月別アーカイブ: 2025年6月

【展覧会】増上寺宝物展示室|企画展『徳川家康と増上寺三大蔵』|’ 25年4月19日-9月8日|開展貳个月

増上寺宝物展示室
企画展 『徳川家康と増上寺三大蔵』
会  期  令和7年(2025)4月19日[土]- 9月8日[月]
会  場  増上寺宝物展示室 大殿地下1階
      〠 105-0011  東京都港区芝公園4-7-35
      Tel:03-3432-1431  ▷ アクセス
開館時間  平 日 11:00-15:00、土・日・祝日 10:00 ー 16:00
休  館  日  火曜日 * 火曜日が祝日の場合は開館
料  金  一般 700円(税込)、中高生 300円(税込)。 小学生以下無料
      * 徳川将軍家墓所拝観 (500円) との共通券料金 1,000円
主  催  大本山増上寺・浄土宗
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このたび「増上寺が所蔵する三種の仏教聖典叢書」がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。これを記念して、増上寺では「徳川家康と増上寺三大蔵」展を開催いたします。
この「仏教聖典叢書」とは、ただしくは「大蔵経」といいます。大蔵経とは一蔵が5000巻を超える一大叢書であり、仏教文化の根拠と基盤をなす一大文献群です。
増上寺には、江戸時代初期に徳川家康公が寄進した三種の大蔵経があり、これを「三大蔵」と呼びならわしています。これら三種の大蔵経は、中国および朝鮮の各時代における印刷技術の粋を集めて制作されており、それぞれが文化史的にも極めて貴重な文化財です。また三種もの大蔵経が一箇所に所蔵され、長年にわたり保管される例は世界にも類がございません。
この増上寺三大蔵がユネスコ「世界の記憶」に登録されたことを祝して、膨大な量を誇る三大蔵の一端を展示させていただきます。世界が認めた仏教文化の粋をご覧ください。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
☆ チラシおもて面背景図版:右から 宋版大蔵経、元版大蔵経、高麗版大蔵経(すべて阿弥陀経)

[ 詳 細 : 増上寺宝物展示室

【展覧会】東京国立博物館|本館2階 特別企画展示 特別1室|増上寺の三大蔵 ― 徳川家康寄進の三種の大蔵経 ―|─ 徳川家康寄進の三種の大蔵経 ─ ユネスコ「世界の記憶」国際登録記念展|’25年4月28日-6月22日|会期終了乍上掲展資料乞御寛恕

東京国立博物館
本館2階 特別企画展示 特別1室
増上寺の三大蔵 ― 徳川家康寄進の三種の大蔵経 ―
── 徳川家康寄進の三種の大蔵経 ──
ユネスコ「世界の記憶」国際登録記念展
期  間  令和7年(2025)4月28日[月]-6月22日[日]
会  場  東京国立博物館 本館特別1室
主  催  東京国立博物館、増上寺、浄土宗
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 ☆ Art 瓦版 掲載図版のほとんどは図版をクリック or タップすると拡大表示されます ☆

東京・芝の浄土宗大本山増上寺には、「三大蔵」と呼ばれる三種の大蔵経〔だいぞうきょう 仏教経典の総集。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵およびそれらの注釈書を網羅した叢書。三種とも木版印刷。一切経・蔵書トモ〕が所蔵されています。宋版大蔵経5,342帖、元版大蔵経5,228帖、高麗版大蔵経1,357冊で、三つの大蔵経という意味から、「三大蔵」と呼ばれています。一組の大蔵経だけでも膨大な数にのぼりますが、版の異なる三種の大蔵経を所蔵しているのは世界でも唯一となります。これらは江戸時代17世紀初頭、徳川家康(1542-1616)によって将軍家の菩提寺である増上寺に寄進されたものです。
増上寺の三大蔵は、中世の東アジアにおける国際交流の軌跡を示すのみならず、近代にいたっては、今なお仏教研究の基本文献とされる『大正新脩大蔵経』の底本・校本としても使用された、貴重な文化遺産です。あわせて、江戸時代のさまざまな災害、関東大震災、東京大空襲など幾多の危機を奇跡的に乗り越えてきた歴史遺産でもあります。
このたび、増上寺の三大蔵はユネスコ「世界の記憶」に国際登録されました。これを記念し、東京国立博物館、増上寺、浄土宗は、この三大蔵を紹介する特別企画を開催します。多くの方々に増上寺の三大蔵を知っていただく機会となれば幸いです。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 東京国立博物館  増上寺宝物展示室

