアダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生の皆さん。

前列右)日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表
前列左)台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

  

  

 上左)日星鋳字行は活字版製造所(活字組版所)を兼ねているため、活字の在庫はふつうの活字鋳造所にくらべるときわめて多い。写真は文選箱を手に、ずらりと並んだ活字ケース架をぬって、台湾ならではの活字の購入に忙しい会員の皆さん。
上右)さまざまな国からの見学者が増え、カバンや手荷物が当たって活字の落下事故が増えているそうである。活字ケース架(ウマ棚)には手荷物の持ち込みはやめていただきたいとのこと。
また財政担当の張夫人がやつがれに、
「長時間見学や撮影だけして、なにも買わないか、せいぜい名前の活字2-3本だけ買って帰る人はねぇ」と、ポツリ……。結構こたえた!

下左)台湾では縦組み、横組みを問わず「句点  、」と「読点 。」も中央におかれる。そのための中付きの句読点の活字。
下右)台湾・日星鋳字行にもありました! 「活字列見」。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」。「張代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」。「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」。「柯さん-そうか、知らなかったなぁ」。

日本と台湾のタイポグラファの交流はこうして続いていく。

★タイポグラフィ あのねのね*016
これはナニ? なんと呼んでいますか?  活版関連業者からお譲りいただきました。

★タイポグラフィ あのねのね*018
Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具  Type Lining Tester  活字列見

【この項つづく】

朗文堂-好日録016 吃驚仰天 中国西游記Ⅱ宋版図書 復活・再生の地 杭州・紹興

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《 海の日の休日を利用して、ふたたび 杭州 ・ 紹興への旅 》
フトおもいたって、昨年9月に訪れた杭州 ( Hangzhou ) と、紹興 ( Shaoxing ) にいきたくなった。
このまちは宋版図書の主要な製造地であり、その 「 復活 ・ 再生 」 のまちで、宋朝体と呼ばれる字様 ・ 活字書体を産んだまちのひとつでもある。

便利な時代になった。 杭州と紹興の中間地点までは ANA の直行便がフライトしている。
同行者はノー学部。 ノー学部は、なにやら中国史研究に遠大な構想 ( 夢想? ) をいだいているらしい……。 そのせいか最近は、書芸と中国史の学習にことのほか熱心にとり組んでいるのだ。

どうやらノー学部の研究テーマの主要項目に 「 美食 」 があるらしい。 旨いレストラン ( 中国のばあい、ほとんどすべてが 「 中国料理店 」 だが、都市ごとに味わいがことなり、どれもがおいしい ) や、スィーツ専門店を探すのに夢中になったりする。 また旅のスケジュールを、ともかく、めいっぱい、隙間無くうめる癖がある。これは勘弁だ。

やつがれは、そのまち、その場の空気を吸っているだけでいいという、呑気な性癖である。
したがってノー学部による分秒刻みのスケジュールに、真底辟易し、あえぎながら坂道をのぼり、歩き、走りまわることになる。これだけは本当に勘弁してほしい(怒)。
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上掲の彫刻写真は、2009年秋に再開発がなった 「 南宋御街 ギョガイ 」 でたまたまみかけたもの。 しかしこの彫刻は、書芸と詩作と 「 美食 」 にある程度造詣がないと、ほとんど意味をなさない。
やつがれは 「 美食 」 にはまったく関心が無いが、この前夜、前掲 「 書芸 ・ 詩作 ・ 美食 」 三単位初級編を、ホテルのすぐ近くの大衆レストラン ( もちろん中国料理店 ) で学習した ( つまり食した ) ばかりだったので、おもわず笑い転げてしまった。

東坡肉の実際。やつがれの食したのはもっと庶民的かつ素朴なものだった。
杭州では、ひと皿10元 ≒ 125円。 新宿の杭州料理店では 1,200 円だった。
例によって撮影失敗につき、 中国版Websiteより紹介。

このあたりは王城域とされ、杭州が南宋のみやこ ・ 臨安とよばれていたころは、王宮の内宮をでると 「 大廟 ダイビョウ 」 があった。 これに隣接して 「 察院前巷  サツインゼンコウ 」 とされる、おおきな宮殿と広場があった。
「 大廟 」 では、元旦 ・ 白馬 アオウマ ・ 踏歌 トウカ ・ 端午 ・ 相撲 スマイ ・ 重陽 チョウヨウ ・ 豊明 ホウメイ などの祝祭をおこなう 「 節日 セチニチ 」 に、皇帝が文武の百官をここの宮殿と おお広場で謁見した。
「 大廟 」 の左右には 丞相府 ( ジョウショウフ 首相官邸に相当 ) があり、ここから鼓楼へかけてのまっすぐな道が王宮中央通りとされて 「 御街  ギョガイ 」 と呼ばれていた。

ところが南宋末期、衛宗 祥興元年(1279)、臨安は蒙古族元軍の襲来をうけて、王宮はもちろん、大廟や丞相府や察院前巷も焼け落ちて、ながらく地下に埋もれていた。
ようやく近年発掘調査がおこなわれ、また再開発されて公開されるようになった。

いまこの周辺は観光地として拓けつつあるが、たれもがガイド ・ ブックに紹介された杭州にはたくさんある 「 名所 ・ 旧蹟 」 をみるのにせいいっぱいで、ガイド ・ ブックにも掲載が無く、ガイドも案内しない、こうした 「 現代彫刻 」 には、たれも足をとめない。

やつがれはこのあたりを、ほぼ2日間うろついていた。 人通りはそれなりに多いとおもっていたが、あらためて写真をみると閑散としたものでおどろいた。 そのためもあるのか、わが国にたくさんあるブログ版 「 中国旅行記 」 のたぐいの写真でも紹介されたことはないようである。

やつがれ、しばらく彫刻に足をとめ、涼風をもとめて石のベンチに腰をおろしていた。 そこに地元の家族連れがとおりかかり、ひとりの少女がここで立ち止まって、小首をかしげたりしながら熱心に彫刻をみていた。

ふつう女性がこうして腰に手をやってこちらを見据えると、危険信号である。
やつがれのとぼしい経験では、次のフェーズは  当然のように、怒りにまかせて手近の皿やコップがとんでくるものだ。
ところが少女は興味深そうに彫刻をみ、そして先にあるいていった母親のあとをいっさんに追っていった。 皿もコップも飛んでこなかった。 この敏捷で利発そうな少女は、将来、詩人か造形家か、はたまた政治家か料理人にでもなるのだろう。

彫刻左のおおきな像は、蘇  軾 ソ-ショク ( 号 ・ 東坡居士、唐宋八家のひとり。 蘇東坡 ソ-トウバ としても知られる。 官僚 ・ 詩人 ・ 文章家 ・ 書芸家  1036-1101 ) である。
下にあげた 『 食猪肉 』 の詩は蘇軾のもの。 ここでの猪は豚のことである。
すなわちこのまちの名物食品、豚の煮物 「 東坡肉 トン-ボー-ロウ 」 の考案者・蘇軾を、諧謔精神たっぷりに、おおきな彫刻をもって伝えたものである。

東坡肉 : 中国版画像 】
もしこの杭州のまちにいかれたら、ぜひとも 「 東坡肉  トン-ボー-ロウ 」 を食されることをお勧めしたい。
長崎卓袱 シッポク 料理の一部や、鹿児島の郷土料理に、豚肉と大根を煮込んだ類似のものがあるが、蘇東坡考案の杭州 「 東坡肉 」 は、豚の脂がくどくなくて、美味である!  ノー学部なぞ、画像のような 「 東坡肉 」 の大皿を、ふつかの間になんと 3 皿も食していたほどのものである。

   黄州好猪肉
     價賤等糞土
     富者不肯喫
     貧者不解煮
     慢著火少著水
     火候足時他自美
     毎日起来打一碗
     飽得自家君莫管
        ──  蘇  軾 『 食  猪  肉 』 

いずれにしても、近代造形と、歴史的言語性を考えさせられる 「 現代彫刻 」 ではあった。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも書物 ( 図書 ) の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周などの、現在の開封 ( カイホウ、 Kaifeng ) にみやこをおいた王朝を中心に技術が温存され、10世紀 ・ 北宋 ( 趙氏、9代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典書物としておおきく開花した。
────────
北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある開封(カイホウ、 Kaifeng)であった。いまもなお開封は雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏 ( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。
前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して 「 大梁 タイリョウ 」 と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代 ・ 後梁のみやこ 「 東都 」 となり、つづいて後晋 ・ 後漢 ・ 後周もここにみやこをおいて 「 東京 」 と称した。
すなわち 「 分裂時代 」 とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた 「 後唐  923-936 」 以外の四国は、開封 ( 東都 ・ 東京 ・ 汴 ) をみやことしたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国 ( 現在の四川省 ) に建朝された 「 後蜀  934-965 」 では、965年ころには、あきらかに、
「 蜀地の文化の新 展開と、経書の印刷がおこなわれていた 」 ( 『 標準世界史年表 』 亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日 ) のである。
「 木版印刷の創始は宋代 」 からという説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は 「 蜀大字本 」 とされて、評価がきわめてたかかった。 そのひとつ 『 周礼 シュライ 』 がわが国の 静嘉堂文庫 ( 東京都世田ヶ谷区 ) に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル ・ タイプが 「 四川宋朝体  龍爪 」 ( 製作 ・ 欣喜堂、販売 ・ 朗文堂 ) である。これがして、やつがれが北宋 ・ 南宋の両方の宋王朝と、宋朝体に膠泥するゆえんのひとつでもある。

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝 ・ 宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤 ( チョウ-キョウイン、太祖、在位 960-976 ) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を 「 汴 ベン、東京開封府 トウケイ-カイホウフ
」 とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武 ( 文官優位の治世、シビリア ン・ コントロール ) につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹 キッタン 族の遼、チベット系タングート族の 西夏 セイカ の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金 ( 女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打 アグダの建てた国 ) が、会寧府 ( 吉林省阿城県 )、燕京 ( エンケイ、北京 ) を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて 「 汴 ベン、東京開封府 」 を占拠して、宋 ( 北宋 ) を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては 「 靖康 セイコウ の変 」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。
上から、「 穠芳詩巻 」 「 牡丹詩帖 」 「 楷書千字文 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を 「 痩金体 」 と名づけた。

趙佶は初唐の書家 ・ 薛曜 ( セツ-ヨウ  生没年不詳 ) から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが つまびらかにしない。
「 楷書千字文 」 はいまは上海博物館の所蔵で、ここで真筆をみて、CDR版を含む、できのよい複製版を購入することができる。 『 宗徽宗書法全集 』 ( 王平川、北京 ・ 朝華出版社、2002年1月 )

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこの 「 汴 ・ 東京開封府 」 を陥れた。これが 「 靖康の変 」 とされる事件である。 ここに宋 ( 北宋 ) は 9 代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝の上皇 ・ 徽宗 キソウ ( 趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 )、皇帝 ・ 欽宗 ( 趙 桓、在位 1125-27 ) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城 ( 現黒竜江省 ) に幽閉した。

風流皇帝ともされ、芸術に惑溺した徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓 ( 欽宗 ) に帝位を譲って上皇となったが、「 靖康の変 」 に際しては上皇 ・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。
そのために趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓 「 永祐陵 」 は、旧南宋領内のみやこ  ・ 臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《 版木ともども消滅した北宋刊本 》
[ 本項は 『 大観  宋版図書特展 』  台北 ・ 故宮博物院、2007年12月を主要資料とした ]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業 ( 出版 ) であるが、この時代 ( 10-12世紀 ) の木版刊本の書物 「 北宋刊本 ・ 北宋図書 」 は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様 ( 木版刊本のうえにあらわれた字の形姿 ) や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物 「 インキュナブラ 」 の稀覯性などとはとても比較の対象とならない。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝 ・ 太宗 ( 976-997 ) が、淳化3年 ( 992 ) に 宮廷の宝物藏 ( 内府 ) 所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書 カンリン-ジショ であった王著 ( オウチョ   ?―990 ) に命じて、編輯、摹勒 ( モロク  摸倣によって木石に彫刻 ) させ、拓本とした集法帖10巻がある。
名づけて 『 淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ 』 である。

『 淳化閣帖 』 は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで 『 秘閣帖 』、『 閣帖 』 とも称した。
  同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った 「 勅賜の賜本 」 であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の 「 夾雪本 」 ( 東京 ・ 書道博物館 ) と、「 最善本 」 ( 上海 ・ 上海博物館 ) がわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇 ・ 徽宗帝、皇帝 ・ 欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵 「 内府 」 や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国はのちに女真文字 ( 満州文字 ) をつくるが、おそらくはそのための文化基盤も欲しかったのであろう。

つまり金軍は、『 淳化閣帖 』 などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石 ・ 版木のほとんどすべて、そしてその工匠の一部までも、根こそぎ、燕京、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる 『 淳化閣帖 』 の複製原版が、石刻だったのか、梓 アズサや 棗 ナツメ材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明しない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋 ( 北宋 ) の版本のほとんどは 「 汴、東京開封府 」 から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で 「 覆刻術のために費消 」され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における 「 文字獄 」 によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に 「 北宋刊本 」 がのこったのである。

すなわち、わが国では 「 文字獄 」 はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
「 文字獄 」 に 花筏 新・文字百景*003  へのリンクを貼ったが、あまりに長文のなかで触れたことなので、以下に該当部を青色表示で引用提示した。
また 「 文字獄 」 が中国歴代王朝、なかんずく
清王朝初期の皇帝によって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。 

東漢のひと許慎著 『 説文解字 』 は西暦100年ころの完成とみられるが、中国 「 字学界 」 ではいまだに評価がたかく、必須の字学資料とされ、さまざまな編輯がこらされて、各社から刊行されている。
上写真)  『 説文解字 』 ( 清代の木版刊本からオフセット平版印刷、古装本仕上げ、4巻、合肥市 ・ 黄山書社、2010年8月 )。
下写真)  右下 『 黄侃手批説文解字 』 ( 木版印刷物に批評をしるし、それを版下としてオフセット平版印刷、北京 ・ 中華書局出版、2006年5月 )
左下        『 文白対照  説文解字 』 ( 部首別画引きが可能、北京 ・ 九州出版社 )

【参考資料:新・文字百景*001 爿ショウ と 片ヘン,かた  その《字》の形成過程をみる】

撮影のために、手もとの 『 康煕字典 』 をだしておどろいたが、写真のほかに、台北 ・ 商務印書館版、台北 ・ 大同書院版の 『 康煕字典 』 もあり、やつがれが 『 康煕字典 』 にこだわっていただけかともおもわされた。
右   『 康煕字典 』 ( 明治初期?  日本での木版印刷、19巻、版元名 ・ 刊記無し )}
左   『 康煕字典 』 ( 上海古籍出版社、1996年1月第1版、2011年1月第1版14次印刷 )

 《わが国にファンの多い『康煕字典』をみる》
どういうわけか、わが国においては「漢字字書」として『康煕字典』(清朝康熙55、1716)の「ファン」があまりにも多い。たしかに『康熙字典』は比較的近世の、木版印刷による刊本であり、その字様は楷書の工芸字様ともいうべき明朝体(中国では宋体)である。

明朝体は中国・台湾では、職業人は「宋体」とするが、ふつうの生活人は「印刷体」とすることが多い。すなわちわが国の「明朝体の風景」とは異なり、あまり重くみているわけではなく、生活人は、
「そこに、印刷のために、あたりまえに存在している、実用の字」
とすることが多い。
また『康煕字典』は音韻配列ではなく、部種別画数順配列であることも、「文と字 ≒ 漢字」への親近性においておとるわが国の関係者には、好都合な「字書」だったかもしれない。

しかしながら『康煕字典』の、肝心の帝の名前である「こうき」が、表紙・扉ページなど、いわゆる装幀とされる部分だけでも、「康熙・康煕・康熈」など、三例の使用例があって、「字書」としてはまことに頼りない。
そのためにわが国の文字コードでは、ほとんどこの用例のために、「康熙 シフトJIS EAA4」「康煕 シフトJIS E086」「康熈 シフトJIS E087」の、みっつものキャラクターを用意しているほどである。
これをもってしても、いまだにわが国の一部で「康煕字典体」などと崇め奉っているむきがあるのはいかがであろう。

また中国では古来、字に関して記述した書物は「字書」であり、「字典」というおもい名称をあたえたことはなかった。「典」は「典型」に通じ、書物としては、儒教・道教・仏教などの経典などの書物にはもちいられてきたが、ともかくおもい字義、字の意味をもった「字」が「典」であった。
したがって清王朝第四代皇帝・康煕帝が、勅命によって、「字書」にかえて「字典」としたことに、ときの中国の知識層は震撼し、ある意味では支配民族の増長、ないしは知識・教養不足のなせることとしてとらえた。

またその治世が62年とながかった清朝4代康煕帝(玄燁  1654-1722,在位1661-1722)は、紫金城内武英殿を摺印場(印刷所)として、いわゆる武英殿版ブエイデン-バン、ないしは殿版デンパンとされる、多くの書物をのこした。
そのかたわら、すでに3代成祖・順治帝(福臨 1643-61)からはじまっていた「文字獄」をしばしば発令して書物の弾圧に乗り出していた。「文字獄」では、すこしでも漢民族の優位を説いたり、夷族(非漢民族)をそしった書物は、徹底的に没収・焼却し、その著者と刊行者はもとより、縁族までも重罪としたひとでもあった。

この清王朝前・中期にしばしば発令された「文字獄 モジゴク」は、巷間しばしばかたられる 秦の始皇帝による「焚書坑儒」(前213)より、その規模と頻度といい、全土におよぶ徹底ぶりといい、到底比較にならないほど激甚をきわめたものであった。
そこにはまた「文と字」を産み育ててきたという自負心を内蔵している漢民族と、ときの支配民族としての満州族(女真族)との、微妙な民族感情の軋轢がみられたことを知らねばならない。

《 北宋刊本を 「 覆刻 」 という技法で復活させた、南宋臨安の刊刻事業 》
みやこ東京開封府をおわれた宋の残存勢力は、徽宗帝の第 9 子とされる皇族のひとり、趙 構 ( のちの南宋の高宗、在位1127-62 ) を擁して江南をさすらい、ようやく要害の地 ・ 臨安 ( 現 杭州 ) にみやこをさだめた。

杭州 ( Hangzhou ) は、ふるくは銭塘 ・ 臨安などと呼ばれたこともあったが、いまは中国浙江省の省都で、人口670万余のおおきなまちである。
杭州湾および銭塘江セントウコウを控え、まちの中央西部の 「 西湖 」 にのぞむ景勝地としても、ふるくから栄えたまちである。

わが国では 「 コウシュウ 」 あるいは広東省の副省級市の 「 広州 」 との混同をさけ、湯桶 ユトウ読みで 「 くいしゅう 」 ともされるが 「 ハンゾウ 」 と呼んだほうがなにかと都合が良い。
またふるくからの印刷術発祥地のひとつ 「 浙江刊本 」 の製造地にかぞえられ、北宋時代の大著 『資治通鑑  シジツガン』は、汴 ( 東京開封府 ) ではなく、このまちで刊行 ( 刻刊 ) されたものとされる。

河水(黄河)ぞいの東京開封府が陥ちたあと、南宋のみやこは長江(揚子江)の南、江南の臨安となった。開封をおとした金と南宋の国境線は、屈辱的な交渉をへて、淮河 ワイガによって南北にわかたれた。
それでもあたらしいみやこ、臨安における出版事業の「復活」は、浙江地方という、ふるくから文物がゆたかで、文化度もたかく、製紙や刊刻事業の基盤があったこの地方には好適な産業であった。

臨安や紹興では、多くの工匠が、北宋時代9代のあいだに刊行された書物を収集し、それをばらして原本としてあたらしい版木にはり、それを版下として上から「覆刻 ≒ かぶせぼり」にするという技術をもちいて刊刻事業を再開した。
このおもには覆刻による刊刻は製造効率がよく、編輯・校閲の手間なども大幅に軽減されたため、初代高宗、2代孝宗(趙 伯琮ハクソウ、1162-89)のわずか2代のあいだに、科挙の教科書、参考書などにもちいる主要な書物の刊行をほぼおえている。

この異常ともいえるほどはやかった「覆刻 ≒ かぶせぼり」方式による「官刊本」の復活・再生の刊刻事業がほぼおわると、民間の出版社ともいえる書房が次次と臨安城市に登場して、彫刻工、摺印工、製本工を中心に、すぐれた技芸者の奪いあいがはじまり、技術が一段と向上していった。
こうした民間出版社のほかに、国子監のちかくにあった仏教寺院・道教寺院などでも、失われた経典の刊行が盛んになった。

やつがれは、こうしたほとんどが失われた書物ではあるが、それをつくった書房や寺院の旧在地を調べたい、そしてできれば北宋・南宋時代の刊本を入手したいというのが長年の夢であった。
それでもかつての中国では、外国人が自由に動きまわることができなかったし、昨年は南宋時代の臨安の詳細図が入手できずに成果をみなかった。

今回ようやく現地の友人の協力をえて、杭州図書館で地図資料を入手して、南宋時代の王城域、城門、書房(民間出版社)、寺院などの旧在地を、古地図と照合しながらほぼ確定することができた。
ただし、いわゆる「宋版図書」を入手することは、まずもって刊本そのものがほとんど存在し無いという現状であり、いち個人のちからではとうてい不可能だということを改めて確認させられた旅ともなった。
その報告は、すこし整理の時間をいただきたい。

さりながら、こうした杭州での刊刻事業の動向は、意外に敏速にわが国へも伝わっていたとみられた。当時は公式・非公式を問わずに日宋間での貿易がさかんで、輸入品の主要項目に図書もあげられているほどのものであった。
また、臨済宗・栄西禅師や、曹洞宗・道元禅師ら、平安時代末期から鎌倉時代にわが国に禅宗をもたらした高僧も、この浙江地方の寧波ニンボ、ねいは・紹興・臨安などの各城市に修行にでかけていた時代であった。
したがって、しばらくのちの、わが国の京都五山版、鎌倉五山版など、わが国の刊本事業への影響もあったかもしれないとおもうとたのしいのだ。

杭州観光というと、これまでは風光明媚な西湖を中心とした観光と、文人・詩人の旧蹟をたずねるのが中心であったが、いずれ古都・臨安、杭州の本当の魅力は、おおきく南宋王朝文化の探求へとかたむく様相がみられる。写真は西湖白堤に咲く蓮の花。

白堤は中唐時代に杭州刺史(州の司政官)として赴任した白居易(官僚、詩人 772-846 )が築堤したとされる。
そのたもとには、イタリア、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロ(1254-1324)の銅製の立像がある。マルコ・ポーロが臨安(杭州)を訪れたのは元軍による破壊と修復のあとであったが、帰国後に『東方見聞録』を口述して、このまちの美しさを絶賛して、欧州人の東洋感におおきな影響をあたえた。
また蘇軾(蘇東坡)が西湖の浚渫をおこない、その土砂をもって築造したとされる、白堤よりよほど大規模な「蘇堤」もあり、休日などは人混みで歩くのも困難なほどの多くの観光客を集めている。

東京開封府を追われて、江南の要害地として臨安をみやこに選んだ南宋は、1127年高宗・趙 構にはじまり、孝宗・光宗・寧宗・理宗・度宗・恭宗・端宗とつづいた。
9代目皇帝は1278-79年に在位した衛宗であるが、1279年、これも北漠の地からおこった蒙古族の元(世祖、フビライ、1279-94)によって臨安は襲撃された。元軍の猛攻によって臨安城市は徹底的に破壊された。

騎馬民族の元軍は、満州族の金軍よりよほど破壊力がつよく、金と南宋のあいだの暗黙の国境線ともいえた淮河ワイガを一気にこえ、さらに長江(揚子江)をこえて臨安に襲いかかった。そして城内のすべての宮殿を焼き、多くの民衆をもまきぞえにして殺戮のかぎりを尽くしたとされる。
蒙古族元軍の猛攻により、衛宗はその生没年も確実には歴史にのこらないまま、1279年9代で南宋王朝は崩壊をみた。
その戦禍のなかに、せっかく覆刻・新刻した南宋刊本と、その版木は、またまたほとんどが失われたのである。

元はその後、このまちの修復につとめ、城壁などは南宋時代よりも頑健なものとした。つづく明王朝も、杭州の運河や町並みの整備に努力した。
────
南宋のみやこ・臨安の王城域は、長らく発掘と再開発事業が進行していたが、杭州・中山路、南宋御街の再開発が2009年9月30日に完成して一般公開された。
前述のように「御街ギョガイ」とは、かつては皇帝専用の道で、800数十年以前の、南宋のみやこを東西につらぬく主軸のうえに御街は復活をみた。
もともとの御街は、地下10メートルほどのところに埋もれているが、近年発掘されて「南宋遺址陳列館」でその遺構の一部をみることができる。

  
左)杭州ではいちばんの古書店と友人に紹介された「杭州沈記古旧書店」沈店主と。
  北宋・南宋時代の刊本は、複製版でも扱ったことはないと筆談したが、やつがれは
店内で一冊
南宋刊本複製版を発見した。あまりに粘ったので沈店主には嫌われたが。
右)臨時ドライバーの王さんと喫煙のひととき。会話はすべて筆談だが、ふしぎに意思
  疎通にはこまらない。杭州でも喫煙者にはなにかときびしいゾ。

《紹興 ── 古代王朝 夏カのまち、そして王羲之と魯迅のこと》

 

「紹興酒ショウコウ-シュ」のことを、このまち紹興では「黄酒オウ-シュ」という。
そもそも「杭州空港」とはいうが、ほぼ杭州と紹興のまちの中間点にある。いまの紹興は人口550万ほどの大都市である。
今回の3泊4日のみじかい旅も、紹興からはじまった。
【昨年秋の旅行記:朗文堂-好日録 011 吃驚仰天 中国西遊游記Ⅰ】

