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【展覧会】渋谷区立松濤美術館|井上有一の書と戦後グラフィックデザイン 1970s-1980s|’25年9月6日-11月3日|終了

渋谷区立松濤美術館
井上有一の書と戦後グラフィックデザイン 1970s-1980s
会  期  2025年9月6日[土]- 11月3日[月・祝]
          前 期: 9月6日[土]- 10月5日[日]
          後 期:10月7日[火]- 11月3日[月・祝]
会場案内  渋谷区立松濤美術館
      〠 150-0046 東京都渋谷区松濤2-14-14
      TEL:03-3465-9421  ▷ アクセス
入  館  料  一 般 1,000円、大学生 800円、高校生・60歳以上 500円、
      小中学生 100円
      * 土・日曜日、祝休日は小中学生無料
      * 渋谷区民は団体料金で入館可。毎週金曜日は渋谷区民無料 
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
休  館  日  月曜日(ただし9月15日、10月13日、11月3日は開館)、
      9月16日[火]、9月24日[水]、10月14日[火]は休館
特別協力  一般財団法人 井上有一記念財団
主  催  渋谷区立松濤美術館
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  それにしてもこの数年、われわれのグラフィックや広告の周辺で
  奇妙な井上有一ブームが巻き起こっていた。 田中一光 1989年

脈動する毛筆、炸裂する墨液 …… 。あまりにも強烈すぎる書の数々で知られる井上有一(1916-1985)の、没後40年を記念した展覧会を開催します。
1935年に東京・横川尋常小学校に奉職して以降、生涯を教師生活と書に捧げた井上。彼は精いっぱいの日常を生きる庶民の立場から、みずからの芸術をつくりあげようとした人物でした。
1945年の3月10日、つまり今から80年前には、勤務中の小学校でアメリカ軍の爆撃を受け一時仮死状態となったのち、多くの犠牲者のなかから奇跡的に息を吹き返します。井上の「戦後」は、戦争を辛くも生き延びたひとりの人間の道行きだったのです。

そして、この井上の特異な書業と来歴に鋭く反応したのが、ほかでもないグラフィックデザイナー達でした。70年代を境に、名だたるデザイナーが井上作品を用いた印刷物に携わるようになり、80年代以降デザインや広告を経営戦略に取り入れた、いわゆるセゾン文化のなかで井上の書が積極的に紹介されてゆきます。先に述べた井上の書のイメージは、70年代以降のデザイナーとのつながりを通じて、巧みにプロデュースされていったのです。
「戦後」が曲がり角に差し掛かるこの時期、一見奇妙な井上有一の書とグラフィックデザインの連帯は、いかにして成立したのか。そしてこの連帯が目指すものはいったい何だったのか。本展は、西武とパルコを擁する渋谷の地において、井上の書とデザインの関係を考えるものです。それは「戦後」という時代がどのように移り変わり、現在に至っているのかを振り返る確かな手がかりともなるでしょう。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 渋谷区立松濤美術館 ] 

【展覧会】SOMPO 美術館|デザインとイラストレーションの青春 1900s-1930s 大正イマジュリィの世界|’25年7月12日-8月31日|終了

SOMPO 美術館
デザインとイラストレーションの青春 1900s-1930s
大正イマジュリィの世界
会  期  2025年7月12日[土]- 8月31日[日]
会場案内  SOMPO 美術館
      〠 160-8338 東京都新宿区西新宿1-26-1 ▷ アクセス
開館時間  10:00 – 18:00(金曜日は20:00まで) * 最終入場は閉館30分前まで
休  館  日  月曜日日(ただし7月21日・8月11日は開館)、7月22日、8月12日
観  覧  料  一 般(26歳以上)/ 事前購入券 1,400円、当日券 1,500円
       一 般(26歳以下)/事前購入券 1,000円、当日券 1,100円 高校生以下無料
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
特別協賛  SOMPOホールディングス
特別協力  損保ジャパン
協  力  大正イマジュリィ学会
監  修  山田俊幸
後  援  新宿区、TOKYO MX
企画協力  株式会社キュレイターズ
主  催  SOMPO 美術館、毎日新聞社
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 ☆ Art 瓦版 掲載図版のほとんどは図版をクリック or タップすると拡大表示されます ☆

現代日本の大衆文化の源流は、明治末期から昭和初期までの先端メディアであった印刷物の中に見出すことができます。なかでも印刷技術の革新が進んだ大正時代(1912-1926)は出版界が興隆し、西洋の芸術やアール・ヌーヴォー、アール・デコの様式と日本の伝統を融合させた独特な美意識のデザインやイラストレーションが生み出されました。
本展では、文学と美術、音楽などが混じりあう近代の書物と刷物を愛した山田俊幸氏の収集品から大正時代を中心とする約330点を選びご紹介します。大衆に忘れがたい記憶を残した儚く膨大なイメージ群―大正イマジュリィの世界を、藤島武二、杉浦非水、竹久夢二などの主要な作家たちと、時代を映すさまざまな意匠を切り口に掘り下げます。

大正イマジュリィとは
イマジュリィとはフランス語で、ある時代やジャンルに特徴的なイメージ群のことです。1900-30年代の日本には西洋から新しい複製技術が次々に到来し、雑誌や絵葉書、ポスター、写真などに新鮮で魅力的なイメージがあふれました。当時の活気に注目した研究者はこれらの大衆的複製物を「大正イマジュリィ」と総称し、2004年に学会を結成しました。
監修者 山田俊幸氏(1947-2024)
近代文学から出版文化に興味を広げ収集・研究。大正イマジュリィ学会の創立会員・役員を務め、自身の収集品を核に2010年「大正イマジュリィの世界」展(渋谷区立松濤美術館)を開催。同展はその後も巡回。元・帝塚山学院大学教授、日本絵葉書会会長等。
* 山田氏は本展を準備中の昨年秋に急逝されました。心よりご冥福をお祈りいたします。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : SOMPO美術館 ]  

【展覧会】九州国立博物館|特別展 九州国立博物館開館20周年記念/放送100年/読売新聞社創刊150周年|法然と極楽浄土|’25年10月7日-11月30日|増上寺「大蔵経-宋版・元版・高麗版」出陳!|

九州国立博物館
特別展 九州国立博物館開館20周年記念/放送100年/読売新聞社創刊150周年
法然と極楽浄土
Special Exhibition: Hōnen and Pure Land Buddhism
会  期  令和7年(2025年)10月7日[土]- 11月30日[日]
      * 会期中に作品の展示替えをおこないます
開館時間  日曜日・火曜日-木曜日   9時30分-17時00分(入館は16時30分まで)
      金曜日・土曜日【夜間開館】 9時30分-20時00分(入館は19時30分まで)
      * 夜間開館の実施については変更になることがあります。
休  館  日  月曜〔10月13日[月・祝]・11月3日[月・祝]・11月24日[月・休]開館、
      10月14日[火]・11月4日[火]・11月25日[火]は休館〕
観  覧  料  一 般 2,000円、 高・大学生 1,200円、小・中生 無料
      * 前売り券各種、販売期間:7月1日[火]ー10月6日[月]
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
会  場  九州国立博物館
      〠 818-0118 福岡県太宰府市石坂4 – 7 – 2
      ハローダイヤル 050-5542-8600  ▷ アクセス 
──────────────────── ☆ Art 瓦版 掲載図版のほとんどは図版をクリック or タップすると拡大表示されます ☆

 混迷の時代に救いの光をもたらした
 法然上人ゆかりの宝物や浄土教美術の名品が一堂に!

平安時代末期、繰り返される内乱や災害、疫病の頻発によって世は乱れ、人々は疲弊していました。そのような中、浄土宗の開祖・法然(ほうねん 1133-1212)は、どんなに貧しくどんなに愚かでも、ただひたすらに阿弥陀仏を信じて「南無阿弥陀仏-なむあみだぶつ」〔六字名号〕と称えれば誰もが等しく極楽浄土に往生できる、と説きました。その教えは貴族から庶民に至るまで多くの人々に支持され、法然没後も弟子たちによって守り継がれ、江戸時代には徳川将軍家の帰依を受けて大いに発展しました。
令和6年(2024)、浄土宗は開宗850年を迎えました。これを機に、万人の救済を目指し、波乱万丈はの人生を送った法然の生き方や教え、浄土宗の歴史を貴重な名宝によってたどります。

\ 本展の見どころ /
◇ 鎌倉仏教の一大宗派である浄土宗の美術と歴史を、鎌倉時代から江戸時代まで通覧する史上初の展覧会です。
◇ 開宗850年の大きな節目を契機に、浄土宗各派の協力を得て至宝が集まる決定的な展覧会です。
◇ 重要文化財「選択本願念仏集-せんちゃくほんがんねんぶつしゅう(廬山寺本-ろざんじぼん)」「七箇条制誡-しちかじょうせいかい」など宗祖・法然にちなむ貴重な資料をはじめとする、国宝・重要文化財を多数含む文化財が一堂に集結します。
◇ 国宝「綴織當麻曼陀羅-つづれおりたいままんだら」「阿弥陀二十五菩薩来迎図-あみだにじゅうごぼさつらいごうず(早来迎-はやらいごう)」をはじめとする浄土教美術の名品や、「仏涅槃群像-ぶつねはんぐんぞう」などスケールの大きな優品など、浄土宗ゆかりの多彩な文化財をご覧いただけます。
◇ 戦争、天災、疫病などと向き合い、人々の救済を目指した法然やその継承者たちの姿は、現代の転換期を生きる私たちに生きるヒントを与えてくれることでしょう。
◇ 編輯:重要文化財/ユネスコ「世界の記憶」に登録された東京・増上寺の「大蔵経-だいぞうきょう(宋版-そうはん)」の一部、菩提行経 巻第1(中国・北宋-南宋時代 12世紀刊 東京・増上寺)が出品されます(出品リスト175,176,177)。本欄でも既報のとおり、増上寺の3種の大蔵経「三大蔵」(宋版、元版、高麗版)は、総数12,000冊に及ぶ仏典の集大成です。徳川家康が奉納し、400年以上にわたって増上寺に伝えられてきました。
▷ 出品リスト(三館合同)

※ 本展は『紡ぐプロジェクト』の一環として、東京会場、京都会場、最終会場の九州国立博物館と巡回するものです。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 九州国立博物館  『紡ぐプロジェクト』本展特設ウエブサイト ]

【展覧会】京都工芸繊維大学美術工芸資料館|鐔・髪飾りのかたちとデザイン ― 新収蔵品を中心に|’25年3月3日-7月12日|開展參个月

京都工芸繊維大学美術工芸資料館
鐔・髪飾りのかたちとデザイン―新収蔵品を中心に
Shapes and Designs of Tsuba (Sword Guards) and Hair Ornaments:
Focusing on Newly Acquired Works
開催期間  2025年3月3日[月]- 7月12日[土]
休  館  日  日曜日・祝日
開館時間  10:00 - 17:00(入館は16:30まで)
会場案内  京都工芸繊維大学美術工芸資料館 1階
      〠 606-8585 京都市左京区松ヶ崎橋上町
      電話番号 075-724-7924 ファックス 075-724-7920
入  館  料  一 般 200円、大学生 150円、高校生以下 無料
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
協  力  京都・大学ミュージアム連携
主  催  京都工芸繊維大学美術工芸資料館
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刀剣を装飾する刀装具は、鐔 -つば-と三所物と呼ばれる目貫 -めぬき・笄 -こうがい・小柄 -こづか- が代表的です。柄と鞘のあいだに位置する鐔は、接近戦の際に相手の刀を受け止めるために必要であり、中央の穴には刀身を、左右の穴には笄と小柄(小刀)を通します。これら刀装具には早くからさまざまな意匠がほどこされ、強さや吉祥をあらわすものもあれば、文学的な主題を扱ったものもあります。また、髷を整えるなど身だしなみのために用いられたとされる笄は、しだいに結髪後に挿し込んで髪を飾るものへと変化しました。笄に加えて櫛や簪は多様な髪型が生まれるのに伴って髪飾りとして発達し、多彩な意匠がほどこされました。
京都工芸繊維大学美術工芸資料館で刀装具や髪飾りの所蔵がされてきたのは、意匠性と機能性を兼ね備えるものとして、恰好なデザイン教材と考えられたからでしょう。このたび新たに鐔をはじめとする刀装具約670点と髪飾り約180点を収蔵し、大きくその幅を拡げることとなりました。
本展は、新たにコレクションに加わった刀装具や髪飾りの一部を公開するとともに、鐔を中心にそのデザイン教材としての可能性を探ります。鐔は円や角、木瓜などさまざまなかたちを持ち、戦いのための適切な大きさ・重さといった条件を満たしながらデザインされています。そんな鐔そして髪飾りのかたちとデザインを通して、日本において育まれてきた身に着けるものへ美を追い求める心に学んでいただければと思います。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 京都工芸繊維大学美術工芸資料館

{ 新宿餘談:かねて 円形乃至は楕円形の 刀剣の「つば・鞘・鐔」にある、複数の穴の存在が気になっていた。東京国立博物館本館で刀剣展があったおりに、チョット調べたことがある。本展では真っ向からそのテーマに切り込んでいる。説明するとどうしてもくどくなるし、展覧会開催者には失礼になるが、それを怖れず本稿読者に「メモ」として紹介したい。
編輯 ▷ 刀剣において……柄と鞘-鞘・鐔 ともに漢音:タン 意読:しおで、さや-のあいだに位置する 訓読:つば-、刀の柄ー漢音:ヘイ 意読:え・がら・つか-は、接近戦の際に相手の刀を受け止めるために必要であり、中央の穴には刀身を、左右の穴には笄ー漢音:ケイ、和訓:こうがい、たばねた髪をとめるかんざしーと、小柄ー意読:こづか・こがたな-(ちいさな刀、小刀-ショウトウはより大きい)を通します。これら刀装具には早くからさまざまな意匠がほどこされ、強さや吉祥をあらわすものもあれば、文学的な主題を扱ったものもあります。また、髷を整えるなど身だしなみのために用いられたとされる笄は、しだいに結髪後に挿し込んで髪を飾るものへと変化しました。笄に加えて櫛や簪は多様な髪型が生まれるのに伴って髪飾りとして発達し、多彩な意匠がほどこされました}

【展覧会】茅ヶ崎市美術館|美術館建築 ― アートと建築が包み合うとき|’25年4月1日-6月8日|会期末/ 保存推奨資料

茅ヶ崎市美術館
美術館建築 ― アートと建築が包み合うとき
Art Museum Architecture: Where Art and Architecture Harmonize
会  期  2025年4月1日[火]- 6月8日[日]
休  館  日  月曜日(ただし、5月5日は開館)、5月7日[水]
開館時間  10:00 - 17:00(入館は 16:30 まで)
料  金  一 般 800円、 大学生 600円 茅ヶ崎市内在住65歳以上 400円
      * 高校生以下、障がい者およびその介護者は無料
      * チケット各種・割引・優待情報、関連イベント情報などは下掲詳細参照。
会場案内  茅ヶ崎市美術館
      〠 253-0053 神奈川県茅ヶ崎市東海岸北1-4-45
      TEL 0467-88-1177 FAX 0467-88-1201 ▷ アクセス
協  賛  鹿島建設株式会社、丸井産業株式会社、大成建設株式会社
協  力  WHAT MUSEUM 建築倉庫、株式会社シラヤマ
共  催  茅ヶ崎市、文化庁国立近現代建築資料館
主  催  公益財団法人茅ヶ崎市文化・スポーツ振興財団
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地域に根ざした建築設計で知られる山口 洋一郎の「茅ヶ崎市美術館」は、鳥が翼を広げたような屋根が特徴的です。この湘南の軽やかな空気をまとう当館を舞台に、場の特性を活かす “サイト・スペシフィックな芸術” として、5つの珠玉の「美術館建築」を取り上げます。
石見地方特産の石州瓦で建物全体を覆い、釉薬の違いにより玉虫色の建築を創り上げた内藤 廣「島根県芸術文化センター」。
広島の造船技術を活用した可動展示室を中心に、所蔵作品から着想を得たエミール・ガレの庭、10棟のヴィラ、レストランからなる海辺にたたずむ坂 茂「下瀬美術館」。
瀬戸内の島につくられた銅製錬所の遺構を活用し、周囲の丹念なリサーチのもと、風・水・太陽を “動く素材” として扱い、自然エネルギーによる循環型建築を創り出した三分一 博志「犬島精錬所美術館」。
環境・アート・建築が一体となり、上部に大きく開けた穴からうつろう自然を採り込む、唯一無二の空間で知られる西沢 立衛「豊島美術館」。
加えて、国内の建築資料のアーカイブを行う文化庁国立近現代建築資料館が所蔵する3つの美術館、坂倉 準三「神奈川県立近代美術館」、ル・コルビュジエ「国立西洋美術館」、高橋 靗一 *+第一工房「群馬県立館林美術館」のオリジナル図面も公開します。

本展では、模型や設計図面に加え、初期アイデアスケッチ、建築素材、実験過程がわかる資料を通じ、建築家の思考を辿るとともに、その場所にその美術館がある意味を探っていきます。

* 高橋 靗一 / 読み方:ていいち 靗一の「靗」は青偏に光。以下全て同様。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 茅ヶ崎市美術館 ] 

【展覧会】書の美術館 春日井市道風記念館|館蔵品展 - 一回性の美学 -|’25年4月23日-7月13日

書の美術館 春日井市道風記念館
館蔵品展 - 一回性の美学 -
会  期  令和7年(2025年)4月23日[水]- 7月13日[日]

開館時間  午前9時 - 午後4時30分
休  館  日  毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
観  覧  料  一 般 100円、高校・大学生 50円、中学生以下 無 料 
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
展示解説  学芸員が初心者向けに展示品の解説をします。事前予約は不要です。
      令和7年(2025年)5月10日[土]6月1日[日]
      各 日 午前10時30分-11時、午後2時-2時30分 道風記念館1階展示室
会場案内  書の美術館 春日井市道風記念館
      〠 486-0932 愛知県春日井市松河戸町5丁目9番地3 電話 0568-82-6110
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  一点一画すべてが一回きり。その潔さが書の魅力。

筆で書いた一本の線の軌跡が “書” です。いちど書いた線の上から線を重ねて修正することは基本的にありません。二度と同じ作品が生まれないのはもちろん、一点一画すべてが一回きりのものなのです。
そして書は、その筆脈を多くの人が共有できるところに大きな特徴があります。書には筆順があり書き直しをしないため、鑑賞者が筆の動きを読み取り、時間の経過をたどって作品が仕上がる様を追体験することができます。たとえ古い時代に書かれたものからでも、書いた人の息づかいを感じることができるのです。
今回の館蔵品展では、筆の動きを読み取りやすい行書・草書の作品や、淡墨で書かれた作品を中心に展示します。書においての「一回性」という特徴をこころに留めながら作品を鑑賞してみてください。書のおもしろさ、奥深さを感じるきっかけとなれば幸いです。

※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 書の美術館 春日井市道風記念館

[ 動画紹介:春日井市公式動画チャンネル  YouTube

             春日井市 道風記念館館蔵品展「一回性の美学」紹介 2:56 ]

【展覧会予告】書の美術館 春日井市道風記念館|企画展 「おののとうふう」 ~ 小野一族のひみつ ~|’25年7月18日-8月31日

書の美術館 春日井市道風記念館
企画展
「おののとうふう」 ~ 小野一族のひみつ ~
会  期  令和7年(2025年)7月18日[金]- 8月31日[日]
開館時間  午前9時 - 午後4時30分
休  館  日  毎週月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
観  覧  料  一 般 100円、高校・大学生 50円、中学生以下 無 料 
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
会場案内  書の美術館 春日井市道風記念館
      〠 486-0932 愛知県春日井市松河戸町5丁目9番地3
      電話 0568-82-6110 ▷ 交通アクセス
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小野道風(おののとうふう 894-966)は、平安時代中期を代表する能書(書の上手な人)です。道風の日本書道史上における功績を一口でいえば、従来の中国の書の模倣から脱して、日本風の書を創造したことです。その優美な書は和様の書と呼ばれ、後世に大きな影響を与えました。和様の書は、藤原佐理に継承され、藤原行成によって完成されたといわれ、この三人を三跡とよびます。
春日井市は道風の偉業を讃え、後世に伝えるため、昭和56年、道風生誕の地と伝えられる松河戸町に春日井市道風記念館を開館しました。全国的にも数少ない書専門の美術館です。

