月別アーカイブ: 2025年5月

【展覧会】書の美術館 春日井市道風記念館|館蔵品展 - 一回性の美学 -|’25年4月23日-7月13日

書の美術館 春日井市道風記念館
館蔵品展 - 一回性の美学 -
会  期  令和7年(2025年)4月23日[水]- 7月13日[日]

開館時間  午前9時 - 午後4時30分
休  館  日  毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
観  覧  料  一 般 100円、高校・大学生 50円、中学生以下 無 料 
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
展示解説  学芸員が初心者向けに展示品の解説をします。事前予約は不要です。
      令和7年(2025年)5月10日[土]6月1日[日]
      各 日 午前10時30分-11時、午後2時-2時30分 道風記念館1階展示室
会場案内  書の美術館 春日井市道風記念館
      〠 486-0932 愛知県春日井市松河戸町5丁目9番地3 電話 0568-82-6110
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  一点一画すべてが一回きり。その潔さが書の魅力。

筆で書いた一本の線の軌跡が “書” です。いちど書いた線の上から線を重ねて修正することは基本的にありません。二度と同じ作品が生まれないのはもちろん、一点一画すべてが一回きりのものなのです。
そして書は、その筆脈を多くの人が共有できるところに大きな特徴があります。書には筆順があり書き直しをしないため、鑑賞者が筆の動きを読み取り、時間の経過をたどって作品が仕上がる様を追体験することができます。たとえ古い時代に書かれたものからでも、書いた人の息づかいを感じることができるのです。
今回の館蔵品展では、筆の動きを読み取りやすい行書・草書の作品や、淡墨で書かれた作品を中心に展示します。書においての「一回性」という特徴をこころに留めながら作品を鑑賞してみてください。書のおもしろさ、奥深さを感じるきっかけとなれば幸いです。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 書の美術館 春日井市道風記念館

[ 動画紹介:春日井市公式動画チャンネル  YouTube

             春日井市 道風記念館館蔵品展「一回性の美学」紹介 2:56 ]

【展覧会予告】書の美術館 春日井市道風記念館|企画展 「おののとうふう」 ~ 小野一族のひみつ ~|’25年7月18日-8月31日

書の美術館 春日井市道風記念館
企画展
「おののとうふう」 ~ 小野一族のひみつ ~
会  期  令和7年(2025年)7月18日[金]- 8月31日[日]
開館時間  午前9時 - 午後4時30分
休  館  日  毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
観  覧  料  一 般 100円、高校・大学生 50円、中学生以下 無 料 
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
会場案内  書の美術館 春日井市道風記念館
      〠 486-0932 愛知県春日井市松河戸町5丁目9番地3
      電話 0568-82-6110 ▷ 交通アクセス
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小野道風(おののとうふう 894-966)は、平安時代中期を代表する能書(書の上手な人)です。道風の日本書道史上における功績を一口でいえば、従来の中国の書の模倣から脱して、日本風の書を創造したことです。その優美な書は和様の書と呼ばれ、後世に大きな影響を与えました。和様の書は、藤原佐理に継承され、藤原行成によって完成されたといわれ、この三人を三跡とよびます。
春日井市は道風の偉業を讃え、後世に伝えるため、昭和56年、道風生誕の地と伝えられる松河戸町に春日井市道風記念館を開館しました。全国的にも数少ない書専門の美術館です。

今回の企画展では、遣隋使として中国へ渡った小野妹子や、漢詩文に長けた小野篁〔編集:おのの たかむら 802-853 小野小町・小野道風はその孫とされる〕、和歌にすぐれた小野小町など、道風の一族にもスポットをあてつつ、子どもにもわかりやすいよう、小野道風とその書を丁寧にご紹介します。柳と蛙の逸話にもみられる努力の尊さ、古きを学び、それを活かして新しい書を生み出した道風の革新的な精神に触れていただきたいと思います。

※ 夏休み企画として、盛りたくさんなイベントが設定されています。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご参加・ご観覧を。
[ 詳 細 : 書の美術館 春日井市道風記念館

