アダナ・プレス倶楽部

コラム * No.001

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掲載資料

K.M.T.全自動組版機

小池製作所

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小池林平と活字鋳造

日本の活字史のもうひとつの側面から

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相次ぐ技術開発、そしてついに KMT 全自動モノタイプの開発

 小池製作所が自動罫インテル鋳造機の開発に全勢力を注ぎ込んでいたころ、活字業界では「変体活字廃棄運動」の悪夢をぬぐい去り、戦禍からの活字文化の復興を目指していた。そのために大きな役割を果たしたのが、ベントン活字母型(父型)彫刻機の特許切れに伴う国産化の動きであった。

 もともと活字父型と活字母型の製造法には、パンチド・マトリクス法、電鋳法(電胎法)、彫刻法があった。このうち彫刻法の技術に、リン・ボイド・ベントン( Linn Boyd Benton 1844 - 1932 米)による画期的な発明「ベントン活字母型(父型)彫刻機 Benton type matrix ( or punch ) cutting machine 」がもたらされた。

 この機械は相似三角形(パントグラフ)の理論を応用したもので、わが国ではおもに活字母型( type matrix )製造のために、特殊なカッターを毎分 8,000 - 10,000 回の高速回転によって、マテ材の表面に活字原図のパターンを縮小(まれに拡大)して彫刻するものであった。ベントンはこれを 1884 年に完成し、翌年に英米の特許を得た。

 戦前のわが国の活字母型製造では、もっぱら種字とよばれた木製の活字原型か、活字そのものを活字父型代わりとする「電鋳法(電胎法とも)」が中心であったが、大蔵省印刷局が新機構の「ベントン活字母型彫刻機」を 1912(明治 45 )年に導入し、三省堂と東京築地活版製造所(のちに凸版印刷に譲渡)が 1922(大正 11 )に導入していた。

 戦後、大日本印刷は、損傷と摩滅のめだっていた活字母型を再構築することを目的とし、三省堂の了解と協力を得て、測定機器のメーカーであった津上製作所に同機をスケッチさせて国産機の開発に乗り出した。津上製作所は 1949(昭和 24 )年 9 月、毎日新聞東京本社で国産機の展示会を催し、大日本印刷と毎日新聞社に続々と納入され、活字鋳造業者からも熱狂的に歓迎された。ついで富山市の「 NACHI 」ブランドで知られる機械メーカーの不二越も、同様にこの分野に進出した。この間の情報は『秀英体研究』(大日本印刷)に詳しい。

 国産メーカーによる「ベントン型活字母型彫刻機」は、電鋳法による活字母型の手作業を大幅に機械化し、敏速で精度の高い活字母型の製造に貢献した。しかし彫刻針で彫った活字母型から鋳造される活字には、表面に独自の出っ張りが生じる欠陥があった。そのために、これにもやはりなんらかの活字仕上げ装置を付帯させなければ、連続鋳造は不可能であった。

 この装置を得意分野としていた小池製作所は、後発ではあったが、彫刻母型による活字仕上げ装置の開発に着手した。後発メーカーの宿命として、他社の特許に抵触することを避けたために開発は難渋したが、極めて単純明快な、カッターによる仕上げ装置を 1963(昭和 38 )年に開発するにいたった。先発企業のそれは、刃物でえぐり取るものであったので、その優良性は明白で、この「出張り活字の仕上げ装置」は特許を得て、ベントン型活字母型彫刻機のユーザーにひろく受け入れられていった。

 活字鋳造界がベントン型活字母型彫刻機の開発に夢中になっていたころ、新聞社と大手印刷所の大きな関心は、活字組版の機械化と合理化、すなわち活字を 1 本ずつ鋳造しながら、自動的に組版までを作る「自動活字鋳造植字機」ともいうべき「モノタイプ monotype 」の開発に向けられていた。

 モノタイプには、欧文用と邦文用がそれぞれ独自に開発され、特許も取得したために、先発したタルバート・ランストン( Talbert Lanston 1844 - 1913 )が 1887 年に発明、1889 年に試作機を完成し、1897 に商品化された「ランストン・モノタイプ Lanston Monotype 」を「欧文モノタイプ」と呼び、杉本京太( 1882 - 1972 )によって開発され、1920(大正 9 )年頃からわが国の一部で用いられたものを「邦文モノタイプ」と呼びならわしている。

 戦後の復興にあたって、大手新聞社では邦文モノタイプの開発が死命を制するとまでされ、朝日新聞は「活版工程機械化」と称し、毎日新聞は「活版工程合理化」とうたうなど、呼び方にも差異を意識するほど熾烈な競争となった。

 朝日、毎日新聞の両社は、ほとんど時を同じくして、戦前に「 SK モノタイプ」を開発した日本タイプライター(現 Canon Semiconductor Equipment )に製作を依頼したが、戦災からの復旧に手間取っていた同社には余力がなかった。このため朝日新聞は東京機械製作所に、毎日新聞は工作機械株式会社に発注した。両社はともに 1949(昭和 24 )年 8 月に、「 AT モノタイプ」(朝日)、「 MNK モノタイプ」(毎日)として公開にこぎつけた。