今回の企画展では、遣隋使として中国へ渡った小野妹子や、漢詩文に長けた小野篁〔編集:おのの たかむら 802-853 小野小町・小野道風はその孫とされる〕、和歌にすぐれた小野小町など、道風の一族にもスポットをあてつつ、子どもにもわかりやすいよう、小野道風とその書を丁寧にご紹介します。柳と蛙の逸話にもみられる努力の尊さ、古きを学び、それを活かして新しい書を生み出した道風の革新的な精神に触れていただきたいと思います。

※ 夏休み企画として、盛りたくさんなイベントが設定されています。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご参加・ご観覧を。
[ 詳 細 : 書の美術館 春日井市道風記念館

{ 新宿餘談 }今回の企画展のテーマ<~ 小野一族のひみつ ~>では、遣隋使として中国へ渡った小野妹子や、漢詩文に長けた小野篁〔編集:おのの たかむら 802-853 小野小町・小野道風はその孫とされる〕、和歌にすぐれた小野小町など、道風の一族にもスポットをあてつつ、子どもにもわかりやすいよう、小野道風とその書を丁寧にご紹介します──とある。
これはおよそお子様向け企画とはいえない。つまり慌ててググったら これに触れた記録が散見 され、資料を繰ったら記録があった。小野道風の一族は長大なつながりと拡がりをもっており、小野小町と小野道風はいとこという関係になる。これは迂闊にも知らなかった。稿者はかつて春日井市でイベントを開催したこともあり、この「春日井市道風記念館」にも数回足をはこんでいる。いまはただ己の無知を羞じるばかりである。

【展覧会】台東区立書道博物館|みんなが見たい優品展パート20 中村不折コレクションから|龍門二十品 -北朝の書を中心に-|’25年4月1日-7月13日|前後期二期制開催

台東区立書道博物館
みんなが見たい優品展パート20 中村不折コレクションから
龍門二十品 -りゅうもんにじっぴん-  -北朝の書を中心に-
期  間  2025年4月1日[火]- 7月13日[日]
          前期展示:4月  1日[火]-5月25日[日]
          後期展示:5月27日[火]-7月13日[日]
開館時間  午前9時30分 - 午後4時30分(入館は午後4時まで)
休  館  日  月曜日(祝休日と重なる場合は翌平日)、特別整理期間等
入館料金  一 般 500円、 小、中、高校生 250円
      * 各種割引、優待情報などは 下掲詳細 参照。
会場案内  台東区立書道博物館
      〠 110-0003 東京都台東区根岸2丁目10番4号
      TEL:03-3872-2645  FAX:03-3871-5467
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龍門二十品 -りゅうもんにじっぴん-」とは、中国三大石窟の一つである龍門石窟に刻された造像記の中から、優れた二十種を選んだものです。「龍門二十品」は、北魏時代の楷書の力強さと豊かさが存分に発揮されています。また、書道博物館創設者である中村不折が、書道研究を志す契機となった清国滞在中に入手した拓本でもあり、その後の不折の書道研究における方向性や不折白身の書風にも大きく寄与しました。
本展では、「龍門二十品」をはじめとする北魏時代の石刻拓本や敦煌写本など、北朝の書を中心に紹介し、中村不折が北朝の書の影響を受けた作品もあわせて展示いたします。
展示目録TES

※ 今後の諸事情により、会期や展示期間、展示作品などが変更になることがあります。あらかじめご了承ください。
※ 下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 台東区立書道博物館 

【平野富二の会】長崎直近情報|「平野富二生誕の地」碑前、三の堀跡の櫻が満開に!|日本二十六聖人記念館:宮田和夫会員情報ゟ|’25年3月31日

「平野富二生誕の地」碑  建立有志の会 「現:平野の会」 ── 皆さま
[2025年3月31日 日本二十六聖人記念館 宮田和夫]

ご無沙汰しております。
毎年恒例の「平野富二生誕の地」碑と桜の写真を数枚添付いたします。
記念碑の周辺の変容はさらに次のステップに入りまして、長崎市役所別館(江戸時代の長崎奉行所桜町牢屋)は現在解体作業の真っただ中です。工事は2年がかりで、駐車場&公園機能を兼ねる場所として整備されていくそうです。
石碑の文字ですが、脇の小さな文字は大丈夫ですが、表面の深く彫られた文字に塗られた黒墨は、部分的に少し色を失いつつあります。全体としてみるとまだ気になるほどではありませんが。
寒暖差が激しい気候が続いております。みなさまご自愛くださいませ。[宮田和夫]
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「平野富二生誕の地」碑は2018年11月24日、長崎県勤労福祉会館(長崎県長崎市桜町9- 6)脇、長崎市の歩道に設置されました。碑は江戸時代の三の堀跡の方向(段差の下部)をむいていますが、ここは現在桜並木になっています。
宮田会員の写真で、前方突き当たり、満開の櫻並木を左手に曲がると、そこから信号ひとつ、三分ほどで長崎奉行所立山役所(現:長崎歴史文化博物館)裏門です。すなわち、安政4年-1857-数えて12歳の矢次富次郎少年 ── のちの平野富二が、幼少にして次男ながら「特例をもって」、また当時のならいで大刀・小刀を帯刀し、家僕(中間)ひとりをともなって長崎奉行社へ勤務した「通勤路」にあたります。
奉行所表門にまわっても七-八分ほどでしょうか、どうやら富次郎少年の運動不足はいなめなかったようです。

本稿読者の皆さまも、長崎訪問の折はぜひともここにお立ち寄りいただき、平野富二の「通勤路」を追体験していただき、またできましたら碑周辺の清拭にあたっていただけたらと勝手なお願いを。
そして宮田さん、いつもながらご負担をおかけしまして恐縮です。

【 参 考 : 長崎歴史文化博物館 日本二十六聖人記念館 】
 関 連 : 平野富二-明治産業近代化のパイオニア

【展覧会予告】大阪大学総合学術博物館|特別展 生誕100周年記念 松本奉山 ー 水墨画で世界を描くー|’ 25年4月26日-6月28日

大阪大学総合学術博物館
特別展  生誕100周年記念
松本奉山 ー 水墨画で世界を描くー
期  間  2025年4月26日[土]- 6月28日[土] * 会期内に展示替を予定。
会場案内  大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館 3階 多目的室
      〠 560-0043 大阪府豊中市待兼山町1-20
      Tel 06-6850-6284(10時30分-17時00分/日・祝休館) ▷ アクセス
時  間  10時30分 - 17時00分(最終入場16時30分)
休  館  日  日曜・祝日休館。ただし、5月3日[土・祝]は「いちょう祭」のため開館
協  力  今治城、大本山摩耶山天上寺、松本奉山水墨画会、
      大阪大学大学院人文学研究科、大阪大学文学部
主  催  大阪大学総合学術博物館
入場無料
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松本奉山(1925-2010、本名:松本由美子)は、水墨画で世界を描いた女性の画家です。大正14年(1925)愛媛県今治市に生まれ、昭和13年(1938)神戸市灘区に移り住み、17歳で松本尚山(1886-1970)の内弟子となり、厳しい指導のもと鍛錬を積みました。
最初、油絵志望であった奉山は「水墨画で自分の描きたいものが描けるのか」という葛藤を抱えていましたが、昭和38年(1963)の初渡米をきっかけに新たな画境を切り開き、前例のない水墨画を作り上げました。その後も、オーストラリア、ニュージーランド、ヨーロッパ各国、ブラジル、トルコなどで個展や席上揮毫を行い、世界をまたにかけて活躍しました。一方で、兵庫や琵琶湖、故郷の瀬戸内海など、日本の静かな風景に心を惹かれ連作を発表しました。
本展覧会では、奉山の初期から晩年にいたるまでの作品、スケッチブックなど、およそ100点を展示いたします。そのなかには、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で全壊した奉山の画室から救い出された資料も含まれています。今年は奉山の生誕100年であると同時に、阪神・淡路大震災から30年になります。この節目の年に、これまで未紹介であった作品を展示公開することで、奉山の功績を後世へ引き継ぐことができれば幸いです。

<展示構成(予定)>
◇ 序章 美山から奉山へ ―厳しい修行時代―
◇ 1 章  HOZAN開眼 ―世界へ羽ばたく水墨画―
◇ 2 章  静かな風景に心惹かれて ―日本美の再発見―
◇ 3 章  奉山芸術の到達点 ―墨色が奏でる最弱音(ピアニッシモ)―
◇ 終章 受け継がれる奉山の教え

下掲詳細公式サイトで最新情報を確認の上ご観覧を。
[ 詳 細 : 大阪大学総合学術博物館 ] 

【ことのは】ローマ字表記の周辺を巡ってⅠ|和文表記・欧文表記(ローマ字表記)いずれも邪険に除けもの扱いの「づ」をきっかけに

◉『広辞苑』(第六版、2012、岩波書店)
【 づ 】

「つ」の濁音。鎌倉時代までは舌尖有声破裂音〔du〕であったが、のちに舌尖有声破裂摩擦音〔dzu〕となり、室町末期には「ず」〔zu〕と混同しはじめ、現在一般には「づ」「ず」の区別はない。
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◉ 平野富二の会:平野正一さんからのメール紹介  ’20年02月27日

冬らしい寒さもほとんど無く、春の足音が近づいてきました。
おかわりありませんか。
ところできょうは、つまらない質問をさせていただきたく Mail しました。
テレビのニュースで手塚治虫が紹介されていたのですが、そこでは手塚治虫のローマ字表記は TEZUKA とZU になっていました。念のため調べたネットのオフィシャルサイトでも「 TEZUKA OSAMU OFFICIAL 」になっていました。

ローマ字では、TEDUKA、つまり「づ」はDUと標記すべきなのではないかと思いました。発音では「ず」「づ」はほぼ同じ(厳密にいえば違うのかもしれませんが)なのですが、手塚治虫の塚は〔ひら仮名表記では〕「づか」であって「ずか」ではありません。
ローマ字標記はこだわらなくていいものなのか …… 。ルールがあるのか、無いのか、アバウトなものなのか、この周辺状況をご教授くださいませ。
お忙しいところ、申し訳ありません。
ポストカード」の一件もあったので妙にこだわっています。

{新宿餘談}
きさらぎ二月の末、会員の平野正一さんから@メールが到着した。
このローマ字表記法に関しては随分以前に印刷業界誌にまとまりが無いまましるしたことがあった。その再調査は興味ふかい命題であった。
そこですこしじっくりとり組もうとおもって、まず@メールの一部引用の許諾をもとめて架電した。折しも年度末、また新型感染症が世界規模で猖獗をきわめ 平野さんは団体幹部職員としてはご多忙のはずなのに……とおもっていたが、案の定二度とも「会議中です」ということであった。夜ふけに返電をいただいたが疲労感は隠せなかった。おそらく重圧のなかで、ちょっと気分転換を計られたと想像されたが、それでも実名表記で、全文紹介の承諾をいただいた。

稿者は音韻学・言語学は門外漢であるし、国語学・英語学とも無学であるが、わずかに字学研究者の末席を汚しているばかりと自覚している。つまり「ローマ字表記法」の調査とは、広大な氾濫原を踏査するような危うさがあり、いまや「専門家」と称する関係者はこれに触れることを巧妙に避ける風潮がみられる。
したがって平野正一さんへの返信は長くなりそうである。その交流の次第は、本{NOTES ON TYPOGRAPHY}に掲出して、読者諸賢と共に考えてみたい。

【この一葉】「明朝体は横線が無くても読める」|水井 正さん 1971年2月製作|シルクスクリーン印刷 B全判2色刷り ポスター|

「明朝体は横線が無くても読める」
水井 正さん1971年2月製作|シルクスクリーン印刷 B全判2色刷り ポスター|
水 井   正(1932- )
『 TheTYPEBANK 』(1995年、タイプバンク編、朗文堂)ゟ

マップケースの底から、半世紀ほど前のポスターが出てきた。製作者は水井 正さん。
このころの水井さんは、麹町にあった「原デザイン研究所」に所属しながら、ほとんど千代田区紀尾井町の文藝春秋社に昼夜とも詰めきりで、『文藝春秋』『オール讀物』『文學界』などの月刊誌と、創刊間もない『週刊文春』のタイトルの「書き文字」を担当されていた。

筆者が水井さんと交誼を得たのは「TYPO – EYE」が結成された1975年からのことである。したがって45年ほどのお付き合いということになる。
このポスターはそれ以前の製作であるが、実験作品ともいえたこのポスターを、おそらく1975年にお譲りいただいた。また独立前の「原デザイン研究所」にも一度だけお邪魔したことがある。
「書き文字」が繁忙を極めるようになったのは『週刊文春』が創刊されてからのことだとされたが、デザイン事務所というより、むしろ寝室部分のほうがひろく、埼玉県入間市の自宅に帰るのは「月に二-三度かな」と苦笑されていた。
また、「これまで若さに任せて無理を重ねてきたが、40歳にもなると徹夜はきつくてね …… 」
とこぼされていたことも覚えている。

こののち写真植字法の興隆・進展があり、書き文字の仕事は次第に減少気味であったが、水井さんは、株式会社タイプバンクを設立直後の タイプディレクター:林 隆男(1937-94) の委嘱を受けて、写植活字「ナウ」シリーズの書体設計に専念するようになった。

実験作品:ポスター「明朝体は横線が無くても読める」は、水井さんがタイトルをレタリングされた、海音寺潮五郎『武将列伝』(全三巻、文藝春秋社刊)の作業のなかでの実感をこめて製作されたものである。
ところが一箇所「字画を間違えた」ままで印刷してしまい、刷り直しの時間と予算もないままに、赤版「蒲生氏郷」の「蒲」の字画をレタリングによって修正して、それを象嵌 して展覧会に間に合わせたとされた。
お譲りいただいととき、一緒に立ちあわれた「TYPO – EYE」の同志:吉田佳広氏は、
「このポスターが、写植活字や金属活字の清刷りじゃなくて、レタリングだって解るなによりの証拠だよ」

と笑われていた。
水井さんは鋭利な両刃のカミソリで修正・象嵌したとされたが、確かに象嵌の跡はほとんど痕跡を残していなかった。しかしながらほぼ半世紀余ののちのこんにち、象嵌部分は脱落し、所在不明となり、裏面からみると、補強のために貼付したセロファンテープの劣化の痕跡が痛〻しい。

* ぞうがん【象眼・象嵌】
工芸用語では様様な用例があるが、[印刷用語]では、鉛版・銅版・版下製作などで「象嵌-ぞうがん」とあらわし、修整箇所を切り抜いたり、剝ぎ取り、そのあとに同寸法の修正した活字などを挿入すること。

◉ 水井 正  Mizui  Tadashi プロフィール

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【展覧会】東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画|生誕550年記念 特別展|文徴明とその時代 ─ 天下の書法、蘇州に帰す!|東京国立博物館 東洋館 8 室|書道博物館

東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画
生誕550年記念 特別展
文徴明とその時代 ── 天下の書法、蘇州に帰す!
◉ 東京国立博物館 東洋館 8 室
会  期  2020年1月2日[木]-3月1日[日]
休  館  日  月曜日、1月14日[火]、2月25日[火]
      * 1月13日[月・祝]、2月24日[月・祝]は開館
観  覧  料  一般 620円、大学生 410円
◉ 台東区立書道博物館
会  期  2020年1月4日[土]-3月1日[日]
休  館  日  月曜日、1月14日[火]、2月25日[火]
      * 1月13日[月・祝]、2月24日[月・祝]は開館
観  覧  料  一般・大学生 500円、高・中・小学生 250円
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明時代の中期に活躍した文徴明(1470-1559)は、蘇州における芸苑の領袖として君臨し、90歳の長寿を全うしました。 文徴明の子や甥も書画を善くしたことから、文一族は後世にも多大な影響を与えました。海を隔てた日本も例外ではなく、江戸時代においても一世を風靡しました。
2020年は、文徴明の生誕550年にあたります。17回目を迎える 東京国立博物館・台東区立書道博物館 連携企画では、国内に現存する文徴明や同時代に活躍した書画に焦点をあて、文徴明の魅力に迫るとともに、後世に与えた影響を紹介します。

[ 詳細: 東京国立博物館   東京国立博物館 東洋館 台東区立書道博物館 ]
◉【台東区立書道博物館 臨時休館延長のお知らせ】
新型コロナウイルス感染防止のため、3月31日[火]まで臨時休館を延長いたします。
その後の予定につきましては、あらためてお知らせいたします。

【もんじ】京都新聞|今年の漢字は「令」|令和初、京都・清水寺で発表|’19 令和元年12月12日

京都新聞 ゟ 「今年の漢字」を揮ごうする森貫主(12日午後2時5分ごろ、京都市東山区・清水寺)

京都新聞
今年の漢字は「令」 令和初、京都・清水寺で発表

一年の世相を表す「今年の漢字」に「令」が選ばれ、京都市東山区の清水寺で12日、日本漢字能力検定協会(同区)が発表した。
新元号の「令」和や、法「令」改正による消費増税、災害による警報発「令」などの象徴する一字として最多の3万427票を集めた。 

「今年の漢字」は1995年に始まり、令和になって初めてとなる今年で25回目。森清範貫主が奥の院の舞台で大型和紙に揮毫(きごう)した。昨年は西日本豪雨といった自然災害の多発などを受け、2004年に続き2回目の「災」が選ばれた。公益財団法人 日本漢字能力検定協会

公益財団法人 日本漢字能力検定協会について
法人概要
名  称
公益財団法人 日本漢字能力検定協会

所在地
本部 〒605-0074 京都市東山区祇園町南側551番地

  TEL : (075)757-8600 FAX : (075)532-1110
  東京事務局 〒100-0004 東京都千代田区大手町2-1-1 大手町野村ビル
  TEL : (03)5205-0333 FAX : (03)5205-033
代表者
代表理事 会長兼理事長 髙坂 節三

設立年
1992年

理 念
社会生活に必要な日本語・漢字の能力を高め、広く日本語・漢字に対する尊重の念と認識を高めるための普及啓発・支援活動、調査・研究、日本語能力育成活動を本邦及び海外において行い、我が国における生涯学習の振興を通じて日本文化の発展に寄与する。

事業内容
  (1)日本語・漢字に関する普及啓発・支援
  (2)日本語・漢字に関する調査及び研究
  (3)日本語・漢字に関する能力育成
  (4)その他この法人の目的を達成するために必要な事業

{ 新 宿 餘 談 }
歳末風物詩となっている「今年の漢字」が発表された。予想どおり「令」で、最終画は曲げはねで書されていた。
このイベントが公益財団法人 日本漢字能力検定協会の主宰によることは薄〻知っていた。同財団の WebSite を訪問したら「今年の漢字」に「®  登録商標」が表示されていた。
[ 参考:特許庁 商標制度の概要 
感想は …… 格別には無い。

【展覧会】無印良品|ATELIER MUJI GINZA|「インドの手仕事、文字になる」展|’19年12月20日-’20年3月8日

無印良品 ATELIER MUJI GINZA
「インドの手仕事、文字になる」展
開催期間  2019年12月20日[金]-2020年3月8日[日]
時  間  10:00-21:00
開催場所  無印良品 銀座 6 F  ATELIER MUJI GINZA Gallery  2
      入場無料
主  催  無印良品
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世界は、文字であふれています。今日のデジタル社会において、書体 (文字の形とスタイル)の重要性はさらに高まりました。表現したい、伝えたい、残したい、わかり合いたい。書体は、私たち人類にとって豊かな表情や物語、美しさを備えた道具であり糧でもあります。
本展では、地域固有の文化とイノベーションが融合し、社会に新しい価値を生み出すデザインについて、インドにおける書体をめぐる挑戦を紹介します。