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合|アルビオン型手引き印刷機一号機 復旧再稼働成功報告|愈〻研究本格展開|初出 ‘17年1月23日

長崎印刷組合年賀アルビオンうれしい年賀状をいただいた。
既報のとおり、昨二〇一六年九月二日、「本木昌造墓前祭」にあわせ、長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機一号機」が同組合で復旧され、稼動実演をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30-40年ころの製造とみられる百年余も以前の印刷機。

もう一台の「アルビオン型手引き印刷機二号機」、東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が表裏に鋳込まれた印刷機は、明治20年代の製造と推測されるが欠損部品が多い。
ところが一号機の復旧をみて、こちらの二号機にも復旧の動きがあると仄聞する。
近代活字版印刷発祥の地、長崎印刷人の意地と底力を見るおもいがする昨今である。
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《 熱意が通じました!
 イベントから四ヶ月後「本木昌造墓前祭」で復元修復報告と実演 》

長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機 一号機」(大阪・片田製造所製造)、同二号機(天板両面に東京築地活版製造所、大阪活版製造所の銘板が鋳込まれている。推定明治20年代製造)は、その由来、存在意義、価値などの詳細が明らかでないまま、同館三階収蔵庫にいつのころからか放置されていた。

19世紀の終わりのころから、長崎にのこされた本木昌造由来の活字を復元しようとする気運があった。その際収蔵スペースが問題となり、スペース確保のために収蔵庫を整理して、前述の「アルビオン型手引き印刷機」二台を処分して展示室にしようとするという話題がもちあがったことがあった。

若気のいたりであったのかもしれない・・・・・・。
まことに余計なことながら、このうわさをを耳にして、当時の専用ワープロをたたいて、「アルビオン型手引き印刷機」二台の重要性と、その保存と再生をつよく訴えたことがあった。
その専用ワープロのデーターはやつがれの手もとではすでに消滅していたが、長崎の印刷組合で紙媒体でしっかり保管されていた。そして再稼働にあたって、その保管文書をもとに、二台の印刷機の由来、存在意義、価値を説明する小冊子をつくりたいとの申し出をいただいた。
大慌てで一部の語句を修整し、資料補強をなしたが、いかんせん時間がなかった。そのため一部に重複もみられるが、その一部を紹介したい。

20160914163731_00001[1]☆      ☆      ☆     ☆

長崎県印刷工業組合所蔵
アルビオン型手引き印刷機

モノとコトの回廊
アルビオン型手引き印刷機とは

「手引き印刷機 Hand press」とは、「手動で操作する印刷機の総称」である。
一般にはグーテンベルクがもちいたと想像される印刷機のかたちを継承したもので、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされる。
そのため厳密には手動式であっても、Salama-21A (現:Salama-21A)や テキンなど、印刷版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen press」とは区別されている。

グ-テンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案された木製の「ネジ棒式圧搾機型印刷機 Screw press」であったとされるが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想像の域を出ない。

現存する最古の手引き印刷機としてぱ、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムや、イタリアのパルマ宮殿にあるジャンバティスタ・ボドニ(1740-1813)博物館の木製手引き印刷機の存在が知られている。
またアメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706-90)も、木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られている。