 いっぽう、日本タイプライターも 1948 年頃から独自に研究を開始し、1952 年(昭和 27 )年に、戦前の SK 式とは異なった「邦文モノタイプ」を完成させた。この新機種の活字母型庫は円筒型で、鋳型はランストンのモノタイプを踏襲して平型とし、地金釜と鋳口を鋳型の下に持ってきたものであった。同機は「 MT 型モノタイプ」と呼ばれた。この年には、東京機械製作所も「 TK 式モノタイプ」を開発した。

 しかしながら、AT 型、MNK 型、MT 型、TK 型のいずれの機種も、和文タイプライターと同様に、文字入力部と活字鋳造部が一体で、欧文モノタイプのように、複数のオペレータが鑽孔テープによって文字入力をすることはできなかった。

 小池製作所もこの分野に無関心であったわけではない。朝日、毎日新聞のモノタイプ開発競争を静観していた読売新聞社技術部から 1953(昭和 28 )年、株式相場の自動組版のための数表専用モノタイプの開発依頼をうけ、全自動鑽孔テープを用いた、独自の邦文モノタイプの開発に成功した。

 ついで小池製作所は毎日新聞社の古川恒技術部副部長から新たな依頼を受けた。

「マニラに駐在の折り、マニラ・タイムスが見出し活字鋳植機を使用しているのを見て感銘を受け、活字母型の機械的な製造が可能になれば、国産機の開発もさほど困難はないと考えました。そうこうしているうち、毎日新聞は津上製作所製のベントン型活字母型彫刻機型を導入しましたので、いよいよ機は熟したとおもいました。開発依頼先はインテル鋳造機の実績もあることから、小池製作所以外に無いと考えました」(『毎日新聞百年史』)。

 このとき古川は、小池林平にいった。

「インテル鋳造機は成功して、小池製作所さんの大きな看板製品になりましたが、見出し活字鋳造機は台数的には 20 台ぐらいしか売れないでしょう。しかし毎日新聞にはどうしても欠かせない物なのです。よろしくお願いします」

 ところが古川の予測に反して、新聞社だけでなく、印刷・活字界にあっては、ベントン型活字母型彫刻機の導入によって活字書体とサイズが一挙に増加し、また紙面の多様化(デザイン性の向上)によって各社とも使用頻度の少ない見出し用活字が増大し、活字用の棚やスダレケースを占拠するのが悩みの種であった。そのために「小池式見出し活字鋳造機」は、毎日新聞はもとより、読売新聞、朝日新聞をはじめとする全国の新聞社に導入されただけでなく、中堅印刷所や活字鋳造所にもひろく導入された。

 1955(昭和 30 )、小池製作所は大蔵省印刷局と共同で「自動花罫鋳造機」も開発している。それまでの花罫は専門業者がインテルなどをタガネやバイトで削って製作する高価なものであった。

 小池林平と小池製作所が本格的に全自動邦文モノタイプに挑戦をはじめたのは 1960(昭和 40 )年代に入ってからになった。1964(昭和 39 )年の東京オリンピックの報道がその動向に拍車をかけた。活版印刷の印刷版製造工程の要とされていたが、収容字種が 2,000 字ほどとすくなく、外字への対応が困難であり、入力と出力が一対一であったためにコストも割高で「道楽モノタイプ」と揶揄されるなどその普及は難航していた。

KMT 型全自動組版機

KMT型全自動組版機

 1966(昭和 41 )年 6 22 日、小池製作所は「 KMT 型全自動組版機(小池式モノタイプ・マシーン)」の発表展示会を開催し、印刷・新聞・報道各社を多数招いて話題となった。「 KMT 型全自動組版機」は先発各社の製品と比べて、小型かつ高性能であり、新聞社はもとより、中堅クラスの印刷所までが競って発注した。「 KMT 型全自動組版機」はその後さらに改良がくわえられたが、最大の成果は、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられたことである。それに際して、小池製作所は英国・モノタイプ社との間に「クロス・ライセンス」契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ社の日本代理店ともなった。

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 わが国の活字鋳造業界のまっただ中を生きてきた小池林平は 70 代の後半から床に臥せることが増えた。その病床には叩き上げ職人の大工の棟梁や、町工場の社長たちが親しく訪れていた。小池はこれらの職人や工匠を最後まで大切にしていた。

 1996(平成 8 )年 10 21 日、 午前 0 52 分、小池林平は 81 歳をもって長逝した。その最後を看取ったのは後継者として育て上げた家族一同であった。

主要資料

『活字文化の礎を担う—小池製作所の歩み』

(東洋経済印刷 小池製作所 昭和 60 6 30 日)

『毎日新聞百年史』

(毎日新聞百年史刊行委員会 毎日新聞社 昭和 47 2 21 日)

『本邦活版開拓者の苦心』

(津田伊三郎 津田三省堂 昭和 9 11 25 日)

『本木昌造伝』

(島屋政一 朗文堂 2001 8 20 日)

Practical Typecasting

Terry Belanger Oak Knoll Books 1992

『活字に憑かれた男たち』

(片塩二朗 朗文堂 1999 11 2 日)

『活字をつくる Vignette 04

(河野三男他 朗文堂 2002 6 6 日)

『秀英体研究』

(片塩二朗 大日本印刷 2004 12 12 日)

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