ノー学部が昨秋にはじめて中国を訪れ、まち歩きをはじめたのも紹興で、空港からいきなり紹興の城市(まち)にはいり、五代十国のひとつ・越の宮殿跡(越王台)ちかくの、ちさな民家の立ちならぶ細い路地に降り立った。そこでタクシーを降り、はじめて「ニーハオ・トイレ」も経験した。
そのせいか、なにかと紹興が気がかりのようで、ここにいたく
こだわる。

中国三皇五帝の神話時代につづき、先史時代に、ここ紹興の会稽山カイケイザンあたりに、禹王ウオウが夏カ王朝を建て、夏は17代(禹―启―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―扃―廑―孔甲―皋―発―癸―桀)430年にわたってつづいたとされる。
そのために初期有史時代(すなわち 文 と 字 が誕生していて、
記録がある)の、夏・商(殷)・周とをあわせて三代とも呼ぶ。

「字 ≒ 文字」がなかったために、記録はすくない夏王朝であるが、現代中国の歴史学者は、三皇五帝の神話時代のあつかいとはことなり、さまざまな「文 ≒≒ 紋、一定の社会集団が共有した意味性をもった記号。徴号トモ」の存在をみとめ、その解読にあたり、またさまざまな発掘の成果により、夏王朝の存在をほぼ史実としてみとめているようである。

《東晋のひと王羲之と、その従兄弟王興之の墓誌》
ここではなしがすこしずれるが、この江南の地から誕生した書風「碑石体」に触れたい。
どうやら現代の文字組版に関わるかたのうち、想像以上に多くの皆さんが、力感のある、やさしい、ヒューマン・サンセリフの登場をお待ちになっていたようである。

これまでもしばしば、十分なインパクトがありながら、視覚にやさしいゴシック体、それもいわゆるディスプレー・タイプでなく、文字の伝統を継承しながらも、使途のひろいサンセリフ――すなわち、わが国の電子活字書体にも「ヒューマン・サンセリフ」が欲しいとの要望が寄せられていた。
確かにわが国のサンセリフ ≒ ゴシック体のほとんどは、もはや自然界に存在しないまでに鋭角的で、水平線・垂直線ばかりが強調されて、鋭利な画線が視覚につよい刺激をあたえている。

2012年4月、欣喜堂と朗文堂が提案したデジタル・タイプ『ヒューマン・サンセリフ  銘石B』の原姿は、ふるく、中国・東晋代の『王興之墓誌』(341年、南京博物館蔵)にみる、彫刻の味わいが加えられた隷書の一種で、とくに「碑石体ヒセキ-タイ」と呼ばれる書風をオリジナルとしている。

魏晋南北朝(三国の魏の建朝・220年-南朝陳の滅亡・589年の間、370年ほどをさす。わが国は古墳文化の先史時代)では、西漢・東漢時代にさかんにおこなわれていた、盛大な葬儀や、巨費を要する石碑の建立が禁じられ、葬儀・葬祭を簡略化させる「薄葬」が奨励されていた。

そのために、この紹興のまちに会稽内史として赴任し、楷書・草書において古今に冠絶した書聖とされる王羲之(右軍太守  307?-365?)の作でも、みるべき石碑はなく、知られている作品のほとんどが書簡であり、また真筆は伝承されていない。
現在の王羲之の書とは、さまざまな方法で複製したもの、なかんずくそれを法帖ホウジョウ(先人の筆蹟を模写し、木石に刻み、これを木石摺り・拓本にした折り本)にしたものが伝承されるだけである。

王興之の従兄弟・書聖/王羲之(伝)肖像画。
同時代人で、従兄弟イトコの王興之も、こんな風貌だったのであろうか。

『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土した。王興之(オウ-コウシ 309-40)は、王彬オウ-リンの子で、また書聖とされる王羲之(オウ-ギシ  307-65)の従兄弟イトコにあたる人物である。

この時代にあっては、地上に屹立する壮大な石碑や墓碑にかえて、係累・功績・生没年などを「磚セン」に刻んで墓地にうめる「墓誌」がさかんにおこなわれた。『王興之墓誌』もそんな魏晋南北朝の墓誌のひとつである。『王興之墓誌』の裏面には、のちに埋葬された妻・宋和之の墓誌が、ほぼ同一の書風で刻されている(中国・南京博物館蔵)。

この墓誌は煉瓦の一種で、粘土を硬く焼き締めた「磚 セン、zhuān、かわら」に碑文が彫刻され、遺がいとともに墓地の土中に埋葬されていた。そのために風化や損傷がほとんどなく、全文を読みとることができるほど保存状態が良好である。

『王興之墓誌』の書風には、わずかに波磔ハタクのなごりがみられ、東漢の隷書体から、北魏の真書体への変化における中間書体といわれている。遙かなむかし、中国江南の地にのこされた貴重な碑石体が、現代日本のヒューマン・サンセリフ「銘石B Combination 3」として、2012年4月、わが国に力強くよみがえった。


《王羲之の伝承墓のこと》
王羲之の従兄弟、王興之の墓から出土した『王興之墓誌』を紹介した。
ならば一族のひとであり、2歳ほど年長の王羲之の墓、および墓誌を紹介しないと片手落ちになる。

王羲之は4世紀の時代をいきたひとである。わが国でいえば古墳時代であり、まだひとびとは「字」をもたなかった時代のことである。
王羲之の墳墓の地と伝承される場所は紹興(会稽)周辺に4ヶ所ほどあるが、そのうちもっとも著名な浙江省嵊州ジョウシュウ市金庭鎭キンテイチン瀑布山バクフザンをたずねた。嵊州市は紹興から高速道路で2時間ほど、その嵊州市からさらに山間の道を東へ20キロほどいった山中にあった。

山を背に、爽やかな風が吹きぬける、立派な堂宇を連ねた道教の寺院であった。
墓地は山裾の高台にあったが、明代に「重修」したと墓碑の背後にしるされていた。墓地本体は「磚セン」を高くつみあげ、その上に夏の艸艸が密生した円墳がのっていた。

魏晋南北朝にあっては「薄葬」が奨励されたために、おおきな墳墓や石碑はほとんど見られないが、いささか立派すぎる墳丘であった。また墳丘を修理した際にも、この時代の墓地にほとんどみられるような「墓碑銘」出土の報告はない。この王羲之の墳墓とされる墓からは従兄弟や親族の墓地のような「墓碑銘」は出土しなかったのであろうか。
また中国の古代遺跡によくみられる大樹の「古柏」は、伝・蒼頡ソウケツ墓の寺院前の見事な「古柏」はもとより、北京郊外・明の十三陵の「古柏」より、よほど若若しい木だった。

墓地伝承地の周囲には、書芸家が寄進した書碑がたくさんみられたが、そのほとんどは、昭和期日本の書芸家の寄進によるもので、チョイともの哀しいものがあった。
ただ齢ヨワイをかさねた王羲之が、終ツイの栖家としたなら、この嵊州市郊外の山中の空間は、それにふさわしいものとおもえる場所ではあった。すなわち4世紀のひとの墳墓を、21世紀に、異国のひとがフラリとたずねたとしたら、この程度の収穫で我慢をすべきであろうとおもえる場所であった。

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ふたたび紹興で……。
紹興からは、近代になると魯迅(ロジン 1881-1936)がでて、日本に留学し、『阿Q正伝』『狂人日記』などをあらわし、またあまり知られていないが、装幀家としても活躍した。

写真は晩年の魯迅がかよったとされる「咸亨 カンキョウ 酒店」で。
ここでやつがれが腰をおろしたあたりが、かつての魯迅お気に入りの場所だったとされ、壁際には「黄酒」の甕がならぶ。地元客にも観光客にもひとしく人気の店らしい。
魯迅はたそがれどきになるとここにあらわれて、料理写真右端のナントカ豆をつまみながら、黄酒をチビチビやっていたらしい。

いまの「咸亨カンキョウ酒店」は店舗が拡張され、入口で飲み物とプリペイド・カードを買って店内にはいり、あとは調理人と会話しながら料理をオーダーして、セルフサービスでテーブルに運ぶ。精算は店外のカウンターでする。
真ん中は鶏の唐揚げ風? 最奥はその名もビックリ「臭豆腐」。
前からあちこちの看板で眼にしていたが、字(漢字)でこうもはっきり「臭豆腐」と書かれると、食欲も失せて敬遠していた。

いずれも魯迅のお気に入りだったとして、ドライバーから勧められた── というよりドライバーが剽げて鼻をつまみながら「臭豆腐」をどんどん運んできた。臭いを気にせず、美味しいから食べろと勧められた。
「臭豆腐」はききしにまさるすさまじい臭いで辟易するが、食すと好ハオ! ほぼやつがれひとりで食べてしまった。写真の料理はドライバーとの3人分で、日本円で2,000円ほどだったか?

ただし、入口で飲み物を「コーラ」と注文したら、ドライバーとノー学部ともども、ひどい勢いで店のオバハンから罵られたらしい。
「アナタガタ ココハ 紹興ヨ! 黄酒ヲ ノマナイデ ドウスル」
というような具合だったようであるが、やつがれはすでに店内にあって「臭豆腐」に挑戦中で、よくはしらない。
ともかく紹興のまちとひとは、しばらくノー学部に任せておこう。

朗文堂-好日録015 五日市ランドスケープ、佐々木承周老師

朗文堂─好日録015

ふしぎなエートスの存する町
五 日 市 イツカイチ
そして、佐佐木承周老師のことども

『風景資本論』刊行にちなんで

《『風景資本論』を鞄にしのばせて、ちいさな旅にでた》
『風景資本論』(廣瀬俊介著、朗文堂)が刊行された。著者の廣瀬俊介氏はこうかたっている。
「地域の資本となりうる風景ランドスケープとは、どのようなものか。風景の読み方、風景のデザインを、本質と事例から考察する」
この新刊書を鞄にしのばせ、やつがれ、つめたい雨のふるいちにち、晩秋の五日市にでかけた。行き帰りの車中で『風景資本論』をあらためて読み、さまざまなことどもを考えさせられた。

そしていま、それぞれの風景をあらためてこころに描き刻みつつ、震災におそわれ、原子力発電所の大事故におかされ、悩み苦しむこの国のこしかた、これからをおもった。
というわけで、今回は東京の西端の町、「五日市の風景」を紹介したい。

《山川の町に育ったせいか、近郊の五日市が好きになった》
雪ふるちいさな町、千曲川に沿った奥信濃の田舎町で育った。そのせいか、山と川のある風景がここちよい。
関東平野の東京に住んではや40年ほどになろうというのに、どうにもこうにも、こんなのっぺらぼうとした風景や風土に馴染めないでいる。東京のどこに立っても、東西南北が明確にわからない。要するに田舎もの。

やつがれの郷里、信州信濃の飯山では、千曲川の上流が南、下流が北、高社山タカヤシロが東、斑尾山マダラオが西と、山川による陸標、ランド・マークがはっきりしていた。
そして冬にはあたり一面丈余の雪にうもれ、春には野面をうめて香りたつ野の花が咲き、夏には灼けるような烈日が地をあつくし、秋には全山燃えたつがごとき紅葉と、四季折折の風情があり、季節にあわせた花卉や農作物がもたらされていた。

ところがやつがれ、格段には地理オンチとおもわないが、神田神保町ジンボウ-チョウの地下鉄道で下車して、迷路のような地下道をめぐりめぐって地上にでると、似たようなビルが立ちならんでいるばかり。こうしたユークリッド幾何的形態? の空間はまったく苦手である。だからいまもって、九段方向がどちらか、一ッ橋方向がどちらかがわからなくてこまる。

地理案内板、サインボードもあるにはあるが、林立するどぎつい色彩の広告看板に押しのけられて頼りない。かといって、東京タワーやスカイツリーのみえる範囲などたかがしれているし、そんなものを陸標ランド・マークとするのもなさけない。
そんなわけで田舎もの、遠出の旅はしんどくなったが、なぜか週末になると、関東平野を脱して、山川サンセンのある風土に身をおくと落ち着くのだ。

エートス Ethos はギリシア語で、エトスとも音される。ご存知のパトス Pathos 感情・激情の対語である。
すなわち簡略に述べると性格・心性であり、ある社会集団にゆきわたっている恒常的な感性・情念であり、ときとして色彩感覚や宗教観や死生観であろうか。

どうやらやつがれ、田舎育ちのゆえに、地霊・山霊・岩霊・艸霊・木霊・水霊のふところに身をゆだねると安堵するエートス──性癖ないしは心性があるらしい。こうした山川の地では、一木一艸がいとおしく、小川のせせらぎ、かすかな瀬音、どうということのない路傍の小石までがこころをなごませる。

      

東京都心から40-50キロほど、東京の西の端に「東京都 あきる野市 五日市」がある。JR五日市線の終点で、新宿から直通電車で800円ほどの電車賃でいける。駅から檜原ヒノハラ街道をたどると、すぐに杣山ソマヤマをぬうように急峻な坂道となり、奥多摩の切り込みのふかい山襞がせまってくる。
このあたりが、樹木を植えつけ材木をとるための「杣山ソマヤマ」として拓けたのはふるかった。また後背地の奥多摩のひろい林や森から伐採された木材・木炭が、五日市にあつめられ、そこから関東平野一円に出荷されたという。

寺社もおどろくほど多い。ふるく、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる真言宗「大悲願寺」は、鎌倉幕府開設──1192 イイクニ つくろう 鎌倉幕府──の前年のことである。この古刹にたつと、この寺に込められた源頼朝の「大悲願」とはなんであったのかを考えさせる寺でもある。

また五日市には、室町幕府の祖・足利尊氏(1305-58)がひらいたとされる臨済宗「光源寺」があり、ともに臨済宗の寺で、江戸初期の創建らしき、清楚なおもむきの「広徳寺」もある。

《五日市町からあきる野市へ──平成の大合併》
ゆたかな秋川渓谷の清流を水運として、ふるくから木材や木炭が五日市にあつめられたという。江戸時代には檜原ヒノハラ街道にそった五日市の町並みに、木材商と木炭商が軒を連ねて殷賑をきわめたそうである。したがって町制を敷いたのはふるく、1889年(明治22)町村制施行と同時に、神奈川県西多摩郡五日市村と、小中野村が合併して「五日市町」が誕生した。

この時代、いまこそ繁華なまちとしてしられる渋谷も八王子もまだ鄙びた村でしかなく、五日市が町として誕生したのはおどろくほどはやかったことになる。
またこのころは、多摩地区一帯は神奈川県に属していたが、上水道用水の大量確保をもくろんだ東京府が、1893年(明治26)、神奈川県から、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡とともに、五日市町も東京府に編入せしめたものである。
林業の衰退とともに、往時の殷賑のおもかげはうすれたが、それだけに、落ち着いた、古き良きものが、さりげなく存在する町でもある。

五日市駅までは新宿から直通電車もあるが、東京駅からだと中央線の立川で乗り換えて拝島線に、さらに拝島で五日市線に乗り換えて終点までのちいさな旅となる。
この五日市鉄道(現在のJR五日市線)の敷設もはやかった。すでに1925年(大正14)には、五日市の木炭商らの出資によって、私鉄五日市鉄道(その後国有鉄道を経てJR)の敷設をみている。すなわち大量の木炭や木材の物資輸送に欠かせなかったのがこの傾斜のある鉄道路線であった。

1995年(平成7)いわゆる平成の大合併のさきがけとして、五日市町は隣接する秋川市と合併して「あきる野市」となった。このあらたな市名の由来は、このあたりがふるくは、「秋留アキル、阿伎留アキル」と呼ばれていたことに発したが、秋川市が主張した「秋留市」と、五日市町が主張した「阿伎留市」で議論が二分して、ひら仮名混じりの「東京都あきる野市」とすることで決着をみたそうである。

《茶房 むべと、高橋敏彦氏》
あきる野市一帯では、ある種のおだやかなデザインの統一がみられて、それがふしぎな「景観」をかもしだしている。たとえば、秋川谷口にある料理屋「黒茶屋」、併設されている「茶房糸屋」の看板や各種の印刷物、あきる野市と第三セクターが開発した「瀬音の湯」のカログラムなど数えきれない。
そこにもちいられている、てらいのない飄逸な書と、ほのぼのとした絵とが、CI とも町おこしともバナキュラともいわず、たくまずしてこのあたりの「景観」を形成していることに驚かされる。

これらの書藝や絵画を精力的に製作しているのは高橋敏彦氏という。1942年(昭和17)うまれ、御年69歳。ごま塩まじりの白髪で、美鬚のデザイナーである。
高橋氏はかつて都心部にデザイン事務所を構えたこともあったが、30年ほど前から、檜原村との境にちかい、見晴らしの良い高台の地に住まい、地元密着のデザインをねばり強く展開してきた。さらに自宅離れを改築して、自作の「ミニ・ギャラリー」と、「茶房 むべ」を開設した。

「むべ」とはこのあたりでは「アケビ、木通、通艸」のことである。むべは蔓状をなして山地に自生する。春たけなわのころ、あわい紅紫のちいさな花をつける。晩秋のころ、果実が紫に熟して縦に割れる。果肉は厚く、半透明の白色で、たくさんの黒色の種子を含んでおり、とろりとした甘味で食用になる。蔓は強靱で各種の細工にもちいられる。

やつがれ、五日市に出かける楽しみのひとつが、「茶房 むべ」の香味のつよい珈琲を味わい、高橋翁とのくさぐさのかたらいのひとときである。こんかいは庭先に「むべ アケビ」がブラリとさがっていた。それがなんともいえずよかった。
店内は禁煙なので、いつも(たとえ少少寒くとも)庭先の四阿アズマヤに腰をおろし、清澄な川面をわたる薫風や、山颪ヤマオロシの木の香を愉しむ。そして鳥や蟲の聲、かそけき渓谷の瀬音に耳をかたむけながら、一杯の珈琲を味わい、紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとする。

2011年11月19日[土]折からの雨だったが、フトおもいたって五日市にでかけた。雨はきらいではない。むしろ人混みがすくなく、景観が落ちつき、しっとりしていてよいとおもう。町のあちこちに、映画『五日市物語』のポスターが貼られていた。タイトルの書はあきらかに高橋氏の手になるもの。サブタイトルに、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
とあった。
そのフライヤーを四阿アズマヤでよくみたら、「プロデューサー:高橋敏彦」とあった。もちろん「茶房 むべ」のあるじ、高橋氏のことである。

高橋氏は字も書くし(書藝をまったく誇らないが良い字だ!)、ほっこりした絵も描く。そして陶芸もこなすらしい。つまりひと世代前の、図案屋さんとよんでいたような本物のデザイナーであり、なんでもかんでも造形家であり、技芸家でもある。すなわち誇り高きアルチザンである。
そして、その技倆と、知性が卓越していることが、このひとを特徴づけ、地元・地域の信頼をあつめている。今回は映画『五日市物語』のプロデューサーをつとめている。

主演女優は遠藤久美子であるが、ポスターにもちいた写真では、マグカップを両の手で抱えていた。この写真におもわず視線が釘づけ! これは高橋氏の製作に違いないとおもった。
やつがれ、10年ほど愛用していたお気に入りのマグカップ──軽井沢の車屋で買ったもので、立原道造モデルとして愛着があった──をわってしまって、さびしいおもいをしていた。

遠藤久美子はいかにもいとおしいという手つきで、木肌色のマグカップを両のてのひらに抱えていた。大きさといい、色味といい、質感といい、これは好みだ! もちろん遠藤久美子ではなく、マグカップ。
リンクを貼っておいたので『五日市物語』の公式サイトをぜひみていただきたい。
おもわず奪いとりたくなる逸品ではないか。
ウ~ン、映画鑑賞の前に、まずは高橋氏にこのマグカップをねだらなくてはならないようだ。

《西のほうの古都の名刹におとらない清楚な寺 広徳寺──そうだ! 五日市にいこう!》
晩秋のつめたい雨に濡れながら「広徳寺」をめざす。これまで五日市は何度か訪れたが、いわゆる観光や寺社巡りははじめてだった。
〔どうせ、山寺。たいしたことはなかろう〕
とおもいながら急峻な坂をのぼった。
傾斜がいくぶんなだらかになったとき、いきなり広徳寺の茅葺きの総門があらわれた。いかにも禅寺らしい簡素なたたずまいがよい。おもわず扁額に目を奪われる。コバルト・グリーンのような大胆な色彩で「穐留禅窟」とあった。

 

この扁額を書したのは、江戸後期の出雲松江の藩主・松平不眛公だと傍らの解説板にあった。
調べてみたら松平不昧フマイこと、松平治郷ハルサト(1751-1818)は、茶人としてしられ、号して不眛。茶道につうじて石州流不昧派をおこし、また禅道・書画・和歌にもつうじたひと。不昧公は江戸期の凡庸な譜代大名のなかにあって、傑出したひとであったそうな。

扁額にみる「穐留禅窟」の「穐」は、「秋・穐・龝」と同音同義の字で、いまは市名となったこのあたりの古名「あきる → 穐留」をあらわす。したがって「穐留禅窟」は、「あきる の 禅の 岩屋」ほどの意になろうか。
おおぶりな骨格といい、大胆な色遣いといい、この山の寺にふさわしいよい書であった。

ただし出雲の国の不昧公が、なぜこの山深い五日市の禅寺の扁額を書したのか、解説板にはなにも記述はなかった。それがいかにも自彊ジキョウをおもくみる禅寺らしく、
〔興味があるなら自分で調べよ〕(ムカッ)
といっているようでかえってよかった。だからやつがれ意地になって、不昧公や、「穐留禅窟」を調べたということ。

   
総門をぬけると、つぎに現れたのが、茅葺の屋根を持つ重厚な二層の山門。こぢんまりとしているが、これが江戸期の構築物かと疑いたくなるようなおだやかさがある。遠目にはそれと気づかない二層の屋根のわずかな反り具合と、それを支える肘木ヒヂキの文様が軽やかである。こまやかな肘木の組みあげも、この茅葺きの屋根をかろやかにみせている。

また上層にある唐様のふたつの窓と、そこに貼られた真っ白な手抄き紙が、この古風な山門に、明暗、印影、めりはりをあたえている。

山門からは右手に、鐘撞き堂、左手に経蔵をへだてて本堂が望めるが、そのひろびろとひらけた前庭に、まるで塔宇のように、公孫樹イチョウの大樹がふたつ並んでいる。かなりの雨降りだというのに、この一画では写生会でもあるのか、10数名のご隠居連が雨をさけながらスケッチブックをひろげていた。

 

すっかり色づいた公孫樹がハラハラと葉を舞い落とす。その黄色くくすんだ落ち葉を踏みしめながら本堂に達する。大屋根は苔むしてはいるが檜皮葺きヒワダ-ブキ。贅沢なものだ。
本堂をぐるりとまわりながら、裏手のお廊下と濡れ縁をさりげなくこする。

そして、佐佐木承周老師のことども

佐佐木承周老師(アメリカ版Websiteより)

上)  ロスアンジェルス「臨済寺」にて。1989年12月23日、老師82歳ころ。
下) ご本堂前、老師と当時45歳ほどの筆者。小型カメラに日付表示機能があった20年ほど前。
このとき老師は開口一番「ジロウちゃん、おねしょは治ったかね?」で辟易ヘキエキした。
12月23日にロスにいき翌日のクリスマスイヴ、先方の指定日時にサンフランシスコにいって、
「パソコンの奇才」 と会見した。懐かしい写真が偶然見つかったので、ここにアップした。
この翌日 「パソコンの奇才」と会見写真は撮影のふんいきもなかったので、無い。

実はやつがれ、ゴ幼少のみぎり、短期間とはいえ禅寺に押し込められたことがある。そのときいちばん辛かったのが、禅寺では東司トウスとよぶ便所の掃除と、ご本堂や庫裏の板敷きのお廊下と濡れ縁の清拭だった。
これらの苦役・雑役モトイ禅寺での作業は「作務サム」とよばれる。ご存知の「作務衣サム-エ」を身につけて、清掃はもとより、東司の汲み取りから農作業までを、仏道修行としておもくみる。

これが禅の修行の最初だと、クソ坊主 モトイ、モトイ! テイセイ-イタシマス 佐佐木承周ジョウ-シュウ老師にいわれた。もとより、あまりにわんぱくで、悪戯がすぎて、オヤジと旧知の佐佐木老師の禅寺に放りこまれただけで、禅僧になろうとは露ともおもわぬやつがれだった。
だから読経や座禅は逃げまくったが、鼻水をたらしながら、修行の最初とされる、拭き掃除、掃き掃除、すなわち作務ばかりをさせられた。その修行の甲斐はご存知のとおり、まったくなかった……が。

この佐佐木承周ジョウ-シュウ老師というひと、お化けだ。いや怪僧というべきか、名僧はたまた傑僧というべきか……。
死んだオヤジと同年の1907年(明治40)うまれだから、もう105歳になるはずだが、いまはアメリカ西海岸の、ボーイ・スカウトのキャンプ地の一部を改装したという、どうひいき目にみてもキリスト教会としかみえない、まことにもって奇妙な白堊の禅寺「臨済寺」の住職として居住している。

かつて、この「臨済寺」に老師をたずねたことがある。その折り、紅毛碧眼コウモウ-ヘキガンひとが、まるめたあたまに菅笠をかぶり、墨染めの衣をつけ、素足に草鞋ワラジをはき、ゾロゾロ連れだって托鉢タクハツにでかけたのでおどろいた。
ロスアンゼルスの町のたれが喜捨に応ずるのかわからなかったし、丈が足りないのか、衣の裾から毛ずねをむきだしにして歩みだした、紅毛碧眼ひとや、アフリカ系アメリカひとの雲水どもを唖然としてみおくった。
鐘楼は軒先にブラリとさがったふしぎなシロモノで、どこかの耶蘇ヤソの寺(教会かな?)からもってきたような珍妙な梵鐘を、大まじめで叩いて モトイ 撞いていた。

佐佐木老師は、やり手モトイ非凡なひとだから、ほかにも西海岸一帯に禅寺をいくつもひらき、105歳のいまもってきわめて壮健らしい。しかも4月1日のうまれだから? 悟りすましたようなことも平然といってのける。
また真偽のほどは保証のかぎりでない(つい先ほどノー学部に教えられたWebsite情報だ)が、映画『スターウォーズ』のヨーダのモデルは、この佐佐木老師だとされている!