グーテンベルクの木製活版印刷機の時代からその後350年ほどは、細部に改良が加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化はなかった。
その後に開発された著名な手引き印刷機としては、「コロンビアン印刷機」、「アルビオン印刷機」、「スミス印刷機」、「ラスペン印刷機」、「ワシントン印刷機」、「ハ-ガー印刷機」(以上年代順)などがあげられる。

フィギンス社アルビオン上掲写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フイギンズ社による1875年製のアノレビオン型手引き印刷機である(Lingua Florence 所蔵)。
本機は印刷機としての実用面だけでなく、19世紀世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォなどの新工芸運動の影響をうけて、アカンサスなどの植物模様が描かれ、金泥塗装の多用、猫脚の形態などに装飾の工夫がみられる。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランドをあらわす古名(雅称)である。ラテン語の「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレートブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来する。

アノレビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機である。
アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるためのオモリが、アメリカの象徴である鷲の姿をしている。

「アノレビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、重いオモリにかえて、圧盤を頭頂部に内蔵されたバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?-1828)によって考案された。
またコープ社の閉鎖後も格段の規制をもうけられなかったために、キャズロン社、フィギンズ社などが、独自の工夫を加えながら大小様様な同型機の製造を続けていた。

産業革命を経た19世紀末の英国では、すでに蒸気機関などの動力による大型印刷機が、商業印刷の主流であったが、アーツ・アンド・クラフツ運動を牽引したウィリアム・モリスは、手工藝再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン型印刷機をもちいていた。また、石彫家にしてタイポダラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていた。

20160523222018610_0004『Book of Spesimens  Motogi & Hirano』
(平野富二活版製造所 推定明治10年 平野ホール蔵)

わが国でも「アノレビオン型印刷機」とのつきあいはふるく、明治最初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所、江川次之進による江川活版製造所などの数社によって、アノレビオン型の手引き印刷機が大量につくられていた。
また明治09年、秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も、アルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっている(片塩二朗『秀英体研究』)。

長崎県印刷工業組合所蔵
アフレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされた

2003年07月19日、わが国の印刷人、タイポダラファにとって嬉しいニュースが流れた。
それは長崎県印刷工業組合三階の収藏庫に、国産「アルビオン型手引き印刷機」が二台所蔵されていることが、朗文堂・片塩二朗によって再発見され、報告されたからである。

そのうちの一台は(以下一号機)、横板部に二つの筋違いの正方形の中に「 K 」のマークがみられ、版盤なども健在で保存状態は比較的よい。
これは南高有家(長崎県南高来郡有家町ミナミタカキグンアリエチョウ 現:長崎県南島原市有家町石田に住所表示変更)の「有正舎」の旧蔵品で『長崎印刷百年史』(田栗奎作 長崎県印刷工業組合 昭和45年11月03日)に写真紹介されていたものである。
201109handpress[1]この一号機を板倉雅宣はハンドプレス・手引き印刷機(朗文堂 p.64)で、同機の「 K 」マークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。

もう一台のアルビオン型手引き印刷機は、元長崎県印刷工業組合相談役:阿津坂実(1915-2015 花筏:タイポグラファ群像008)によると、「九州荷札印刷」の旧藏品であったとする(以下二号機)。
機械主要部のほか圧盤までは現存しているが、加圧ハンドル、版盤、版盤案内レール、チンパン、あんどん蓋などは欠損している。

切りぬき02-627x627[1]切りぬき01-627x627[1]BmotoMon2[1]二号機に特徴的なのは、目立たないが「テコ Fulcrum」に鋳込まれている、俗称「丸 も」のマークである。これは本木昌造の裏紋とされている。
もうひとつは、横板(天板)の両面に鋳込まれている社名とマークの存在である。
正面(加圧ハンドルのある側)には、
「TYPE FOUNDRY OSAKA TRADE MARK JAPAN」とあり、大阪活版製造所の機械類の
マーク「丸 も に旭日」が鋳込まれている。
裏面には「TYPE FOUNDRY TSUKIJI TRADE MARK  TOKIO」とあり、東京築地活版
製造所の「丸 も にH」(ローマン体)のマークが鋳込まれている。