{ 新宿餘談 }今回の企画展のテーマ<~ 小野一族のひみつ ~>では、遣隋使として中国へ渡った小野妹子や、漢詩文に長けた小野篁〔編集:おのの たかむら 802-853 小野小町・小野道風はその孫とされる〕、和歌にすぐれた小野小町など、道風の一族にもスポットをあてつつ、子どもにもわかりやすいよう、小野道風とその書を丁寧にご紹介します──とある。
これはおよそお子様向け企画とはいえない。つまり慌ててググったら これに触れた記録が散見 され、資料を繰ったら記録があった。小野道風の一族は長大なつながりと拡がりをもっており、小野小町と小野道風はいとこという関係になる。これは迂闊にも知らなかった。稿者はかつて春日井市でイベントを開催したこともあり、この「春日井市道風記念館」にも数回足をはこんでいる。いまはただ己の無知を羞じるばかりである。

【展覧会】G U C C I - グッチ銀座ギャラリー|横尾忠則 未完の自画像-私への旅|’ 25年4月23日-8月24日|開展壹个月

G U C C I - グッチ銀座ギャラリー
横尾忠則 未完の自画像-私への旅
期  間  2025年4月23日[水]- 8月24日[日]
会  場  GUCCI-グッチ銀座ギャラリー
      〠 104-0061 東京都中央区銀座4-4-10 ダッチ銀座7階
      東京メトロ銀座駅B2出口
時  間  11:00 - 20:00(最終入場19:30)
      入場無料、予約優先制、会期中無休
      * 開催内容・時間は予告なしに変更となる可能性がございます。
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2025年、グッチは、創造性を通じたコミュニティとの共創をテーマに日本国内でアートプロジェクトを多面的に展開いたします。その取り組みのメインとなるのが、日本を代表するアーティストである横尾忠則氏との展覧会「未完の自画像 – 私への旅」の開催です。
「旅」を想起させるテーマを描いた 横尾作品を中心に、今回初公開となる自画像や家族の肖像など最新作を含めた20点以上の作品が展示されます。
本展を通して、芸術の創造性は完成された瞬間よりも、むしろ未完成であることにこそ宿るという、横尾氏が一貫して掲げてきた美学を感じていただけます。

常に進化を続けるグッチというブランドの在り方とも響き合う展覧会「横尾忠則 未完の自画像 – 私への旅」は、2025年4月23日[水]より開催します。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : G U C C I - グッチ銀座ギャラリー

【会員情報】 ぢゃむ 杉本昭生さん|活版小本新作 ── ニュージェント・バーカー『告知』|’25年5月15日

{ ぢゃむ  杉本昭生 活版小本 一筆箋 }

ニュージェント・バーカー(1888-1955)は
一九二〇年代から三〇年代にかけて人気のあったイギリスの小説家です。
しかし現在では事典にすら記載がないので、経歴の詳細は不明です。
内容は、母親を殺した男が自首するため警察署に向かいます。
その途中に図書館に立ち寄り、
好きな本の背を眺めながら思いを巡らすという話です。
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気にしなければ気にならないとも思えるのですが。
どうも印刷がきれいにできません。
多分試し刷りもせずに、いきなり刷りだしているので
インキが紙に浸透せず、あちこちにくっついて汚れます。
乾燥の時間を長く(片面刷って丸一日)しましたが、まだ十分ではないようです。
調整が必要なのは承知しているのですが、
改善できるかどうかも不明で、すこし億劫になっています。