書店に「赤いひと囓りのリンゴ」関連書が山積みなので、しばらくは避けたい。それでもいまの高揚期が落ちついたら、「赤いひと囓りのリンゴ」創業者のこととあわせて、本欄でも紹介したい、一代の化けもの モトイ 傑物が佐佐木老師であることだけは間違いない。
アメリカの一部では佐佐木老師をすっかり神格化し、ダライ・ラマ、ローマ法王、Sasaki Roshi  とならべて紹介している  Website  もあった。いくら幼少のときとはいえ、老師のさまざまな行蔵を間近でみてきたやつがれ、いささかウ~ンとうなるしかないアメリカでの過熱ぶりであった。

やつがれこのクソ坊主 モトイ 佐佐木老師には、さんざんゴツンとなぐられ、説教をくったが、寒さとさびしさ? のあまり、ついつい粗相した寝ションベン布団を、なんども干していただいたことがある。ともかく大恩のあるかたであることは間違いない。
もし、こんなことにご興味・関心のある、かわったかた?は、佐々木老師、佐々木承周 で検索してほしい。
やつがれ、五日市で雨宿りのおり、ノー学部に〈禅宗における、臨済宗と曹洞宗の違い〉を述べさせられた。かつて「赤いひと囓りリンゴ」の創業者も、佐佐木老師に関心を寄せたときがあり、おなじような質問を浴びせられたことがあった。
「門前の小僧、経を詠む」というが、禅宗臨済の寺では『観音経』ぐらいしか詠まなかった。そんなやつがれに、深遠な禅のこころなどわかるはずもなく、いずれもしどろもどろで答えた。

ところがそれにものたりず、また、つねづねやつがれが口にしていたクソ坊主、モトイ 佐佐木老師のことをふくめて、ノー学部があれこれと検索して、つい先ほど教えられたこと。ともかく佐佐木老師に関して、Websiteがひどいことモトイあつくなっていた。
やつがれはまったく知らなかった。まさか、かの佐佐木老師さまが、こんな話題のひとになっているとは!
英語版 Sasaki Roushi Joshu Sasaki だと、おどろくほどの数にヒットする!

禅寺、なかんずく戒律がきびしかった臨済宗妙心寺派の寺院では、雲水ウンスイはもとより稚児僧チゴ-ソウなぞは、足袋の着用などもってのほか。早朝の寒い北風のなか、サイズの合う作務衣がなく、ましてフリースなどという便利なものはなかった。だから、薄っぺらな「体育用トレパン」(古)を身につけ、シモヤケとアカギレの手で雑巾を固く絞り、駆けるようにすばやく、広い濡れ縁を駆け巡って清拭する修行はつらいおもいでとしてある。
この「修行」のおかげで、やつがれ、もっとも苦手な作業、モトイ修行乃至ナイシは作務サムが「掃除」となってしまったほどのものである。

ところが雨のせいもあったのか、「広徳寺」では、格別には雲水の姿はみかけなかった。それでも住持がなされているのか、ご本堂裏手の濡れ縁は清拭がゆきとどき、指先にはまったく埃がつかなかった。
これだけでやつがれいたく感嘆。西のかなたの観光寺院では、こんな簡単なテストでいつも失望させられているだけに、ただただ単純に、
〔すげえなぁ〕
とおもってしまう。

《大悲願寺でノー学部 異なもの発見!再訪確実となる》

    

いつのまにかやつがれ、撮影担当から追放された? そもそも写真を撮るつもりが動画画像になっていたり、ときおり撮影データをそっくり消去してしまうので、はたの信頼を失った。決定的だったのは、集合写真を撮った際。
「はい、チーズ!」
ト、責任と緊張に打ち震えながらも、自信満萬をよそおいつつ、至極にこやかに撮ったが、不幸なことにみんなの首から上が、フレームからはみでて、ちょん切れていた。別に悪意はない。至極真面目だった。

もとから極めつきの機械オンチであるから、臨場感のあるファインダーを覘くのならともかく、あのいろいろな情報が涌いてくる薄気味わるいガラス板を避け、被写体の皆さんをみつめながら、
「はい、チーズ!」 ── パチリ!
とやっただけ。

以前なら現像しないとわからなかった〔バレなかった〕ことだ。ときどき〔まれにかな?〕素晴らしい写真をとったこともあるほどだ。ところがどんな操作をするのかしらないが、最近のカメラは現像・停止・定着もしないで、直後に撮影結果がみれるようになっている。
そこで〔どうも吾輩の腕前を疑っていたらしい〕みんなが、やつがれからカメラをとりあげて、
「どれ ドレ?」
とのぞき込んだところ、(案の定)みんなの首から上がギロチンでサッパリと、斬首の刑のあとのように無かったという次第。やつがれまったく他意は無いのに、一斉につめたい視線をあび、侮蔑されるにいたった。
たかがスナップ写真の巧拙だけで、人格を云云ウンヌンするほどでもあるまいに……、ト、やつがれ悔しまぎれにおもうのだが、いつのまにか、さして使用していない新品同様のデジタル式ナイコンカメラを、《使う資格無し》としてとりあげられた。そして撮影担当から放逐された。

閑話休題 トコロデ── 撮影係のノー学部。やつがれの指示する撮影箇所を無視して、そこらの野艸ばかりを撮っている。はるか昔は昆虫少年だったから、トンボやチョウにはいささか詳しいが、艸木には疎い。だから「山茶花サザンカ と 枸橘カラタチ と 椿ツバキ」などを取り違えることもある。
そうするとノー学部出身をかさにきて、
「あれは山茶花です。椿じゃありません!」
ト、居丈高になるのは感心しないなぁ。
スミレもタンポポも、花をつければ、なべて、やつがれの大好きな「艸花」だ。

「大悲願寺」は、「広徳寺」とは秋川をはさんで対岸にある。真言宗の古刹である。寺伝によると、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる。
また、江戸時代初期、仙台藩主・伊達政宗(1567-1636)が鮎漁に秋川をおとずれ、庶弟が住持をつとめていたこの寺を訪れ、いっぷくの茶を服したという。その折り、庭に咲いていた白萩があまりに見事だったので、仙台にもどったのちに、この寺の白萩を所望したと伝える。その伊達政宗の書状も寺に保存されている。

その白萩は花のときを終え、こうべを垂れてつめたい雨にぬれていた。だから参拝者も観光客もたれひとり「大悲願寺」にはいなかった。それでもやつがれ、真言の寺は、その荘厳の大仰さと、さまざまないわくありげな象形のゆえに、いささか苦手とする。だから雨足がつよまったのを口実に、早早に「大悲願寺」を退散して雨宿り。

《そこでやつがれ、紫煙をくゆらせ夢想した……。》
五日市から檜原ヒノハラ村にかけては、ふるくは山塞だったとされる場所が多い。ちいさな石積みのうえに、山塁跡とおもえる平坦地があったりする。檜原村のひとなど、いまも「杣人 ソマウド」とよんだほうがよいほど、荒ぶる形相のひともいる。

かつて源頼朝が天下取りのいくさをはじめたとき、その呼びかけに応え、このあたりの屈強な杣うどどもが、一所懸命とばかり、鍬クワと鎌カマをなげだし、鉞マサカリと斧オノをほおり捨て、鎌倉街道をいっさんに頼朝のもとに駈け参じたのではないか……。

杣うどどもは、野馬にあわただしく鞍をのせ、野鍛冶がうった頑丈な大刀を帯び、むき身の大鎗をひっさげて、
「いざ、いざ、いかなむ、鎌倉へ!」
と、頼朝の陣へ、形相もすさましく、押し合いへし合いしながらはせ参じたのではないかと……。
そのために幕府開設前年の1191年、頼朝は屈強な兵士団をもたらすこの山間の地に、「おおきな悲願」をこめて真言の寺を設けたのではないのかと……。

とすると──、映画『五日市物語』のサブタイトル、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
には、僭越ながら少少異論がある。

ここ五日市の時は決してとまっていない。耳を澄ませばとおいときの聲が、なんのまどいもなく聞こえる──。
いななく野馬の鳴き声。喚オめくがごときもののふの野太い雄叫び。くびきを接し、地響きたててひたはしる駒のひづめの音。そして空中に高鳴る鞭の音……。
大木をうち倒す斧の硬い金属音。白煙をあげる炭焼き小屋からは、薪にするノコギリの規則正しい往復音。野面にわく童ワラベどもの歓声……。

やつがれにとっての五日市とは、そんなふしぎなエートスが、大地の深くにまで刻みこまれた町である。源平の昔からの、心性や感性が刻みこまれた風土があり、それがいまの五日市の景観をなしている。すなわち五日市とは、古い時代の、いきざま、情念のごときエートスをふところふかく秘めた、時代とともにいきる町である。

そしてこの地のエートスは、一朝一夕に浸蝕され、消滅するはずはない。それはいまもこの地の山川に、そこにいきるひとびとのあいだに、脈脈と鼓動し、浸出し、おりにふれて噴出するはずのものである。
その刻みこまれたエートスのほんの少しを、さりげなく掘りおこしているのが、「茶房 むべ」のあるじにして、アルチザン、「高橋敏彦氏」ということになろうか。
五日市は、これからもいきつづける、ふしぎの町、あやかしの町、エートスを実感させる町として存在している。

ところでノー学部。まだ雨の降りしきる「大悲願寺」の庭をウロウロ。煙草をふかし、すっかり夢想にふけっていたやつがれをふいに呼び、庭の片隅にほとんどうち捨てられている、ふるぼけた掲示板をみろという。
驚いた。正直驚いた!──。まさしく新発見だった。
その報告はもうすこし調査を重ねてからにしたい。すなわち、五日市再訪は近いということになった。

◎ 本日11月23日 勤労感謝の日で休業。六白 先勝 みずのえ うま。
ET展 Embed Technogy がらみで来客多し。 おもしろき話題少なし。

朗文堂―好日録014 アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行Ⅲ

朗文堂―好日録014

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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米どころだけではない !
アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行
會津八一と坂口安吾のこと

   

さて、ここで會津八一(1881-1956)のことをしるさねばならない。坪内逍遙はこのひとを、かくのごとく紹介している。        

とにかく君は、天成の藝術家である。

新潟市會津八一記念館のパンフレットやWebsiteでは、かくのごとく紹介している。        

會津八一は、秋艸道人シュウソウ-ドウジン または渾齋コンサイと号し
すぐれた東洋美術史学者でもあり
それとともに、類
まれな歌人であり
また、独往の書家でもあった

 《會津八一記念館と北方文化博物館新潟分館・會津八一終焉の地》
會津八一記念館は日本海の潮騒が聞こえそうなほど、関谷浜沿いの高台にあった。おりしも企画展《會津八一 vs 北大路魯山人--傲岸不遜の芸術家》の開催中であった。
會津八一(1881-1956)と、北大路魯山人(1883-1959)は、ほぼ同世代人であり、互いに書にたくみでありながら、書芸家だけの人生を過ごさなかったという共通項を有する。
すなわち會津八一は新潟市古町通五番町・料亭會津屋に三男五女の次男としてうまれた。1881年8月1日うまれだったから八一と名づけられたとされる。歌人であり、美術史家であり、教育者でもあった。
いっぽう北大路魯山人は、京都にうまれて、名は房次郎。書と篆刻で名を成し、のちに料理と食器の研究と製作にあたった。そんなふたりだったが、両者の仲はそうとう険悪だったそうである。同館ではそんな展示をていねいに展開していた。
        

しかしながらやつがれ、学芸員諸氏の苦労は別として、こういった個人の記念館で、根っこから切りはなされたような、そして被収蔵者の生前の息づかいや、体温のぬくもりのごときものが感じられない博物館的な施設は苦手である。つまりこういう個人の記念館施設なら、わざわざ新潟まででかけなくても、バスでチョイの 早稲田大学會津八一記念博物館 で十分な気がする。それよりも、やつがれ、會津八一が意味なく苦手であることにあらためて気づかされた。 

會津八一は生前、みずからを《傲岸不遜ゴウガン-フソン》と称していたそうである。「傲岸ゴウガン」は、おごりたかぶり、角立って、へりくだらないこと。「不遜フソン」は、謙遜でなく、おもいあがっていることである。
すなわち《傲岸無礼》の類語であって、《傲岸不遜》などとみずから称するなどというものではない。むしろ天にむかってうそぶくものである。もちろんそこには諧謔やパラドクスがあったにせよ、なにか避けたいものがある。
        

早早に記念館を抜けだして外で一服していたところ、山崎博士がさりげなく、
「この近くに、ふんいきのよい、會津八一関連の施設がありますけど、いきますか?」
とかたりかけてきた。このあたりの山崎博士の呼吸はまことにそつがない。
        

會津八一は早大卒。名を成してのち、東京下落合霞坂に居住し、のち1935年(昭和10)目白文化村に引っ越した。そこは霞坂時代の「秋艸堂」と区別するために「文化村秋艸堂」と呼ばれるようになった。ところが1945年(昭和20)4月13日の夜半、目白文化村はB29の大編隊による空襲を受け、會津八一が長年にわたって蒐集した美術品や骨董品、あまたの美術資料や書物が一夜のうちにすべて灰になった。        

このころ會津八一は「養女」きい子とともにあり、空襲のなかを逃げまどい、同年4月中に、「養女」きい子をともなって郷里の新潟に疎開、蒲原郡中条町の丹後康平宅にしばらく寄寓した。その疎開とは混乱をきわめた列車の旅ではなく、毎日新聞社の取材用の飛行機によった。會津八一はやはり傲岸不遜のひとであった。
そして新潟市南浜に瀟洒な邸宅を提供されてからは、ここを「南浜秋艸堂」と名づけて、二度と東京にもどることはなく、この地で1956年(昭和31年)11月21日、75歳で永眠した。
會津八一記念館から車で移動するほどでもないところに、「南浜秋艸堂、會津八一終焉之地」はあった。ところがナント、そこは昨夜から一日だけ宿泊し、博物館巡りをしてきた「北方文化博物館の新潟分館」であった。ふたたび北方文化博物館のWebsiteから紹介する。
        



新潟分館ホームページへ北方文化博物館新潟分館の庭には秋艸道人(曾津八一)の歌碑が 建っています。
新潟分館は、出雲崎町尼瀬の西山油田の掘削によって巨万の富を得た長岡の清水常作氏が明治28年(1895年)に別宅として建設したものですが、清水常作氏の逝去後、明治末期に六代伊藤文吉が新潟別邸として取得しました。
曾津八一は、昭和21年(1946年)5月、坂口献吉氏(坂口安吾の長兄・元新潟放送初代社長)から懇願され「夕刊ニイガタ」の社長を引き受け、新潟市内での住居[探し]を同氏に依頼していましたが、当時は戦後の混乱期で住宅事情が悪く、坂口氏は東奔西走の末に伊藤文吉の持ち家である新潟別邸に白羽の矢を立て、昭和21年(1946年)7月25日から昭和31年(1956年)11月21日に75歳で永眠するまで、ここ新潟分館の邸内の洋館で暮らしていました。
建築は新潟市の玉野玉蔵氏、箱庭は後藤石水氏の苦心の作で、館内には秋艸道人の歌書、良寛の書を多数展示しています。
曾津八一は昭和3年(1928年)建築のこの洋館を、1階は書斎と応接室、2階を寝室として使用していました。曾津八一は伊藤家6代当主の弟・九郎太とは中学、早稲田大学とも2年後輩で、その弟とは中学が同期で大変に親しい関係にありました。
住所:新潟県新潟市中央区南浜通2番町562
  

《ゆったりとした時間が流れていた南浜秋艸堂》
會津八一は母屋の和風建築に居住したというより、おもにこの建物の正面からみて右手、2階建ての洋館に居住したようである。ふたつの建物はすっかり整理されて、會津八一と良寛の書があふれていた。
ここでやつがれ、おもわずのけぞった。最初はウソだろうとおもった。展示場でも陽の射しこむ母屋の展示場の端に、まったく無造作に良寛の書『天上大風』があった。これは夢かうつつか? わからん!
        

かつてやつがれ、某氏と某社とともに、「小町・良寛」という、写植用仮名書体の開発に関わったことがある。この仮名書体は、現在ではデジタル・タイプとして発売されている。その際、良寛の書をそれなりに勉強した。とりわけ『天上大風』の書は、何度も(書物で)みたし、その飄逸な書がきわめつきにすきだった。その原本がここにあった! 
ガラスケースの中の書だったから、写真はひどいがご容赦願いたい。
ともかく、この書軸を無造作に掛けてあることに驚いた。
もしかすると良寛和尚は『天上大風』を何枚も書いていたのかもしれない。
あるいはこれはレプリカか?
それでは伊藤文吉8世に失礼になる。
『天上大風』を前にして、やつがれうろたえるばかり。
同館では図録や資料集は製作されておらず、若い受付嬢がいるばかりで詳細は不明のまま。
    

 

 今回の旅では良寛記念館に行けなかったことは既述した。すなわち、どうしても良寛記念館にもいかなければならないことになったようである。すなわち越後路の旅、ふたたび。        

 

     
  
      

  南浜秋艸堂の庭の片隅に1955年(昭和30)に建立された歌碑がある。碑文は以下のようである。 

 

かすみたつ はまのまさこを ふみさくみ
かゆき かくゆき おもいそわかする

  

        

この碑の建立にあたって會津八一は上の写真のような指示を、原稿に朱筆で書き加えている。
「歌碑として  彫刻せしむるために 特に 筆劃に 訂正を 加へたる ものなり 彫工は熟練なるを要す 文字行間のあきは 絶對に原稿の 通りにすること」    
    

        

さてと……、短歌と書に関しては論及する立場にない。しかし會津八一、書字と刻字、書写系の文字と彫刻系の文字の相違に関しては理解不足を指摘されてもしかたなかろう。ここにみる建立直後の写真は、おそらく刻字の部分に石灰でも入っていたとおもわれる。したがって文字は鮮明に読みとれる。それで八一翁は満足したらしい。        

しかしやつがれ、この碑の彫刻のあまりの彫り込みの浅さと、線質の弱さ、かぼそさにおどろいた。筆画や字配りにこだわって指示をだすのはかまわない。そしておそらく彫工はしかるべき技倆の名工を起用したと想像されるが、その指示のきびしさに萎縮し、細部にこだわりすぎて、本来の技倆をまったく発揮していないとみた。とくに筆の速度感が彫刻からはまったく伝わらなかった。
こうしたひら仮名異体字をふくむ、いわゆる和様の書の彫刻は、1898年(明治31)長崎の父祖の地に建立された『平野富二君碑』(平野幾み《喜美子》書、現在は谷中霊園乙11号14側、平野家墓地に移転)が、彫りの深浅、柔軟な線質を石彫にいかしてみごとである。その報告は平野富二没後110年を期して『富二奔る』(片塩二朗、朗文堂、2002年12月3日)にまとめた。 また長崎公園の『池原香穉翁小伝』の碑も、艶冶な和様の書を刻した巨大なものであり、名碑といってよいであろう。長崎の寺町通りの寺(名前は失念)には、會津八一のできばえのよいかなの書の碑もあったと記憶している。會津八一翁はこれらの名碑をご存じなかったか。    
   

會津八一の書は「孤高蒼古の境地にある」とされる。残念ながらその良さがこの歌碑にはいかされていなかった。ましてそこに「原字と石彫指示書」があっただけに、余計痛痛しかった。やつがれ八一翁にならって現在の碑面に触れ、文字をそっとなぞってみたが、採拓の形跡はほとんどないのに、あまりに弱弱しい刻字であった。
写真は照明もなく、やつがれの技倆の悪さがもろにでているが、それでも6枚シャッターを切ってこの程度のものしかなかった。「餅は餅屋」という。あまりひとの職能に容喙するのは良い趣味とはいえないこともある。     
   

《會津八一とふたりの養女――きい子 と 蘭のこと》
會津八一が妻帯したという記録は、ほとんど関心もなかったので管窺に入らない。しかし會津八一記念館の記録に、晩年の會津八一をめぐるふたりの女性が「養女」として登場する。そして「會津八一終焉の地・北方文化博物館新潟分館」には、「養女」きい子と、「養女」蘭の数葉の写真記録がのこされていた。
會津八一63歳  1944年(昭和19)   
   身辺の世話をする高橋きい子(義妹)を養女にする。
會津八一64歳   1945年(昭和20)
       養女きい子疎開先で病没する。享年33(7月10日)。
會津八一68歳  1949年(昭和24)
   従兄弟・中山後郞の娘・蘭を養女とする(5月)。
きい子は、ともに東京目白で空襲の猛火のなかを逃げまどったひとである。そのあまりにも若い永眠のときとは、敗戦となるひと月ほど前のことであった。この1945年7月10日には會津八一はまだ南浜秋艸堂には移転しておらず、蒲原郡中条町の丹後康平宅でのことであったとおもわれる。それでも目白時代のものか、戦前のきい子と八一がともに庭に出て、庭いじりをしている写真がのこされている。きい子は整った顔立ちで、真っ白な割烹着を着て、まるで若妻のようにはなやいでみえる。
きい子の逝去から2週間後ほどして、1945年7月25日から會津八一は南浜秋艸堂に移転した。そして4年後に蘭を「養女」としている。蘭も越後の美人といってよい、引き締まった顔立ちである。どことなくきい子と似ていなくもない。
奏楽家の宮城道雄(1894―1956)が新潟を訪れた際、蘭はその琴の指導をうけた。それを見まもる會津八一の顔は、ムスメを見る顔というより、むしろ(あきらかに)、いとしいひとをみるという顔をして写真に収まっている。
會津八一の評伝や研究書は数多いが、このふたりの「養女」に触れたものはすくないようだ。やつがれ、これらの写真から、孤高を演じ、傲岸不遜をうそぶいていた會津八一が、澄みきった心境にいたったときにチラリと見せた、人間らしい一面をみるおもいがして、勝手に救われた。
        

《坂口安吾 風の館》
坂口安吾(1906―55)は新潟市中央区西大畑町にうまれた。第2次世界大戦後に、在来の形式道徳に反抗して「堕落論」をとなえたひとである。1946年(昭和21)4月『新潮』に掲載された「堕落論」は青空文庫にアップされているので見て欲しい。
かつての新潟市長公舎が
「安吾 風の館」として、坂口安吾の諸資料を収集して無料公開されている。
 磯馴れ松がひろい庭を占めていた。これがよかった。     

        

その「安吾 風の館」からすぐ近く、新潟大神宮参道の脇に「安吾生誕碑」がある。碑面には以下のようにある。 安吾らしくアッサリしていた。たしかにこのあたりは、日本海の荒波が押しよせてきそうな海浜の地であった。     

私のふるさとの家は 空と 海と 松林であった
そして吹く風であり 風の音であった 

       

《そして、短かった新潟の旅は終了した。でも、すぐにもう一度行きそうだな?》
かくして短かった新潟の旅終了。雨男が同行したにもかかわらず、終始アッパレ日本晴れだった。そしてやつがれ、諸橋轍次記念館で漢学酔い、笹川流れで船酔い、北方博物館とその関連施設で魑魅魍魎のごときもろもろの出現でぬかるみに。かにかくに……、あらためておもうに、心地よいばかりの興奮の旅であった。新潟でサポートしてくださったおふたりに感謝。
最後は「豪農の館」でボケをかましているショットで終わろうか。
      

           

 

 

朗文堂―好日録013 アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行Ⅱ

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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米どころだけではない !
アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行
大呂菴と北方文化博物館のこと

《二日目の宿、大呂庵のことども》
新潟1泊目の宿は、翌日のプチ贅沢にそなえて、各自駅前ホテルで分宿。
新潟2日目は早朝から日本海に沿って北上し、「笹川流れ」で遊覧船に乗った。笹川とはいえそこは粟島(最初は佐渡島だとおもったが……)
を遠くにのぞむ海だった。

その海にでて30分ほど沿岸をまわったが、山河育ちのやつがれひどい船酔い。その後に立ち寄った村上市では、町歩きにでかけたみんなとは別に、しばしベンチに腰をおろして文庫本を読んでいた。そのうちに、ウツラウツラから完全に熟睡状態におちいったようだ。

だから写真のような村上の天然遡上の鮭の干物の奇観はみていない。この鮭の干物を酒にひたした「鮭の酒びたし」なるつまみが絶品だったそうだが、「サケのサケびたり」と間違えたやつがれにはおすそ分けもなかった。


村上はふるくからの港町で,江戸期には大坂と蝦夷(北海道)をむすんだ「樽廻船」の寄港地としてしられる。
現在は古き良き村上の再開発が進行中で、滋賀県彦根市の街並み再開発とともに話題になっていた。

そのせっかくの村上で、やつがれは木陰のベンチで昏睡というていたらく。再開発の状況に関してノー学部の報告では、
「彦根は彦根、村上は村上で、どちらも一所懸命に努力しているし、面白さもあった。比較するものでは無いでしょう」
とのこと。なんとなくそんなものかと納得して鮭の写真だけ紹介。なにせ現地にいて、なにもみていないのだから発言権なし。