インドのデザイナーが2011 年に立ち上げたプロジェクト「The Typecraft Initiative -タイプクラフト構想」では、デザイナーとインド各地の工芸や民俗芸術の職人である女性たちが、ワークショップ形式でインド・ラテン語のデジタル書体を共同制作しています。地域の生活に根ざした入れ墨、刺繍、陶芸、絵画など幅広い分野の職人たちと、時間をかけてその特性や個性に合わせたワークショップを実施。
この過程を経て創られた書体をフォントとして製品化することで、デザインの可能性や職人である女性たちの新たな職域を広げる取り組みです。それは、近代化の波に消えゆくインドの手仕事を、未来につなげる活動にも通じています。
さまざまな魅力と背景を持つインド各地の文化が文字になる、この壮大なプロジェクト。女性たち職人の手仕事から生まれる文字は、今日もインドの暮らしの中で育まれています。

The Typecraft Initiative(タイプクラフト構想)
2011年にデザイナーのイシャン・コースラが、インドの無形遺産である伝統の手仕事を伝え、刷新し、その功績を讃えるために設立。多様で異なる手仕事によるプロダクトやプロセスを介した書体を作成していくことを目指している。伝統に新たな息吹を吹き込むコミュニケーションや学びのため、様々な分野の職人たちとのワークショップ形式で、これまで5つの書体を作成。それらをデジタル化して商品に発展させる活動は、職人たちの新しい職域を広げている。

[ 詳細: ATELIER MUJI GINZA ]

【もん】展覧会|住友コレクション 泉屋博古館|SEN-OKU HAKUKOKAN MUSEUM 東京分館|企画展 金文-中国古代の文字-|’19年11月9日-12月20日|

住友コレクション
泉屋博古館  SEN-OKU HAKUKOKAN MUSEUM
東京分館 企画展 金文-中国古代の文字-
主  催  公益財団法人 泉屋博古館
会  場  住友コレクション 泉屋博古館分館
      106-0032 東京都港区六本木1ー5-1
      03-5777-8600(ハロ-ダイヤル)
会  期  2019年11月9日[土]-12月20日[金]
開館時間  10:00-17:00(入館は16時30分まで)
休  館  日  月曜日
入  館  料  一般 800円、高大生 600円、中学生以下無料
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今から三千年前の商周時代、様々な造形をもつ青銅器が盛んに製作されましたが、その表面には古代の文字が鋳込まれていました。金文と呼ばれる、現在の漢字の祖先にあたる中国古代の文字は、平面上に「書かれた」ものではなく、鋳物の技術によって立体的に「造られた」ものでした。
本展では青銅器にあらわされた文字、金文の世界をご紹介するとともに、復元鋳造レプリカやその鋳型を併せて展示することで、鋳物の技術としての文字=金文をわかりやすくお伝えします。

泉屋博古館分館 改修工事による休館のお知らせ
泉屋博古館分館は2020年1月より約2年、改修工事のため休館します。
休館期間中、皆様にはご不便をおかけいたしますが、
ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
* 新宿餘談  さびしいですね。

[ 詳細: 住友コレクション 泉屋博古館分館 ]

【もんじ】福いっぱい|吉祥如意〝福 百景〟|好 ハオ!

縦11もんじ × 9 行= 99 もんじ、上部の楷書〝福〟とあわせて 都合 百 の〝福〟もんじ。
夜食でちかくの気軽な中国料理店でみかけた。紙にシルク印刷 + U V 加工の簡便なもの。
さりながら、料理の味とボリュームもすごくて 好 ハオ !
<字> 宀 イエ+子=字 家の中でおおくの子供(字)を誕生させる
「字」の造形原理を知悉している漢民族の得意とするところ。よくみると味わいふかい。
それにしても、篆書風〝九十九-つくも-福〟、楷書風大字〝福〟は迫力満点。

撮影:日吉洋人 [ 参考: 日吉洋人 Facebook ]
[ 関連:【もんともんじ】ちょっと不気味ながら 目出度い瑞兆|蛙と招財進寳|端午の節句と鍾馗様の五毒退治 

【展覧会】国立西洋美術館|内藤コレクション展|「ゴシック写本の小宇宙 ─ 文字に棲まう絵、言葉を超えてゆく絵」|’19年10月19日-’20年1月26日

国立西洋美術館
内藤コレクション展「ゴシック写本の小宇宙 ── 文字に棲まう絵、言葉を超えてゆく絵」
会  期  2019年10月19日[土]-2020年1月26日[日]
開館時間  9:30-17:30
      毎週金・土曜日は 9:30-20:00、12月27日[金]は9:30-21:00
      * 入館は閉館の30分前まで
休  館  日  月曜日 *’19年12月28日[土]-’20年1月1日[水・祝]、1月14日[火]は休館
会  場  国立西洋美術館 版画素描展示室
主  催  国立西洋美術館
観覧料金  一般 500円、大学生 250円
      * 本展は常設展の観覧券、「ハプスブルク展」の観覧券でもご覧いただけます。
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いまだ印刷技術がなかった西欧中世のキリスト教世界においては、修道院を中心に制作された手写本が、ひとびとの信仰と知を担う特権的なメディアでした。ただしそれは、もっぱら言葉だけを保存し、運搬する媒体ではありませんでした。
獣皮紙に書かれた中世の写本には、さまざまな挿絵が描かれ、テクストの頭文字やページの余白は、しばしば豊かな装飾なり紋様で彩られたからです。写本ページの小さな平面は、より大きな画面を備えた壁画や板絵に劣ることのない、中世の絵画芸術のまぎれもなく最重要な舞台でした。

そんな中世の彩飾写本に強く魅せられた日本人のひとりに、中毒学を専門とする学者/医師として知られる内藤裕史氏(筑波大学・茨城県立医療大学名誉教授)がいます。数十年にわたって一枚ものの写本零葉を蒐集してこられた氏は、ご自身のコレクション約150点を、2016年春に一括で当館にご寄贈くださいました。日本のミュージアムには、西欧中世のコレクションが欠けているとの思いからでした。
以降、当館では館外の研究者のかたがたに多大なご協力をいただきつつ、従来のコレクションの範囲を押し拡げるそれら寄贈作品の調査をしてきました。またその後も、内藤氏に賛同なさった長沼昭夫氏から寄付金を頂戴し、写本葉のさらなる蒐集をおこなってもきました。

このたびの小企画展は、その内藤コレクションをまとまったかたちでお披露目する最初の機会となります。内藤氏が蒐集した作品は、制作地域/制作年代ともに多岐におよびますが、中核となるのは13世紀以降のゴシック写本です。
この時代の彩飾写本では、絵が文字のなかに寄生するようにして物語や空間をつくりだしたり、欄外の余白へと居場所をもとめながらテクストを注釈したり逸脱したりしてゆきました。そうしたゴシック写本の小宇宙の一端を開示してくれる内藤コレクションの作品群を、東京藝術大学附属図書館からお借りするファクシミリ版の写本とともにご紹介します。

[ 詳細: 国立西洋美術館 ]

【展覧会】徳川美術館 蓬左文庫 特別展|没後190年記念 良寛さん-その人と書|’19年11月16日-’20年1月31日|後期展示開催中

徳川美術館 蓬左文庫
特別展 没後190年記念
良寛さん-その人と書
会  期  2019年11月16日[土]-2020年1月31日[金]
      【前期】2019年11月16日[土]-12月15日[日]
      【後期】2020年01月04日[土]-01月31日[金]
開館時間  午前10時-午後5時(入館は午後4時30分まで)
休  館  日  月曜日(ただし1/13は開館、12/16~1/3・1/14は休館)
観  覧  料  一般 1,400円・高大生 700円・小中生 500円
      * 蓬左文庫「奏でる ―楽器と調べ―」展と共通
主   催  徳川美術館・毎日新聞社
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「良寛さん」と呼ばれ、今も多くの人々に愛され続ける良寛(1758-1831)は、名利にとらわれぬ生活を送った托鉢僧でした。清貧の中で生きとし生けるものに慈愛の心を注ぎ、子どもらと手まりをついて戯れ、友と語り、和歌や漢詩など芸術にいそしみました。
また、仏教者としても菩薩行を実践した希有な人でした。その人間性を表出した書は、見る者の心にあたたかさと感動を与えてくれます。
本展では、日本有数の良寛コレクター秘蔵の遺墨を中心に、新たにそのコレクションに加えられた48件を含む約150件を公開します。その書と芸術に触れていただく絶好の機会となります。

[ 詳細: 徳川美術館 ]

【もんじ・ことのは】 დაიწყო რაგბის მე -9 მსოფლიო თასის ტოკიო ! ── ენთუზიაზმი მხარდაჭერა იაპონიასა და საქართველოსთვის 第9回 ラグビーW杯 東京 がはじまったよ~!─ 日本 と ジョージア を熱烈応援

დაიწყო რაგბის მე -9 მსოფლიო თასის ტოკიო ! ── ენთუზიაზმი მხარდაჭერა იაპონიასა და საქართველოსთვის
第9回 ラグビーW杯 東京 がはじまったよ~!── 日本ジョージア を熱烈応援


◉ 2019年 9月 20日[金] 東京スタジアム、調布 プールA 日本代表 30-ロシア代表 10
いやぁ~、吾が日本チームはすっかり浮き足だっていた。地元開催の巨大イベントでの重圧とは、相当のものがあるのかとおもわせた一戦だった。

いかつい大男、それも歴戦の勇士でも、地元開催、4万5千余のギッシリ満員の熱狂的な観客をまえに、すっかり選手の表情が凍りついて、あきらかにあがっているとおもわせた一戦。
それでもフォワードはがっしりスクラムを組んでいたが、バックスはコミュニケーションがとれないまま、孤立してバッタバタ。前半は格下のロシアに互角の戦いを強いられた。

前半40分はハラハラさせられたが、後半になるとロシアチームのタックルは強烈でも、ラックへの集散が遅れ、またラックからの起き上がりが遅く、あきらかに疲労がみられ、膝に手を置く選手が目立った。
フォワードのNo 2 フッカー:堀江翔太は前半から右足を引きずっていたが、それでもフォワード第一列のNo. 1プロップ:稲垣啓太とともに鬼の形相になって、ここぞとばかりスクラムを押し込み、 No 8 の姫野和樹が予想外に踏んばっていた。

バックスではウイングの No 14 松島幸太朗の獅子奮迅の活躍が目立って、ピッチの右端で難しいパスをキャッチして、センターポール付近まで回りこんでのトライ3連発。まさに殊勲金なり。
吾輩はこれを「上越新幹線 → 長野廻り金澤ゆき」と名づけて嬉しくみた。ただし映像時代の現代では、右からだけの(松島)の攻撃は、すぐさま相手チームの映像解析チームによって対策がとられる厄介な時代でもある。三つのトライはほぼ同じコースに軌跡を刻んだが、次戦の強敵:アイルランド戦以降は対策がとられることは必至である。
故障あがりながら、おもに左から攻めるNo 11 ウイング:福岡堅樹は次戦は温存?

No 13 センターのピーター・ラズスカフが、混戦状態(アンストラクチャー)のなかで、ロシアチーム選手の手からボールをむしりとり、そのままゴールまで激走、これで日本は都合 4 トライを奪って、予想外のボーナス・ポイントまで獲得できた。
後半に投入されたスクラムハーフ のオッサン田中史朗、センターのスコット・ルークの両ベテランも踏んばり、少少苦い初戦ロシア戦での勝利となった。

それでもおなじプール A で、ティア1(伝統的強豪国)同士の闘いとなった強豪のスコットランドが、アイルランドに27対03とノートライのままに粉砕され、中核選手が二名故障してすでに帰国をやむなくされた。
いっぽう西の横綱ともいうべきアイルランドは、早〻と4トライをあげてボーナスポイントを獲得。勝利を確信すると、中五日とスケジュールがタイトな次の対日本戦に向けて、主力選手を前半から次〻と交代させていた。長丁場のプール戦ではベンチワークも需要で、ピッチ外でも熾烈な駆け引きが繰りひろげられていた。

前大会の開催国であり、やはりティア1のイングランドが、重圧と故障者の連続でプール戦で敗退したことをおもうと、目立った故障者もなく第一節を勝利できたわが国は大健闘というべきであろう。そのスコットランドとの対戦は、対アイルランド戦、対サモア戦ののち、プール戦最終節で、10月23日[日]19:45 横浜国際総合競技場での大一番を迎える。

[ 参考: 公式 WebSite|Extended Highlights: Japan v Russia 24:09
【 YouTube|ラグビーW杯2019|ロングハイライト / 日本代表 v ロシア代表|プール A 第1節 24:08

◉ 2019年 9月 23日[月] 豊田スタジアム、豊田 ウェールズ代表 43-ジョージア代表 14
ジョージアはかつて旧ソ連邦の一部だったため ラグビー W杯 代表としての歴史は浅く、2003年・2007年・2011年・2015年と連続五大会出場も、いずれも予選プールで敗退している。

世界と渡り合えるようになったのもここ20年ほどのこと。だが近年は目覚ましい進化を遂げて、前回の2015年イングランド W 杯では 2 勝をあげた。
レスリング(特にグレコローマンスタイル)・柔道・相撲(栃ノ心・臥牙丸)といった格闘技の大国だけに、スクラムの強さでは世界屈指。チームの愛称の「レロス」は、古くからあるラグビーに似た民族スポーツの「レロ」に由来する。

「プールD」は強豪がひしめき「死の組」とも評される。グループ五ヵ国のうちジョージアは世界ランクでは最下位をあらそう。フィージーとウルグアイには勝利の可能性はあるとはいえ、そこは魔物が棲むとされるラグビー、全敗の危機も抱えている。
今回の初戦の相手は「ティア 1」のウェールズだった。2007年から指揮を執り続ける名将ガットランド H C のもと、今年のヨーロッパ最強を決める「シックス・ネーションズ」で全勝優勝し、一躍 W 杯の優勝候補に名乗りをあげた。ボールを動かす巧みなランニングラグビーが持ち味で、熱狂的なファンが多く、本拠地の試合では観客が一体となって「アンセム」を歌い上げる。

ジョージアは前半はウェールズにやりたい放題やられていたが、あきらめることなく、終盤にモールを押し込んで 1トライ、最終盤に自慢のスクラムからの展開で 1トライをあげた。
ジョージアのひとは、髪は黒く、胴長短足で、瞳も黒いひとが多いようで親近感を持っている。
吾輩の勝手な想像では、ふるく中国北西部にいて「匈奴」とひとくくりにされていた遊牧民の一部族か、蒙古族の一部が西進して、この地に定住した可能性はないかとおもっている。だから新生児の臀部に「蒙古斑」があってもふしぎでは無さそうである。

ラグビー W杯2019 東京 では、プール A の日本と並んで、プール D のジョージアを応援している。

【 YouTube ジョージア国歌 「日本語訳」- Anthem of Georgia (Japanese) 01:30 】

ジョージアはコーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたり、西アジアとも東ヨーロッパともされ、北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。
国土は 69,700 ㎢ で、北海道 83,424 ㎢ よりいくぶん狭いが、富士山よりよほど高い 5,000 m 級の高山がふたつもある。人口は 3,720,000 余人で、静岡県の人口 3,675,000 余人より少し多い程度の、ちいさな国である。

地政学的に古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教(グルジア正教)信仰をはじめとして、独自の言語と文字(もんじ グルジア語・カルトリ語ともする)と、独自の通貨「ラリ」を持ち、伝統文化を守り通してきた。
また辛党には、温暖な気候を利用して、甕に入れて地中で熟成させる高級ワイン生産の盛んな国としても知られる。
[ 参考: ウィキペディア ジョージア(国)

[ 参考: 公式 WebSite|ハイライト:ウェールズ V ジョージア 01:57 ]
【 YouTube|ラグビーW杯2019|ウェールズ代表 v ジョージア代表|プール D 第1節 24:08

【ちいさな勉強会】本格公式書体、いぶし銀のタイプ製作者 ── タイプクリエーション:米 田 隆さん|10月04日 朗文堂 4 F-A

講 師:米 田   隆 1955年  東京うまれ

「朗文堂ちいさな勉強会」
本格公式書体、いぶし銀のタイプ製作者 ── タイプクリエーション:米 田  隆さん
2019年10月04日[金] 19:00-21:00 朗文堂 4 F-A

個性や独自性が表出した活字書体もときには悪くない。それでもそこに、当たり前のように、いつの間にか存在し、ひろく使われている活字書体もある。そんな書体を作りつづけている米田さんをお迎えします。
本講座は狭隘な会場で開催されています。もうしばらくは基本的に会員のみの参加で、一般公募はしておりませんのでよろしくお願いいたします。

 {米田 隆 略歴紹介}

1955年生まれ。東京都出身。
「欧文活字の晃文堂」の系譜を継承した、リョービ印刷機販売株式会社デザイン室/リョービイマジクス株式会社を経て、1988年有限会社タイプクリエーションを設立。
この間、終始「本明朝体シリーズ」製作者の故杉本幸治氏に師事した。
独立後は、リョービ、リコー、N E C、大日本印刷を中心に、写真植字書体・デジタルタイプの公的大型書体開発チームに携わる。
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{米田 隆/タイプクリエーション 主要関与書体}

◉ かな書体ぽぽる・クリアレター(NEC)
◉ 平成明朝体の製作第一次・第二次製作者チームに参加(日本規格協会/リョービ)
◉ MSゴシック体製作、Windows XP 表示用かなデザイン製作(リコー)
◉ 本明朝-Book 製作(リョービ・現モリサワ取扱)
◉ 「秀英体平成の大改刻」プロジェクトに参加、秀英角ゴシック体デザイン製作(大日本印刷)
◉ 歌手 A N 引退記念アルバム制定書体の製作
◉ 懇話会の話題:いわゆる G T 書体6万4千字の思いで。いわゆる電子政府書体の思いで。

【 有限会社タイプクリエーション  URL/Type Creation 】
[ 関連:花筏 タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 ─ 本明朝・杉明朝原字製作者/ベントン彫刻法の普及者 ─ 三回忌にあたって再掲載 ]
 { URL管理者・日吉洋人、図版画像協力/木村雅彦・白井敬尚・組版工学研究会 }

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上掲三冊の小冊子は「本明朝-Book」の製作に際して編集・執筆:組版工学研究会、組版・デザイン:白井敬尚形成事務所により製作され、リョービイマジクス株式会社から2004年に配布された。

重層的かつ複合的な 本明朝-Book の開発コンセプト [本明朝-Book Ⅰ pp 7-10]
本明朝-Book は、あくまでも本明朝シリーズのなかにある新書体として、その字体と形姿はすでに先行して販売されている 本明朝シリーズ と同一のものとして、使途に応じた多様な選択に応じられるようにした。
そのウェイトと黒みは 本明朝-L と 本明朝-M のほぼ中間においた。また横線を幾分太め、ふところを幾分しぼって、後述するダズリング・イフェクトの発生を防止した。

本明朝-Book のひら仮名かな・カタ仮名の字面は、本明飼-Mよりも小振りとして、ベタ組みでの安定感と紙面の解放感を獲得した。そのおもな理由はいわゆる新印刷方式の登場と普及にあった。つまりオンデマンド印刷や、製版フィルムを使わないで、データーから印刷版に直接転写する CTP印刷の普及によって、従来の明朝体のウェイトでは、図書や雑誌の文字組版印刷においては、細すぎたり太すぎるという傾向がみられたからである。

