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大岩久吉はもともと煙管(キセル)職人として、東京・向島で兄とともに、キセルの雁首などを加工する金属加工職人として生計を営んでいた。のちに最先端の印刷関連機器の「小型鋳造機/カスチング」 (活字鋳造機 type casting machine )などと様々に呼ばれた機器の製造者として手腕を発揮した。 この大岩の師匠は、彦根藩・井伊家の鉄砲鍛冶を祖とする大川光次 ( 1853 - 1912 ) であった。
周知のように、鉛合金による鋳造活字を使用する活版印刷術は、1445 年頃、わが国の室町時代に、ドイツのヨハン・グーテンベルク( Johann Gutenberg 1399? - 1468 )によって創始された。
グーテンベルクは金属活字をおもな印刷版とする印刷術、すなわち活版印刷術の開発者たちのうち、あまりにも著名なひとりであるが、また同時に、金属活字を製造するための効率的な活字父型( type punch )・活字母型( type mold )の製造法や、タイプ・キャスティング・ハンド・モールド( type casting hand mold 手鋳込み活字鋳造器・流し込み活字鋳造器)の考案者でもあった。
この「手鋳込み・流し込み」などと呼ばれた、一見簡便なタイプ・キャスティング・ハンド・モールドの技術は、鉛合金の注入を、手動で柄杓(ひしゃく)状の器から鋳型に流し込む「流し込みタイプ・キャスティング・ハンド・モールド」から、せいぜい「ポンプ式タイプ・キャスティング・ハンド・モールド」に改良された程度で、400 年ほどの間、基本的な技術は変わらなかった。
しかし 1838(天保 9 )年、米人のダビット・ブルース( David Bruce Junior 1802 - 92 )が「手回し式活字鋳造機 pivotal type caster 」の実用化に成功した。
わが国の活字業界では「カスチング/手回し式活字鋳造機/手回し」などと様々に呼ばれていたこの「ブルース活字鋳造機」は、現在もなお、48 ポイント以上の大きなサイズや、スクリプト体などの「張り出し」があるような特殊な活字の鋳造のため、一部の業者が使用しているほど、堅牢かつ利便性の高い機械である。しかしこれがいつ頃、どのようにわが国にもたらされたのかは確証がない。
江戸末期、 「流し込み活字」 と称して「タイプ・キャスティング・ハンド・モールド (手鋳込み活字鋳造器・流し込み活字鋳造器) 」による活字鋳造法によって苦吟していた長崎通詞・本木昌造らが、維新直前に松林源藏を上海の美華書館に派遣し、明治最初期に上海経由で入手したものとみられているが、これも確証はない。
「ブルース活字鋳造機」は手動の簡素な機構の機械で、2 個の L 字型の鋳型を組合せ、ポンプ(ピストンともいう)で地金を鋳型に流し込み、手動ハンドルを 1 回転させるごとに、贅片(ぜいへん/活字の尾状のもの)がついたままの活字を機外に排出するものである。これを仕上げ工が贅片を折り取り、カンナで仕上げて完成品とした。
1871(明治 4 )年、工部省勧工寮活字局は、おそらく「ブルース活字鋳造機」とおもわれる「カスチング 1 台」を設置して活字を鋳造し、民間にも活字を供給しようとした。
いっぽう、本木昌造の活版製造所(長崎)の経営を継承した平野富二は、10 名の同志とともに 1872(明治 5 )年、外神田佐久間町に活字製造所を設置した。このとき使用した「手鋳込み活字鋳造機」と記録されている機械も、製造量の記録から推量すると「タイプ・キャスティング・ハンド・モールド」ではなく、すでに「ブルース活字鋳造機」を導入していたとおもわれる。
この平野富二による活字鋳造所は、のちに築地に移転して、東京築地活版製造所となって盛名をはせるが、1881(明治 14 )年に同社は米国から「ダビッド・ブルース型活字鋳造機を購入した」と『印刷製本機械百年史』に記述されている。おそらくこの頃から「ブルース活字鋳造機」が本格的、あるいは商事会社などによってわが国に輸入されたのであろう。