そのあと既述した新発田市の「蕗谷虹児フキタニ-コウジ記念館」によって、もう薄暗くなったころに、今夜の宿「北方文化館 大呂菴 ダイロ-アン」に到着。ところが、つらなって走っていた銀嶺号と流星号が「北方文化博物館」の別々の駐車場にはいったようで、合流にすこし手間取った。それだけこの「施設」はとてつもなく広大だということである。


財団法人北方文化博物館に付帯する施設(宿)が大呂菴(ダイロ-アン、だいろはカタツムリの意)である。つまりわれわれは、「北方博物館関連施設」としての「大呂菴」に宿泊したことになる。
すなわちチョイとわかりにくいが、ここは単なる宿屋ではなく、「Museum 大呂菴」なのである。

これらの「北方文化博物館」関連の施設に関しては、多くのブログに書き込みがあることをのちほど(つい先ほど)知った。旅行好きなひとには著名らしいが、いわゆる造形者の書き込みがなかった。やつがれがくどくど説明するより、北方文化博物館と大呂菴関連の Website を紹介したい。   

 ◎ 大呂菴の魅力をトコトン語っている。写真も丁寧だ。
     http://www.hotel-archives.org/mailmagazine/vol078/index.html
◎ 旅行好きの初老のご夫妻のブログらしい。この宿に惚れ込んでしまったようだ。
   風をまちながら……、のサブタイトルがいいな。同じ部屋にヤツガレも宿泊した。
     http://freeport.at.webry.info/201010/article_3.html
◎ 建築家らしきひとの宿泊体験記。視点がことなり面白い。
     http://ameblo.jp/organi9-sta/entry-10343753128.html   



正門の格子をくぐり、小さな竹林を進むと、瀟洒な玄関が現われます。豪農の風格を漂わせる純和風の宿「大呂菴」は、部屋は勿論、廊下や階段のしつらえに至るまで、できるだけ当時の雰囲気を失わないよう、最大限の注意を払って改装いたしました。
八十余年昔日の静寂の中、古いものたちとの新しい出会いが始まる純和風の宿「大呂菴」は、大正浪漫の再現です。
「大呂(だいろ)」とは「かたつむり」のこと。
八代文吉[伊藤家第八代目・伊藤文吉氏――伊藤家当主は代々文吉の名を世襲する]は言います。
「あわてず、ゆっくり参りましょう。」
ここはテレビもラジオもない大正時代にタイムスリップしていただく宿です。

     
やつがれ、最初に宿の候補として「大呂菴」のことをきいたとき、「豪農の家・豪農の宿」というフレーズがひっかかった。
(みずからいうか、豪農の家なんて…… )

ところがそれはやっかみ・ひがみというものであった。伊藤家八代は正真正銘、真底からの豪農であり、それをはなにかけたりしないのだ、ということをおもいしらされた。ふつうはすらりと「ウチは豪農です」などといえるわけもない。
くどいようだが、本当に豪農だから、サラリと豪農だ …… だといっていたことをこの旅の各地でおもいしらされたのである。 

やつがれの亡父はまぎれもない子だくさんの貧農の出で、しかも第九子で次男の末っ子だった。したがって医者をこころざしたが、学費がなく、島崎藤村『破戒』の舞台となった飯山病院の院長、山崎氏に(養子ぶくみで)慶応大学医学部の学資・生活費を提供してもらい、ようやく医者になったという経歴がある。

さらに卒業後、ただちに軍役に召集され、中途の召集解除はあっても、前後15年のあいだというもの、各師団の軍医として召集された経歴をもっていた。その間に山崎氏の一家、オヤジの許婚者とされていた娘さんをふくめた全員が結核にたおれ、やむなくちょっとした「富農」であり、これもやはり地方の医師だった藤巻家の次女と結婚し、やつがれらの誕生をみた。     

ところが、やつがれのオフクロの実家・藤巻家は、ふるくは士籍にあり、また戦後の農地解放でほとんどの田畑を没収されたとはいえ、広大な山林がのこり、それなりに富農であった。しかし、代をかさね、またご当主が芸能人になったりして、いまは無住でみるかげもない…… 。
オフクロはその娘時代の藤巻の家を、ときおりはなにかけるふうがあった。それが子供心にあまり心地好いものといえず、質朴なオヤジの実家のほうがこのましかった。

「富豪の宿ねぇ、オレは貧農の家系だから泊まる資格はないぞ」
と抵抗したが、そこはノー学部、
「大呂菴の だいろ は、かたつむりなんだって。豪農さんもデンデンが好きみたい。ウチのデンデンが死んじゃったから、供養になるでしょ」
と涼しい顔。
たしかにやつがれ、秋津川渓谷で採取したかたつむり二匹を「デンデン01号・デンデン02号」と呼んで飼育していた。2年ほど、やつがれが青菜や野草をあたえ、ノー学部が余りもののキャベツや人参を放りこんで モトイ 給餌してきたが、いつの間にか死に絶えていた。
というわけで、デンデンの供養のため「大呂菴」に宿泊することにシブシブ同意。    

 

   

   

      
 
      

《到着後、さりげなく床暖房の温度を下げていた!》
大呂菴と北方文化博物館に関して、やつがれあまりおおくをかたりたくない。正直にいうと、まちがいなく再度この地とこの宿を訪れるだろうし、それまで荒らされてほしくないからだ。
   

みんなが大呂菴に着いたとき、すでに夕刻の六時を廻っていただろうか、駐車場から肌寒い風に吹かれて宿にはいった。その大呂菴の内部はやわらかい床暖房が効いて、ほんのりと暖かかった。
やつがれはベランダでさっそく一服したが、そのとき見てしまったのだ! 調理師兼管理人とおぼしき農夫系のオヤジが、さりげなく床暖房のパネルをチョイと操作した。
「床暖房、切ったんですか?」
「いえ、皆さん外で寒いおもいをされて到着されますから、床暖の温度を上げてありました。馴れると熱く感じられるので、すこし弱くしました。お寒ければ戻しますが?」
オヤジは悪戯を見られた悪童のように恐縮していた。やつがれ、これですっかり、
「まいった、降参!」  

ここまでやるのか …… とおもった。すべてが一見豪放かつ大胆、なんにもしていないようににみせながら、大呂菴はじつにこまやかな心配りがなされていた。それもわざとらしくなく、さりげなくである。
「北方博物館の関連施設」は、落ち葉をふくめて手入れが入念に行きとどいているが、農薬を散布しないとみえて、周囲からチョウやトンボや蛙などが敷地内にわんさかおしよせていた。もちろん秋の虫が草藪ですだくように鳴いている。
食事は食器のひとつひとつがすごい。それもチマチマとした京懐石のまねごとではなく、どんと大胆な盛りつけと、繊細な味つけだった。あちこちに置かれた生花は、翌朝にはもうあたらしい野草にかわっていた。やつがれ真底、本当に、
「まいった、降参!」

再訪時にはこのあたりの事情をふくめて、第八代・伊藤文吉翁――昭和二年うまれとされているから85歳ほどか。写真のように元気だ――のはなしをじっくり聞いてみたい。
おそらく文吉翁は、大呂菴のオフィシャルWebsiteにあるように、サラリとこういってのけるのであろう。
八代文吉[伊藤家第8代目・伊藤文吉氏ーー伊藤家当主は代々文吉の名を世襲する]は言います。
「あわてず、ゆっくり参りましょう。」
ここはテレビもラジオもない大正時代にタイムスリップしていただく宿です。 

ところでやつがれ、船酔いつづきでポワ~ンとしていたから、どこでどう合流したのかしらないが、食事のあとに、メンバーとふしぎなギタリストが一緒になって、テラスで飲み会 兼 演奏会がはじまった。
いつのまにやら会員は、60歳になるという、そのふしぎなギタリストを「フクちゃん」と呼んで、和気藹藹、盛り上がって、にぎやかなことはなはだし。やつがれは秋の涼風が快く、庭のハンモックとブランコに揺られながら、腹ごなし 兼 聴衆のひとりになっていた。

奇妙なことに、「フクちゃん」のギター演奏がはじまると、かそけく鳴いていたあたりの虫が、いっせいに元気よく鳴きはじめる。演奏が終わると、秋の虫ども、
「あれっ、どうしたの…… 」
とばかり、しばし沈黙。弱り蚊までどこかに飛んでいってしまった。演奏が再開すると、虫どもがまた一斉に、すだくがごとく活気づいて鳴きはじめた。
「フクちゃん」は、まこともって、ふしぎな演奏家だった。
大呂菴にはこうしたふしぎな時間が流れていた。そしてやつがれ、ともかくブランコでうつらうつら …… 。
 

朗文堂―好日録012 アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行Ⅰ

朗文堂-好日録 012

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朗文堂-好日録
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米どころだけではない !
歴史が育んだ、文化のかおりたかい街
アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行

 

《アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行 2011年10月8―10日》
おりしも秋の行楽シーズンであった。恒例のアダナ・プレス倶楽部 秋の研修旅行に同行。
今回はアダナ・プレス倶楽部新潟支部「山山倶楽部」会員、歯学博士ドクター山崎(現・プラハ在住)と、グラフィックデザイナー山下良子嬢の全面的なバックアップがあって、期待以上のおおきな成果がえられた旅となった。
  なによりもすべての食事が旨いのなんの。写真は食べる方に夢中で、すこしピンボケだが、「妻有」で食した「きのこ汁」の食材。上げ底無し、上から下まできのこの山だった。
新潟会員のご配慮で、この時期、この場所でなければ味わえない、山盛り・天然・自然のきのこだった。左党は名物・越後銘酒にも舌鼓。ご酒は苦手のやつがれは、ひたすら「きのこ汁」。ほんと「きのこ汁」でお腹がいっぱいになるなんて、まさに縄文ひと以上の贅沢? だった。

そもそも造形とは五体・五感をもちいてなす行為である。すなわち、味覚に鈍感なりせば、良い造形などできるわけがなかろうが! やつがれ先般の中国旅行で水にあたって五キロほど痩せたが、それをすっかり取りもどしたほどだ !?  それだけ越後の食の文化はすごかったということ。

というわけで(どんなわけかよくわからないが)、食の文化のあるところには、文字の文化がある。その逆もまた当然真なり …… が持論のやつがれ、新潟旅行を積極提唱。それに賛同者ありて曰く、
「茨城の出身だから、太平洋から昇る朝日はいつもみて
たけど、海に没する夕陽はみたことがない。日本海の大海原に沈む夕陽をみたいなぁ」

〔活版カレッジ・アッパークラス〕ではさっそく、
「いいですねぇ、それではことしはぜひとも新潟に行きましょう」
となったようである。
まずはノー学部がスケジュール骨子を作成。これがまた、なんともはや極めつきに怖ろしいのだ! ノー学部、好奇心はすこぶる旺盛だが、長野県も新潟県も東北地方に分類して平然としているほどの地理オンチ。

ところが好奇心だけはすこぶる旺盛だから、あそこも、ここも行きたい …… 、と喚き立てるが、相互の地理的な位置関係や距離感はまったくないから困ったものだ。
それでも昨年晩夏の近代活字版印刷術伝来の地・長崎旅行につづき、新潟支部の会員と相談して、実りの秋、新潟がもっともはなやいで、にぎわうという、秋の連休を利用しての新潟旅行となった次第。

おおいに心配だったのは、三度の結婚披露宴(結婚式・披露宴は一度、細君の郷里、友人たちと内輪の披露宴の都合三回開催)が、三度ともすべてひどい雨だった …… 、という「雨降り男」のM夫妻が同行すること。
自他共にゆるす雨男のせいで? 行きと帰りの新幹線の車中はひどい雨だったが、まことに奇妙なことに、車中以外は東京も新潟も終始アッパレ日本晴れ。おかげで新潟県中部の寺泊テラドマリ海岸で、待望の日本海に没する雄大な夕陽をみることができた。
写真はノー学部と雨男M氏提供。
                          童 謡  すなやま
うみは あらうみ むこうは さどよ
すずめ なけ なけ もうひは くれた
みんな よべ よべ  おほしさま でたぞ
くれりや すなやま  しおなり ばかり
すずめ ちりぢり  また かぜ あれる
みんな ちりぢり  もうだれも みえぬ
かえろ かえろよ ぐみはら わけて
すずめ さよなら  さよなら あした
うみよ さよなら  さよなら あした

《新潟県と新潟市……良寛さまと会津八一だけではない、歴史と文化の街》
新潟は、信濃川(やつがれの郷里・信州信濃では、おもに千曲川という)と、阿賀野川がなした沖積層と、海と砂丘と湊町からつくられた街である。
『童謡 すなやま』は、北原白秋(1885-1942)が童謡指導に寄居浜を訪れた際に作詞したものとされるなじみ深い曲である。
どういうわけかやつがれ、暮れなずむ海をみながら、おもわず口をついてでたのがこの懐かしい『童謡 すなやま』であった。
今回は新潟市を中心に、近郊市町村をかけまわる旅となった。  

 『巻菱湖伝』(春名好重、春潮社、2000年10月5日、p.223)によると、
新潟県のひとたちは、新潟県出身の書家で傑出しているひとは、良寛と会津八一とだけであると考えていて、江戸時代に巻菱湖マキ-リョウコ(1777-1843)のようなすぐれた書家がいたことを忘れているのは遺憾である。
と述べている。

灯台もと暗しとはいうが、江戸時代だけでなく、近代・現代においても、作家・文人・書芸家・印刷・出版界に多くの俊才を送り出したのが越後の国・新潟県であり、決して田中角栄先生だけではないのだ !?
ところが今回は、良寛記念館は時間の都合でいけず、巻菱湖史料館は臨時休館ということでいけなかった。それでも十分すぎるほどの収穫の多い旅だった。
新潟市のオフィシャルWebsiteによると、以下のように紹介されている。しかし残念ながら、ここにも越後の国新潟の、歴史と、ひとと、その重厚な文化には触れられていない。  

■ 新潟市の概要
新潟市は古くから「みなとまち」として栄え、明治22年の市制施行以来、近隣市町村との合併によって人口約81万となり、平成19年4月1日には本州日本海側初の政令指定都市となりました。
本市は、整備された高速道路網や上越新幹線により首都圏と直結しているなど、陸上交通網が充実しているほか、国際空港、国際港湾を擁し、国内主要都市と世界を結ぶ本州日本海側最大の拠点都市として、高次の都市機能を備えています。一方で、広大な越後平野は、米のほか、野菜、果物、畜産物、花き類など、農畜産物の一大産地です。また、日本海側に面し、信濃川・阿賀野川の両大河、福島潟、鳥屋野潟、ラムサール条約登録湿地である佐潟といった多くの水辺空間と里山などの自然に恵まれています。 

《越後の国で、旨いラーメンにありついたぞ》
土曜(8日)早朝の上越新幹線「MAXとき」に乗り、燕三条駅で下車。
会員の山崎さんと山下さんが、それぞれの愛車《流星号》と、《銀星号》で笑顔のお出迎え。
ひさしぶりの会員同士の再開を歓ぶ間もなく、まずは昼飯、腹ごしらえ。慌ただしく話題の店という、極旨背脂 ゴクウマ-セアブラ ラーメンの「杭州飯店」に駆けつけて昼食。ところが駐車場はいっぱいで、店の前には長い行列が……。ここも「行列のできる人気店」らしい。

やつがれ、ほんのひと月ほどまえ、本場の「杭州Hang zhou」で、劉昊星さんと中国料理をごいっしょしたが、ここ三条の「杭州飯店」の極太麺と、巨大チャーシューと、背脂の出汁ダシがきいたスープも本場に負けず劣らず旨かった。やつがれおもわず舌鼓をうったが、ン !?  新潟は米どころではなかったのか?

《燕市産業資料館で金属加工産業の学習。フイゴの実物を紹介》
燕・三条駅で集合したのは、おもに燕市産業史料館(燕市大曲4330-1)と、諸橋轍次記念館にいくため。燕市産業史料館は燕市の産業の変遷を展示している本館と――この建物が広場や池をはさんだ最奥部にあるので、まず最奥部からの見学をおすすめ――。

燕市の産業は江戸時代のはじめより、和釘・やすり・銅器・煙管などを中心として発達してきました。
この地方では近世に至るまで、和釘(舟釘)は野鍛冶がその必要な需要を充たす程度でしたが、徳川幕府・元和から元禄(1615-1704)に至るまでの[徳川幕府の]直轄時代に、江戸市中を見舞った幾多の地震や火災などの災害復旧のため、当時の代官が、毎年繰り返される大川の洪水で疲弊する農民の救済を目的に、大いに和釘の生産を奨励しました。
それ以降、和釘(家釘)の需要が増大し、近郷を合わせて「釘鍛冶千人」とまでいわれるほどに繁盛をきわめ、燕は東日本の和釘生産の本場となりました。

1700年頃には自家用鋸ノコギリの目立て道具としてヤスりの製造もはじまりました。さらに、元禄年間に開かれた間瀬銅山の銅を用いて、燕では銅器の生産が行われるようになり、明和年間(1764ー)には、会津地方から鎚起の技術を用いた、新しい銅器の製造法が導入され、併せて煙管キセルなども製造されるようになりました。これら燕の金属加工技術は、飾り物などの彫金技術と一体化して、家内工業生産の支柱として農村との密接な関連性を保持しながら発展してきました。    

 しかし明治維新以降、和釘は洋釘に、煙管は紙巻タバコに、矢立は万年筆に、銅器はアルミニウムの普及に加え、1914年の第一次世界大戦勃発により鋼が高騰するなど、これらの産業は衰退の一途をたどりました。
幸いにして[第1次世界]大戦のさなかに、外国からスプーン・フォークの見本が持ち込まれ、試作に成功しました。このことは長い間つちかった金属加工技術をもとに、金属洋食器の製造という活路を開くこととなりました。当初は手造りというエ程も、新しい機械技術やステンレス鋼などの導入によって生産量の増大・品質の向上などを図り、燕の金属洋食器は輸出が急速に発展しました。

第二次世界大戦後は、ステンレス加工技術を活かした「金属ハウスウエア製品」の生産も活発化し、金属洋食器と共に、国内はもちろん、世界百数十ケ国に輪出されています。現在では、これらの伝統産業を大切に保存しながらも画期的な創造力で、先端の加工技術を取入れ、新分野への業種転換及び多角化が行われています。

燕市産業史料館本館で、写真中央と右手最奥部に、やつがれ異なもの〔フイゴ〕を発見。
この風琴にも似た構造の送風器〔鞴フイゴとフイゴ祭〕のことは、東京築地活版製造所跡地に建立された「活字発祥の碑」に関して、本ブログロール『花筏』「A Kaleidoscope 002」に紹介したことがある。関心のあるかたは、面倒でもアーカイブから引きだして「A Kaleidoscope 002」の全文をごらんいただきたい。

わが国において近代活字鋳造がはじまった明治初期、活字鋳造工のおおくはふるくからの技能士、鋳物士(俗にイモジ)から転じたものがおおかった。かれら鋳物士は、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であった。      

「A Kaleidoscope 002」より部分紹介―――
もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者などと同様に、蒸気ボイラーなどにも裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の 「鞴 フイゴ」 をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して 「イモノ」 をつくっていた。ふつうの家庭では 「火吹き竹」 にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。
そのために活字鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな金属成形品をつくるための火を 玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは 「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足を踏むことを 「蹈鞴 タタラ を踏む」 としてのこっている。
       

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇 (聖徳太子の父、在位585-87) の 『職人鑑』 に、 「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。つまり高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)がもちいてきた用具である。

そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。また太陽の高度がさがり、昼の時間がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、各所の活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」 を催して、「一陽来復」を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であったことを理解しないと「活字発祥の碑」 建立までの経緯がわかりにくい。          

移動中、雨男M氏が富農の家の軒瓦に興味を示していた。こういったたぐいの、ある種の意味性をもった造形物を、中国では「文」という。わが国では、まれに「紋」という。
興味のあるかたは、前ページの『朗文堂ー好日録 011』をご参照ありたし。

越後平野は米どころ。それだけに富農や豪農がおおく、家の構えも、瓦屋根も立派なものが多い。写真にみる棟の両端におかれた装飾瓦は、よく知られる《鬼瓦》とおなじ目的のもので、こうした棟瓦の一種は《獅子口》という。最上部の円筒形の部分は経典を模したもので「経の巻」といい、山形をなす部分を「綾筋」という〔以上、おもに『広辞苑』より〕。
神社や宮殿や資産家の邸宅にしばしばみられるが、越後平野では、あたりまえにみることができた。すなわち越後の民艸は裕福であるということ。           

《度肝をぬかれた各地の記念館、なかんずく、北方文化博物館》           
それからの2泊3日、まことに慌ただしく各地を駆け巡った。
印象にのこった施設が、まず蕗谷虹児記念館。蕗谷虹児(フキヤ-コウジ 1898-1979)は新潟県新発田市出身の画家であり、詩人でもあった。

蕗谷は最初に「待てどくらせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ……」とうたった先輩の竹久夢二にあこがれ、やがて、その勢いは満天下の人気を竹久夢二とともに二分した。とりわけ短い生涯だった母を思慕して詠んだ『花嫁人形』は現在も愛唱されている。

        童 謡  花嫁人形
金 襴 緞 子 の  帯 し め な が ら
花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ
文 金 島 田 に   髪 結 い な が ら
花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ
あ ね さ ん ご っ こ の   花 嫁 人 形 は
赤 い 鹿 の 子 の   振 り 袖 着 て る

     

諸橋轍次記念館(新潟県三条市庭月434番地)も、タイポグラファならぜひとも一度は訪れていただきたい場所である。
正直いって、やつがれ初日にいったこの記念館――というより、この地の異形な景観に衝撃を受けて、それからの2日間は、どうにもこうにもフワフワと夢心地。
すなわちここに日本風の民家や杉林がなければ、八木ケ鼻を中心とした景観は、中国の浙江省あたりの景観とそっくりだった。そもそもこのあたりは「漢学の里」と、いつのころからか呼ばれているそうである。
諸橋轍次(1883―1982)のことはくどくは書かない。いわゆる『諸橋大漢和辞典』(大修館)を編纂し、静嘉堂文庫館長・東京文理科大学教授を歴任。また文化勲章受章者である。100歳の春秋をもって1982年逝去。

それよりやつがれ、庭園につくられたほほ笑ましい「西遊記の像」と、その直近に現存する諸橋轍次の生家にみとれていた。玄奘三蔵、三蔵法師(600―64、一説に602―64)は唐代の僧で、もちろん実在の人物である。
玄奘三蔵は629年に長安を出発し、天山南路からインド・天竺にはいって、ナーランダ寺の戒賢らにまなび、645年帰国。『大唐西域記』はその旅行記である。
帰国後に『大般若経』『倶舎グシャ論』『成唯識論』などの多数のサンスクリット仏典を漢訳した。また勅命によって652年慈恩寺を長安に建立し、経典保存蔵として「大雁塔」を設け、それらは西安に現存している。その歴史の現場に、やつがれつい先日たっていた、というより、高所きらいのため避けていた「大雁塔」にはじめて昇っていた。

大雁塔には初唐の政治家にして、楷書・隷書の書芸家としても著名な褚遂良(596―658)が、唐の太宗・李世明の命によってのこした『雁塔聖教序碑』がある。書はけっしてうまいとはいえないが、格調のあるすばらしい碑文である。つまりやつがれの好きな書のひとつが褚遂良の『雁塔聖教序碑』である。 。
褚遂良は博学でしられ、太宗につかえて諫議大夫兼起居郞にすすみ、高宗のとき尚書右僕射となった。しかしながら血の気もおおかったようで(それが書にもあらわれている……)、武氏(則天武后)の皇后冊立に反対して、愛州(いまのベトナム北部)に左遷され、そこで没した。

ところで諸橋轍次記念館の「西遊記の像」である。玄奘三蔵の『大唐西域記』と『西遊記』とはまったく異なる文書である。
『西遊記』は『大唐西域記』にみなもとを発してはいるが、明代の呉承恩作の長編小説であり、中国四大希書のひとつとされる。
『西遊記』においては、唐僧・玄奘三蔵が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄とともに、さまざまな妖魔の障碍を排して天竺(インド)にいたり、大乗経典を得て中国にかえるというのが粗筋になっている。
孫悟空ソンゴクウは快猿で、七十二般変化の術と、キントウン――ひと飛びで10万8千里をいくという――の法を修得して天空を騒がせたが、のち玄奘三蔵に随伴して大小八十一難をしのいで天竺にいたり、三蔵法師は経典5048巻を授けられるのをたすけたとされる。その孫悟空はここ諸橋轍次記念館でも、やはりキントウンにのっていた。
『大漢和辞典』というもっとも厳格さが要求される分野で名をなした諸橋轍次も、いまや黄泉にあそぶひととなったが、どんなおもいで記念館の庭園にもうけられた「西遊記の像」をみているのだろうかと、ほほ笑ましいおもいであった。   

《次回に紹介したい、北方文化博物館》

  

今回の旅(取材)でもっとも衝撃的だったのは、北方文化博物館 である。写真は北方博物館館長、第八代・伊藤文吉氏(1927年うまれ)。北方博物館は中央メディアでの露出がすくないようだが、それはどうもその存在意義の解析が困難をともなうからのようである。
やつがれ、それなりに資料収集につとめたので、次回に北方博物館と、やはり伊藤家が戦後に住居を提供するなど、なにかと面倒をみた会津八一のこと、それに新潟がうんだ奇才・坂口安吾のこともあわせて紹介したい。

朗文堂―好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ

朗文堂-好日録 011

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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吃 驚 仰 天 !  中 国 西 游 記