◉ 視覚補整対応方式(Optical Scaling)を意識した使途の設定
使用適性サイズは、ほぼ 11Q から 16Q の本文用サイズとして設定した。これには少しばかり説明が必要であろう。活字書体とは長らくのあいだ視覚補整対応方式(Optical Scaling)によって造られてきたという歴史がある。
すなわち金属活字の歴史のなかでは五五〇年余にわたって書体の基本デザインを変えずに、活字サイズの大小の変化に応じて、判別性と可読性の向上のために、大きなサイズではカウンターを狭めたり、鋭角な線質をやわらげたりしてきた。
また小さなサイズではカウンターを広げたり、線質を明瞭な構成に切りかえるなどして、それぞれの活字父型に複覚補整をほどこしながら彫刻・描画してきたという歴史があった。

それがパントグラフの原理を応用した、機械式活字活字父型・母型彫刻機(俗称ベントン)の登場をみてからは、急速に比例対応方式(Linear Scaling)の活字書体製造法に変化した。
この方式ではひとつ、あるいはほんの少数の文字原図だけで、すべての活字サイズに一律に比例的な縮小または拡大をさせて対応する方式となった。光学式写真植字機はほとんどすべてがこの方式であり、現在の電子活字のほとんども同様である。

活字原図の比例対応方式には経済面を中心として長所も多いが、やはり大きなサイズではカウンターがゆるくなって間延びした文字形象となったり、小さなサイズではカウンターが狹まり、細線部が不明瞭になって判別性に劣ることがあった。
すなわち、本明朝-Book においては、推奨組版適性サイズを、ほぼ「11Q から 16Q」に限定することによって、視覚比例対応方式 ── オプティカル・スケーリングを実現させたともいえた。

◉ ダズリンダ・イフェクト(Dazzling Effect)── 幻惑効果の防止に向けて
同時に 本明朝-Book の開発に際しては、ダズリンダ・イフェクト(Dazzling Effect)の解消を強く意識した。ダズリング・イフェクトとは「幻惑効果」のことであり、夕イポグラフィ用語では、「目がチカチカして読みづらい」ことをいう。
つまり、様式化された硬質な線が際立ち、水平・垂直線の線の太さの差が大きく異なって、機械彫刻の特徴が際立った硬質な画線がもたらす強いコントラスト、つまり明朝体漢字全般に避けがたく発生する幻惑効果への対応を、わが国では意識的にはじめて試みたものである。

組み方向は標準を縦組みとして、センター軸を中心に厳格な検証を加えた。すなわち快適な読書をもたらすために、なによりもセンター軸がすっきりと通り、揺らぎのない組版表情が安定感と信頼感をもたらすと判断された。図書・雑誌の組版印刷や、読み物としての大暈文書処理などの本文印刷用の市場にターゲットをしぼった、前例のない電子活字を意識して開発に着手した。

◉ 縦組み・横組み用とテクスト内容に配慮して12書体の仮名活字を同梱
横組みへの対応は、組み版ソフトウェアなどのアプリケーション・ソフトの充実と展開によって、漢字書体の形姿は変えずに、おもにかな書体の充実をもって臨むことにした。
すなわち 本明朝-Book のかな書体は、標準仮名、小仮名、新仮名、新小仮名の四種類をあらたに設計した。
またそれぞれに中心軸を重視し、ひら仮名・カタ仮名の大小関係を厳格に設定した縦組み用仮名と、ベースライン揃えを重視した横組み用を用意し、さらに「振り仮名・ルビ」のためのデーターも用意したので、本明朝-Book   OpenType フォントには、都合12種類の仮名書体が存在することとなった。
当然プロポーショナル・ピッチ(いわゆるツメ組み)もアプリケーションに依拠しながら実施できるという、プロフェッショナルの要望を最大限に取り込んだ、意欲的な開発となった。
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『本明朝-Book  創世記』の三冊の小冊子は、【 タイプクリエーション URL/Type Creation 】に収録されており、以下の PDF データーゟ閲覧が可能です。
『 本明朝-Book  創世記Ⅰ 』『 本明朝-Book  創世記 Ⅱ 』 『 本明朝-Book  創世記 Ⅲ 』

【もんじ・ことのは】 რაგბის მსოფლიო თასი დაიწყება ! ── ენთუზიაზმი მხარდაჭერა იაპონიასა და საქართველოსთვის 第9回 ラグビーW杯 東京 がはじまるよ~!─ 日本 と ジョージア を熱烈応援

იწყება რაგბის მე – 9 მსოფლიო თასი ! ── ენთუზიაზმი მხარდაჭერა იაპონიასა და საქართველოსთვის

第9回 ラグビーW杯 東京 がはじまるよ~!── 日本 ジョージア を熱烈応援

《ラグビー W杯2019 東京  20ヵ国参加、12都市で開催、全48試合の熱戦》
ラグビー W杯2019 東京は、日本の12都市で2019年9月20日から11月2日にわたり、アジアではじめての、第9回ラグビーW杯東京2019が開催される。
世界各国から観戦に訪れ、各地を巡回して観戦するラグビーファンはおよそ10万人余と予想されている。
参加20ヵ国は「プールA-D」の四つのグループにわかれてリーグ戦を戦い、その成績上位8チームはトーナメント方式によって、準々決勝、準決勝、決勝と、およそ1ヶ月半ほどにわたり、全48試合の熱戦を展開する。

[ 詳細:【公式】ラグビーワールドカップ2019日本大会

前回のラグビーW杯2015イングランド大会では、日本は初戦で強豪南アフリカに終盤の猛攻で勝利し、また五郎丸選手のプレース・キックのルーティン「アーメンポーズ」などで話題は沸騰した。
ところがリーグ戦で三勝はしたものの、試合スケジュールが厳しく、僅差の勝利が続き、またトライ数が少なかったこと、スコットランドに大敗したことなどがたたって、わずかの差で決勝トーナメント、ベスト8(準々決勝)への進出はならなかった。

またラグビー発祥の地で、開催国でもあったイングランドも、グループリーグ(プール戦)で敗退の屈辱を舐めるという波瀾もあった。
ラグビーはかつて「闘球」とされ、偉丈夫が肉躰(肉弾)だけで撃突する。その試合には魔物が棲むともされる。ラグビーはまさに波瀾万丈の肉弾戦であり、なにがおこるか解らないのが面白いところである。
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今回、日本が入った「プールA」は、アイルランド(世界ランキング3位)、スコットランド(世界ランキング7位)、日本(世界ランキング10位)、ロシア(世界ランキング20位)、サモア(世界ランキング16位)の四ヵ国で総当たりのリーグ戦を戦う。

9月20日[金]東京都調布市東京スタジアム(収容人数:49,970人)で、18:30からの開会式に続き、19:45から日本対ロシア戦が開始される。

どの対戦も楽観はできないが、わが国にとっての最大の山場は、やはり10月13日[日]19:45から横浜国際総合競技場(収容人員:72,327人)で開催されるスコットランド戦であろう。
ここのところのテスト・マッチでも、スコットランドの スクラム・ハーフ:グレイグ・レイドローは老獪で、その高精度のキックは、一定間隔で音を刻むメトロノームにちなんで「メトロミックキック」と評される。したがって自陣で反則をおかすと「必殺メトロミックキック」で三点の失点を覚悟しなくてはならない。

また攻撃の起点となるスタンドオフ:フィン・ラッセルは、昨年の欧州六ヵ国対抗戦で、ランク上位のイングランド戦での勝利に司令塔として貢献するなど活躍がめざましい。スコットランド(世界ランク7位)、日本(世界ランク10位)まさに強敵との対戦である。
このスコットランド戦をなんとしても撃破すれば、グループリーグを突破し、本大会の目標としているベスト8に進出し、わが国のラグビーにも新天地を拓くことができそうである。

《 にわか ── それにしては 苔のはえた ラグビーファンのひとりとして 》
ところで吾輩は、運動という神経細胞のすべてを兄貴と妹に奪われてしまったようで、幼少時代から鉄棒の逆上がりができないというまったくの運動音痴である。
その分『観るだけ』と兄妹からは揶揄されたが、ほとんどの「スポーツ観戦」は好きである。つまり芝居や映画はできるだけライブで観たいとするほうので、テレビはもっぱら、ニュースとスポーツ観戦となる。

なかでも冬期の駅伝、マラソンとならんでラグビーは好きなスポーツで、全国高校対抗戦、大学選手権、社会人(実業団)ラクビーもよく観ている。秩父宮ラグビー場には観戦に出かけていたが、改修後は観客席の傾斜がきつくて避けるようになった。もちろん観るだけで実践はしない ……。

ラグビー W杯2019 東京 の正式メンバー31人が発表された。
スクラムハーフに茂野海人-しげのかいと、田中史朗、流 大-ながれゆたか-の三人が選出されたのは意外だったが、それには日本代表 HC ジェミー・ジョセフになにか秘策があるものと期待したい。
ジェミー・ジョセフは、今大会の最終選手選考基準として「ユーティリティー性」、すなわちポジションの固定されがちなラグビーに、複数のポジションを担当できる能力を期待したと述べていた。もちろん対象は、かの憎っきスコットランドの No 9 スクラム・ハーフ:グレイグ・レイドローであって欲しい。

選考メンバーでは、No 2 フッカー:堀江翔太、No. 1プロップ:稲垣啓太、No 9:スクラムハーフ のオッサン田中史朗、No 11 ウイング:福岡堅樹、No 14 or 15 センター/フルバック:松島幸太朗らが吾輩の贔屓の選手。
これに No 10 スタンドオフ:田村 優のプレース・キック ── とりわけ右45度からのキックが安定し、暴れ者 No 8 :アナマキ・マフィと姫野和樹に怪我が無く、No 15 フルバックには体軀は小柄ながら俊敏な松島幸太朗が入って、獅子奮迅の頑張りをみたいところである。

《 気になる国、気になるもんじがあった ── ジョージア国とジョージアもんじ 》

かつてラグビー観戦をしていたところ、試合前の国歌斉唱でソプラノの女性歌手が朗朗と「自由」を歌い上げ、選手も観客も滂沱の涙を流しながら熱唱している試合を観たことがあった。それが「グルジア」から「ジョージア」となったばかりの人口420万人余の国であることを知った。
ジョージアは、アジアの西端とも、東ヨーロッパともいえる国で、その地のひとは、髪は黒く、胴長短足で、瞳も黒いひとが多いようでなんとなく親近感を持った。

【 YouTube ジョージア国歌 「日本語訳」- Anthem of Georgia (Japanese) 01:30 】

大相撲には栃ノ心、臥牙丸、引退した黒海らがおり、レスリング(グレコローマン・スタイル)と柔道も盛んで、先月の武道館で開催された2019柔道世界選手権でもいくつかのメダルを獲得している。それでなんとなく気になって関心を寄せるようになった。
[ 参考: 外務省 ジョージア(Georgia)基礎データ
[ 参考: საქართველოს პრეზიდენტის ოფიციალური ვებგვერდი Official web site of the President of Georgia   ジョージア語と英語に切りかえ可能 ]

ジョージア(グルジア語: საქართველო, ラテン文字転写: sakartvelo, 英語: Georgia)は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパ、もしくは西アジアに区分される。
首都はトビリシ。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名のグルジア(ロシア語: Грузия, Gruziya)としても知られている。

かつてはソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシア連邦など一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。
ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じて、アゼルバイジャンやモルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (C I S)を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。

コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾度もの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。
[ 参考: ウィキペディア ジョージア(国)

【 YouTube რაგბი. საქართველო – იაპონია / Rugby. Georgia vs Japan 2:20:47 】

『 LES CARACTÈRES  DE  L’IMPRIMERIE NATIONALE 』(フランス国立印刷所 pp 263  1990)

[ジョージアもんじ  書きかけ項目]

【ことのは】キリスト教イエズス会宣教師|フランシスコ・ザビエル(1506-52)来日470年|

1549年8月15日(和旧暦 天文18年7月22日)、フランシスコ・ザビエルが来日した。
1534年のモンマルトルの誓いにより、イエズス会が創立。同会は当初から世界宣教をテーマとしていて、ザビエルはポルトガル領であったインドの西海岸ゴアへ派遣され、ここを拠点としてインド各地へ布教。のちにマラッカ海峡を通り、モルッカ諸島(スパイス諸島)へ、その帰り道、鹿児島出身のヤジロウと出会い、日本布教の重要性を悟ったとのこと。

ザビエル一行は1549年8月15日(和旧暦 天文18年7月22日)、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。その三年ほどのち、1552年12月2日に中国の広東省にて布教中に病死。1622年に列聖され、遺骸はインド、ゴアのボム・ジーザス教会に安置。今でも10年に一度公開されているとのことである。
[ 参考:「日本の古本屋」メールマガジン ]

鹿児島市祇園之洲町に現存する、明治時代に建造され、戦災で焼失した聖堂を記念する遺構
Viva la 活版  薩摩 dé GOANDO 2014年11月1-3日 写真:サラマ・プレス倶楽部の皆さん

左)ヤジロウ Angero  中)ザヴィエル st Xavier    右)ベルナルド Bernardo

ヤジロウは人をあやめて海外に逃れていたとも、また難破漂流した鹿児島出身の漁民ともされている。そんなヤジロウ像は意外なことに「図書」を手にしている。ヤジロウは何語による、どんな複製方法による「図書」を手にしていたのだろう。
ザビエルの来日から30年後、おなじイエズス会の宣教師:アレッサンドロ・ヴァリニャーノらによって近世初期(16世紀末-17世紀初め)に日本を中心に刊行されたローマ字、あるいは漢字・仮名による印刷物「キリシタン版」は盛んに話題となるが、大航海時代にあって、イエズス会の創立者のひとりであったザビエルが、インド、日本、中国でなした伝道の詳細は詳らかにされていない。
[ 参考: 活版アラカルト Viva la 活版  薩摩 dé GOANDO まとめ

イエズス会とフランシスコ・ザビエル

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【展覧会】山種美術館|広尾開館10周年記念特別展|生誕125年 速 水 御 舟 ── 瘦金体の書をのこして早世した日本画家|6月8日-8月4日

山種美術館 広尾開館10周年記念特別展
生誕125年 速 水  御 舟
会  期  6月8日[土]-8月4日[日]
      * 会期中一部展示替えあり(前期:6/8-7/7、後期:7/9-8/4)
会  場  山種美術館
主  催  山種美術館、日本経済新聞社
開館時間  午前10時-午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休  館  日  月曜日
入  館  料  一般 1200円・大高生 900円・中学生以下無料
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本年は、日本画家・速水御舟(はやみ ぎょしゅう 1894-1935)の生誕から125年、そして山種 美術館が現在の渋谷区広尾の地に移転し開館してから10年目にあたります。この節目の年を記念し、当館の「顔」となっている御舟コレクションの全貌を紹介する展覧会を開催いたします。

当館創立者の山崎種二(1893-1983)は御舟とは一つ違いでしたが、御舟が40歳という若さで早世したため、直接交流することがかないませんでした。しかし、御舟の芸術を心から愛した種二は、機会あるごとにその作品を蒐集し、自宅の床の間にかけて楽しんでいました。
一方、御舟は23歳の若さで日本美術院同人に推挙され、横山大観や小林古径らにも高く評価された画家。

「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」
という御舟の言葉どおり、彼は生涯を通じて、短いサイクルで次々と作風を変えながら、画壇に新風を吹き込んでいきました。

御舟は40年という短い生涯に、およそ700余点の作品を残しましたが、その多くが所蔵家に秘蔵されて公開されることが少なかったため、「幻の画家」とも称されていました。1976年、旧安宅産業コレクションの御舟作品105点の一括購入の相談が種二のもとに持ち込まれ、種二は購入の決断をします。その結果、すでに所蔵していた作品とあわせて計120点の御舟作品が山種美術館の所蔵となり、以来当館は「御舟美術館」として親しまれてきました。

本展では、御舟の代表作ともいえる《炎舞》、《名樹散椿》(ともに重要文化財)をはじめとして、《錦木》など初期の作品から《牡丹花(墨牡丹)》など晩年の作品まで、各時代の作品をまとめてご覧いただきます。
当館の御舟コレクション全点公開は2009年の広尾開館以来10年ぶりとなります。この機会に、御舟芸術の真髄をお楽しみください。

[ 詳細: 山種美術館 ]

速水御舟「桃花」1923(大正122)年(山種美術館蔵)
日付と署名に「瘦金体」の書がみられる ── 山種美術館図録並びに市販絵はがきゟ
山種美術館 2016年11月13日のツィターゟ
日付と署名・落款に「瘦金体」の書がみられる。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも 図書(書物)製造の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周など、現在の開封(カイホウ、  Kāifēng) にみやこをおいた王朝を中心に木版図書製造技術が温存されて、10世紀・北宋(趙氏、九代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典図書としておおきく開花した。
────────────────
北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある 開封(カイホウ)であった。いまもなお開封は、雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。 前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して「大梁-タイリョウ」 と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦 によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代 ・ 後梁のみやこ「東都」となり、つづいて後晋・後漢・後周もここにみやこをおいて「東京-トウケイ」 と称した。
すなわち「分裂時代」とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた「後唐  923-936」 以外の四つの国は、開封(東都・東京・汴-ベン)をみやことしていたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国(現在の四川省)に建朝された「後蜀  934-965」 では、965年ころには、あきらかに、
「蜀地の文化の新展開と、経書の印刷がおこなわれていた 」 (『 標準世界史年表 』 亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日 )のである。
「 木版印刷の創始は宋代から 」 という説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は 「 蜀大字本 」 とされて、評価がきわめてたかかった。 そのひとつ『周礼-シュライ』がわが国の 静嘉堂文庫(東京都世田ヶ谷区)に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル・タイプが 「 四川宋朝体  龍爪 」(製作・欣喜堂、販売・朗文堂)である。これがして、稿者が北宋・南宋の両方の宋王朝と、多様で多彩な展開例をのこした宋朝刊本字様 ── 宋朝体 ── に膠泥するゆえんのひとつでもある。

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝 ・ 宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤(チョウ-キョウイン、宋の太祖、在位 960-976) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を「汴-ベン、 東京開封府-トウケイカイホウフ」 とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武(文官優位の治世、シビリア ン・ コントロール)につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹-キッタン-族の遼、チベット系タングート族の 西夏-セイカ-の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金(女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打-アグダ-の建てた国 ) が、会寧府(吉林省阿城県)、燕京(エンケイ-現ベイジン、北京 )を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて、二次にわたる大攻勢の結果「汴-ベン、東京開封府」 を占拠して、宋 (北宋)を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては 「 靖康-セイコウーの変 」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 -キソウ(趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。「 楷書千字文 」「 牡丹詩帖 」「 穠芳詩巻 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を「痩金体- ソウキンタイ」と名づけた。

趙佶は初唐の書家・薛曜(セツ-ヨウ  生没年不詳 ) から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが つまびらかにしない。
「 楷書千字文 」 の原本は、いまは上海博物館の所蔵で、ここでは真筆をみて、C D R 版を含む、できのよい複製版を購入することができる。『宋徽宗書法全集』(王 平川、北京・ 朝華出版社、2002年1月)

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこ「 汴 ・ 東京開封府」を陥れた。 ここに宋(北宋)は九代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝、上皇・徽宗(趙 佶、在位1100-25 )、皇帝・ 欽宗(趙 桓、在位 1125-27) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城(現黒竜江省)に幽閉した。これが「靖康の変」とされる事件である。

風流皇帝とされ、芸術に惑溺していた徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓(欽宗)に帝位を譲って上皇となったが、「靖康の変」に際しては上皇・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。
そのために趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓「永祐陵」は、旧南宋領内のみやこ・ 臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《 版木ともども消滅した北宋刊本 》
[本項は 『大観  宋版図書特展』  台北・故宮博物院、2007年12月を主要資料とした]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業(図書出版)であるが、この時代( 10-12世紀 )の木版刊本の書物「北宋刊本 ・ 北宋図書」 は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様(木版刊本のうえにあらわれた字の形姿)や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物「インキュナブラ」の稀覯性などとはとても比較の対象とならない。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝 ・ 太宗(976-997) が、淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書-カンリン-ジショ-であった王 著 (オウチョ  ?―990 ) に命じて、編輯、摹勒(もろく-摸倣によって木石に彫刻)させ、拓本とした集法帖10巻がある。
名づけて『淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ』である。