この両社のマークが制定されたのは1885年(明治18)ころとされている。したがって二号機は明治中期の製造とみられるが、いずれも本木昌造一門につらなる、大阪・谷口黙次/大阪活版製造所、東京・平野富二/東京築地活版製造所のどちらで製造したのかは判明しない。

アルビオンとはイギリスの古名で、「アルビオン・プレス」はイギリスのリチャードー・コープが1820年に発明、同工場のジョン・ホプキンスンが1824年に改良した手引き式の活字版印刷機である。コープ社が閉鎖されたのちも、格別の保護を主張しなかったために、英国では数社が同型機の製造を継続していた。

わが国では明治初期から平野富二(東京築地活版製造所)、江川活版製造所、金津鉄工所、国友鉄工所、片田鉄工所などによって国産化され、安定した活字版印刷機として評価され、ふつうは単に「手引き印刷機|と呼ばれていた。
また秀英舎(現・大日本印刷)の創業時の印刷機も「アノレビオン・プレス」であったことが、最近創業時の工場写真が出てきたことで判明している。
いずれにしても同型機の多くは昭和中期まで、一部で校正機などとして長年にわたって用いられていたすぐれた印刷機であった。

活字版印刷術、タイポグラフイとは、活字だけでは成立しない。当然印刷機も必要である。このたび長崎県印刷工業組合から再発見された印刷機は、平野富二関連では『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(活版所平野富二 平野ホール所蔵 推定18フフ)の最終ページに図版で紹介されていたものとほぼ同一のものである。

いずれにしても本機の再発見は嬉しいニュースであった。なによりも本木昌造と、その師弟であった平野富二/東京築地活版製造所、谷口黙次/大阪活版製造所が誕生した長崎で発見されたことを欣快としたい。
そして印刷関連業界、タイポグラフイ界・造船工学界・機械工学界の研究者が、ひとしく同機に熱い視線を注いでいる事実を記録しておこう。

《急速に進展した総合技術としての活字版製造術の研究
── 活字製造だけの研究の陥穽を脱し、関連器械・技術研究への視点 》

長崎県印刷工業組合でのアノレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされたのち、顕著な変化があった。それはこれまで活字版印刷術研究 ≒ タイポグラフイとはいいながら、ともすると活字だけに偏するかたむきがみられたのにたいし、総合技藝としてのタイポグラフィの視点から、活字と器械研究への視座の転換がみられたことである。

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代印刷活字文化保存会 2003年9月30日)は、「本木昌造活字復元プロジェクト」の旗のもとになされ研究であった、同書の執筆者の多くは、すでに活字製造と関連人物の資料発掘に偏することなく、その研究の視座を大きく転換していた。

同書刊行の直前、筆者であり発売元の朗文堂:片塩二朗は、肺炎から敗血症となって入院中であった。しかしながら不完全ではあったが、「文明開化とタイポグラフイ勃興の記録」をしるし、そのコラムとして「長崎県印刷工業組合所蔵アノレビオン型手引き印刷機 p.291」をのこし、両機の保存と再生・再稼働をつよく希望した。

また、印刷博物館開館三周年記念企画展図録『活字文明開化一本木昌造が築いた近代』(印刷博物館2003年10月6日)には、主要展示に同館が所蔵する三台の「アルビオン(型)手引き印刷機」を出展し、おおきな関心をよんでいた。

『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂 2011年9月15日)は、真っ向から手引き印刷機に取り組み、論述したものである。著者:板倉雅宣は、国内各所に現存している手引き印刷機を丹念に調査し、その形状・マークの採用時期などから、それぞれの印刷機の製造元・製造年度に関して詳述している。

それによると、長崎の一号機は「K」のマークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。
二号機に関しては、両社のマークの採用時期と照らして、明治18年(1885)から大阪活版製造所の名前が見られなくなる明治末年までの間のものであろうとしている。