国産による「小型鋳造機/手回し式活字鋳造機 pivotal type caster 」を最初に開発したのは大川光次であった。代々鉄砲鍛冶として、彦根・井伊藩に仕える家に生まれた大川は、少年時代から家業を手伝っていたが、1920(明治 5 )年、赤坂・田町で流し込み活字(タイプ・キャスティング・ハンド・モールドによる活字のことか?)および鋳型(タイプ・キャスティング・モールドのことか?)の製造・販売を開始した。1927(明治 12 )には大蔵省印刷局に招かれて鋳造部伍長となり、やはり同局に入った実弟の大川紀尾蔵とともに、活字鋳造と鋳型の完成に努力した。
1883(明治 16 )年は山縣有朋の建議によって官報第 1 号が発行された。大川兄弟はこの年に大蔵省印刷局を退き、赤坂・田町において鋳型製造業を再開するとともに、国産 1 号機となる活字鋳造機「小型鋳造機/手回し式活字鋳造機/カスチング」を製作した。従来はこの大川光次製の、様々な名称によって呼ばれていた活字鋳造機の詳細がわからなかったが、『小池製作所の歩み』にわずかに残された不鮮明な石版印刷の図像をみると、大川兄弟が製造した通称「カスチング」とは、「ブルース活字鋳造機」の一種の模倣機といえた。
後述するように、これらの機器は補充部品の供給もままならず、また解体修理を迫られることは今でもしばしばある。当時の通信・交通事情を考慮すると、その依頼を原産国に発注することは事実上不可能であった。したがって大川兄弟は「ブルース活字鋳造機の英国製? の模倣機」に合わせて、正方形の日本語活字の鋳型をつくり、また、その修理の経験をへて、独自に模倣機の製造技術を習得したものとおもわれる。
大川の「小型鋳造機」はそう広範囲に普及したわけではなく、おもに、かつての同僚であった大蔵省紙幣寮や印刷局系の出身者が購入した。その代表は松本敦朝(あつとも 1825 - 1903 )による「玄々堂印刷会社/東京活字鋳造銅版彫刻製造所」や、神崎正誼(まさよし 1837 - 91 )の「活版製造所弘道軒」であった。神崎正誼の記録には、縁者のツテを頼って英国から「鋳造機」を輸入したという記述をみる。
「明治 16 年、大川兄弟は揃って印刷局を退き、赤坂田町 4 丁目で鋳型及び鋳造機の製造を開始した。この鋳造機の原体は弘道軒神崎氏の義兄にあたる英国駐在公使が、神崎氏のために送ってきたもので、築地型とは異なり小型であった。それを神崎氏からスケッチさせてもらって、一工夫を加味したのである。これが本邦における小型鋳造機製作の起源となった」
活字鋳造機とは、ふつうは活字のサイズは可変型になっている。しかし実際の現場では利便性を重んじ、サイズ毎に鋳型を固定して、複数台数を設置することがほとんどである。したがって「玄々堂印刷会社」や「活版製造所弘道軒」が実際に使っていたのは、大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」であったとみられる。その結果、米国製の活字鋳造機「ブルース活字鋳造機」や「トムソン活字鋳造機」と、その模倣国産機を用いていた東京築地活版製造所と、大川光次の「小型鋳造機/カスチング」を用いた「玄々堂印刷会社」や「活版製造所弘道軒」の活字サイズは、鋳型の寸法や基準尺度の相違から、それぞれが独自のサイズのものとなったとみてよいだろう。
蛇足ながら……、大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」は、精度と強度に何らかの問題を抱えていたのかもしれない。つまり大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」を実見したという報告に接したことはないが、「ブルース活字鋳造機」は相当古いものでも健在で、現在も活字鋳造現場では実用機として用いられている。
のちに大川光次は芝・愛宕町に移り、1912(明治 45 )年、60 歳をもって逝去した。大川光次に関しては『本邦活版開拓者の苦心』「初期の鋳型、鋳造機製作者……大川光次氏」に詳しい。
昭和 9 年に刊行された同書のこの章のサブ・タイトルには「門下の俊才ことごとく第一線で活躍」とあり、文末には「ちなみに大川門下として現在活躍されている俊才は、須藤、大岩、関、國友氏などである」とある。小池林平が師と仰いだ大岩久吉は、まぎれもなく大川光次の門下であった。
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