『淳化閣帖』は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。
同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻・原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の 「夾雪本」( 東京・書道博物館 )と、「最善本」(上海・上海博物館 )だけがわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇・徽宗帝、皇帝・欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵「内府」や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国(民族)はのちに女真文字(満州文字)をつくるが、おそらくはそのための文化基盤も欲しかったのであろう。

この女真-ジョシン-文字の形成に成功した満州族の一部族、「愛新覚羅-アイシンカクラ・アイシンギョロ」のヌルハチがのちに勃興して、1616年帝位(太祖)について、国号を「後金-ゴキン」と称して奉天(現瀋陽)にみやこした。その子ホンタイジ(太宗)は1636年に国号を「清 qīng」とあらため、孫の世祖のときに長城を越えて中国に入って北京をみやことした。「清 qīng」は12代の皇帝の治世をみたが、孫文らによる辛亥革命によって1912年に滅亡した。
したがってその城地:北京紫禁城(現故宮博物院)の外朝はともかく、皇帝をはじめ皇族が居住していた内廷では、いまなお扁額などに満州文字がおおくみられる。
また稿者の知人のほとんどは、「清 qīng」とは呼ばずに「後金-ゴキン」と呼ぶ。

清王朝(1616-1912)の存在はそんなにふるい時代のはなしではない。
わが国でいうと徳川家康が江戸幕府をひらき、その基礎をかためて将軍職を秀忠にゆずり、駿府に隠居して大御所とされ、逝去した年がわが国の元号でいうと、元和元年-1616年のことである。また清王朝が崩壊した1912年は明治から大正への改元のときでもあった。
すなわち「清王朝」とわが国の歴史は、江戸時代初期から明治・大正期の歴史と重なる。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

[関連:NOTES ON TYPOGRAPHY  【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

つまり金軍は『淳化閣帖』などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石・版木のほとんどすべてと、その工匠までも、根こそぎ、燕京、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる『淳化閣帖』の複製原版が、石刻だったのか、梓 や 棗 材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明していない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋( 北宋 )の版本のほとんどは 「汴、東京開封府」 から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で「覆刻術-かぶせ彫り-のために費消」され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における「 文字獄 」によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に 「北宋刊本」 がのこったのである。

すなわち、わが国では「 文字獄」はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
また 「 文字獄 」 が中国歴代王朝、なかんずく清王朝初期の皇帝らによって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。

こうした過酷な時代を乗りこえて、みかどの書 ── 瘦金体は原本が相当数のこっている。またわが国へも江戸の後期にはなんらかの手本がもたらされたとみられ、あちこちの金石のうえに瘦金体の書をみることができる。
速水御舟は良い意味での好奇心のつよい画家であったとみられている。したがってそうした宋朝の文人画にあこがれ、書藝の瘦金体の手本をどこからか入手していたのであろう。

【資料紹介】国立国会図書館所蔵|『東京盛閣図録』ゟ|編輯・出版:新井藤次郎|明治18年(1885)9月

国立国会図書館所蔵
『東京盛閣図録』ゟ 部分紹介
著   者  新井藤次郎 編
出 版 者  新井藤次郎(東京府下谷区練塀町四十九番地)
出版年月日  明治18年(1885)9月
請 求  記 号  特52-102
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篤志者や富商・富農から資金をつのり、「紳士録」のような目的で製造・販売された、いわゆる「魁-さきがけ-もの」のひとつで、銅版印刷による横開きのアルバム状の図書である。表題部を欠く。
ここでは国立国会図書館データーから、見開きページの余白部だけを詰めて紹介した。またこのような「魁もの」の類書には、『大日本博覧図』、『日本博覧図』などがある。
[画像処理協力:青葉水竜]

『日本盛閣図』 刊記

◉ 活版製造所(東京築地活版製造所)
この見開きページの右端に東京築地活版製造所の案内がしるされている。
業務内容「活版及び印刷器械 其の他諸器械製造 幷 舶来各種インキ売り捌き」、住所・社名「東京京橋区築地二丁目十七番地 活版製造所」とある。

東京築地活版製造所というと、現在は活字を中心にかたれれることがほとんどであるが、活字判印刷には、印刷機と活字はもとより、木工製品(のちに活版木工とされた特殊分野)をふくめ、じつにさまざまな機器と資材が必要となる。
近代印刷術の普及にあたった平野富二は、明治05年(1872)の上京直後から、それらの開発・製造を、支援のないままに開始し、しだいに後発企業が登場してくると、その軽工業製造事業の一部を惜しげもなく譲渡していた。

活版印刷資材のうち枢要な資材のひとつが印刷用インキである。官設の印刷局では開設直後から紙幣寮を中心として国産インキの開発にとり組み、紙幣の偽造防止に尽力し、あわせて一部を民間にも販売したとしているが、それをいつから開始したかの記録には乏しい。
また民間業者による国産インキの製造・販売は、明治20年代初頭、西川忠亮(初代、東京築地活版製造所役員、東京印刷株式会社監査役)による西川求林堂が最初とされている。したがってこの明治18年(1885)時点では、まだ「舶来各種インキ売り捌き」と取扱品目にしるしている。

住所地としてしるされた「東京京橋区築地二丁目十七番地」は注意が必要な部分である。
平野富二は神田和泉町から移転してきた直後は「築地二丁目二十番地」、「東京築地二丁目万年橋東角二十番地」の仮工場を住所地として表示し、ついで煉瓦建ての本工場が完成してからは、築地川にそった「築地二丁目十九番地」としていた。それが「東京京橋区築地二丁目十七番地」に変わった経緯は{ 古谷昌二ブログ 2019年06月 }に詳細に説かれている。こちらを参照していただきたい。なお本図上部にみる築地川に架設されている橋は、万年橋ではなく、築地西本願寺に通じる祝橋である。

銅版画『東京盛閣図録』に表示された社名は、あきらかに「活版製造所」とだけある。どういうわけか平野富二は、活版製造業・造船重機械製造業・土木建設業・交通運輸業などのさまざまな事業を展開したが、社名表記にはほとんど無頓着であったようで、とかく研究者を悩ませている。

株式会社東京築地活版製造所は、登記上では明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このときはじめて同社に社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

不惑を迎えたころの平野富二の肖像写真

この時の会社の規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。
20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたという。株主名簿は未詳。
役員は、取締役社長:平野富二、取締役副社長:谷口黙次、取締役:松田源五郎、取締役:品川藤十郎、支配人:曲田 成、副支配人:藤野守一郎で、その他は未詳。

そのいっぽう、平野富二は「石川島平野造船所」「平野土木組」の事業などでも繁忙を極め、一等砲艦「鳥海」の建造に着手し、それに必要な資金は渋沢栄一の提案により「匿名組合」を組織して不足資金を調達していた。
またドコビール軽便鉄道を駆使して、各所の土木建設にもあたっていた。
この『東京盛閣図録』が刊行された年の8月には、東京と神奈川でコレラが猖獗をきわめ、明治期最大の流行となり、石川島平野造船所 造機技師長:アーチボルド・キング がコレラに罹患して病死した年でもあった。

『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

上図は区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は、築地二丁目(貮町目と表示されている)17番地となり、築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。のちに14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とした〔現コンワビル周辺〕。平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した〔現築地えとビル周辺〕。

古谷昌二氏講演<中央区区民カレッジ>資料ゟ 2016年10月21日

[ 詳細:平野富二 ── 明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ 2019年06月

◉ 時事新報  日本橋区通三丁目十一番地 時事新報本局 慶應義塾出版社
時事新報は、かつて存在した日本の日刊新聞である。明治15年(1882)3月1日、福沢諭吉の手によって創刊された。その後、慶應義塾およびその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞のひとつとされた。
創刊に当たって福沢諭吉は「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。1936年(昭和11年)に廃刊になり『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に合併された。

『時事新報』の紙面 1889年(明治22)2月1日 ウィキペディアゟ

『時事新報』に関しては、丁寧な解説が ウィキペディア にあるので、それを参照いただきたい。
ここでは福沢諭吉を生涯をかけて支援した「小幡篤次郎」を紹介したい。

【小幡篤次郎 おばたとくじろう 1842-1905】 [参考:国史大辞典 吉川弘文館]
明治時代の学者、教育家。慶応義塾長。その生涯をつうじて福沢諭吉を補佐して慶応義塾の発展に力をつくし、晩年は塾の最長老として重きをなした。
啓蒙期には著述家としても活躍。『学問のすゝめ』初編(明治五年)には、著者として福沢諭吉とともにその名を連ね、明治六年にはトックビル Tocqueville の  De la démocratie en Amérique(『アメリカ民主政治』)の出版の自由を論じた一章を、英訳本から重訳して、『上木自由論』と題して刊行した。これは出版の自由を論じた最初の単行本である。そのほか『博物新編』『英氏経済論』『宗教三論』などがある。

小幡篤次郎は天保十三年(一八四二)六月八日、豊前国中津藩士(現大分県北部の中津市)の子として生まれ、藩地にあって漢籍を学び、十六歳より二十三歳まで藩校進修館で句読、塾頭館務の職に任じまた剣にも長じた。
元治元年(一八六四)、弟甚三郎らとともに、同郷の洋学者福沢諭吉に連れられて江戸へ赴き、福沢のもとで英学を学び、頭角をあらわして、慶応二年(一八六六)より明治元年(一八六八)まで福沢塾の塾頭に任じ、また慶応二年以降、幕府の開成所の助教授をつとめた。

明治四年中津市学校の創立にあたり、初代校長として英学普通教育のモデルを作った。同九年、文部省より招かれて中学師範学科(のちの高等師範学校)の創立のさい教授監督にあたり、翌十年には欧米を巡遊、十二年には東京学士会院の会員に選ばれた(同十四年これを辞す)。
同十三年、交詢社の創立以来、幹事としてその運営にあたり、また十五年の『時事新報』の創立にも福沢を助けて尽力した。
同二十三-三十年慶応義塾長、三十年より同塾副社頭に任じ、三十四年に福沢が死去してのちは、このあとをおそって慶応義塾社頭に推された。この間、二十三年より貴族院議員に勅選され、また貨幣制度調査会委員をつとめた。同三十八年四月十六日、六十四歳で病没。

製紙分社   日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)
王子製紙会社

いずれも渋沢栄一との関連が深い「製紙分社」、「王子製紙」の明治前半期の姿が描かれている。
王子製紙はともかく、「製紙分社」と、その「支配人:陽其二」、さらにその後継企業の「東京印刷株式会社」に関しては、横浜・東京両店ともにきわめて公開資料がすくなかった。
『東京盛閣図』には「製紙分社 日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)」が紹介されている。門柱には「製紙分社 官許 洋紙売捌所」がみえるだけで、なかなかその実態はわからない。
この分野を補完すべく資料収集されていたかたがいたが、本年06月に逝去された。したがってここでは断片資料であることをお断りして、一部の資料をまとめてみた。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文館、『日本印刷大観』東京印刷同業組合編、『日本紙業総覧』王子製紙販売部調査課編、『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀、1911)pp 61 東京印刷株式会社]

陽 其二 よう そのじ/みなみ きじ 1838-1906
幕末-明治時代の活版印刷技術者。製紙分社支配人。平版印刷の一種「コンニャク版-Hektograph」の紹介者。『穎才新誌-えいさいしんし』発行人。晩年には中国料理店「偕楽園」を創業して「爆弾料理-詳細不詳」を紹介した。
内国勧業博覧会審査員、長崎での同門として東京築地活版製造所にふかくかかわり、跡見女学校教授等も歴任した。いっぽう書藝と中国料理に造詣がふかく、一部では酔狂人ともされる。
明治39年(1906)9月24日死去。享年69。あざなは大有。通称は子之助。号は天老居士など。墓は義兄弟の加福喜一郎とともに東京谷中霊園にある。

陽  其 二 肖像(故:桜井孝三氏提供)

コンニャク版は平版印刷の一種である。少部数の印刷や、陶器、焼き物の絵付けに使用された。
世界的には一般にヘクトグラフ Hektograph と呼ばれた。本図はキット販売の英文資料

陽其二(1838)は本木昌造(1824)より14歳ほど年少、平野富二(1846)よりは18歳ほど年長であった。ともに肥前長崎出身。曽孫に陽 敏朗氏がいる(故桜井孝三氏と昵懇)。
本木昌造(1824-75)にまなび、文久2年(1862)に幕府海軍長崎丸汽関方となり、元治元年(1864)に江戸に出て、中邦逸郎・鬼塚辰之助の三名で 鉄砲洲時代の 慶應義塾 に学ぶ。慶応元年(1865)長崎製鉄所に勤務、かたわら本木昌造とともに活版印刷技術を研究・開発し、さらに新町活版製造所で活字版印刷を修得。

神奈川県令:井関盛艮-いせきもりとめ-が企画した『官許横浜新聞』を発行するために、本木の抜擢をうけて横浜活版舎を設立、『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の初期の印刷を担った。
編集者は横浜税関の翻訳官:子安 峻-こやす たかし。この時に出資・創刊にあたった島田豊寛-しまだ とよひろ-が社長に就任。明治三年(一八七〇)十二月十二日これを創刊した。
明治六年(一八七三)には妻木頼矩が編集長となり、その後島田三郎(豊寛の養子)、仮名垣魯文(野崎文蔵)が文章方(記者)となった。

この新聞は当時は高価な洋紙を用いた、タブロイド判両面刷の日刊紙で、当初は木活字、のち長崎の新町活版製造所、さらに東京築地活版製造所製の三号楷書体活字をおもに用いた。同紙は明治四年(一八七一)四月『官許横浜毎日新聞』と改題、同十二年十一月東京に移り『東京横浜毎日新聞』となった。

陽其二は『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の創刊からまもなく、明治五年(一八七二)になるとはやくも横浜活版舎をはなれ、竹谷半次郎・加福喜一郎らとともに印刷業の景諦社を設立した。この三名は長崎出身の同郷であり、伴侶が姉妹だったために、義兄弟ということで、漢字音が共通する「兄弟・景諦-ケイテイ」をとって社名としたとされる。
景諦社は証券印刷などの需要を見込んで、翌七年三月二十五日に渋沢栄一創設の東京抄紙会社(のちの王子製紙会社)にこれを譲渡し、同年四月一日抄紙会社横浜分社(のち王子製紙横浜製紙分社)となった。陽其二はその後も引き続き東京・横浜の両製紙分社の支配人として、印刷業と洋紙販売に従事した。

後年東京印刷株式会社の社長となった 星野 錫(ほしの しゃく 1855-1938)は景諦社に明治6年(1873)に職工として入社しており、景諦社の出身である。星野 錫は東京印刷株式会社(もと製紙分社)の社長兼任のまま、昭和初期の東京築地活版製造所の役員(のち監査役)となって、苦境におちいった同社の再建に尽力している。

【穎才新誌 えいさいしんし】

明治十年(一八七七)三月創刊、三十二年十月『中学文園』を合併、三十四年六月以降『穎才-えいさい ≒ 英才』と改題。廃刊年月・発行部数などは不詳。
当初は(東京)製紙分社、のち穎才新誌社発行。菊倍判八頁で週刊、定価は二銭。設立時は陽其二が主宰、のち堀越修一郎なども編集に参加、スタッフはしばしば交替した。
学才による立身出世主義の風潮を下地とし、さらに文学的教養と人間的修養をめざす作文教育を志向した。わが国最初の青少年向き投稿専門雑誌となり、彼らの文芸熱の受け皿となった。その趣は田山花袋の『東京の三十年』にも描かれている。
毎号投稿中から選んで作文・和歌・漢詩・新体詩・俳句・図画などを載せ、啓蒙的な教導の文も掲げられた。山田美妙・尾崎紅葉・田山花袋・内田魯庵その他も、少年時代この雑誌に投稿していた。

【東京印刷株式会社】
[出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会1911)pp 61 東京印刷株式会社]

一 所在地 東京市日本橋区兜町二番地
一 目的事業 諸製版印刷製本写真書籍出版及発売
一 創立年月 明治二十九年六月
一 資本金 五拾万円(内払込高弐拾参万七千五百円)
一 積立金 拾弐万六千円
一 壱箇年利益金 四万七千円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在
深川分社 東京市深川区東大工町四十七八番地
横浜分社 横浜市太田町六丁目九十四番地
一 沿  革
東京印刷株式会社は、もと王子製紙会社の分社として、明治七年(一八七四)横浜に、同八年(一八七五)東京に、王子製紙会社の製紙販売を兼ねて印刷機関を創設したもので、いわゆる横浜製紙分社、東京製紙分社の両製紙分社の後身にあたる。当時印刷製本の事業は政府の紙幣寮を除き、民間にあってはわずか数社にすぎなかった。とりわけ洋式簿冊の製作を経営するものは同社だけであった。

このときにあたり、大蔵省をはじめ各府県において使用する帳簿を洋式に改正したが、その洋式帳簿の製作はほとんど東京印刷の提供によるものであった。こうした時運の進展によって同社は泰西諸国の斯業を調査研究する必要に迫られるにいたった。
そのため現在専務取締役たる 星野 錫 が明治二十年(1887)春、選ばれて渡米し、前後三年米国にあって研鑽をかさね、帰朝後おおいにその成果を応用して規模面目を改めることになった。これは実に青淵先生(渋沢栄一)の指導にもとづいたものであった。

当時の王子製紙会社の取締役であった岩下清周は、製紙事業と印刷事業の分離経営を計画し、明治二九年(1896)青淵先生らの発議によってこれを株主総会に諮り、その可決を経て横浜・東京の両製紙分社の財産を挙げて星野氏に一任し、あらたに資本金拾五万円をもって同年六月東京印刷株式会社の成立を見るにいたった。

これを受けて、あらたに東京府深川区東大工町に工場を設立し、印刷機械を増設した。また横浜分社はそれまでの規模を一新して、着々と経営の歩武を進めている。その専務の椅子を星野氏に与へしもまた青淵先生らの推輓によるものにして、先生は相談役に就任した。
爾来数年間、青淵先生は提撕(テイセイ 教え導く)誘掖(ユウエキ 輔佐)の労を取られたため、社運益々隆昌の域に向かった。四十一年(1908)七月さらに参拾五万円を増額して資本金五拾万円とし、工場を増築し機械を増加し時世の進運に伴はんことを企図しつつありという。

一 東京印刷株式会社と青淵先生との関係
青淵先生はいまも当東京印刷株式会社の重要なる株主にして、常に業務の経営に関し指導誘掖の労を執られつつありという。

一 現任役員
専務取締役 星野 錫
取締役   藤山雷太  取締役  中井三郎兵衛
監査役   鹿島岩蔵  監査役  西川 忠亮

東京印刷株式会社は、のちに主力工場だった深川工場が火災のために全焼した。また1937年(昭和12)廬溝橋事件以降、日本・中国での緊張(日支事変)が高まりをみせていたため、1938年(昭和13)5-6月、ダイヤモンド社系の「美術印刷株式会社」とともに、共同印刷の傘下にはいって、事実上その歴史の幕をおろした。
[参考:『印刷雑誌』1938年2月号 pp 59 ]

【王子製紙株式会社】  [参考:『世界大百科事典』小学館]

日本最大の製紙会社。1873年(明治6)渋沢栄一が三井組・小野組・島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことにはじまる。
最初は社名を〈抄紙会社〉と称し、資本金15万円。機械類を輸入し、またイギリス人技師を雇い入れたのち、1875年(明治8)東京府下王子村の工場が綿ボロを主要素材にして運転を開始した。翌76年社名を〈製紙会社〉に変更。