『明治近代産業のパイオニア-平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 2013年11月22日)においては、ついに長崎で発祥した活版製造業のことを、長崎製鉄所による産業の近代化の事業の一環としてとらえ、その中心に長崎出身の平野富二の事業を、IHI出身の古谷昌二氏が、まったくあらたな視点から、近代産業としての活版製造業にとり組んだ。その成果はおおきく、小指の先ほどもないちいさな活字と、巨大な造船事業が、長崎製鉄所の事業を基盤として誕生し、それがそれぞれ飛躍していった姿を記録し尽くすことに成功した。

《長崎と全国のタイポグラフアの交流の場となった<Viva la 活版ばってん長崎>》
朗文堂サラマ・プレス倶楽部による活版礼讃イベント<Viva la 活版 ばってん 長崎>が長崎県印刷会館を主会場として、2016年5月6-8日に開催された。

東京をはじめ、全国各地から訪崎した会員は50余名。マイクロバス二台をレンタして開催された{崎陽長崎 活版さるく}には、地元勢の参加があって45名を超えていた。また会場には熱心な来場者多数を連日お迎えした。

DSCN7279-627x470[1]DSCN6689-627x470[1]事前準備、撤収作業と、一部の会員は五泊にわたる長崎滞在となり、140年余にわたって蓄積された長崎の活版印刷事業の奥深さを実感する機会となった。
その際、同館所蔵の小型プラテン印刷機だけでなく、貴重な「アルビオン型手引き印刷機」もなんとか稼動・実演したいという意見があり、部品の欠損が少ない一号機を復元する試みをした。
ところがなにぶん出張先での修復作業であったため、工具も足りず、部品の補充もできず、わずかに「チンパン Tympan」を新設した程度で、稼動実現の成果をあげることはできなかった。

その際、訪崎されて、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられていた板倉雅宣氏が詳細に点検され、一号機はやはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、将来の復元稼動を支援することになった。

また長崎県印刷会館の収蔵庫には、本木昌造の逝去後の「新町活版所」を経営し、本木昌造の叙位に際して資料提供にあたった 境 賢治(1844-?)がもちいていたとされる「インキローラー鋳型」かあり、これも主会場に展示されて話題を呼んだ。
こうして2003年から13年あまりの時間が経過していた。

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《本木昌造141回忌に際し アルビオン型手引き印刷機が復旧披露》
2016年9月2日[金]開催の「本木昌造141回忌法要」に際し、長崎県印刷工業組合の力により「アルビオン型手引き印刷機」一号機が修復・復元され、稼動・実演されるとの情報に接した。とてもうれしく、わが国の印刷産業史に特筆すべき快挙となった。

うかがったところによると、<Viva la 活版 ばってん 長崎>におけるサラマ・プレス倶楽部会員の皆さんの関心の推移をみて、長崎県印刷工業組合もついに「アルビオン型手引き印刷機」(一号機)の本格修復を決断されたとされる。
復元稼動に際しては、福岡市の有限会社文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。
板倉雅宣『手引き印刷機』より20160914163336_00002[1]20160914163336_00001[1]DSCN6742-627x470[1]DSCN6744-627x470[1]

「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館三階で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。
「チンパン Tympan」は<Viva la 活版 ばってん 長崎>会期の前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたったサラマ・プレス倶楽部会員:日吉洋人さんのものが、そのままもちいられていた。
(有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」
手引き印刷機のチンパン-627x470[1]DSCN6687-627x470[1]ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を、朗文堂:片塩二朗が簡単ではあったが解説にあたった。
DSCN6804-627x352[1]{ 関連記事:文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露 