《吾輩、13回目の中国行き。されどこれまでの経験則はまったく役立たず》
2011年9月の中旬、ひさしぶりの
中国旅行に出かけた。
やつがれが最初に中国に行ったのは1975年(昭和50)年のこと。まだ毛沢東は健在だったし、日本は
まだ貧しく、中国もまたひどく貧しかった。

そして最後の訪中は、イーストの丸山雄三(ステルス性胃ガンで急逝・故人)元社長をはじめとするコンピュータ・ソフトウェア製造企業の社長連に誘われ、ゾロゾロと6人の団体で、中国東北部(旧満州)ハルビンの黒竜江大学との産学共同による合弁会社「黒竜江イースト」にいった。

いかに社会体制がことなるとはいえ、なぜ国立大学の中に、営利目的のコンピュータ・ソフトウェア製造企業イーストとの合弁会社ができるのか、また黒竜江大学の副学長が合弁会社の副社長でもあるのかわからないまま、デジタル・タイプの製作指導と講演にあたった。産学共同とはいえ、このあたりの事情はいまもってよくわからない。
このハルビンにいったのが2000年(平成12)だった。その後やつがれがしばらく体調を崩したためもあって、10年ぶり、ひさしぶりの中国であった。

当時の中国には、独国ベルリンの東西を隔てる「ベルリンの壁」になぞらえ、「竹のカーテン」なることばがあった。つまり中国の為政者がみせたくないものは、外国人にはみせないということ。
したがって、外国人が所持する通貨はクシャクシャの人民元ではなく、嫌も応もなく「兌換券・兌換元」という名の外国人専用の通貨をもたされ、それが通用する場所以外での行動が規制された。

また監視役? を兼ねた、ガイドの同行がつねにもとめられた。それも旅の最初から最後まで同行する「スルー・ガイド」と、それぞれの現地でつく「現地ガイド」「車輌とドライバー」を引きつれての〈お大名旅行〉であったが、旅行者にとってはなにをするにも不自由があり、まして研究という名に値する行為には困難があった時代のことである。

急に中国行きを決めたのは複数の機関から招かれたのがきっかけ。そこで、どうせ久しぶりに中国にいくなら、おもいきった研究・取材旅行を兼行しようと決めた。ノー学部に主要な取材対象とその所在地だけを伝えて、スケジュール立案を任せた。

かつての〈監視役兼ガイド付きのお大名旅行〉とはことなり、ノー学部は勝手に、中国のホテルや、友人・知人、個人ガイドに@メールを送りつけ、やつがれが不安になるほどの安いホテルを@メールで予約していた。

ところで、ノー学部は中国はまったく初体験。そこで先輩風を吹かせて、
「しっかりガイドブックを見ていかないと、歴史のある中国のことは、なにも理解できないからな……」
といっておいた。
すると、どこにしまい込んでいたのか、ノー学部。やおら20年ほど前の、高校時代の教科書『詳説 世界史』(山川出版 1989)を引っぱり出して一心に読んでいた。海外旅行にいくのに、やたらにググったり、高校時代の世界史の教科書を読みだすことには呆れるしかなかった。
「外国の歴史の概略をつかむのには、この教科書が一番。専門事項は、帰国後に専門書でじっくりと読む」
そうである。なんでもいい、旅ではホテルは安心・安全なところにしてもらい、あとは好きにしてくれの気分。

ところで、やつがれが盆暮れの休暇を利用したりして、しばしば中国にいったのは15年ほど前までのこと。いまだ改革・解放が進展しない時代のことであった。もちろんその後の中国が「北京オリンピック」「上海万博」などのおおきなイベントをなしとげ、各地に新幹線網――大事故のあとだったが、西安―洛陽、洛陽―鄭州テイシュウ, Zheng Zhouへと2度中国版新幹線に乗車した。

日本と異なり、元来広軌鉄道だった中国では、車輌こそ外国から導入した技術による「新幹線」だが、在来線軌道の一部を利用して「新幹線」とし、200―300キロで突っ走る。それなりにスリルのあるものだった――が張りめぐらされるほどの急速な変化を遂げつつあるという情報はもっていた。

改めて驚いたが、いまや大都市の周辺は、ドイツの「アウト・バーン」なみの、片側4車線の高速道路があった。かつてくわえ煙草でイライラと警笛を鳴らし続けていたドライバーは、シート・ベルトを着装して、交通法規を遵守し!  ゆったりと走っていた。もちろん車内は禁煙強制が多い。

また都市には地下鉄がとおって、路上を埋めつくしていた自転車とモーター・バイクの洪水は消えていた。あたりかまわず痰をペェッ、鼻水をチ~ンとやる風習も無くなり、男性も洗髪後にリンスを使っているのか、ボサボサ頭は消えていた。
〈いったい、どうしちゃんたんだ……、中国!〉

こうして、短いあいだに7城市(都市)、14県を駈けまわったが、ついに最後までやつがれ、浦島太郎が中国に流れついたような気分は消えず、
〈あの、ふるき良き中国は、どこにいってしまったのだ!〉
という、とまどいと、こんなはずじゃなかった……と、おもいまどうばかりの毎日であった。
────
中国では、かつてやつがれの教え子だった、劉さん、孫さんが、それぞれ修士号、博士号を取得して帰国し、社会的リーダーになっていた。かれらをはじめ、各城市で、倪ゲイさん、王ワンさん、姜キョウさんらの多大な協力をいただいた。
また北京では「移住直後の金田さん」のサポートをいただき、城西地区のとびきりおいしい餃子館――主餐が数種の餃子だが、それまでの10皿ほどの北京料理ですっかり満腹――での晩餐にまでご招待いただいた。ただただ謝謝!である。

そもそもやつがれ、中国とその民艸がすきである。富貴なるもの、傲れるものも、困窮にあえぐもの、飢えに苦しむものも、ひとしく、たくましく生きるのが、昔も今もかわらぬ中国の民艸である。
ひろい大地を悠然と闊歩し、隙あらば足をすくわんとするぬけめないひとと、底抜けにあかるく、こころやさしいひとが混在する、あやかしの国、ふしぎの国 ── 中国。

この国にはかつて、いくつもの民族とその姓氏による王朝(姓氏革命)が樹立され、黄色い皇帝の御旗が都城に翩翻ヘンポンとひるがえった。そしていま、五族協和をあらわす、いつつの星が描かれた紅クレナイの旗「五星紅旗」が北京にひるがえる国、中国。

《なつめ 棗 と トゲ 棘 との奇妙な相関関係》
ひとの墳墓によじ登ったのだから、バチがあたったのかもしれない……。
陝西省西安から、隋王朝(581-619)最末期、中央政府高官の墳墓を皇甫川 コウホ-セン に訪ねた。この日は孫さんは大学出講日。
きょうは旅行会社の社長・倪ゲイさんが、みずからハンドルを握るそうである。最初の打ち合わせでは、いかにも中国の大人タイジンらしく「隣の町ですから……」という調子でも、いざ出発時間を決める段になると「200キロほどありますから、日帰りだと朝9時出発」ということになる。
きょうも朝食は軽くして、遠出であっても倪さんのすすめるおいしい地元料理を昼食にする。

墳墓のある村の名前だけはわかっていたが、なにせ1500年ほど前のひと、随朝初期の高級官僚「皇甫 誕」の墓である。あらかじめ調査を依頼していた倪ゲイさんは自信ありげだったが、やつがれ、本当にそのひとの墳墓が「地上に」「実存している」のか半信半疑で、車中のひととなった。

倪さんはその皇甫川コウホ-センの村に入ってから、何度も村人に墳墓のありかを尋ねていた。もちろん案内板などはまったく無い。
村人の指さす方向にしたがって、車はどんどん辺鄙な農村に入っていった。もはや人家も少なくなり、ただただとてつもなく広大な畠がひろがる。ようやく到達した目的の墳墓は、収穫を終えた広大なトウモロコシ畠のなかにポツンとあった。

なにせ随朝政府の高官とはいえ、1500年ほど前のひとの墳墓である。わが国なら推古天皇の治世下(593―628)で、聖徳太子が摂政にあたったとされる──現代では聖徳太子の存在そのものが歴史学者から疑問視されている──ほとんど伝説の時代であり、地中に埋もれて「古墳」と表記されるようなシロモノである。

ところが「字」の国・中国にあっては、この皇甫誕と唐王朝で活躍した子息・無逸のこと【中国版bai-do】が、国家の正史『唐書』に記載されているため、こうして墳墓を訪ねることも可能である。
これを見てやつがれ、どうやら興奮のきわみに到達したらしい。それからの数十分ほどのことはよく覚えていない。
やおらふらふらと、雨上がりでぬかるんだ畠に踏みこみ、墳墓に登ろうとした。倪ゲイさんは「危ない、危ない」と叫んでいたらしいが、それもよく覚えていない。

   

墳丘と、その頭頂部に立つやつがれの大きさを比較して、この墳丘(円墳)のおおきさを想像してほしい。遠目にはちいさくみえたが、この墳墓はとてもおおきかった。
中国でのこの種の構築物は、古来「版築法ハンチクーホウ」という築造法によってつくられている。すなわち、板で枠をつくり、その中に土を盛り、一層ずつ杵キネでかたくつきかためるものである。
したがって下部の5メートルほどは垂直に切り立った、煉瓦のようにかためられた土で、その上に円墳がのっている。

そこで土盛りの崩れたところからよじ登りはじめたが、遠目にはただの灌木にみえたものが、一面の棗ナツメ(ノー学部によると、高木となるのが棗。ここのはイバラないしはサネブトナツメで灌木をなす)の木であり、それがまたナント、棘トゲだらけのブッシュであった。

ところで……、《棗》の字をよくみると、《朿 字音 シ 意読 とげ》が、ご大層なことに、二段重ねになって「トゲ・トゲ」をあらわしている。すなわち盗掘防止のためもあるのだろうか、一面トゲだらけの灌木に墳丘は蔽われていた。
「字」の国・中国は、斯様にして無知蒙昧なやつがれらを「字」で虐めるからイヤになる。

傾斜は写真でみるよりよほどきつく、足が滑るたびにおもわず 棗 ≒ 棘 = トゲトゲ をつかんでしまう。「いてて、イテテ」と、もはや半泣きでよじ登る。
ようやく(もはや意地だったが)写真にみるように頭頂部に登りついたとき、ズボンの裾はあわれなまでにズタズタになり、上着のあちこちはほつれ、手も脚も、そしてどうやら滑ったときに顔(目じりのあたりで、すこしでもずれていたら眼球が危なかった)までが棗のトゲで傷だらけで、おまけにあちこちに棗のちいさなトゲが突き刺さっていた。

この墳墓の主の子息・皇甫 無逸コウホ-ムイツは、のちに唐王朝の貴官・御史大夫(ギョシ-タイフ 副首相格、御史台の長官)となった。そこで亡父・皇甫 誕の顕彰のための墳墓を構築し、唐王朝の初期、もっとも著名な書芸家──欧陽 詢オウヨウ-ジュンという──に墓碑の揮毫を依頼した。
おそらく唐王朝時代には、この墳丘の前には、その巨大な墓碑『皇甫 誕碑』がそびえたっていただけでなく、ひとびろとした稜邑がもうけられ、その一隅には坊楼がそびえたち、堂宇も建ち並び、香華が絶えなかったものとおもわれる。

しかしながら、ときが移り、四季をかさね、王朝とみやこももなんども変遷するうちに、いつしかこの墳墓は顧みられなくなったようである。なにしろ1500年からのときがここで経過したのである。
そして墳墓は畠のなかに孤立し、その墓標は墳墓と切りはなされて、西安碑林のもっとも枢要な収蔵物『皇甫 誕碑』として、世上からたかい評価を集めている。
【詳細画像:中国版図集

西安碑林をはじめ、各地の碑林・碑坊に立ちならぶ著名な碑には、こうした秘められたものがたりが多い。その墳墓を訪ねた記録のひとつを紹介した。
この間ノー学部はのんきにそこらの野面を散策し、ちいさな石ころをふたつ拾っていた。それだけがこの墳墓にいった記念の品になった。

《西安碑林と採拓のいま》
ところで、その西安碑林である。碑林とか碑坊とよばれる施設はあちこちに存在するが、そもそもこの施設はかつて陝西省博物院といった。やつがれ今回が3-4回目の訪問になる──というより、以前は西安まで出かけても、兵馬俑・秦始皇帝陵・華清池・慈恩寺大雁塔などの著名な観光地と、ここ西安碑林、お土産物屋さんぐらいしか案内されなかった。

その西安碑林の中核の収蔵物が、晩唐の開成2年(827)、長安の最高学府たる国子監に設けられた官吏登用試験「科挙の教科書」ともいうべき「開成石経カイセイーセッケイ」で、『石の書物――開成石経』(グループ昴、朗文堂、2003)に紹介した。この開成石経はいまなお碑林の入口、第一室をド~ンと占めている。

西安碑林の第2室―第4室を占める著名な石碑は、おおむね拓本がとられており、それが拓本や影印複写による書籍の形で販売もされている。今回は銘碑とされる碑が立ちならぶ第1室から第3室までは撮影だけに集中し、世上の評価はないものの、おもに書から活字への転換点となった無名の碑を第4室-第5室で探した。
これらの無名の碑は、研究熱心な書芸家でも見落としていることが多いことに気づいていた。やつがれの眼をとらえたのは金国の石経(セッケイ・石の書物)であった。

黄河流域・開封カイホウ, Kaifeng にあった宋国(北宋 960-1126)は、1126年ツングース系の民族、女真族完顔ワンヤン部の首長・阿骨打アグダが樹立した金Jin国によって滅びた。
1126年「靖康セイコウの難」とよばれる混乱のうちに、帝独自の書風による痩金体『趙佶千字文 チョウキツ-センジモン』をのこした徽宗キソウ上皇と、その実子・欽宗キンソウ帝は捕らえられ、漠北の地に連行されてそこで没した。

宋国の一部は臨安(杭州)に逃れて、南宋(1127ー1279)を樹立した。南宋では出版事業が盛んで、刊本字様・活字書体としての「宋朝体」をのこしたことはひろく知られている。その間、はたして金国では「女真文字」の製作以外にはみるべきものがなかったのか?

金国と南宋は大散関から淮河ワイ-ガ, Huai Heを境界として、南北に並立して南宋(南朝)・金Jin国(北朝)を名乗った。しかしながら、南宋を逐って征服王朝・金国を開封(1153年燕京・現北京に遷都)に樹立したとはいえ、女真族はあくまでも少数民族であり、当然金国の民は漢民族が中心の国家であった。そのため金国にあっての文化も、1176年に中国伝統の官学「府學・女真學」がおかれ、女真族の文化の振興もはかったが、それでも漢民族の伝統が途絶えることはなかった。

たとえば書芸家の趙孟頫(チョウーモウフ あざな・子昂チョウ-スゴウ 1254ー1322)は、その『六体千字文』をはじめ、漢民族伝統書法の継承者として評価がたかい。これから金国時代の石の書物・石経セッケイを研究しその評価を定めたいが、下記の写真の採拓風景とは異なり、石経はともかく文字がちいさく、彫りが浅いので、当初はいかに名人とされる採拓士でも、とても採拓は無理だとされていた。

しかしやつがれらの熱意に押され、また採拓士としての王さんの職人魂が燃えあがって、
「ぜひ、この石経の採拓に挑戦したい」
とするようになった。つまりいままでの手探りとはちがって、これからは西安でも、孫さんはもとより、倪ゲイさんと王ワンさんの心強い支援が期待できるようになった。乞う!ご期待の次第である。

《文≒紋様学、字≒文字学、あわせて文字の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり商(殷)・周時代の銅器などに、金文とともにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などと同様に、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。

まして中国では甲骨文――くどいようだが甲骨文字ではない――を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な青銅器を製造し、錆びに弱い銅器が3000年余も腐食しないほどの高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)ももっていた。
また甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

 

殳――シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形である。「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。
殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

 

 
こうしてやつがれ、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。
河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」では、前期商(殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれこの鄭州城市は2度目だが、ともかくこの街はわかりにくいとしかいえない。それにここでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされる。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の土塁がみえるが、それは全体の高さの1/3-1/4ほどでしかなく、峨峨たる巨大な城壁のほとんどは地中に埋もれている。
そしてこの街のあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からはほとんど発見されない。

河南省北部の安陽 Anyangは、前述の鄭州から近く、その北西郊外に紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文≒紋学、字≒字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。

《取材はいちおう完了した。あとはどうまとめるか!》
かつての新中国では「四旧追放」として、ふるき良きものをふり返らない風があった。そのために初等教育から筆をもつ書芸の授業が消え、墨や硯の製造業者が存亡の危機におちいった時期もあった。

余裕ができたのだろうか……。いまの中国は、国をあげて「民族の伝統、ふるき良きもの」を見なおしていた。したがって全土からバスを連ねてやってくる団体客によって、名所・旧跡・観光地・博物館などには人が溢れかえっていた。
まして王羲之の書で知られる浙江省紹興の「蘭亭」などは、大型バスで中国か土からやってくる観光客でまったく人の切れ間が無く、撮影に苦慮するほどの混雑ぶりだった。

著名な『蘭亭の序碑』の前では、どこかの田舎から出てきたとおもえた団体バスのオッチャンやオバチャンが、子供ともども一斉に声を張りあげて、朗朗と『蘭亭の序』を朗読する姿には感動した。そして、それを即座に読みくだせないやつがれは「かなわないなぁ……」とおもわせられることたびたびであった。

さらに、ノー学部のスケジュールには、なにかと病み上がりを自称するやつがれへの配慮などは皆無で、まったく余裕がなく、過酷なものだった(怒)。ともかくやつがれ、ビジュアル・ショック(視覚的衝撃)の連続と、足腰の痛みで、心身ともにヘトヘトになった。

とりわけ陝西省・河南省などの内陸部は、まだ開発が遅れ気味で、旅行者には必ずしも楽な旅とはいえず、北京にでてホッとひと息ついた。そこで真っ先に駈け込んだのがマックとケンタッキーだったのが悲しかったが……。

しかしそこでも報告の少ない印刷大学、印刷博物館を訪問し、改装なった紫禁城(故宮博物院)武英殿も、来訪4度目にいたってようやく取材することができた。また非公開だった紫禁城北宮が「珍宝館」として公開され、秦代石鼓の主要なコレクションや、未紹介のタイポグラフィ資料を多数発見できた。
これから何カ所かの追加取材もありそうだが、なんとか中国文字の旅をまとめたいとおもうこのごろである。

朗文堂-好日録 010 ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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ここのところ野暮用に追われまくりの毎日
されど[カラ]元気で、オイチニ、オイチニ !

¶ あの日、そう、あの03月11日以来、ここ新宿邨周辺では、大通りを闊歩していた紅毛碧眼人コウモウ-ヘキガン-ジンがめっきり減った。また、中国のひとの「ニイハオ! 謝謝」も、韓国のひとの「アンニョイハシュムニカ、カムサハンムニダ」のおおきな声もめったに聞かれなくなった。
新宿邑では、たれもが心もちうつむき加減で歩き、夜の街は、ここが繁華街のただなかであることを忘れさせるほど、すっかり暗い街になった。お江戸の空も空気が澄んで、夜空に星がまたたくのがみえるようになった。計画停電や節電が叫ばれ、余震におびえる、地震冷えの寒い毎日であった。

¶ 03―04月は、震災前から決まっていた年度末・年度はじめの作業に追われたが、ふり返ってみると、どことなく気が抜け、なんとはなしに腰が抜け、まとまりを欠いた日日だった。
それが5月の連休明けから、それまでの2ヶ月分の反動のように、俄然慌ただしくなった。それも従来の企画や行事を惰性のように反復するのではなく、ゼロ基盤から立ち上げる作業が多く、気がつけば、06―07月の両月は、ほぼ休日無しでの仕事がつづいた。

¶ アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕では、5月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。それでも会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2001』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性、Oさんから、「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」との写真添付メールが送られてきた。Oさんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉に、はるばる仙台から駆けつけてくださる熱心な活版ファンである。
やつがれも5月初旬に、「空中庭園」の植木鉢に3株を植えたが、現在は腰ほどの高さにまで成長し、ちいさく花芽もつけている。この草は、アオイ書房の志茂太郎が愛した花として知られ、晩夏から初秋のころ、たった1日だけ美しい花をつける(はずだ)。

¶ おそらく秋が深まったころ、アダナ・プレス倶楽部の有志諸嬢と諸君は、このトロロアオイの根っこを持参し、恒例の〈手漉き紙体験会〉に賑やかにくりだすはずだ。ところがなんと――つい最近詳細を知ったが――、なにかと催事が好きなアダナ・プレス倶楽部は、10月の3連休を利用して、〈活版カレッジ修了生新潟支部――実存するのだ!〉のY嬢と、Y博士の肝煎りで、新潟漫遊 モトイ 新潟研修旅行を計画しているらしい……。そのあとで、もっと水が冷たくなる11月下旬ころに〈手漉き紙体験会〉となるスケジュールだそうである……。

  やつがれにとって、都下あきる野市行きとは、手漉き紙体験も楽しみだが、それよりも、近在の「喫茶 むべ」――アケビの別称――の珈琲が楽しみだ。水のせいかとおもうが、ともかくここの珈琲は絶品である。そこでは造形者だった老店主との会話が弾む。また「喫茶むべ」の近くには、湯の香もゆたかな天然温泉もあるという、おまけたっぷりの東京都下への旅となる。そして今年は、会員みずからが育てたトロロアオイの根っこが、ネリとして、コウゾの繊維とともに手漉き紙用の「舟」にいれられそうだ。 

¶ 07月某日、関西方面出張。タイポグラフィゼミナール、活版ゼミナールを兼ねての強行軍での出張。たまたまほぼ同じ時期でのおはなしだったので、スケジュールを集約調整して、大阪3ヶ所、京都2ヶ所、滋賀1ヶ所を駈けまわるという強行スケジュール。なにはともあれ交通の便だと、京都駅前のタワーホテル(オノボリサン丸出しもいいところ。のちほど京都育ちのHさんに、古都の景観を損傷した京都タワービルには入ったこともない …… と呆れられた)をベース・キャンプにして仕事に集中。

連日、大阪・京都・大津といったりきたり。それなりの成果もあったし、充実感もあった。されど、ここで仕事のはなしをするのは野暮というもの。なにせノー学部といっしょだったから、忙中に閑あり。やってくれました! なんともまぁ、唖唖、こんなこと !!

¶ なにかおかしいぞ……、と、嫌な予感はした。
「京都から大津にいって、彦根にいくって、たいへんですか」
「直線距離ならたいしたことはないけど、なにせ琵琶湖の縁をこうグルッとまわってだね …… 、結構面倒かな」
「彦根城には、いったことはあるんでしょう」
「水戸天狗党の藤田小四郎を調べていたころ、井伊大老の居城ということでいった」
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」
やつがれ、なにを隠そう、じつはちいさいながらも城下町で育ったせいか、彦根のふるい家並みの街が好きである。ここには大坂夏の陣で破れた忠義の武将、木村重成公の墓(首塚)もあるし、お馴染みの「徳本トクホン行者 六字名号碑 南無阿弥陀仏」もある。それよりなにより、近江牛のステーキは垂涎ものなのだ!

¶ 雨中の江州路をゆく……。こうしるせば、ふみのかおりたかいのだが、実相は違った。ハレ男を自認しているやつがれにしては、この日はめずらしくひどい雨がふっていた。
「並んで、並んで。ハイハイ並んでくださ~い」。
やつがれ、駅からタクシーで彦根城にきて、いきなりわけもわからず行列に並ばされた。2-300人はいようかという大勢の行列である。みんな「ひこにゃん」なるものを見るのだそうである。きょうは雨なので、お城に付属した資料館のようなところに「ひこにゃん」なるものは登場するらしい。行列に並びながら、やつがれ「ほこにゃんとは、そも、なんぞい」とまだおもっていた。
ところがナント、まことにもって不覚なことながら、やつがれ、(順番の都合で偶然とはいえ)、最前列に陣どって、ともかく嗤いころげて「ヒコニャン」をみてしまったのだ。要するにかぶり物のキャラクターだったが、ちいさな仕草がにくいほどあいらしかった。
あとはもうやけくそ! 字余り、破調、季語ぬけおかまいなしで、一首たてまつらん。

      

エッ、この人力車に乗ったかですか。乗るわけないでしょうが、いいおとなが。――ところがやつがれ、こういうキッチュなモノが意外と好き。ハイハイ正直に告白、「ひこにゃん」も見ましたし、この人力車にも乗りましたですよハイ。チト恥ずかしかったケド、しっかりとネ。
ともかく急峻な坂道を天守閣までのぼり、さらに内堀にそってずっと歩いたために、足が棒になるほど疲れていた(言い訳ながら)。実際は、なによりも旨い近江牛をはやく食しに、このド派手な人力車に乗って、車中堂堂胸をはって(すこし小さくなっていたような気もする)いった。ステーキはプチ贅沢、されど旨かった。

雨中に彦根城を訪ねる   よみしひとをしらず
    ヒコニャンに  嗤いころげて  城けわし
青葉越し  天守の甍に  しぶき撥ね
湖ウミけぶり  白鷺舞いて  雨しげく

木邑重成公の墓に詣る  よみしひとをしらず
    むざんやな 苔むす首塚 花いちりん

   

        

   

¶ 8月某日、爆睡ののち、おもいたっての外出。

¶ それにしても、ことしの夏は暑い毎日であり、猛暑 → 酷暑 → 劇暑 → 烈暑 → 殺暑 …… 南無~~ といった具合に暑かった。そのせいかどうか知らぬが、新宿邑の街路樹として、近年の夏を彩る「サルスベリ 百日紅」の開花がおそく、蝉どももなかなか鳴かなかった。それが一度涼しい日が数日つづいたあと、百日紅が一斉に深紅の花をつけ、蝉がにぎやかに鳴きはじめた。

一部では「暑苦しい花」として不評らしいが、やつがれ、この暑い盛りに深紅の花を、それこそ百日ほどにわたってつける「サルスベリ 百日紅」が好きである。それより、雪深い田舎町出身のわりに、暑い夏は嫌いではない。むしろ、寒い冬は、炬燵に潜りこんで厳冬をやりすごした癖がぬけないのか、愚図ぐずと、なにをする気力もなくなり、惰眠をむさぼるふうがある。

 ¶ わが「空中庭園」にも、蝶や蜂がしばしば訪れるようになったのは、08月の中旬、甲子園野球が決勝戦を迎えようかというころだっった。お盆の4日だけの休暇でノー学部が帰郷したので、高校野球の観戦もせず、08月14日[日]だけ、爆睡、また爆睡を決め込んだ。時折目覚めてカフェに行き、珈琲一杯とサンドイッチを食してまた爆睡。
そしたら疲労がいっきに回復して、かねて気にしていた、大先輩の訪問をおもいたって、相手の迷惑もかんがえず、勝手に08月15日[月]に押しかけた。

¶ 九段下で乗り換えて多摩プラーザに「活字界の最長老・細谷敏治翁」を訪ねる。細谷翁は90を過ぎてなお車の運転をして周囲をハラハラさせたが、現在御歳98歳、やつがれとの年齢差33歳。車の運転こそやめたが、耳は難聴を患ったやつがれよりはるかに確かだし、視力も相当なもの。しかもシャカシャカと歩いて元気そのものなのである。くどいようだが98歳!