【 詳 細: ぢゃむ 杉本昭生 活版小本 】

【展覧会】埼玉県立自然の博物館|特別展 秩父鉱山の面影|~ニッチツが所蔵した希代の鉱物標本群~|’25年3月8日-6月15日|鉱物標本参考記録

埼玉県立自然の博物館
特別展 秩父鉱山の面影
~ニッチツが所蔵した希代の鉱物標本群~
開催期間  令和7年(2025)3月8日[土]- 6月15日[日]
休  館  日  月曜日(祝日 及び GW 期間中は開館)
会場案内  埼玉県立自然の博物館 2階企画展示室
      〠 369-1305 埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1417-1
      電話:0494-66-0404(代表)ファックス:0494-69-1002 ▷ アクセス
料  金  一 般 200円、高校・大学生 100円、中学生以下 無料
      * 障害者手帳等をお持ちの方及び介助者1名無料
お問合せ  電 話 0494-66-0407
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秩父鉱山の歴史をたどりながら、株式会社ニッチツ秩父事業所より寄贈を受けた100点余りの標本群を展示します。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 埼玉県立自然の博物館 

【輝安鉱標本】本木昌造が谷口黙次を派遣して採掘したとされる熊本県天草市天草町産出-輝安鉱の鉱石標本

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【 独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium 】
本木昌造が谷口黙次を派遣して採掘したとされる
「肥後国西彼杵郡高原村-熊本県天草市天草町」の

鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱 キ-アン-コウ

き-あん-こう【輝安鉱】――広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで……》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の有力社員であるが、ご本人の強いご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一著 2001年8月20日 p.106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありである。全国規模で同好の士も多いとされる。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも「現地調査」をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石標本程度は入手できるそうである。
「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足 ―― 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
上掲写真のお譲りいただいた輝安鉱の原石は、手のひらに載るほどわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産のレアメタルになっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査がなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからの指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい〔管見ながら印刷業界からのみるべき報告は無かった〕。目下の調査では、本木昌造が社員某、あるいは初代谷口黙示に採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

〔福 地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴筆 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891年 p.6)
〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933年 p.61-62)
〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『本邦 活版開拓者の苦心』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934年 p.21-22)
〔島 屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p.102-6, p.175)
〔福 地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。(中略)従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844-1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、〔大阪活版製造所代表の初代〕谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。
而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844-1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島 屋〕 本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。(中略)
上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。
そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。(後略)
明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村 ─── 熊本県天草市天草町》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられた。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市町村かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、天草市役所観光課に架電した。その結果、たしかに同市にはいまも高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって、東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようである。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎・熊本行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという、矮小化された誤解を生じさせたような気もする昨今である。

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《活字地金とアンチモン》
活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増し、表面の平滑性をたかめる働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることのほうがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70-80%、錫1-10%、アンチモン12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途、企業によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状などの活字地金〔インゴット〕にもどして利用されている。

〔 初 出 : 朗文堂ブログ 花筏 タイポグラフィあのねのね*004 アンチモンの原料鉱石、輝安鉱 2011年3月3日 〕── 若干補筆・整理を加えて転載した。

【展覧会】回向院念仏堂|第11回 鳥居清長忌展覧会|二日間だけの「清長と版元たち」〜蔦屋重三郎の時代〜|’25年5月31日-6月1日 / 二日間|終了

回向院念仏堂
第11回 鳥居清長忌展覧会
二日間だけの「清長と版元たち」〜蔦屋重三郎の時代〜
会  期  令和7年(2025年)5月31日[土]- 6月1日[日]
開館時間  10時 - 17時 * 入館は閉館の30分前まで
会場案内  回向院念仏堂 2階
      〠 130-0026 東京都墨田区両国2丁目8−10
      TEL: 03-3634-7776  ▷ 交通・アクセス
問い合せ  清長忌実行委員会事務局
      〠 103-0013 東京都中央区日本橋人形町2丁目18-4 昭美ビル1階
      電話. 03-5640-4446
後  援  国際浮世絵学会/一般社団法人 墨田区観光協会
協  力  公益社団法人 川崎・砂子の里資料館/
      公益財団法人 摘水軒記念文化振興財団/
      千葉市美術館/すみだ北斎美術館/其角堂/株式会社 江戸文物研究所/
      有限会社 艸藝社
主  催  回向院、清長忌実行委員会
入場無料
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このたびの鳥居清長忌展覧会では回向院に眠る鳥居清長とともに、本年話題となっている浮世絵の版元、すなわち浮世絵のプロデューサーにも焦点を当てています。とかく浮世絵といえば、図柄を描いた浮世絵師が注目されてしまうのはやむを得ないが、しかし浮世絵師の独力で浮世絵版画ができあがるわけではありません。絵師は版下絵を描き、彫師がその版下絵を板に裏返しに貼って版木を彫り、摺師が版木に墨や絵具を置き紙をのせてバレンで摺ることで一枚の版画が完成するという、卓越した職人たちによる協業なのです。そして、浮世絵の出版企画を立て、職人たちを統率して作品を摺りだし、販売まで担った出版者が版元なのです。