【展覧会】京都工芸繊維大学美術工芸資料館|鐔・髪飾りのかたちとデザイン ― 新収蔵品を中心に|’25年3月3日-7月12日|開展參个月

京都工芸繊維大学美術工芸資料館
鐔・髪飾りのかたちとデザイン―新収蔵品を中心に
Shapes and Designs of Tsuba (Sword Guards) and Hair Ornaments:
Focusing on Newly Acquired Works
開催期間  2025年3月3日[月]- 7月12日[土]
休  館  日  日曜日・祝日
開館時間  10:00 - 17:00(入館は16:30まで)
会場案内  京都工芸繊維大学美術工芸資料館 1階
      〠 606-8585 京都市左京区松ヶ崎橋上町
      電話番号 075-724-7924 ファックス 075-724-7920
入  館  料  一 般 200円、大学生 150円、高校生以下 無料
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
協  力  京都・大学ミュージアム連携
主  催  京都工芸繊維大学美術工芸資料館
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刀剣を装飾する刀装具は、鐔 -つば-と三所物と呼ばれる目貫 -めぬき・笄 -こうがい・小柄 -こづか- が代表的です。柄と鞘のあいだに位置する鐔は、接近戦の際に相手の刀を受け止めるために必要であり、中央の穴には刀身を、左右の穴には笄と小柄(小刀)を通します。これら刀装具には早くからさまざまな意匠がほどこされ、強さや吉祥をあらわすものもあれば、文学的な主題を扱ったものもあります。また、髷を整えるなど身だしなみのために用いられたとされる笄は、しだいに結髪後に挿し込んで髪を飾るものへと変化しました。笄に加えて櫛や簪は多様な髪型が生まれるのに伴って髪飾りとして発達し、多彩な意匠がほどこされました。
京都工芸繊維大学美術工芸資料館で刀装具や髪飾りの所蔵がされてきたのは、意匠性と機能性を兼ね備えるものとして、恰好なデザイン教材と考えられたからでしょう。このたび新たに鐔をはじめとする刀装具約670点と髪飾り約180点を収蔵し、大きくその幅を拡げることとなりました。
本展は、新たにコレクションに加わった刀装具や髪飾りの一部を公開するとともに、鐔を中心にそのデザイン教材としての可能性を探ります。鐔は円や角、木瓜などさまざまなかたちを持ち、戦いのための適切な大きさ・重さといった条件を満たしながらデザインされています。そんな鐔そして髪飾りのかたちとデザインを通して、日本において育まれてきた身に着けるものへ美を追い求める心に学んでいただければと思います。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 京都工芸繊維大学美術工芸資料館

{ 新宿餘談:かねて 円形乃至は楕円形の 刀剣の「つば・鞘・鐔」にある、複数の穴の存在が気になっていた。東京国立博物館本館で刀剣展があったおりに、チョット調べたことがある。本展では真っ向からそのテーマに切り込んでいる。説明するとどうしてもくどくなるし、展覧会開催者には失礼になるが、それを怖れず本稿読者に「メモ」として紹介したい。
編輯 ▷ 刀剣において……柄と鞘-鞘・鐔 ともに漢音:タン 意読:しおで、さや-のあいだに位置する 訓読:つば-、刀の柄ー漢音:ヘイ 意読:え・がら・つか-は、接近戦の際に相手の刀を受け止めるために必要であり、中央の穴には刀身を、左右の穴には笄ー漢音:ケイ、和訓:こうがい、たばねた髪をとめるかんざしーと、小柄ー意読:こづか・こがたな-(ちいさな刀、小刀-ショウトウはより大きい)を通します。これら刀装具には早くからさまざまな意匠がほどこされ、強さや吉祥をあらわすものもあれば、文学的な主題を扱ったものもあります。また、髷を整えるなど身だしなみのために用いられたとされる笄は、しだいに結髪後に挿し込んで髪を飾るものへと変化しました。笄に加えて櫛や簪は多様な髪型が生まれるのに伴って髪飾りとして発達し、多彩な意匠がほどこされました}