しばらく経営不振が続いたが、西南戦争を契機とする新聞・雑誌の発展によって、洋紙市場が形成されるにおよび経営基盤が確立した。欧米のパルプ製造技術を学んだ大川平三郎(渋沢栄一の娘婿)の努力で1888年(明治21)天竜川上流の気田に日本最初のパルプ工場(気田工場)建設に着手、1890年完成した。1893年(明治26)に王子製紙株式会社と社名を改めたが、このころには日本最大の製紙会社に成長していた。

1896年(明治29)中部工場建設にともない、三井銀行の援助を受けることになって 藤山雷太 が役員として送り込まれて経営の実権を握った。これに対して労働者の不満が爆発し大ストライキが起こったが、三井から藤原銀次郎が支配人として入りストを収拾、それ以後王子製紙は完全に三井の勢力下に入った。
1910年(明治43)苫小牧に当時としては最新鋭の新聞用紙工場を建設し、1915年以降工場の買収建設で樺太・朝鮮への進出を果たした。

1916年(大正5)には大阪で都島工場を買収、また大蔵省十条分工場の払下げを受け、1924年に小倉製紙所と有恒社、1925年に東洋製紙などをつぎつぎと併合した。
その後も金解禁およびアメリカの恐慌の影響で苦境におちいった樺太工業株式会社(1913年大川平三郎が樺太を拠点に設立)、富士製紙株式会社(1923設立。一時大川が実権を握ったが1929年以降は王子が実権をもつ)を合併し、1933年(昭和8)資本金1億5000万円の王子製紙が誕生、全国洋紙生産の80%余(新聞用紙は95%)を占め世界有数の大製紙会社となった。

このような王子製紙の発展を主導したのは藤原銀次郎(1920年社長38年会長就任)で、彼は関連産業につぎつぎと手をのばし、王子は30余の会社を支配する一つの財閥を形成した。
しかしこうした独占も、第二次大戦後の過度経済力集中排除法によって終止符が打たれ、1949年(昭和24)苫小牧製紙株式会社、十条製紙株式会社、本州製紙株式会社の三社に分割された。
1952年(昭和27)財閥商号使用禁止が解かれたのを機に、苫小牧製紙は王子製紙工業株式会に、さらに1960年王子製紙株式会社に改称した。1989年東洋パルプを合併、また1993年神崎製紙を合併し、新王子製紙と改称したが、1996年(平成8)本州製紙と合併して、旧称:王子製紙株式会社に復した。

現在も王子製紙は業界最大手であり、新聞用紙のシェアは第一位、また膨大な社有林を有する日本最大の土地保有企業である。
資本金1039億円(2005年9月)、売上高1兆1851億円(2005年3月期)。

【王子製紙とウィキペディア】

  • 1873年-1949年に存在した王子製紙(初代)については「王子製紙-初代」を参照。
  • 1960年-1993年および1996年-2012年9月に存在した王子製紙(2-3代目)については「王子ホールディングス」を参照。
  • 2012年10月以降の王子製紙(4代目)については「王子製紙」を参照。

王子製紙豊原工場-樺太(1917年-1945年)
『日本盛閣図』 刊記

【かきしるす】タイポグラファ群像*01|加 藤 美 方|かとう よしかた 1921-2000

タイポグラファ群像*001 加藤美方氏

加 藤  美 方 (かとう-よしかた 1921-2000)

印刷人、タイポグラファ。1921年(大正10)うまれ。東京府立工芸学校卒業後、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業。株式会社研究社に入社し、第二次世界大戦中は海軍技術将校として召集された。
終戦ののち大日本印刷株式会社に転じて役員などを歴任。同社を退任後に、吉田市郎(旧晃文堂株式会社社長/当時リョービ印刷機販売株式会社社長、のちリョービイマジクス株式会社社長・会長 1921-2014)に請われて常務取締役に就任。各種の写植活字と写真植字機器開発の指揮にあたるとともに、タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』1-9号の編集にあたった。胃がんとの闘病の末、2000年(平成12)12月29日逝去。法名・遇光院釋淨美居士。享年79
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《研究社と研究社印刷》
研究社 は、1907(明治40)年の創立以来、一貫して英語関連の出版事業を展開している。創業当初から、つねに世界に拓かれた出版をモットーとしてかかげ、現在、辞書・書籍・電子の領域において 最高水準の出版物を刊行するための努力を継続中の企業。

研究社印刷 は、
1919年(大正08年)研究社の印刷所として英文図書刊行に備え九段中坂に組版工場設立
1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場新設
1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転
1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場完成
1939年(昭和14年)吉祥寺印刷工場設立
1947年(昭和22年)富士整版工場設立
1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立
1984年(昭和59年)富士整版工場、吉祥寺工場を吸収合併し、新座市野火止に新社屋完成

加藤美方(1987年 アステ No. 5 より)本稿の初出は{花筏 2011年6月7日}であった。当時の(小社の)WebSite の容量はきわめて少なくて、スキャン画像などは圧縮して、ちいさく掲載されていた。データーを開いてみたところ、さいわい画像の元データーも保存されていたので、ここに{花筏}の掲載分はそのままのこし、一部を補整、補遺し、また図版を大きくして再度本欄に紹介した。

《加藤役員と、最後まで親しく呼ばせていただきました》
しばしば電話を頂戴した。どちらかというと加藤美方は電話魔ともいえた。
「加藤です」というご挨拶のとき、最初の カ にアクセントがある、いくぶんかん高い声が特徴のかただった。

また圭角のないひとがらで、いつも笑顔でひとと接していた。

筆者と加藤との最初の出会いは、某印刷企業の部長 兼 室長であり、面接担当者(雲の上のひと)加藤と、ただ生意気なだけの(汗)タイポグラフィ研究者?  としての筆者の就職面接だった。
加藤の骨折りもあって入社をはたしたが、すぐさま直属上司と大げんかの末、そこを三ヶ月もたたずに退社して加藤の失望をかった。
それでもその後も随分いろいろな分野の先輩を紹介していただいたし、叱声も頂戴した。したがって最初の出会いからしばらくして(お怒りが溶けてから)は、筆者は加藤を最後まで「加藤役員」と呼んでお付き合いをさせていただくことになった。

1998年7月7日、忘れもしない七夕の日、加藤は胃がんの手術をした。小康を得て牛込矢来町の自宅にもどったとき、見舞いに訪れた筆者に加藤はこうかたった。
「タイポグラフィの研究を本気でやろうとしたら、コピー複写資料に頼ってはいけません。それをやっているひとが一部にいますが、所詮はアマチュアですし、いつか大怪我をします。タイポグラフィとは、活字の判定や調査とは、そんなコピーでわかるほど簡単なものではありませんから」。


高島義雄 → 加藤美方をへて筆者に譲渡された
『 TYPE FACES 』

研究社印刷 1931(昭和6)年版
B 5 判    160 ページ かがり綴じ  上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社印刷・小酒井英一郎氏によると、研究社の冊子型活字見本帳では、これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

加藤が在職した当時の研究社の本社工場。昭和02年完成。同書口絵ゟ
同社の印刷部門は1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立して現在に至る

研究社は1907(明治40)年の創業以来、一貫して、英語教育・理科学書・辞書関連の印刷・出版事業を展開している。
現在は印刷部門と出版部門は分離したが、千代田区富士見2-11-3に自社ビルを所有し、辞書・書籍・雑誌の領域における出版企業として著名である。
いっぽうグループ企業の研究社印刷は、創業:大正9年4月、設立:昭和26年2月1日で、現在は埼玉県新座市野火止7-14-8で事業展開を継続中である。

このころの研究社の活字自動鋳植機はライノタイプマシンが主力だったが、こののち、辞書などの高度組版への対応のため、凸版印刷株式会社が所有していたモノタイプマシンと、研究社が所有していたライノタイプマシンと交換という形で、順次モノタイプマシンに設備を変更した。

欧文書体(マシンセット)は、Century Expanded,  Granjon がおもで、Century Expanded は 6 points - 14 points のシリーズ、Granjon は 8 points - 11 points のシリーズが紹介されている。ほかには New Style No.21 が 9 points の 1 サイズだけ、アップライト・ローマンとイタリックの双方を所有している。
マシンタイプの紹介は、すべて左右組幅 27 picas ,  外枠の子持罫は 左右 31.5 picas,  天地 45.5 picas である。
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上掲図のうち、pp 59 の上部を拡大表示した。見落とされがちで、またわが国の活字のほとんどが正方形であるために解りにくいが、これは重要な情報で、中央部にちいさく「 Set 12 Point Body 」とある。
欧文活字の大きさとは A ,  B ,  a ,  b ,  i ,  l ,  M ,  W のように、活字鋳型をスライドさせることによって、左右(字幅)は可変型である。したがって欧文活字の大きさとは、活字ボディの天地のサイズを表すことになる。

上掲図では、「10 points の Granjon 書体の活字母型(文字面の型)をもちいて、天地 12 points ボディの鋳型で鋳込んだもの 」をあらわす。すなわち行間が適度にあくため、インテルの挿入が不要乃至は簡略化することができ、組版効率を向上させることができる。

[参考:NOTES ON TYPOGRAPHY  【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

研究社の和文活字は昭和6年版ではここに紹介した一ページだけが紹介されている。
明朝体は東京築地活版製造所系とみられるが、ゴシック体の供給元はまったく不詳である。
同社ではすでに本文用サイズの活字は、自動活字鋳植機による自家鋳造体制となっており、また欧文組版が主流の企業だけに、初号 42 points,  二号 21 points,  五号 10.5 points,  七号 5.25 points の倍数関係であることを知悉したうえで、和文活字を展開し、もちいていることがわかる。したがってこのページも、左右の組幅は、欧文書体と同様に 27 picas になっている。
後述するが、当然ながらここに見る「明朝体 初号」は、図書の標本を計測しても 初号 = 42 points になっている。 

研究社は好運なことに、関東大震災、第二次世界大戦での被害は比較的軽微であった。また空襲が激化する前に設備の大半を疎開させていたため、この本社ビルとともに、活字と活字母型は戦後も継続使用が可能となった。

それでも1938年(昭和13)以降の研究社は、東京築地活版製造所からの供給が清算解散によって途絶えていたため、戦後は、吉田市郎によって創立間もない晃文堂から「晃文堂明朝体」「晃文堂ゴシック体」を、印刷局朝暘会、明和印刷、厚徳社、技報堂、清和印刷など、大手ページ物印刷を得意としていた企業とともに率先して導入し、順次和文自動活字鋳植機用の活字母型を購入して、ふたたび活字自家鋳造にあたった。

そのため現在の研究社の自社和文専用書体、とりわけ明朝体は、いまなお60年余以前に導入した「晃文堂明朝」を、自社内でカスタマイズしたものをデジタル化して、ハウス・フォントとしている。
[ 参考:『逍遙 本明朝物語』片塩二朗、朗文堂 pp 42 ]


ところで、このとき「印刷局朝暘会」名義で晃文堂から購入した明朝体の活字母型の動向に関心が持たれることは稀である。もともと「印刷局」は秘密のベールの彼方の存在とされるが、近年は意外に大胆かつ率直に情報公開がなされている。

印刷局「お札と切手の博物館」2014年の展示に際しては、稿者も驚くほど(かつては関与者には秘密厳守がつよく要求された)率直に、官報の書体 ── 明朝体の由来が展示・解説されていた。
すなわち、活字自家鋳造の企業のほとんどと同様に、ひら仮名・カタ仮名を中心に、若干のカスタマイズはされている。とりわけ印刷局では両仮名とも、大正期からの形象に近いものに全面的に変更されている。さらに偽造防止のためもあって、さまざまな工夫が随所にされているが、現在の官報書体の源流を含めて丁寧な展示解説がされていた。

そしてそのデジタル化に際し、最初の TrueType フォーマットでの作製は、晃文堂の後身企業であったリョービイマジクスがあたり、O T F フォーマット変換に際してはモリサワが担当したことが展示解説でなされていた。

[ 参考:活版 à la carte よき日がいつも-日日之好日*03【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』
(1937〔昭和12〕年  研究社印刷 同社蔵)

B 5 判  160ページ   かがり綴じ   上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプマシンを本格展開した際に製作されたとみられる活字見本帳。
研究社とその関連部所に、都合 2 冊が現存する。
ライノタイプ・マシンが中心の1931年(昭和6)版での欧文活字書体は、Century Expanded,  Granjon が中心だったが、モノタイプマシン中心の1937年(昭和12)版では Garamond,  Aldine Bembo が中心書体に変わっている。いずれの書体も名書体として、いまなお評価が高いものばかりである。
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はなしが若干脇道にそれるが、東京築地活版製造所第四代社長:名村泰蔵の社長時代に「東洋一の活版製造所」を自他ともに許す存在であった東京築地活版製造所は、そののち後継者にめぐまれず、この研究社(印刷所)の見本帳が発行された翌年、1938年(昭和13)3月17日、臨時株主総会の決議によって清算解散を迎えた。

その理由としては、関東大震災の影響をあげることが多いが、同社は震災後もポイントシステムの活字の販売に熱中するばかりで、辛いことではあるが、活字自家鋳造業者への適切な対応、和欧文の活字自動鋳植機への高度な対応、なによりも印刷術の進歩を見据えた国際化に向けた関心と対応に欠けていたことは指摘せざるを得ない。
すなわち研究社も比較的軽微であったとはいいながら、関東大震災の被害がありながら、ここまでにみてきた、昭和 6 年版、昭和12年版の冊子型活字見本帳をのこしている事実が厳然としてあるからである。

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937〔昭和12〕年  研究社印刷)扉ページ

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』(1937年[昭和12]   研究社印刷) 本文ページ 

《加藤美方の慨嘆 ── 秀英体初号明朝活字=42 points が、ポイント制活字に切りかえ作業以降 40 points に鋳込まれていた件》
大日本印刷(旧秀英舎)のフラッグ・シップともいうべき代表書体は、四号明朝体活字 ≒ 13.75 points と、初号明朝体活字=42 points である。

秀英舎は明治最末期のころから、順次号数制活字からポイント制活字に切りかえていた。四号明朝体活字は、増刷などに備えて近年まで少量温存されていたが、主体は 14 points に切りかえられていった。その差はわずかに  0.25 poits  ≒ 0.03385 mm であったが、戦後の機械式パントグラフ(いわゆるベントン)の導入に際しては、全面的に手を加える必要に迫られる結果となった。
[参考:「大日本印刷の文字原図となり現在につらなった秀英体明朝四号」『秀英体研究』片塩二朗、大日本印刷、pp 606-649]

『 和文活字  DAINIPPON PRINTING SPECIMEN BOOK 』(大日本印刷  1978年)
製作:大日本印刷CDC事業部、組版:市谷第一工場和文課、表紙デザイン:清原悦志

「いつ、たれがやったかわからない。おおきな組織だから …… 」と加藤美方は述べていた。
すなわち、いつのころからか「秀英体初号明朝活字」は、活字字面はそのままで、42 points から 40 points の活字ボディに鋳込まれるようになっていた。
すなわち活字のボディサイズが 0.7028 mm 四方ちいさくなった。換言すると 95.238 . . ..%ちいさな 40 points の活字ボディの上に 42 points の「秀英体初号明朝活字」は存在することになった。

その差わずか 2 points, 0.7028 mm とはいえ、これは視覚印象には決定的な相違ともいえる、おおきな変化を与えることになった。先に紹介した研究社の「明朝 初号」の資料や、上掲図の 36 points のゆったりと風通しのよい組版表情は、ここでの 40 points になると一変し、まさに湯こぼれ寸前、隣の字画と接触するかという危惧をいだかせるほどまでに字間が窮屈になった。これはもはや誇り高い「秀英体初号明朝活字」とは呼べないものとなっていたのである。

「あれは、わたしにも責任があります」と加藤は明言していた。
この「秀英体初号明朝活字」のデーター(活字清刷り)が株式会社写研に提供された。当時の大日本印刷の担当役員は加藤美方であった。 写研には字面率が本来のものとは異なることを十分説明したそうであるが、この時代、写植組版では「ツメ組み」と称して、広告業界を中心に字間をタイトにして組版することが流行していた。

加藤の忠告をよそに、写研では字枠(仮想ボディ)にたいする字面率を最大限にまで拡張して ── ある意味では提供されたデーター通りに ── 写植活字として販売した。しかもその名称は「秀英明朝体 S H M」という誤解を招きかねないものであった。
すなわちオプティカル・スケーリング(個別対応方式)の鋳造活字の「秀英明朝体」は、サイズごとにさまざまな表情があった。「秀英明朝体四号」と「秀英明朝体初号」では、おおきさ、太さの違いだけでなく、字画形象にもおおきな差異があるのは当然であった。

ところが写植活字では原字はひとつで、さまざまなサイズに対応するリニア・スケーリング(比例対応方式)である。そのため金属活字の初号= 42 points  ≒ 14.7588 mm 角だけでない、15.5 mm 角の 62 Q,  4 mm 角の 16 Q,  5 mm 角の 20 Q でも用いられたし、適性を欠くかとおもえる 2 mm 角の 8  Q でさえ、広告デザイナーは使用に遠慮も容赦もしなかった。
こうして、写植活字を愛用した広告デザイナーには、「秀英明朝体 S H M は、字間がタイトで緊張感がある?」という誤った認識がすり込まれるにいたったのである。

ふしぎなえにしで稿者ものちに、大日本印刷の「秀英体平成の大改刻」に携わることになった。スタッフの獅子奮迅の頑張りで無事プロジェクトを終了できた。この間さまざまな問題が起こるたびに、加藤美方のことを想起した。
「加藤役員なら、笑ってすますだろうな …… 」とおもうことにしていた。


《加藤美方からの資料の譲渡 ── 図書の有効利用に向けて》

手術からしばらくして、加藤夫妻は娘さんの嫁ぎ先の近く、多摩市関戸に移転して病後の療養にあたることになった。そこへの移転を控えたある日、ちいさな段ボール箱にいっぱいのタイポグラフィ資料が宅配便で届いた。おもには加藤が研究社に在籍していた時代の、貴重な印刷関連機器と活字の文書資料であった。

加藤はすでに胃がんの再発を自覚していた。そしてそこには自筆で、
「息子が印刷とは無縁の職場にいますので、このタイポグラフィ関連資料と、活字見本帖類を片塩さんにあげます。書誌関係のものは M 八郎〔故人〕 さんにあげました。
わたしの印刷人としての人生は幸せでした。わたしは二廻り年下の片塩さんを発見することができました。ぜひこれを役立ててください。わたしの研究社時代の先輩・高島義雄さんから譲られた資料も入っています。そしてあなたもいつか、二廻りほど年下の若者を発見して、この資料を譲ってあげてください」

とあった。
不覚ながら、おもわず涙がにじんだ。加藤美方は ── そして奇妙なことに晃文堂:吉田市郎も ── 1921年(大正10)辛酉-カノト -トリ-のうまれで、筆者はちょうどふた廻り下の1945年(昭和20)乙酉-キノト -トリ-のうまれであった。

{追記 2019年06月12日}
加藤美方に関する{花筏}掲載データーが古くなりすぎていたので、その補整をはじめたおりもおり、故吉田市郎の家人からひと抱えの資料を届けていただいた。この授受はこれで三度目ほどになるが、今回はふるい写真が多く、筆者がはじめて吉田市郎と出会ったころの資料も含まれていた。

なにぶん晃文堂・リョービ印刷機販売・リョービイマジクス時代の吉田市郎関連資料は膨大である。なんとか稿者がボケないうちに整理だけでもしたいものである。
それよりなによりも、吉田市郎に関しては「訃報」を伝えただけになっっていることを、迂闊なことに今回はじめて気づいた。これはとてつもなく反省すべきことである。

《タイポグラファとしての加藤美方の軌跡》
タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』は、樹立社から『活字の歴史と技術  1 – 2 』(樹立社   2005年3月10日)と改題されてデジタルプリントでの復刻をみた。その『アステ』をのぞくと、加藤には意外に公刊書は少なかった。