細谷敏治氏――東京高等工芸学校印刷科卒。戦前の三省堂に入社し、機械式活字父型・母型彫刻機の研究に没頭し、敗戦後のわが国の金属活字の復興にはたした功績は語りつくせない。
三省堂退社後に、日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい活字自動鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型には必須の技術となった。また実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月1日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年1月20日」を取得している。

また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
今回は、その細谷翁直々の「特別個人講義」を受講した。資料もきっちり整理が行き届いており、「やはり本物はちがうな」という印象をいだいて渋谷に直行。

 ¶ 車中あらためておもう。
「戦前の工芸教育と、戦後教育下における、工業(工業大学・工学部)と、藝術・美術(藝術大学・美術大学・造形大学)に分離してしまった造形界の現状」を……。すなわちほぼ唯美主義が支配している、現状の「藝術・美術・造形」教育体制のままで、わが国の造形人、なかんずくこれから羽ばたき、造形界に参入しようとする若いひとたちを、これからもまだ市民社会が受け容れるほど寛容なのか、という素朴な疑問である。

¶ 渋谷から山の手線に乗り換えて大崎駅下車。小社刊『本へ』の著者、羽原肅郎氏を訪問。最近少し体調を崩されたと聞いていたのでチョイと心配していたが、写真のようにまったくお元気で安堵・安心。
羽原さんはともかく無類のモダン好き。だからつい最近まで、ヘアーカットは「ウルマー・カット」(ウルム造形大学生のかつての流行ヘアー・スタイル)、そして眼鏡はマックス・ビル風のまん丸い「ビル・メガネ」という凝りようだった。この万年青年のように純粋なひととかたっていると、やつがれも若者のような心もちになるからふしぎだ。
夕陽をあびて、帰途は大崎駅まで送っていただいた。写真のピントがあっていないのは、デジタル音痴のやつがれのせいで、ナイコンのせいではないことはあきらかである。

¶ 立秋を迎え、夏休みも終わりだ。残暑も収まりつつある佳き日のきょう。8月26日[金] 五黄先負癸丑ミズノト-ウシ。

朗文堂-好日録 009 2011年3月11日、宮澤賢治と活字ピンセット

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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あの日のこと、そして
たかが……、されど、貴重なピンセッ

メディア・リテラシー   久しぶりに「朗文堂-好日録」をしるしている。期末・期首で忙しかったせいもあるが、やはり平成23年(2011)3月11日[金]14時46分、あの大地震と災害の凄まじさで、筆 モトイ キーボードが重かった。あの日、あの時、やつがれは遅い昼食を摂ろうと、まさにコンビニおにぎりを開封しようとしていた。この作業がいつもうまくいかず、包材が破れて海苔がのこるのが口惜しいので、きわめて慎重、かつ、きわめて丁寧に剥離の作業に一心不乱、熱中している最中、第一撃がドカンときた。続いてユッサユッサとおおきな揺れが続き、これはでかいぞとおもった。続いて第二撃がおそった。不安定だった書棚の書物が崩れるのを、おにぎりを持ったまま呆然とみた。どこのビルもエレベーターが自動停止して、非常階段が叫び声であふれた。みんなが口々に「逃げろ、逃げろ! 早く新宿御苑に避難しろ」と叫んでいた。第3撃がきたとき、吾輩は[取りあえず、主震よりでかい余震はないからな……]と開き直って、椅子にかけて大好物の「昆布おにぎり」を食べていた。しばらくして新宿御苑の避難から戻った社員にあきれられた。

¶ もともと小社にはテレビが無い。今回わかったことだが、社員私物のラジオが1台あるだけである。それでも今回の地震では、全員が帰宅困難者になったので、ラジオ、Websiteの動画、新聞社や私鉄のデジタル情報が役にたった。情報は東北で地震があったことを伝えるだけで、詳細はまったく不明。むしろヘリコプターが乱舞して、九段会館の天井が落下して死傷者がでていることと、千葉県の燃料タンクの炎上を伝えていただけだった。すでに携帯電話が通話できなくなって、かろうじて固定電話だけが時折通ずる状態になっていた。ネットの情報は、おびただしい流言飛語リュウゲン-ヒゴが飛びかい、片言隻語ヘンゲン-セキゴで埋めつくされていた。あの日の夜、新宿の通りは徒歩で帰宅するひとびとであふれかえった。ほとんどたれも東北の大惨事をまだ知らず、まして原子力発電所の非常事態も知らずに、ひたすら帰宅の道を急いだ。通信網が砕け散ったとき、高度情報化時代の「情報」とは、こんな脆弱ゼイジャクさを内包している。

¶ ところで、メディア・リテラシー(media literacy)である。昨春まで大学で情報学を教えていたので一応専門領域である。メディア・リテラシーを簡略に述べると、情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のことである。すなわち「情報を評価・識別する能力」ともいえる。あの日、携帯電話と固定電話が不通になり、パソコンの電源が落ちた被災地からの肝心な情報はまったく届かず、現代の電子メディアはほとんど無能となる醜態をさらけだした。あの日からしばらくして、吾輩はテレビをほとんど観ないことにした。断片的で、根拠不明の情報が多く、また疲れるし、重い気分になるだけだった。別に忌避したわけではなく、テレビというメディアは、この段階ではまだ真相を伝えるにはいたっていないと判断したからである。それに代えて、定期購読の新聞のほかに、数紙を交互に購入するようにした。タイポグラファとしては、日頃見慣れていない新聞の活字書体には相当抵抗があったが、「情報」、とりわけ原子力発電所の情報に、かなりのバイアスがみられるとかんじたので、普段手にすることのない新聞も購入した。それを持ってロダンの椅子に腰をおろすことが多かった。

《災害は忘れたころにやってくる》 ――いいふるされたことわざである。なんの新鮮さもないが、それだけに重い。《災害は忘れたころにやってくる》。それで十分だ。あの日のことを、想定外であり、未曾有ミゾウな事象などとメディアは盛んに記述する。[本当にそうだろうか……]と、あの日以来だいぶ滞在時間が長くなった「ロダンの椅子」に腰をおろしておもう。そもそも、なにゆえ想定外、未曾有な事象!? などという(まともに読めないひとがいることが自明な)、にわか漢語、はやりことばをもちいるのだとおもう。敗戦を終戦とし、占領軍を進駐軍、事故を事象とするなど、わが国では一朝ことあると、漢語の森(中国の傘のもと)に逃げ込む悪癖がみられる。「想像もできなかった」「かつて無いできごと」ではいけないのだろうか。

¶ すこし時計をもどそう。平成7年(1995)1月17日、あの日はひどく寒かった。中国から戻ったばかりで忙しく、徹夜明けで、近くにあった《夜明けから、日没まで営業》という、いっぷう変わった店で夜明けの珈琲を飲んでいた。午前5時46分、早暁のなかでガツンという衝撃があった。老店主はすぐさま古ぼけたテレビのスイッチを入れた。「関西地方で地震が発生」という速報に続き、「京都の三十三間堂で仏像が倒壊した」という、あとからおもえば、いささかピントのずれた第2報のテロップが流れた。震源地であり、最大の被害を受けた、神戸のコの字もなかった。おそらく大阪・神戸への通信回路は壊滅しており、京都までの情報しか「エヌ-エイチ-ケイ」でも入手できなかったのであろう。この地震はのちに「阪神・淡路大震災」と名づけられた。京都での被害は軽微だったので、「京阪神」とは名づけられなかった。

¶  ふたたびあの日。あの日以来、「テラ、シーベルト、ベクレル」などの、さまざまな単位語やテクニカル・タームを覚えさせられた。テラ(tera)はギリシア語で「怪物」の意の teras から派生したことばで、一兆の一万倍をあらわす単位の接頭語で、漢字であらわすと「京 ケイ」である。いったい幾つ 0ゼロ が並ぶとテラなる怪物を表示できるのだろうか。また、最初のうちはマイクロ・シーベルトなどといっていた。それが、いつのまにかミリの単位に変わって、ミリ・シーベルトといっていた……。小数点以下の0ゼロが随分とれてしまっていた。

¶ ところで、活字を扱っていると、すこし高額だが「マイクロ・ゲージ」が必要となる。マイクロは「微少」の意のギリシア語 mikros から派生したことばで、百万分の一(10―6)を表す単位の接頭語であり、ミクロとも呼ばれ、記号はμである。すなわち吾輩も正確を期して活字計測にマイクロ・ゲージを用いることがある。金属活字ではマイクロの単位は容易に可視化しないが、ミリの単位なら、100円ショップで売っている定規で事足りるし、視覚でも触覚でも判別できる。すなわち原子力発電所と放射能汚染に関して、桁違いの話しを平然とした表情ではなされても、門外漢にとっては困ってしまう。しかもその門外漢のど素人たる吾輩は、原子物理学になど興味もないし、知りたくもない。ただ安全であることだけを願って、ことの推移を「情報」から知ろうとしただけだ。

¶  あの日の地震は、最初のうちは気象庁の発表によって「東北地方太平洋沖地震」と呼んでいた。メディアもそれに倣っていたが、いつのまにか内閣府によって「東日本大震災」と名称がかわったようである。ことばにこだわっても収穫が少ないが、「地震と、それによる災害」を省略して、「震災」と生活語で呼ぶ分には問題はなかろう。しかしながら、歴史をかたるための正式呼称としては若干の疑問がある。あの日の地震はおおきな津波を伴い、万余の犠牲者をみた。これは先例もある地震と津波によるあきらかな天災。ただし一部から危険を指摘(想定されていた)原子力発電所の暴走は、情報のバリアーが徐々に外され、もうたれもが知ってしまったように、危険性を軽視し、警告を無視し、事故を事象などといいかえて判断ミスを重ねたことによる、あきらかなる人災であろう。

¶ すなわち地震と津波による天災と、トリガーをひいたのは津波とはいえ、原子力発電所がもたらす大災害は、チェルノブイリやスリーマイル島の先行事例もあって、想定外とは許されないできごとであろう。むしろ十分に想定可能で、かつ、事故への適切な対処が可能な事象!? であろう。すなわち原子力発電所がもたらした人災を、「震災」という合成語でなにもかもをひとくくりにすると、今後の復旧・再生・補償に齟齬ソゴをきたさないかと不安を覚える。ひとがつくった「原子力発電所、略して原発」という怪物が、ひとの手に負えない大暴走を繰りかえし、それこそ「未曾有――いまだ曾カツて起こったことがないこと」の悲劇をもたらした。また、いまはかたずをのんで静観するしかないが、これから数十年にわたって、放射能汚染という可視化できない化け物によって、不安と危惧をもたらし続けることが明らかにされたいまである。素朴におもう。地震と津波による天災と、原子力発電所の制御不能事態という人災は峻別すべきではなかろうか。

¶  あの日、幸い小社では被害というほどの損傷はなかった。しかし通信網・交通網が復旧するのにつれて、次第に身内にも犠牲者がでていたことを知った。やつがれの妹の亭主は仙台の出身である。その義弟の姉(血縁ではないが一応親戚だ)が激甚被災地で犠牲となった。ようやく遺躰は発見されたが、火葬ができなくて土葬にふされた。仮葬儀に駆けつけた妹は、「ともかく凄いことになっている。テレビじゃとても伝わらない、凄惨なことになっていた」と嗚咽をこらえて報告した。被災地の友人・知人に架電すると明るく笑うが、少なからず身内や友人に犠牲者をかかえている。あの日から四十九日忌をむかえるいま、あらためて「東日本全域を襲った、地震と津波の災害」によって犠牲となられたかたがたのご冥福を祈りたい。そして天災と人災によるすべての被災地の皆さまに、心からのエールを送りたい。

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苦労しています。活版用ピンセット 活版印刷材料商がほぼ転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezers  Pincet」は入手難な器具のひとつである。

『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月11日)

みた目は医療用やデザイン用に用いるピンセットと類似するが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。活字版印刷(活版)のよき再生をめざしたアダナ・プレス倶楽部の発足時には、さまざまな障壁があった。活版はここ40年ほど、ゆるやかな衰退を続け、なかんづく平成の時代になってからは業務としての活版印刷は急激な凋落をみていた。その技芸を壊滅させることなく、あたらしい時代のユーザーを得て、「再生・ルネサンス」をめざそうとした。いまとなれば笑って話せるが、「活版用ピンセット」には苦労が多かった。その在庫を探したが、どこにもなく、新規発注だと500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、「活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」との店主からの架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。

¶  しばらくして、最低でも50本はあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度を持っていた。朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一のままである。ヤレヤレと胸をなでおろした。

¶  文豪・宮澤賢治に苦情をいうわけではないが……  活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解していることが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットは使わない。Websiteでも 《活版印刷今昔01》 の執筆者は、文選作業でのピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのようである。すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層にも多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。

¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。ここで『新編 銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは数十年にわたって、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ており、没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。本書は『新修 宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた(ただし、同文庫の編集方針により、仮名遣いは新仮名遣いになっている)書物といえる(天沢退二郎)。この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある。(アンダーラインは筆者による

活 版 所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込む小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

¶ 『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたった大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して一部から顰蹙をかったことがあった。また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかたも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、おそらく「文選箱」であろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。「たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込むと」とある。これも、「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選のために立ったのであろう。ふつう文選作業にあたって、最下部に配される「外字」「ドロボー・無室」ケースの採字以外は、しゃがみこむことはあまりない。

¶ ついに問題の箇所である。ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う。ピンセットをもちいると、軟らかな活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられた。落下した活字は、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box」に活字を投げ入れた。この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無かったと推測される。また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの問題点を謙虚に、そしてひそかに指摘したとおもわれる。「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。

¶ 2011年4月28日 二黒 仏滅 癸 丑 あの日から四十九日忌にあたり、泪のような雨が降りそそぐ。肌寒し。

朗文堂-好日録008 正月に咲くノゲシの花

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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元旦の早朝に、はつ花をつけたノゲシ。1月6日既報写真。

空中庭園で次次に花をつける現状のノゲシ

◎吾輩、風邪をこじらせて肺炎になりかかった。ヤレヤレの毎日。
風邪が治りきらない。なんとなくポワ~ンとしている。思考にどうにもまとまりがない。新春早早なさけないことはなはだしい。ヒロオカ奴で血液検査をしたら、白血球の値が異常で、軽度の肺炎と診断された。通院で点滴を受けたり、抗生物質を投与されて、どうやら回復基調になった。ところで、本日は新宿西口、東京イタ~イ病院での3ヶ月毎の定期検診にでかけた。心臓エコーの検査にはまったく問題がないとの報告を受けて安堵したが、「血液検査では白血球の値がすこし高い。どこかに炎症があるはずだ」とのウッシッ師の見立て。風邪をひいてかかりつけ医に通院したことをはなすと、風邪薬、施薬5日分の処方箋がでた。吾輩の主治医ウッシッ師はどうやら名医らしい。ギョロメで、ときおりつまらん洒落 オヤジ-ギャグ をとばすが、いいひとだ。とりあえずは任せるしかないしな。

◎「花こよみ007」での報告は《ノゲシ》というらしい。
正月の朝まだきに初花をつけた艸があった。それを2001年1月6日、本ブログロールに「花こよみ007」として紹介した。「はつ春に 咲くやこの花 名をしらず――よみし ひとを しらず」。新春第1弾のアップとあって、なんにんかのかたから情報をいただいた。この花は「ノゲシ 野芥子、もしくは ハルノゲシ」という野草、ひとによっては雑草であることを知った。ノゲシはなかなか人気があって ウキペディア にも紹介されていた。

(^o^) 吾輩と似たようなブログを書いているひとがいた!

\(◎o◎)/! ノゲシは食べられるらしい!

>^_^< 亀はノゲシが大好物らしい!

∈^0^∋ うさぎやワンコもノゲシが好きらしい!

>^_^< カピバラもノゲシが好きらしい!

ネット・サーフは不得手だが、紹介されたページはみんなのぞいてみた。ペット好きのひとが増えたことはしっていたが、世事に疎い吾輩は、ペット好きとは愛猫家と愛犬家ぐらいしか考えていなかった。ところがじつにさまざまなペットが飼育されていることに驚いた。そしてみなさんがペットにほんとうにやさしい視線をむけており、しかもWebsiteでの写真紹介が巧い。画像は鮮明だし、生き生きと情景をきりとって紹介している。さすがにこれだけは動物園の画像であったが、カピバラ紹介などは、ユーチューブの動画つきで、おおきな鼠というか兎というか、ビーバーにも似た愛らしい小動物として人気のカピバラが、ノゲシにむしゃぶりつく様をみた。こんなWebsiteをつくってみたいが、デジタル弱者のヤツガレでは当分不可能だ。なにせ写真は極めつきにヘタだしね。

空中ではプロペラのような綿毛が、地面ではジャッキのようになる?

空庭園のノゲシは、いまだに黄色の花を次次につけている。そしてときおり、綿毛につつまれた種子を空中に放つ。「ロダンの椅子」で所在なく文庫本を読んでいたところ、誌面にノゲシの種子がポトリと落下 モトイ 落花した。なにせポワ~ンとしているから、種子に視線を移動してじっとみつめる。そのうちに種子は風に吹かれてどこかに飛んでいった。文庫本の上はお気にめさなかったらしい。

ところが「鼠のひたい」の地面に着地したノゲシの種子は、ここの地面の湿度や匂いが気にめしたのか、すぐに綿毛を足のようにして踏んばって、もう少少の風では飛ぶことがない。ポワ~ンとしながらそれをじっとみている。吾ながら寒風の吹きつのる朝っぱらから、そんな情景に見入っているとは実に暇な奴だとおもう。でもノゲシの綿毛は、気に入った地面に着地すると、すぐさまボルト&ナットのように、あるいは強力磁石のように、地面に、接着、吸着、着地することに気づいた。肺炎気味の風邪っぴきだというのに、それを飽きもせで1時間ほどじっとみていた。まるで阿呆だな。

ノー学部がまた妙なものを持ちこんだ。今回は鹿児島の土筆 ツクシ だそうである。ひょろっとした根っこを空中庭園に植えろという。土筆はスギナの子だから、狭い庭がスギナだらけになると抵抗したら、土筆とスギナは違うと反論された。とりあえず相手はノー学部出身、一応はそっちが専門だから黙っていたが、土筆はスギナの子ではないのかなぁ。信じられん。そこで作業拒否にでたら、自分でごそごそとコンビニ袋からいろいろ出して、鹿児島の土ごと小鉢に植えた。鹿児島の土壌は白砂 シラス 台地とされ、火山灰のなごりか白っぽい色をしている。桜島火山灰と富士山火山灰の違いかな。まぁ謂っても詮無いことだと放っていたら、土筆がいつのまにか芽をだしている。土筆は本当にスギナの子ではないのかもう少ししたらわかる。それまでは小さな植木鉢の中だ。

★山崎パン

ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願つき ¥100

ともかく買い物が苦手である。だから買い物といってもコンビニぐらいしかいかない。ときおり100円ショップにも立ち寄る。たいていは意味のない、使い道のないものを買って帰る。昨年の「活版凸凹フェスタ」で、写真製版会社・真映社さんが「春の版ハンまつり」と銘打って展示してウケていた。ところで先般、吾輩、100円ショップで異な物を発見。「ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願」である。吾輩は意外にこういう埒ラチもないものが好きである。

そこで新発見! ヤマザキ版ハン 、モトイ 山崎パンのダルマをよくみると、向かって右側の眼(つまり左目)から墨をいれて願をかけるらしい。そんなことは吾輩は知らんかった。だから既報の高崎ダルマも、川越ダルマも、向かって左(つまり右目)から墨入れをしておった。信心不足だからこうなったのか、はたまた世故にうといのか、いずれかだ。こうなるから縁起物は苦手だ。ところでまだ受験戦争は終わっていない。就職活動シュウカツも一種の試験だ。「フレ~、フレ~、受験生」である。えっ? パンの味? 100円にふさわしい味でしたよ。

本日2月23日[先負センプ]、曇天で寒い日であった。

朗文堂-好日録007 景況と女性の眉、活字書体の選択

朗文堂-好日録 007

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◎ヤツガレ、風邪の治りかけでポワ~んとしておる。
新春早早なさけない。昨週末から、咳はでるは、鼻水はたれるはで、まことにもって無残であった。かかりつけ医のヒロオカ奴に駆け込んで、いつもの風邪薬4日分。土曜・日曜とどこにも出かけずグダグダしておった。本を読もうにも薬のせいかトロトロしてくるので、ただ毛布をひっかぶって、ゴホゴホ、ズルズル、チ~ンとやっていた。なさけないことはなはだしかった。24日[月]、なんとか出勤。それでもなんとなく、いまだにポワ~ンとしている。

¶ ところでかかりつけ医のヒロオカ奴、ひとの顔をみるたびに「もうタバコはやめましたか?」と薄ら笑いを浮かべながら、嫌みたっぷりいう。当世、たれも好きこのんでタバコを吸っているわけがない。単に年期のはいった、あはれなニコチン中毒重症患者なだけだ。だからむしろ同情してほしいのだが、どうもこのごろは社会的に、このあはれな症状を呈する患者にやさしくない。ましてをや、国家までが、卑劣千万、やらずぶったくり、ひとの中毒症状につけこんで、高額な税金まで巻き上げるおそろしい時代だ。ヤツガレほぼ一年ぶりの風邪っぴきだったが、ヒロオカ奴、今回は別のテできた。「タバコがやめられる内服薬がある、社会保険が使える云々……。風邪がなおったら来るように」ト偉そうにのたまう。「当院での治療実績は禁煙成功率80%だ!」ト鼻をピクピクうごめかせる。

¶ ウ~ン、これは蠱惑的かつ誘惑的ではないか。何度も禁煙に失敗し、ましてや風邪で咳がでているのに、タバコを吸っている莫迦にも甘い響きであるな。「禁煙成功率80%!」か。しかしである、あらかじめ20%は失敗する(逃げ道がある)ことになっておるではないか。もし、もしもであるが、吾輩がそっちのグループに入ったら、ヒロオカ奴、喜色満面、それを医学界論文に発表するに違いない。これまでもヒロオカ奴は、吾輩をネタに何本か医学論文を書いたにちがいないと睨んでいる。こんども「65歳・男性・喫煙歴56年・極めて悪質也――薬剤積極投与するも、長年の喫煙の悪癖を脱せず――」かな。ヒロオカ論文調ではな。

◎女性の眉と活字書体の、えもいわれぬ相関関係とは――
ところで諸君、女性の眉と、書体選択が、おもわぬ相関関係にあることをご存知かな。どうせ風邪でポヨ~ンとしているのだから、たまにはこんな話題も如何かな。女性とは、本能のどこか、どうやら触覚が世界規模において優れているようだ。景気とは、所詮 気 のものである。良くも悪くもなったりする。『広辞苑』においても、【景気】 ①様子。けはい。ありさま。景況――である。つまり女性とは世のなかの、気配、ありさま、そして景気波動までをを触覚中心の本能のどこぞで捉え、それをファッションに取りこむ才に優れているらしい。それがさざなみのごとくに波及すると流行となり、ついには景況をも左右するから怖ろしい。吾輩のように、衣食住には関心がないと本気でほざき、十年一日のごとくのドブ鼠ファッションとはえらい違いだ。つまり巷間よくいわれるのが「景気が悪化すると、スカート丈が短くなる」だ。かの英国のツィッギーが典型か。大阪万博のころとおもって欲しい。ミニ・スカートが流行った時代とは、世界規模の不況であった。これはファッション業界では半ば定説となっているそうだ。

¶ ここで女性の眉である。ふるく中国乱世の時代、ひとりの女官が眉を細くして、蛾 ガの触覚のような三日月型の眉を描いたところ、それが食うや食わずの乱世の女性の心を捉え、「蛾眉 ガビ」として、あのひろい中国全土に拡がって、われもわれもと眉を細くしたという。古来、女性とは、なにはともかれ、美しくありといという「美的欲求」にはひどく敏感なのだ。「景気が悪化するとスカートが短くなる」とはファッション界の俚諺リゲンだが、化粧品業界の俚諺リゲンでは「景気が好転すると、女性の眉は太くなる」とされる。おもいおこしてほしい。バブルの1980年代を、美しく、たくましくも駆け抜けていった女性たちは、みな太い眉をしておった。石田ひかりや石原真理子 モトイ 真理恵の眉は驚くほど太かった。W浅野とされた、浅野ゆう子、浅野温子だって、黒々とした眉をしておった。そして景気にかげりが生じた安室奈美恵チャン以降、わが国の女性の眉は細くなったとヤツガレ感じているが如何かな。