【展覧会】茅ヶ崎市美術館|美術館建築 ― アートと建築が包み合うとき|’25年4月1日-6月8日|会期末/ 保存推奨資料

茅ヶ崎市美術館
美術館建築 ― アートと建築が包み合うとき
Art Museum Architecture: Where Art and Architecture Harmonize
会  期  2025年4月1日[火]- 6月8日[日]
休  館  日  月曜日(ただし、5月5日は開館)、5月7日[水]
開館時間  10:00 - 17:00(入館は 16:30 まで)
料  金  一 般 800円、 大学生 600円 茅ヶ崎市内在住65歳以上 400円
      * 高校生以下、障がい者およびその介護者は無料
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
会場案内  茅ヶ崎市美術館
      〠 253-0053 神奈川県茅ヶ崎市東海岸北1-4-45
      TEL 0467-88-1177 FAX 0467-88-1201 ▷ アクセス
協  賛  鹿島建設株式会社、丸井産業株式会社、大成建設株式会社
協  力  WHAT MUSEUM 建築倉庫、株式会社シラヤマ
共  催  茅ヶ崎市、文化庁国立近現代建築資料館
主  催  公益財団法人茅ヶ崎市文化・スポーツ振興財団
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地域に根ざした建築設計で知られる山口 洋一郎の「茅ヶ崎市美術館」は、鳥が翼を広げたような屋根が特徴的です。この湘南の軽やかな空気をまとう当館を舞台に、場の特性を活かす “サイト・スペシフィックな芸術” として、5つの珠玉の「美術館建築」を取り上げます。
石見地方特産の石州瓦で建物全体を覆い、釉薬の違いにより玉虫色の建築を創り上げた内藤 廣「島根県芸術文化センター」。
広島の造船技術を活用した可動展示室を中心に、所蔵作品から着想を得たエミール・ガレの庭、10棟のヴィラ、レストランからなる海辺にたたずむ坂 茂「下瀬美術館」。
瀬戸内の島につくられた銅製錬所の遺構を活用し、周囲の丹念なリサーチのもと、風・水・太陽を “動く素材” として扱い、自然エネルギーによる循環型建築を創り出した三分一 博志「犬島精錬所美術館」。
環境・アート・建築が一体となり、上部に大きく開けた穴からうつろう自然を採り込む、唯一無二の空間で知られる西沢 立衛「豊島美術館」。
加えて、国内の建築資料のアーカイブを行う文化庁国立近現代建築資料館が所蔵する3つの美術館、坂倉 準三「神奈川県立近代美術館」、ル・コルビュジエ「国立西洋美術館」、高橋 靗一 *+第一工房「群馬県立館林美術館」のオリジナル図面も公開します。

本展では、模型や設計図面に加え、初期アイデアスケッチ、建築素材、実験過程がわかる資料を通じ、建築家の思考を辿るとともに、その場所にその美術館がある意味を探っていきます。

* 高橋 靗一 / 読み方:ていいち 靗一の「靗」は青偏に光。以下全て同様。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 茅ヶ崎市美術館 ] 