それでも研究社に在職中に、『 The Printing of Mathematics   数学組版規定』(The T.W. Chaundy,  P.R. Barrett and Charles Batey,  Oxford University Press)を1959年(昭和34)3月1日に訳出して、高度な組版技術を要する数式を活字組版するための指導書として、研究社の技術基盤を築くのに功績が大きかった。

同書の初版は社内文書ともいえる扱いで、造本は A5判   本文32ページ、くるみ表紙、全活字版スミ1色印刷   中綴じのつくりで、簡素ではあったが、後続の類書に与えた影響は大きかった。
またのちに晃文堂・吉田市郎が研究社の承諾をうけて、同じタイトルでひろく印刷業者にむけて1,000部ほど(加藤談)を公刊した。同書の巻頭の「はしがき」に加藤は以下のようにしるしている。

は し が き

世は正に「科学万能時代」である。出版物にもいわゆる《科学もの》が多くなり、数学ぐらいは必ずでてくるようになった。ところが、現行の理工医学書及び《数学もの》を見るとはなはだ寒心に堪えない。知らぬが仏とはいえ、編集者もコンポジターもあまりにひどすぎる。なにか拠り所があったら……と思っていたら、The Printing of Mathematics が手に入った。

この本は、活字のこと、ランストン・モノタイプのこと、組版のことなどを、印刷需要家[印刷ユーザー]に説明することと、数学書を書こうとし、これを出版しようとする人に対する諸注意で大半のページがさかれていて、最後にオックスフォード大学出版局の「数学組版規定」Rules for Composition of Mathematics at the University Press, Oxford が収録してある。この小冊子はこの規定を訳出し、注釈を加えたものである。

規定の中には重複と思われる項目もあったが、原著に忠実に羅列しておいた。なお、付録には関連資料を添えて参考に供した。
外国での数学書の組版規定がそのまま日本の《数学もの》にあてはまるとは思わないが、参考になると考えたので印刷物にしてみた。日本数学会の意見も加え、このキーストーンの上に、完ぺきな《数学組版規定》が築きあげられる日の一日も早からんことを願ってやまない。

東京大学教授・河田敬義博士、山本建二氏(培風館)にはいろいろご教授を受けた。心から謝意を表明する。
数学の ス の字も知らない私が敢えて訳出したのも  ’ メクラ蛇におじず ’ のたとえ。おおかたのご批判をまつ次第である。

組版ステッキのイラストがあるほうが、研究社版:発行昭和34年3月1日。
本文活字書体は「晃文堂明朝  9 points,  8 points 」が主体である。
欧文書体は「センチュリー・ファミリー」と「バルマー・ローマン」が主体である。

タイトルがセンター合わせになっているほうが晃文堂版(発行日記載無し)。
『 The Printing of Mathematics   数学組版規定 』 本文ページ

ところで、ほとんどのかたはご存知ないようだが、いわゆる『オックスフォード大学組版ルール』も加藤美方が初訳している。稿者所蔵版はあまりに損傷がひどいので、研究社に依頼して保存版を近々紹介したい。したがってこの『NOTES ON TYPOGRAPHY』ブログロールは、ご面倒でも時〻更新操作を加えて閲覧いただけたらうれしい。

また加藤美方は、『日本印刷技術史年表 1945-1980』(日本印刷技術史年表編纂委員会編 印刷図書館 昭和59年3月30日)の編集委員として「文字組版」の部を執筆担当した。この巻末に《編集委員の略歴》があるので、余剰をおそれず、「タイポグラファ群像」のスタートとして紹介しよう。
すなわち、筆者はここにみる諸先輩とは、わずかにその謦咳に接したことはあるが、その詳細はもとより、没年はほとんど知らない。これを機として、読者諸賢からのご教示をまつゆえんである。

『日本印刷技術史年表』 表紙

《編集委員の略歴》
※2011年6月16日、板倉雅宣氏の資料提供を受けて、一部を補整した。

◎ 飯坂義治(いいざか よしはる)
富山県滑川市で1907(明治40年)4月28日うまれ。昭和5年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。共同印刷株式会社専務取締役を経て顧問。1982年(昭和57)以降の消息はみられない。

◎ 板倉孝宣(いたくら たかのぶ)
東京市下谷区西町(現東上野)で1915年(大正4)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社、株式会社細川活版所取締役を経て日電製版株式会社取締役。1992年(平成4)6月21日卒。法名・泰光院孝道宣真居士。台東区谷中1-2-14天眼禅寺にねむる。行年77 〔板倉雅宣氏の実兄〕

◎ 市川家康(いちかわ いえやす)
1922年(大正11年)うまれ。昭和21年東京大学工学部応用化学科卒業。大蔵省印刷局製造部長を経て小森印刷機械株式会社常務取締役。

◎ 加藤美方(かとう よしかた)
1921年(大正10)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社研究社、大日本印刷株式会社取締役を経てリョービ印刷機販売株式会社常務取締役。2000年(平成12)12月29日卒。法名・遇光院釋淨美居士。行年79

◎ 川俣正一(かわまた まさかず)
1922年(大正11)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。昭和29年東京理科大学理学部化学科卒業。共同印刷株式会社を経て千葉大学工学部画像工学科助教授。工学博士。2007年(平成11)以降の消息はみられない。

◎小柏又三郎(こがしわ またさぶろう)
東京麻布で1924(大正13)うまれ。昭和20年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。凸版印刷株式会社アイデアセンター部長。1989年(平成元)5月1日卒。行年65

◎ 佐藤富士達(さとう ふじたつ)
1911年(明治44)うまれ。昭和11年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。海軍省水路部印刷所長を経て東京工芸大学短期大学部教授。1985年(昭和60)6月卒。行年74

◎ 坪井滋憲(つぼい しげのり)
1914年(大正3)うまれ。昭和10年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社光村原色版印刷所専務取締役、株式会社スキャナ光村取締役社長。2000年(平成12)10月15日卒。行年86

◎ 松島義昭(まつしま よしあき)
1918年(大正7)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。同校助教授を経て写真印刷株式会社社長。全日本印刷工業組合連合会会長。1999年(平成11)4月6日卒。行年81

◎ 山口洋一(やまぐち よういち)
1923年(大正12)うまれ。昭和20年東京大学工学部機械工学科卒業。大日本印刷株式会社常務取締役を経て、海外通商株式会社専務取締役。

◎ 山本隆太郎(やまもと りゅうたろう)
1924年(大正13)うまれ。昭和18年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社を経て株式会社印刷学会出版部代表取締役。2010年(平成22)2月19日卒。行年86
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加藤が卒業し、上記編集委員にも大勢が名を連ねた、東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校印刷工芸科の存在にも簡単に触れておきたい。
東京府立工芸学校は 3-5 年間の履修制の特殊な実業学校で、水道橋のほど近くに設立され、「府立工芸」と通称された。

現在はおなじ場所で3年制の東京都立工芸高等学校になっている。加藤は「府立工芸」を卒業後に、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業している。

東京高等工芸学校は、正式には新制大学にならなかったほぼ唯一の旧制高等学校とされるが、1949年(昭和24)5 月、戦後の学制改革にともなう新制大学として、千葉医科大学、同附属医学専門部、同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括した「千葉大学」が設立された。そこに旧東京高等工芸学校の教授のおおくが移動して「千葉大学工芸学部」の誕生をみた。そのために、卒業生の多くは「東京高等工芸学校 現 千葉大学出身」としるすことが多い。

しかしながら「千葉大学工芸学部」は、1951年(昭和26)4月1日に改組・改称されて「千葉大学工学部」となった。この改組・改称が一部の教授によって「工芸と工業は根本的に異なる存在である」として反発をかった。また、同校を離れた鎌田弥寿治教授らは、東京写真短期大学に移動した。同校は改組・改称をかさねて現在の「東京工芸大学」となった。

すなわち、工芸と工業と美術といった教育分野が、その目的と定義を巡って激しい論争をかさねた時代であり、この命題はこんにちも完全に消化されたとはいえないようである。
この間の記録はあらかた散逸していたが、近年松浦広氏が「印刷教育のはじまりを考える 前編・後編」『印刷雑誌』(Vol.94  2011. 4 – 5 印刷学会出版部)に詳しく論述されているのでぜひともみてほしい。

ともあれ加藤美方は東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校の両校を卒業し、印刷業界のエリートとして重きをなし、終生その中核を歩んだ。そして、さすがに旧制学校出身者の高齢化は避けられないものの、いまもって関東一円の印刷業界では、この両校の出身者の人脈が隠然たる双璧をなしている。
加藤の一生はまさにタイポグラファであり、なかんずく文字活字であった。その軌跡は、株式会社研究社、研究社印刷株式会社、大日本印刷株式会社、リョービイマジクス株式会社のなど、加藤が歩んだ企業の、金属活字、写植活字、電子活字のなかにみることができる。

《新カテゴリー、タイポグラファ群像開設にあたって》
タイポグラフィ関連の記述に際して、先達の略歴はもちろん、生没年の調査にすら手間取ることが増えた。かつて、著名人なら紳士録があり、業界人でも『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社)、『印刷人』(印刷同友会)など、業界団体や、業界紙誌があらそって名簿を刊行していたので、それらの資料にたすけられることが多かった。
ところが近年は個人情報管理などが過度にかまびすしくなって、肝心の基礎資料すら入手しがたくなった。そこで稿者がお世話になった先輩・先達の肉声を記録しておくのも意味のあることか、とおもうようになった。

加藤美方氏の奥さまからは、昨年〔2010〕までは年賀状をいただいていた。それが今年は来信がなくて気になっていた。また稿者が所有している加藤役員の写真が、パーティでのスナップや、集合写真が多く、御遺影をゆずっていただこうとおもって架電した。ところが矢来町の旧宅も、関戸のマンションの電話も、いずれも「この電話は、現在使われておりません」という機械音声が返るだけだった。

振りかえると、ご逝去の際もあわただしかった。なにしろ師走の 29 日に逝去されたため、ご親族・ご親戚はお別れができたが、携帯電話の普及以前とあって、「仕事納め」を終えた企業の連絡通信網はまったく機能しなかった。
葬儀は四谷にある日蓮宗の古刹寺院でおこなわれたが、かろうじてリョービイマジクスの皆さんと、府立工芸系の学友の皆さんが参集できたのみであった。その末席にあって稿者は、

「加藤役員は、最後まで企業人だったな」
という一抹の寂寥感のなかに沈んだ。

【もんともんじ】ちょっと不気味ながら目出度い瑞兆|蛙と招財進寳|端午の節句と鍾馗様の五毒退治

馴染みとなった中国料理店のレジの脇に、なにやら異様なものが置いてあった。
「小姐-ショウシャ・お嬢さん、これはなんですか」
「それは縁起ものよ、もう片づけるけど」
六月の初旬、小姐はそっけなく答えた。

よくみると丸〻と太った蛙で、足もとには吉語が刻まれた銅貨が積みかさなり、ご丁寧なことに銅貨を咥えており、そこには富貴の吉語「招財進寳」とあった。しかも全体も銅製とみられ、ずっしりと重かった。
小姐は知らんぷりなので、以下はいつもの通り『中国吉祥圖案』を繰ることにした。
[参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月]
『中国吉祥圖案』pp 640 にその資料「天中避邪 ── 鍾馗像上蝙蝠飛舞圖」を発見。
「古老の説話によると、五月五日、その正午の時刻は、天地の陰陽が交接するときにして端午節とされる。五月五日の五と、正午の午は、ともに Wu 3 であり同音同声である …… 」からはじまるその解説は難渋をきわめるが、できるだけ簡略に説明したい。

この五月五日の端午節の頃(旧暦)になると、蛇・蜥蜴 トカゲ・蠍 サソリ・蜈蚣 ムカデ・蛙 など「五毒」とされる「悪魔的害虫」がわき出てくるので、庶民は門内にこれらの侵入を防ぐために、門口に霊草とされる 菖蒲 ショウブと艾 ヨモギの葉を掲げる。菖蒲の葉は剣に似て、艾の葉は手のひらに似る。
これを合わせて「手のひらで剣を握り、悪魔をはらう。それで一家の一年は平安多福となる」そうである。

わが国の記紀神話、「八岐大蛇-やまたのおろち」を退治した素戔嗚尊-すさのおのみこと-伝承と似て、「鍾馗 ショウキ 伝説」も多々あるが、そのひとつ。
唐の玄宗皇帝が瘧 オコリ で高熱を発したとき、夢に「五毒」の小鬼が出てきて「われの名は虚耗なり」といって悪戯をしかけた。玄宗皇帝は激怒して、禁軍・近衛の兵士に「五毒」討伐を命じたがならなかった。
そこに巨漢の武将があらわれて快刀乱麻の勢いで小鬼をすっかり退治したので「汝は魔鬼か」と訊くと、「わが名は鍾馗なり」と答えた。それ以後皇帝は悪魔的鬼神としての鍾馗像を、空中に舞う吉祥図、蝙蝠-こうもり-とともに描かせて、端午節に掲げるならいとなった。
ちなみに中国で「蝙蝠-ヘンプク」が瑞兆とされるのは、蝙が遍く-あまねく-に、蝠が福に通じるので、「蝙蝠」は吉兆をもたらすめでたい吉祥図とされている。

こうして「鍾馗様」に征伐された五毒は、一転して瑞兆となり、とりわけ丸〻と肥え太った蛙は「招財進寳」をもたらす縁起の良い存在として描かれ、彫刻されるにいたったという。
わが国でもふた昔ほど前までは、五月の節句に菖蒲湯にはいり、門口には艾(蓬)の葉を括って吊るす習慣があった。また女子が誕生すると、桃の節句にお雛様、男子が誕生すると端午の節句に鍾馗様の兜などを贈る風習もあったが、いまはどうなのだろう。

【 YouTube 李玉萍(萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】

【 YouTube 王興華老師書法教學(疊字春聯)音が出ます 35:33 】


【 YouTube 李玉萍(萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】
【 YouTube 王興華老師書法教學(疊字春聯)35:33 】

台湾からの動画で、楷書筆法による「招財進寳」を再度紹介する。あわせて少し時間はながいが、行楷書による「疊字=畳字」、春聯の金字書法を紹介したい。最初に書かれるのは記号や絵ではなく、吉祥字の上位におかれる「如」である。「如意-ものごとが意のままになるふしぎな力」を含意している。楷書とは筆順が異なる字画があり、速度もずいぶん早く書かれている。
30分以上の長時間なので途中に飽きがくるが、興味ふかいのは後半、20分過ぎくらいからで、わが国の展覧会書道とはおよそ趣がことなる「畳字」のおもしろさを理解できる時間帯になる。

「春聯-シュンレン」とは、中国・台湾で(旧)正月を祝うために、門の両側や扉などに、赤い紙にめでたいもんじを書いて貼るもの。
「疊字=畳字」は、わが国では「踊り字・重ね字・畳字-じょうじ」などとされることが多く、上掲動画とはなんら関連のみられないことばになっている。残念ながら手許資料では明快な説明ができない。

もともと「畳-たたみ」はわが国での意読で、漢字音ではジョウ・チョウで、意は、かさなる、かさねる、薄く平らなものをかさねるである。したがって熟語に「畳韻-中国音韻でおなじ母音で終わる二字を連ねること。逍遥・連綿・窈窕など」、「畳重-ものをかさねる、またかさなる」、「重畳・稠畳-びっしりと重なりあうこと」などがある。もうしばらく、これを参考にしていただき、「畳字とは字をどんどん積みかさねること」と理解いただけたらうれしい。


吉 祥 如 意  順-したがう

【生意興隆通四海】
天 地 順
得心応手
四季皆宜
平歩星雲
一路栄華

【財源茂盛達三江】
人 情 順
吉星高照
広開財源
歩歩高昇
一帆風順

「畳字」を明快に説明できないお詫びに、この香港飲茶の店の壁に掛っていた「万事如意-順」を紹介したい。字面を眺めているだけで富貴になりそうな気分になる。ちなみに「歩歩高昇」は成句で「トントン拍子」ほどの意である。

[ 参考:NOTES ON TYPOGRAPHY【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう

【かきしるす】国指定重要文化財|水海道風土博物館 坂野家住宅|<銅版画> 大生郷 坂野伊左衛門|茨城県常総市デジタルミュージアムⅡ

国指定重要文化財
水海道風土博物館 坂野家住宅
坂野家住宅は「四間取り」を基調に江戸時代後期に母屋を大幅に増築したもので、東側の土間や南面する客間は、入母屋作りの屋根とともに大型農家の特色をよくあらわしています。また、1 ヘクタールに及ぶ広大な屋敷は、従来武家屋敷に設けられた薬医門と土塀に囲まれ、昭和43年に国の重要文化財の指定を受けました。
現在は、周辺の里山風景や便益機能の整備、主屋の保存修理工事を終え、水海道-みつかいどう-風土博物館として、一般公開しています。
────────────────
開館時間  9:00-18:00(04月-10月)* 受付は17:00まで
      9:00-17:00(11月-03月)* 受付は16:00まで
定  休  日  月曜日(祭日の場合、翌日)、年末年始
料  金  一般300円、児童・生徒100円、65歳以上無料
利用予約  予約不要
所  在  地  茨城県常総市大生郷-おおのごう-町2037

問い合わせ先  水海道風土博物館 坂野家住宅 TEL. 0297-24-2131
ホームページ  http://www.city.joso.lg.jp/shigai/kanko/1420716457308.html

[ 詳細: 常総市 水海道風土博物館 坂野家住宅

常総市 デジタルミュージアム
水海道風土博物館  坂野家住宅

<水海道風土博物館 坂野家住宅>には、既述した『大日本博覧図』のほかに、木製の木箱に収納された同様の資料「坂野家住宅」が保管されている。
箱の表書きは「銅版摺 宅地家屋之図 坂野」、裏書きには「干時 明治二十三年十月」とある。中には『大日本博覧図』に収録されているものとおなじ銅版絵図「坂野伊左衛門」邸宅の鳥瞰図があり、それと同一印刷原版とみられる銅版原版がある。

「干時」は聞きなれないことばだが、慣用的に「ときに、とき まさに」と読まれ、購入 乃至は 収納のときとみられる。それが「干時 明治二十三年十月」とされているので、『大日本博覧図』の刊行時:明治二十五年十二月より二年ほど早いときのことである。また印刷業者は印刷原版、とりわけ銅版原版は傷つきやすいので、厳重に管理していた。また銅版印刷専用印刷機を持たない顧客に渡しても意味をなさないし、ふつうならまずみられないことである。

この「坂野家住宅」資料が『大日本博覧図』に先行して坂野家に伝わったことの意図はわからない。可能性としては、『大日本博覧図』の掲載先が突出して茨城県・埼玉県・千葉県に集中していることである。
編輯者であり、発行者でもあった精行社・青山豊田郎は、この地域の有力者「坂野伊左衛門」になんらかの支援を受けたか、あるいはこれを見本として、北関東一円の富農・富商・起業者に向けて(有料での)掲載の働きかけをおこなったものとみられる。

この精行社、青山豊太郎は、このころに秀英舎:佐久間貞一、東京築地活版製造所第三代社長:曲田 成ーまがたしげる-らによって結成された、印刷同業組合、東京石版印刷業組合のどちらにも名前が見あたらない。また手許の人名録などでもみあたらなかった。
おおかたの銅版印刷業者は松田禄山(敦朝)玄玄堂の影響力がつよく、活版印刷業界・石版印刷業界とはあまり交流がなかったものとみられる。
ちなみに玄玄堂印刷所の看板には「銅鉛木石諸版製造 並 摺立所松田敦朝」と大書して、いっとき斯業はおおいに栄えた。鉛版 ≒ 活字版は平野富二がひきいた東京築地活版製造所系ではなく、神崎正誼による弘道軒清朝体活字が主であった。
「坂野家住宅」資料の由来、画像と現状との関係などは、すでに守屋 正彦(筑波大学教授)ほかの研究が発表されているので、以下は主に印刷術と銅版に刻された書風を中心にみていきたい。
「坂野家住宅」絵図右上部、枠で囲まれた掲載者名の表示部をみてみたい。
枠内には坂野家家紋とみられる柏紋が十二ヶ所に描かれている。「茨城県」は大きく、若干隷書味をおびた楷書でえがかれ、明治二十年代の住所「岡田郡管原村大字大生郷-おおのごう」が端整な楷書でしるされている。主部をなす「坂野伊左衛門」(埜は野の異体字)はいくぶん扁平で、八分隷書とみられる書風である。この八分隷書とみられる書風に関しては、再度「石川島造船所 平野富二」の項の紹介で触れたい。

ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるいが、すこし気になるのは「岡田郡管原村大字大生郷」にみる、タケカンムリの「管原村」である。大生郷-おおのごう-には村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)があり、それが村名「菅原村-すがはらむら・すがわらむら」に連なったとみられるからである。
幸いこのアーカイブは筑波大学との連携のもとに展開されている。研究の一助になればとおもい、以下をしるした。

もともと「管 菅」は、字としても、詠みとしても、しばしば混用・誤用されている。元内閣総理大臣は「菅 直人-かん なおと」であり、やっかいなことに現内閣官房長官は「菅 義偉-すが よしひで」である。
わが国には漢字音・和訓音のほかに、「名づけ」とされる(漢)字の慣用的な詠み(便法)があるために、こうした混乱は避けられないが、それにしても最近の「キラキラネーム」とされる宛字(当て字)のなかには、将来禍根をのこさねば良いがとおもわれるものも多い。

[ 参考: ウィキペディア 菅原村 (茨城県)]
菅原村-すがわらむら-は、茨城県の西部、岡田郡・結城郡に属していた村。現在の常総市の中部にあたる。
村名の由来
村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)による。
沿   革
1889年(明治22年)04月01日 – 町村制施行により、大生郷村、大生郷新田、伊左衛門新田、笹塚新田、五郎兵衛新田、横曾根新田が合併して岡田郡菅原村が発足。
1896年(明治29年)04月01日 – 岡田郡が結城郡に統合されたため、所属郡が結城郡に変更。

1954年(昭和29年)07月10日 – 水海道町-みつかいどうまち-に編入。水海道町は市制施行して水海道市となる。同日菅原村廃止。「坂野家住宅」絵図、左下外枠と内枠の間に「東京精行舎印行」と楷書で彫刻されている。『大日本博覧図』をみると、この行の位置は一定せず、左下にも右下にもしるされていることがわかる。主部の図版とのバランスで配置されたものとみられる。
また青山豊太郎は、自序には「東京精行社」としているが、「坂野家住宅」、『大日本博覧図』ともに、「印行-いんこう-図書を印刷し発行すること」名では、「精行社ではなく精行舎」としている。

簡便な装飾に囲まれた掲載者の欧文表記も興味ふかい。まだヘボン式などの欧文表記のルールが無い時代、また、おそらくローマ字教育なども不十分だったであろうこの時代に、サンセリフ系のローマ字を懸命に彫刻していることがわかる。
NIPPON ,  IBARAKI – KEN,  SHIMŌSANO – KUNI,  OKADA – GŌRI,   SUGAHARA – MURA,   SAKANO. IZAIMON〔 , で改行。一部バケて表示されているのは O の上に横棒を置く〕。

「IBARAKI – KEN ── 茨城県」は、現代でもしばしば「いばらぎけん」と濁音で表記されるが、ここにみる「いばらき」が正しい。
「SHIMŌSANO – KUNI ── 下総国」は、しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくになどとされてきたが、棒引き仮名遣いでの「しもーさのくに」は、口語ではあったとおもわれるが、現代でも慣用的に「下総国 ── しもうさのくに」とされている。
「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」もとても興味ふかい標本である。「IZAIMON ── 伊左衛門」であるから「いさえもん・いざえもん」とおもえるが、この周辺では意外と訛りがあって、いまでも高齢者などは「い  え」が判別しにくい発音をする。そんなことから「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」とあらわされたとおもえる。

なにを隠そう、亡妻の母方の実家がこの水海道ーみつかいどうーで、ときおり従妹が遊びにくると「英語の先生いい先生」っていってみて …… とからかっていた。従妹は切りかえして「日比谷で潮干狩り」っていってみて …… と笑いあっていた。
従妹は「い・え」が曖昧であった。また亡妻は東京下町、葛飾柴又の育ちで「ひ・し」の発音が苦手で、地下鉄日比谷線などは乗るのも嫌がったほどであった。

「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」の最後は「N」である。最後に彫工の緊張がゆるんだのか、ちょっとしたへまをやってしまったようでおもわず苦笑。
一部にこうした「タイポ ≒ タイポグラフィカル・エラー」を事事しくとりあげる向きがある。これがして、冒頭で「ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるい」としたゆえんであり、稿者はこうしたエラーを犯しがちな自分を畏れるばかりである。
「坂野家住宅」銅版絵図右下に、画工とみられる名称「土方雲外」と花押風の印影がある。
右下外枠と内枠の間には、彫工とみられる名称「村上楳山刻」が刻まれている。
このふたりは職人乃至は工人とみられ、こういう職種の常ながら、手許資料を繰ってみたがなにも手がかりは得られなかった。
「坂野家住宅」絵図、『大日本博覧図』が刊行されて百二十五年ほど、もし関係者のご子孫がおられたらご一報をたまえると嬉しい。

【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう|

《馴染みのお店がどんどん消える昨今》
衣食住にはこだわりが無い …… と公言してきた。それはいまも変わらないが、さいきん馴染みの飲食店の廃業が続いてなさけない思いをしている。
酒は呑まないので和食の店はおおきく制限される。中国料理も大型店だとひと皿五人分ほどの料理が提供されるので、退勤途中に少人数で、ちょっと何品かで食事というのには料が多すぎるし、定食では飽きて物足りないこともある。

お気に入りだった中国料理店は「臺灣 ≒ 台湾小皿料理店」で、ママさんは中国瀋陽(中国東北部・旧奉天)出身であるが、コックさんとスタッフは台湾の出身。したがって少量で安いので、フラリと寄っても四-五皿の料理を楽しめるし、南部のお米料理・北部の万頭料理も過不足無くたのしめた。店がすいていれば 莨 も遠慮しながらではあるが吸うことができた。馴染みの店とはそんなものである。

この店が人手にわたったらしい。看板はそのままだったが、すっかり料理もふんいきも変わり、即座に逃げだしたものの代わりの店が無かった。
ようやく「新宿御苑共和会通り」に気に入りの店をみつけた。ホールは小姐-シャオジェとオバサンの中間ほどの姉妹で、キッチンはふたり。旨くて安いから30-40名ほどの団体も相当はいるが、このふたりは平然と消化しているからかなりのものである。

団体席との仕切りに「吉祥もんじ ── 合体字」があった。手許の辞書に熟語「合体字」はなかったが、「合体-ふたつ以上のものがあわさって、ひとつになること」で十分だろう。
月例会でこの写真が話題になり、中国大連近郊出身の張さんが、中国陝西省(日本でも)で流行っている「ビャンビャンメン」も例にあげて「合体字」の解説にあたってくれた。

【 YouTube 李玉萍 (萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】


《招財進寳の字画構成と意味》
「招財進寳ーzhaocai-jinbaoーしょうざいしんぽう」は金運を招き寄せる吉祥紋ーもんじである。
まず「たから-の異体字のひとつ、寳」を選び、ウカンムリから上部を書き進める。下部の「貝」は何役も兼ねるのでいくぶん細身に書く。ついで右側に「才」を置くと「財」になる。「才」をテヘンにみなして右に「召」を書くと「招」が完成し、左側に「隹ーふるとり」を書き、「辶-シンニュウ」を勢いよく蚕頭燕尾にまとめると、アラふしぎ ── 招財進寶のできあがりである。
紹介動画は台湾の書芸家。YouTube の文字部をクリックすると別ウインドウがひらき、拡大画面でみることができる。

ほとんどの中国人はお金へのこだわりを隠そうとしない。それでも安くて旨い中国料理をたのしんで、お店もお客も大判小判がザックザクとなればいうことなしである。
上掲写真は張さんが陝西省西安で撮影した「ビャンビャンメン」。この合体字も麺もあまりうまくなかったとは張さんの言。なぜかこの「もんじ」は日本の一部ではやっていると聞いた。稿者はこの麺を西安・北京と葛飾区亀有でも食べたことがあるが、やはり流行り物で格別の意見はない。
中国と台湾には、ほかにも吉祥もんじとして「集字」「畳字」があるが、わが国では別の意味でもちられているので、すこし整理していずれ紹介したい。

[協力:青葉水竜さん、張 文一さん]
{関連:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意

【ことのは】東京築地活版製造所 新社屋紹介「郵便はかき」|コロタイプ印刷術|関東大震災直後の貴重資料


《牧治三郎 なにかの えにし であろうか、はたまたなんらかの 因果 であろうか》
2016年「メディアルネサンス-平野富二生誕170年祭」を機に、長崎での平野富二の生誕地が判明し、さっそく「平野富二生誕の地-碑建立有志の会」が結成され、多くの会員の協力をいただき、2018年11月「平野富二生誕の地碑」が建立され、除幕式と祝賀会をへて、長崎市に寄贈された。


平野富二が1872年(明治05)上京後、およそ20年にわたって展開した多様な事業のうち、最初の事業であった、活字製造・印刷機器製造の拠点、長崎新塾出張活版製造所 → 東京築地活版製造所は、明治後期ともなると「東洋一」を自他ともに許す企業に成長していた。ところがどういうわけか東京築地活版製造所には自社の記録が少なく、近年つぎつぎと新資料が発掘されているとはいえ、研究者の悩みの種になっていた。

そのひとつが、竣工直後でちょうど段階的に移転作業が進んでいたさなか、1923年(大正12)09月01日午前11時58分に襲来した関東大震災によって紅蓮の炎につつまれたとされる、新本社工場ビル(地下一階、地上四階)のアールヌーヴォー風の趣のあるビルの記録である。
施工業者は 清水組 ≒ 清水建設 であったことは判明している。しかしながら関東大震災の影響があまりに激甚で、おそらく竣工落成披露などの「慶祝行事」はできなかったのではないかとみられている。そのため比較的近年の建物の割りに、肝心の画像資料がほとんどなく、拡大すると網点が現出する不鮮明な写真にたよるばかりであった。

ところで …… 、牧治三郎は「鮮明な写真資料を所有しているはずだが、現在所在がわからない …… 」と、活字業界誌『活字界』、パンフレット『活字発祥の碑』などにしばしばしるしているが、どうやらその資料らしき「郵便はかき」が、回り回って稿者の手許に転がりこんできた。
そのゆえんを報告したい。

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
牧 治三郎『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビル〔現コンワビル〕に改築のため、去る〔昭和46年〕3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年〔1922〕野村宗十郎〔専務〕社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後〔順次移転作業が進みつつあるなか〕、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、〔東京築地活版製造所〕大阪出張所の字母〔活字母型〕が健在だったので、1週間後には活字販売を開始〔した〕。 いまの東京活字〔協同〕組合の前身、東京活字製造組合の罹災〔した〕組合員も、種字〔活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?〕の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

《 ネットショップに東京築地活版製造所のビル写真が…… 》
「平野富二生誕の地」碑建立有志の会の会員からこんな連絡があった。
「ネットショップに東京築地活版製造所のビルの写真が …… 安いですよ」
WebSite に紹介されていた図像は、たしかに 周囲に建物がみられずビル全体をみることができるもので、東京築地活版製造所の震災後まもなく撮影され製作されたとおもえる写真だった。
支払いは前金で、入金確認後に郵送するとあった。即座に注文したが、振込手数料・送料の合計のほうが高くつきそうな価格だった。
千葉県の古書店からの送付であったが、厚ボールに挟みこんでとても丁寧に送っていただいた。

上掲写真がそれであるが、写真ではなく、宛名面に「郵便はかき」とあり、つい先日、本欄{【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史 2019年05月05日}で紹介した、販促用パンフレット『新年用見本』(二つ折り中綴じ、東京築地活版製造所、大正15年10月、牧治三郎旧蔵)と極めて関連性のつよい資料だった。
唸ったのは、ここにもベッタリと「禁  出門  治三郎文庫」の蔵書印があったことである。幸い宛名面だけの押印であったが、牧治三郎は蔵書のどこにでも、所構わず、この特異な蔵書印を赤いスタンプインキでベタベタと押していた。

これらの牧治三郎旧蔵資料は神田 S 堂が一括して引き取ったと聞いていた。S 堂は神保町に店舗をかまえる本格的な古書店で、年に数度「古書目録」を発行しているが、そこに一葉だけの「はがき」をみた記憶はない。したがって古書店仲間の市にでも出して、それを「はがき」の扱いを得意としている業者が入手してネットショップで販売したものらしい。あるいはすでに三次循環として稿者が落手した可能性もある。

宛名面には、下部に再紹介したが『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月)中面右ページ下部にある「電気版」で、「 Np. 7  貳拾銭」として紹介されているもので、右起こし横組み「郵便はかき」である。ここには濁点は無い。
切手貼りつけ欄は、罫線で組みたてたのではなく、名刺・はがき・封筒などの印刷をもっぱらとする「端物印刷所」では、かつては必須のもので、これも電気版をもちいたものであろう。
────────────────
絵柄面は「コロタイプ印刷」で、1923年(大正12)に竣工した東京築地活版製造所本社工場の全景写真である。
なにしろ死者・行方不明10万5000人余、住宅全半壊21万余、焼失21万余とされる大災害のあとだけに、東京築地活版製造所ではいちはやく復興をみたとされるが、やはり世情をおもんぱかって、このような簡素な「写真はかき」として記録をのこしたものとおもわれた。
したがって資料の山に埋もれていた牧治三郎老人にとっては、このたった一葉の「郵便はかき」を見つけだすことはほぼ不可能であったと想像された。
それでも正門には「株式会社東京築地活版製造所」の社名が掲示され、「◯も H 」の社旗がはためくこの貴重な資料は、廃棄や破却をまぬがれ、二次循環・三次循環にまわっているのがうれしく、興味ふかいところであった。

この「コロタイプ印刷」は、オフセット平版印刷法がまだ未熟だった1970年ころまでは写真印刷(写真複製)に威力を発揮した技法で、年輩の読者なら卒業アルバムなどで、倍率の高いルーペでみても網点のみられないこの技法独特のなごりをみることができる。
しかしながらこのコロタイプ印刷法は現代ではすっかり衰退して、現業の業者は京都に三社を数えるのみとなっている。
ウィキペディアに要領よく説明があったので、一段下にその抜粋を紹介する。

下部の右起こし横組みの「株式会社東京築地活版製造所」の社名は、既述のパントグラフをもちいて製作された「平形書体見本」にみるものである。
同社ではこれをしばしば「社名制定書体 ≠ ロゴタイプ」として、縦組み・横組みを問わずにもちいていた。字画形象からみて「二号平形」とみられるが、写真技法を経たせいか原寸を欠いている。

【 コロタイプ 】ウィキペディアゟ
コロタイプ(英語 :  collotype)は製版方法の一種で、平版の一種である。実用化された写真製版としては最も古いもので、かつては絵葉書やアルバム、複製などに広く使われたが、現在では特殊な目的以外では使われていない。

技    法
ガラス板にゼラチンと感光液を塗布して加熱することによって版面に小じわ(レチキュレーション)を作る。それに写真ネガを密着して露光すると、光のあたった部分のゼラチンが硬化して水をはじくようになる。
版面を湿らせると水を受けつける部分が膨張してインクがつかなくなるため、硬化した部分にだけインクが付着する。インク付着量の大小によって連続階調が表現され、オフセット印刷のような網点を持たないことを特徴とする。

欠点は印刷速度が遅いこと、耐刷力がないこと、複版する手段がないこと、多色刷りが難しいことなどで、このために現在ではほとんど行われていない。

歴    史
コロタイプはフランスで生まれ、1876年にドイツのヨーゼフ・アルバートによって実用化された。
日本では  小川一真  が1883年にボストンで習得し、帰国後の1889年に新橋で最初のコロタイプ工場を開いた。日露戦争時にコロタイプと石版を組みあわせた絵葉書が大ブームになった。
1897年には横浜のドイツ商館アーレンス商会出身の上田義三が欧米留学ののち、コロタイプ印刷業「横浜写真版印刷所(のち上田写真版合資会社)」を開業した。

便利堂(1887年創業、1905年からコロタイプ印刷を行う)の佐藤濱次郎は法隆寺金堂壁画の原寸撮影を1935年に行い、それを元にコロタイプによる複製を1938年に作った。1949年に壁画は焼失したが、のちにこのコロタイプ複製をもとにして再現された。

効率の悪さから現在はほとんど消えた技術になっている(社名に「コロタイプ」のつく印刷会社は各地にあるが、実際にはオフセット印刷しか行っていない)。しかし文化財の複製のためには重要であり、便利堂はカラーのコロタイプ印刷も行い、また2003年に「コロタイプの保存と印刷文化を考える会」を発足した。

小 川   一 眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま)
万延元年8月15日(1860年9月29日)-
昭和4年(1929年)9月6日)
日本の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。
東京築地活版製造所第五代社長:野村宗十郎は、自伝のなかで、小川一眞の渡米費用の一部を負担するなどして、同社でもコロタイプ印刷法を獲得しようとしていたことを記録している。しかしながら同社の大勢は積極的ではなかったとみられ、事業化に成功した形跡はみられない。

『コロタイプ印刷史』(編著・発行:全日本コロタイプ印刷組合、昭和56年5月8日)
ときおり産業史研究者や、社史編纂者のかたが借りにみえるほど残存部数の少ない資料らしい。コロタイプの歴史・技法が丁寧に紹介され、コロタイプ印刷の製作実例と作品見本が綴じこみ付録として豊富に紹介されている(撮影:青葉水龍 稿者蔵書)。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)
<画像修整協力:青葉水龍>

東京築地活版製造所支配人時代の野村宗十郎
東京築地活版製造所専務取締役:第五代社長時代の野村宗十郎

野村宗十郎 のむら-そうじゅうろう 1857-1925

安政四年(一八五七)五月四日長崎に服部東十郎の長男として長崎築地町に生まれる。のち野村家の養子となる。本木昌造の新街私塾に学ぶ。明治二十二年(一八八九)七月陽其二の推薦で東京築地活版製造所に入社。
同二十四年六月『印刷雑誌』に欧米のポイント活字システムを説明したわが国で初の論文を発表。〔ここでの論考はアメリカンポイントの説明としては不十分かつ不適当であり、むしろ現行の DTP ポイントシステムを説いたものだとして、近年では批判もみられる〕。同二十六年米国シカゴで開催の万国博覧会の視察に赴く小川一真に写真製版法の研究を依頼、持ち帰った網版の試験刷に成功し初期の写真製版印刷分野に寄与した。
同二十七年より和文ポイント活字の製造を試み、三十六年大阪で開催の第五回内国勧業博覧会に十数種の見本を出陳した。大阪毎日新聞社は記者菊池幽芳の調査結果を紙上に載せるなどこれに多大な関心を示し、率先して新聞印刷に採用。爾後新聞各社が採用する端緒となった。
出版印刷では四十三年『有朋堂文庫』が九ポイント活字を用いたのが最初である。三十九年社長に就任。大正七年(一九一八)後藤朝太郎に活字の字画整理を、同八年桑田芳蔵に活字の可読性の調査を依嘱するなど活字の改良普及に貢献した。同十四年四月二十三日東京で没した。六十九歳。正七位に叙せられた。
[参考:『日本印刷大観』(東京印刷同業組合編、昭和13年、この項は牧治三郎執筆)]

<タイポグラファ群像*003 牧治三郎 2011年08月11日 花筏 初出

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