版元たちにとって、人気絵師に版下絵を描いて貰うことは商売の成果に直結していました。清長の場合は、大多数の錦絵を西村屋与八(永壽堂)から刊行していますが、蔦屋重三郎(耕書堂)版も散見されます。西村屋は美人画の有力版元でしたが、新興の蔦屋はやがて喜多川歌麿や東洲斎写楽の大首絵という新機軸で対抗してゆくことになるのです。
なお、ここ回向院の境内には、「無縁法界塔」と揮毫された供養塔が文久三年(一八六三)に建立されています。基壇正面に「にしきゑ(錦絵)職人中」とあり、台座には摺師の名も刻まれています。光を当てるべき浮世絵の重要な担い手たちにも、あわせて思いを馳せていただければ幸いです。
十文字学園女子大学 教育人文学部文芸文化学科

                                 教 授 樋口一貴

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 回向院念仏堂 清長忌実行委員会事務局

【展覧会】小山市立車屋美術館|静寂の詩学 生井亮司彫刻展|’25年5月3日-7月13日

小山市立車屋美術館
静寂の詩学 生井亮司彫刻展
会  期  2025年5月3日[土]- 7月13日[日]
開館時間  午前9時 - 午後5時(入館は午後4時30分まで)
休  館  日  毎週月曜日(5月5日は開館)、5月7日[水]、5月23日[金]6月27日[金]
会場案内  小山市立車屋美術館
      〠 329-0214  栃木県小山市乙女3丁目10番34号
      電 話:0285-41-0968  ファクス:0285-41-0922      ▷ アクセス
観  覧  料  一 般 500円(団体 360円)、 大高生 300円(団体 180円)
      中学生・義務教育学校生以下無料
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
後  援  FMおーラジ、下野新聞社、テレビ小山放送
主  催  小山市立車屋美術館
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生井亮司(1974年生まれ、小山市在住)の彫刻展。生井は、漆と麻布、砥粉を主な材料にした乾漆技法を用い、そのなめらかで柔らかな質感の特長を生かして、主に人物像の創作に取組んでいます。作品は対象を徹底的に見つめ、かつ自己との対話をへて制作され、静謐なたたずまいが印象的です。
本展は故郷を拠点に創作活動を続けてきた25年間の創作の軌跡を、近年の人物像や抽象的形状の彫刻作品とドローイング、またあらたな表現手法として取り組みはじめた絵画作品によって紹介します。併せて、敷地内の国登録有形文化財(小川家住宅)での展示をおこない、建築物の趣と作品の静かなたたずまいを掛け合わせ、あらたな魅力を引き出そうとする展覧会です。

> 生井亮司プロフィール <
1974年 栃木県小山市生まれ
1998年 武蔵野美術大学造形学部工芸工業デザイン学科卒業
2009年 東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了 博士(美術)
2006年 第80回国画会展出品(2023年まで毎年出品)、個展「幽かな夏」(フタバ画廊/東京)
2008年 個展「RAINDROPS」(starnet.ZONE、ギャラリー悠日/栃木)
2009年 第83回 国展 国画賞
2013年 「少年の詩学―生井亮司個展」(小山市立車屋美術館)
2019年 「美術教育の森展」(東京藝術大学美術館)
2022年 「Articuration ―区切りと生成」企画・出品(小山市立車屋美術館)
現在 武蔵野大学教授、日本美術家連盟会員

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 小山市立車屋美術館 ]