【展覧会予告】渋谷区立松濤美術館|黙然たる反骨 安藤照|没後・戦後80年 ー忠犬ハチ公像をつくった彫刻家-|’25年6月21日-8月17日

渋谷区立松濤美術館
黙然たる反骨 安藤照
― 没後・戦後80年 忠犬ハチ公像をつくった彫刻家 ―
会  期  2025年6月21日[土]-8月17日[日]
入  館  料  一 般 1,000円、大学生 800円、高校生・60歳以上 500円、小中学生 100円
      * 土・日曜日、祝休日及び夏休み期間は小中学生無料
      * 毎週金曜日は渋谷区民無料 
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
休  館  日  月曜日(ただし7月21日、8月11日は開館)、
      7月22日[火]、8月12日[火]
会場案内  渋谷区立松濤美術館
      〠 150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14
      TEL:03-3465-9421  ▷ アクセス
主  催  渋谷区立松濤美術館
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渋谷駅前のモニュメント《忠犬ハチ公像》(初代) の作者、安藤 照〔あんどう てる 1892-1945〕。没後80年を記念した本展は、彼の彫刻家としての活動を網羅的に紹介するはじめての展覧会となります。
安藤は、数々の彫刻家がしのぎを削った昭和戦前期の彫刻界で活躍を期待された存在でした。1917年に東京美術学校に入学し、在学中の1921年に帝国美術院展覧会 (帝展) で彫刻家としてデビュー。翌年に帝展特選、そして1926年には帝国美術院賞を受賞するなど、はやくから頭角をあらわします。
1927年には帝展彫刻部の審査員に任命されたほか、1929年には中堅彫刻家の作品研究の場として結成した団体「塊人社」のリーダーとして活躍しました。そして、1934年には《忠犬ハチ公像》、1937年には《西郷隆盛像》(鹿見島県鹿児島市)と、現在も語り継がれるモニュメントを制作し、彫刻家としての地位を築いていきます。しかし、その道半ばの1945年5月、渋谷区代々木の自宅兼アトリエが空襲にさらされ、安藤もその犠牲となりました。
本展では、誰もが知る《忠犬ハチ公像》の影に隠れ、これまで語られる機会の少なかった安藤照の生涯について、戦火をのがれた現存作品約30点のほか、関連する作家の作品とともに迫ります。
激動の彫刻界、そして戦争に向かう不安定な時代の中でも「ただ黙々と仕事をして居ります」と語った安藤の作品は、時世の雰囲気に逆らうかのごとく、素朴で静謐です。激しくうつろう社会を生きる現代のわたしたちにとって、時代と黙然と戦った安藤の彫刻は新鮮に映ることでしょう。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 渋谷区立松濤美術館 ] 

【展覧会】出羽桜美術館|斎藤真一「瞽 女-ごぜ」|’25年5月16日-8月31日

出羽桜美術館
斎藤真一「瞽 女-ごぜ」
期  間  2024年5月16日[金]-8月31日[日]
開館時間  9:30 - 17:00[入館は16:30まで]
休  館  日  月曜日[祝祭日の場合は翌日]、年末年始、展示替え期間
会  場  公益財団法人 出羽桜美術館
      〠 994-0044 山形県天童市一日町1丁目4-1
      電 話 023-654-5050  ▷ アクセス 
入  館  料  一 般 600円、 高大生 400円、 小中生 200円
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出羽桜美術館は、1988年に、三代目仲野清次郎が永年に亘って蒐集してきた陶磁器、工芸品等の寄贈を受けて開館しました。三代目清次郎の旧住宅である明治後期頃の伝統的日本家屋の建物を活用し、木造瓦葺の母屋と蔵座敷を展示室として公開しております。
主な収蔵品は、古韓国・新羅・高麗・李朝期の陶磁器と工芸品で、そのほか斎藤真一「瞽女・明治吉原細見記」、近代文人の書、桜に因んだ工芸品、日本六古窯等三ヶ月毎の企画展示をしています。
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瞽女 (ごぜ) は三味線を抱え北陸や東北の農村や山村を訪れて、流行 (はやり) 歌を唄い、隣村の話題を届けて娯楽を運んだ盲目の女性旅芸人です。室町時代から続く文化だと知った斎藤真一は、越後高田にわずかに残っていた瞽女さんの話を聞き、暗黒の世界で地を這うような生活をしながらも、常に感謝の気持ちを忘れず互いに支え合っていた瞽女さんの人柄に惹かれて、一人一人の瞽女さんの記録を残そうと1961年から20年にも及ぶ歳月をかけて瞽女の足跡を巡り、百数十人の瞽女の哀しい生涯と、瞽女宿の人たちとの温かい心の触れ合いを作画しました。
消え去ろうをしている日本の文化に心の原点を求めた斎藤真一の深い思いが込められています。今展では油彩画と絵日記を50点展観します。哀愁に満ちた斎藤真一の世界をご鑑賞ください。

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[ 詳 細 : 出羽桜美術館 ]