¶ ファッションや美容には蘊蓄をのたもう評論家も、自称批評家もいるが、社会の片隅に蟠踞バンキョする「書体印象派」の一部は、女性の眉と活字書体と景気波動の相関性などにはまったく関心をしめさないようだ。しかしヤツガレ、この20年ほど続く世界不況に際しても、書体の流行だけは適切に捉えておった。ただ株式投資は(元手がないから)やらないし、占い師のごとき評論家でもないので、それを己の企業運営――つまり儲けに反映できないのが腹立たしいが。ともあれ、明治の開闢 カイビャク からの活字意匠の変化を追ってくると、演繹法でも帰納法でもなんでもこいだが、ともかくおのずと導きだされる簡単な結論がある。

¶ つまり、「経済不況下においては、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」――である。どうやら世界景気も落ちるところまで落ち、あとは上昇軌道を期待できるところまできたようだ。いまは、夜明け前のもっともくらいときにあるとみている。これからは、「経済好況下においては、活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる―片塩式書体法則2」――がみられるはずだ。活字書体も社会の風潮を背景にしており、決して無縁ではないのである。わかりにくければ、女性の眉とスカート丈に注意することだ。この片塩式書体法則1・2は、おもに、あるいは先行して、商業印刷に反映されるが、ながい尺度でみると、雑誌・新聞などの近接メディアを通じて、図書の印刷用活字書体にも影響をあたえるのだ、友よ! いまはただ女性の眉毛のふとさに注目しよう

昭和初期、長い不況下にあったわが国の書籍印刷用書体――明朝体は、きわめて細くなっていた。
康文社印刷所社主、吉原良三(1896-不詳)は、印刷同業組合の理事として、「変体活字廃棄運動」にも深く関わった人物であるが、同時に「新刻」と称して「細形明朝」の販売に積極的であった。
(『日本印刷大観』昭和13年、差し込み広告)


本文用明朝体は明治末期をピークとして、複製の連鎖のためもあって、昭和前期にはすっかりやせ細っていた。昭和初期の大不況期には、それを逆手にとって「細形明朝」として発売する業者も登場した。図版は細形活字を積極的に製造・販売した康文社印刷所の書体見本。上/新刻九ポイント細形明朝体、下右/新刻五号細形明朝体、下左/新刻六ポイント細形明朝体

¶ バブルとは「それいけ、ドンドン」の時代でもあった。「でっかいことは、いいことだ」と指揮棒をふるったチョコレート会社もあった。重厚長大の、もはや古き良き時代となってしまったが……。活字は写植活字の全盛時代。つぐつぎと新書体が発表されていた時代でもあった。このバブルの直前、株式会社写研から発売された「ナール」は、ウエイトが細く、フトコロを大きくとった、新鮮な丸ゴシック体であった。しかし発表・発売直後に、第1次石油ショックがおそった。この急激な経済環境変化は、のちのバブルの崩壊のように緩慢に作用したのではなく、激震のようにわが国を揺さぶった。もちろん大不況に陥ったが、それでも「ナール」は好感をもって迎えられ、爆発的なヒット書体となった。つまり「ナール」は、製作者の意図とは別に、「不況になると、活字書体のウエイトは細くなる。そして丸味のある活字書体が好まれる―片塩式書体法則1」に完璧に合致していたのである。爆発的ヒットはなにも偶然ではないのだ。このころの女性の眉は幾分細かったことはもちろんである。「ナール」はもっとも細いウエイトから出発し、順次ウエイトを太めながらシリーズを形成していった。それでもデミ・ボールド・ウエイトの「ナールD」から以降は、さしたる成績を収めなかった。景気は好況期に入りつつあったのである。

¶ つまり「ナール」シリーズの拡張期の時代は、もはやバブル前期に突入していたのである。「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」の時代である。写研は丸ゴシック系の「ナール」シリーズに代えて、字面が大きく、フトコロのひろい、新ゴシック体「ゴナ」シリーズに注力し、これまたきわめて大きな成果を収めた。しかも「ゴナ」シリーズは「ナール」シリーズとは逆に、最初に極太、ウルトラ・ボールド「ゴナU」が発売され、もっとも好まれたのだ。それがバブル期の書体法則「好況になると活字書体のウエイトは太くなる。そして角張った活字書体が好まれる――片塩式書体法則2」である。それ以後のさざ波のような景気の浮揚期には、写研「スーボ」、「新聞特太ゴシック体 YSEG」、モリサワ「MB-101」などという、極太の書体が、入れ替わり立ち替わりして浮沈していった。2011年のいま、こうしたバブル期に盛大に使用された書体の使用例を見かけることはまずないといって過言ではあるまい。活字書体の選択も、社会風潮や景気の動向を鋭敏に反映しているのである。*書体名は各社の登録商標である。*

¶ 今朝の電車の中吊り広告で、薬品メーカーとアルコール飲料メーカーの広告が並んで掲示されていた。見出し書体は両社とも同じ書体で、丸くて細くてナヨットしたデジタル書体だった。サイズも位置もほぼ同じでおもわず苦笑した。風邪には新ビールが効くのかな? いずれ「片塩式書体法則3」もこのブログロール「花筏」に発表しよう。まぁ、風邪の抜けきれないいまだから、この辺にしようかな。
本日1月25日[火]、晴天なるも寒風つのる。ここにて擱筆。

朗文堂 ― 好日録006 達磨輪廻転生の世界へ 月映 藤森静雄をみる

朗文堂-好日録 006

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《 いただいたダルマで 輪廻転生リンネ-テンショウ の世界に突入か 》
¶ カレンダーがあたらしいものにかわった。西暦2011年、平成の御代も数えて23年になった、ト、ここで年号をなんとか確実に覚えようとしている。
ことしは大正元年から数えて100年、もし昭和の御代が続いていれば昭和86年となる。よくわからないが、まことにめでたいことである。

2009年11月  宇都宮駅で無償配布されていたダルマ

¶ だが、もともと冠婚葬祭はできるだけご容赦を、ト念じているから、本音では祭のひとつ、正月を、さほどめでたいとはおもっていない。 むしろ、きょうとおなじ、あすがあって欲しいと願う。 しょうがない、つぎの正月まで、またポチポチやるか、という程度だ。

¶ 2010年最後の日、31日[金]も出勤した。 電話はちっとも鳴らないし、@メールもほとんど着信なし。 みんないったいどこにいったのだ。 そうか、年末年始休暇だとおもいあたる。
だからなんとなく(かえって)リズムが狂って、まとまりがないまま時間がすぎた。
夜更10時半退勤。 ちかくの「あおい書房」がまだ開いている時間だ。 そこで休日用の文庫本を購入。司馬遼太郎 『この国のかたち 4 ・ 5 ・ 6 』、宮城谷昌光ミヤギタニ-アキミツ 『三国志 1 ・2 ・ 3 』。
司馬さんの連載は、初出 『 月刊 文藝春秋 』 のときから読んでいる。上製本、文庫本と読んできたが、ぼろぼろになったので、また買った。

¶ 上製本はとっておくが、雑誌と文庫はどちらかというと睡眠導入剤。  だからすぐにぐちゃぐちゃになる。
やつがれ、もし文庫本が 「 電子出版 」 になったらまことに困る。 現状の文庫本や雑誌は、夜ごと、枕の下に埋もれ、尻や出っ腹に敷かれ、毛布と布団と敷布の間で行方不明になり、足蹴にされて布団からずり落ち、ときにはよだれでベトベトになっている。

それでもよい、頑丈、かつ、万に一つでも よだれによる感電事故などがない、また最低限の組版規範を達成した 「 電子機器 」 に成長したら、槍でも鉄砲でも 「 電子出版 」 でもなんでも良いぞ。  おそらくそんなものは当分登場しないから、いまのところはとりあえず、文庫を顔にのせて惰眠をむさぼるか。

¶ 帰宅後すぐに 『 この国のかたち 』 を読みはじめた。 久しぶりの司馬節、司馬史観に夢中になって03冊とも読了。 やはりこのひとは凄いな、ト 改めて脱帽。
このひと、いまにありせば、この乱世をいかに喝破するかとおもう。 かくするうちに しらじらと夜があけ、新年になっていた。
アダナ・プレス倶楽部 「 餅プレス大会 」 の折りの冷凍餅をチンして、マッタリおいしい大阪昆布の佃煮と食す。 旨し。  リポビタンD 1 本グビリ、これこそまことにもって、優雅なお節セチとお屠蘇トソではないか、ト 吾輩 初春にあたり 独居しておもう。

¶ 朝まだきの室外にでて、空中庭園で一服つけたら、おもわぬことに、黄色い花が一輪咲いていた。 「 こいつは春から、ほんとうに縁起がいいわい 」、ト 写真機でパチリ。
それにしてもコイツはどこから来て 植木鉢の真ん中を占拠して、どうしてこんな日に初花をつけたのかふしぎだ。 もちろん名もしらぬ。 花は蒲公英タンポポに似るが、草丈は 50 cm ほどもある。 吾輩の空中庭園には雑草という名のあはれな艸はない。 むしろすべてが雑草ともいえる 。だから コレハ ナンダ とおもったが、放っておいただけのこと。

¶ 元旦から駅伝をテレビでみる。  オフサカ-ゲーニン-録画版-莫迦嗤い-番組 はみない。
実業団の駅伝はかなり熱くなったが、学生の箱根駅伝はあまりにショーアップされて燃焼不足。 体育会学生がついにゲーニンになったのかナ。 アナウンサーの絶叫もチトうるさい。
だから往路はみたが、復路はパス。 ミヤギタニ文庫版 『 三国志 』 を手にする。 ここのところ北方謙三 『 揚家将 』  『 水滸伝 』 『 揚令伝 』 にすっかりはまっていた。
現在はいったい何巻になるのかわからない 『 史記 』 を、刊行されるたびに、待ってました ! と購入。 ケンゾウめ、司馬遷の名作をここまで勝手に改竄、断裁するのかとおもう。 えれぇ筆力だ、ト 呆れるばかりなれど、やめられない。

¶ もちろん ケンゾウ 『 三国志 』 もすでに読んでいた。 そんなケンゾウ節のせいもあって、久しぶりのミヤギタニに、すぐには入りこめなかった。それでも20ページほども読み進めると、すっかりミヤギタニに捉まったから単純なものだ。 このネットリ絡みついて離さない、大蛇アナコンダのような文体も味がある。 結局外出時も鞄に入れて持ち歩き、休暇中に読了。

凄い人混みの川越大師喜多院の達磨市

¶ そこで凡人、01月03日[月 正月休暇]、箱根駅伝観戦を早早に中断。 帰京したノーガク部と、川越喜多院の達磨市にでかけた。 このダルマは一昨年11月、宇都宮駅で偶然 「 高崎ダルマ市 」 を開催していて、無償配布をうけたもの。
俚諺 リゲン にいうぞ、「 タダほど高いものはない 」 ト。 まったくそのとおりで、ちょっとした願いごと (ささいなものだ、内緒だけど) をして片目を入れておいたら、昨年年末にめでたく念願成就とあいなった。 だから両目に墨がはいったが、サテその処分に困惑した。
信心などほとんどないが、「 このダルマさんを、まさか燃えるゴミにはだせないなぁ 」 ということで、Website で調べて、一番近く、休暇中にダルマ市を開催している川越にでかけた。

¶ びっくりした。東武線川越駅を降りたら、いきなりそこから長い行列。 「 喜多院 達磨市 専用往復バス切符 」 を売っていた。 行列の後尾についてようやく切符を買って、ピストン輸送の満員バスになだれ込むように乗り込む。
喜多院についたらますます押すな押すなの人混み。 人にアタル(中毒する)たちのやつがれは、もう青息吐息、酸素欠乏症状を呈する。 ラッシュアワーの通勤電車の比じゃない。 ただただうしろから突きとばされてあるく仕儀となる。

¶ 捨てにきた モトイ  お納めにきたダルマだから、べつに潰れても構わないはずだが、吾輩、なぜか後生大事にダルマを抱えてあるく。「達磨納め所」 の立札をみつけてそこに猛進。
道中、やはりことしのダルマも要るな、 ト おもいつく。 あたらしいダルマを購入。 衝動買い。 これでは輪廻転生 リンネ-テンショウ、来年もまたまた川越に来なくてはならなくなった。
つまり、結局のところ、タダでもらった達磨が ―― おそらく業者の狙いどおり、有料の新品に変わっていた。 <ウ~ン、ダルマ屋長期販売戦略か>。 しかも 「 達磨納め所 」 で志納金投入。交通費、食費その他を考慮するとかなりのもの。

¶ それでも餅ばかり食していたので、人混みをかきわけ、あちこちの屋台で怪しげなものをさまざま食した。 「 じゃがバター」 は旨かった。 ジャガイモを蒸かして、そこに一斗缶に入った 「 バター付け放題 」 だった。が、これはバターというよりマーガリン以下のシロモノ、黄色いなにか油の一種か。 むかしの学校給食のジャムバターをおもいだした。
さらに「たこ焼き」、「牛串 ―― 和製シシカバブー」、「お好み焼き」などを、ノー学部が得意げにつぎつぎと買ってくるママ食す。それにしても、あの人混みのなかで、よく喰いまくったなぁ。

新旧のダルマ。どちらが美男におわすか?

ダルマ納め所で、小さいながらも頑張る吾輩のダルマ。

¶ 昨年一年間、毎日にらめっこしてきた高崎ダルマとのお別れに、新旧の達磨をもって祠の裏に入りこんで記念撮影パチリ。 よくみたら高崎ダルマは小ぶりながら、彫りが深いお顔立ちで、なかなかの美男におわしました。 だから別れがたいおもいもある。
新人 ・ 川越大師のは、顔がでかく、彫りが浅い顔立ちで、なんとなくロンパリ ・ メンタマだった。 眉宇ビウ のあたりもきもち迫力に欠けるかな。 まぁこんなものかと納得。

¶  高崎ダルマをもって 「達磨納め所」 に入る。 うずたかく積まれたダルマがあった。 みんなが大願成就で両目を入れていたし、裏面には願文があった。 ほとんど無病息災、家内安全などと平凡だったが、なかに 「一攫千金 イッカク-センキン」 という、おそろしいのか、はたまた図々しいのかわからん願文を書き、両目を入れたおおきなダルマを発見。
その上にやつがれ高崎ダルマを鎮座させた。「一攫千金」 を成就したひとは、宝くじをあてたのか、泥ボーにはいったのかしらないが、メンタマも眼をむくようにでかかった。 その上に鎮座したのだからことしは凄いぞ。

¶ それにしても、この人混みの民草は、儚ハカナき願望をいだき、そのささやかな成就を謳歌しておるというのに、なぜにマス ・ メディアは、めでたい正月早早、口角泡を飛ばし、性事 モトイ 政治と金、性事 モトイ 政治不信、オザワ問題などと、十年一日、いつまでたっても (毎年 ・ 毎月 ・ 毎時) おなじことどもを、飽きもせで、たんなる繰り言をならべたて、セージの足を引っ張って得意になっておるのか。
すべてのつまらんギョー-カイ-ジンどもよ、雁首揃え 「 川越 喜多院 達磨市 」 へ詣るべし。
そしてアチチアチチの 「じ ゃがバター」 を食すれば、諸君のつまらんヒステリーや、欲求不満も解消するはずだ。 ともかくうるさいんだよ、あなたがたギョー-カイ-ジンは ネ。

宇都宮美術館外観(同館案内より)

《 あくまでも美術館にいったのだ、餃子を食しにいったのでは無いはずだ が 》
¶ 01月04 日[火 ・ 赤口・ 正 月休暇]、宇都宮美術館 「日本近代の青春 ―― 創作版画の名品」 展にいく。 ここはともかくゆったりとした時間が流れているから好きだ。 おまけに帰りがけには名物デッカイ餃子も喰えるしな。
さすがに正月、駅からの宇都宮美術館行きのバスはまったく貸し切り状態。 されど駐車場は栃木 ・ 宇都宮ナンバーの車でいっぱい。地 元客の来館者がおもいのほか多かった。

¶ 版画の印刷版と印刷方式にこだわった丁寧な解説におどろく。 ようやくここまできたか…… のおもい。 明治以降の木版画の多くは、バレン刷りではなく機械刷りであった。 印刷用の版、印刷版を理解してくれたようで欣快のおもい。 詳細省略。
「月映 ツクハエ」 にあらためて感動。 いずれ恩地孝四郎邸訪問記をアップの予定。 写真は同館案内パンフレットのもの。01点だけ、ちょいと藤森静雄を気取った、影印のある風景をパチリ。

明るい樹林に夕陽が射しこんでいた。

¶ 01月10日[月 ・ 成人の日 ・ 祝日]、正月明けから、05,06, 07日と営業したが、どこか間抜けな週であった。 バタバタしただけで、なにもまとまらずに時間だけが過ぎた。 まぁ暖機運転というところか。
01月11日[火 ・ 鏡開き]、いよいよ朗文堂も本格始動。 この週、すでにスケジュール表に余白無くビッシリ。

本日01月11日、一点の雲無き快晴。されど気温10度と寒し。
正月は終わった、燃えねばならぬ。

朗文堂-好日録005|朗文堂-好日録005|ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 PRG のこと|’10年12月21日|少少補修

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日のよしなしごとを綴りたてまつらん
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本稿の修訂記事が NOTES ON TYPOGRAPHY にあります。双方とものこしておきます。
古記録発掘【花筏 朗文堂-好日録005】ラファエル前派からウィリアム・モリス、ジョン・ラスキン|ラファエル前派兄弟団 PRG のこと|’10年12月21日|少少補修’25.4.10

★ 忙中に閑あり 美術館巡りのこと───
ひとなみに年末バタバタ騒ぎの渦中にある。そんなことを綴っても面白くもない。だから忙中に閑ありて、美術館のこと。

このごろはなかな良い美術館があちこちにできた。東京の美術館はチマチマ、コセコセ、混雑しているので、いささか敬遠気味。でかいビルのこちらのワン・フロアが美術館です、といわれても味気ない。

だから最近はチト遠出をして(新宿から電車一本、バス一回)、宇都宮美術館がお気に入り。関東平野、ここにつきたか ─── といった小高い丘のうえにある。ともかく緑ゆたかな景観がよい。天井がたかくてゆったりした建物もいい。それが宇都宮美術館である。
ここは展示スペースが広く、ごちゃごちゃした美術館のように、作品がくっつきあって、たがいに視覚に干渉することがない。また、ここのカフェのランチは、地元の食材を使って新鮮で旨い。そして帰りがけに、駅前でのんびりと、名物のでっかい餃子をたらふく楽しむ。

★ 横須賀美術館にて《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》を展観する
2010年12月18日[土]、勇気をふるって横須賀にでかけた。横須賀には30年ほど前に一度いった。やたらと制服のヘイタイさんがおおくて辟易した。それ以来である。

もともと「制服」がおおいに苦手である。制服・制帽の着用を義務づけられた高校入学式の前夜、ひたすら制帽の芯(ただのボール紙だった)を全部ぬいて、禅宗坊主のズダ袋のようにした。
なにぶん高校は、鈍くさい、田舎の元旧制中学だったから、一応(甘かったけど)制服・制帽の着用が義務づけられていた。まして、お粗末なことに、「風紀委員」などという、時代錯誤、勘違いの輩ヤカラがいて、翌朝に新入生指導と称して、肛門 モトイ 校門の前で服装チェックをしていた。
トンチンカンを相手にするのは面倒だから、鞄から苦心の「ズダ袋」を取り出して、頭にひっかぶって、
「おはようございま~す。ご苦労さまで~す」
と通り抜けた。それでもけしからん一年生だと、すぐさま風紀委員からの呼び出し。(軟弱で硬直した風紀委員なぞは衆を頼むから)大勢に取り囲まれたが、
「わが校の校則に、質実剛健 シツジツゴウケン、和衷協同 ワチュウキョウドウ、至誠一貫 シセイイッカンとありました。質実剛健を体現するべく斯様 カヨウにいたしました。ナニカ?」
といって退かなかった。

これですっかりトンチンカンから目をつけられたが、ひとつきもたつと、たれもとがめなくなった。べつに制帽などという暑苦しいものをかぶる必要はないだろう。できるだけ自由人でありたいし、等身大でスッと立っていたいものだ。ところで風紀紊乱 ビンラン なることばもあったな。忘れていた。
しかし、暑くも寒くもない4月、それも若いうちから帽子などをかぶっていると、将来の毛髪の消長に甚大な影響があろうというものだ。そんなものなのだ、風紀なぞとは、所詮。

いまだにこの制服嫌いは徹底している。バスやタクシーの運転者の制服くらいなら反応しないが、ホテルの黒服などには過敏に反応する。客にはくそ丁寧をよそおいつつ、慇懃かつ無礼きわまるからである。こんなのに限って、同僚のベルボーイやウェイターには居丈高であったりする。
ときとして、トンチンカンにとっての制服とは、なにか、おのれはたれかより偉いト、愚かにも勘違いさせたりする。これが階級章をつけた制服の警察官や自衛官であると、もうそれだけで吾輩のアレルギーは危険水域にはいる。それが元となって、ずいぶん埒 ラチ もない、語るに落ちる、つまらない経験をした。それでもこのアレルギーだけは現在進行形、症状はますます重篤なのだ。

ところで横須賀。横須賀美術館《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》展覧である。
本展の図録を新宿私塾修了生Hさんが担当。ご案内もいただいたので気になっていた。しかし横須賀は制服アレルギーの発作がこわかったので逡巡していた。それでも会期終了が近づいたし、雲一点もなき快晴だし、行くか ! 
てっきり東京駅から古ぼけた横須賀線に乗って、チンタラ横須賀までいくものだとおもっていた。ところがノー学部が Website で調べた、分刻みの路線案内にしたがって、地下鉄でいく。どこかでそのまま京浜急行に乗り込んだようだが、ともかく新宿から地下鉄に乗って、乗り換え1回で京急馬堀駅に降り立つ。道中居眠りしていたせいもあって浦島太郎よろしくよくわからない。

ナント! 目が覚め、降り立った地下鉄 モトイ 京浜急行の馬堀海岸駅の眼前には、眩いまでの海が広がっていた。吾がふるさと信州信濃には海が無い。だから吾輩を含む信州人にとって、海は永遠の神秘(であるはず)。まして地下鉄に乗って居眠りを続けてきたから、地底から救出された銅鉱山の鉱夫のように、この衝撃はまぶしく大きい。

バスでチョイ、横須賀美術館に着く。景観に感激。海を借景にしたというとなにか変だが、海と山にはさまれた素晴らしい眺望だった。
まずは海を堪能しながら、ギャラリー・カフェでランチをとる。プチ贅沢をゆるす。写真はまた失敗したので、同館パンフレットのものを紹介。‘10年12月18日[土]は一点の雲もない、あっぱれ日本晴れだったのだが。
これでデジタルカメラの操作マニュアルなどという、技術屋の記述による、無味乾燥、これがわが国語かという、妙な文章にあふれた七面倒なものをみないで、撮影技術が伴えば鬼に金棒だ!

ここのところ、ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900 イギリスの芸術批評家・社会思想家)と、ラファエル前派との関連を折りに触れて調べていた。例のアーツ・クラフツ運動の理論的指導者として、この人物の存在が無視できなかった。それにしては翻訳書からの理解は歯がゆいものがあった。
だから横須賀美術館で、愛読書の『建築の七灯』『この後の者にも』の原著(ガラスケースに入っていたけど)を見たり、ラスキンの自筆のスケッチを見られたのには興奮した。
[この大聖堂のスケッチは、批評家というより、もはや素描家だな。ラスキンめ、なかなか巧いじゃないか] トおもう。

ただし、エリート画家(無謀で反抗的だったけど)が結集した、ロイヤル・アカデミー(王立美術学校)出身の、「ラファエル前派兄弟団  P R B」という若い画家集団の絵画(とりわけ第一世代、20代の作品)は、どこか意識過剰で、生硬で、消化不良をおこしているようで、少々辛かった。
また主題を構成する部分より、周辺細部の草花やら道具やらの、なにやら一見暗示的(神秘的?)な仕掛けばかりが目について、主題が散漫になっていた。
[ラスキンの奴メ、若けぇ画学生どもを、うまく煽ったな]── トおもった。

★ラファエル前派兄弟団 P R G
いまから160年ほど前のことである。1848年09月、ロンドンの片隅に6人の画家と1人の作家が集まった。年齢は18歳から20歳、意欲と能力はあったが、まだまだ未熟、発展途上の造形者であった。中心メンバーは、ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-96)、ウィリアム・ホルマン・ハント(1827-96)、ダンテ・ガブリエル・ロセッテイ(1828-82)らであった。

かれらは当時のイギリス画壇の潮流を、大胆不敵、一刀両断のもとに斬り捨てて、「ラファエル前派兄弟団 P R B-Pre-Raphaelite Brotherhood の頭文字」と名乗った。その構成員はしばらくは内密にされ、作品にはただ「P R B」とだけしるされた。
[このあたり、悪戯半分で、中世アルチザンの秘密結社を真似たのかな?]
トすこしばかりおもう。

さらに大胆にも「ラファエル前派兄弟団」は、イタリア・ルネサンス期の巨匠、ラファエル(Raffaello Santi  1483-1520 ヴァチカン宮殿の壁画、サン-ピエトロ大聖堂の建築監督、ラファエロとも)をもっとも唾棄すべき存在とした。かれらはラファエルに代表される、ルネサンスよりも前の時代、すなわちそれまで暗黒の時代とされていた「中世」を賞揚すべき存在とした。
これはまた同時に、イタリア・ルネサンスを否定して、中世復古、ゴシック・リバイバルを意味することにつながった。乱暴に解釈すれば、秘技・秘術・錬金術バンザイでもあった。

そんなかれらが作品を発表すると、当然世上は辛辣な批判にあふれ、無理解のおおきな壁に突き当たった。もちろん異端は異端であるだけでは注目されない。「ラファエル前派兄弟団」にはそれだけの(批判をあびるほどの)理論構築と技倆がともなっていたということだ。
そのとき批評家ラスキンは、むしろ積極的に、この暴走族にも似た、無謀な若者のグループを支持したが、さすがにその「ラファエル前派兄弟団」の名前を「いささか滑稽な」と評した。
しかしながら19世紀の中葉、停滞した英国ヴィクトリア王朝美術の復興は、無謀で大胆な、美術学校の学生運動ともいえる、若者たちの破壊的な挑戦からはじまったことだけは特記されてよい。
─── それにしても現代の若者は「よゐこ(ぶった)」が多いとおもう。若者は生意気で、挑戦的であって良いのだ。そして老人はやかましくて、口うるさくて良いのだ。─── 話柄がそれた。戻りたい。

「ラファエル前派第二世代」とされるのが、画家のエドワード・バーン・ジョーンズ(1833-96)、ウィリアム・モリス(1834-96)である。このふたりはロイヤル・アカデミー(王立美術学校)の学生が中心だった第一世代とは異なり、オックスフォードのエクセター・カレッジに入学し、神学を学んだ。ふたりを結びつけたのは中世文化への傾倒だったが、その後急速にキリスト教社会主義と、ラスキンの社会思想の影響を受けるにいたった。

ジョーンズとモリスにいたって、あまりに教条主義的だった「ラファエル前派兄弟団」の写実性は、穏当なアルチザン(技芸者)とアーチスト(工芸者)のものへと変容を遂げた。かれらはまた書物と活字にも目を向けた。ここからはすでに語り尽くされているので割愛。

吾輩、すっかり若者の熱気にあおられ、久しぶりに血が熱くなった。展観を終えて、外に出ると、はや日はどっぷり暮れて満天の星。汽笛がボーッと鳴る。ほぼ桃源郷に遊ぶこころもち。
お腹がすいたので、走水神社前の和食店 ── というよりふるぼけた食堂に飛び込む。これがまた !! いいんですねぇ! ことばを失うほどのうまさ。そして安いときているから、いうことなし。

老店主は漁士で、息子夫婦が地魚の食堂を経営しているようだ。ピチピチのアジの刺身、サザエ、地タコ、ナマコを食す。いうことなし。美術と美食で満腹であるぞ。そういえば「美食同源」だったな、イヤ「画文同源、画文一致、そうか医食同源」だったかな? もはやなんでも良いぞ。旨かったから。

おお、忘れるところだった。
同館所蔵品特集《藤田 修 ── 深遠なるモノローグ》が常設展示場の一室で開催されていた。ここではじめて藤田修なる版画の異才を知った。とりわけフォトポリマー・グラヴェール技法と、レタープレス(活版)による「生まれるのに時があり」の作品に凍りつく。
「版画よ、額縁から脱出せよ!」「活版印刷よ、額縁にとりこまれるな!」── と念じている吾輩にとって、まさに欣快、ポンと膝を叩いて、やったな! の作品であった。
「やっぱりいたか。こんな造形者が、わが国にもな~」
のおもい。図録を 2 冊買って帰りの電車でみていたら、ナント! こちらの図録のデザインは、これまた新宿私塾修了生Mクンだった。みんなあちこちで大活躍しているなぁ。トいたく感激。

《ラファエル前派からウィリアム・モリスへ》は12月26日まで。23日(天皇誕生日)と、この週末の休みもある。その気になれば新宿から1時間半。荒らされるからあまり教えたくないが、美術館から徒歩 5 分、走水神社バス停前(行けばすぐわかるはず)には、新鮮・旨い・安い(店主夫妻は無愛想だし、チトきたないけどネ)、地魚食堂つきの旅である。図録は二点ともとてもすばらしかった。できたらこの週末、再度いきたいものである。

2010年12月18日[土]、一点の雲無き快晴。21日[火]重い雲がのしかかる。曇天なり。日日之好日

朗文堂-好日録004 吾輩ハ写真機ガ苦手デアル

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉吾輩ハ写真機ガ苦手デアル――――どうも写真機、モトイ、カメラとの相性が悪い。3年ほど使っていた、平べったい小型「エスオーエヌワイ」電子カメラが起動しにくくなり、Websiteで検索したら、こうした事例が多い機種とみえて、対処法がいくつか掲載されていた。最初にヒットしたアメリカのユーザーは「手をまっすぐ伸ばして、そこから落下させると起動する……」と、なんとも怖ろしいことを書いていた。おとなしい日本のユーザーは「膝の上でトントンと、やや強く叩くと起動する」などとしていた。どうやら接触不良が原因か? それでもなんとか、だましだまし使ってきたが、ついにまったく起動しなくなった。もちろん保証期間はすぎていた(このあたりは良くできていたな、ウン)ので、泣く泣く次世代機を購入。

伊勢丹ちかくの「大きなカメラ--元 安さ爆発! カメラのさくら屋~♫」で、安物ではあったが「ナイコン」一眼レフ型の新機械を買った。もともとナイコン一眼レフカメラ愛用者だった。その重厚感としっかりしたピント合わせが魅力だった。しかし今回の購入時にはひと悶着あった。接客態度があまりに凄い。「メモリー・チップも欲しいんですけど」、「あそこにありますから」  ト 遠くを指さす。「ふつうどのくらいの容量を買えばいいんでしょう」、「それはお客さんがきめることです」。ト きっぱり。

チョットひどすぎるとおもった。支払い時にチトクレーム。すこし偉そうな店員さんが(格好だけ)平謝り。その説明(言い訳)によると、担当した店員さんは競合某社からの派遣社員であって、「ナイコン」を選んだ小生は(彼のひとにとっては)客ではなかったようだ。偉そうな店員さんがにこやかに(中も確認しない箱のまま)袋に(放り)入れて「これが保証書です」、との説明を受けて退出。ヤレヤレのおもいで帰社。最初にテスト撮影をしたら、レンズがおおきく突き出たまま、そこでフリーズ。なんともトンマな姿であった。「バッテリーを外して再起動すると治る、モトイ、直る」といわれ、やってみたらたしかに起動した。だがまたすぐにフリーズした(いいんだろうか? 写真機とパソコンを同じ用語で語っても)。

そもそも平べったい「エスオーエヌワイ」の小型カメラも最初は難儀した。カメラはファインダーを覘いて撮るものと(いまでも)決めているから、ファインダー(だとおもっていた)穴が、よもやレンズとは露おもわなかった。たいていは「向けて撮~る」だから、撮影後にみたらオカルト画像のような、妙なモノしか写っていなかった。それが自分のメンタマだとわかるのに少し時間がかかった。これですっかり機械オンチであることがバレて軽蔑された。電子カメラもレントゲン撮影機(胸部の)と同じ構造になったとおもいこんだのが間違いだった。

さて「ナイコン」のその後。10回に1回はフリーズするので、保証書と一緒に「大きなカメラ」に修理依頼で持ちこんだら、「新宿ナイコン・サービスセンター」を紹介され(追い出されて)退出。新宿西口までトボトボ歩く。さすがに「ナイコン」は丁重そのもの。即刻にこやかに同型の新台と交換(速攻追い出し)退出。なにか不満足、なにかが物足りないぞ。

精密機器の修理とは、痩身の技術者が、何だかふしぎなルーペを目にはめて、小さなドライバーでシコシコ修理するのだとおもっていた。そして所在なくふるい週刊誌などをみていると、やがて「ハイ、お待たせしました。直りました!」と技術者と共に喜びたかったのだ。精密工業技術を誇る日本製なのに、なんたることかとよくみたら、MADE IN INDONESIAと、底部に豆粒のような字でしるしてあった。嗚呼! 唖唖 !! 精密工業の底辺を支えてきた信州人を愚弄しているではないか。わがふるさとは貧しく、民草は泣いておるというのに。

銀座凮月堂のおいしい和菓子-味の粋

◉吾輩ハ、銀座凮月堂デ「味ノ粋」ヲ食ス――――銀座をぶらつく、というとちょっと格好がいいが、ふるい資料と、例の「ナイコン」を鞄にいれて、晴海通りから一本新橋寄りの「みゆき通り」を徘徊する。晴海通りから、gggギャラリーに続く「すずらん通り」に入って、一本目の道路が「みゆき通り」である。ここをうろうろとさまよい歩く。徘徊の最中は明治11年ころの南鍋町2丁目1番地を歩くこころもち。

町の名前からして、江戸期のこのあたりは「居職」商工者の町で、鍋や釜などの鋳物屋が多かったとされる。その一部が文字の鋳物--活字鋳造業者に転じたということ。明治11年、当時ここには「活版製造所弘道軒」があった。そしてご自慢の英国直輸入(原産国は米国)ブルース手廻し活字鋳造機が(最初から最後まで)1台だけあって、清朝活字を製造していた。そのすぐ脇には「日報社・東京日日新聞社、いまの毎日新聞社」があり、数寄屋橋に近寄れば秀英舎活字鋳造部製文堂もあった。いわば築地の東京築地活版製造所とともに、明治の印刷・出版・活字史を飾った企業群があったメディア発祥、活字ゆかりの地である。

かつては東京築地活版製造所、秀英舎の創業の地を訪ねて、やはりその周辺を徘徊した。いまは「活版製造所弘道軒、南鍋町2丁目1番地」である。古地図『東京京橋区銀座附近一覧図』(明治35年、京橋図書館蔵)が頼りとなる。そこでは「菓子商・米津凮月堂」の一軒隣が「活版製造所弘道軒」となっている。凮月堂はいまでもみゆき通りに本社と直営店を構えているが、移転を最低でも三度は繰りかえし、はす向かいの現在地に落ち着いたことがわかった。南鍋町2丁目1番地の弘道軒は、現在は鈴乃屋呉服店(中央区銀座5丁目6-10)あたりであるとみなす。

客足が途絶えたところを見計らって、鈴乃屋呉服店に飛び込む。「まことにつかぬことを伺いますが、こちらは何年ころから営業されておられるのでしょう?」「昭和5年(1930)と聞いています」。このくらいは事前にWebsiteで取材済み。社長が出てきてこんにちは♫ 親切に対応。関東大地震(大正12・1923)の後始末がついて、各店舗が開設されるまでに時間がかかったようである。収穫多し。

みゆき通りからすずらん通りに左折、2軒入ったところ。ここも昭和5年創業の「タカオカ靴店」に「ワンカップ」数本を片手に再訪問。ここは靴屋である。その証拠にショー・ウィンドーに照明が入っているが、商品は革靴が一足だけポツリ。それも確実に4ヶ月は連続して現状のママ、イキ。店主はいつも店右奥でフリーズして、ズック、モトイ、黒いスニーカーを履いている。今回は、みゆき通り、銀座中央通りに、関東大地震のころまで「ドブ・溝・クリーク・川・運河」があったか否かを再取材。タカオカ翁、御齢96歳。まだ昼下がりなのに、まずワンカップをグビリ。

「戦争中か、おぅ、陸軍に召集よ(敬礼)」。[第一師団ですか?]。「冗談じゃねぇ、あんな金ピカ近衛じゃねぇ、第六聯隊、実戦部隊だ」。[第六聯隊はほとんど全滅したとされてますね]。「まあな。青森や岩手の聯隊からは軽くみられてたな、弱兵だってな。逃げんのが早いんだよな」。[ところでタカオカさん、そこのみゆき通りには、関東大地震のころには、ドブか、クリークか、川のようなものはありましたか?]。「震災後も、戦前までは川があった。ここからも中央通りに流れていた」。[それはドブのようなものでしたか?]。「ドブじゃねぇさ。泥鰌やタニシくらいはいたし、中央通りにいけば、鮒やメダカだっていたな。ところで若いの、幾つだ?」。[65歳になりました]。「そうか、若いな(?)。オレの息子の歳だな」。[はい、わたしの母親もタカオカさんと同じ96歳で健在です]。障害難聴者と加齢難聴者の会話は、ここが銀座のど真ん中か、という具合で、端から見たら(たれも入ってこないけど)怒鳴りあいの大声でつづく。

チョイ疲れたし、取材メモを整理するために凮月堂に入る。1階のショーケースで和菓子の品定めをして、2階の喫茶室にあがる。一服して和菓子「味の粋」が食べたかった。ただしこの菓子の読み方がわからなかったので、写真付きのメニューから、「コレと、珈琲をください」と註文。昼下がり、甘いものをひとりで食すのはチト恥ずかしい。テストを兼ねてこっそり「ナイコン」でパチリ。

まもなく妙齢のご婦人が隣席に。「アジのイキと、お抹茶、よろしくね」とこちらは小粋に決めた。同じ和菓子がでてきたぞ。なにか引っかかったので、一階のレジで、伝票にプリントされた「味の粋」の読み方を質問。「当店ではアジ-ノ-スイと呼んでおります」。あぁ良かった、恥をかかなくて済んだ、とおもうと同時に、湯桶ユトウ読みや重箱ジュウバコ読みにはふり仮名を! とおもった。そして「ナイコン」。やはりひどい仕上がりだった。これはカメラのせいではなく、まぎれもなく小生のせいである(らしい、悔)。

中央が鈴乃屋呉服店。すずらん通りの右が旧日報社とみられる。

タカオカ翁、96歳。意気軒昂!

銀座のど真ん中タカオカ靴店。堂々と靴一足!盛業中!

朗文堂-好日録003 秀英体100、正調明朝体B、和字たおやめ

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大日本印刷 ggg  ギンザ・グラフィック・ギャラリー 「秀英体100」を発表――大日本印刷のgggギャラリーが、第294回企画展「秀英体100」を発表している。会期は2011年1月11日[火]-31日[月]。同社秀英体開発室を中心に、長年にわたって展開してきた「秀英体平成の大改刻」には、小社もお手伝いを重ねてきた。プロジェクト自体はまだ中途であるが、その中間報告として画期的なイベントとなることが期待される。新年のダイアリーには、まずこの予定を書き込んでいただきたい。  【 詳 細

朗文堂タイプコスミイク――《正調明朝体B金陵 Combination 3》、《和字たおやめ Family 7》発売開始。
お待たせしました! いよいよ発売開始です。このふたつのパッケージ書体は、林昆範さん、今田欣一さんとの勉強会「グループ昴スバル」でのいいつくせない思い出がある。あのころは熱かったとおもう。そして、これからも熱くありたいとおもう。

祝祭日――11月23日は「勤労感謝の日」だった。最近の「デザインの効いた」カレンダーの一部には、祝日は刷り色だけを赤などにしてあるものの、どうして会社や学校が休日になるのかわからないものが多い。つまり気がつかないうちに、あまり使われないことばとなって、もはや死語と化しつつあることばが「祝祭日」かもしれない。もともと祝日は「めでたい日、いわいの日、特に国家の定めた祝いの日」であった。いっぽう祭日は「国民の祝日の俗称」ともされるが、本来は「祭りをおこなう日――皇室の祭典をおこなう日、神道で死者の霊を祭る日、物忌みする日」であり、旧制度のもとでは別途のものであった。このふたつをまとめて「祝祭日」としたから、わかりにくくなり、あまりつかわれなくなったことばのようだ。

勤労感謝の日――勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあうとする日だそうである。もともとは皇室行事の新嘗祭ニイ-ナメ-サイ。祭日が祝日にかわった一例でもある。ここのところ、チト無理をしてきたので、自分を褒め、勤労感謝! 朝からバスタブにぬるいお湯をいれて長湯をしたら、全身がけだるくなって休日(になってしまった)。新嘗祭とは天皇が天神地祇に新穀をすすめ、また親しくこれを食する日。もちろん天皇は古式ゆかしく正装し、この行事を粛々とこなされたことだろう。顧みてわが身。ただボケーッとして、溜まっていた書物を読みとばし、うたた寝をしただけの休日。たまたま腹がすいたので、コンビニでカレーをチンしてこれが小生の新嘗祭。ついでに100円ショップに寄って、「平成23年版カレンダー」を買う。これにはスケジュールも書き込めるし、祝日がなんの日かはもちろん、旧暦、六曜もでているから便利で昨年も買った。ちなみに、きょう24日は「旧暦10月19日、仏滅一白」だ。だからどうしたというわけではないけど。

A Kaleidoscope Report 003をアップ――東京築地活版製造所の跡地に建立された「活字発祥の碑」の背景を描くシリーズも3回目を迎えた。逡巡はあったが、牧治三郎さんのことを踏み込んで書いた。すこし辛かった。

◉11月24日[水] 本日快晴。日日之好日。

朗文堂-好日録002 電子出版の未来

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◉爆睡の昨夜――仕事も、依頼原稿もだいぶたまっているのに……。きのうは新宿私塾が西尾彩さんの特別講座だったことをいいことに、隣室でA Kaleidoscope Report 003の執筆。講座は5時に終わったが、メシも喰わず一気呵成に書き終えて擱筆。時計をみたら10時を過ぎていた。帰途にメシをかき込んだら睡魔がおそった。考えたら6月頃から土日をまともに休んだことはない。風呂もなにもなく、そのまま爆睡。

◉早起きは三文の徳――スッキリとした目覚め。早朝7時。新聞を読み終えて、このごろお気に入りのカフェに。中西秀彦著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』をかかえていく。ここはベローチェでもドトールでもないのだが、名前はまだ知らない。ただ珈琲がそこそこにうまいのと、ともかく空いているので、煙草くさくないのが良い。このごろ肩身の狭い愛煙家でも、やはりケムイのは嫌なのだ。どうせなら、おいしく煙草をくゆらしたいのだ(我が儘を承知で、せめて日曜の朝ぐらいだ)が。

◉中西秀彦さんのこと――中西さんは、京都の老舗印刷所・中西印刷株式会社の経営者で、執筆の主舞台は印刷学会出版部の『印刷雑誌』での連載である。その軽妙洒脱な語り口が好評で、連載も長期にわたっているし、単行本も売れているようだ。ところがその連載の前任者はなんと筆者であった。筆者の連載は18ヶ月であった。それに大幅に加筆して『活字に憑かれた男たち』として発売されたが、売れているとはいいがたい。筆力の差か。

◉中西亮さんのこと――中西印刷の六代目社長、中西亮さんとはふしぎなご縁があった。きっかけは1914年(大正3)うまれ、ただいま96歳のオフクロ。オヤジが亡くなった25年ほど前からしばらく、ようやく身軽となったオフクロは「お父ちゃんが、エジプト、ギリシャ、蒙古、アラスカ……行きたいっていっていたから」とまことに都合のよい理由を見つけて、海外旅行を楽しむようになっていた。もちろん老人のことゆえ、単独行ではなく、添乗員つきの団体旅行がおもだった。気に入りの旅行代理店があったらしい。そこでオフクロとしばしば海外旅行にご一緒したのが中西亮さん。ある日オフクロが「お前と同じで、ホテルでも、レストランでも、メニュー、コースター、マッチまで集めて、どこでも勝手に町の印刷屋さんに飛び込む京都のひとがいる。面白くていいかただから一度お訪ねしてごらん……」という次第で、京都の中西印刷さんを二度ほど訪問したことがあった。おもに京都大学の学術書用の特製活字を見せていただいた。そこには一朝一夕の蓄積ではない、素晴らしい「金属活字」があった。

◉ふたたび中西秀彦さんのこと――かつて『本とコンピュータ』という雑誌があった。創刊から3年ほど筆者も連載記事を執筆していた。編集担当は、いまは怪しげな筆名にかわった河上進さんだった。ある日怪しげさんが「オンデマンド印刷、どうおもわれます?」とやってきた。「あんなもの、ゼロックスのトナー・コピーだろう」。「そうそう、それでいきましょう」。怪しげさん、なにやら嬉しげにひとりで納得。しばらくして大日本印刷のgggギャラリーのビルで「激論! オンデマンド印刷の未来」と題する対談が設定された。そのときの「オンデマンド印刷、バラ色の未来の論客?」としての対談相手が中西秀彦さんだった。筆者は怪しげさんが勝手に設定した「オンデマンド印刷だと? ふざけんな! 派」だったらしい。

◉アンダースローの軟投型の投手――対談は1時間の設定だったが、話題がまったく噛み合わず、3時間は優に超えても終わらなかった。中西さんはときおりアンダースローから巧妙な変化球を投じてくる。筆者はジャイアンツの小笠原よろしく、あたりかまわず(なんの思惑もなく)バットをブンブン振りまわす「試合」に終始した。気の毒だったのはカメラマン。最初に対談風景の写真を撮り終えていたが、帰るに帰れず、カメラを抱いたままウツラウツラしていたのを覚えている。あれから何年経ったのだろう。整理の悪い筆者はその掲載誌も探し出せないでいる。それより皆さん、オンデマンド印刷って知っていますか? 使っていますか? オンデマンド印刷はだいぶ進歩して、筆者はときおり急ぎで少部数の「印刷≒コピー」に使ってます。いまやたれもお先棒は担がないようですけどね。

◉中西秀彦著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』――カフェで2時間ほどかけて読了。書名のタイトルはチト大袈裟かな? 著者は出版社と印刷所が主従関係にあり、あたかも別途の存在としてかたっているが、もともと印刷所から創業して出版社になった版元は多いし、いまでも出版部と印刷部を併営している企業はたくさんあるしなぁ。だから感想はなし。いまさら電子出版に抵抗するはなしをされても困ったなぁ……、というのが実感。便利で安いものは受け入れられるもの。それでダメだったら見捨てられるだけのはなし。それでも定価1,680円、一読の価値はありそうだ。ただし、今朝の珈琲の味はいつもより苦かった。

◉19日[金]に来社した新宿私塾修了生曰く。「掲示板、ブログ、チャット、ミクシィ、ツィッターってやってきたけど、どれも荒れちゃうんでね。もうツィッターも飽きちゃたし、やめました……」。オイオイ迂生は、みんながツィッターにいってブログが空いたんで、周回遅れを笑われながら、シメタとばかりブロガーになったばかりだぞ!

◉4F-Bでは、はるばる金沢から来社されたご夫婦が、Adana-21J操作指導教室受講中。5時で終わり。日帰り日程。きょうは、きょうのうちに帰ろう。

◉11月21日[日]、本日曇天。日日之好日。

朗文堂-好日録001 西尾綾さん「製本術入門」

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◉本日の新宿私塾は、西尾彩さんを講師に迎えての特別講座「製本術入門」ワークショップ。西尾さんには開塾以来ずっと新宿私塾の講師をお願いしている。外連味 ケレンミ のない、堅実な製本術の講座である。隣室ではヨスト・アマンの職人絵図さながらの作業がつづいている。道具もこの絵図とさして変わらないものがもちいられている。いつも技芸の伝統、書物の歴史におもいを馳せるワークショップとなる。


◉11月17日、タイプコスミイクが「正調明朝体B Combination 3」、「和字たおやめ Family 7」を発表した。月内での発売開始に向けて、スタッフは最後のチェックに余念がない毎日である。ご予約、発売日のお問い合わせもいただいているようで嬉しいことである。もうほんのしばらくお待ちいただきたい。

◉木版刊本や浮世絵の例をあげるまでもなく、かつての版画はメディアであり、庶民の身近な存在だった。幕末のほぼ同時期に伝来した、銅版画と石版画も同様な歴史を背負って導入された。それがいつから、実用の工芸や技芸としての存在を失って、額縁のなかに鎮座し、ギャラリーの壁展示によって鑑賞するだけの芸術乃至は美術に変わったのだろう。

◉12月4-5日、第35回全国大学版画学会による版画展が町田市立国際美術館で開催される。アダナ・プレス倶楽部は昨年につづいて公開セミナーとワークショップに協力。昨年はとかく忘れられがちだった「リノカット」の魅力を再現することにつとめて反響を呼んだ。ピカソが、ダダイストたちが、そしてエミル・ルーダーが、「リノカット」を自在に駆使して、膨大な作品や書物をのこしていたことは意外に知られていなかったようだ。とりわけルーダーの作品は写真製版の網点だとしかおもっていないようだ。そこで愚考! 「そうだ! ふたたび、みたび、新島さんに、ドットのスタディ」の講習会を依頼しよう。

◉版画展はことしも意欲的なセミナーとするべく、9月から当番校の日本大学藝術学部と協議をはじめた。こころは「版画よ、額縁から脱出せよ!」。11月にはいってからは、4F- Bが空いている日には、ときおり製本担当者を交えて深夜までの準備作業がつづいている。テーマは「版画と活字」。公開制作では「製本した作品をみながらの、版画と活字作品制作のデモンストレーション」である。詳細はアダナ・プレス倶楽部ニュースに紹介されている。昨夜は早朝5時までの作業だった。武井武雄による『地上の祭』の完成を見守る志茂太郎の心境だった(すこし大げさかな?)。それでもチョット凄いものができそうなうれしい予感がした。

◉朗文堂Websiteの一隅に、あたらしいブログ「花筏 はないかだ」を開設。水面 ミナモ におちたひとひらの花弁のように、はかなくアーカイブの大海に沈むのがよい。乞い願わくば、アーカイブをふくめてのご愛読を。

◉本日、快晴。日日之好日。